夢を見た、気がした。 それは目覚めた今となっては、よく覚えていない、曖昧な記憶だったけれど―――― ―――― ただ、悲しかったという想いだけが残っている。 でも、何が悲しかったのかわからない。 寝起きの胡乱な頭で考えてみてもどうしたって思い出せず、月宮あゆは納得いかないような表情を浮かべた。 「あゆー、起きてるかー」 「へ? あっ、ちょっと待って祐一くんっ!」 おもむろにノブを捻る音が聞こえて、あゆは慌てて扉越しに制止する。 祐一の声は怪訝なものだったが、踏み込む気配はなくなる。手を離したノブが戻り、再び扉を固定。 安心したあゆは先に下で朝食を摂るよう祐一に頼み、頬を軽く叩き眠気を飛ばしてから箪笥の着替えを取り出した。 時刻は九時五分。普段なら遅刻確定だが夏休みなのでその心配はいらない。 というより、日によっては昼近くまで惰眠を貪る祐一がこの時間に起きていて、しかもあゆを起こすことがほとんど奇跡だ。 起こす側であるはずのあゆの驚きは、そういった理由からか、かなり大きかったのである。 ぶっちゃけ有り得ない。何かよからぬ物事の前兆ではないかと疑ってしまう。 釈然としない様子で一階に降りたあゆだったが、その予想は外れることとなる。 台所で相変わらず感動的なおいしさの料理を作る秋子が遠出の話を持ってきたのだった。 それを旅行というのなら、むしろあゆにとっては嬉しい知らせと言える。 「あ、でも名雪さんは……?」 現在名雪は陸上部の合宿中で、家にはいない。 昨日発ったばかりで帰宅はその四日後、明後日の夕方頃だ。つまり、思いっきり名雪を置いていくことになる。 そういう意味合いを込めて訊いたのだが、発案者たる秋子は、 「いいの。今回は特にあゆちゃんを連れて行きたいのよ。ちゃんと名雪の帰宅に合わせるつもりだからね」 「……うん、わかった。じゃあボク、行くよ」 「俺も一緒だぞ? そこんとこ忘れるなよ?」 「忘れてないって」 冗談みたいな早さの祐一の起床はこのためだろうか。 と、そこであゆは気づく。 「あれ、もしかして……出発は?」 「それなんだけど、あゆちゃん。今から用意して。急な話でごめんなさいね」 やっぱりだった。 「ゆ、祐一くん! 急いで用意しないと!」 「俺はもう終わってるぜ」 「そんなっ、裏切り者がここにいるよ!」 「まあ確かに教えてなかったのは悪いがな。俺昨日の時点で知ってたし」 「何で言ってくれなかったの……」 「慌てる顔が見たかったから」 「秋子さんー……」 「ふふ、ごめんなさいね。祐一さんに一任してたの」 四面楚歌。いや、状況的には二面楚歌か。 味方のいない状態で孤軍奮闘しても勝ち目はない。 あゆはこれ以上の反論を諦め、秋子に大き目のバッグを借りて自分の部屋にリターンした。 一時間後。 三人を乗せた軽自動車は、秋子の運転で住み慣れた街を後にし、目的地へ向けて走り始めた。 北国に蝉がいないわけではないのだが、鳴き声の激しさという意味では、段違いだった。 一軒の家屋の前で止まった車は祐一とあゆを先に降ろし、車庫へ向かう。 危なげなくその巨体を収め、運転手の秋子が続いて降りてきた。 アブラゼミを主とする、けたたましいほどの大音量。 陽射しの強さ、大気の熱、肌からじんわりと汗が滲み出る、これまで経験したものとはまるで別種の暑さ。 あゆは額を手の甲で拭い、空を見上げた。 ただ青い。他の色が薄れてしまうくらいの青さは、正しく抜けるような、という表現が相応しい。 目前の玄関に呼び鈴らしきものはなく、秋子は躊躇わずに戸を開けた。 一歩踏み入って声を張り上げる。すると、奥からどたどたと足音が聞こえてきた。 その音源は徐々に近づき、玄関より続く廊下に姿を現す。 「おう、水瀬さん、よう来たな」 「ええ。お邪魔しますね」 「後ろのお二人さんも。まあ上がりや」 関西弁を駆使する、まだ年若き女性。あゆの目にはそう映った。 といっても、保護者の見目と実年齢(推測)を考えると、容姿なんて全く信用できるものではないのだが。 彼女は神尾晴子、と名乗った。 あゆと祐一も自己紹介をしようとしたが止められる。 どうやら事前に秋子がある程度話をしていたらしい。 正確に名を言い当てられ、なるほど他人行儀になる必要もなさそうだった。 以降の話を統合すると、こうなる。 あゆが聞いた限り、秋子と晴子は友人であること。 その縁で今日からこちらの神尾家が宿泊先であること。 今はこの場にいないが、他に居候が一人と晴子の娘がいること。 二人はおそらく夕方頃には帰ってくるだろう、ということ。 基本的に自由にしてくれていいし、よければ明日娘にこの辺を案内させようかと提案され、あゆが頷いたこと。 割り当てられたひとつの部屋(諸々の事情と意見によって祐一とあゆは相部屋になった)に荷物を置き、一息吐く。 それから祐一が、 「ちょっと外出ないか? ほら、海まで」 「あ、うん。でも、あんまり遠出は無しだよ?」 「わかってるって。お前こそ、体力ないんだから無理すんなよ」 「しないよ。えっと……帽子帽子」 日射病にならないようにと秋子が買ってくれた麦藁帽子を手に取る。 居間で話し込んでいた保護者二名に外出の旨を伝え、許可を貰い玄関から飛び出す。 被った帽子が日影を作り、確かにこんな中でずっと立ってたら倒れちゃうなぁ、とあゆは思った。 ちなみに現在、あゆの服装は袖の短い薄手のシャツ一枚とハーフパンツ。 足に引っ掛けたのはサンダルで、彼女らしさを際立たせた活発な感じである。 正直祐一は薄着の下が気になって仕方ないのだが、さすがに旅行中はまずいだろうと自重。 尻とか太腿とか服から覗く薄い胸の谷間とかをこっそりどころか堂々と窺う。 あゆは呆れながらも、何を言っても無駄だとわかっているので一度目潰しをしてからまた歩き始めた。 後ろで「目が、目がぁーっ!」と叫んでいるが無視。いちいち相手にしていたら陽が暮れてしまう。 ちょこちょこと飛び石の様に並ぶ木造中心の家屋通りを抜け、武田商店という名の店の表に鎮座した冷凍庫をどうにかスルーし。 アイスの誘惑に後ろ髪を引かれつつ、二人は視界の拓ける場所に出た。 「わぁ……!」 鼻につく潮の匂い。湿り気を帯びた風。堤防の向こう側からでも届いてくる波の音。 来る時も通った道のはずだが、ガラス越しに見るのとでは感動の度合いが違う。 海。あゆにとっては人生で初めての海。嬉しくて、自然と足が前へと、走り出す。 祐一の制止の声は、しかし制止と呼べるような力を持っていなくて、遠ざかる背中を見守る瞳は穏やかな色を湛えていた。 堤防に面する道を辿り、下に降りる階段を見つける。 気持ちの高鳴りは一段飛ばしという動作に表れ、最後はほとんどジャンプで着地。 サンダルに砂が入り込む。痛くもありくすぐったくもあり、そして熱くもあり、あゆはぴょんぴょんと跳ね上がった。 楽しそうに。心の底から、楽しそうに。 振り返り、まだ上にいる祐一に向かって手を振る。 「祐一くん、早くー!」 「ああ、わかってるって」 祐一が砂浜に踏み入った頃には、あゆはもう海水に足を浸けていた。 水は冷たく、心地良い。慣れない波の感覚に引っ張られもするが、それすらも新鮮で、嬉しくて。 ひとしきりはしゃいだ後、ふっと振り向いて、あゆの目はひとつのものを見つける。 堤防の上。少女がいる。バランスを取るように両手を広げる様は、鳥が翼を羽ばたかせる姿に似ていて。 はためく結われた金色の髪も、瞳を閉じながら空を見上げる表情も、ただ、綺麗な―――― 「あ……っ!」 見惚れていたからか、気を抜いたあゆは波に足を持っていかれる。 視界が下向きに回転。あっという間に砂浜が鼻の先まで迫り、 「へぶっ!」 情けない声と共に、ずしゃあっと悲惨な音を立ててあゆは盛大にすっ転んだ。 助けるより前に噴いて笑った祐一への恨みを積もらせつつ、顔の砂を払いながら起き上がる。 と、気づけば手を握られ「大丈夫?」と心配そうに訊ねられる。 可愛らしい声だった。 あゆの視線の先には、堤防の上にいたはずの少女。 温かな手に引き寄せられ、身体を起こす。悲しいことに服の前面も砂に塗れてしまっていた。 「あ、ありがとうございます」 「ううん、どういたしまして。……海、初めて?」 「はいっ。だからついはしゃいじゃって……」 あなたに見惚れてた、だなんて言えるはずもない。 「……あの、名前、教えてほしいな」 「え?」 「名前。わたし、観鈴。神尾観鈴」 「神尾…………? あっ、ボクはあゆ。月宮あゆ」 「あゆさん、だね。よろしく」 手に込められる力が強くなる。 それは、握手の強さ。よろしく、という言葉通りの意思。 だからあゆは、 「うん!」 ぎゅっと握り返すことで、応えた。 「……おーい、何か俺放置されてない?」 祐一の呟きは無視。さっき笑った仕返しである。 index|next |