§6 契約と 邂逅と



 西園美鳥さん。
 この方の存在を、どう受け止めるべきなのか。どう捉えるべきなのかを棚に上げたまま、私は美鳥さんから離れないよう、薄暗い階段に足を踏み入れていました。点々と燈る常備灯は朧に揺らめいているとはいえ、先は暗中に埋没して、闇夜の森を彷徨う錯覚を覚えます。ボランティアスタッフの仮眠、兼、休憩所となっていた待合室で、一時間ほど横になっていたとはいえ、この狭くて急な段差は私の体力を容易に削り落とします。
 公邸から外れた別棟のようなここは、美鳥さんが「蓋の開いた棺桶」と形容したように、六角形を歪にした西洋の棺を思い起こさせる建造物。かつて私が匿われた時に、こんな物はなかったと思うですが、ロシア大使館は学校の敷地まるまる一つ分くらい広大な面積を所有しているのです。私が知らなかっただけで他にも多くの建物が散在しているのかもしれません。

 ……それにしても、この階段はいつまで続くのでしょう。

 かれこれ100段―――もしくはそれ以上踏み越えているというのに、終わりはいつまで経っても見えなくて、前を進む美鳥さんの後姿もどこか頼りなく映ります。

「あの、本当にここなのですか?」
「嘘と言ったらキミは帰るのかな?」

 息も切れ切れの私に、美鳥さんは試すような瞳で振り返りました。もう一人の西園さんを思い起こさずにはいられない容姿。笑いを含んだ口元は涼しく、私の知らない西園さんは西園さんが見せた事のない蟲惑的な表情を忍ばせます。

「そんな不安な表情をしなくても大丈夫よ。キミの尋ね人はここの一番上に居るわ。約束を反故にしちゃうようなマネはしないから安心して。ここでキミを騙しても、わたしには何のメリットにもならないもの」
「それならいいのですが……それにしても、何なんですか、この建物は……」

 玄関とはとても呼べない錆鉄の扉
 一本道の細長い廊下
 そして突き当たりの無限に続く螺旋階段

 私が辿ってきた、それらの要素で組み合わされた建造物に求められている用途を思い巡らしても、皆目検討がつきません。
 ただ、一つだけ思い浮かんだのは「閉塞」と言う言葉。負の言葉の羅列が所々で何かと符号する都度、灯に映る壁の影が一層闇を濃くしたような気がしました。それに合わせて美鳥さんも黒へ染まっていきます。髪や服は世界に溶けて、唯一窺い知れたその容貌からも、一切の表情が掻き消えていました。
 
「云ったでしょ、『蓋の開いた棺桶』だって。これでも掘り起こすのに苦労したのよ」
「……なんだか、本当に埋まっていたような言い方です」
「ふふ……たまには張り切ってみるものね。こういう物はそうはないわ」

 嬉しそうな顔に掠めた美鳥さんの眼差しは、朧の先の目的地へと向けられています。
 お逢いしてからまだ小一時間ほどの関係なのですから当然でしょうが、やっぱり私には美鳥さんという人柄は雲を掴むように漠然としていました。
 出会い頭に行われた『交換条件』の話もそうです。日本国籍を持ち、パスポートを所持していると言いながら、私と同伴しなければ日本へ帰れないと言う口述。そして、口を開けば困惑するしかない、比喩とも例えともつかない言葉の羅列―――。
 何故でしょう。
 体格や年齢、性別すら違うというのに、美鳥さんを見ていると、何故かヴァーニャさんの姿が私の脳裏を過ぎるのは。

「美鳥さん……あなたは一体、何なんですか」
「……西園美鳥よ。キミは、さっきから私の事をそう言っている。わたしも、わたしが『西園美鳥』だと認識している。それで何か問題があるの? それともキミが聞きたいのは、それとは別の『何か』なのかしら?」
「うまく……言えません。強いて言うなら、美鳥さんという存在が私には物凄く希薄に感じてしまう時があるんです。今もこうして傍に居るのに、なんだか初めから何処にもいないような……」

 強烈な個性の持ち主であるのに、目を逸らした途端、もう二度と逢えないのではと抱いてしまうこの胸騒ぎは何でしょう。

「ごめんなさい。私、変なコト云ってますね」

 あまりにも直接的で、失礼な物言いは、美鳥さんの気を悪くさせてしまったのではないかと私は頭を下げました。わずかに押し黙ってしまった美鳥さんは、やがて先ほどとは少しだけ違う笑みを浮かべます。

「―――ねぇ、キミはロシア大使館に知り合いが一人も居ないこと……疑問を抱かなかったのかな?」
「わふ?」

 不意に尋ねられた事柄は、私にとっても気懸かりなものでした。
 確かに、私がお手伝いした範囲で通り過ぎる人の顔や、苦しむ患者さん達は私の知らぬものばかり。軽症だったり、動ける人は大使館から逃げ出したのなら、私の知り合いの方たちも、その人達に紛れて逃げ遂せたのでしょうと、単純に結論付けていました。
 そのことを伝えると、美鳥さんは肯きます。

「ええ、そうね。彼らの多くは生き延びた。大使館から逃げ出した。“だから彼らの多くは『此処』にはいない”。でも、残念ながら……」

 美鳥さんはそこで言葉を切り、ゆっくりと壁をなぞりました。

「この建物は……そう―――象徴かしら。苦しんでいった怨念を閉じ込めた禁忌の箱みたいなものよ。ここはそのひとつ。この場所にあるのはテヴアの罪。そして闇。それは秘匿されなければいけないのだろうけれど……そんな物を見つけることが出来てしまうのが、わたしという特異性なのかもしれないわね」

 美鳥さんが立ち止ったのはその直後です。終着点である証として、黒檀の扉が壁にめり込むようにして、私たち二人の前に立ちはだかっていました。
 それはテヴアで自生しているエボニーを加工した物なのでしょう。独特の淡いを仄かに醸し、網目は上から下まで真っ直ぐに伸びています。継ぎ目の跡はどこにもなく、一枚の心材だけで成形されたのだろうと推測できるのですが、私が両腕を広げたとしても扉の幅には恐らく届かないでしょう。

「すごい立派な扉ですね。黒がとても深くて……なんだか吸い込まれそうです」
「気を付けた方がいいわよ。天上の品に手を出した人間が幸福になったという話はあまり聞かないから」

 思わず扉に触れそうになった私の手が止まります。

「エボニーの属名はディオピソス。直訳すると『神様の食べ物』。果実は美味しいらしいけれど中には有毒な物もあるそうね。この樹の果実はどうかしら」

 常設灯の光に反射した美鳥さんの瞳は、紅く輝いていました。さしずめ私は、『蛇』にそそのかされた『イヴ』でしょうか。果実を食べることで、相応の代償を払ったイヴのように、私がこの扉をノブを回すことは、それなりの代償を覚悟しなければいけないということなのでしょう。
 以前の私なら、美鳥さんの忠告に狼狽していたでしょうが……今は違います。

 そんなもの―――鎖から抜け出したあの時から覚悟の上です。

「……この先に、居るのですね」
「勿論、それは保障するわ」

 『それ“は”』というにゅあんすに、美鳥さんに対する懐疑心が芽生えます。ですが、私が尋ねたとしても明確性に欠いた有耶無耶な答えばかりが返ってくる事は予想できたので、尋ねる代わりに、私は途中で止めていた手を、今度こそノブに伸ばしました。
 この暗さで気付きませんでしたがノブも木製です。しっとりとした手触りと、金属にない温かみを確かめるように何度か手を滑らせた後。私はそっとノブを捻り、静かに押し入りました。


 そこにあったのは闇です


 一切の光を遮断した絶対の黒。視界に捉えていたはずの私自身の腕すら目視できません。感覚を遮断されていたら、腕が無くなったといわれても信じてしまいそうになるほど。
 周囲を緞帳に覆われてしまったような錯覚に、私の足元は覚束なくなりますが、ふらふらとしながらも倒れることだけは何とか免れました。そして違和感に気付きます。
 支えとなるはずの、右手に掴んでいたノブがありません。振り返っても、通過した扉はどこかへ呑まれ、手探りに辺りを探してみても跡形もなく消えていました。
 どこにも、なにもありません。
 私だけが一人、何故か真っ暗闇に取り残されていました。

「……………………っ…………ふっ……ぅ…………!」

 根源的な恐怖が私の背中を這い回ります。
 平衡感覚は既に狂っていました。私は転ぶ前にしゃがみ込むと、胸元を力任せに押さえつけます。不安に漏れ出ていた声を咽喉元で堪え、確かな感触の床に唯一の救いのようなものを感じながら、美鳥さんに騙されたのではないかという漠然とした不安が反比例的に私の中に押し寄せました。

「美鳥さん! 居るんですよね!? どこですか!!?」

 返事は―――ありません。
 半狂乱になりながら何度も叫びますが、それらはみな虚しく響くだけ。
 どこか冷静な部分は、音の反響から少なくとも私を中心とした20m四方に壁らしい反射や吸収がないと分析していました。
 いえ、この評価でも私の「こうあって欲しい」という願望を付加した上での点数です。相当甘くなっていると換算すると、多分―――壁と呼べる物は何処にもなくて。どこまでもこの平坦な地平が続いているだけなのだという、確信にも似た諦観が私を満たすのは何故でしょう。
 「そんな馬鹿な」と、床の存在を頼りに慎重に前進するものの、同じところをぐるぐる回っているだけのような徒労を憶え、しばらくして……私は無駄を悟ります。
 やがて訪れた、ぽっかりと空いた言いようのない虚しさに、上とも下ともつかない闇をぼんやりと見つめて、私は呆然とするしか術がありません。

 この喪失感は何でしょう。
 この胸の痛みは何でしょう。

 何かを得られると思った矢先、崖から突き落とされてしまったような呆気なさ。知り合いに似ていたとはいえ、見ず知らずの他人の後をノコノコと信じて着いて来てしまった愚かさ。そういったモノが、ぶちまけたパズルのピースの破片となって私の頭を引っ掻き回します。
 そんな感情が、薄壁の理性を打ち負すのに、然程時間を要しませんでした。
 堪えていた嗚咽がまた込み上げてきます。必死に抑えていた顔はくしゃくしゃに歪んで、行く先も退路も失った私は、迷子の子供のように泣きじゃくりました。
 涙は枯れることなく目頭から溢れ、拭っても、ぬぐっても止まりません。テヴアで遭遇したいろんな苦難の中でも堪え続けた筈の私の気丈さは、八方塞となったこんな状況になって初めて堰を切ったように瓦解しました。
 それがなんだか悔しくて。悲しくて。遂に私は、無条件の優しさを与えてくれる抱擁を求め、気づいた時には嗚咽の合間を縫って、お母さんの名前を呼んでいました。

 抱きしめられた記憶はたったの一度です。
 ようやくものごころつき始めた頃の誕生日。その祝宴に参加する為にお母さんが仕事の都合をつけて、しばらく振りに会いに来たとき私は大層喜びました。その一方で、お母さんに甘えたことのない私は、どう接していいのか戸惑うしかなくて。おじいさまの後ろに隠れて、そっとお母さんを見つめることでしか主張できなかった自分が歯痒かったのを覚えています。

「クーニャ、お母さんにお帰りなさいのキスは?」

 おじいさまの袖をぎゅっと掴み、私はそっぽを向いていました。それを寂しそうに微笑むしかないお母さんに、私は本当の気持ちを伝えることも出来ないまま誕生会を終えてしまったことで、とてもむくれていたんだと思います。
 そのむしゃくしゃした気持ちを周囲の物にぶつけてしまいました。所構わずおもちゃを投げ捨て、それが段々エスカレートして、遂にはストレルカの毛を引っ張る段になると、おじいさまは私を叱り付けました。お説教の後に頬を打たれそうになった私は脱兎の如く逃げ出して、途端―――勢い余って転んでしまい、額をぶつけてわんわんと泣いたのです。
 途方に暮れたおじいさまに替わって、おかあさんが私を抱きしめて「困った子ねぇ」と呟いたあの瞬間。ぶつけた額に優しくキスをして、繰り返し「もう痛くないからね」と宥めてくれたあの安らぎは、私にとっての大切な記憶です。
 私をあやしていたお母さんは、あの時、他に何を言ったでしょう……。

「クーニャ、世界の良き歯車になりなさい」

 ……そう、少しだけ思い出しました。
 歯車の話をされて、私は首を傾げたのです。

「はぐるま?」
「そうよ。世界はたくさんの歯車で回っているの。誰もが誰かの為、何かの為に歯車を回して、次の歯車へと自分の意思を伝えていくの。それはとても大変なことで、重く大きな歯車ほど重要な役割を担っている代わりに、とても大きな責務を背負うことになってしまう」

 私が投げたことで壊れてしまったブリキのおもちゃを手に取りながら、心臓部に近い、一際大きな歯車を取り出して、お母さんは私の掌に載せます。にび色に輝くそれはゴツゴツとした3センチほどの大きさで、これがあのおもちゃを動かしていた動力だと言われても、当時の私は今ひとつピンと来ませんでした。

「例えば……そう。この歯車がお母さんだとすると―――」

 お母さんはつまんだ歯車を元の位置へと収めて、それと噛み合っている二つの歯車を指差します。

「こっちの小さな歯車はコスモナーフトのお母さんの仕事。私の生涯の仕事であり、ロケットを打ち上げ、世界に多くの驚きと感動と技術の躍進を生む、お母さんが日々、回して行かなきゃいけない歯車」

 それからお母さんは少しだけ照れくさそうに苦笑して、もうひとつ隣の、先ほどより大きな歯車を弾きました。

「これはね、クーニャ。あなたなのよ」

 それから工具を取り出して、お医者さんのようにロボットを手術するお母さんは、やがて胸の蓋を閉じて電源をカチリと入れました。動き始めたロボットを驚きと共に迎えた頃にはもう、私は泣きやんでいました。
 そんな私の頭を撫でながら、お母さんは噛んで含むように囁いたのです。

「私もクーニャを回すから。クーニャもお母さんの歯車を回して頂戴。それだけでお母さんは、いろんな重責から……ほんの少しだけ軽くなることが出来るから」

 はっと顔を上げた時、私の涙は止まっていました。
 泣き疲れて眠っていたのでしょう。先ほどの回想のような、夢のような出来事を思い返しながら、自分が落ち着きを取り戻していることを自覚します。
 だからかもしれません。私は周囲の変化に気づきました。
 闇はまだ色濃く残っていましたが、それでもうっすらと視界にある物が確認できるくらいには薄れています。無限と思った空間も、彼方には壁、上空には天蓋があり、二十畳ほどのスペースへと姿を変えています。部屋にあるのはベッド、三脚椅子に医療用の器材を載せたワゴンなど。
 泣き出す前には気づきもしなかった物―――いえ、ありもしなかった物が、どこからともなく出現したかのよう。そうとでも考えなければ、あれほど動き回った時に、私が何にもぶつからなかった方が異常なのです。硬質な感触だった床も、いつの間にか簡易ながらフロアマットのそれになっていました。

「……そこにいるのは……誰ですか?」

 突然ベッドから、か細い声が聞こえて、困惑の淵にいた私は顔を上げます。
 男性―――それもどこかで聞いた声でした。
 でも……何かが違う。
 腰を上げると、私は声のした方へとゆっくりと歩み寄ります。距離が詰まる静かな緊張の間、私の中で“しこり”となっていた違和感の正体を探ろうと必死に記憶を巡らせていました。
 やがて、男性の顔が判別出来る距離まで近づいて、私は息を飲みます。

「積荷信仰の方なら、できれば一思いに殺してください。私はもうこんなですから……。もう仕事は続けられないでしょう……。これ以上、私を苦しめないで下さい」

 両目を覆うように包帯が巻かれていました。眼窩に残された出血痕と、巻かれた包帯が描き出す、本来ならありえない陥没したシルエットは、男性の両目が潰されてしまっていることを示唆していました。
 やつれた肌には無精ひげが伸び、髪はぼさぼさで、何日もロクにお風呂に入っていない様子です。でも、ひと目見て、私はこの人が誰であるか、そして違和感の正体が何だったのか。二つが同時に判明しました。

「アレクさん……私です。クドリャフカです」

“片言の日本語”で、折を見て私の面倒を見てくれていた、オーシャンランチコーポレーション技師のアレクセイ・ヴィクノール。
 目の前に居る男性こそ、まさにその人でした。



あとがき
 
 新キャラで尚且つオリキャラの扱いとなると非常に難しい物になる―――本クドSSを書いていてつくづく思い知らされました。
 その性でしょうか。この話をここまでまとめるのに、一時期(≒二週間)一行も進まず、書いていても違和感を憶えて破棄した文章は今回公開分と同じくらいの分量になってしまいました(汗
 まぁ難産した分、予想外にうまく書けたかもと思える部分もいくつか作成は出来たので、苦労した分はキチンと報われているのかもしれません。……半分もストーリー進んでませんけどね(苦笑
 一応、核心には近付いては来ているのかな?
 次回で一気に下流まで流れてくれれば後が楽なんですが、登場人物の何人かは、実はまだまだ顔すら見せていないことに愕然として、尚且つクドフェスがこれが公開する頃には一応の閉会式が行われた後だと考えると……非常に心苦しいorz
 神海さ〜ん!
 まだまだ終らんよ〜〜〜〜〜〜!!!!!ヘ(゚∀゚;ヘ)(ノ;゚∀゚)ノ



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