夕闇の蒼はとても深くて、小さな私を飲み込もうとしていました。ずぶ濡れの服、傷ついた体は満身創痍で、全てを投げ出して、この身を投げ出せたらどんなに楽だったでしょう。 けれども、私はここで倒れるわけにはいきませんでした。 見晴らしの良い砂浜。珊瑚の残骸ばかりが敷き詰められた、平坦な死の地平。 もう一度捕まってしまえばそれまでです。 鎖から解き放たれた私には、どうしても戻らなくてはいけない場所がありました。 ニ・プーカ(毛もなく)、ニ・ペーラ(羽もなく)、毟られた私には何もないのかもしれません。 けれども、私の手には『絆』がありました。 ゴツゴツして、何も知らない人が見ればガラクタでしかないその物体は、小さな私に大きな勇気をくれたのです。 負けるわけにはいきません。 動かなければいけません。 どんなに惨めでも、どんなに無様でも、私には生きなくてはならない理由がありました。 だって私は もう、一人ではありません――― 境界の狭間(能美 クドリャフカ編) §1 孤島と 孤独と この島を歩き続けたことで、分かってきた事がいくつかあります。 私が連行されたこの場所は、どうやらテヴア諸島に散在する数多の島の中でも、特に小さく、地図にも明記されないような孤島のようでした。 疲労でうまく働かない私の頭でも、これについてはすぐに状況を把握しました。浜辺の外周をぐるりと回り、小一時間ほど経過した頃、見覚えのある祠が見つかったからです。 大きく口を開けたその場所は、私が生贄として鎖で縛られていた祭壇に通じる地底への入り口です。見間違うはずがありませんでした。 恐らく、神を祭る神殿か何かとして機能している孤島なのでしょう。人の住んでいるような生活跡はどこにも見当たりませんでした。聖域に残された私は、まさに神に奉げられた生贄と言うわけです。 再度捕まる心配がない事が分かっただけ幸いなのでしょうが、ここから脱出する手段がないという袋小路も、そこには横たわっていました。 ここから大使館のあるテヴアの主島へ向かう方法は、ボートやカヌーなどを用いた海路に限定されているだろうと予想してはいましたが、それすらもないと分かった今、こうして閉塞された現実を突きつけられると、先ほどまで宿していた私の気持ちも、急速に萎みそうになります。こんな状況でわたしに出来る事といったら、誰かの救助を待つしか術はないのかもしれません。 立ち尽くした私は、南東の夜空を見上げました。 果たして、そんな方々が此処にはいるのでしょうか? 少なくとも此処が。『この世界』が。誰かに作られた、現実とは違う世界なのだということを、テヴアにやってくる直前に私は知ってしまいました。 本来なら不可能なのです。やり直すことなんて……。 まだ朧な記憶は、どうしてこんな世界に私がたどり着くことになったのかということを思い出せずにいましたが、その不可能な事が、この世界では叶いました。 私はお母さんに逢う事が出来たのです。 「クーニャ」 あの人の言葉が蘇ります。綺麗で、優しくて、私の誇りだったお母さん。 ぬくもりも、愛しさも、全てが現実のものとして私の記憶の中に息づいています。 ……けれど、それは本当に、私のお母さんだったのでしょうか。 それは身勝手で、我儘な私の想いの形が姿をまとった、ただの幻想なのでは? という不安は……抱きしめられても、学校での生活における多くの出来事を嬉々として話していても、いつまでも拭えませんでした。 そして結局、お母さんは死んでしまいました。 結果が変わらないのならば、私がここに来た意味は本当にあったのか……。選択肢を変えた今でも、部屋にこもり続けた頃の後悔は消えません。 私がかつて選んだのは、リキの隣にいることでした。 あのとき選んでしまった事実は、こうしてテヴアにやってきたところで、無かった事には出来ないのだと今更ながら気付かされます。 「あきらめちゃダメだ!」 お母さんや多くの人たちに対する贖いの行為も、リキの言葉で恥も外聞もなく投げ捨ててきてしまった私。それはとても罪なことで。許されないことだと、良心の呵責が私を苛むのは当たり前の事なのでしょう。 でも…… いいえ、だからこそ。 私は、生きていたいと思うのです。 罪ならば背負いましょう。罵倒されようとも構いません。 こんな私でも、私であることを認めてくれる人に、私は出会えたのですから。 私は握り締めていた“それ”に目を向けました。溶けた金属に溶接された個人認識票。お母さんの名前を封じたそのカケラは、私に何も語ってはくれません。 だから、私は微笑みました。 「おかあさん、私はリキの事をもっともっと知りたいです。世界のことをもっともっと知りたいです。だからゴメンナサイ。私はお母さんのところには、まだ行けません」 ぺこりとお辞儀をしてから、私は続けます。 「そして、私はおかあさんのことも知りたいです。聞きたいです。どんな人だったのか。どんなことをしていたのか。どうして、スプートニクを飛ばそうとしたのか……。だから私はお母さんの子供であったことを誇れるように、テヴアでお母さんを探してみようと思います」 この世界がどこまで真実を提示してくれるのかは不安ですが、何もせずに待っているだけの自分はもうイヤでした。 気持ちを向けて、まっすぐに 誰でもない、私でいたい あの人が―――リキがそういってくれるのなら 意を決して、海へと踏み入れた私の足の隙間を波の音がさらいます。 ここにいてもどうしようもない事は分かり切っていました。ここで腰を降ろせば体力の回復は望めましたが、数日もの間、ほとんど何も口にしていない状態の私には、休むという行為は比例して飢えによる疲労を一層強めるだけ。それならいっその事、彼方に見える比較的大きな島に行けば、きっと何とかなるのではないか……。 そんな漠然とした希望だけを頼りに、私は海の波間に身を投げ出しました。 熱帯性気候のテヴアの海は、一年中穏やかな母なる海。夜明け前のもっとも気温の低下するこの時刻ですら、海中の温度は優しく私の肌を包んでくれました。 向かう先は南東。南十字星の輝くその真下に、私の向かうべき大地が広がっていました。 目測でも向こうの島まで5km以上はあるでしょうか。ただでさえ削げ落ちた体力に気を使いながら、ゆっくりと腕を漕ぎ、 孤独の旅路に向かったスプートニクのライカ犬。小さなその体で故国を離れ、何を思い、どんな気持ちであったのか。今なら私にも少しだけ分かるような気がします。 遠のきそうになる意識を何度も呼び戻して、心の中で私は愛しいあの人の名前を呼んでいました。 リキ、リキ、リキ、リキっ――― 還るべき場所を、戻るべきその場所を守っていてくれる人がいるのなら。私は誰よりも強くなれるような気がします。今は一人でも、そこにはあの人が待っているから、私は寂しくなんてありませんでした。 だから……だから私は生きて戻らなければいけません。 過去の『クドリャフカ』はもういません。スプートニクのライカは、天空に向けて飛び立ちました。 ここにいる私はクドリャフカ。 クドリャフカ・アナトリエヴナ・ストルガツカヤ。 お母さんがつけてくれた希望の光。リキが呼んでくれる私の名前。 私が灯すのは旧ソ連の数億もの人々に向けた大層な代物じゃないですが、きっとそれは掛け替えのないもので。私はそれだけで世界で一番の幸せ者なのです。 けれども、やっぱり私はお馬鹿な子でした。 自分の体力を見誤った私の腕は、見る間に重くなっていました。挫けそうな気持ちを奮い立たせようとしますが、個人認識票を落さないようにすることだけで精一杯で、やがて私の目蓋は視界を黒く染めて、深い闇に落ちていきます。 どこまでも、どこまでも…… 「………………! ………………ゃ……!」 私を呼び続ける、誰かの声が聞こえました。 それは、懐かしい声でした。テヴアにいるはずのない、くらすめーとの声。 うっすら開けた景色の先には、光がありました。 それは―――青。 青色巨星モミザの蒼です。南十字の星々が迎えに来たのかと、私はそれに向けてほんの少しだけ手を伸ばしました。 光から伸びた腕。柔らかく暖かい指先が、小さな私の手を取ったのはその時です。 「くーちゃん! くーちゃん! 良かった! 本当によかったよぅ!!」 ああ…… 私は夢を見ているのだと思いました。 傍に居た船員の手を借りて、サーチライトを海中に向けた小型船に引き上げられた私の目の前にいる人は、特徴的な大きなリボンをつけていました。逆光で顔は隠れていましたが、そのシルエットはとても見知ったもの。 「……わふ、小毬さんがいます……」 「ふえ!? ち、違うよ!! 私は神北―――じゃなくって、下北 毬だよっ! 大使館の職員さんで、けっして、クーちゃ……こほん。クドさんのクラスメイトとかそんなのじゃないから!」 挙動不審ではありましたが、よくよく見ると確かにその人は小毬さんではありませんでした。薄化粧をした顔はとびっきりの美人さんで、慌てふためいた顔の面影に小毬さんと類似する部分はありましたが、年齢は20代の前半くらいでしょうか。ぱりっと着こなしたと思われるスーツはびしょ濡れで、けれどもそんな事は全然気にしていない風に見えます。 とにかく助かったのだと、私は大きく息を吸い込みました。 へばってしまった私の身体は、全くと云っていいほどに言う事を聞いてくれなくて、甲板に横たわった濡れ鼠の私は、今になってやってきた傷の痛みと疲労とで思わず呻き声を上げていました。 「ふええ!? ど、どこか痛いの?」 「……いいえ、大丈夫です。ぐっどぼでぃーです……」 「それを言うなら―――じゃなくて! 全然大丈夫じゃないよぅ!」 下北さんは私の傷に気付くと、気遣わしげに私を抱きしめました。 そのとき、私はくすぐったい気持ちのまま、懐かしい匂いを嗅ぎました。 それは、お菓子の匂いです。 甘くてやわらかい、小毬さんの大好きなホットケーキのシロップの香りでした。 あとがき ……こんにちわ。 神海さんの親切心を陵辱するように、未だ三話しか書けていない状況で「分割投稿とかOKっすか?」とかいう舐めまくった形式を提案したかみかみ神谷の凸凹にゃんn(ry の管理人をしているかみかみです。 SSの内容が半分も進んでいない状態での投稿ゆえに、クドフェスが終るまでに最後まで書ききれるのかという不安を残しての参戦。果たして自分の運命はどうなるか……他人事なら見ものでありましたが、さてはて。 来ヶ谷祭では、唯湖姉さんの終盤から終わりまでのバッドエンドの境目を「境界の狭間」として書かせていただきましたが、今回はスタンスがそれと同系列の作品ということで、この作品もまた『境界の狭間』という題名になっております。 今回、“境界”という言葉に来ヶ谷のときとは違った意味を込めました。 このSSにおける『境界』が何を意味するのか。 読み進めながら考えてみるのも面白いかもしれません。 細かな設定はウチのブログにあげていますので興味のある方はどうぞ。 追記 下北毬さんは決して神北小毬さんじゃないんだからねっ 安直とかとってつけたとかそんなんじゃないんだからぁ!(CV:釘宮風に) 専用掲示板にじゃんぷですー |