あの時は頭に血が上っていたとはいえ、自分の短絡さに眩暈がしてきます。
ですが今更後悔しても仕方ないこと。火蓋は切って落とされ、もう私は後に退けないのです。

昨日、湯船に浸かり向かい合いながら私とミュールは勝負の内容を決めました。
……ルール自体は、そう難しいものでもありません。
一週間の準備、作戦期間を設け、それから一日という範囲で交互にアプローチを行います。
手段は常識の範疇でなら問わず、直接的なものから間接的なものまで自身の判断で。
要するに、私は私が、ミュールはミュールが許容できる手段でライナーと触れ合うのです。

勿論、互いに得手不得手はあります。私ができることとミュールができることは違いますから。
しかしそれはハンデにならないでしょう。私達は、プラスとマイナスを合わせればイコールになると思うので。
まぁ、その、体格も大して変わらないですし。……実に不本意ですが。

準備期間としての一週間、私とミュールは普段通りに過ごしました。
最も重要なのはライナーに意図を悟られないことです。主観が入ると判断が狂いますしね。
夜は互いの部屋に閉じ篭もり、自身を最大限に活かす方法を考えます。
そして、八日の経過を無言で確認し、暗黙のうちに勝負は始まりました。

期限は二週間、即ち十四日。一人に与えられるのはその半分、一週間分です。
公正な議論(こういう時にじゃんけんというものは最適ですね)の結果私が先行。
正に今は、その一日目の朝です。私は軽く頬を叩き、目を覚ましてこれから迎える二人の時間を想像しました。

「勝負という名目ですが……」

……心躍ってしまうのは、はしたないものなのでしょうか。
頑張ろう、と人知れず誓い、取り出した着替えを抱えて部屋を出ました。










朝風呂を済ませ自分で作った朝食の席に座ると、先にいたミュールと目が合いました。
一瞬、私達にしかわからない意志の疎通を交わし、ライナーに挨拶を。

「おはよう、ライナー」
「おはようございます。ミュールも、おはよう」
「……おはよう」
「何だか今日の朝食は豪華ですね」
「うん。ちょっと張り切ってみたんだけど……」

勿論気まぐれから豪華にしたわけではありません。
料理は私が持つアドバンテージのひとつです。故に、それを最大限活用しない手はないでしょう。
クレアさんを師に持ち学んで以降、日々研鑽を積んできました。
レシピもさらに増やしていき、グラスメルクと平行して良い勉強となっています。
それに何より、ライナーは料理のできる子が好きと言ってくれたのです。忘れるものですか。
……いえ、そこは多少曲解しているかもしれませんが。

「いただきます」

の言葉とほぼ同時、ライナーの手は皿と食器を掴み気持ちいいくらいの勢いで食べ始めます。
調理をする側にとって、最も嬉しいのはおいしそうに自分の作ったものを食べてもらえる時でしょう。
その点、ライナーはとても有り難い相手です。見ているだけで、こちらの顔が綻んでくるのですから。

「……ごちそうさま」
「ミュール、もういいんですか?」
「ええ。私は先に部屋に戻るわね」
「わかりました」

席を立つミュールの表情は読めません。
若干の不安、というべき感情を私は得ましたが、今は気にしないよう努めましょうか。
食事を終えて満足そうなライナーに淹れ立てのコーヒーを出し、空になった皿を片づけて洗います。
最近はこういった作業もしっかり板についてきました。昔は洗剤に触ったこともなかったのに、面白いものですね。
これで荒れた肌はちゃんと手入れをするので、心配ありません。
まぁ、おそらくそんなことをしなくても塔の生命維持管理が私の姿を留め置くでしょうが。

さて、ここからは仕事になります。
私の出発に合わせる形でライナーも外、レアードのいる大聖堂へ。
いつもの巡回なので、その服装は騎士のものです。とはいえ時間は少々早く、まだ他の騎士達も見えません。

あまり声に出して言えないのですが、レアードは未だにライナーを総帥の座に、と考えています。
しかし、ライナーは……その、控えめに表現しても知識が足りなくて。
こうして早くに訪れ仕事の手伝いをしてはいますが、難しい、特に書類仕事の類は任せられないのが現状です。
ただ、親子の触れ合いという意味では十分に成功していると思うので、一概に問題ばかりとも言えません。
レアードも小言を口にしておきながら嬉しそうですしね。絶対顔に出しませんが。
ころころ感情が表に出るライナーとはまるで正反対で、たまに二人が親子なのかを疑いたくなる時もあります。

しばらくすれば皆が集まり、レアードと私の先導で巡回を始めます。
基本は四人一組、だいたいがレーヴァテイルとそのパートナーを二組合わせて動かします。
性格的、あるいは能力的な相性も考えて組ませますが、中には二人一組で運用する子達もいて、難しいものです。
ちなみに私は必ずライナーと組み、独自の行動を取らせてもらっています。
単純な戦力としては私達が最大ですし、高い能力の分自由が利き動きやすいので。

ですが、巡回の時間はそれ以上に、私にとっては重要な意味を持っていました。
ライナーと組んで行動、つまり二人きり。一時間ほどではありますが、二人だけの時間が得られるのです。

「今日も、あまりウイルスは見られませんね」
「はい。まぁ、そっちの方が楽でいいんですけど」
「同感です。私達は忙しくない方が、世界にとっても有り難いことですから」

ただ、一応仕事の間は周囲に気を配り上司らしく振る舞っています。
けじめはきちんと。でも甘えられる時には甘えて。
堂々と触れられるほど私は羞恥心を捨て切れていませんが、そっと手を握るくらいはいいですよね?

巡回を終えれば、家に帰って少し遅めの昼食です。
本来ならほぼ一日見回っていなければならないところですが前述の通りウイルスはその数を減少し。
交代制という形で、現状では十分になりました。人手を減らせるのはいいことでしょう。

ご飯時だけミュールは部屋からこちらに来て、皿を片づけるとまた戻っていきました。
閉じた室内で何を考え、何を行っているのか気にならないわけではありません。
しかし干渉するにも掛ける言葉は思いつかず、それに今は勝負の時間。
攻められる間に攻めないのは、不利に繋がる選択です。

夕方まではグラスメルクの作業と、ライナーへの教育に集中することになります。
一応これが騎士の仕事を除けば主な収入源なので、疎かにはできません。
私もライナーの手伝いを横でしつつ、技術面のさらなる強化を図っています。
まだ無理ですが、あと二月もすれば一人で色々できるようになるでしょうか。
必要な諸々の材料を自分達で取ってこれるというのも大きいですしね。店で変える分だけでは賄い切れないので。

問題は、そのノルマが終わってからの勉強タイム。
ライナーを総帥にするため、という(本人には伝えていない)目的のためとはいえ、内容は多岐に亘ります。

書類の意図を明確に理解できる読解力。
情報を解り易く丁寧に並べ替える整理力。
数多い申請の真偽を冷静に過ちなく定められる判断力。
そして、部下を従えるに値する、部下に従おうと思わせられる責任感の強さと統率力。
……正直、ライナーにはそのほとんどが足りません。特に前半みっつ。

いくつかは経験の上で身につくものですが、知識は違います。
反復して脳に染み込ませることによって、どんな時でも引き出せるようにするのです。
そのためには、何度も何度も覚えること。忘れてもまた覚え直すこと。

「シュレリア様、わかりませんー……」
「そこで諦めちゃ駄目。もっとよく考えて。解き方は前に教えたはずだよ?」
「えっと……あー、も、もうちょっとで出てきそうなのに……えっと……」
「………………」
「あー! そうだ、ここは確か……この公式で、これを当てはめて……っと」
「はい、正解。よくできました。次も頑張ってね」

どうしてもわからなければ助け舟を出し、でもそうでないなら考えさせます。
最初はどんなに時間が掛かっても構いません。その時間を次第に短くすることが目標。
重要なのは答えを導く方法を理解することです。
それさえ知っていれば答えそのものを知らずとも、ちゃんと正解に辿り着けるでしょうから。

「こ、これはどうやって解くんでしたっけ」
「ちょっと待ってね。これは……」

……あ、その、ひとつの机に二人で向かうと、こう、顔が近くなるものですね。
ライナーの吐息を耳のそばで感じて、頬は触れそうなほどのところにあって。
でも、悪い気は全くしません。少しばかりの恥ずかしさと、嬉しさ。
こうしてライナーといられる、そう思うと、自然表情が緩みそうになるのは、

―――― やっぱり、幸せ、だからですね。

その日の幸せは、私が眠る時まで続きました。
安堵のうちに今日を終えた私は、だから、油断していたのです。

言うなれば、きっと……待ち構える何もかもに対して。










考えに、甘さがあったのは確かです。
でも、ミュールがここまでするとは全く思っていませんでした。
勝負のルールとしてさり気なくライナーと距離を取っていた二日目、私はその一部始終を目にしていました。

「ぎゃーっ!」

朝に響いた叫び声。それがライナーのものだとすぐに気づき、慌てて音源の部屋へと向かい、

「な…………」
「あら、シュレリア。おはよう。で、何をしに来たのかしら?」
「な、な、なな…………っ」

布団から上半身を起こした姿勢でぴしりと固まったライナーのすぐ隣、肌が密着するほど近くに、人影があります。
病的な白い手が蛇のように伸びてライナーの胸辺りを這い、何故か上着のボタンを外し始めたところで私は叫びました。
それはもう躊躇いなく、外気を震わす大声で。

「何をしているんですか―――――――― っ!」

どうにか復活し朝食の席に座ったライナーが言うには、朝目覚めたらいつの間にかミュールが、その、同衾していたそうです。
しかも、朝の光に透けて見えるほど薄い生地のネグリジェで。艶かしく首に腕を回して。
状況がわからず困惑している時に、耳元で「おはよう」と囁かれ、混乱がピークに達したとのこと。
叫んでも当然だと思いますが、その一方で何故ライナーは言うほど嫌がってないのか、とも思います。

そこから、私の心休まる時間は次の日まで少したりともなかったのです。
例えば巡回。気まぐれ、という名目で付いてきたミュールはライナーとの同行を提案しました。
残念なことに、戦力を見れば断る理由はありません。こと塔へのアクセス速度、掌握力はミュールの方が私より上なのですから。
そしてもうひとつ、今日はミュールの日であることも発言を後押しし、私は許可を出さざるを得ませんでした。
部下の騎士達の前では、感情を抑え無表情を繕って。探索のため出立する二人を見送ります。
誰にも見えない背中側に置いた拳を、爪が皮膚に食い込むほど強く握りながら。

グラスメルクの作業中も、ミュールはライナーのそばから離れませんでした。
ちょこちょこ入る休憩に合わせて、技術面の質問をしつつべたべた触っています。
自然にとか気づかれないようにとか、そういった遠慮の類は全く窺えません。呆れるほど堂々と、です。
私ではこうはいきません。身体を寄せた時点で自制心が働きます。ましてやそんな密着するような姿勢は……ああっ、ミュール!
近づき過ぎです、と叫びかけた口を慌てて感情ごと閉じました。駄目です。これは勝負なんですから。

そう、勝負。
勝負だから我慢。我慢して私。

―――― 何を?

「え…………?」

その思考は、あまりにも唐突に、私の脳を走りました。
世界が急に色褪せたように感じます。すっと、血の気が引くようなあの感覚。
ライナーがミュールに離れろと言う声が聞こえます。聞こえるのに、耳には入りませんでした。
別にいいじゃない、とミュールが返答します。その言葉さえも聞こえるのに、わかりません。
景色から色が抜け落ちた瞬間、私はたったひとつの想いに囚われていたから。

……いけない。
考えては駄目。だって、だってそれは。

―――― 何を、我慢しているの?

「……シュレリア様?」
「え、あ、ライナー? な、何?」
「いえ、何でもないんならいいんですが……今、ちょっと顔色が悪く見えたので」
「大丈夫です。でも、大事を取って少し部屋で休みますね」

続く言葉を聞くことはありませんでした。
急ぎ立ち上がった私が部屋を出て、後ろ手にドアを閉めましたので。
もう、声は私に届きません。けれど耳に残った音の所為で、廊下の静けさを普段の二割増しに感じます。

まさか。まさか、と口の動きだけで繰り返します。
首の動きで自身の想像を否定しました。否定したのに、どうしても、しきれません。
勝負だからミュールはあんなライナーに接触しているのです。
恥ずかしがらないのは、元々のミュールの性格。そうに決まってます。そうでなければ、

―――― まるで、ミュールがライナーを好きみたいじゃないですか。

どれだけ自問をしても、結論は出ません。
頭では理解しているのです。それは、自分の力だけで導けるものではないのだと。

……伝える言葉にしなければ、想いは届かないと、知っているはずなのに。
そのための一歩が、今の私には踏み出せませんでした。



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