目を、開けて―――― そこは夢の中で見た、空色の世界だった。 踏みしめる足裏、風を受ける髪、その全てに確かな感覚がある。 無事に来れたのだろう。あるいは社殿で自分の身体が横になっているのかもしれないが、成功したのに変わりはない。 重要なのは、ここまで辿り着けた、ということ。そして、ここに辿り着ける、と信じていたこと。 「……観鈴さん」 「あゆさん。一緒に来れたね」 「うん」 隣に視線をやり、観鈴はそっとあゆに手を差し出す。 握った手指から伝わるのは体温の心地良さ。これも確かだ。 夢じゃない。夢じゃないなら今は現実。 幻なら届かない想いも、本物なら届くはず。 だから二人はこの場所に来た。誓いを果たすために。 数歩先、膝を抱えて俯き悲しみの声を漏らし続ける一人の少女。 背には一対の翼。しかしそれは羽ばたくことなく、伏せられている。 飛べない。ここは檻の中だから。 飛べない。彼女は未だ縛られているから。 言葉にならない泣き声は、たったひとつの想いを訴え続けていた。 ずっと。ずっと。千年もの間、悠久に限りなく近い時の流れの中で、その翼を動かせる瞬間を待ち望んでいた。 ……自由への渇望。 神奈備命は、還りたかったのだ。 幸せなところへ。幸せな記憶を、紡げる世界へ。 ―――― それに、わたしは応えたい。 ―――― ボクも、救けるって決めたから。 二人が重ねて差し伸べた手は、今度こそ、強く強く、握りしめられた。 「………………」 「どうした祐一、いきなり立ち上がって」 「いや、何か俺にそろそろ大事な出番が回ってくるような気がしてな」 「錯覚じゃないのか?」 「また随分な物言いだなおい。自分がやることやって燃え尽きたからって」 「燃え尽きてはいない。まぁ、もう俺が手を出すようなところはないだろうが」 嘆息する往人を尻目に、祐一は羽根の前まで移動する。 先ほどより少し輝きを失ったそれに触れれば、繋がりは薄くなったものの、まだしっかりと感じることができる。 何となく、という程度の感覚だが、この向こうにあゆがいることを、祐一は言葉にならないイメージで理解していた。 「……? どうするつもりだ?」 「別にどうもしないさ。実際俺にできることってのはひとつしかないしな」 ポケットに手を突っ込む。かちゃり、という金属の絡む音と共に取り出されたのは、小さな人形。 口を半月型に広げ笑みを浮かべる、デフォルメされた天使の人形だった。 それを目の前に持っていく。ゆらゆらと揺れる人形が、淡く光り出す。 「…………それは?」 「俺とあゆの、約束の証だ」 物自体は大したことのない、ゲームセンターの景品。 しかし全てはこの人形から始まった。祐一は思い出す。もう、半年近くも前の話だ。 あゆと再会し、逢瀬を重ね、真実の発露と共に探し出したもの。 名雪や香里、北川に手を借りて、必死に地面を掘り起こし見つけた、七年の歳月に耐え切ったもの。 そこには、昏睡状態だったあゆが、閉ざされた世界の中でただひたすらに願い続けた『想い』が込められている。 あまりにも一途で真摯な祈り。少年と少女に与えられた、ささやかな奇跡の源。 元々、天使の人形はひとつしかなかった。 初めからあった、つまり祐一がプレゼントしたものは、現在あゆが所持している。 祐一の手にぶら下がっているのは、後に名雪と秋子の助力によって作られたものだ。 あゆの持つそれと対になるものとして。 人形が、二人を繋ぐ。 形の相似は存在の相似。受け皿たる人形に込められたあゆの願いは、祐一に届く。 そして、 「その願いは、俺が叶える……!」 ……かつて、タイムカプセルとして埋められた時、あゆは残りひとつの願いを残していた。 いつか、未来の自分が、あるいは他の誰かが何かを叶えたいと思う日のために。 幻のあゆが消えた瞬間、最後の願いは消費された。 故に、昏睡状態から目覚めたのは、人形に込められた力が働いたからではない。 あゆと祐一、二人が強く、強く再会を願ったからこそ、それは叶ったのだ。 想いの強さは奇跡を呼ぶ。 その奇跡とは、想いを持つ者の背中を後押しする、人の力。 「…………祐一」 「ん? 今忙しいから後にしてくれないか」 「……観鈴を、頼む」 「なら祈ってやれ。それで十分だ」 「そうだな」 ―――― あゆ、お前はお前のやりたいようにやれ。 「それで観鈴さん、どうするの?」 「わたしは、幸せな記憶を彼女に届けなきゃ」 「ボクに……できることは、ある?」 「見ててほしい。わたしの手を、このまま握っててほしい」 空の少女が、面を上げた。 くしゃくしゃに歪んだ顔。涙に濡れた、悲しみの顔。 ……それを変えたい。笑みに変えたい。観鈴は、心からそう思う。 「さぁ……わたしの、わたし達の幸せな思い出を……受け取って!」 途端、観鈴の背中に光が噴出した。 背の右側。そこに、これまでなかったものがある。 「観鈴さん、それ……」 「うん。まだ片っぽしかないけど」 二度目の転生の際、神奈備命から受け継いだ翼。 しかし、まだ完全でないが故、観鈴が所有しているのは右の羽だけだ。 カタハネの少女は白に輝く翼をはためかせる。飛び散る燐光と無数の羽根が、彼女達の周囲を取り囲む。 その一枚一枚に込められた、観鈴の記憶。往人と出会い、晴子と和解し、佳乃や美凪、学校の子達と友達になって。 秋、冬、春。越えられないはずの日を越えて、色づく世界で過ごした。 そしてまた訪れた夏、今度こそ本当に何もかもを終わらせるため、観鈴はここに来た。 「あ、くぅっ……!」 「観鈴さん!」 自分の命が削られていくのを、観鈴は感じていた。 背の左側、翼のない場所に、有り得ないはずの痛みがある。 知った痛み。足りないものを魂が求めている。求めることで、死に近づくとわかっていながら。 ……それでも。 観鈴は懸命に苦痛を耐えながら、神奈と繋いだ左手、あゆと繋いだ右手に強く力を入れる。 幸せになってほしい。自分は幸せで、往人も幸せで、でも彼女だけ泣いているなんて許せない。 それは自分の所為かもしれないけれど。自分もただの被害者なのかもしれないけれど。 そんなこと、どうでもいいのだ。だって、自分にはできることがある。自分にしかできないことがある。 ―――― 命を懸けてする価値も意味も理由も、全部あるのだから。 「あぅっ、く、はぁっ、はっ、うぅっ」 息が、苦しい。 眩暈もするし、頭がキリキリ痛むし、全身汗でびっしょりだ。 意識が遠くなりかけて、その時、あゆが観鈴の手を両の手指で優しく包んでくれた。 「大丈夫、ボクもいるから。祐一くんも、往人さんも、みんないるから」 「う、うん…………っ」 「神奈さん!」 あゆは、初めて名を呼んだ。 神など無し。ならば、願いを叶えるのは他でもない、人間だ。人の、心だ。 「ボクが、力になるよ……!」 ポケットに潜むものを取り出す。 天使の人形。ところどころが縫われ、けれど綺麗に保たれた笑顔の人形。 それを右手で持ち、目の前に掲げる。瞳を閉じて、告げる。 「お願い! ボクは、二人を救けたい……っ!」 瞬間―――― 光が、溢れた。 観鈴が見たのは、あゆの背中に現れた一対の翼。 白よりも淡い純白の色と、例えようのない綺麗さに、天使、という言葉が脳裏を過ぎる。 しかしその思考はすぐに途切れた。魂ごと絞めつけるような苦痛が、ふわりと和らいだからだ。 「…………あゆさん」 問い混じりの声に返ってくるのは頷き。 心配はいらない、と思う。もう何も、懸念はない。 ―― わたしにはみんながいるんだね。 ―― あなたにも、そんな人がいてくれたら、いいな。 祈りにも似た想いを最後に、全ての記憶が、神奈備命へと届いた。 無音で世界が崩壊する。 完全な転生と共に観鈴の背には両の翼が宿り、入れ替わるように少女の姿が薄れていく。 夢の終わり、溶け行く意識の中、空の檻から解き放たれた彼女は、二人が求めていた笑みをその顔に浮かべ。 ―――― ありがとう。 喜びの言葉を、聞いた気がした。 back|next |