§4 遭遇と 相対と 「なんですか、これは……」 ロシア大使館の正面玄関前で、ヴァーニャさんとクローカさんに連れてこられた私は、泣きそうな顔でそう呟くしかありませんでした。 ひしゃげた正面玄関の鉄門。 飛散したガラス窓。 建造物の壁は崩れ、放火の形跡がところどころにどす黒い影を残しています。 大使館の中から聞こえてくるのは阿鼻叫喚の悲鳴と、苦痛に呻く人の声。 壁に殴り書きされた英語や、テヴア語の意味は分からなくても、それがここに匿われていた人たちに向けた、憎悪の言葉なのだということは一目瞭然でした。 「なんなんですか! これは!?」 理解したくないと叫ぶ私の気持ちを見透かしたように、冷めた表情でヴァーニャさんは答えます。 「誘拐されるときにアンタは見たはずだろ。ロシア大使館職員と、オーシャンランチコーポレーションのロシア国籍の職員達が襲撃される瞬間を。その結果、彼らは公開処刑の憂き目に遭い、運の良いヤツは重軽傷を負い、逃げ場のない連中はこの荒れ果てたロシア大使館にいるというだけ。ただ、それだけの話なんだよ」 「救助されたんじゃないのですかっ!? 病院に搬送されたんじゃないのですか!?」 「軍はあくまで暴動を鎮圧しただけだ。それ以上もそれ以下のこともしていない。病院についてだが……搬送場所がない」 バッサリと切り落とすクローカさんに、「ありえません」と私は反論します。 「そんなわけないです。だってあったじゃないですか。ここに来る途中に国立病院や、他にも近隣にいくつか―――」 「巻き毛ちゃん、人は理性的に動く生き物じゃないんだよ」 「……どういう、意味ですか」 「彼らが引き起した事故が、どれだけの人を傷つけたと思う? 我が子を殺された親。親を殺された子供。恋人を失った恋人。怪我を負った民間人。そんな連中が病院という場所には沢山いる。そこに“人殺しの張本人”が搬送されて来たら? 彼らはどう思う? どんな衝動に駆られる?」 テヴア本島は被害が少ないといっても“皆無”じゃありません。そして、ロケットの墜落したブーゲルビン島での重傷者のほとんどは、ここの国立病院に移送されているでしょう。大手術を行える環境はテヴアという国では、あそこくらいしかありません。 「…………………………っ……!」 「もし俺が被害者なら、まず間違いなく、ぶん殴るね。ひょっとしたら怒りに任せて殺してしまうかもしれない。そう考えれば病院の連中はまだ寛容さ。少なくとも彼らは殺されることはなく、こうして無事にロシア大使館で生活している。すばらしいことじゃないか」 芝居がかった仕草で両手を広げるヴァーニャさんの目は……笑っていませんでした。 ヴァーニャさんも、この状況に憤りを感じているのは、きっと私と同じなのでしょう。ただ、この現場を目撃した時期が私よりも早かったから、今、こうなってしまった理由を客観的に見えているだけの話なのだと気付いて、私は少しだけ冷静になることが出来ました。 「……クローカさん。中に、お医者さんはいないのですか?」 「ロシア大使館と懇意にしていた医者と、もう一人、定期的に診察に来てくれてはいる。あとは有志による看護士数名と、ボランティアスタッフという構成だが、それでも人手はまだ足りない。それに医療器具、機材、衛生管理は言うに及ばず、物資も不足している。注射器、点滴の針は軽い消毒で使い回し。包帯はその辺の布キレをかき集めて、どうにか首の皮一枚で繋がっているという状況だよ」 耳にする情報に、私は唇を噛みました。 日本大使館で下北さんと過ごしたあの時間が……ひどく遠いです。めまいがするほどに環境が違いすぎて、心の整理をつけるのに何回かの深呼吸を必要としました。 「私に手伝えることはないのでしょうか?」 「おいおい」とヴァーニャさんは呆れ顔です。 「目的を履き違えてるぞ、巻き毛ちゃん。アンタがここに来たのはオーシャンランチの職員を探すこと。そして母親と事故について聞くためだろ?」 「だからといって、何もしないなんて私にはできません。少しでもお役に立てるなら、出来る限りの事はしたいです。お母さんの知り合いを探したり、お話を聞く事は後からでも遅くありません」 処置なしと言いたげに肩をすくめて「勝手にしな」といった彼の顔が笑っているように見えたのは、私の気のせいでしょうか。 「俺らはここらで適当に暇潰ししてるから、用が済んだら声を掛けてくれや。送迎くらいはしてやるよ」 外壁に寄りかかり、皺の寄った煙草をくわえる二人を見て、私は少しだけ意外でした。 てっきり一緒に来てくれるものとばかり思っていたからです。ロシア大使館を拠点にしているような発言もあったことから、ここに滞在、もしくは何らかの仕事についているのだろうとも私は思い込んでいました。だから、彼らが大使館内に入らず、門扉の前で寛いでいるのが不思議で仕方ありません。 私の疑問を察したクローカさんは、手に持った煙草の先端で“答え”を指し示します。 見ると、通行人に紛れて、無数の人間の視線がロシア大使館を囲んでいました。宿した表情は憤怒、悲壮、嘆きに絶望と様々です。 そして、ちらほらとですが好奇心や嘲笑を漂わせた人たちもいました。後でヴァーニャさんから聞かされましたが、事故の張本人たちの惨状を見物に来た『野次馬』ということでした。逢って早々に、私もそういった人たちの一人なのだろうとヴァーニャさんから誤解されたようなのですが、そんな人達がいることに、私はしばらくの間、理解する事ができませんでした。 「ここが今も事故の被害者にとって、敵の潜伏先であることに変わりはない。我々二人は『抑止力』だ。暴力は力で押さえ込むのが一番早い」 「根本的な解決にはならないけどな。昼間なら俺らがいなくても安全かと思ったが……」 投げ捨てた吸殻を靴のつま先で潰すと、ヴァーニャさんはまた一本取り出します。オイルライターのふりんと(火打ち石)の回りの悪さに舌打ちしながらも、その使い込まれた様子から、愛着の品である事は容易に見て取れました。 「まぁ、そういうこった。だから一人で行ってきてくれ。今の巻き毛ちゃんなら通訳は必要としないだろうし、何とかなるだろうよ。……俺の言葉は分かるんだよな?」 ここに来る前のヴァーニャさんの告白が本当であるなら、彼は今もロシア語で話しているということになります。証拠もなしにそれを鵜呑みにすることはできませんが、確かに“此処”が、普通とは違う造りをした世界だという事は、私も身をもって知っています。 だから、私はこくりと頷きました。 「よく憶えておけ。“此処”はそういう場所だ。互いに理解し合おうという気持ちさえあれば、この世界に言葉の壁は存在しない。だから、外国語を話す相手が現われたら、相手、あるいは自分自身に何らかの“拒絶”があると思え。―――巻き毛ちゃん、アンタは常に心を開いていればいい。耳を傾けることさえ忘れなければ、声はきっと届くだろうよ」 「……それが、この世界の仕組みですか?」 「仕組みかどうかは知らん。事実なだけだ」 私がロシア大使館で襲撃される前、オーシャンランチコーポレーションの方たちと話せなかったのも、そのあたりのことが絡んでいるのでしょうか。事故直後の私は、確かに耳を塞いでいましたが、それ以前も私は、テヴアでお母さん以外の人とほとんど話すことが出来ませんでした。 オーシャンランチコーポレーションには片言ながら日本語を話せる人もいましたが、日常的なささやかな会話を、単語の連なりでどうにか理解出来るというだけで、本格的なこみゅにけーしょんをするようなレヴェルではありません。 それは、ヴァーニャさんのいう『言葉の壁』です。 テヴアに来る前から事故が起こることを既に私は知っていて、お母さんがその原因の一人だと知っていたからこそ、私は真実を知ることを恐れて、対話を拒否していたということなのでしょうか……。 正面にはロシア大使館。 私は傾いた門扉を前に、しばらくの間、立ち尽くしてしまいました。 少し……不安になります。 ここにいる人達の言葉を、私は聞くことが出来るのでしょうか。 「アンタなら聞けるさ」 私の気持ちを見透かしたように、ヴァーニャさんは私の胸を指します。 「言ったろ? 覚悟の気持ちを忘れるなって。何があっても逃げようとするな。この機会を逃がしたら、アンタはずっと後悔することになる」 それは、テヴアに向かわなかったあの時。 リキの傍に居ることで、自分の殻に閉じこもったあの瞬間。 私の過ちは決して消えない。 そして……私のお母さんの引き起こしてしまった事故も、決してテヴアから消えることはない。 「ヴァーニャさん……でも、私は恐いんです。全部、お母さんが悪いんじゃないかって……。信じたいのに、信じられなくなりそうで……そんな私がイヤなんです」 「……あのな……巻き毛ちゃん。こういっちゃあ何だが、アンタの親には当然過失の責任が存在する。そして、事故が起こるだろうことを予測していながらスプートニクを飛ばした節もある。アンタの母親が無罪であることは恐らく決してない。それだけは覚悟しておいた方がいい」 「そんな……!」 “your mother” その言葉は、事故の後で多くの方から浴びせられた非難のカケラ。私が聞き取ることの出来た数少ない単語、お母さんに向けられた言葉で良いものなんて一つもありませんでした。 わかっています。 わかっているんです……。 けれど――― 「アンタの母親は、母親じゃなくなるのか?」 「……え?」 「事故を起した重要参考人の列席にアンタの母親がいたとして、それで巻き毛ちゃんと母親との間にあった『もの』が消えるのか? アンタら家族の絆はそんなチャチなモノなのか?」 それは非難……なんでしょうか。 ヴァーニャさんが尋ねたいことの意味を探りながら、私は自然、俯いた状態になっていました。 「……わからないんです。子供の頃からずっと私はおじいさまと一緒に過ごしてばかりでしたから。お母さんはお仕事が忙しすぎて、過ごせた時間は数えるほどしかなくて……。でも、お母さんの武勇伝や、こすもなーとのお仕事で海外を飛び回る噂はたくさん聞いていました。『お前のお母さんは立派な人なんだ』、『あなたのお母さんは凄い人だ』―――って。だから、ずっとお母さんは憧れの存在だったんです。私もお母さんみたいになりたいってずっと思っていたんです。……けど……けど……!」 ポシェットに入っているお母さんのドックタグが、僅かに重くなったような錯覚を私は覚えました。 私は……事故の事で、お母さんに裏切られたと思ってしまったのでしょうか。 間違いを犯さない。失敗をするはずのないお母さん。私の理想で脚色した像が、矛盾を生じて大きく傾いていくことに、私は耐えられないのでしょうか。 ……いいえ なにかが、違うような気がします。 どこかでボタンを掛け違えてしまったときに感じる、あの違和感が私の思考を灰色に染め上げます。そもそも、私は「お母さん」の何を知っていました? 何を見ていました? 瞳に焼き付いた姿は黒髪の女性。時折降り注ぐ優しい微笑。囁くような声。 そう。私が憶えているのはそれだけ――― 私の本当に知っているお母さんは、たったそれだけなのです。温もりも、手料理も、一緒に寝たことも、遊んだことすらない私には、どうしてもそこに明確な『お母さん』の姿がありませんでした。 ないから、想像する。 もっていないから、数少ない話を総合して、不確かな『お母さん』を作り上げるしか私にはできませんでした。粘土細工を少しずつちぎり、私はぱっちわーくのように、情報を、噂を、言葉を綴り……そしてお母さんの心を思い描いたのです。 理想のお母さん。 夢想の理想を――― それは、私の本当のお母さんなんでしょうか…… そして、この世界のお母さんは、私のお母さんなんでしょうか。 「それもまた、アンタの探している答えの一つだろ」 「……ヴァーニャさん。さっきからどうして、私の考えていることが判るのですか。まるで、私の気持ちを覗いているみたいです」 「男はレディの感情を汲み取れて一人前なんだよ。もっとも、巻き毛ちゃんの思考は顔に出るから、おおよその見当は付け易い。それはいいから、さっさと探してきな。―――あんたの母親を」 「見つかる……でしょうか」 「見つけるんだよ」 ヴァーニャさんに挫けそうになる背中を押され、気持ちを押された私は、零れそうになっていた涙を拭いました。そして「大丈夫。大丈夫です」と何に対してかわからない励ましの言葉を呟いて、私は顔を上げます。 「いってきます」 「おうっ、気合入れて行けや」 そうして、私はお二人に見送られながら、『大使館』としての意味も機能も崩壊したロシアの敷居をくぐったのです。 あとがき さあ、本来なら4話の三分の一の分量だったはずの今話。 無駄に長くなる悪い癖が発生しております。 テヴアにおける言語問題を解消する上で、前回から運用が開始された『言語フリー』なギミックですが、一応これ、ウチのブログで来ヶ谷の考察をした時に記述した、携帯電話の不通における部分を応用したネタだったりします。 携帯における通話の可否が、その人の意思によって出来るのなら、幅を広げて言語の違う外国人との会話においても適用が可能なのじゃないかという妄想から生まれた産物です。今後もこのギミックは様々なところで応用展開される予定ですが、まだまだ出てきてない登場人物の方もどうにかしないといけませんね(汗 ああ、終わりは遠いなぁ…… 専用掲示板にじゃんぷですー |