部屋を出た私は、焦る気持ちを抑えて居間へと向かいました。
知らず、拳がぎゅっと握られ手のひらに爪が食い込んでいます。
その鈍痛が腕を伝って響き、けれど痛みのおかげで思考は沈静化。

……落ち着きましょう。
思いだけが逸りますが、それで何が良くなるわけでもありません。
私がしっかりしなければ。今、家の中で動けるのは自分だけなのですから。

「ええと、とりあえずは……」

棚から薬箱を取り出し、中のひとつを選択。
まだ使える状況ではないのですが、水と一緒に後々必要となるでしょう。
湿布や包帯、消毒液などは普段の巡回時ならまだしも、今日は出番なしです。
蓋を閉じて仕舞い、一旦テーブルの上に薬を置いて、次のものを探します。

「あれはどこだったでしょうか……ああ、あそこですね」

記憶にある場所から引っ張り出したのは、弾力の強い氷枕。
口に当たる部分を手で広げ、冷凍庫より掬った大量の氷を流し込みました。
固形物が擦れ合う音と共に枕が膨れ上がり、十分入ったところで口を閉めます。
くるりとタオルを巻いて終了。布越しからでもひんやりとした感覚が伝わってくるのを確かめ、一息。
少々重いですがそんなことを気にしている余裕はなく、焦らずしかし急いて今度は風呂場から洗面器をひとつ。
氷混じりの水を張り、枕に巻いたのとはまた別の白いタオルを浸して濡らし、滴らないよう絞りました。

冷たさに、ん、と声が漏れます。
私の腕力は弱く、幾度も捻り力を込めて、ようやく水気がほとんど抜ける程度です。
そんな自分を情けなく思い、しかし首を振って自身を叱咤しました。

「待っててね、ライナー……!」

向かうはライナーの部屋。
何故このような状況になっているのか、その発端と原因の判明は、昼前まで時間を遡ります。










「あれ、おかしいな……?」
「ライナー、どうしたの?」
「いえ、何か、今日は上手く身体が動かなくて」

巡回中、普段は苦戦しないような相手に、ライナーは危なっかしい戦い方をしていました。
手足が思考についていけない感じ。薙ぎ払う剣の速度も、その銀閃の鋭さも、どこか精彩を欠いています。
詩を謳いながら見ている私は心配でしたが、ライナー自身が何も言わないので控えていたのです。

いつも通りの表情には、けれど僅かな困惑の色。
自らの状態を確かめるように右手を握り、閉じたり開いたりを繰り返しては首を傾げます。
どうしたものかと私は考え、巡回を早く終わらせるのが一番だろうという結論に辿り着きました。
ならば善は急げ。残りのルートをさっさと回ってしまいましょう。
そう思い足を速め、そこで大人しく巡回が済めば良かったのですが――――

「どうしてこういう時に限って……!」

戦闘数は、普段の約四割増しで行われました。
出力向上のために、最近使っていなかったリンゲージを転送、着用してなるべくライナーの負担を減らすよう善処はしました。
それでも頼る部分は零ではなく、力を振るう度ライナーの動きは如実に鈍くなっていき。
巡回の終了時には、珍しく息を切らすライナーを見ることになったのでした。

「ちょっと……大丈夫? ふらついてるよ?」
「あ、ほら、平気ですってシュレリア様」

そう言って私を安心させるように笑ってくれるのですが、どうしても不安が消えません。
ライナーの歩みは時々揺れ、私は心配できゅっとその手を握ります。
先導するつもりで前を行き、家の鍵を開け、扉を引いたところで、背中に重みが掛かりました。

「え?」

振り向きます。
そこには俯いたライナーが、私に体重を預け伏せていました。
咄嗟に肩を掴み、私よりも遙かに大きい身体を起こすと、苦しそうに目を閉じたライナーの顔が視界に入ります。
吐息は荒く、力も抜けていて、どう見ても尋常ではありません。
額に手のひらを当てると、強い熱を感じます。平常時とは似ても似つかない熱さ。
ここまで来て、ようやく私はライナーの不調の原因に気づいたのです。

―――― ど、どうしよう……。

胸を張って言うことではないのですが、私は病気の類に罹ったことがありません。
正確には、塔の管理者である限り絶対に病を患うことがないのです。
それは行動を束縛されるのと同じであり、リアルタイムで塔と繋がっている身がそんなでは色々と立ち行かないのは明らか。
よって、塔が行う生命維持管理には、肉体の保全と共に体調維持機能が付加されています。
そのため、長い人生に於いて病による不備を感じた経験は、ただの一度もなく。
経験がないというのはつまり、病気に対する知識も皆無ということです。

わかりません。どうすればいいのか、考えても答えは出ません。
でも、わからないなりに、ライナーをこのままにしていいとは思えず、私は必死に背負って部屋までその身体を運びました。

ベッドまで運び、横に寝かせます。
そうして感じたことは、ライナー自身の重さよりも、着込んでいる鎧の重量です。
これを巡回の時は常時纏って、さらに身軽な私の歩行速度に付いてきているのだと思うと、少し、申し訳ない気分になります。
自分の気遣いの足りなさが、ライナーに負担を掛けていないと言えるでしょうか。

「ごめんね……」

謝罪の言葉は、自然と口から漏れました。
それを引き金としたかのように、視界が揺らぎ、瞳の中が潤みます。
駄目、と自制し、深呼吸。溢れかけたものをどうにか抑えて、起立。
こんなところで罪悪感に浸っている場合ではありません。やるべきことは、他にあります。
私は目を閉じ、苦しそうな表情で眠っているライナーの全身を見渡しました。
……寝かすにも、この服のままでは色々と邪魔になるでしょう。
なら、まずするべきは――――

「着替え……ですよね」

部屋の箪笥から服を選び、取り出します。薄手で汗を吸いやすいものを。
手馴れているのは当然。服を仕舞うにも煩雑になってしまうライナーの代わりに箪笥を整理しているのは私です。
問題は、ここから。着せるというのは脱がせなければできないことであり、その、つまり。

「うぅ、し、失礼します」

まず当人には聞こえないでしょうが、一応礼儀として先に言葉を。
ゆっくりと手を掛け、鎧から順に外していきます。
さして複雑な構造でもなく、ましてや私はよく触っている分しっかりと理解しています。
接続部分の結合は簡単な指の動きで。マント掛け、肩と左腕のパーツはひとつひとつ着実に。
何度か仰向けからうつ伏せ、うつ伏せから仰向けにする必要がありましたが、引っ繰り返すにも一苦労です。
マントを身体の下から抜き一息。しかし、だいぶ軽くなってもまだ着替えさせるには足りません。

「そっと、そっと……」

なるべく優しい手つきで、そろそろと。
鎧の下、肌に近い服越しから感じる腹の感触は強く硬いものでした。
さらに腕や足にも触りますが、そのどこにも筋肉が付いています。
一見すれば意外と細身なのに、なるほど、ライナーの身体能力の高さはそこに起因するわけですね。
あ、でも、その……何と言いますか、そう、男らしい、身体で。
意識した途端、私は恥ずかしさが倍加したのを自覚しました。
うわ、と思わず抑えていた声が漏れます。身体を直視するのも難しくなって、頬が次第に赤くなり、

「い、急いでやりましょう!」

残り一枚のところまで持っていき、さすがにこれ以上は脱がせないと判断して上に着せます。
その際、軽く濡らしたタオルを調達、可能な限りの清拭もしておきます。
熱がある以上、お風呂に入れるはずはありませんので。
着替えが完了し、掛け布団を被せて一安心。けれどまだ完全に安心するには早いです。

「く……っ」
「ライナー……」

苦しそうな吐息を聞いて、私は―――― 怖くなりました。
いつも笑っていて、能天気で、病気とはまるで縁のなかったライナー。
それなのに今は、弱々しく寝込んでいます。その差が、事実が、私とライナーの違いを見せつけられているようで。

私は足音を殺して、退室しました。
焦る気持ちと、恐れを潰すための握り拳をそのままに。










「ん……あれ? 何で俺、ベッドに?」

起き上がると同時、全身に纏わりつくようなだるさを感じて、う、と声が漏れました。
そういえば、確か俺、玄関から先の記憶がない。それからどうしたかと考えて、ここにいる理由を悟ります。
膝の辺りに掛かる重さ。見れば、シュレリア様が膝を床につき、上半身を預けるように眠っていました。

手元に落ちた、もうほとんど乾いてしまったタオル。
水の張られた洗面器。空のコップと、頭の下に敷いてあった氷枕。

それは、シュレリア様の気遣いの証です。
俺が寝ている間、何をしてくれていたのか、はっきりとわかることはできません。
でも、俺の膝にもたれ眠っているシュレリア様の顔は、本当に穏やかで、安らかで。
そんな姿を見るだけで、随分身体が軽くなったように思えました。

「んぅ……ライナー……」
「……シュレリア様。ありがとう、ございます」

とりあえず、今はその優しさにもうちょっと浸っていたくて。
不調を少しでも早く治すために、俺はもう一眠りすることにしました。



結局、次の日には熱も下がり食欲も戻り、完全に俺は復活。
原因が何だったかというと、まぁ、その……風邪だったんですが。
突然倒れた訳をシュレリア様に訊かれて、

「俺、最後に風邪引いたのがえっと……そう、五歳くらいの時だったんです」
「え? じゃあ、十四年前?」
「以来病気の類に罹ったことが全くなくて、恥ずかしい話なんですが……」
「…………風邪がどんなものだったか忘れてた?」
「はい。何か身体が重いと思ってたんですけど、まさか風邪だなんて考えもしてなくて」
「……ライナー。"馬鹿は風邪を引かない"という諺を知ってる?」
「いえ、知りません」
「はぁ……。今日中に調べておいて。宿題ね」

何故か課題を出されました。
それで、調べたんですが―――― 俺がどれだけ落ち込んだか、明言は避けたいと思います。
あんまりにもその通りで何も言えません。……やっぱり俺、馬鹿なのかなぁ。



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