激しい排気の音を立て、その巨体は宙に浮かびました。 導力を受けフリッパーが回転し、推進力となり、爆発的な動きを以って飛翔。 先端、操縦席の後ろに座る私はガラス越しの空を目にします。 大きさに似合わぬ繊細な挙動でギャザーから離れ、一度ホバリング、僅かな静止時間の後は真下から上に向かう慣性。 加速度と重力が釣り合わず身体が微かにふわりと持ち上がり、けれどシートベルトに固定されてそれ以上は浮きません。 「ライナー、ブラストライン入りますよ!」 「大丈夫です!」 プラティナからホルスの翼に降りる際、必ず通らなければならないブラストライン。 その域に差し掛かる直前、操縦桿の近くにあるスイッチを押してグラバード羅針盤を起動、同時に動力源が切り替わります。 もう何度目かわからない行程。私もライナーも慣れたもので、操作は的確です。 機体の揺れも穏やかと言っていいほど。速く、しかし安全に私達の搭乗する飛空挺、グングニルは降下します。 数値計がブラストラインの突破を示しました。 動力源を戻し、目的地に向けて進路を変更します。 ここまで来ると幾分か余裕が出来、降りてからどうしようか、なんて会話が始まります。 いえ、まずはグングニルを持ち出してまで来た目的である買い出しなのですが。 「………………」 「どうしました? 先ほどから上を眺めて」 ふと気になって振り向くと、ミュールが目を細めて空へ視線を送り続けていました。 理由を訊ねて返ってきた答えは、 「……あれが、グラスノインフェリアの名残ね」 「はい。しかしミュール、あなたは見たことがあるとばかり思っていましたが」 「ええ、そうよ。でも、実際に間近で見るのは初めてだわ。記憶にある限りでは」 私は何も言えませんでした。 第二紀に於いて、彼女の世界はシルヴァホルンと塔のバイナリ野だけだったのですから。 外界の空気に触れることもなく、クレセントクロニクルによって封じられて。 ほんの少し前まで、肉体から切り離され指一本動かせなかったミュールにしてみれば、世界はまだ新しいものばかりでしょう。 ならこれから行く場所も、初めて尽くしになるはずです。 空港都市ネモ。人と物の多さはソル・シエール随一だろうあの町には、プラティナにないものがたくさんありますので。 ……過去の私はライナーに驚かされてばかりでしたからね。 恥ずかしい思いもするでしょうが、それすら経験になるものです。 無表情を装いながらも驚くミュールの姿を想像し、私はこぼれる笑みを抑えられませんでした。 もしかするとライナーも、こんな気持ちだったのかもしれませんね。だとしたら大変意地が悪いのですが。 私達を乗せたグングニルは、教会の方で用意してくれた専用の着陸場へと。 事前連絡を入れる必要がありますが、今回のような私用で訪れる時も含めお世話になっています。 飛空挺の操縦にはそれなりの修練が必要ですし、見張りの人もいるので万が一にも盗まれることはないでしょう。 おかげで、安心して買い物ができるのです。指揮をしてくれるラードルフさんには感謝、ですね。 「……ミュール、そんなにきょろきょろしないでください」 「してないわよ」 そう言いながらも、無関心を装った表情には隠し切れない好奇心が出ています。 しののめ、たそがれ、ほしのせのみっつの通りを回り、なるべく安上がりにするよう慎重な選択を。 各所で売っているものの傾向は違いますが、いくつかは店舗毎に値や品質の相違があり。 あまり目立たないこじんまりとした店に、意外と安価な品物が並んでいることも珍しくはないのです。 プラティナよりどちらかというと親しみやすい、地域に密着したような老舗が多いのも特徴でしょうか。 表に並ぶ品の数々も向こうでは流通していないものが大半。 ミュールからすれば、プラティナで得られない知識や経験ばかりの場所のはず。 「ライナー、これは何かしら」 「えっと……シュレリア様、何でしたっけ」 「…………昨日の夕食で使ったんだけど」 「ああっ! そういえば!」 「もう少しライナーは物事をよく見るべきだと思う……」 そんな会話を交わしつつ、買い物も半ばに差し掛かった頃です。 商店街を外れたところで細い路地の側から、か細い泣き声が聞こえてきました。 弱く、今にも途切れそうなほど小さな声で、にゃぁ、と。 最初に足を止めたのはミュールでした。 それから一瞬遅れて私とライナーも立ち止まり、声のした方を向きます。 誘われるように、ミュールは暗がりへと踏み入りました。 その後ろを追いかけた私の目に映ったのは、 「猫、ですね」 「…………猫?」 ダンボールの中には一枚の毛布と、くすんだ白色の子猫と呼べる体型の生き物。 すぐに、何らかの理由で捨てられた子だと気づきました。 捨て猫であることを示す張り紙の類こそ付いていませんが、状況を考えれば一目瞭然です。 掛けられた毛布が、飼い主だった人の善意だと信じたいのですが―――― 「どうして、その猫とやらがこんなところに放置されているの?」 「それは……きっと、買っていた人がもう世話できなくなったからかと」 「…………必要なくなったから捨てたってこと?」 「わかりません。お金の問題かもしれませんし、家庭の事情なのかもしれません」 「否定は、しないのね」 「……はい。そういう人間がいることも、事実ですから。でも、」 「それだけじゃない、って言いたいんでしょう。わかってるわ。ライナーを見ていれば」 ミュールの視線は、そっと猫を抱き上げたライナーに。 優しく、壊れ物を扱うような不器用な手つきで子猫をあやしています。あやすと言っても元から静かでしたが。 人は皆同じではありません。それぞれに個性があり、信念があり、善悪の感情があります。 レーヴァテイルを道具として扱ったのも人間ですが、今ここで猫を抱いているライナーも人間です。 私は、それだけでも、人間を信じるに足る理由だと思っていますから。 「にゃっ」 「ぎゃっ!」 あ、ライナーが引っかかれてますね。頬に綺麗な赤い縦線が。 「…………それで」 「何?」 「どうして子猫があなたの後ろを付いてきてるんですか」 「さあ。どうしてかしらね」 「………………」 「別に私が何かをしたわけではないわ」 「確かにそうですが……」 何故か、先ほどの子猫はミュールを追いかけてくるのです。 微妙な距離で、けれど決して離れることはなく。振り返る度、その小さな姿は視界に映っていました。 買い物を終えて帰る時になっても、ミュールの歩行に合わせるように寄ってきます。 「……懐いてしまってますね」 「そうみたいね」 「どうしましょうか……」 「ねぇ、ライナー」 「え? な、何、だよ?」 「この子も連れていっていいかしら」 「構わ、ないと、思う、けど。は、早く荷物を降ろさせてー……」 「シュレリア。あなたも、いい?」 また私を無視しますか、と言いかけた瞬間、問いはこちらにも向きました。 言葉に詰まり、少し悩んで、真剣に答えます。 「構いません。ただしミュール、ひとつ約束してください」 「……何を?」 「自分の決断には責任を持つように。子猫の世話はあなたがするんですよ」 「…………わかったわ」 「なら行きましょう。……あとライナー、大丈夫? もう荷物積み入れていいんだよ?」 「シュレリア様、いつも、思うん、ですけど、買い過ぎ、じゃないですか?」 「先日から食費が増えたんです」 「……すみませんでした」 一刀両断。 自業自得というものです。認めるのと納得するのとは別、まだ忘れてませんからね? のっそり疲れた動きで荷を降ろすライナーの横で、ミュールは足下まで来た子猫を両手で持ち上げ、恐る恐る抱きました。 子猫は腕の中で軽く身じろぎし、しかし大した抵抗なく為すがままにされます。 その時の、ミュールの表情は―――― 気の所為でなければ、穏やか、と表現していい色をしていました。 大変なのは帰宅してからで、猫と暮らすためには必要な物が数多くあります。 プラティナでそれを買い集め、知識のないミュールに世話の手順を教え(私も本知識しかないのですが)。 実践できるようになるまではさらに時間が掛かりました。 ですが、意外にもミュールは嫌味のひとつ、愚痴のひとつも吐かずに世話を続けました。 「よいしょ、っと……あら?」 「ちょっとミュール、おもらししてますよその子!」 「ほら、トイレはあっちだって言ったでしょう。行きなさい。……仕方ないわね」 「仕方ないのはどっちですか……」 「はいはい、ちゃんと拭き取っておくわよ」 なかなかトイレに慣れなくて何度も床が汚れたり。 「ミュール、入りますよ」 「…………すぅ」 「また裸で布団に入って―――― ふふ、今日は一人じゃないんですね」 「……ぅにゃ」 「おやすみなさい。良い夢を」 一緒のベッドで眠っていたり。 「子供を持つと、こんな感じなのかしらね」 「あなた既に息子がいるでしょう」 「………………ああ」 「アヤタネ、お前今忘れられてたぞ……」 ライナーがアヤタネに同情していたりと、毎日が三人の時とはまた違った刺激に満ちていました。 子猫は人懐っこく、けれど一番懐かれていたのはミュールで、いつも彼女の後ろに付いていく、そんな光景が見られました。 そして懐かれる側も、喜ぶ顔こそしませんでしたが、決して邪険には扱わず子猫の為すがままにしていて。 私はミュールらしいと、遠くから微笑ましく見守っていたのです。 そんなある日、ミュールが突然言いました。 猫が起きてこない、と。私とライナーは様子を探りに行き、そこでぐったりしている子猫の容態を知ったのでした。 いえ、ぐったりというよりも、全体的な挙動が遅い感じでしょうか。 歩く速さ、食べる餌の量は遅く少なくなり、それに比例してトイレの回数も減ります。 傍目から見て、子猫が弱っているのは明白でした。 一度プラティナの病院に連れていきましたが、望ましい結果は得られず、子猫のストレスを増やしただけ。 ネモに比べ、プラティナはペットの類を飼う者が少なく、故に動物に関しての知識を持つ医者はほとんどいません。 そして、弱り方を考えると、ネモに行かせるまで体力は持ちそうにありませんでした。 私達にできるのは、日に日に衰弱していく子猫を見守ることのみで。 特にほとんど付きっきりなミュールに対し、私は何も言えずにいました。 うずくまるその背を優しく撫でながら、何か、溢れそうな感情を表に出さないよう無表情を装っている、そんな風に見えたのです。 医者の話によると、子猫は元々弱っていたそうです。 原因はひとつではありません。誰の所為というわけではなく、ただ、初めからこうなる運命だったのかもしれないと。 運命という言葉を口にしたその医師は、とても苦々しい顔をしていました。 やがて、歩かなくなり。 餌も食べなくなり。 か細い泣き声さえも上げなくなりました。 ―――― その最期を看取ったのは、やはり、ミュールでした。 動かなくなった子猫を抱き上げ、彼女は振り向き、 「…………この子、随分重いのね。子供の癖に」 「………………」 「でも……今、この子の身体は、とても、軽いわ」 矛盾しているように聞こえるでしょう。 しかし私には、ミュールの言わんとしていることが理解できました。 きっとそれが死の重さ、命の重さなのです。抜け殻となった肉体には、魂の重みがありません。 どんなに抱きしめても身じろぎひとつせず、心地良さそうに鳴くことも、二度とない。 生命なんて、簡単に失われてしまうのに。 ならばどうして、どうしてこんなにも、 「…………命は、重いのかしら」 「……何故、なのでしょうね」 塔と一体化し、超常の力を行使する私達レーヴァテイル。 もし……レーヴァテイルが人間より優れているというのなら、何故ひとつの命も救えないのでしょうか。 私達の力は、何のために存在しているのでしょうか。 誰に問うても答えは出ません。私を作った人達は、遠い昔に亡くなりました。 そしておそらく彼らすらも、この疑問には答えられないのだと、思います。 ミュールは、泣きませんでした。 彼女の涙を、私もライナーも、一粒たりとて見たことはありません。 ですが、無表情に見えるようでも、その唇は痛いほどに噛み締められていて。 だからこそミュールは今、決して泣くことはないのだと知りました。 ライナーが無言でそっと細いミュールの肩を叩き、しばらく隣にいたことを覚えています。 それだけで、いえ、それで十分、悲しみを分かち合えたと信じましょう。 翌日、ふらっと出ていき帰ってきたミュールはいつもの調子を取り戻していました。 空白の時間、どこに行っていたのか。私は後に気づくことになります。 街外れに、小さなお墓がひとつ、ぽつりと立っていました。 墓標もない簡素なもの。それは名も無い子猫の魂に、安らぎを与えてくれるでしょうか。 「……そうであれば、いいですね」 失われた命を、私は忘れないでいましょう。 それが、悠久の時を生きる者に課せられた、鎮魂の手段なのですから。 back|index|next |