9.みんなと、ジュース戦争

 あの後、バスターズの全員に佳奈多を加えた面々は、食堂に集まっていた。
 招集したのは勿論恭介。名目は、相変わらず知らされず。皆、何のために招集されたのかは解らない。
「理樹、こっちを持ってくれ」
「うん、今日は何?」
 恭介は、毎度のごとく何かの垂れ幕を作ってきたようだった。この場に集められた理由は、この垂れ幕に書かれているはずだ。どうせまた、何かの思いつきなんだろうと、そう考えておく。
 理樹がその端を持たされ、恭介は中心の芯を持っていた。
「では、はじめるぞ」
 そう宣言し、恭介は一気に垂れ幕を走って開いた。
「第一回、理樹とクドがくっついちゃったよおめでとうパーティー、はい拍手ーっ!」
 どてっ!
「拍手ー、なのですーっ!!」
 ぱちぱちと、二つの拍手。
 クド本人と、恭介だった。
 その先、理樹が端っこを持ったまま転けていた。
「……なんだなんだ、せっかくのおめでたい事なのにしけてんな。もっと盛大に、はい、拍手ー!」
 ぱちぱちぱち。
 先ほどよりは拍手が上がった。
 真人と謙吾と鈴が加わった。
 他のメンバーたちは、この驚愕な事実に拍手どころではない様子だった。
「や、やっぱり理樹君とクーちゃんって、そういう仲なの?」
「あ、はい、そうなってしまいました? と言うか、そうなりましたのです!」
 クドはハイテンションだった。
「できれば、お二人の馴れ初めを教えていただけますか?」
「ふむ。それは私も気になっていたことだ」
「それははるちんも興味がありますネ」
 と、来ヶ谷と美魚と葉留佳がクドに迫る。
 理樹がようやく起き上がったところで、がっちりと左肩を来ヶ谷に掴まれていた。
「フフフ、逃がさん」
 もう、逃げようがない。
「わ、わふー。……どこからお話ししましょうか?」
「うむ。君が理樹君をどうして好きになったかというところからだな」
「わわっ……え、えっと、それはー……ですね」
 彼のことを好きになったのは、転入初日の案内の時だった。
 外見に似合わず、英語がダメダメなのを、周りの人は笑っても、理樹はそうしなかった。
 たったそれだけのこと。
 たったそれだけのことだったのに、クドは心の中でこの人だ、とそう思ってしまったのだという。
「……ほぼ一目惚れっすね、姉御」
「その様だな」
「このー幸せ者めー、うりうり」
「や、やめてください葉留佳さん」
 理樹、棒読み。
「照れてますかな、ダンナ?」
「いいえ、照れておりません。と言うか、ダンナとは一体なんでございましょうか」
 思いっ切り棒読み。
 しかも、一昔前のロボットのように抑揚すらない丁寧語。
「きゃはははっ」
 葉留佳も上機嫌だった。
「では、はるちんの奢りで、変なジュース、オンパレードっ!!」
 言いながら、すでに買ってあったジュースがテーブルに並べられる。
 それまでの話の流れなんぞ全く無視だった。
 というより、最初からこれがしたかったのでは無いのだろうか。
「はるか、さすがにそれはないだろ……」
 鈴が、顔を顰めた。
「……」
 その場の全員が、静まり返って固唾を飲む。
 ジンジャーエール、カフェオレ、スポーツドリンク。
 この辺りは普通の物だ。
 それらの紙パックを先頭に、ティラミスジュース、青汁。
 なぜにティラミス? と言う疑問。
 そう言えば、と理樹は思い出す。
 ルームメイトを探しているとき、その休憩の時にクドがこれを買って飲んでいた。その時、亜麻色の髪に見蕩れていたことも思い出してしまい、少し恥ずかしくなる。そんな思い出の一品だ。
 青汁は、伝説の悪役俳優が『不味い! もう一杯!』と宣伝していたアレの改良品で、わざわざ不味く味付けられている。飲みやすいようにいろいろと味が工夫されている昨今、あえてそれに逆行した逸品だ。その為かどうかは解らないが、あの自販機では何故か一番人気の商品で、稀に売り切れているところが凄い。
 そこまでは、飲料水としてはまだまだ認められる範囲。
 この辺りから、強烈なラインナップが現れた。
 次の品は、紅生姜と、みそかつジュース。
 一体、どの様にして紅生姜をジュースにしたのだろうか。
 一体、どの様にして味噌カツをジュースにしたのだろうか。
 みそかつジュースは、理樹は一度試した事がある。
 たしかものすごい味だった、としか言い様のない代物だった。
 紅生姜に関しては、理樹はまだ試してはいないが、恐ろしい味だとは想像に難くない。
 ……だが、体育館脇の自販機には、伝説と呼ばれる物体がある。
 それを果たしてジュースと呼べる物体であるのかは、論議を要するものだが。
 しかし、それは確実にその自販機で売られていた。
 その飲み物を手にしたものは、チャレンジャーと呼ばれる。
 そして、それを完食したものは、その勇気を称えられ、こう呼ばれる。
 ……勇者、と。
 いや、そこまで大げさでもないが、飲むのに勇気がいるのは確かである。
 それは、紙パックに詰められた、ゲル状の物体。
 通称、ドロッとしていていたり濃厚そうな名前のモノ。
 飲むときは、紙パックを押しつぶすようにして飲むという、驚異の飲料方法。
 喉越しは、ごくごくという爽快なものではなく、どくどくっという、とても重量級。
 ……何故か葉留佳と佳奈多が好んで飲んでいるが。
 そういういわく付きのトンデモジュースが、目白押しだった。
 因みに、普通のジュースのスポーツドリンク、カフェオレ、ジンジャーエールは一本づつしなかい。
 ティラミス、青汁、勇者ゲル……は二本づつ。
 極めつけのみそかつと紅生姜は、一本づつだった。
 何らかの作為を感じさせるラインナップだった。
「じゃ、乾杯するから選んでくださいですヨ」
 葉留佳の声に、皆は一斉に紙パックへと手を伸ばした。
 勿論、より普通のジュースを選ぶために。
 クド、ティラミスジュースで一人勝ち抜け。
 理樹、鈴、恭介、カフェオレで対峙。
 小毬、謙吾、真人はスポーツドリンク。
 美魚は、意外にもジンジャーエールで、一人勝ち抜け。
 来ヶ谷、何故か青汁、勿論一人勝ち抜け。
 葉留佳と佳奈多は、二人で勇者ゲル……で決定。
 こうなると、重なってしまったメニューで、バトルが勃発する。
「理樹、お前はティラミスジュースにしろ」
 恭介は、理樹を睨み付けながら、耳元でささやいた。
 あまりこんな表情は見たことがない。
「能美と、同じ物を飲めばもっと仲良くなれるぞ」
「……いや、その」
 しばらくのにらみ合いの後、理樹はカフェオレを諦め、ティラミスジュースを手に取った。
「リキと一緒なのです〜♪」
 と、クドは嬉しそうにしていた。
「……鈴、お前はそうだな……、青汁にしろ、な?」
「いやだ。なんで馬鹿兄貴の言うことを聞かにゃならんのだ」
 と、腕を組んで即反論。
「カフェオレは譲らん」
「……おにいちゃんと呼んでくれるのなら、譲ってやってもいいだろう」
「おにいちゃん、カフェオレをあたしにくれ」
「…………っ!?」
 よっぽど、兄を『おにいちゃん』と呼ぶことよりも、トンデモジュースの方が嫌だったのだろうか、ほぼ即答だった。
「お……」
 おにいちゃん、と呼ばれたことに、恭介は一瞬怯んだ。
 その隙に、鈴はカフェオレのパックを奪取した。
「……くそっ!」
 恭介は悪態をつき、青汁へと手を伸ばした。
 一方で、小毬をすっ飛ばして謙吾と真人がにらみ合う。
「……ああうう……」
『謙吾、ここは一つオレに譲ってくれねえか?』
『いや、ここは一つ俺に譲ってくれ』
 とは表面には出さないが、裏では激しい心理戦が繰り広げられていた。
 お互いに一歩も譲る気がない。
「あ、あのね二人とも、私」
「レディーファーストだ」
 と、小毬の声を遮り、来ヶ谷が二人に強く出た。
「ぁあ!?」
「む!?」
 謙吾と真人が、同時に来ヶ谷を睨む。
「レディーファーストと言った。それは小毬君に譲りたまえ」
「でででででも、二人ともこれが欲しいんだよね?」
「……いや、俺が悪かった。他の物にしよう」
「謙吾、お前一人いい顔はさせねえぜ!」
 二人してそう言って、別の物に手を伸ばした。
 結果、青汁に三人集中、タイミング的に同時だった。
「くっ!」
「恭介! 今度ばかりは譲れねえぜ!」
「同感だ」
 一本はすでに来ヶ谷が手にしていて、残りの一本を三人で争うことになった。
「恭介! 勝負の方法は!? バトルか!?」
「……ここは一つ穏便に、ジャンケンだな」
「ああ、久しぶりにバトルでも良かったが、ここは一つ目を瞑ろう」
 三人同時にジャンケンの態勢に入る。
「最初はぐー、じゃんけんぽんっ!!」
 真人がグー、恭介がチョキ、謙吾がパー。
「……」
 一瞬の沈黙の後、恭介が怒鳴る。
「あいこでしょっ!!」
 謙吾、真人がパー、恭介がチョキ。
「いやっほうっ!!」
 拳を振り上げ、勝利に酔う。
「くそうっ!!」
「真人、勝負だ!」
「おうっ! 最初はグー、ジャンケンぽん! うおおおおおおおっ!!!」
 真人グー、謙吾パー。
 と言うことで、謙吾、真人の順で飲み物を選ぶことになった。
「……ろくな物が残っていない」
 紅生姜、みそかつ。
 どっちを選んでも、多分とんでもない。
 みそかつなら、まだいいだろうと考え、それにすることにした。
「……よりによって紅生姜かよ」
 真人はため息交じりに呟き、それを手にした。
 結果、こうなった。
 恭介、青汁。
 理樹、ティラミスジュース。
 真人、紅生姜。
 謙吾、みそかつジュース。
 鈴、カフェオレ。
 小毬、スポーツドリンク。
 クド、ティラミスジュース。
 来ヶ谷、青汁。
 美魚、ジンジャーエール。
 葉留佳、勇者ゲル……。
 佳奈多、勇者ゲル……。
「ではみんな、パックにストローをさしてー」
 皆、葉留佳の声に従って、ストローをさしていく。
 皆準備が終わったところで、
「では、乾杯の音頭は恭介さんからですネ」
「ああ、任せろ。……では、理樹と能美がくっついちゃったよパーティ、はい、かんぱーい!」
 と恭介が最初に青汁を振り上げた。
「かんぱーいっ!」
 と葉留佳が勇者ゲル……を振り上げて続く。
「乾杯だ」
 謙吾がそれに続いてみそかつジュースを彼らのジュースにコツンとあてる。
「乾杯だぜ!」
 真人も謙吾と一緒に皆のジュースへとその未知なる紅生姜ジュースをあてる。
「乾杯なのですーっ、わふーっ!!」
 クドは一番嬉しそうにティラミスジュースを振り上げる。
「二人とも、おめでとー。皆が幸せなら、私も幸せ、だよ!」
 小毬も嬉しそうに微笑み、皆とジュースを重ねる。
「うむ、乾杯だ」
 来ヶ谷は静かにほほえみ、軽く青汁を掲げる。
「クド、理樹をしっかりと頼むぞ」
 鈴はやや真剣な目でクドにそう言って、カフェオレをコツンとやった。
「おめでとうございます、能美さん、直枝さん」
 美魚も静かにそう言って、来ヶ谷と同じようにジンジャーエールを掲げた。
「……ふふ」
 佳奈多は皆を見守るように微笑む。
「クド公おめでとー」
 もう一度葉留佳が皆にジュースを次々とぶつけて、最後に理樹のティラミスジュースにガツンと打ちあてるのだった。
「や、やめてよ、はずかしいいからっ」
 恭介の掛け声に、十人十色の掛け声だった。
「うん、やっぱりこれだよね。食感は相変わらずだけど、美味しいですヨ」
「ええ」
 葉留佳佳奈多姉妹、難なくクリア。
「運動後はやっぱり、ジンジャーエールですね」
「うん、スポーツドリンクも、美味しいよー」
「カフェオレも捨てがたいな。甘い味が身体に染みる」
 美魚と小毬と鈴は、普通のジュースだから問題はない。
 そして、ここからは何故か罰ゲームっぽくなってきたりする。
「……微妙な味だよね」
「そうですか? 美味しいですよ?」
 クドは兎も角、理樹には不思議な味わいのティラミスジュースだった。
 そしてここからが、まさに阿鼻叫喚の地獄絵図だった。
「なんだこれは? これは青汁に対する冒涜か!」
「ぐああああっ!」
 青汁、青臭くて非常に不味い。
 しかも、二人が想像していたものより、次元を超えた先の不味さだった。
「わざと不味く作っているとはいえ……何だこれは?」
「……まさに、挑戦状を叩きつけられた気分だぜ」
 来ヶ谷と恭介、残り一九〇mlに絶句するのであった。
「なんっじゃこれはぁあああああっ!!」
 真人、最初の一口で大声を上げた。
 紅生姜の搾り汁に、紅生姜の粒入り。
 生姜好きな人でも、これはさすがに無理があるのではと言う逸品。
「くっ……うおおおおおおおっ!」
 みそかつは、例えるなら、めちゃくちゃ濃くした味噌汁に砂糖をふんだんにぶっ込んだような代物だった。
 つぶつぶに、ふやふやの何かが口に入る。
「……フライの粒が入ってるぞこれ!」
「こわっ! 目茶苦茶こわ!! ……いや、敢えてこう言おう……、くちゃくちゃこわっ!!」
 謙吾の声に、鈴が吠えたのだった!


「そうそう、忘れていた。能美に土産があったんだ」
 あの騒ぎが一段落したあと、恭介は自分の鞄を手繰り寄せた。
「私に、ですか?」
「ああ。能美はロシアンティーを嗜むだろ?」
 言いながら取りだしたのは、橙色をしたジャムが入っている瓶だった。
「ありがとうございます。……これはどうされたのですか?」
「ああ、就活の時にな、向こうで世話になったとお礼に頂いたんだ」
 と、説明する。
「でも、いいのですか?」
「ああ、勿論。俺が持っているよりも、能美が持っている方がいいだろうからな」
「ありがとうございますっ!」
 クドは、その瓶を抱き締めるようにして持ち上げ、とても嬉しそうに笑った。

 そして、皆は家庭科部室に移動する。
 野球の練習が雨で出来なかったりして時間があるときは、ここでクドの紅茶を楽しんだりもしている。
 二度目の修学旅行から帰ってきてからの、新しい習慣でもあった。
「ほー、これが恭介先輩が貰ったジャムですか。色はオレンジ色をしていますネ」
「だが、オレンジではない、とその人は言っていた。そして、甘くないとも言っていた」
「確かにマーマレードとは違うわね」
 葉留佳と佳奈多の二人はジャムに興味津々だった。
「では、早速ロシアンティーでも作ってみますか?」
「そうだね、クド、僕も手伝うよ」
「リキ、ありがとうなのです」
 二人席を立ち、理樹はカップを、クドは紅茶の準備にかかる。
 瓶をドンっとカウンターに置き、ふたを開ける。
 クドはジャムの味を確かめるため、小さなスプーンでほんの少しだけ掬い、そのまま口へと運んだ。
 そして、そのまま固まってしまった。
「……これはっ! 濃密にしてしかもしつこくもなく、香りも強いのに決して嫌みがない!」
 などと、グルメ漫画のような感想を述べていた。
「この味に最適な紅茶のブレンドは……、そうですね、ダージリンを主軸にアプリコット、ラズベリー……、あとはローズヒップも加えてみましょう! 今からワクワクしますっ! わふーっ!!」
 と、嬉々として叫んだクドに、理樹は一瞬怯んだ。
 鼻歌交じりに、茶葉を選定してカウンターに並べていく。
 鼻歌も、サビに入ると歌声に変わる。
「うら゛んでもぉ〜、うら゛んでもぉ〜♪」
 バッチシ小節+巻き舌。
「今日は……えっと、天城越え……だったかな?」
「はいっ」
 クドと一緒に居ると、演歌に詳しくなってしまいそうだった。
 クドは、紅茶の缶を、順番に開封していく。
 どれも同じ茶葉にしか見えないが、確かに香りも味も違う。
 それをブレンドしたクドの紅茶は、とても絶品であるし、やすやすと真似のできるものでもないことは、理樹をはじめとして皆知っていることだった。
 理樹が人数分のカップとソーサーを準備し終えると、クドはやかんを給湯室のコンロに置いたところだった。
 これからお湯を沸かすところらしい。
 ボイラーのお湯を使うと紅茶本来の風味が出ないからと言って、こうしてやかんを使うのである。クドの拘りの一つである。
「ジャムはどうしよう?」
「ソーサーの横にお願いですー」
「うん」
 理樹は、ジャムのふたを取り、おもむろにスプーンで掬ってソーサーの縁に盛りつけた。
「……新婚さんみたいだねー、理樹君とクーちゃん」
 がしゃんっ!!
「こ、小毬さん……」
 不穏な発言、その一番最初は予想を大きく裏切って、小毬からだった。
「そーなのか?」
 鈴は、よく解っていないらしい。
 理樹は、落としたスプーンとソーサーを水で洗い、ジャムを盛りつけ直す。
 ソーサーがプラスチック製で良かったと、そう関係ないことを思う。
 そのついでに、畳を雑巾で拭き取っておく。
「うむ。別に恥ずべき事でも無いと思うがな」
「く、来ヶ谷さん……」
「そして、我々が全員帰ったところでキミ達は手取り足取りしっぽりむふふ、と言うわけか」
 がしゃんっ!!
「だ、だから来ヶ谷さんってば!」
 今度は、スプーンだけだった。
 洗い直し、ジャムを盛りつける。
 ついでに畳を雑巾で拭き取っておく。
「直枝×能美、シンプルですが、ベビーフェイスのお二人、……ありです」
「に……、西園さんまで……」
「何か言いましたかー?」
 給湯室からの、クドの声。
「な、なんでもないよっ!」
 それに対し、理樹は慌てて返答した。
「そうですかー?」
「とりあえず二人とも、あまり不謹慎なことを吹き込まないように。本当に不純な行為に発展してしまったら、二人とも停学どころの騒ぎじゃなくなりますからね」
 と、佳奈多が注意する。
「それに、煽ったあなた方もそれ相応の処分を考えなくてはなりませんので、注意するように」
「……うむ、了解した」
「わかりました」
 来ヶ谷と美魚は、しぶしぶ頷くのであった。
 そう言えば、佳奈多はジュースパーティーの時からずっと一緒に居るのだが、風紀の仕事はいいのだろうか。
「佳奈ちゃん、お仕事は良いの?」
「……ええ。これぐらいの時間は大丈夫よ」
 言いながら、柔らかく微笑む。
 そして、皆はクドの母親の話や、先ほどのトンデモジュースの話などで盛り上がった。

 やがて、やかんのお湯が沸騰して、勢いよく蒸気を吹き出した。
「リキー、取ってくださいなのですー」
「うん」
 クドは背が低い。
 沸騰したやかんをコンロから下ろすとき、蒸気で火傷しそうだったので、いつのまにか理樹がするようになっていた。
 熱々のやかんを持ち上げると、クドは入れ替わりにサーバーのふたを開けていた。
 理樹は、吹き零さないようにしてお湯をそこに注ぐ。
 じょぼじょぼじょぼ。
 なるべく空気を入れるように、高い位置から。
 規定の所まで入れて、やかんをコンロに戻す。
「今日のブレンドは、一分半です」
「うん。解った」
 理樹はキッチンタイマーを一分半にセットし、スタートさせた。
 その様子をじっと見ていた一同。
「……息ぴったりじゃねえか」
「ふっ、さすがはおしどりだな」
「わふっ……」
 真人と謙吾の冷やかしに、二人とも顔を染める。
「いやいやいや……」
 理樹も照れながらもごまかした。

「さて、出来上がりです」
 クドは、サーバーから紅茶をカップに注いでいく。
 それを各々に配る理樹。
 全員に紅茶が行き渡った。
 女子六人がちゃぶ台を囲み、野郎共三人は畳の上にあぐらをかいている。
 理樹とクドは、そのままカウンターで頂くことにした。
 クドから聞いた本場のロシアンティーは、今まで見聞きしたものとは食い違っていた。
 まず、ジャムは実際には紅茶に混ぜたりはしないのである。
 ジャムは、実際には紅茶に混ぜて飲んだりはしない。口に先に含み、そこに紅茶を含ませ、両方の味を楽しむのが本当の飲み方である。
 と言っても、きちんとした作法があるというわけでもなく、日本式の“ロシアンティー”でも別にそれはそれで楽しい飲み方であると、クドは言う。
 先にジャムを頂いてから混ぜても良し、最初から混ぜても良し。
 紅茶の風味を先に味わうのも、それはそれでなかなか乙なものである。

 恭介は、おもむろにジャムをすくい取り、紅茶の中に入れ、かき混ぜる。
 あの青汁の不味さが未だに口に残っているので、早く口直しをしたかった。
 良く溶けたところで、スプーンで一掬いし、口に運んだ。
 謙吾は、まずは紅茶の風合いを確かめるべく、少しだけ啜ってみた。
 味はまずまず。みそかつジュースで微妙に味覚が麻痺しているが、それでも美味しいと感じると言うことは、さすがは能美。いつもは日本茶だが、能美の淹れるものならば 大歓迎だと、そう考えた。
 そして、ジャムも、本来の味を確かめるべく、ほんの少しだけすくい取り、口へと運んだ。
 真人は、恭介と同じくジャムを全部掬い、紅茶の中に混ぜた。彼もまた、紅生姜で味覚を麻痺させていたので、熱々の紅茶をジャムで冷やして、一気に飲みたかった。
 程よく溶けたところで、カップに口をつけて啜った。
 小毬は、まずは紅茶の香りを楽しんでみる。
 色んな品種の紅茶が混ざり、独特の深い香りを醸し出していた。それを堪能し、今度はジャムをスプーンの先にちょっとだけ付け、口に運ぶ。
 葉留佳は、ジャムがどんな味なのかと言う興味が先立ち、スプーンで掬って口に運ぶ。
 佳奈多は、紅茶の香りを楽しみ、紅茶を口で啜った。
 来ヶ谷は、やや神妙な顔をしてジャムをスプーンの先で突っつく。
「…………」
 そしてそのまま、固まってしまった。
 美魚は、ジャムを一掬いし、紅茶に混ぜる。
 そしてその香りを確かめて、口をつけ……ようとして、何か不吉な気がしたのでやめた。
 そして、鈴は。
「ふかーっ!!」
 と、いきなりジャムに対して威嚇した。
 どうやら、野生の勘が働いたようだった。
 そして、唐突にこの純和風で落ち着きのあるこの部屋から、皆は再び地獄へと叩き落とされるのだった!
「……なんじゃこりゃーーーーっ!!」
「ううぅっ!!」
「うおおおおおおおおっ!!!」
「な、なにこれ…………」
「……ぎゃーーーーっ!!! なんだこれわぁーーーっ!!」
 ジャムを口にした皆が、一斉に叫んだ。
「な……なんですかーっ!?」
「み、皆一体どうしたの?」
 と、理樹とクドも慌てる。
「理樹! お前も飲めぇ!!」
 と、真人がすごむ。
 最初から飲むつもりだったけど。
「このジャム、一体何!?」
 葉留佳は、ガクガクと震えながらでっかい瓶に入ったジャムを指さした。
「俺は……俺は、爆弾を持ってきてしまったのか!? ……爆弾!? そうだ! 俺の部屋には尺玉が!」
「その尺玉ってのは一体なんだ!」
 慌てて立ち上がった恭介に、謙吾がやはり慌てて追いかける。
「お、俺もいくぜ!」
 と、真人も二人を追った。
 野郎共三人、逃亡。
 だん! とちゃぶ台を叩くようにして佳奈多が立ち上がる。
「いけない! 風紀の仕事に遅れるわ!」
 佳奈多も、やや棒読みセリフで部屋を後にした。
 風紀委員長、その様子から何かを察して戦略的撤退。
 その中で、叫んだまま固まっているのは小毬。
「く……クーちゃん……? このジャムは一体……何!?」
 小毬が、小毬らしからぬ剣幕でそう尋ねてきた。
「さあ、恭介さんがお土産って頂いたものを譲ってもらったのですが。……美味しいですよね?」
 理樹は、今手にしているものが、なんだかとてもやばい物の様な気がしてきた。
 それと同時に、怖いもの見たさも芽生える。
 理樹とクドは、同時に紅茶の中にジャムを入れてかき混ぜる。
 そして、カップの縁に口をつけ、同時に啜った。
「……やっぱりおいしいですっ! 思ったとおりのぶれんどですっ! おーちにふくーすなっ、はらしょーおー? リキ、どうしました?」
 理樹は、一口啜ったところで完全に固まってしまっていた。
「……これ、そんなに美味しいの?」
「はいっ!」
 と、とても嬉しそうに答えるクド。
 そこで理樹は一つ思い当たってしまった。
 ティーカップをカウンターに置き、クドの肩にポンッと手を置く。
「クド、君はすっ………………っごく外人だよ」
 もう、外国人ぽいとかではなく、外人と断定した。
「い、いきなりどうしましたか? そしてどうしてですか?」
「クドの味覚は、僕たちよりもあまりにもかけ離れているから」
「……それって褒められてますか? というより、つまり紅茶が美味しくなかったって遠回しに言ってますか!?」
「いやー、不味いのはこのジャムですヨ」
「うむ。明らかにこのジャムからおかしな気配を感じた」
「そうですね。何か……、怨念めいたものを……」
「……ジャム、美味しくないのですか!? 私は美味しかったですよ!?」
 やばい、本当に味覚が僕らと違う。
 理樹は、そう確信してしまった。
「わ、わふーっ!?」
 クドの叫びが、夜の家庭科部室に木霊したのだった。


 北海道、某所。
 一二月、すでに雪が降り出した街。
「な、あのジャム、瓶一つ減ってるよな?」
「え? ……うわ、本当だ」
「あのジャムって、……もしかしてあのジャムっ!?」
 驚きの声と共に、彼女の背負うリュックの羽が揺れる。
 その名を聞くだけでも身の毛のよだつ、あのジャム。
 製法、材料、共に不明。
 それを聞くと、いつもはぐらかされてしまう。
 でも、この猫柄の半纏を着る女性の母親の、一番のお気に入りのジャムだった。
「ええ、ちょっとお世話になったものだから、その人におすそ分けしたのよ」
「うわぁ、お母さんっ! びっ、びっくりしたよ〜……」
 現れる母親。
 集まる三人よりもいくばか年上に見えるが、この人がその人。
 そして、あの騒動の発端となったジャムの製作者ご本人だった。
 女性二人と男性、三人で目を合わせ、大きくため息をついたのだった……。



10.ギガンタ・グローブ

 翌朝、木曜日。
 朝早く目が覚めた理樹は、まだ寝ている真人をとりあえず起こして(二度寝してしまったが)、朝食を摂るために北校舎の食堂へと足を運んだ。
「リキー、ぐっどもーにんぐですー」
 と、いつもの屈託のない笑顔が後ろから追いかけてきた。
 亜麻色の、少しだけカールした毛先の、ちっちゃな同級生の女の子。
「わふーっ」
 そのままぶつかる勢いで理樹の腕にしがみつき、その額を押しつける。
「おはよう、クド……ってちょっと恥ずかしいんだけど」
「えへへー……、おはようなのですー」
 朝からご機嫌だった。
 そのまま二人は食堂へと入り、いつものバスターズの席にたどり着いた。
「クドはここで待ってて」
「あ、はい、ありがとうなのです」
 と、くりくりっとした目を理樹に向けて微笑んだ。
 この席からは遠いが、TVでは朝のニュースが放映されていた。
「……お母さん、今日が出発のようです」
「もうテヴアに戻るの?」
「はい。……忙しくて、あまりお母さんのスケジュールとか聞けませんでしたけど、今日の早朝にモスクワに向かうそうです」
 TVでは、巨大な飛行機が離陸するシーンが映し出されていた。
 まだ空も真っ暗で、相当早い時間に離陸したと理解した。
 そして、来訪したクドの母親の映像に変わる。
「わふーっ!! 私も映ってますっ!?」
 昨日の別れ際に、報道陣が撮った写真だった。
「あ、本当だ。って、僕も映ってるよ」
 文字テロップには、『娘と別れを惜しむC.ストルガツキーさん』と書かれていた。
 クドと理樹の顔は、うまい具合にカットイン編集されていて、しっかりとは解らないようになっていた。
 でも、亜麻色の巻き毛の女の子の後ろ姿は、知る人が見ればすぐに解るだろう。
 最も、クドは当初からこの学校では有名人で、マスコット的な扱い。
 学校内であれば、TVに出てしまおうがそう騒ぎにはならないだろう。
「お、今日も早いな。おはよう、二人とも」
「恭介、おはよう」
「恭介さん、おはようございますー」
 二人で挨拶を返し、TVを見ながら朝食を摂る。
 すでにニュースは地方の話題に進んでいた。
「何か良い事でもあったか?」
「ううん、……まあクドのお母さんがTVに映ってたぐらいかな」
「へー、ほー」
「ついでに、私たちも映っていました」
「何!? お前等TVに映ったのか!? くっそぅ、なんだか無性に悔しいぜ!」
 と、恭介は顔を歪ませる。
「まあまあ」
「あ、おはよー恭介さん、おはよークーちゃん、おはよー理樹君っ」
 と、間延びした声がトレイと共に現れた。
 小毬はクドの隣に座った。
 三人、小毬に挨拶を返す。
「おはよう諸君。……何やら楽しげだな、クドリャフカ君」
「はい、ぐっどもーにんぐなのです!」
「来ヶ谷さんおはよう。クドと僕がTVに映っててね」
「TV? そうか、昨日の夕方のお別れのシーンあたりだな。マスコミが熱心にカメラを回していたからな」
「残念なのは、俺が映っていないことだ! ……おはよう来ヶ谷」
「挨拶と文句が逆だぞ、恭介氏」
「ダメだよー恭介さん、挨拶は、朝の基本だよー」
「くっ……よりによって小毬に突っ込まれたっ」
「おはよう理樹、くるがや、クド、こまりちゃん」
「皆さんおはようなのですヨ」
「おはようございます」
 鈴と葉留佳と美魚が並んで来た。
「おいおい鈴、俺を無視するな」
「うっさいボケ」
 鈴の挨拶は、意図的に恭介を無視していた。
「珍しいね、この三人で来るのは」
「さっきそこで会ったから、一緒に来た」
「ということで、ご一緒させていただきますね」
「場所は……まだ十分ありますね。今日は能美さんも一緒で、嬉しいです」
 美魚は顔をほころばせ、クドの正面に座った。
「ありがとうなのですっ。……あはは、この前は風邪を引いてしまいましたからね」
「皆おはよう、悪いが少し詰めてくれないか?」
「うぃっす」
「謙吾おはよ」
「謙吾君おはよー」
「ぐっどもーにんぐなのですっ!」
「おはよう」
「おはようございます」
「おっはよーっ!!」
「うむ、おはよう」
 皆、順に朝の挨拶をした。
 謙吾は一堂を見渡す。
「……真人がいないが」
「起こしたけど二度寝したよ。時計もたくさんセットしてきてるから、そろそろ来るんじゃない?」
「理樹、お前は真人を甘く見ている。……それぐらいではあいつは起きん。……ふっ、遅刻ぎりぎりの時刻になったら起こしにいってやるか?」
「謙吾、それ微妙に嫌がらせになってると思うよ」
「そんな時間になっても起きない真人が悪い。朝食抜きぐらいで死ぬようなタマでもないしな、はっはっはっ」
 と、謙吾は笑いながら席に着いた。
 そういうところは、この二人はもしかしたら同レベルなんじゃないかと思う。
「そう言えばクド、佳奈多さんは?」
「今朝も早くに出ていきました。昨日の夕方は、結局仕事を全部片付けられなかったそうで」
「うむ。佳奈多君は、散々この私に説教を垂れていたからな。それからジュースパーティーに、……何だったかな、とにかくそれで時間が無くなったようだ」
 と、来ヶ谷は不敵に微笑む。
「いやいやいや……」
 昨日の、偽物パンツ写真騒動を思い出す。
 正直、凄く恥ずかしい騒動だった。
 でも、と理樹は考える。
 そこまでしてジュースパーティーに付き合ってくれたのは、どうしてなのだろうと。


 朝食も食べ終わり、食器をカウンターに返して登校開始。
 そして僅か一分で南校舎。
 途中葉留佳と恭介が分かれ、一路皆の教室へ。
 いつもの授業が、いつも通りに始まったのだ。
 ……因みに真人は、遅刻ぎりぎりにやってきた。

 今日もいつもの騒がしくも楽しい、そんな日常になると、誰もが信じて疑わなかった。

 ニュースは、時に大きな事故も淡々と伝える。
 それは無慈悲に、そして淡々と。

 ―――本日未明、ロシア国内イルクーツクにおきまして、テヴア共和国所属大型貨物機が消息を絶ったという情報が入りました。同機は本日テヴア大使を乗せて東京国際空港を離陸したアントノフ社製An−225であることを、ロシア当局が発表しました。詳しいニュースが入り次第、詳細をお伝えいたします―――

 がしゃんっ!!
 うどんそばを載せたお盆が落ち、中身が盛大にそのテレビの前にまき散らされた。
「クドっ!」
 それは昼休みの事だった。
 ニュースを見て呆然となり、倒れそうになったクドを、理樹は抱き留めていた。
「ああ……、ああああ……!?」
 クドは恐慌状態に陥り、震えていた。
「すぐに能美を保健室に運ぼう!」
「う、うんっ!」
 すぐ近くに謙吾がいてくれて助かったと、理樹はそう思う。
 自分一人では、パニックになっていたかもしれない。
 知らせを聞いたバスターズのメンバーは、保健室前に集まっていた。
 部屋の前では謙吾が仁王立ちになり、事の詳細を語って聞かせていた。
「……まさかそんなことって、ないよ……」
「謙吾、事故の詳細は?」
「いや、何も分からない」
「クーちゃんは?」
「理樹が見ている。保健の先生も一緒だ」
「……クド……」
「クド公……」
「…………」
 鈴は沈痛な声で、葉留佳も今にも泣きそうな声だった。
 来ヶ谷は、黙して何も語らずだが、その表情は深い悲しみに包まれていた。
 それはここにいる全員がそうだ。
 皆で、保健室に注目していた。
 そして、昼休みも終わりに近づいたとき、保健室の引き戸が開かれた。
「理樹、クド!」
「……大丈夫です、ご心配かけました」
 笑顔を作るクドだが、それはとても痛々しいものだった。
「僕、クドを……」
「分かった。事情は先生に伝えておく」
「ありがとう」
 皆まで言わずとも、真人や謙吾は理樹の言いたいことを全て理解していた。
「ほら、送ってやんな」
 恭介は、できるだけいつもの笑みで二人を押してやった。
「うん、じゃまた後でね」
「ああ」
 理樹は、一人では歩けそうにないクドを支え、ゆっくりと歩き出した。
 それを見送る一同。
 二人の姿が見えなくなったところで、
「……なんでこんな理不尽なことが何度も起こるんだよっ!」
 真人が最初に怒鳴った。
「真人! ……それは……それは俺だって言いたい!」
 謙吾も、そう声を絞り出した。
「……ここでグダグダ言っていても仕方がない。教室に戻るぞ」
 恭介に促され、皆はようやく教室へと歩き出したのだった。


 二人は、彼女の部屋へとたどり着いた。
 半ば放心状態のクドは、自分から鍵を取りだす仕草を見せない。
「クド、部屋の鍵を開けてくれる?」
「……はい、なのです」
 抑揚のない声で返事し、ポケットから小さな鍵を取りだした。
 もう見慣れてしまった、超リアルなヒヨコグマのキーホルダー。
 初めて見たときはとてもシュールで、でもこれが可愛いのですと言ったときのクドの笑顔を思い出す。
 今は、いつもの屈託のない笑顔の、その欠片一つとしてない。
 ただただ無表情で、機械的に動いているだけだった。
 保健室では大丈夫だとは言ったが、それはただの強がりだったことは、理樹は最初から感じとっていた。
 もたつくクドの手。
 理樹はしっかりとその手を握り、ゆっくりと鍵を回した。
 軽い手応えを残し、そして扉は開かれた。
 南向きの明るい部屋は、それだけで十分に暖かい。
 部屋の隅に並ぶ二つのベッド、クドは奥のベッドを指さしたので、理樹はそこまでクドを運んだ。
 ベッドの縁に座らせ、何か気の利いた言葉を探すが、なかなかそんな物は出てこない。
「リキ、ありがとうなのです。……あはは、ちょっと動揺してしまいました。またお母さんが……なんてことは決まったわけではありませんよね?」
 と言って微笑む。
 でも、クドの目は不自然に揺らぎ、声もいつもの元気が感じられなかった。
 あるとしても、空元気だ。
 そんなことは最初から気づいている。
 それだけ、理樹はクドのことがよく分かるのだ。
「クド……」
 理樹は、言葉を探すのをやめ、そのちっぽけな身体を自分の胸に抱き寄せた。
 あまりにもその笑顔が痛々しくて、理樹はそうしたくなったからだ。
 クドのことがよく解るのも、こうして抱き寄せたくなったのも。
 それは、愛しいから?
 理由をつけるとすれば、それに集約するのだろうか。
「リキ?」
 そのまま、軽く力を入れた。
「……リキ、ちょっと痛いです」
 クドからの抵抗は無く、むしろ強張っていた肩の力を抜いて、そのままもたれ掛かってくる。
「……でも、もうしばらくこのままでいてください」
 クドは、理樹の胸に自分の顔を押しつけた。
 そして、そのまま小さな嗚咽を漏らす。
 理樹は、思わず力を入れてしまう。
 少しでも、クドの悲しみを和らげられるように。
 少しでも、クドの悲しみを分かち合えるように。

「ありがとうなのです。少し、元気出ました」
 泣きはらした顔を上げ、クドは微笑んだ。
 理樹は、クドへの抱擁を解く。
 少し寂しそうにしたクドだが、すぐに笑顔に戻った。
「テヴアのあの事故でも、クドのお母さんは健在だったんだ。だから、今度も大丈夫だよ、きっと。永遠の別れにならない様にって、願掛けしたんだから、ね」
「そうですね。……はい、そうですよね!」
 元気よく頷く。
 頷いたとき、理樹の制服のシミが視界に入った。
「リキ……、その、制服汚してしまってすみませんです」
「いいよ、これぐらい、洗えば済むことだしね」
 理樹はそう言って微笑み、首を振った。
「昨日言ったとおり、私が洗いましょうか?」
「いや、本当に大丈夫だから、ね」
「そうですか? ……はい、分かりました」
 クドは、声に出して笑う。
 と、クドは再び俯いてしまった。
 俯きながら、上目使いで理樹を見上げる。
「あの、もう一度抱き締めてくれませんか?」
「……うん、いいよ」
 理樹は、もう一度クドを抱き締めた。
 涙で濡れてしまった部分には当たらないように気を配る。
 そしてクドは、そのまま理樹を真っ正面から見上げた。
「……まだ、足りません。寂しいってまだ感じます。……こう言うときはどうすればいいか、リキは知っていますか?」
 と、クドは潤んだ目で見上げてきた。
 それで、クドが何を求めているのか、理樹は理解した。
 クドはおとがいを軽く出し、目を閉じる。
 理樹は、僅かに開いたその唇を唇でふさいだ。
「ん……」
 ほんの少しの間、ただ重ねるだけの接吻。
 どちらからともなく離れると、クドは理樹の名を呼ぶ。
「ん……は……リキー……んっ」
 そして、クドの方から唇を押しつけてきた。
「んふ……んん……」
 吐息を漏らし、甘い声がもれる。
 もう一度離れると、二人とも更に深い繋がりを求めた。
 お互いの舌を絡める。
 作法なんて分からない。
 それでも、お互いを求められ、求める。
 時に優しく、時に貪欲に。
 甘く長いフレンチキス。
 感きわまったか、クドは少し震え、力を無くした。
 その表情はとても陶然としていた……。

「……わふー……」
「……」
 いざ冷静に戻ってみると、お互いキスに夢中になりすぎていたことで、とても恥ずかしくなっていた。
 それで、理樹とクドは、ベッドの縁で背中合わせで座っている。
「リキー、あの、……あ、ありがとうございます。元気出ました」
「う、うん」
 目が合わせづらい。
「はい、よかったのです〜」
 言いながら、力を抜いてもたれ掛かってくる。
「クド、僕は教室に戻るからねっ」
 クドの体温が感じられ、それがまた恥ずかしくなる。
 だからそんなことを思わず口走っていた。
「はい、分かりました」
 クドは自分の力で座り、身体を正面に戻す。
 理樹は立ち上がり、クドに振り向いた。
 正直、顔を見辛い。
 ちょっと照れながら、それでも自然と笑顔になる。
「リキ、本当にありがとうなのです」
 もう、いつもの屈託のない、……理樹が好きになった笑顔だった。
「あ……、うん」
 それを見た理樹は安心して、部屋を後にする。
 扉が閉められ、部屋にはクド一人となる。
 理樹のお蔭でいつもの自分を取り戻せたので、一緒に教室に戻っても良かった。
 けれど、せっかく出来た時間を有効に使うことに、クドは決めたのだ。
 鞄から、自分の携帯を取りだす。
 母親たちの携帯の番号は、特殊な事情があってクドにも教えられていない。
 つまり、クドと母親は直接連絡が取れない。
 だから、ロシアの大使館に電話をかけることにした。
 テヴアの事件の時に、教えられた番号をプッシュしていく。
 しばらくして、大使館とつながった。
「はい、こちらはロシア大使館です」
「こんにちは、私は能美=クドリャフカ、……クドリャフカ=ストルガツカヤです」
 父性はこの際省略する。
 クドの名前は、向こうも覚えていたらしく、すぐに向こうの態度が変わった。
「ああ、ストルガツキーさんだね!? 今電話をしようと考えていたところなんだ。……また大変なことになって、なんと声をかけていいのか」
「あ、あの、飛行機の事故ってどうなっていますか!?」
 普段のクドからは想像も出来ないような、そんな声だった。
「すまない、まだ情報がないんだ。こちらもTVの速報の直前に聞かされたばかりで、本当になんの情報もないのだ。……何か新しい情報が入り次第、君に電話をまわそう。……くれぐれも、気を落とさないように頑張ってくれ!」
「はい、大丈夫です!」
 クドは、今の元気を電話先に伝えた。
 その声に安心したのか、態度は少しだけ軟化する。
「その声なら安心できるかな。では、また必ず連絡する」
 そう言われ、向こうから電話が切れた。
 この携帯の番号は、先方も知っている。
 だから、今は待つのみだった。


 時間にして、一時間ほど前のことだろうか。

 風で揺れる機体。
 夜を追いかけるように、西へと西へと、ひたすら針路をとる。
 高度は二万フィート、約六千メートル。
 上下に乱気流の層があり、この高度をずっと維持している。
 機体の左側に世界最高峰のヒマラヤ山脈、そしてエベレストが見える。
 美しく、壮観だった。
 機長も、副機長も、朝日に浮かび上がるシルエットに見蕩れていた。
 そんなときだった。
「前方に何か!?」
 レーダー技師が突然叫んだ。
「え、なに!?」
 機長が聞き返そうとしたとき、目の前に鳥の大群が現れた。
「よけろ!」
「無理です! 間に合いません!!」
 言い合う時間も無く、機体はその群れの中に突入してしまった。
 フロントカウルに、窓に、そして機体に。
 大した衝撃ではない。
 鳥程度がぶつかったところで、このガラスは割れるような代物でもない。
 しかし。
 どんっ!!
 大きな衝撃が二つ、機体を襲った。
 そして、突如けたたましく鳴り響く警報音と、エンジンの異常を知らせる赤いランプ。
「第四ストール、第五第六エンジン火災発生!」
「何だって!?」
 馬鹿でかい図体のこの機体は、翼の両側に三つづつのエンジンをぶら下げている。
 その右側の翼のエンジン三つ共に異常が発生してしまった。
「第五第六への供給をカット、第四エンジンの再スタート!」
「すでにバルブは閉じました。……第四エンジン、回りません!」
 副機長が叫ぶ。
 操縦室のすべての音は、後ろの客席にも聞こえる。
 貨物機なので、操縦室と客室を遮る物はカーテンしかない。
 そのカーテンをがしっと開いて、一人の女性が乗り込んで来た。
「何があったの!?」
「鳥の群れに突っ込んだ。右側のエンジンが三機とも死んだ!」
「……分かったわ。副機長、私と交代して」
「しかし、ストルガツカヤ大使!」
 黒髪の女性は、有無を言わさずに副機長を引きずり下ろし、自分が座席に座る。
 そして、安全ベルトをがちっと閉めた。
「大使、あなたのやっていることは」
「私は元空軍よ、それにこの機体……昔ミェーチタと呼ばれていた頃の操縦技師よ。多分あなたよりもこの225を知っているわ」
 そう言い捨て、機長に向き直った。
 超大型の六発輸送機の最大の弱点は、片側のエンジンではまともに飛べない。
 更に、エンジンパワーで胴体がひしゃげ、空中分解の可能性もあった。
 それは、いくら改修をしてグラスファイバーだのカーボンだのを使って強化してもだ。
 ボーイング747よりも遥かに巨大なこの機体は、想像以上に脆いのだ。
 チェルヌシカは、計器を一通り見て、即判断する。
「機長、直ちに燃料を投棄。レーダー技師はこの先空港か、もしくは五千メートル以上直線の続く道路を探して」
 機長は指示に従い、電磁バルブを操作する。
「右側の燃料は!?」
 外側二機については、未だ火災発生中の警報が鳴り響いている。
「左のタンク経由で投棄して。左側は全てアイドリングパワーに。右側のエンジンバルブは?」
「すでに閉じました!」
「ハラショ! 後は機体をなるべく水平を保ちつつ、高度を下げて速度を維持、降下速度秒速三から十フィート、細心の注意を」
「了解!」
「大使、近くに空港はありません! ですが、約七十km先に国道があります、約十kmほどまっすぐです!」
「じゃそこに下ろすわ!」
 即断だった。
「ですが、両脇が森で高い木が……!」
 一瞬、操縦席内に静寂が訪れる。
「この際仕方ないわ。構わないからそちらに進路をあわせて。レーダー技師、具体的な位置と方位をを割り出して。……必ず全員で生きて戻りましょう!」
「了解!」
 取り急ぎ、技師は現在の位置と目標との位置を照合し、最適な侵入コースを割り出した。
 現在の速度は秒速で約百メートル、一分あたり六キロメートルも進む。
 七十キロメートルという距離は、わずか約十一分で到達する。
 ただ到達するのではなく、最適な方向からアプローチしなくては、全く意味がない。
 降下する速度と、絶対的な速度に対しても細心の注意を必要とする。
 速度低下を考えると、あまり時間に余裕はなかった。
 そして、やり直しの出来ない、一発勝負。
「進路を一九〇にとってください!」
「山に突っ込むぞ!」
「いえ、大丈夫です!」
 方位一九〇とは、真南から僅かに西に針路をとったぐらいである。
 先ほどまで見蕩れていた霊峰が、恨めしく見えた。
 機体はゆっくりと旋回し、指定された方向へと機体を向けた。
 しばらくそのまま進んだのち、次の指示が飛ぶ。
「次、ゆっくりと三三〇へ」
 そして、今度は逆へと旋回する。
 ゆっくり、ゆっくりと右に傾き、徐々に進路を変えて行く。
「……見えた!」
 まっすぐに延びる国道が、窓の外に見て取れた。
「速度が早すぎるわ! フラップ20パーセント!」
「了解!」
 機長はゆっくりとフラップレバーを操作する。
 すると、機体が急に右に傾き始めた。
「!」
「右側、フラップが作動していません!」
 窓から右舷を監視していた副機長が悲痛な声を上げる。
 機長は、すぐさま修正蛇を切って対応していた。
「行けそう?」
「ああ、僅かに進路がずれるが、何とか頑張ってみよう!」
 チェルヌシカは頷き、前方を見やる。
「フラップ五〇パーセント!」
 がちがちっ!
 機長は更にレバーを押し込む。
 ぐぐっと左側が持ち上がり、それを打ち消すように、更に左へと修正蛇を切る。
 足元ではがちがちっと、ラダーを忙しなく操舵する音。
 フラップの効果で、速度が一気に落ちていく。
 鳴り響いている警報に、更に別の警報が重なる。
「燃料投棄完了、ほぼ底を突きました」
「ハラショ」
 投棄したあとでも、多少の時間はエンジンが回る。
 その時間がどれほどかは分からないが、タイミングはいい。
「ランディングギア!」
 がきっ!
 機長は、パネルの中でもひときわ大きなレバーを一気に下げた。
 機体の下部から機械的な音と振動が伝わってくる。
 前輪はコクピットの真下。
 後輪は、七軸のダブルタイヤが、左右に一セットづつ。
 殆ど胴体と離れないような位置で、固定が完了した。
「ランディングギア、全て正常動作です」
「ハラショ! ここからは私が握るわ」
 チェルヌシカが操縦桿を握り、機長が手を離した。
 そしてエンジンのスロットルに手を置き、左舷のエンジンのみを細かく操作する。
 速度は速すぎても遅すぎてもダメ。
 その丁度いい速度を探りつつ、この巨体を操る。
 ゆっくり、ゆっくりと道路が近づいてくる。
 また新たな警報音。
 燃料がもう完全に底をついたというものだった。
 この警報が鳴ったら、エンジンはあと一〜二分で停止する。
 目の前の道路は、土地柄車なんて全く走っていない。
 ほぼまっすぐに、その道路に機体は向いていた。
 足元のラダーペダルを踏んで機体の向きを細かく修正し、操縦桿で細かく機体の傾きを調整する。
 そして、機体は道路の真上に到達した。
 高度は、約三〇メートルほどだ。
 最適な侵入速度とコースだった。
 フラップを全開にし、操縦桿を更に左に切り、エンジンの出力を最低―――アイドリングに落とす。
 そして、アイドリングレベルの更に下に引き下げられるように、安全スイッチを倒す。
 高度約二五メートル。
 速度、僅かに超過。
 機首を上げ、僅かに高度が上昇。
 高度、約三〇メートル。
 速度が落ち、機種が持ち上がった状態でストール、高度が落ちていく。
 的確な機首上角度を維持しながら、スロットルレバーを細かく刻む。
「高度、ドヴァーツァチ(20)、ピエトナーツァチ(15)、ジェーシェチ(10)、ピャーチ(5)、トリー(3)、アジーン(1)、ノーリッ(0)!」
 どんっ!!
 鋭い衝撃が、下腹部を突き上げるように襲ってきた。
 道路に対し、機種が僅かに右を向いている。
 予定通り。
 ラダーで修正しつつ、エンジンの出力レバー、スロットルを限界まで引っ張ると同時に、ラダーを思いっきり踏み込む。
 エンジンのカウルが開き、轟音をまき散らす。
 逆噴射開始と同時に、クルー全員が前方に投げ出される衝撃を受ける。
 それで左向きに強烈に力がかかり、機体が道路を一旦真っ正面に捉え、行き過ぎて逸れ始める。
 逆噴射を開始したエンジンは、左側の三つ。
 右側は、完全に停止していた。
「とまれぇぇぇぇっ!!」
 ラダーをさらに踏み込み、強引に右へと進路を変える。
 長いと思っていた10kmは、すぐに端が見えて来ていた。
 タイヤの摩擦ブレーキも併用させ、速度を落とすが間に合うか!?
 この巨体で重い機体を止めるには、六つのエンジンの強力な逆噴射が必要なのだ。
 左側の三つだけでは、パワーが足りないうえに、進路が大きく傾く。
 負担をかけすぎたタイヤがバーストし、ホイールを道路のアスファルトに叩きつけて火花を散らす。
 ぎぎーっという嫌な音と、真っ赤な火花。
 がきっ!!
 鈍い衝撃と乾いた金属音が響き、一瞬の浮遊感。
「っ!」
 ずんっ!!
 そして突き上げる衝撃。
 前輪脚が折れたか。
 路面が悪すぎだ。
 この機体は、ある程度の不整地でも降りられる作りの筈だったが、その想定を上回ったか。
 胴体をこする、嫌な金属音。
 火花をまき散らしながら、巨体が道路を滑っていく。
 翼には、森の木々が何度も何度も衝突し、悲鳴を上げていた。
 止まらない。
 逆噴射が弱いだけで、これほどにも着陸距離が伸びるのか。
 また、足元に衝撃が走る。
 タイヤがまた一つ失われたのか。
 そんなことはもうどうでもいい。
 計器を見る。
 燃料系は完全にマイナス。
 エンジンの計器は、もうどれ一つとしてエンジンが回っていないことを示していた。
 止まらないはずだ。
 逆噴射が効いたのは、ほんの最初だけだった。
 もう、このままこの鉄の固まりは滑っていくしかない。
 エンジンが回らなければ油圧が上がらない。
 油圧が上がらなければ、ブレーキも利くわけが無い。
 道路の先にあるカーブが見えてきた。
 機体の滑っていく速度は徐々に遅くなる。
 どんっ!!
 また一本、木がぶつかった。
 ぎぎぎっ!!
 と、機体の何処かで嫌な軋み音が上がった。
 これまでのどれよりも大きい!
「うわっ!!」
「っ!!」
 そして、唐突に右に突き飛ばされるような衝撃。
 左翼が木に引っかかったようだ。
 それを中心に、機体は一気に左に曲がる。
 目の前には広大な森。
 太く、頑丈な木々が唐突に、そして確実に迫ってきた!


「リキー!!」
 理樹たちが授業を終えるなり、クドが廊下を走ってきた。
 彼の前に走りより、膝に手をついて深呼吸する。
「はぁ、はぁ、はぁ〜っ」
 周りには、いつものメンバーが揃っている。
「能美、どうした?」
「あ、はい、えっと、これからイルクーツクに行ってみようと思います!」
「これからって、今からなのか?」
 謙吾は、眉をつり上げる。
 あまりにも突然だったので、面食らった様子だった。
「は、はい。ロシアの大使の人がチケットを取ってくれました。今こちらに向かっているそうです」
「でも……、危険じゃないの?」
「大丈夫です、小毬さん」
 クドの瞳は、決意の色に染まっている。
 誰が反対しても、聞かないだろう。
 片意地ではない。
 何かを確信しているからこその決意なのだと、理樹は分かっていた。
「……お母さんは絶対に大丈夫です!」
 と、強く声に出した。
 それは自分にも言い聞かせるように。

 夕方。
 黒いリムジンが通用口の前に止まっている。
 そこに勢ぞろいするリトルバスターズの面々。
 その前に用意された椅子。
 理樹とクドが、その椅子に座っていた。
「リキ、……えっと、死して屍拾うものなし、です」
 恭介が、顔を顰めた。
「それは……」
「うん、クド、死して屍拾うものなし、だよ」
「……はい、必ず」
 椅子を立ち上がるクド。
 理樹も一緒に立ち上がり、クドを抱き締めた。
 ぽんぽんっと背中を軽く叩き、体を離す。
「行ってくるのです!」
 と、クドは大きな声で、そして笑顔で挨拶した。
「うん、行ってらっしゃい!」
 だから、理樹もそれに答えた。

 リムジンが出発する。
 後部座席の窓、クドがじっと理樹に笑顔を向けていた。
 だから、理樹も笑顔をずっと絶やさずにいた。
 やがて、リムジンは見えなくなった。
 ぽんっと、理樹の肩に手が置かれた。
 それは恭介の手だった。
「理樹、さっきのは……」
「うん、ロシアでは、出発の時はそうならない様にって祈るんだって。だから、死して屍拾うものなし、なんだ」
「……そうか、成る程な」
 どこか優しげな笑顔の恭介に、理樹は自然な笑みを返す。
「俺達は、能美の母親の、そして能美自身の無事を祈ることぐらいしか出来ないが、……まあ、精一杯祈らせてもらうさ」
 と、不敵に微笑んだ。
「クド公がいつ戻ってきても言い様にさ、私たちはいつもの通りに、ネ」
 と、三枝葉留佳は微笑んだ。
「そうだな、はるかの言うとおりだ」
 棗鈴もまた、深く頷いた。
 理樹は振り返る。
 そこには、笑顔のみんながいた。
 だから思える。
 この日常は、絶対に、何者にも壊されることがないことを。


 金曜日、未明。
 クドは、イルクーツクの空港に到着した。
 日本時間では、すでに日が昇っているような時刻。
 こちらの時間は、まだ深夜だった。
 吐く息が白い。
 着の身着のままだったので、制服の上にマントを三枚重ねているだけだった。
 関係者の寒いかとの問いかけに、そうですね、とだけ答える。
 空港には、すでに現場近くに行くためのヘリが用意されていた。
 超大型のヘリだった。
 機体は徹底的に改造されている。
 真っ白にリペイントされ、側面には大きな赤い十字架が描かれていた。
「実に丁度いいときに来てくれた。先ほど墜落現場の詳細な場所を突き止めることが叶った」
「墜落……っ!」
 クドは、顔をこわばらせる。
「連絡をくれたのは、アナトーリ=ストルガツキーさん、君の父親だ。おそらく生存者が他にもいるはずだ」
 父親が無事と聞いて、少しだけ顔をほころばせたが、まだ母の安否が解らない。
 再び不安の色が、顔に現れてしまった。
 クドと案内役は、すぐに機内に入る。
 すでに何人もスタンバイしていて、いろいろと打ち合わせをしていた。
 簡易的な椅子が側面に在り、そこに座ってベルトで身体を固定させる。
 この部屋の奥にはベッドルーム、そして更に奥には手術室とかかれている部屋だった。
 一種のドクターヘリだが、規模が違う。
 さながら、これは空飛ぶ病院だった。
 クドと案内役が乗り込むと、すぐにゲートが閉じられ、ぐっと身体に力がかかった。
 離陸したのだ。
 ここまで来たときの飛行機の加速度の比ではないが、こちらは力のかかり方が斜め下だ。
 微妙に気持ち悪さを覚える。
 力の向きはじわりと後ろ向きに変わり、エンジン音も変わる。
 足元へと抜ける加速度は変わらないが、前進をし始めたことは、窓から微かに見える空港のサーチライトの灯火で分かった。
 それも見えなくなると、窓の外は真っ黒だった。
 一抹の不安を覚える。
 でもその不安を首を振って断ち切り、何も見えない窓の外を、眺めるのだった。


 夜が明ける。
 ヘリはまっすぐに伸びる国道沿いに飛んでいた。
「あれだ!!」
 その声に、クドははっとなる。
 眠っていたようだった。
「ストルガツキーさん、窓の外を!」
「……っ!!」
 思わず、悲鳴が出そうになった。
 国道のアスファルトには、くっきりと機体をこすり付けた傷が痛々しく残り。
 その先に、バラバラになった機体の破片が飛び散り。
 翼が折れ、横倒しになって森に突っ込み、半ばで半分に折れている巨体が鎮座していた。
 ひどいありさまだった。
「火災は起きていない! まだ生存しているかもしれないぞ!!」
 誰かが叫んだ。
 翼の破片で国道が寸断されているのは好都合だった。
 道路はすでに渋滞しているが、丁度ヘリを下ろせるスペースがある。
 ある程度の場所ならば強引にでも下ろすが。
 巨体はゆっくりと開いているスペースに着陸し、ゲートが開かれた。
 同時にレスキューが飛び出していき、目の前の巨体を目指して駆けていった。
 クドもベルトを外し、ヘリの外に下りる。
 ローターが巻き上げる突風にマントがなびき、蹌踉めいてたたらを踏む。
 クドは、現場には来れたが出来ることがない。
 でも手をこまねいて見ているつもりも無い。
 レスキューは機体の裂け目から中に入っていく。
 バラバラになりながら横たわる、巨大な匣。
 それはまさに、この機体の名前そのものの姿だった。
 Гиганта гроб―――ギガンタ・グローブ、巨人の棺。
 誰が、なぜこんな名前をつけたのか。
 今は、そんなことはいい。
 クドも、その棺に向かって走り出した。

 機内では、レスキューの人たちがバーナーで扉を焼ききろうとしていた。
 この先は客室。
 圧力を閉じ込めるため、この扉はとても分厚い。
 しかも、機体が横倒しになってしまったため、重量か何かで歪み、開閉が出来なくなってしまっていたのだ。
「君は下がっていて!」
 分厚い扉の蝶番もまた、とても頑丈なもので出来ている。
 ゆっくりと、その蝶番が切断され、扉が傾く。
「っ! 皆よけろ!!」
 申し訳程度につながっていた蝶番が、扉の自重に耐えきれなくなり、切れた。
 扉は隔壁を滑るようにして転がり落ち、ド派手な音を立てて機体の底に穴を開けた。
 レスキューたちはその開けられた入り口から、中へと次々と侵入していく。
 クドも、一番最後に客室に入った。
 中は、いろんな物が散乱していたが、目立った損傷はない。
 異様なほど頑丈にできていたお蔭だった。
 足元に転がる荷物。
「っ!」
 見覚えのある、髪飾り。
 母親が着けていたものだった。
 コクピットの方で、何やら騒がしい。
「!」
 クドは、髪飾りを拾い上げ、マントをなびかせて走る。
 と、そこからレスキューが誰かを肩車して出てきた。
 あちこち傷だらけで血まみれだった。
 それでも、自分の脚でしっかりと歩いている。
 入れ違いに、クドはコクピットに飛び込んだ。
 そこは、ガラスの破片とあらゆる機材の部品の破片と、そして血液の飛沫が散乱していた。
 レスキューたちは、コ・パイロットの席、シートベルトに縛り付けられていた小柄な女性を下ろしているところだった。
 その女性の目線が、クドを捉える。
「……く……クーニャ?」
「おかあさんっ!?」
 駆け寄ろうとするが、何かに脚をひっかけて転びそうになる。
 それを別のレスキューが腕をつかんで助けていた。
「……全員無事よ、皆あちこち怪我をしているけどね……」
 足の着くところに下ろされた母親は、ゆっくりとクドに歩み寄り、しっかりと抱き寄せた。
「こんなところまで、良く来たわね。でも、あまり感心しないわ」
「だ、だって、おかあさん……っ、わああああああんっ!!」
 それ以上は言葉にならなかった。
 母親は、なきじゃぐる娘をなだめながら、機外へと連れ出した。

 ヘリに同乗していた医師の治療―――身体のあちこちにガラスで怪我を負っていた―――を受けながら、事のいきさつをクドに語って聞かせる。
 巡航飛行中、鳥の群れに突入してしまったこと。
 それによって右のエンジンを三つとも破壊されたこと。
 直ちに緊急着陸を判断したが、しかし近くに空港はない。
 ゆえに、この道路を探し出し、不時着を試みた。
 しかし、左の翼が木に引っかかり、森に突入してしまったのだ。


 遠心力に負け、左の翼が根元から折れ飛ぶ。
 それと同時に、右の翼が道路に叩きつけられ、根元からひしゃげた。
 そのままの勢いで森へと突入するギガンタ・グローブ。
「っ!?」
 沢山の木々にぶつかり、コクピットのガラスが粉々に砕け飛ぶ。
 巨体の両の翼はへし折られ、胴体は曲がり、それでも更に奥へ通し進む。
 胴体が大きく右に傾いたところで、ようやくその巨体は動きを止めた。
 コクピットの中を支配しているのは、静寂だった。
 あれほどけたたましく鳴り響いていた警報音は全て止まっていた。
「……ぅっ!」
 痛みで気を取り戻したか、レーダー技師がゆっくりと覚醒する。
 一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。
 床が、景色が、何もかもが大きく斜めになっている。
 斜めになっているところを見上げると、操縦桿を握ったままの二人を確認することが出来た。
「ストルガツカヤ大使! 機長!」
 大きな声で呼びかける。
「……ぁ……」
 うっすらと目を開け、事の状況を把握しようとする。
「……」
 すべての警報が切れていることにまず気がつき、チェルヌシカは右手を天上に延ばし、上部パネルを操作する。
 次に、いろんな場所のスイッチを操作するが、何のリアクションもなかった。
 メイン電源は、入ったまま。
 電圧計を見る。
 0V。
 電流計を見る。
 0A。
 完全に電気系統が落ちているようだった。
「む……無線機を予備電源に切り替えて……、適当な航空管制をコールしてみて」
 自分たちが取り合えず無事だということを喜ぶ前に、彼女はもう次なる行動をとる。
 いつでも冷静に、そして確実に、適切な処理をしなくてはならない。
 そうでなければ、宇宙飛行士なんてなることは出来ない。
 そして、こうでなかったら、あの事故で生き残ることは出来なかった。
「りょ、了解です」
 レーダー技師は無線機の電源を入れ直す。
 かちかちっと、スイッチを何度も何度も操作する。
 その様子だけで、チェルヌシカは状況を悟った。
「無線機もダメか。……何とかして助けを呼ばないと……。くぅっ!!」
 彼女の顔が、痛みに歪んだ。
 左の腕を、何処かに強打していたようだ。
 思うように動かない。
 痛みを伴う左肩を目で確認し、そのまま機長の方にも視線を巡らす。
 だらりと腕をぶら下げていた。
 胸は、規則正しく上下している。
 気を失っているだけだった。
 ひとまずは安心した。
「あなた、動ける?」
 ごそごそと身じろぎをするレーダー技師だったが。
「足に何か挟まって、無理のようです……」
「おいっ、皆無事か!?」
 コクピットに入ってくる、壮年の男。
「……無事よ! 無傷とは言わないけど。あなたは?」
「ああ、何とか無事だ。それよりもお前は?」
「私も大丈夫、かすり傷よ。……ただ、ベルトの固定が壊れて脱出が出来ないわ」
 この場は、嘘を言っておく。
 おそらく打撲程度のものだろうが、それでも痛みで左肩を動かせない。
 その状況では、ベルトを固定している金具が握れなく、外せない。
 それに、彼に慌てられても、今の状況は好転しない。
 でも、この夫もまた、いつでも冷静な人だった。
 チェルヌシカの嘘を、多分見抜いている。
「分かった。……とりあえず何かを探してみる。それまで辛抱してくれ」
 夫は踵を返し、客室の荷物を手当たり次第にひっくり返し、使えそうな物を探す。
 しかし、見つかったもので役に立ちそうな物はタオルや着替えなどの布類ぐらいで、固い布製のベルトを切ることが出来そうな道具は見つからなかった。
 後は、ロープぐらいだった。
 もしかしたら、荷物室に何かあるかもしれない。
 そう考えて、客室最後尾の扉に駆け寄った。
 しかし、機体が地面に叩きつけられたときにひしゃげたか、扉は全く開こうとはしなかった。
 そちらは早々に諦める。
 コクピットに戻り、状況を妻に知らせる。
「……解ったわ。思った以上に機体の損傷が激しいようね。電気系統は全滅、携帯も圏外よ。助けを呼ぶには徒歩しかないわ」
「徒歩?」
 こくっと頷く。
「しかし、客室の扉はどれもひしゃげて開かない」
 チェルヌシカはこの状況でも冷静に考える。
 前方、窓枠だけが残る窓。
「窓。……あの窓から何とか出られない?」
「窓……、そうか、ロープがあった」
 一旦客室に戻り、ロープをつかんで取り急ぎ戻る。
 それをチェルヌシカの座る席の操縦桿に結びつける。
 ぐっと引っ張ると、操縦桿が少しだけ動いた。
 計器をよじ登り、窓枠に到達する。
 ロープを外に投げ、外への道を確保した。
「チェルヌシカ、必ず戻る」
「うん、まってるわ、アナトーリ」
 頷きあい、夫は窓枠から外へと脱出した。
 助けを呼ぶために。

 道路に散乱する、巨大な破片。
 左の翼がそのまま道路に横たわっていて、国道を完全に塞ぐ形となっていた。
 そこに、一台の車が立ち往生していた。
 夫が近づくと、窓から彼と同じぐらいの年の男が顔を出した。
「一体これは……?」
「悪いが、近くの街まで乗せてってはくれまいか?」
 運転手は、状況を把握できていないが、ここで何かがあったことだけは理解できた。
「……解った。助手席に乗ってくれ」
「助かる」
 そして、街に到達するとすぐに警察を通じてロシアの航空管制に状況を報告したのだった。


 ドクターヘリの周りには沢山の警察車両と、事故処理の車が押し寄せていた。
 そして、いつのまにかマスコミの姿もあった。
 その中の一人、女性記者がクド達の所まで歩いてきた。
 黒髪で、どうやら日本人のようだった。
 流暢なロシア語で話しかけてくる。
 クドが、そのインタビューに答える。
「……今のお気持ちをお聞かせください」
 マイクは、クドに向けられた。
 クドは、母親の胸に飛び込み、ぐりぐりっと頭を回す。
「わふーっ!」
「クーニャ、こら何するのよ!?」
「お母さん、大好きですっ!! それから……」
 と、カメラに向かって、日本語で笑って答えていた。



エピローグ

 金曜日、夕刻。
 あの事故は、トップニュースで紹介された。
 理樹を始め、バスターズの全員が食堂に集合している。
 佳奈多も、彼らに混ざってテレビを注視していた。

『テヴア機墜落事故の最新ニュースです。先日イルクーツク近郊において消息を断ちましたテヴア機ですが、このほど墜落現場におきまして乗員全員の無事が確認されました。中継がつながっています』
 場面が変わる。
「うわ……っ」
 現場の上空からの映像だった。
 ぐしゃぐしゃになった機体、あちらこちらに散乱する機体の欠片。
 折れた翼が道路を寸断し、その周りに沢山の赤い光が回っている。
『はい、こちら墜落現場です。……ご覧いただけますでしょうか!? 飛行機がバラバラになって散乱しています! ……これは酷い……でもこの状況でも乗組員は全員が無事だったのです! これは奇跡としか言いようがありません! 地上の様子はどうですか!?』
 また、ぱっと画面が変わる。
 一人の特派員が映し出された。
 何事かを話して、ドクターヘリの側にいた二人に話しかけた。
「……クド? クドだ!」
 理樹が叫び、皆テレビにくぎ付けとなる。
 バスターズのメンバーだけではない。
 クドリャフカという少女は、この学校ではみんなが知っている有名人。
 ちょっとしたマスコットみたいな存在で、今では大人気な女の子だった。
 特派員がロシア語で話しかけ、クドがロシア語で答える。
 とても、外国人っぽかった。
 特派員が日本語で通訳しているが、この二人が日本語が流暢に話せると知ったら笑える。
「では、今のお気持ちを聞いてみたいと思います」
 そう言って、ロシア語でクド達に尋ねた。
 と、クドは何を思ったのか、いつもの口癖をいいながら、母親に抱きついた。
『わふーっ!』
『クーニャ、シトー・ヴィ・ジェーラィエチェ!?』
『お母さん、大好きですっ!! それから……、リキも大好きなのですーっ!!』
「ぶふっ!?」
 ずどがしゃーんっ!!
 テレビを見ていた理樹は思わず吹きだした。
 バスターズ、総ズッコケ。
 テレビを見ていたその他大勢も、手を滑らしたり足を滑らせたりして、とんでもないことになってしまった。
「く、くくくくクドっ!! よりによって……っ!!」
 理樹は携帯を取りだし、ダイヤルする。
『に、日本語話せるのですかストルガツキーさん?』
「はい、話せますよ」
 とクドは笑顔で答えていたりする。
 呼び出し音が耳元でなり始める。
 と同時に、テレビの向こうから、聞き覚えのある音楽が。
「なぜに暴れん坊将軍!?」
 理樹がテレビに向かってツッコミを入れる。
 しかも、かなり強烈に。
『あ、電話です、ごめんなさい』
 取り繕う特派員の後ろで、クドは携帯電話に耳をあてた。
「クド、……あなた何ちゅーことを言うの?」
 電話への第一声は、そんな少しお間抜けなものだった。

「あ、リキ? ハローです。声、聞きたかったですよー、えへへ」
 と、屈託のない笑顔で答える。
『聞きたかったよじゃなくて、テレビでなんて爆弾発言を……』
「……はい?」
 クドは、顔にはてなマークを浮かべる。
 カメラは丁度現場を写していた。
 マイクを口から遠ざけていたので、今は録音していないものだと、そう考えた。
 思いきって、特派員に尋ねてみる。
「あの、すみません」
「はい、何でしょうか?」
「これ、録画ですよね?」
「いいえ、衛星“生”中継ですよ?」
“生”に、何故か強烈なアクセントが付いた。
 それを聞いて、クドは一瞬きょとんとしていたが、状況を把握すると瞬時にゆでだこになった。
「……がーんっ!? ぶ、ぶらっくほわいとを全国のお茶の間に放映してしまいましたぁ〜!?」
『いやいやいや、……もう世界レベルだよ……。』
「わ、わふーっ!!」



 亜麻色の、少しだけカールした毛先。
 柔らかい生地のマントをなびかせ、ぶかぶかの帽子を揺らしながら。
 彼女は、学校の門へと近づく。
「あ!」
 嬉しそうに、声を出してしまう。
 そこに待つのは、リトルバスターズの面々。
 そして、大好きな男の子。
「理樹」
「うん」
 恭介の声に、理樹は巻き物の端を持って走る。
 応援幕のようなそれには、こう書かれていた。
「お帰り クドリャフカ!」
 でも、まだ巻き物には続きがある。
「理樹、走れ!」
「う、うん?」
 言われたまま、理樹は走る。
「お前等もう全校公認だぜ!」
 と、恭介はそこに書かれた文字を高々と読み叫んでいた。
 理樹は、そのままの勢いでずっこけた。
「って、なんて事書いてるんだよ恭介!」
「わ、わふーっ!?」
 ぼて。
 走った勢いで理樹の胸に飛び込もうとしていたクドが、その衝撃の真実に脚を滑らせ、その場に突っ伏した。
 気持ちは分かるけど、と理樹。
 理樹は起き上がって彼女の元に歩み寄り、転んだ拍子に転がった帽子を拾い上げる。
 そして、クドに手を差し伸べた。
「あ……、わふー……っ」
 その手を取り、クドは立ち上がる。
 理樹は、クドの手をそのまま引っ張り、その小さな身体を自分の中に納めた。
「わふっ!?」
 しっかりと抱き締め、耳元で。
「お帰り、クド」
「……ただいまなのです、リキ!!」

 愛しい人の手を取り合い、二人は皆のいる校門へと歩いていく。
 これから、一体どんな楽しいことが待っているのか。
 これから、一体どんな騒がしいことが待っているのか。
 歩きながら、お互いの顔を覗きあう。
 自然とこぼれる笑顔。
 どんなことでも、二人一緒なら。
 そして、バスターズの皆となら。
 一体どんな楽しいことが待っているのか、とても、とても楽みだった。



 ―――初恋は実らない。
 それは、一体誰の言葉だったのでしょうか。
 漫画や小説で、ごく当たり前のように言われる一般論。
 でも、それは違うと、私はそう思います。
 それは多分、そうならないことを祈っての言葉ではと、そう思います。
 だって私は今、初恋の人……、大好きな人と手を取り合って歩いています。
 そして、この手をいつまでも離すことなく、ずっと歩いていきたいと、そう願います。


―――Конец、おわり―――



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