「いってらっしゃい」

誰に言われるでもなく朝食の準備を始めていた秋子は、散歩に行くという二人を台所で見送った。
後ろのテーブルでコップに注いだ麦茶を一気飲みした晴子が「気いつけてなー」と声を飛ばす。
対するあゆの返事は溌剌としていて、肯定の言葉を受け取った晴子はにんまりと笑顔を作った。

「秋子んとこのは元気でええな」
「ええ。私もあゆちゃんと祐一さんが来て嬉しいですよ」

包丁を握る手は寸分の狂いなく野菜を切り、まな板を叩き乾いた音を立てる。
とんとんとん。とんとんとん。火を掛けた鍋、フライパン。水洗い。台所は音で溢れていた。
そんな空間で二人の母は会話をする。子供の話を。互いにとって大事な、かけがえのない子のことを。

「ウチの観鈴のことは前に話したと思うんけど」
「聞いてますよ」
「自分で言うのも何やけど、よく信じてくれたな」
「だって、遠いようで近い、似たような話を私も知ってますから」
「あの、二人か」
「前に話しましたよね?」
「覚えてるで」

大人でありながら、秋子も晴子も、その二つの出来事に関しては傍観者でしかなかった。
秋子が真実を理解したのは全てが終わった後だったし、晴子はただ、親子として観鈴と一緒の日々を過ごしただけだ。

「何かな、最近観鈴が夢を見る言うて」
「……あゆちゃんも、同じようなことを言ってました」
「秋子にあゆちゃんのこと聞いて、そんな子なら観鈴といい友達になれると思ったんよ」
「観鈴ちゃんは、いい子ですね」
「当然や。ウチの自慢の子やもん。……だから秋子に声を掛けたんやけど」
「ええ」
「……何となく、ウチが呼ばんでもあゆちゃん達はこっちに来たような気がするんや」

もしかしたら、それは必然だったのかもしれない。
目には見えない何かが、あゆと観鈴、祐一と往人を引き合わせたのかもしれない。

夢。悲しい、夢。
彼女達を見守る大人は知らない。二人の子が見ているのは、同じ夢だということを。
あゆを、観鈴を呼ぶ声が、救いを求める意思が、同じものだということを。
ただ、愛しい子とその隣に立つ大切な人を信じているから―――― 何も訊かない。

「…………秋子」
「何ですか?」
「今年の冬は、暇ができたら三人でそっち行ってええか?」
「勿論。歓迎しますよ」
「あんがと。……ほなウチ、観鈴と居候呼んでくるわ」

椅子から立ち上がり、タンクトップと短パンの晴子は階段をどたどたと踏み抜いていった。
二階に消える背中を眺め、それから秋子の両手は再び動き出す。
動き出し、卵をフライパンの上で割ろうとしながら、思った。

―――― あゆちゃん、祐一さん。私はいつでも、あなた達の味方だからね。

対象の違いこそありはすれ、晴子の気持ちも秋子と全く同じだった。










夏休みである以上、平日だろうが日曜だろうが学生にはほとんど関係ない。
しかし気分の問題なのか、心なしか今日は道行く人が少なく感じた。
とうの昔に夏休みなんてイベントと縁を切った大人の休日だからかもしれないが。

昨日観鈴に案内された時の記憶を頼りに、散歩を行う。
とはいえ朝食の用意がされているだろうから、あまり遠出をするわけにもいかない。
よって距離のある神社までは却下。少し悩んだ結果、診療所辺りまでで戻ることにする。
徒歩に換算すれば片道十分ほど。帰った頃にはしっかり秋子お手製の朝食が出来上がっているだろう。

「……あ」
「どした?」
「祐一くん、あれ見て」

あゆの指差す方へ祐一も視線を向ける。
そこには、端的に容姿だけを述べるならば、毛玉がいた。

「………………あゆ、俺にいったいどうしろと?」
「えっと……とりあえず、近づいてみる?」
「訊かれても困る」
「うぐぅ…………」

よくわからないが爆発とかしたら怖いので、そろりそろりと間を詰める。
毛玉は動かず、しかし風に流される様子もなく転がったまま。
爪先が届く、というところまで来てあゆが振り向くと、祐一は離れた場所で腕を組んでいた。

「ゆ、祐一くんずるいよ! ボクを生贄にするつもり!?」
「そんなことはないぞ。何かあった時あゆを安全に救出できるよう距離を確保しているのだ」
「上手いようで全然誤魔化し切れてない言い訳だよっ! しかもボク少しも嬉しくない!」
「お」
「え?」

捻っていた上半身を戻し、毛玉に再度注目する。
さっきまで微動だにしなかったその物体は、もぞもぞ蠢き始めていた。

「なな何か動いてるよ!? 祐一くんどうしよう!?」
「爪先でつついてみればいいんじゃないか」
「うぅ……え、えいっ」

ちょん。もぞぞっ。びくっ。

「柔らかいよ……ぷにぷにしてるよ……」
「ぴこ?」
「…………今の声、どこから?」
「あゆ、そいつだ」
「え? きゃっ!?」

あゆは飛び上がった。
毛玉だとばかり思っていたものは、くりっとした目と、一応手足らしき突起を持つ、まぁ、たぶん生き物。

「ふむ、興味深いな」
「祐一くん調子良過ぎるよ……」

いつの間にかあゆの横に並んでいた祐一は、臆すことなく謎生物に手を差し出す。
そして、

「お手」
「ぴこっ」
「おかわり」
「ぴこぴこっ」
「ダンス」
「ぴっぴっぴこぴこぴっぴこぴこぴこっ」

完璧だった。滅茶苦茶人間慣れしていた。
あとダンスとか悪夢に見そうな出来だった。

「…………犬?」
「犬なの?」
「猫じゃないだろう」
「猫じゃないね」
「まあ豚でもないしな」
「正解だよお二人さんっ」

また別の声が聞こえる。
今度は二人同時に振り向いて、後ろにいる人影を見た。
ショートカットの、ラフな服装をした女の子だ。彼女はおもむろに毛玉のところまで歩き、拾い抱えた。
抱えられる側は大人しく為すがままにされる。まるでそこが自分の定位置だとでも言うように。

「この子、ポテトって言うんだっ」
「……芋?」
「かもねっ。二人とも何してたの?」
「大自然の神秘を感じてたんだ」
「あはは、おもしろーい。お兄さん、あたしの知り合いにそっくり!」
「ほう。俺に似てる奴がこの町にはいるのか。会ってみたいな」
「……祐一くんが二人なんて悪夢だよ」
「何か言ったかあゆ」
「ううん何にも」
「えっと、あゆちゃんに、祐一くんでいいんだね? あたし、霧島佳乃! そこの診療所に住んでるよっ」
「相沢祐一だ」
「月宮あゆだよ」
「よろしくっ」

空いた片手で順にぶんぶんと握手。
見た目に似合わない力にあゆは苦笑いし、祐一も似たような表情を浮かべた。
そしてふと思い出す。確か、往人が働いているのはその霧島診療所だったはずだ。
国崎往人の名を挙げ訊ねると、肯定が返ってきた。

「往人くんならうちで頑張ってるよー。お給金は少ないけど、昼ご飯とショバ代を提供してるんだ」
「ショバ代?」
「うん。往人くん、大道芸人だからっ」

ねー、ぴこー、と頷き合う一人と一匹(一体?)。
そういえば往人の『大道芸』を見せてもらってないなと祐一は気づく。

「どういう感じのなんだ?」
「あたしが言っても面白くないと思うよ。往人くんに言ってみれば? きっと見せてくれるよっ」
「そうか。ありがとな、……霧島さん」
「佳乃りんでいいよー」
「…………あゆ、どうにかしろ」
「えっ、ここでいきなりボク!?」
「いいコンビだねお二人さんっ! 往人くんと観鈴ちんみたい!」

ある意味最高に不名誉な一致だった。

「あー、えっと……またね、佳乃さん」
「また会おうっ! あゆちゃん、祐一くん、次に会った時はお友達だよ!」

別れの挨拶が終わるや否や、佳乃はぴゅーっと走り去っていった。
元気だったな、と祐一が呟く。元気だったね、とあゆが返す。

「…………祐一くん、時間!」
「お。やべ、もう結構経ってんじゃねえか?」

すっかり忘れていたが、これは散歩で帰れば朝食が待っている。
最終的に慌てて神尾家に戻った二人が外で消費したのは、予定を十分ほどオーバーした往復三十分だった。





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