一時十分前。
ここで食べる最後の料理を準備してから、まだ帰ってこない四人のことが少し心配になってきた秋子が見たのは、

「た、ただいまー……」

安心したように眠るあゆを背負った息も絶え絶えの祐一と、苦笑顔の観鈴と往人の姿だった。
あらあら、と呟く。いったい何があったのかはわからないが、誰もが大切な何かを成し遂げたような表情をしていて。
だから他のどんな言葉よりも、このひとことが一番なのだと思った。

「おかえりなさい、みんな」
「おう、おかえりー。……何や何やそんなへばって。ああ、ご飯出来てるで」
「あ、はい」

ひょこっと後ろから現れた晴子が強引とも言える勢いで話を進めていく。
秋子にとってはそれが有り難い。そしてきっと、彼らにとっても。

半年ほど前、祐一とあゆに起こったこと、全ての過去、現在に至るまでの苦労や苦難を秋子は知っている。
そしてもうひとつ、晴子からも我が子と居候に纏わる不思議な話を聞かされていた。

……この子達は、とても大きなものを背負ってる。

あゆはもう、立派な水瀬家の、自分の子供だ。
子を思わぬ親はいない。かけがえのない大切な、可愛い娘。
心配するのも当然で、不安になるのも必然で、無事に帰ってくれば凄く嬉しい。

訊きたいことがたくさんあった。
できるなら、相談してほしかった。力になりたかった。
けれど、あゆも祐一も、今回は自分を必要としなかったのだ。
二人の……いや、四人の力で、乗り越えなきゃならないと判断したのだ。

秋子は、大事な娘とその恋人のことを信じている。
信じているからこそ、何も言わない。いつか、話してくれる日も来るだろう。

今は、ただ。
親らしく、大人らしく、家に迎え入れよう。

「祐一さんはあゆちゃんを起こして。それからみんな、昼食の席に座る前に手を洗ってね」

ぺちぺちと祐一に頬を叩かれているあゆに掛ける言葉は、やっぱりおはようかしら、と他愛ないことを考えながら。
秋子は最後の用意を済ませるために、動き出した。










帰りの時が近づいて、あゆと祐一は荷物を纏めていた。
着替えを畳み、バッグに詰める。祐一の畳み方があまりに乱雑なので「ほら貸して」と奪うように取ってしまう。
本当にだらしない。仕方ないなぁ、なんて呟きつつ、着々と洗濯物を収納していく。

「……三日間、随分早く過ぎてった気がするな」
「うん。慌しくて、楽しかったね」
「色々な人にも会ったな」
「観鈴さんに往人さん、晴子さん、佳乃さんと美凪さん……あとポテト?」
「そこだけ疑問系か。まあ、人じゃないし。犬かどうかも怪しいが」
「佳乃さん、芋かもって言ってたしね……」
「じゃあ単位は個か。五人と一個。大成果だ」
「大成果って?」
「お前、ここに来て一気に友達増えただろ」
「…………あ」

晴子は保護者だし往人は観鈴繋がりで友誼を結んだのは祐一の方。
ポテトに関しては人と犬の間に友情が芽生えるかどうかは謎だが、観鈴、佳乃、美凪とは確かに友達になれた。

「……祐一くん」
「何だ?」
「ボク達、あとちょっとで帰っちゃうけど……」

一息。

「また友達に会いに行きたいって思うのは、おかしいことかな」
「いんや。全然おかしくないぞ。むしろ普通だ普通」
「……うん」
「そうしたいなら、そうすりゃいいさ。纏まった休みでも取れたら、また来ようぜ」
「また、来たいな」
「違う。また来るんだ」
「……祐一くん、今だけは格好良いよ」
「今だけとは何だ今だけとは」
「言葉通りの意味だけど痛い痛い痛い!」

あゆの両頬を力の限り横に引き伸ばしながら、祐一は二日と少し自分が寝泊りした部屋を見渡す。
次も同じ部屋だろうか、と気の早い想像を脳裏にめぐらせて、あゆを開放し、チャックまで閉めた自分とあゆの鞄を手に持った。

「さ、行くぞ。秋子さんが待ってる」










車庫に止めてあったはずの車は既に玄関先まで移動しており、エンジンもしっかり掛かっている。
運転席に座りハンドルを握る秋子の視線が、神尾家を出てきた二人を捉えた。

もう準備はできてますよ、というアイコンタクト。
それはつまり、あゆと祐一さえ良ければいつでも出立可能であるということだ。

トランクを開けかさばる荷物をそちらに入れる。
身軽になってから後部座席に続くドアに手を掛け、逡巡し、あゆは振り返る。
いざ帰るところまで来て、玄関を通る前に居間を見たのだが、そこには晴子の姿しかなかった。
「また来たってや」と笑顔と一緒に歓迎のひとことを受け取り、嬉しかったのは確かだけれど。

観鈴と、往人は二階だろうか。
別れの言葉を告げたかった。でも、何となく自分から言いに行くのは変な気がして。
打算がないと言えば嘘になる。きっと、そう、きっと、

「あゆさん!」

靴を足に引っ掛けて飛び出してきたのは観鈴だった。
その後ろからゆっくり往人が歩いてくる。表情は目を閉じた薄い笑み。
祐一は苦笑。まぁ、ギリギリで来るんじゃないかと思っていた。少なくとも往人はそういう奴だ。

あゆの前まで走り寄った観鈴は、おもむろにあゆの手を取る。
そして何かを掴ませ、一歩下がり、微笑んだ。

「それ、お土産。飲んでくれると嬉しいな」
「…………何これ?」
「ゲルルンジュース。おいしいよ」
「ゲル…………う、うん、ちゃんと飲むね」

紙パックの容器は握るとひんやり冷たく、しかも飲用品とは思えない手応え。
正直あゆは一秒未満の間に色々と覚悟をし、往人の「まあ頑張れ」的な視線を感じて決意した。

―――― 頑張ろう。いざとなったら祐一くんも巻き込んで。

「……あゆさん」
「観鈴さん。楽しかったよ」
「うん。わたしも、あゆさんと友達になれて、たくさんのことをして、楽しかった」
「往人さんと、元気にやってね」
「あゆさんこそ。祐一さんと、元気で。……今度は、わたし達がそっちに行くから」
「その時はボクが町を案内するよ! 冬はいっぱい雪が積もって、綺麗なんだ」
「……楽しみ。うん、凄く楽しみ」

かちゃ、と背後で音が聞こえる。
見れば祐一がドアを軽く開けていた。しかし、それ以上は動かない。
動かない祐一の意図をすぐに悟ったあゆは、もう最後だ、と思う。

別に、これで永遠にお別れ、というわけではない。
けれどしばらく会えないのは事実で。
何を言うべきか。何を伝えるべきか。そんなことに迷う。
迷って、その末に選んだ言葉は、

「それじゃ……観鈴さん、」

さよならではない――――


「またね」


―――― 再会を約束する言葉。
返ってくる観鈴の想いもまた同じ。

「うん。またね、あゆさん」

二人の笑顔を見守る男達は、大した会話をしなかった。
そんなものはいらない。だって、必ずまた会うのだから。
それが彼女の願いなら。再会は既に決定づけられている。

あゆと祐一が車に乗り込む。
走り出し、遠ざかり、路地を曲がって消えていく。
全てが終わり、辺りを取り囲むのが蝉の鳴き声だけになっても、しばらく観鈴と往人は玄関先に立ち尽くしていた。

いつまでも、いつまでも。
大切な友を見送るように。










「………………」

しばらく順調に進み、信号で足止めをされた時、秋子はそっと後ろの様子を窺う。
何せあまりに静かだったので、どうしたのかと思ったのだ。

二人は仲良く、肩を寄せ合って眠っていた。
普段昔に比べ随分表情がきりっとしてきた祐一も、今は幼子のような顔をしている。
よっぽど疲れたのね、とくすくす笑いをこぼし、それから神尾家の面々を思い浮かべ、

「…………ふふ」

秋子はあゆと観鈴の会話を聞いていない。
だが、何となく、近いうちに再び顔を合わせるような気がした。

ほんの四、五ヶ月だ。おそらくあっという間だろう。
今度は我が家が賑やかになる、そんな情景を想像すると、秋子の胸は高鳴る。
幸せ満ち溢れる、笑顔の絶えない家。何と素晴らしい世界か。
あゆにも祐一にも新しい友達ができて、これから二人の人生はもっと楽しくなるに違いない。

子の幸せは母の幸せ。
少なくとも秋子にとっては、それが真実。

「生きてると、楽しいことがいっぱいね――――

……色々あるけど、とりあえず。
水瀬の家に戻ったら、三人で名雪の帰りを待とう。


ハンドルを握る彼女は、信号が変わって一息、嬉しそうな雰囲気を隠さずに、アクセルを踏みしめた。





さよならのうたを、ききながら。
わたしたちは、それぞれのにちじょうにもどろう。


そして――――


いつか、またあいましょう。






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