「ライナー……本当に作るの?」
「はい。……えっと、何かまずいことでもありました?」
「ううん、そうじゃないんだけど。それ、ホワイトリング、だよね」
「性能だけ言えばエアリアルのカゴの方がいいんですが、注文が来て、ならシュレリア様に教えるついでにと」
「注文の方がついでなんだ……」
「まぁ、その辺はあんまり気にしないでください。あ、これはそんな難しいものじゃないですから」
「わかった。やってみるね」


がががががが、しゅっ、しゅっ、しゅっ……しゅぴーん!


「うん、できた」
「もうシュレリア様に任せちゃってもいいくらいの出来ですねー……」
「本当に? なら嬉しいな」
「嘘はついてませんよ。俺のと比べても遜色ないですし」
「そっか……ふふ」
「しかし、鉄骨はまだわかるんですが、夢追いの水とインバートフックはどこで使ったんでしょう」
「付与効果のために必要なのかな。ほら、夢追いの水は相手を眠らせるものだし」
「それにしてもインバートフックは……あー、深く考えないようにしよう」
「…………ねぇ、ライナー」
「はい? 何ですか?」
「あのね……その、えと……いつか、私にも、ホワイトリング、作ってくれないかな」
「いいですけど……どうしてそんな言いにくそうに?」
「あ、うー……言わなくちゃ、だめ?」
「い、いえ、嫌ならいいんです」
「…………うん。言わない。嫌じゃないんだけど……」

―――― ライナーには、自分で気づいてほしいかな。

「え? 何か言いました?」
「ううん。ライナー、お仕事、頑張ってね」










……そんなことが、あったんだ。

俺はミシャに言ったことを思い出し。
それから、ミシャに言われたことを思い出した。

『俺……シュレリア様を、幸せにしたい。俺が、幸せにしたいんだ』

大事な人には、幸せになってほしい。
でも、シュレリア様はそうじゃなかった。それだけじゃなかった。
幸せになってほしいのは確かだけど、ただ望んでるんじゃなくて、

「……俺の手で」

独占欲とか、そういうものなのかはよくわからない。
笑顔を見ると嬉しくなれた。転んだりしたらすぐに駆け寄った。
苦しんでるなら隣にいたかった。肩を抱いて、背中を撫でたりして、大丈夫、って伝えたかった。

俺が何かをすることで、喜んでくれるのが幸せだった。
いつの間にか、俺の幸せがシュレリア様の幸せと繋がってたんだ。

『……大事な部分は、ちゃんとライナーが決めないと、ね』

自分の気持ちは、正直な想いは、向こうに伝えられた、と思う。
今でもその時のことを振り返ると恥ずかしくて、訳もわからず走り出したくなるけど。
胸の辺りが、たぶん心が温かくなって、心臓もドキドキして、優しい気持ちになれる。

誰かを本当に好きになったことなんてなかった。
かけがえない友を何人も得たけれど、彼らに抱く『好き』とは違う。
恋とか愛とか、自分には一生縁のないものだと漠然と考えてて、今まで感じたこともないからよくわからなくて。

……それでも、これはきっと、そういうものなんだ。

不思議と、確信を持って思える。
身体の奥底から湧き上がってくるような、物凄い感情。
色々なものがごちゃ混ぜになった、でも芯だけはしっかりした、この上なく真っ直ぐな感情。

「好きだから、幸せになってほしい。好きな人と一緒に、幸せになりたい」

―――― 俺は馬鹿だから、そんなに頭も良くはないから、間違ったり迷ってばかりで。
その度に悲しい思いをさせたり、相手を怒らせたりして、自分が嫌になったこともたくさんあった。
もっと強くなろうと。強くなって、せめて大事な人だけは悲しませないようにしたいと。
馬鹿だけど、何度も間違うけど、自分に嘘をつかず、向き合いたいと、思ったんだ。

「行こう」

ミシャの言う通り、ここは正念場。相談の時間はお終いで、あとは俺が頑張るところ。
覚悟を決める。するべきことを定める。恥ずかしくても目は逸らさず、間違いそうでも踏ん張っていく。

「行こう……!」

動き出した。










人間、信じられない状況に直面した時、現実を疑うものです。
私もその例に漏れず、まず耳を、次に目を、それから世界を疑いました。
要するに、それくらい驚いたのです。つい数秒前、ライナーから聞いた言葉に。

「シュレリア様、明日時間あります?」
「ちょっと待って……うん、大丈夫。何かあるの?」
「いえ、そのですね……デ、デート行きませんか?」

硬直。私はたっぷり十秒固まって、

「デ、デデデデート!? 私と!? デートに!? え、あ、ライナー待ってください落ち着いて 嘘じゃないですねドッキリでもないですね後ろにミュールが控えてたりとかしませんねどうなんですか!?」
「あの、とりあえず落ち着いてくださいシュレリア様。深呼吸深呼吸」
「は、はい。すー……はー……すー……はー……ふぅ。それでライナー、どうなんですか」
「久しぶりに敬語に戻ってますね……。嘘じゃないですよ。冗談でこんなこと、言えるわけないです」
「そ、そうだよね。取り乱してしまってごめんなさい」
「いきなりなのは自覚してます。でも、本当に大丈夫ですか?」
「……断る理由なんて、ひとつもないから。ライナーこそ、相手間違ってたりとかしない?」
「間違ってませんよ。俺が誘いたかったのはシュレリア様です」

何故でしょう、今日のライナーは妙に押してきます。
かなり直接的な発言に、私は紅潮する頬を抑え切れず、顔の熱を感じながら頷きました。

それからあれよあれよという間に明日の予定が決まり、ライナーは颯爽と退室。
昼前までに出かける準備をしてほしい、と言われましたが、具体的な行き先までは教えてくれませんでした。
少し考えましたがどうにもライナーの意図が掴めず、けれどそれ以上に明日が楽しみで、わからなくてもいい、と結論づけます。

どこに行くのか。何をするのか。
そんなことに思いを巡らせるだけでわくわくして、胸が高鳴って。
自然と、にやけてしまう自分がいるのに気づきました。こんな姿、ライナーには絶対見せられません。

「……今日は、身体を念入りに洗っておきましょうか」

ちょっと意識し過ぎだと思いましたが、その、身嗜みに気を配るのは女性の義務ですし。
大事なデートに向けて、万が一の失敗もしたくないのです。

……やましい気持ちとか妙な期待とか、そういうものがあるわけじゃないですからね。










さすがに楽しみにし過ぎて一睡もできない、なんてことはありませんでしたが。
いつもより睡眠時間が少なかったのは事実で、まだ僅かに眠い目を擦って私は身支度を整えました。
寝間着姿のまま洗面所で顔を洗い、一時措置として軽く髪を梳いてから自室にリターン。
散々悩んだ末決めた服を箪笥から取り出し、皺一つないことを確認してから丁寧に伸ばします。
一瞬せらうさドレスが視界の端に映りましたが見なかったことにしました。あれを着て外に出るなんて自殺行為にも程があります。

どんな服がいいのか、可愛いものじゃないと駄目なのか、きっちり着飾った方がいいのか、それはもう悩みました。
何せデートです。しかもライナーが誘ってくれた、初めてのデートです。行くからには喜んでほしい。
だから考え、考え抜いて―――― 結局、私が選んだのは、いつものワンピースでした。
青の下着と白を基調とした上着、共に上下一体スカート型の衣服。着慣れたもののひとつ。

無理をする必要は、ないのです。
ありのままで。素直な自分でいけばいいと割り切った時、あれだけ悩んでいたことが馬鹿みたいでした。
勿論、他の服が駄目なわけではありません。見栄えだけで言えばこれよりもいいのはいっぱいあります。
それでも私は、今日のデートにはこのワンピースが相応しい、と思ったのです。

寝間着のボタンを外し、袖から腕を抜いてぱさりとベッドへ。
ズボンも同じように脱ぎ捨て、汗の染みたショーツとブラジャーを変えてから、一枚目、青の方を手に。
首に掛ける紐を除けば筒に近い構造なので、上から被る形で腰下まで降ろしていきます。
しゅるしゅると絹擦れの音を立てながら生地は滑り、紐が首裏に当たって止まりました。
細部を皺伸ばしも兼ねて整え、続いて二枚目、白の方。
これも頭を先にして通し、二本の肩紐が引っ掛かるべき肩まで辿り着いたところで着衣は終了です。
一応鏡でおかしい部分はないかを確認します。……大丈夫そうですね。

居間に足を運ぶと、既にライナーが私服姿でいました。
いつもより早い時間です。朝の挨拶を交わし、軽い朝食を作って二人で食べます。
食事が終わり、本日二度目の洗面所で歯を磨いてから、今度は本格的に髪を梳きます。丹念に。

白というより銀色に近い自分の髪。指を入れればまばらに散る、少しの水気を含み枝毛ひとつない髪。
手入れを欠かさなかった結果がここにあります。誇っていい、誇っていいんだと、私は一人頷きました。

『シュレリア様の髪は、綺麗ですね』

そう言われるのが嬉しくて、もっと、明日も明後日も言ってほしくて。
本で知識を仕入れ、お風呂の中で、鏡の前で、洗面所でそれを実践して。
努力の果てに得たものは、称賛の言葉と優しい手のひら。
手が届くほど近くにいると時々、ライナーは私の髪を恐る恐るながら触れてくれます。
そして私が「触ってもいいよ」と言うと、感触を楽しむように、浸るように、ゆっくりと頭頂部から撫でるのです。

少しくすぐったくて、あたたかくて、目を閉じれば大きくてごつごつした、でも優しいライナーの手を感じることができて。
たった一分にも満たない時間ではあるけれど、そのためだけでも頑張った甲斐はあったと、思うのです。

……準備は終わり玄関へ。
外履きに足を入れながら、私は弾む気持ちを自覚していました。

「ライナー、お待たせ」
「あ、鍵閉めますね。……と。それじゃ行きましょう」
「どこに行くの?」
「下に。飛空挺使う許可とかはもう取ってあるんでその辺は心配しなくても平気ですよ」

どうやら、プラティナ周辺でないのは確かなようです。
だとしたら……いえ、考えるのは止めましょう。素直に楽しんだ方が、いいような気がしました。

ギャザーから飛空挺に搭乗、発進。
危なげなくグングニルは塔をなぞるような軌道で降り、見慣れた場所に着陸。そこは、

「はい、着きました」

……空港都市ネモ。買い物の度に来る町ではありますが、そういえば他の目的で訪れた覚えがほとんどありません。
観光自体は旅をしていた頃にだいたい済ませたとはいえ、それもだいぶ前の話ですし。
みっつの大通りをぶらぶら歩くだけでも、割と簡単に時間は過ぎていくでしょう。

「そろそろお昼ですし……まずはご飯でも食べましょう」
「うん。ライナー、当てはあるの?」
「これでもちゃんと下調べしてきたんですよ」

そうして入ったのは、シックな雰囲気の落ち着いたお店でした。
洋食を中心としたメニューで、特別高級なわけでもなく、値段も程々。
店内も上品というよりは親しみやすい感じで、なるほど、いい店だと思います。
ライナーがどこで、あるいは何でここを知ったのかはわかりませんが、また来たくなるところです。料理もおいしいですし。

お金は全部ライナーの懐から出ました。
私も払うと言ったのですが、ライナーは「自分が出します」と固持。
結局こちらが譲歩し、私は財布を開くことなく店を後にしたのです。

昼食の次は、適当に街を歩き回ります。
ネモには飛空挺の着陸、発進場である『はじまりの港』から、放射線状に道が広がっています。
その中でも最も大きなみっつの通路。商店街に近い、様々な店舗の立ち並ぶ、東雲通り、星乃瀬通り、そして詩神通り。
路面電車が走っているので、移動も徒歩と比べればあっという間です。
ちなみに、詩神通りはエル・エレミア教会に続く道で、逆に言えばそれ以外の見所はほとんどありません。
なので今日は東雲と星乃瀬のふたつをゆっくりと見て行きました。
よく星乃瀬通りの方にはグラスメルクなどの買い物で訪れるのですが、それでも新鮮と言いますか。
これまで気づかなかったところもいっぱいあり、楽しめたのは事実です。

道中、いくつか細かい買い物もしましたが、それらは全てライナー持ちでした。
デートでは男が女に財布を出させてはいけない、なんて表記を前に読んだ本で見ましたが、 ライナーはそれを律儀に実行しているみたいで、さっき食べたクレープも、腰を落ち着けて飲んだ紅茶も、私は無償で胃に入れています。
でも、不思議と「遠慮しなきゃ」という気持ちはなく、ライナーがそうしてくれて嬉しくすら思いました。

……私を、楽しませようとしてくれてる。

嬉しくないはずがないのです。
だってそれは、ライナーが私のことを考えてくれているから。
私を想って、気遣ったりしてくれているから。

知らず、頬が緩んできます。
ああ駄目駄目抑えないと、と気を引き締め、ほんの少し、数歩先を行く背中を見つめようとして、

「………………あれ?」

いません。ライナーの姿がどこにも見当たりません。
ええとつまりこれはその――――

―――― 私、また迷子に?」










ふと振り返って、シュレリア様がいないことに気づいた。
一瞬フリーズする。動いていた身体が固まり、何も考えられなくなる。
ちょっと待てとりあえず落ち着こう、と二度深呼吸をして、再度振り返り、現実を受け止めた。

「そういえばシュレリア様、物凄い方向音痴だったなー……」

最近はまるでそんなことなかったので忘れてたけど、ちょっとでも目を離すと前後を挟まれてたって迷ってしまう人なのだ。
幸い、まだ最後に見てからさほど時間も経ってない。近くにいるはずだと思う。たぶん。
さすがに大声で名前を呼びながら探すのは色々とまずいので、周辺から走って探した。
もしかしたら戻っているのかもしれないと、一度来た道、場所をひとつひとつチェックしていく。

「ここは……いない。ここも……いないか。ああもう」

段々、焦りが積もっていくのを感じた。
宵の奏月、つまりクレアさんのところか、あるいは教会、ラードルフのところに行ったのかもしれないけど、違うような気がした。
こうしている間にも時間は過ぎていってしまう。見上げれば青空が僅かに翳り始めている。
太陽が沈みかけていることを知り、余計に焦った。焦っても、シュレリア様は見つからないのに。

懐に手を入れて、そこにあるものを壊れない程度の力で握る。
確かめるように。自分の決意を、確かめるように。
行こう、と思っている場所がある。二人で。デートの終わり、最後に連れていきたかった場所。

「…………もしかして」

今いるのは、星乃瀬通りだ。
位置的に考えると、はじまりの港の方により近い。そこから少し西に歩けば、辿り着く。

可能性は他にもあって、むしろそこにいる確率は限りなく低くて、それでも信じた。
走る。速く、速く、最初から全力で。息が切れても構わない、走って、走り抜いた。
すれ違う人達の怪訝な視線も、並ぶ店の活気も、今の俺には届かない。
苦しくなってくる。腹が痛くなってくる。詰め込んだ食べ物が重くて、次第に足の回転も遅くなっていく。
それでも、止まらない。行ける、行く、行こう、そう思う。思って、転びそうになって、何とか姿勢を保ち、また駆けて。

「はぁ……はぁ……」

一気に坂と階段を上り、肩で息をしながらも、前傾になってしまう上半身を起こして、俺は見た。
小さな、広場とも呼べないような場所の中心に浮かび上がる大唄石と、そのすぐ近くの手摺りに体重を預けて佇む、

―――― シュレリア、様」

髪を靡かせて、彼女は振り向いた。










私は確かな声を耳にして、聞こえた方、背後を見ます。
そこには両手で膝を押さえたような、荒い息をしたライナーがいました。

「……ライ、ナー?」
「はい」
「え? どうしてここに?」
「何となく、シュレリア様がいるような気がして」

そう言う声に、迷子になった私を責める色は全くありませんでした。
どころか、心の底から安心した、と言わんばかりの溜め息を吐いて、かくんと膝を地に落とします。
慌てて私は駆け寄りましたが、

「大丈夫です。ちょっと、走ってきたもので」
「…………本当に?」
「緊張してたんですかね。何か、いきなり力抜けちゃいまして。すぐ立ちます」

制止された身としては、手を貸すわけにもいかないでしょう。
一分も掛からず、ライナーは呼吸を整え立ち上がりました。
見れば額にはじわりと汗が浮いていて、無理をさせた、私はそんな罪悪感に似た思いを抱きます。

「……ごめんね。走らせちゃって。迷子に、なって」
「シュレリア様は悪くないですよ」
「……でも! 私、いつの間にかライナーのこと見失ってて、」
「いえ。ちゃんと見てなかった俺の所為です」
「ううん。迷子になった私が――――

言葉は続きませんでした。
私の手を、ライナーが掴んでいたからです。
強く。少し痛いくらいに。痛いくらいの、気持ちを込めて。

「これで、はぐれませんよね」
「………………」
「あ、その、嫌ならいいんです。でもこうしてれば平気かな、って」
「…………嫌、じゃないよ」

嫌なわけがありません。
ずっと、こうしていたいと思ってました。
なのに言い出せなくて、伸ばしかけていた手を幾度も引っ込めていた今日。

私からも、力を込めます。控えめに、きゅっと。
指を絡め、握手の形ではなく手のひらを合わせるように。
私達の手は今までにないほどしっかりと、結ばれました。
その状況を保ったまま、ライナーが私の隣に並びます。

「シュレリア様。俺、最後にシュレリア様をここに連れてきたかったんです」
「どうして?」
「あっちを見ててください」

指差された方、雲の群れに混じりながらも光輝く太陽が、雲平線の彼方に沈んでいく光景がそこにはありました。
世界は黄昏、橙色に染まり、ライナーの横顔も影を帯びていきます。
陽が落ちて世界の色がシフトし、次第に暗い夜空へと変わります。すると、見下ろすネモの街が白色を纏い始めました。

それは、このちっぽけな世界で生きる人々の、営みの光。大地に灯る、星の光。

「……シュレリア様」
「何?」
「シュレリア様に、受け取ってほしいものがあるんです」

呼ばれ、見たライナーの顔は真剣で。
自然私も身体を強張らせます。どこか緊張した面持ちのライナーは懐に手を入れ、何かを取り出しました。

「……箱?」
「開けてみてください」
「うん」

受け取ったのは手のひらに収まるくらいの、小さな箱。
取っ掛かりに指を入れ、ゆっくりと開きます。開き、中身を知って私は絶句しました。

―――― そこにある、白銀の指輪を目にして。

嘘、というひとことがまず口から漏れました。
視界を上げてライナーの表情を窺い、二度瞬きをし、それからそっと、指で摘まんで持ち上げて。

「………………いいの?」
「も、勿論です。……ちょっと失礼しますね」

ライナーが指輪を取り、私の右手、薬指を空いた手で押さえて、差し入れます。
指輪はそこにあるのが当たり前だというようにするりと嵌り、第二関節の辺りで止まりました。
きつくもなく、緩くもない感覚。指輪は綺麗に、私の薬指に入りました。……入ったのです。

「ララライナー、こ、これわかってやってます?」
「わ、わかってやってないはず、ないじゃないですか」

胸の辺りが、ふわふわした感じで。
どこか現実味のない、夢のような心地でした。

「ホワイトリングを元にアレンジしました。特別な効果はないんですけど……もう一度、ちょっと失礼しますね」
「う、うん」
「見てください。この、裏側」

するりと指輪が抜かれ、私の眼前に持っていかれます。
街の灯りと大唄石の放つ光を頼りに目を凝らすと、裏側、つまり指に触れる側が線状に削られていました。
傷、ではありません。明確な意思を以って刻まれたもの。そこには、

Hartes yor yanje.

ヒュムノス。意訳するならば――――

「……ずっと、貴方を愛します」
「色々迷ったんですけど、これが一番いいと思って」
「…………ライナー。重要なことを忘れてる」
「え?」
「私達レーヴァテイルはヒュムノスを扱うけど、普段、例えば日常会話には使えないんだよ?」

そう。塔にアクセスするための、言語というよりは『想い』を届ける手段です。
想音がなければ塔は認識しませんし、そもそも彫り刻むならヒュムノスでなくとも良かったはず。

けれど、私にはわかりました。
ヒュムノスが自分の想いを伝えるものであるならば、ライナーの気持ちはここに全て込められています。
愚直なほど少ない単語数で、文法だって怪しいもので、他に簡単な方法はたくさんあったのに、それでも。
私を想ってくれたからこそ、ヒュムノスを選んだのだと。誓いを、指輪に刻み入れたのだと。

落ち込み俯いたライナーの頬に手を伸ばし、触れました。
なぞるように。今度は自ら着けた指輪のある右手で、左頬から唇へと。
何かを言いかけた口を、指でそっと押さえます。それだけで言葉は表に出ませんでした。

「……大丈夫。ライナーの気持ちは、ちゃんと、通じたから」

返ってくるのは無言の頷き。
その表情は憂いからやがて小さな笑みに変わり、そして、決意の色を湛えました。
ゆっくりと私の両手を掴み、握り、包み、ほんの少しだけ残っていた迷いを消し飛ばすように力を込めて、



「……シュレリア様。結婚してください!」



―――― ああ。
こんなにも強く、大きな幸せが、私にも得られたのですね。



「はい……喜んで」



両手を包むぬくもりが離れ、肩に手が置かれます。
どちらが先かは覚えていません。ライナーが僅かに屈み、私はちょっとだけ爪先立ちをして、

「ん……っ、ふ、む……んんっ」

唇が合わさりました。ただ、ひとつになるだけの、優しいくちづけ。
一瞬が永遠に等しい時間の中、ただ感じるのはライナーの吐息と繋がった唇から伝わる熱だけで。
息をすることも忘れ、その柔らかさを、熱さを、幸福を、確かめ続けました。

十秒か、二十秒か三十秒か、一分以上なのか。
遠ざかる身体を視認し、私は今更に、は、と詰まっていた空気を吐きます。
それはライナーも同じだったらしく、互いの間抜けさに気づき、私達は笑いました。
嬉しくて、嬉しくて、本当に嬉しくて、涙も流れてきて、拭うライナーの指があったかくてまた溢れて。

……ふと、先日見た夢を思い出しました。
あの時はなんて恥ずかしい、と錯乱しましたが、今考えると、私はずっとあんな風になるのを望んでいたのです。
まさか正夢になるとは全くこれっぽっちも思いませんでしたが、

―――― どんな夢も、現実には敵いませんね。

心の中に、とても素敵な気持ちがあります。
永遠に消えることのない、大きな大きな想い。
それをしっかりと噛みしめるように、

「ライナー……好き」

私から求めた二度目のキスは、さっきよりも長いものでした。



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