§5 相対と 契約と 異臭と腐敗。鉄と血と嘔吐と涙が混じりあい、世界はとても辛い悲しみに覆われていました。スラブ三原色の国旗は地に落ち、ロシアの純潔と名誉、高貴と率直、愛と勇気は泥に浸かっています。テヴアの人々の怒りはこれほどのものだったのだと、私はひどく打ちのめされた気分で敷地内を進みました。 落ちた薬莢。刻まれた血痕。おびただしい死の臭い。 公邸までの道程で、いくつものバリケードが私の進路を阻みます。近くの植林を横倒しにした簡単なものから、先端の尖った鉄線条を張り巡らしたもの。半ば打ち崩されたそれをよじ登り、時には遠回りをして、私は、かつて私が匿われていた大使公邸の玄関を視界いっぱいに捉えました。 私を釘付けにしたのは周囲を走り回る何人もの人達。バケツを抱えた人、血に染まった布地、包帯をまとめている人。クローカさんが教えてくださったボランティアスタッフの人達なのでしょう。私が近付いて行くと、号令を掛けていた大柄な女性が振り返りました。 「なんだい、アンタは?」 それは―――日本語です。 白人とわかる容姿の彼女が発した第一声が、私に日本語として認識された意義は、とても大きなものでした。英語やロシア語だったらどうしようという一抹の不安が、ゆっくりと解け落ちます。 大使公邸を見回す限り、私の知っている方は見当たりません。バレないのなら、素性を公にする事は控えた方がよいでしょうと、私は言葉を選びます。 「以前ここでお世話になった者です。……あのっ、お手伝いをさせてください。何かお役に立ちたいんです。出来ることなら何でもします」 はじめは胡散臭そうに私を睨んでいましたが、「ふん」と息を吐くと、籠に積まれた大量の包帯を指し示しました。それらはみな、血と膿でどす黒く染まっています。 「猫の手も借りたいくらいだからね。アンタみたいな子でも手伝ってくれると助かるよ。裏手が海になっているから、そこでこれを全部洗ってきて。次の手術まで時間があまりないから30分以内に終わらせて30分で乾かす。なるべく綺麗に、破かないように」 「海で……ですか」 「水が貴重なことくらい貴女もわかっているでしょ。洗濯に回せるような水はここにはないよ。せめて煮沸くらいはしたいけれど、時間がない。包帯は新品を使いたいけれど、替えがもうほとんどない。なら、ある物で何とかするしかない。……違うかい?」 「あの、でも水道は? 日本大使―――私の知っている場所ではちゃんと水が出ました」 彼女は私の格好をまじまじと眺め、それから自虐気味に笑います。 くたびれたシャツとパンツの彼女。小綺麗にした私。 ぎゃっぷは歴然としていました。 「アンタがどこの良家のモノ好きなお嬢様か知らないけど、ここはテヴアの嫌われ者の巣窟だよ。水道の供給の優先順位からすれば最下位だろうねぇ。誰だって好き好んでこんな所に水なんて寄越しゃしないのさ。ただでさえ、この国は水が少ないんだ」 珊瑚の屍骸や、鳥の糞、運ばれた種子、そして枯れた植物の堆積の果てに築かれた土地故に、海抜は低く、河もなく、飲料として飲める水はテヴアには非常に少ないのです。輸入に頼っていたそれも、国連軍の封鎖によって値上がりが起こり、需要はうなぎ上り。飲料水は品切れのところが多く、私のぽしぇっとに入っているぺっとぼとるも、そういう意味では非常に価値のあるものです。 彼女は淡々と事実だけを述べているのに、こうも強烈に説得力を持つのは、後ろに見え隠れする倒れた人達と、苦痛に呻く声。そして、場違いな格好で来てしまった事への、私自身の後ろめたさのせいでしょう。 「せめて無政府状態が何とかなれば、こんな事は終わるはずなんだろうけれど……。愚痴を言っても仕方ないね。まぁ、よろしく頼むよ」 汚れた包帯に触れるのは抵抗がありましたが、それも一瞬。「わかりました」とだけ肯いて、一抱えもある籠を落さないように私はばらんすを取りなが小走りに海へ向かいます。 「先に何人か行っているから、わからないことがあれば教えてもらいな!」 「はいっ、がんばります」 裏門を抜けると、確かに目の前は海でした。公道を横切り、周囲の露骨な視線をなるべく意識しないように走り抜けると、砂浜で固まっていたボランティアと思しき人達に声を掛けました。一人は銃を携えて周囲を警戒しています。 彼はこちらを見て初めは警戒していましたが、私が白人の外見をしていて、尚且つ包帯の籠を抱え、しかも途中で勢いよく蹴躓いてゴロゴロと転がったものですから、目を丸くした後で笑っていました。 「子犬みたいなやつだなぁ。なんだい一体?」 「わふぅ……えぇと、お手伝いに来ました」 目を回してもう一度私が頭から砂浜に倒れるところを、片手で抱えて彼は起き上がらせてくれます。 「引っ掻き回さないのであれば歓迎だよ。取りあえず俺からあまり離れさえしなければいいから。適当にやってくれ」 「それでは、適当にやらせていただきますっ」 そこからは見よう見まねでした。既に作業していた女性二人に挨拶を交わすと、私は海水に膝まで浸かります。 包帯を海水につけると、吸っていた血が広がり、軽く擦ると膿が、丁寧に洗うと垢が海に広がって延びていくのがわかります。指先をヌメるそれらに不快感を覚えましたが、そういった感情を抑圧して、『浸ける』、『揉む』、『絞る』をわんさいくるとして繰り返す内に、黒かった包帯も徐々にではありますが、大分マシになっていました。 でもそれは、所詮使い古した包帯です。ちょっと強く擦っただけで繊維がぷつぷつと切れてしまう様を視て、私は目を覆いました。 何とかならないでしょうかと思案に暮れたのは数秒。ふと気付いて、下北さんに巻いてもらった包帯を解くと、私は籠の中にそっと忍ばせます。 仰々しく巻いてはいましたが、打ち身、打撲の部位に貼った湿布を固定していた物がほとんどです。私よりも必要としている人が居るなら、これはそういった人達のために使われるべきでしょう……。 そういったことを考える余裕は、大使館に戻ってすぐに無くなりました。 研究機関から頂いたという工業用のエタノールで注射針の洗浄。点滴の用意。患者の搬送にシーツの交換。何かが終れば、また別の何かが私の仕事として与えられ、三時間も経つ頃には肉体的、精神的にも疲労困憊です。公邸にこもった死臭にもやられて、私は我慢できず、公邸外の茂みで何度か吐瀉をしてしまいました。 「しばらく休んでな」 号令を掛けていたあの大柄な女性が、見かねて私に声を掛けます。 「いえ……大……丈夫……です……」 「青い顔して大丈夫もないだろ。どの道そんな状態じゃあ役に立ちゃしないし、いるだけ邪魔なんだよ。―――ニシっ! この子を離れの待合室に連れてってやんな!」 「あ、わっかりました」 呼ばれたニシという女性は、こんな中でも闊達に返事をして私の傍に駆け寄ります。当の私はというと、口蓋の胃液をツバと一緒に吐き出し、また込み上げそうになる内容物を胃に留めるのに精一杯で、その人に顔を向ける余力すらありません。 「だいじょうぶ?」 「……はい、なんとか」 まだ落ち着いたとはいえませんでしたが、あまり心配を掛けるのもいけないと思い、無理に笑顔を作ると、私は顔をニシさんに向け――― 「………………………………………………………………」 思考が停止しました。 「ん〜? どうかした?」 「……はっ!? ……はふ……ええと、すいません。……あの……その……つかぬ事をお聞きしても……良いでしょうか?」 「はいは〜い、なにかな?」 ごくりと息を呑んで、私は目の前の少女と正対します。 「西園さん―――ですよね?」 小悪魔さんの笑顔を向けるその人は、あまりにも性格にぎゃっぷがありすぎるのですが、どう考えても、そう考えるしかありません。メガネを掛けているとはいえ、外見があまりにも瓜二つです。 けれど、西園さんがテヴアに居るはずがありません。そもそも来れる筈がないのです。 何度否定しても「では、目の前に居るこの人は一体なんなのでしょう」という事実に突き当たってしまい、混乱は募るばかり。 ニシさんはしばらく目をぱちくりとさせると、やがて面白そうに口を吊り上げました。 「へぇ……キミ、美魚を知ってるんだ」 「あの……ひょっとして美魚さんのお姉さんか、妹さんでしょうか?」 「半分正解。でも半分は残念。わたしの名前は西園美鳥。わたしは美魚の姉であり、妹であり、友達であり、他人なの。そしてわたしは美魚自身。わかるかな?」 「……ごめんなさいです。さっぱりわかりません」 「うん、わからなくて当然。……でも、なるほど。キミが“三瀬川の渡し守”なのね。向こうまでのお駄賃は何かしら? 慣習に従えば6文払えばわたしを美魚のところへ連れて行ってくれるのだろうけれど……ああ、でもそれは向こうからの場合だし―――」 「……?」 「初めはどうなるかと思ったのよ。憧憬形象は日本じゃないし、あちら側への経路も―――…………って、キミ。……ひょっとして、わたしの話している意味……わかってない?」 「はい、ちんぷんかんぷんです」 率直な感想を述べると美鳥さんは「あちゃあ」と額に手を押し当てます。 「え? っていうか何で? どうして? だってキミが『此処』を呼び出したんでしょ?」 「呼び……出す?」 要領を得ない私の言葉に、美鳥さんは失望を雑じらせた溜息を吐きました。 「…………もういいわ。ところでキミ、名前は?」 「の、能美クドリャフカといいます」 「じゃあ、能美さん。一ついいかしら? キミはここにずっと居るつもり? それとも日本へ帰る予定があって、一時的にここに滞在しているだけなの?」 「情勢が情勢ですので今後どうなるかはわかりませんが……日本へ戻れるようになったら帰りたいと思います。空港はしばらく使えないそうですし、渡航も無理みたいですから、その間にここで出来ることをしようかと……」 それまでのやり取りで既に不機嫌だった美鳥さんの表情に、遂には嫌悪の二文字が宿ります。 「だから、キミはここでボランティアの真似事をしているのかしら? あなた、そんなことの為に『此処』に来たの? 違うでしょ。キミがやらなきゃならないのはもっと別の重要なこと。忘れているのか、見ないフリをしているだけなのかは知らないけれど……。後者なら、わたし―――」 「ニシっ! 駄弁っている時間はないよっ! 早くその子を連れ行きなさい!」 私たちがいつまでも動かないことに痺れを切らしたのでしょう。気圧す雰囲気を醸していた美鳥さんの顔から、それがすっと立ち消えると、指示を出していた女性の大声に「はーい」という暢気な返事を返して私の肩に手を回しました。 「……話はこれくらいにしましょうか。今、動いても大丈夫?」 先ほどまでの空気はまるで嘘のよう。何事もなかったように、美鳥さんは私に笑顔を向けています。それが恐ろしくて。でも、どこか魅力的で……。 「この方に身体を預けてもいいのでしょうか」と一抹の不安が過ぎりますが、やがて、おずおずとですが、私は美鳥さんに寄りかかりました。 美鳥さんに運ばれる間、痺れた頭と、酔いに呑まれた思考は酩酊していました。触れる美鳥さんの暖かさが心地よくて、疲労は体中を満たしていて、このまま私が闇に落ちれば、夢現のまま、先ほどの話をなかったことに出来たのかもしれません。 でも、それは私がこれからやるべきことを否定する行為のようにしか思えなくて。だから、途切れそうになる意識を強く叱咤して、私は嘔吐感と戦いながら口を開きました。 「……美鳥さん」 「ん?」 「ちゃんと……あります。憶えています。私がここでやらなければいけないこと」 「―――それは何かしら?」 美鳥さんが、私を注視しているのを肌で感じます。 「オーシャンランチコーポレーションの人達を探すことです」 それを聞いて、くすくすと美鳥さんは声を洩らしました。 さも可笑しそうに。なんとも滑稽な出来事を目の当たりにして、笑うしかないという風に。 ひとしきりそうやって肩を揺らした後で、美鳥さんはうっすらと笑みを浮かべます。 「能美さん、わたしの提案―――受けてみませんか?」 ぞっとするほど綺麗な唇で、美鳥さんは甘言を耳元で囁きました。 「な……んで、しょう……?」 「わたしはキミにオーシャンランチコーポレーション職員の居場所を教える。代わりにキミは、わたしをキミが帰るべき場所へ、わたしを連れて行くこと」 その時、何故か私の頭の中で、中世絵画にある『悪魔と人の契約』をモチーフにした絵が鮮明に浮かびました。悪魔の言葉に惑わされた人間の末路と、私の行く末が二重写しにぼやけ、その隅で美鳥さんが甘い果実を持って、私の目の前にそれをそっと置くのです。 伸ばしたい衝動と、危険を知らせる鐘の音に挟まれ、動きを止めた私の手を、美鳥さんの手が優しく包みます。 そして、美鳥さんは艶やかに私の心を誘うのです。 「どうかしら?」 その、笑顔で――― あとがき 本SSのクドシナリオは、設定として西園シナリオ発生以前に起こっている事象として捉えていただけると幸いです。 さて、そろそろ『此処』のテヴアが何であるかというのは、察しの良い方は理解し始めている頃ではないでしょうか。“彼女”には喋らせ過ぎた部分もありますが、この辺りの点と、原作ではメインキャラクターではない登場人物達の共通項目を探せば、今話で自ずと見えてくるかと。 ヒントは今後も散りばめて行きますし、最後にはネタばらしもしますので、まだ「???」と言う方はしばしお待ちを。 しかし、クドの母親との話や事故の原因についても描いていかないといけませんしで、なかなか大変です。ホントに自分の技量で読み手に納得させられるんでしょうか?(ぇ 自分の場合、ラストシーンの絵図が「ぱっ」と浮かんだのを基にして、後付け的に物語を構築していくタイプなんですが、橋渡しするべき中盤の閑話がまだ頭の中で浮かんでないんですよね……(汗 まぁ、何とかなるとは思いますが……今回の投稿形式然り。物語が中途半端に完成していないのも然りで、こんな行き当たりバッタリでやること自体、何か間違っているような気がしないでもないですが、また次回にお会いしましょうorz 専用掲示板にじゃんぷですー |