国崎往人にとっての法術は他人を楽しませるものであり、それ以上でも以下でもなかった。……ずっと昔は。
場所はいつも違う。霧島診療所前、廃駅、堤防、武田商店。
腰を据えると使い慣れた長い付き合いの人形を地面に置き、力を込める。

イメージとしてはマリオネット。
無数の糸を人形の手足に繋ぎ、こちらの意思ひとつで自在に動くようにする。

人形劇が始まった。
歩き、走り、転び、踊る。それはまだ準備運動だ。
次第にその動きは人間らしさから離れていき、バック宙、トリプルアクセル、さらには空まで飛んでみせたり。
常識的な種や仕掛けは一切なく、実は物凄くとんでもないことをしている……のだが。
往人には唯一にして最大の、致命的な欠点があった。

劇そのものが面白くないのである。

いくら法術の力が上がっていようとも、まともなアイデアが思い浮かばねばどうしようもない。
人を楽しませるというのは存外難しいものだ。

「観鈴は笑ってくれるんだがな……」

ついでに、比較対象が一般人から色々と外れ過ぎていた。惚れた弱み、あるいはバカップルの運命。
それでも道行く人が一人くらいは足を止めていってもいいはずなのに、今日も一人もいなかった。
世間はかくも厳しい。国崎往人に優しくない。
陽が沈む前に切り上げ、実はかなりしょぼくれながら(ここ一週間の観客動員数無し)帰宅して、来客の存在を知ったわけである。
玄関の靴が増えていたのに気づかないところが、大道芸でウッハウハ計画頓挫のわかりやすい原因なのかもしれない。










「…………また、だ」

朝、布団からもそりと起き上がったあゆは、夢の中での出来事を確かめるかのように頭を抱えた。
前よりもはっきりと記憶に残っている。空。青い空にぽつんと佇む、一人の少女。
沈んだ表情と暗い色を湛えた声が脳裏に響いて、ああ、あの人は何を言ってたんだっけ――――

「あゆ? どうした?」
「あ、祐一くん。起こしちゃった? ごめん」
「お前の所為じゃねえって。暑いし。虫刺されで痒いし。海の近くもいいところばっかりじゃないもんだな」
「そうだね……でも、やっぱり来て良かったよボク」
「観鈴さんに会えたからか?」
「……うん、それも」

それも? という疑問が祐一から漏れる。
一瞬口にすべきかどうか迷い、しかしあゆは続けた。

「こんなこと言うと、祐一くんは変な目で見るかもしれないけど」
「……ほれ言ってみろ」
「否定しないんだね。……あのね、何か、ボクはここに来なくちゃいけなかったんだ、って、そんな気がするんだ」
「昨日のアレで頑張り過ぎたのが悪かったか!」
「いきなり最悪だよ!」

不意打ちで顎めがけアッパー。鮮やかな角度で入り、もろに喰らった祐一は白目を剥いて倒れる。
仰向けのまま視界から消えるのを見届けもせず、横を向いてあゆは溜め息をついた。
神様仏様、ううん誰でもいいから聞いてください。ボクの大切な人はデリカシーが無さ過ぎます。

「まあそれはともかく」
「相変わらず復活早いね祐一くん」
「あんだけやられてりゃな。つーかあゆ、お前随分バイオレンスになったよな」
「誰の所為だよ誰の!」
「誰だ?」
「ゆ・う・い・ち・く・ん・っ!」
「まあそれもともかく」

もう一度右のアッパー。今度は避けられた。
だが即座に放たれた左フックがボディに直撃、悶絶する祐一。およそ五秒で微妙に復活。

「……ま、まあ、ほら、俺も命が惜しいから全部置いといて」
「何か釈然としないけど、うん」
「俺はお前が嘘ついてるとも思わないし、信じてるし。だからたぶんそうなんだろうよ」
「…………うん」
「俺達の間に色々あったみたいにさ、ここでも色々あったのかもな。当たってるかどうかはわからんが」
「……そう、だね」
「もし、そこであゆが必要とされたら、どうする?」
「そんなこと……訊かなくても、祐一くんならわかるよね」
「………………」

返事はなかったが、あゆはそっぽを向く祐一の頬が僅かに赤く染まっていることにすぐ気づいた。
なのでそれ以上追求せず、満足したかのような笑顔で立ち上がる。

まずは着替えを。
それから秋子か晴子か、あるいは観鈴かが作るだろう朝食ができる前に、

「祐一くん、散歩に行こう?」










「……泣いてた」

そう呟く観鈴の瞳からも、溜まった水が雫となり、頬を伝って被っていたシーツに落ちた。
しかし彼女は自分のことを指して言っているのではない。

始まりはもっと曖昧で不確かで、砂が握った手からこぼれていくように、ほとんど記憶に残らないものだった。
けれど日を追う毎にその内容は輪郭をはっきりさせ、今では耳にした一語一句も覚えていられるほど。

ただの夢ではないだろう。観鈴はそこに出てくる相手を知っている。
だからこそ、思う。思い、誰に聞かせるでもなく問う。

「どうして…………」
「何かあったのか?」
「え? あ、往人さん。おはよう」
「観鈴、涎垂れてるぞ」

嘘、とパジャマの袖で口周りを拭った。
乾いた感触が唇を撫でる。濡れてる? いや全くそんなことは。
寝起きの頭で冷静な判断ができるはずもなく、とりあえず騙されているのだけはわかった。

「……嘘つき」
「昨日は本当に垂れてたがな」
「…………昨日、往人さん教えてくれなかったよね」
「教えるほどのことでもないと思ったんだ」
「酷い…………」

どうにも観鈴はついいじめたくなるので困る。
基本的にいじめっこの往人はそんなことを考え苦笑。
それから、もう一度訊いてみた。

「何か妙な夢でも見てたみたいだが」
「い、いつからいたの?」
「お前が焦ったような表情で『待って!』って叫ぶところ辺りから」
「………………往人さん、着替えるから外出て」
「別に、観鈴の身体なんて見慣れべっ!」

一撃目から鉛筆削り(鉄製)を投擲。顔面に直撃した往人に、続いて恐竜のぬいぐるみがやたらめったら飛んでくる。
戦術的撤退を余儀なくされ、慌てて閉められたドアを塞ぐかのように投げつけられたものがぶつかり重なった。

「…………もう」

往人さんデリカシー無さ過ぎ、と溜め息を吐く。
おおよそ一緒の時間に下の階であゆが別の人間に対し同じことを考えていたとは露知らず、服に手を掛ける。
ボタンをひとつひとつ外しながら、観鈴は夢の内容を再び思い出した。

―――― 彼女は確かに『たすけて』と言った。
できるならば救いたい。でも、どうすればいいのかわからない。

翼人の末裔たる神奈備命に掛けられた呪いは、千年もの年月と法術師達の尽力、繰り返す転生の果てに解けたはずだった。
彼女を縛る鎖はもう存在しない。一人閉じ篭もり、膝を抱えている必要はないのだ。
なのに、まだあそこにいるのはどうしてなのか。覚めない夢。どこにも開かれていない、空の檻。

前が開き、露になった胸を隠さずに、袖から手を抜いて服を脱ぐ。
ズボンはさらに早い。指を入れて下ろす、それだけである。箪笥から適当にチョイスし、首と腕、足を通して着替えは終わり。
下着も含め、脱いだものは纏めて後で洗濯機に突っ込めばいい。往人に見られないよう注意だけすれば。
付き合っていようと裸を既に見せていようと、恥ずかしいものは恥ずかしい。

「わたしに、何ができるだろう」

着替えを抱える。
ただ自問しても出る答えだとは、到底思えなかった。





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