§2 孤独と 決意と
 

 香ばしい薫りが鼻腔を過ぎり、私はうっすらと目を開けました。
 そこで見たのは、見知らぬ天井と、見知らぬベッド、そして見知らぬ寝巻き。
 
「ここは……?」

 上体を起こすと正面の壁一面に大きな鏡が設置されています。映された瀟洒なベッドの上で寝ぼけ眼の私の顔は、それは大層人目を憚るような酷いものでした。あられもないこの姿をリキが見てしまったら、私を嫌いになっていたかもしれません。
 ここ数日というもの、食べ物はほとんど口にしていませんでしたし、何よりもお風呂にすら入っていない身体です。体臭は酷いですし、頬はやつれ、目の下のクマも遠目にはっきりしっかり判別できてしまいます。
 ここが何処なのかは計りかねましたが、このままでは“れでぃー”としての品位に欠けると思い、気だるい体に鞭を打ち、ひとまずよだれを拭いつつ、四方に跳ね回る髪をどうにかこうにか整える―――と、袖口から綺麗に止められた包帯が覗いていました。
 そこは、鎖に繋げられて擦り切れた部分です。全身をくまなく調べると、岩盤にぶつけた脇の打ち身の部位にはシップが貼られ、他にも自分が気付かぬ内にこしらえた無数の傷に、丁寧な処置が施されていました。
 全身包帯だらけで、私の姿はまるで包帯男ならぬ包帯女です。
 
「わふー!」

 両手を挙げて、鏡の私に襲い掛かるポーズを取った後に、私はくすくす笑いました。なんだか久しぶりにいろんな拘束やしがらみ、そしてたくさんの恐怖から解放されたことで、私は少しだけ躁状態になっていたのかもしれません。
 だから、ノックの音にも全然気が付きませんでした。

「あれ? クーちゃ……じゃなくて、クドさん、起きてたんだ」

 突然ガチャリとドアが開いて、女性の顔がひょいと現われました。赤面した私はわたわたと慌ててしまい、言い訳がましい言葉を取り繕います。

「あの、ええと、これはですね! そ、そう! とりっく・おあ・とりーとなのです!」
「ふえ? 悪戯?」

 一瞬驚いたようでしたが、その女性は盆をサイドテーブルに置くと、そこに盛りつけられていたトースト、色とりどりのジャム、それからホットミルクを差し出します。

「う〜ん、お菓子はないけど……これで代わりになるかな?」

 左右につけた大きなリボン。私の知っている、くらすめーとに似たその面差しが、昨日の記憶を鮮明に蘇らせます。

 ……そうでした。

 私はあの島から脱出しようとして、この人に助けられて……。
 疲労の極限状態でネジが数本ほど飛んでいたとはいえ、思い返すと私もかなり無謀なことをしたものです。

「ジャムは何がいい? ストロベリー、マーマレード、ブルーベリーに……『秋子さんお手製ジャム』?」

 怪訝な顔をする下北毬さんに向けて、私は左右に手を振りました。

「お、お気遣いなくっ! 大丈夫ですから!」
「そうはいかないよぅ。クドさんは怪我人さんなんだから、安静にしてないとダメなんだよ」

 両手を腰に当てて、下北さんはワザと怒った表情を作りました。
 背中を押されてベッドに戻された私は、「はいっ」とホットミルクを手渡す下北さんに促されます。遠慮がちに両手でカップを抱えると一口、こくりと飲み込みました。
 そのあまりの美味しさに思わず溜息が漏れます。
 本当に久しぶりの暖かい料理でした。空腹が最高の調味料とはまさにこのことです。
 思わず涙ぐみそうになって目頭を押さえながらも、もう片方の手は食べ物に伸びていました。はしたないとは思うものの、サクサクのトーストはとっても魅力的でした。一枚目をペロリと平らげ、その間に下北さんがイチゴのジャムをたっぷりと塗った二枚目をお腹に収めて、ようやく私は一息つきます。
 私の食べっぷりはそれはもう凄いものだったのでしょう。始終まん丸に目を見開いていた下北さんは、口元に手を当ててとても驚いていました。それからしばらくすると声を立てて可笑しそうに笑い、私の口元についたジャムを拭い取ってくれました。

「可笑しい、クドさんそんなにお腹がすいていたんだ」
「わふ……はしたない子ですっ」

 刹那に触れた下北さんから漂ってくるのは、やっぱり甘い香りです。香水のようなキツさはありませんが、初めて彼女と出合った時、小毬さんと同一視してしまった錯覚の一つには、この独特の匂いが関係しているのかもしれません。
 まとう雰囲気も相まって、人見知りするはずの私が、まるで級友と打ち解けるように、逢って間もない年上の女性と親しげに話しているというのは、実はとても凄いことなのではないでしょうか。
 余韻を残していた下北さんの笑みは、私の反応をみて、いつしか安堵のそれに変わっていました。

「……うん、元気になったみたいだね。救助してすぐクドさんが昏睡した時は、どうなるかって心配しちゃったんだから。自己紹介が遅れちゃったけど、まずは改めまして。私は下北毬。日本大使館でお仕事をしている一等書記官さんです。ちなみにここは日本大使館の敷地内にある別館で。来客用の臨時……宿泊室……だったかなぁ……? もぅ……きょーすけさん、急につれてくるから肩書きなんてわからないよ……ぶつぶつ……

 ゴニョゴニョと不満らしい言葉を並べていた下北さんは、私の怪訝な顔を見るや、はっとした顔で首を左右に振ります。

「と、とにかくっ! 細かいことや、本来の仕事内容はおいといて……ここしばらくは行方不明となった日本人国籍の方たちの捜索と保護を行うのが今の私のお仕事……かな。だからクドさんが保護されていたロシア大使館が襲われたって聞いたときはすごく驚いた。……ううん、恐かった。……クドさんが……殺されちゃうんじゃないかって」

 政府の非常事態宣言によって多くの外国人が帰国する中、滞在者リストに記載された日本国籍の私は、その容姿と、事の発端であるロケット事故の当事者の娘ということで大層目を引く存在だったそうです。私の為にテヴアのチケットを手配してくださった大使館の方のご好意もあって、オーシャンランチコーポレーションの人たちと行動を共にしていたはずの私が、行方不明者リストに記載されるや、多くの方が私の捜索に力を貸してくれたことを教えてくださいました。
 訥々と話ながら下北さんは泣いていました。大粒の涙を零して唇を戦慄かせる表情は、私よりもずっと大人の方なのに、なんだかすごく幼いようで……意図せず、友達を泣かせてしまったときの気まずさと、多くの人に多大な迷惑をかけてしまった事を知って私は俯きました。

「捜索は難航したの。暴動の引率者が積荷信仰カーゴカルトの内島人だったこともあるんだけど、その人たちを匿う人がいたり、地の利を活かして地図にも載っていないような島を転々とすることで姿を眩ましたり。手掛かりは全然つかめなくて……連れ去られたクドさんの生存を絶望視する人がほとんどだった」

「でもね」と下北さんは涙をぬぐいます。

「電話があったの。女の人の声で、そこにクドさんがいるから助けて欲しいって。こんな状況だし、回線もなかなか繋がらなくて、通話できたのは少しの時間だったけど、その人が必死だったのは分かったから。半信半疑の情報でも、何人かの人たちは直ぐに動いてくれたの」

 英語のイントネーションにテヴア訛りがないこと。そのことから恐らく内島人じゃないことの推測を立てる事は出来たらしいですが、結局その人が誰だったのかというのは、私が救助された今となっても不明のままだそうです。

「誰か心当たりはないかな?」

 直ぐに思い浮かんだのはオーシャンランチコーポレーションの職員の人たちです。男性職員の多い企業ですが、お母さんと同じように在職している女性の方は何人かいました。暴徒の人たちに私が連行されたときに散り散りとなってしまいましたが、お母さんが亡くなった後、随分親切にしていただきました。
 そのことを伝えた後で……私は聞いてしまいました。

「ロシア大使館にいた人たちはどうなりましたか? お母さんの職場の人たちはどうなりましたか?」

 妙に長い沈黙が舞い降ります。

「……重症、軽症様々だけれど、暴徒の人たちが軍に鎮圧された時には、ほとんどの人たちは無事救助されたって聞いているよ……」
「……『ほとんどの人たち』じゃない人は―――どうなりましたか……」

 明確な回答を避けようとする下北さんに、つい詰問するような口調になってしまいます。下北さんの顔はハッキリと分かるほどに狼狽していました。

「クドさんのように、行方不明の人たちも何人かいるけれど。……その……ごめん……なさい……」

 それはつまり……『そういうこと』なのでしょう。あれだけ大規模な暴動が起これば、当然起こり得ることです。私自身が拉致された時にはもう、目を覆いたくなるほど凄惨な光景が展開されていました。
 判りきっていた事なのに……。

「……私の方こそ、ごめんなさいです。こんなこと、聞くべきじゃなかったですね……」
「ううん、知り合いの人たちの行方を聞きたいのは当然だよ。クドさんだけじゃなくて、みんなそう。事故の直後の混乱と暴動で……生きているか死んでいるかも分からなくなっている人たちは沢山いるから……」

 慰めの言葉として下北さんは仰ってくれたのでしょうが、今のテヴアの情勢は、お母さん達の招いた事故の結果によってもたらされたものです。そんなはずはないのに、その言葉の端々に非難が混じっているような錯覚を覚えて、しばらく私は胸の痛みを堪えて何も喋ることが出来ませんでした。
 
「今朝方、国連軍のテヴア諸島の封鎖が解除されたばかりで、実を言うと私達も情報はあまり持ち合わせていないの。今、恭す……上の人たちがテヴア政府に連絡を取ったり、現地の調査をしているから、ここにいればクドさんの知りたい情報も寄せられると思うよ。しばらくは安静にしていて報告を待とう。ね?」
「……下北さん」
「うん、なぁに?」
「知っていたら教えてください。ロシア大使館で救助された人たちは今ドコにいますか? 病院ですか? それとも別の安全な場所ですか?」
「……私が知っているのは暴徒の人たちが軍の人によって鎮圧されたということと、ロシア大使館にいた人たちが救助されたということだけ。その先の事は全然知らないの。近くの病院に搬送されたかもしれないし、どこかでクドさんのように保護されているかもしれない。それも調べないことには―――」
「―――ロシア大使館に行きたいです」

 顔を上げた私が何を言っているのか、下北さんは本当に分からないといった顔をしていました。
 だから、私はもう一度繰り返しました。

「ロシア大使館に行きたいです。私がワガママなことを云っているというのは自覚しています。今のテヴアで外出することが、どんなに危険なことかも知っています。……でも、行かないといけないです」
「行ってどうするの?」
「オーシャンランチコーポレーションの職員さんたちを探します。私はあの人たちから、お母さんのことや、こんな事故が起きた原因を聞かなければいけません。それは私が知っておかないといけない事です。……知らないほうが幸せなのかもしれませんが、見ないフリをして後悔をするのは、もう……二度としたくはありません」

 私はすっと姿勢を伸ばしました。
 向けられる罵声や非難、そして暴力に、私はとても弱くて、無力なのかもしれません。下北さんの意図しない言葉に対して、これだけ過敏に反応してしまったことからも、私は一生傷ついて、悩んで、時には泣いてしまうでしょう。
 けれど、リキの声で救われたあの時から、私は決めたのです。

 もう 逃げないと
 
「クーちゃん、自分の身体がどれだけ酷い事になっているのか知っている? お医者さんは全治1ヶ月って診断したんだよ」
「大丈夫です。このくらいは何ともありません」
「外出禁止令は解除されて、大規模な暴動は鎮圧されてはいるけど、暴動がなくなったわけじゃないよ。クーちゃ……クドさんの外見は現地の人が見ればどう思うか……クドさん自身がよく知っているよね」
「はい」
「……それでも、行くの?」
「はいっ」

 決心が固いことを察したのでしょう。下北さんは少しだけ寂しそうに微笑んで「そっか」とだけ呟きました。

「一緒に行ってあげたいけれど……。ごめんね。私はこの敷地から外には“出られなくなっちゃった”から」
「出られなくなった?」

 言い回しに違和感を覚えて鸚鵡返しに尋ねると、下北さんは取り繕うように手を合わせます。

「『上の人』の制止を聞かずにクドさんを助けに行っちゃったからね。テヴアでは外に出るなって言われていたんだけれど……お灸を据えられちゃった」

 罰則として自宅待機をさせられる警察官のようなものなのでしょうか。よくは分かりませんでしたが、原因が私であることは確かなようなので何度も謝りました。

「私がしたいと思ってしたことだし、クドさんは気にしなくていいよ。それはともかく。そのままの格好で外に出るのは問題かなぁ。昨日、軽く濡れタオルで拭いたけれど、髪とか顔とか……ちょっと汚れているから、綺麗にしないとね」

 その“ちょっと”が、どれほどのものであるかを知っている私としては、恥ずかしさのあまり、今すぐにでも布団にもぐりこみたい衝動に駆られてしまいます。
 ふと我に還りました。先ほどの話をまとめると、寝ている間に私は下北さんに身体を拭いてもらったということなのでしょうか。 
 それはつまり、その……。

 裸を見られたということでしょーか!?

 いろんなところを触られたということでしょうか!!?
 
 わふーーーーーーーーーーーー!!!!?

「着替えを持ってくるから、その間にお風呂をどうぞっ。そこのドアを抜けた突き当たりがバスルームだから。何ならシャワーの代わりにわたしが身体を拭いてあげてもいいよ?」
「い、いえっ! お気持ちだけで結構です! 今すぐシャワーを浴びてきます!」
「そぅ? ちょっと残念」

 私の慌てようにくすりと笑いながら、下北さんは空になった食器を片付けて出て行きました。取り残された私はというと、身悶えしてしばらく頭を抱えていたのは言うまでもありません。




あとがき
 どうも、かみかみです。
 わふーです。クド公です。
 これを書いた当初は、クドの一人称で進めていく都合上、キャラクターというか、言動やら動きやら言葉使いやらを、そのまま文章にして盛り込む作業が初めてなこともあり、想像以上に難航したことを憶えています。
 ちゃんとクドとして認識できるレベルになっているかどうか不安で夜も眠れませんでした。
 ストーリーも遅々として進んでいないような気がしますが気のせいです。
 気にしちゃいけません。
 SSを書きはじめて間もないこともあり、考察も交えて原作を壊さないように書いていくのは、やはり難しいなぁといつも思います。
 鎖から解き放たれたクドはリキに会うまでに、きっとテヴアで多くの経験をしてきたのだろうという妄想からスタートした本SSですが、どう考えても長くなる事は目に見えていたのに、何で俺は考えなしに突っ走っちゃうかなぁ('・ω・`)
 次回は第三話。
 物語はさほど進みませんが、とあるキャラクター達が登場します。
 良くも悪くも

 「……何だこれは?」

 と言わせるような展開が待っております。
 あらかじめ言わせてもらいますが、自分の中では原作を逸脱しないように作ってます。
 それなりの妄想をあわせて繋いだ細い糸ですが……
 どこまで頑張れるか、まぁ生暖かい目で見守ってくださいm(_ _)m



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