願はくば この謳を呼び聞かせ給へ―――― その高き高き星降る山から、一羽の鳥が舞い降りる。 雲よりも、雪よりも、澄んだ心のような純白よりもさらに白く輝く一対の羽根を纏って。 無垢な瞳は遙か遠くを、先に続く希望の未来をしかと見定めていた。 やがて飛び立つ鳥の行く末は、地平の彼方より昇り来る太陽。 風切りの音が響く。それはどこまでも、どこまでも……歓びを歌うかの如く、空へと満ちていった。 少女は自らの足で大地を踏みしめる。 常冬の頂は雪に覆われ、裸足の身には辛い。 だがそれよりも、何よりも、大事なことがあった。 書庫の外に広がる景色。肌を刺す冷気。草と土の匂い。二度と見ることはないと思っていた、闇に慣れた目には眩し過ぎる光。 ああ……なんと美しく素晴らしく、奇跡のような世界なのだろうか。 じわりと溢れ、やがて流れる涙を抑えることもせず、拭うこともせず、少女は日方を見つめていた。 閉ざされるべき場所。永久に封印される運命を持った書庫。 その一角、最も深き部屋にて厳重に縛られ、古びず朽ちもしなかった禁断の本。 幾千年もの間、少女は本の姿を取っていた。 幾千年もの間、少女は生贄の役割を果たし続けていた。 幾千年もの間、少女は許された声だけで誰にも届かぬ呻きを上げていた。 封じられることが使命だと解っていながら、それでも開放を、願っていた。 永遠に叶うはずのない、あまりにも儚い希望。 なのに今こうして、光降り注ぐ地に両の足をつけ、立っている。 長い黒髪を風に靡かせ、華奢な身体は弱々しくも揺れることなく、空を見上げ。 白よりも薄い光に手のひらを透かし、おもむろに口を開き、歌い始めている。 最後に発したのは数千年も前。そんな喉での歌は、震える声で、たどたどしかった。 音程は外れ、言葉は擦れ、それはきっと、歌と呼べる代物ではなかったかもしれない。 しかし、彼女の歌を聴く者がいた。受け入れてくれる者がいた。 羽ばたきの音が響く。現れたのは、純白の鳥を肩に乗せた、まだ年若き騎士。 彼は少女に微笑みかける。 その表情は、全てを乗り越えた強さを含んでいて。 「お前が……我の封印を解いたのか? そして、魔王を倒したというのか?」 「はい。憶えていますか?」 「……ああ、ああ、憶えているとも。我が口が諭し、家路に就かせてしまった青き騎士よ」 「その通りです」 「まさか再び逢おうとは……思いも寄らなかった。この地に足をつき、手と手を取り合って逢おうとは」 騎士が取った少女の手は、随分と冷え切っていた。 きゅっと、握り返される。離さないように。温かさを、生きているという感覚を、もっと求めるかのように。 指は細く手は小さく、少し強く掴めば壊れてしまいそうなほどか弱い。 騎士は思う。 こんな儚い身体を捧げて、彼女はたった一人世界を背負っていたのかと。 「…………辛かった。苦しかった。我は数千年を、呪われし日々として過ごしてきた。 だからこそ、涙が出るほどに嬉しい、この世界への再生。私は……生きている。生きているのだな」 「ええ、貴方は、確かにここにいます」 「―――― だが騎士よ。お前に護るべきものは、なかったのか? 再生と同時に朽ち果てるかもしれぬ我の開印を行うなどとは。 それは、お前がこれまで背負ってきたものを投げ打ってまででも、すべきことだったのか?」 「………………」 「あるいはその、白き鳥のように……ただ気ままに、生きるのみなのか」 何という、ことだろうか。 ここまで来て、少女は己よりも他人の心配をするのだ。 書庫に至り、魔王を倒し彼女を解放するまでに捨ててきた全てを、歩んできた道を振り返れと。 まだ間に合うかもしれないのだから、戻った方がいいのではないか、と。 ―――― まさか。 どうして、騎士が少女の隣にいると思っているのだろう。 「……私は、ただ気ままに生きる身でした。だが今は違う」 「違う、のか?」 「貴方の封印を解いた時、一つの呪いにかかってしまった」 「汝は…………我の為に呪いを受けてしまったというのか」 少女は疑問を抱く。 ならば何故、微笑んでいる? 呪われた原因である自分を、恨んでもいいはずなのに。 騎士の答えは、そんな少女の想像を大きく飛び越えていた。 「そう。永久に貴方と共に生きたいという、幸多き呪いに」 「な…………っ!?」 「貴方は、嫌ですか?」 「汝はそのためだけに、そんなことのためだけに、魔王を倒し我を解き放ったというのか!?」 「はい」 「馬鹿だっ! 汝は馬鹿だ! 世界一の愚か者だ!」 「はい、解っています。それでも……私は、貴方を救いたかったのです」 「………………」 返事はない。 細い肢体が静かに、騎士の身体にしなだれかかり、両腕を背へと回す。 埋めた顔から嗚咽が聞こえてきた。少女を、騎士はそっと抱きしめ返した。 「行きましょう。私と一緒に、来てくれますか?」 「……我は、幸せになっても良いのか?」 「勿論です。私が貴方を、精一杯幸せにします」 二人の身が離れる。 そして少女は、騎士の差し出した手を、 「……ああ、我を幸せにしてくれ!」 強く、強く、掴んだ。 Was yea ra waath near en hymme Re-nation mea リ・ネイション。 それは、尊き命の再生を謳う詩です。 長き眠りから目覚め、明日を生きる幸せを謳う詩。 「何だか……素敵な『想い』ですね」 「うん。私は、これが塔そのものに込められた、塔に願われた答えなんじゃないかと、思ってる」 「答え、ですか」 「私達が扱うには大き過ぎる力だけど……力はきっと、人を幸せにできるから」 昔、月奏と呼ばれる謳い手がいました。 その中でも"音科学の父"として伝えられる男は、唄石を発見し、それを元に我が娘のためにオルゴールを作りました。 小さな箱が奏でる音は、光を撒き、人々の心を安らぎに満たしたと言います。 今でも『原初のオルゴール』はアルトネリコの中枢部分、木製の粗末な部屋に置かれています。 娘に捧げられたひとつの曲。音科学の原点、そしてある意味では、この世界を築き上げた純粋な『想い』。 詩の力は誰かを想う気持ちです。ならば詩によって恩恵をもたらす塔も、人々の『想い』で作られたのでしょう。 私は、管理者であることを誇らしく思います。 この身で、この心で、みんなを護れるのですから。 「それに…………」 「ん?」 「…………ライナーの身体って、思ったより、その、大きいんだね」 「シュレリア様っ!?」 「仮想世界の中でとはいえ、また手も繋げたし……」 「あ、あれはほら、俺であって俺じゃないというか……!」 「………………」 「え? 何故そんな目を?」 「ライナー……もしかして、私と手繋いだり……だだ、抱き合ったりするの、嫌だった……?」 あ。ライナー固まった。 「いえそんなことは全然なくてむしろ嬉しかったというかシュレリア様が薄布一枚でくっついてくるもんだから あれもしかしてこれって感じで手も小さくて柔らかかったしそこで何で俺抱き返してるんだとかで物凄く慌ててどうしようかと、」 「ライナー」 「はっ、はいぃ!?」 「私のこと、どう思ってる?」 「俺の上司で可愛い女の子で毎日ご飯とか作ってくれて有り難く思ってます!」 「…………はぁ。ま、まだいっか」 「……シュレリア様?」 「ううん、なんでもない」 まだ、可愛い女の子、は一番上に来ないみたいですし。 それにちょっとでも遠回しな言い方では、しっかり伝わらないと改めてわかりました。 ……まぁ、ライナーですしね。これから気合を入れて調教……あ、いえ、教え込まないといけません。 私も変な言葉を覚えたものです。ホルスの翼で集めてきた書籍の影響でしょうか。 ―――― ひとつ、自分に誓っていることがあります。 オリカさんやミシャを差し置いて、私はライナーの隣に立つことができました。 だから、負い目などではありませんが、誰にでも優しくて故に罪深いライナーを変えようと思っているのです。 私からは明言しません。 いつか、ライナーが私に……そう、告白してくれる日まで、この気持ちはまだ、内緒。 傍から見ればバレバレかもしれなくても、それでも。 今はここにいない二人との、言葉で交わさなかった約束なのです。 「帰ったら、少しライナーは勉強ね」 「ええっ!? どうしてですか!?」 「このままじゃ色々と不安だから」 「断言されましたよ俺……」 ……貴方に、必ず幸せな呪いをかけてあげるから。 ――――翌日、リンカーネイション 「…………やはり、来ましたか」 「ええ。あなたとは一度話をしておくべきかと思ったの」 「奇遇ですね。私もです。……クロニクルキー、サスペンド、そしてリ・ネイションの仮想世界を構築したのは、貴方ですね?」 「否定はしないわ。そもそも、私とあなた以外にそれができる子はいるかしら?」 「……その通りです。貴方なら、塔が記録していた映像、音声データから詩をコピーすることも可能でしょう」 「効果までは無理だったけど。当然ね、録音された音だけじゃヒュムノスは意味を成さない」 「詩の『想い』も……私に入り込んだ時、ですか」 「さすが、頭が良く回るわね。あとは塔内のデータも参照したわよ」 「しかし……不可解です。貴方は何故、あんなものを作り、私達に見せるよう仕組んだのですか」 「あら、心外ね。私はちょっと見えやすいところに置いといただけ」 「それでも、です。正直に、俗な言い方をすれば、貴方が得をする理由が私には思い当たりません」 「…………あなたは、彼といて、何を思うの?」 「え?」 「強いて言うなら……興味を持ったのよ」 「興味、を?」 「あなたの横にいる彼。ライナー、だったかしら?」 「なっ……!」 「落ち着きなさい。あなたと争うつもりはないわ」 「……その言葉を信じろと、言うのですか」 「シュレリア。私は、人間を憎んできた。ただ滅ぼしたかった。私を、レーヴァテイルを道具としてしか見なかった奴らを」 「………………」 「でも、彼は気づかせてくれたわ。彼みたいな人間もいる。間違いを正そうとする子もいるのだということを」 「………………」 「私は……今まで、そればかり思ってたのよ。だから、そんな私から憎しみを取り去ったら、何も残らないじゃない」 「…………貴方は……」 それきり、彼女は無言で去っていきました。 全ては推測するしかありません。ただ、おそらく彼女を一番理解できるのは、私でしょう。 ミュール。貴方は―――― 貴方は、寂しいのですね。 back|index|next |