ルールだけはきちんと守り、しかしミュールはその手を休めませんでした。
行動は目に見えてエスカレートしていき、朝ライナーの布団にいるのは当たり前、それどころか、

「ライナー、ちょっと入るわよ」
「え、待った何で風呂に、ってミュール、服! 服着てない!」
「当然じゃない。何ボケたこと言ってるのかしら?」
「訳わからないから! どうして裸なんだよ!」
「風呂に今から入るからに決まってるじゃない。そんなこともわからないの?」
「前提が間違ってるんだって!」
「別に私は気にしないわよ。見られて困るものでもないし」
「俺が困るっ!」

ライナーが入っているお風呂にわざと乱入したり。

「……な、何だよミュール、いきなり隣に寄ってきて」
「口を開けなさい」
「え? あ、ほへへひいほは?」
「そのまま。……ん、これ、食べなさい。あーん」
「………………」
「ライナー、どうしてそこで私を見るのですか」
「いえ、その、」
「ほら何やってるのライナー。それでは口に入れられないでしょう?」
「あ、ああ。あー……んぐ、ぐ、……ん」

人に見せつけるように食事の席でライナーに手ずから食べさせたり。

「夜分遅くごめんね、ライナー、その、ちょっと……」
「……ミュール、だから何でお前は俺のベッドに入ってるんだ」
「見てわからないの?」
「考えたくないというか……」
「なら考えなければいいじゃない。難しい話ではないわよ」
「悩みの種が言うなよ!」
「………………っ」

そして夜、扉越しの会話を途中まで聞いて、私は自分の部屋に戻りました。急いで。
結果どうなったのかは知りません。ミュールが追い出されたのか、あるいは一緒のベッドで寝たのかも。
布団に包まって、耳を塞いで、私は自分の震える身体を必死に抱き抑えました。

何故。何故ライナーは、拒絶しないのでしょう。
……わかってます。それがライナーの優しさだということは。
なら私は、その優しさに傷つけられているのでしょうか。

違う、とは言い切れませんでした。
でもそれはあまりにも自分勝手な思考です。

だって、ライナーには私にだけ優しく・・・・・・・・・・・・・ してほしい・・・・・と、そう言っているようなものなのですから。

私は暗い布団の中で目を閉じました。
眠ったらこの沈んだ気分も晴れるでしょうかと。心にもないことを思いながら。










カレンダーの日付が、一週間の経過を私に告げます。
期日までは残り半分の七日。その間、ミュールは意図してかせずか、あらゆる手段を以って私を追いつめてきました。
徐々に憔悴していくライナーが彼女の行動の激しさを物語っているのですが、それは今は置いておきましょう。
……ライナーを憔悴させている原因は、ミュールだけではないのですから。

「何を、しているんでしょうね」

焦燥。焦りの感情が私の背を押し、追随するように私も接触の機会を増やしました。
ミュールのそれと比べれば赤子に等しいものかもしれません。
ですが、理性が最後のところで私を押し留めます。触れれば離れ、また触れて、自然寄る手はおずおずとしたものに。
それでも引っ込めることだけはできず、指先を絡めて満足してしまうのです。

だから余計に、焦燥感が私を襲って。
今思えば、大変短絡的な行動を取ってしまったのでした。
自分の部屋にミュールを呼び出し、

「……ミュール、貴方はいったいどういうつもりですか」
「いきなり連れてこられたと思ったら、何? どういうつもり、って?」
「ライナーとのことです! あ、あんな風呂場に乱入したりまでして!」

声を荒げる私に対して、ミュールは涼しい顔で答えました。

「あら、これは勝負よ。その範囲でなら何をしても咎められる謂われはないわ。あなたもそれくらいわかってるでしょう?」
「……ですが、あれはどう考えてもやり過ぎではないですか」
「そう? 別に明確な拒絶をされたわけでもないし。問題はあるかしら」
「ライナーは嫌がってました!」
「本当に?」
「…………え?」
「本当に嫌がってただなんて、あなたにわかるの? 現実にライナーは拒絶の意思を示してないわ。それが全てだと思わない?」
「それは……でも、」
「人間は嘘をつくわ。自分に。他人に。いつでも言葉通りとは限らない。時には想いが真逆のこともある」
「………………」
「シュレリア。嫌なら私と同じようにすればいい。できないなら、あなたにどうこう言う資格はないわ」

反論は、可能でした。
奇しくもミュールが言ったように、いつでも言葉通りとは限りません。
感情を隠すだけでなく、理論的な矛盾を誤魔化す嘘もそこには混ざるものですから。

―――― そう頭ではわかっていても、私は何も返せなかったのです。

私が、自分自身を信じられなかったが故に。
反論に値する答えを持ち得なかったが故に。

ぱたん、と扉が閉まる乾いた音を聞いても、私は一歩も動けませんでした。










結局、後半も私はさして積極的になれず、またミュールを咎めることもできずに、二週間の期日を終えてしまいました。
勝負の決着は全て、何も知らないライナーに委ねられています。
明らかに普段と違う、正直に言えば変な私達でしたが、おかしかった理由を告げ、その上で、

「ライナーに判断してもらう、のですよね……」

唇から漏れるのは深い溜め息。それも、重く沈んだものです。
今も心臓をきゅっと締めつけるような圧迫感があります。鼓動は早く、微かな手足の震えも。
緊張。そんな勘定を得るのはいったいいつ以来か、昔過ぎて覚えがありません。

……これほどまでに、恐ろしいものだったでしょうか。

きっとミュールなら悠然と構えているのだと思います。
あるいは、部屋で勝利を確信しつつ笑っているかもしれません。どちらにしろ余裕を滲ませていることでしょう。

話を切り出すのは夕食を済ませ片づけてから。
時計を見ればもうあまり時間はなく、そろそろ準備に入らなければならないようです。

……居間に出向くと必ずライナーと顔を合わせることになります。
私は、いつも通りの自分でいられるか、自信がありませんでした。
迂闊なことを言ってしまわないか。この震えを悟られてしまわないか。
不安に怯え、そんな私自身の弱さが嫌になりました。過去の自分はここまで弱くなかったのに、と。

「……抑えましょう」

深呼吸を一度。さらに二度、三度と繰り返し、心の揺れ幅を減らしていきます。
恐れも不安も何もかも。最後に殊更大きく息を吐き、震えと共に沈めました。

「…………うん」

例えそれが嘘だとしても、私は、ライナーの前では強く在りたかったのです。
ライナーにとっての私がそうである限り。今を、守りたかったのです。

よし、と気合を入れて自室を退出、食事の準備に取り掛かります。
居間にはまだ誰もおらず、そのことに安心しつつ包丁を握りました。
規則的に刃物がまな板を叩く音を右から左に聞き流し、そういえば今日はライナーを一回も見てないな、と思います。
いえ、見ていないのではなく、正直に言えば、避けていました。
顔を合わせ難くて、心の準備が出来ていないうちに会えば何か不備が起きそうで。

「……あ、シュレリア様」

不意に後ろから声が掛かり、微かにぴくりと肩が上がってしまいました。
気づかれなかったでしょうかと心配半分で振り返れば、やはりそこにはライナーが。
ぼんやりした顔からは特別不審の色は窺えず、とりあえず一安心。
先ほどから再び増してきた心臓の高鳴り、喉の震えを抑え飲み込み、

「ライナー、仕事だったの?」
「はい。ノルマがついさっき終わりまして」
「そっか。ご飯まではもうちょっと掛かるから」
「わかりました。終わったら言ってくださいね。ミュール呼んできますので」
「うん、お願い」

普通の会話が成立したことにさらなる安堵を得て、あとは無言で調理に集中。
何かひとつをしている間は、別のことを考えずにいられます。
例えそれが問題を先延ばしにしているだけだとしても。

部屋に響くのは、食材を刻む音と水が鍋の中で沸き立つ音、煙を吸う換気扇の音。
てきぱきと皿を出し、完成した料理を盛りつけ、テーブルに置いては台所に戻るという作業の繰り返し。
往復を六度ほどしたところで、運ぶ皿はなくなりました。
じゃあ、とこちらを眺めていたらしいライナーが立ち上がったところで、私達のものではない足音がやってきました。

「相変わらずいい匂いね。もう準備は終わったかしら?」

狙ったかのようなタイミングで呼ばれるはずだった本人が現れ、ライナーは持ち上げた腰を下ろします。
その姿を満足そうに一瞥して、ミュールはライナーの隣を陣取りました。
憎たらしいほどに普段と変わらない表情。早くしなさい、とばかりの視線を私に寄越してきます。
今日ばかりは仕方ないという思いより煩わしさを強く感じながら、必要な食器を引っ張り出しました。

夕食の席は、明らかに普段より会話が少ないものでした。
辛うじて出た話題もまるで続かず、一種の息苦しさが食卓を包みます。
気まずい、と思い、その原因の一端が自分にあることをわかっていながらも、緩和の策は考えつきません。
『あのこと』を言い出さなければ、重い空気は晴れないでしょう。
ですが私には、口火を切る勇気がなかなか搾り出せなかったのです。

「……ライナー、私はあなたに隠し事をしていたんだけど、何だかわかる?」
「へ? いや、ぶっちゃけミュールは俺に隠してないことの方が少ないと思うんだけど」
「まあそうね。でも今はその辺どうでもいいの。重要なのは、ここ最近何を隠していたかよ。答えてみなさい」
「え、えっと……うーん、どうも妙にミュールが……その、過激になってきてたのと関係あるか?」
「シュレリアもじゃない?」

いきなり話を振られ、困惑するライナーを畳み掛けるミュール。
決して遠回しとは言えない進め方で、少しずつライナーの思考を解答に近づけていきます。

「え、あ…………」

ライナーが私をちらりと見ました。
言おうか言うまいかと迷っている瞳。それに対し、私は無言を突き通します。
結果、答えは正直なものになりました。

「うん、シュレリア様も、何だか、いつもならしないことをしてきた」
「どうしてだかわかるかしら」
「さっぱり」
「でしょうね。私とシュレリアは、あなたを中心にしてある勝負をしてたのよ」
「……は? 勝負?」
「そう。―――― ライナーにとって、私とシュレリア、どちらが魅力的かって」

五秒。
絶句の時間を挟み、

「ええええええええええええええええ!! ちょっと待った! 何を勝手に……!」
「だって、先に教えたら多分に主観が入るでしょう? それは公平じゃないわ」
「……だからライナーには教えなかったの。期日を決め、最後に教えて決めてもらおう、って」
「う……だけど」
「難しく考えることじゃないわよ。自分に正直に、この二週間を振り返ってどちらが好みだったかを言えばいいだけ」
「………………」
「とっとと決めなさい」

高圧的なミュールの態度に押され、ライナーは手を止めました。
食器を置き目を閉じて、眉を顰め考えること二分超過。
額にじわりと汗を、顔に苦笑の色を浮かべながら、ゆっくりとライナーは言葉を声にして出します。

「その……何というか、ほら、俺からしたら、シュレリア様もミュールも立派に可愛い女の子で、 だから比べるのは難しいし、そう、優劣なんてつけなきゃいけないものなのか?」
「……つまり、勝負は引き分けってこと? あなたにとってはどちらも魅力的じゃないと?」
「そ、そんなこと言ってないだろ」

―――― あ、と思いました。思いましたが、それは最早抑えられないほどに膨らみ、私の中で暴れ始めました。
二人の問答も遠く、煮え湯よりも熱い何かが身体のどこかで動き、巡り、心は揺れて。

私は、自らを御する術を知っています。
本心を隠し、感情を見せず、理性で生きるための方法を熟知しています。
なのに今、私は自身を抑え切れずにいました。駄目、と心の声を荒げても、まるで言うことを聞いてくれません。
冷静さを欠いていくのを自覚しながら、その冷静さを取り戻せないままに、それはピークに達し、

「…………え?」

呆然という形容がぴったりなライナーの表情さえ、もう今の私にはよく見えませんでした。
感情が、外へと溢れ流れていきます。淡く霞む視界と、そこから頬を伝う涙という形で。
一粒。二粒。両の瞳からとめどなくこぼれる雫は瞬く間に流水となり、床へと落ちていきます。
感情と一緒に、きっと、理性も。本当の気持ちを内に留める、理性も。

「ライナーは……っ、ライナーは、私のことなんてどうでもいいんですかっ!?」
「シ、シュレリア様、そんなことっ、」
「言ってます! どちらでもないなら、いえ、どちらであっても、それはどうでもいいのと同じじゃないですか!」
「そんなことありません!」
「あります! なら、何故どちらかを選ばなかったんですか! 何故――――

座っていた椅子を立ち上がる拍子で吹き飛ばし、私は声を張り上げます。
頭が真っ白になって、自分が何を口にしているのかもわからなくて。
でも、これを言ったら戻れないと、最後に残った微かな理性が囁きました。
囁いて、それでも私は止まれません。出ます。ずっと抑えていたものが。外に出さず抱えていたものが。

―――――――― 何故、私を、選んでくれなかったんですか!」

叫びは全てを凍らせ、ああ、と私は思いました。
逃げ出したい。けれど足は少しも動かず、やがて全身の力も抜け、へたりと床に腰が落ち、

「……私、は……こんなに、ライ、ナーが、ひぅ、好きな、のに、っ、ライナーは、全然、私を、見てくれなくてっ」
「……シュレリア様、」
「ミュールと、一緒、に、ひっ、いるのを、見ているのが、嫌、で、ひっく、私が、いつも、隣に、いたくて」
「………………」
「なのにっ、ライナーは、そんな私の気持ちなんて、まるで知らないでっ!」
「シュレリア様、俺は……」
「私は、ライナーが好きなのっ! 上司としてでも、友達としてでもない、どうしようもなく、愛してるのっ!」

本当はどんなに言葉にしても言い表せないくらい。
情けなくて、悲しくて、だけど嬉しくて、幸せで、一緒にいたくて、ずっといたくて、繋がっていたくて、結ばれたくて。
どうして伝わらないんでしょう。どうしてわかってもらえないんでしょう。
私が、どれほどライナーを大事に想っているのか。どれほど、ライナーに大事にしてほしいか。

……もう、何もかもわかりません。
見えるものがなければ楽になるかと、それで涙も途切れればいいと目を閉じかけ、

「…………え? ライ、ナー?」

次に驚くのは私の方でした。
正面から、大きな腕が背中に回り、抱きしめられたのです。
壊れないよう優しく。密着する服越しの肌は温かく。耳に近い吐息は、怖いほど穏やかで。

「……シュレリア様。今、俺が言って伝わるかどうかわかりません。言い訳がましく聞こえるかもしれません。 でも、言います。俺、シュレリア様のこと好きですよ。そりゃ初めはそんな意識してませんでした。 好きになるってのがどういうことかよくわかりませんでしたし、女の子のことって全然理解できなくて、難しくて」
「…………うん」
「だけど、毎日を一緒に過ごしてきて、思ったんです。大事にしたいって。大切な人だって。 でも俺どうすればいいのか知らないから、嫌な思いさせるのも嫌で、距離感上手く掴めなくて、 それでシュレリア様にいっぱい辛い思いさせちゃってたみたいで」
「…………うん」
「今でも、自分の気持ちに自信持てないです。……それでも俺、シュレリア様のこと好きなんですよ。 それがシュレリア様のと同じかどうかわかりませんけど、絶対です。間違いないです。好きですから。好きで、いてほしいと思ってますから」

ライナーの言葉が、土が水を吸うように、私の心に染み渡っていきます。
ゆっくりと意味を噛みしめ、理解し、次に困惑が私を襲い、もう一度しっかりと反芻して、

「あ…………」

止まりかけていた涙が、また、溢れてきました。
けれど、先ほどまでのものとは流れる感情が違います。
今、この胸を満たしているのは限りない喜び。至上の幸福感。
隠し抑える必要もない、あるがままの気持ちが飽和状態になって、私は涙に濡れた顔で歓喜の微笑みを浮かべます。

「……うん、うん! 私も、私も好きだから! 好きでいてほしいから!」

そう言って躊躇いなく抱き返し、

「もう見事に私のことを忘れていちゃついて、いいご身分ね?」
「あ……ミ、ミュール、みみ見てたんですか!?」
「始終ばっちりと。あんまりにも思惑通りにいったものだから、ちょっと笑えてきちゃうわ」
「「へ?」」
「呆けるのも構わないけど、そろそろいちゃつくの止めてくれない? 目の毒よ」

指摘され、抱き合っていることに気づき、私達は慌てて離れました。
……あああ、何てことを。よりにもよってミュールの前でこんな痴態を見せてしまって、大変な弱みを握られたではないですか。
まぁ、その……思わずにやけそうになるくらい嬉しいのですが。

「シュレリア、あなた今百面相してるわよ」
「え!? あ、う……ライナー、見てないよね? ね?」
「は、はい! 見てません!」
「思いっきり見てたと思うけど。まあいいわ、二人とも――――

何故かそこでミュールは、してやったり、といった感じの笑みを見せ、

―――― ちょっと付いてきてくれるかしら? 行き先は着いてからのお楽しみ、でね」



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