学校で見る有馬冴子の印象を端的に述べるなら、幽霊のような少女、という表現が最もよく当て嵌まるだろう。 窓際の一番前にある席で、いつも眠たそうな目をしながらぼんやりと外を眺めている。授業に集中する素振りも見せず、ただそこにいるだけ。いつの間にか教室に現れ、気付けばいなくなる、まるで存在感のない同級生。噂さえなければ、誰の言葉の端にも上りそうにないほど薄い人間だった。 思い返すと、彼女は周囲に初めからいないものとして扱われている節さえあった。信憑性の皆無な、半ば冗談めいた噂話で語られることは多くとも、実際冴子が誰かに話しかけられている場面は見た覚えがない。健一の記憶が怪しいからかもしれないが、教師さえ意図的に冴子を指名していなかった気がする。碌に授業も聞いていないのだから無意味だと判断したのか、あるいは他に何か理由があるのか、それはわからない。 しかし、一つ確かなのは、健一にとって、今や冴子は全く知らない相手ではないということである。 「……絹川? ちょっと絹川、聞いてるの?」 「え?」 と、考え事をしている最中、耳元から苛立たしげな声が響いてきた。 反応に遅れた健一が軽く耳を押さえて振り向くと、そこには鍵原ツバメの姿。 何故か仁王立ちで、腕を組んで、健一を見下ろすように睨んでいる。どうにか表情は笑みを作ろうとしているらしいが、その顔をにこやかというには些か頬が引き攣っていて、正直ちょっと怖い。 「二人で話したいことがあるんだけど」 「二人で? どうして?」 「口答えしてる暇があったらさっさと立ちなさい。行くわよ」 相変わらず強引なツバメに急かされ、ここは逆らわない方が賢明だなと判断して健一は立ち上がる。ちょうど先ほど三時限目の授業が終わったところで、次の準備も含め用意されている休み時間は十分間。話がどれくらい掛かるのかは謎だが、まあさすがに四時限目をサボってまで続くものではないだろう。微かに苦笑いを浮かべ、ふと目が合ったそれなりに仲の良い男子生徒へ視線を向ける。大変だな、というような同情の眼差しが返ってきて、今の自分がどんな風に見られているかが理解できた。 恋多き女。ツバメの性分は、クラスのほぼ全員が知っている。 荒れた足取りで教室の外に出ていく小さな背中を追いかけた瞬間、からかいの言葉が後ろから飛んできた。 「気を付けろよー」 「絹川、喰われないようになぁ」 それで前を行くツバメがさらに険悪な雰囲気を纏ったのが感じられ、健一は思わず頭を抱える。 だから……ではないが、千夜子が心配そうな目で見つめていたことには、残念ながら気付かなかった。 「あんたさ、ああいう連中と付き合ってて楽しい?」 「……そこそこには」 昼休みと比べれば静かな廊下を歩きつつ、振り返ったツバメは明らかに不機嫌そうな声色でそう言った。 誤解される状況だったとはいえ、揶揄されたことに腹を立てるのも当然と言えば当然で、けれど健一とて彼らがそこまで不愉快な性格をしているとは思えない。なので正直に答えたのだが、やはりツバメにとって望む返事ではなかったようで、素気なく「あっそ」と突き放される。ある意味理不尽な反応に健一が溜め息を吐いていると、階段に差し掛かったところでツバメが足運びの速度を上げた。 遅れて付いていく健一は、自然ツバメを見上げる姿勢になる。 彼女のスカートはかなり短く、そうしていると視界の中にパンツが入ってしまうのだった。 「鍵原、パンツ見えてる」 「別にいいわよ。見られてもいい奴だし」 「どんなパンツだよそれは……」 「うるさいなあ、もう。別にいいでしょ、私のパンツなんだし、あんたが気にする必要はないじゃない」 「いや、でも……はぁ、鍵原がそう言うならいいけどさ」 普通そういうのは例外なく見られたくないものじゃないのかと考えたが、今のツバメには何を言っても無駄なことくらいわかっているので、代わりに目を下に逸らし、少し駆け足で横に並ぶ。ちらりと盗み見た表情は相変わらず不機嫌そうで、正直に言えば、健一は未だにどうしてツバメが怒っているのかわからなかった。どんなに首を捻ってみても、こうなっている理由が全く掴めない。 ツバメが不快になるようなことを、自分でも気付かないうちにやったのだろうか。 「だいたい、絹川っておかしくない? 何で女の子のパンツが見えたのに喜ばないのよ」 「喜んでほしいのか? というかそもそも、鍵原はそんな話をするために俺を呼び出したわけ?」 「そうじゃないけど……ああもうっ」 苛立ちともどかしさ、そして僅かな弱音を合わせた、どこか泣きそうな顔をしてツバメが立ち止まる。 階段の中途、彼女よりも一段だけ高いところで健一も足を止め、会話に入る姿勢を見せた。 「ヤリ魔サセ子のことをあんたが気にしてるみたいだったから、釘を刺しておこうと思っただけ」 「……誰それ?」 「朝から授業中にちらちら見てたでしょ」 「いや、全然わからないんだけど……。そんな変な名前の人、この学校にはいないし」 「男子の間じゃそう呼んでないわけ?」 「誰のことか知らないけど、聞いたことないなあ」 子、というからには女性なはずだが、さっぱり見当が付かない。 それに、綽名としては随分酷い名前だ。あからさまな悪意を感じる。 「――有馬冴子」 ただでさえ少ない覚えのある生徒の顔を脳裏に思い浮かべていると、ツバメが頬を膨らませて答えた。 名を呼ぶことすら嫌だとでも言うように、吐き捨てる口調で告げる。 「うちのクラスの有馬冴子。いくら絹川でも、あの女の噂くらいは知ってるんじゃない?」 「まあ、一応は」 「あんた、何度も見てたわよね? 私が確認しただけでも三度」 「それで全部だと思うけど」 「だとしても、随分御執心じゃないの」 「別に有馬さんを見てたんじゃなくて、外を眺めようとしたら視界に入っただけだよ」 「だったら外なんて見ない。授業中なのに窓の方向いてたら変でしょ?」 「その通りだけど、じゃあ鍵原はどうして僕を見てたのさ」 「たまたま視界に入ったのよ」 「………………」 無茶苦茶だった。 「ともかく、あの女は駄目。絶対に駄目。例えあんたが彼女欲しいって思ってるとしても、有馬冴子は許さないわ」 「鍵原に許してもらう必要はないんじゃないかな……」 「何か言った?」 厭に頑ななツバメの言動に、健一は不信感を抱く。 彼女が欲しいとは思っていないが、そこまで冴子を否定するのは何故なのかがいまいち不明だ。 「いや、何でそんなに有馬さんのことを気にしてるわけ?」 「だって、あの女はそういう奴だもの。噂が全部本当じゃないだろうけど、それでも半分くらいは事実みたいだし」 「……そうなんだ」 「ヤったって自慢してる馬鹿な男が何人もいるし、絹川だって聞いたことない?」 「特には……」 どんどんヒートアップしていくツバメ。対する健一としては時間が気になって仕方ない。 これでもう五分くらい話し込んでいるはずだから、早く教室に戻らないと遅刻扱いになってしまう。 しかし気になってそわそわし始めた健一にはまるで気付かず、怒り心頭といった様子で話を続ける。 「それにあの女、私の彼を寝取ったのよ」 「あー……そりゃ良くないな、確かに」 「まあ、告白しただけで、まだ付き合う前だったけど」 「なら彼氏じゃないんじゃ……」 「でも脈ありそうだったし、きっと次の日には彼になってたの!」 「……なのに邪魔されたから恨んでるわけ?」 「しかも一度や二度じゃないのよ? 三回も同じ目に遭ってるんだから。三回!」 「三回も、ね……」 「だからあの女に目を付けても碌なことにならないの。忠告してあげただけでも有り難く思いなさいよ」 どこか押しつけがましい言い方に、そこまで色々語ったら普通逆効果なんじゃ、と思ったが口にはしないことにした。 余計なひとことで状況がこじれるのも面倒だし、このまま黙っていた方が利口だろう。 それを肯定と捉えたのか、ツバメはようやく満足そうに頷いた。 「いい? これ以上あの女と関わらないでよね。見るのも駄目」 「クラスメイトなんだしわざわざ避ける方が不自然だと思うけどなあ」 「じゃあ不自然じゃない程度に避ければいいでしょ。……忠告したからね」 最後にそう呟き、小走りで階段を駆け下りていくツバメを見送り、健一はしばし呆然とする。 そして四時限目までもうほとんど時間がないことを今更ながらに思い出し、慌てて教室に戻った。 席に座ったままの冴子は、変わらず幽霊のようだった。 昨日、公園で冴子と会った後。 健一は彼女と一緒に、幽霊マンションの十三階にやって来ていた。 本来鍵を持たない人間は入れない場所に冴子が足を踏み入れられたのは、鞄の側で拾ったあの1303号室の鍵が彼女の持ち物だったからである。階段を上る道すがら、存在しないはずの十三階と奇妙な法則についての説明をしたのだが、あまり冴子は驚く様子を見せなかった。一度聞いただけでは信じ難い話のはずなのに、随分あっさり納得したものだから、逆に健一が困惑したくらいだ。 「ねえ、絹川君」 「はい?」 「ここって他の人を連れてくることはできないの?」 「うーん……僕は試したことないですけど、鍵を持ってる人以外は駄目みたいですね」 「そっか。じゃあ、無理かな」 「何がですか?」 「さっき話したでしょ。男の人を連れ込もうとしたんだけど、そう都合良くは行かないな、って思ったの」 「……ああ」 「それに、ここは絹川君の部屋でもあるんだし、そんなことしたら迷惑よね」 「まあ、ワンルームじゃないですし、僕はこっちに住んでるわけじゃないですから、有馬さんの部屋は自由に使ってもいいですけど」 「……絹川君って、面白いことを言うのね」 「え? 面白いこと、ですか?」 「男の人って、もっと極端だと思ってた。そういうのは駄目だって否定するか、自分も混ぜろって言ってくるか。なのに絹川君は、私が私の部屋で何をしようが構わないだなんて言うんだもの」 「僕はどうやら普通じゃないみたいですからね……。自分じゃ気付いてなかったんですけど、この頃色々な人にそう言われてる気がします。それも特に、僕から見て普通じゃないと思うような人ばっかりに」 「それは、私も普通じゃないって意味?」 「まだ有馬さんのことはよく知らないけど、普通には見えないかなあ」 「……ふふ、そうね」 冴子は本当に可笑しそうに頬を緩め、 「絹川君。もし私があなたを誘ったら、やっぱり迷惑?」 「僕に、有馬さんの相手をしろってこと?」 「そう」 「別に、そんなつもりでここに連れてきたんじゃないんだけど」 「それはわかってるけど、でも、二人が同じ部屋の鍵を持ってるっていうのは、何だかそういう感じがしない?」 「しない」 「……やっぱり絹川君って面白い」 「どこがですか」 「だって、全然見返りが欲しいだなんて思ってないんだもの。綺麗事でも何でもなくて、心からそう言ってる。……正直、どこかで少しくらいは私とエッチしたいんじゃないかって考えてるのかな、って感じてたんだけど、不思議なくらい下心がないのね」 忍び笑いを漏らす冴子に、健一は苛立ちを覚えた。 自分が馬鹿にされているようで、知らず拳を握りしめ手のひらに爪を立てていたが、次の冴子の言葉ですっと感情が解けた。 「……私、嬉しかったの。私の噂を知ってても、実際に顔を合わせても、不純な動機とか抜きに、本気で手を差し伸べてくれたから。そんな人がいるのがわかったから、笑ったの」 「じゃあ、どうしてこっちを見ずに言うんですか」 「それは……その、自分で今の台詞が恥ずかしいって思っただけ、なんだけど……」 「………………」 「ごめんなさい。笑うのなんて、本当に久しぶりだったから」 僅かなやりとりではあったが、多少健一は有馬冴子という人物について理解を深めることができた。 あの、学校での幽霊めいたイメージとは違う、暗さを残しながらも、決して言葉には詰まらない思慮深い性格。 こうも違うものなのか、と感心しながら、鍵を開けて冴子を1303に案内する。昔住んでいた場所と寸分変わらぬ間取りなので、どこに何があるか説明するのは容易く、その辺の事情も含めて話し終えると、彼女は一番奥にある両親の部屋を使うと言った。元々母親とワンルームのマンションで暮らしていたらしく、広過ぎると落ち着かないから、そして一応二人で使うのだから隣り合った部屋にするのは良くないだろう、という二つの理由で決まったことである。 健一は帰る家があるので(1301号室にもちょこちょこ顔を出す)全部の部屋を自由に使っていいと申し出たのだが、冴子は頑なに断った。確かに鍵を持っているのだから健一にも使う権利があるとはいえ、やはり男女が一つ屋根の下で一緒にいるのは気まずい。なのに何故か、時々使わせてもらう、と言った時に冴子が微笑んだので、重ね重ね不思議な人だな、と思う。 ともかく伝えるべきことは伝えたので、冴子と1303で別れ帰ろうとし、 「あ、健ちゃん!」 ――綾に呆気なく捕まった。 そのまま1301まで引っ張られる。 「ちょっと、待ってください。どうしたんです、お腹でも空いてるんですか?」 「それもあるけど……健ちゃんさ、さっき誰か女の子と一緒じゃなかった?」 「まあ一緒でしたけど、何か問題でもありました?」 「むー、開き直ってるー」 「何がですか。僕は新しい住人を連れてきただけですよ」 「新しい人?」 「はい。僕と同じ1303号室の鍵を持ってて、それで、綾さんに連れてこられた時みたいに案内してきたんです」 「それで早速エッチしちゃったんだ……」 「してません。綾さんと一緒にしないでください」 「えー、あの時は健ちゃんもノリノリだったのに」 「……厭に絡みますね」 「だって、健ちゃんエッチしたんでしょ?」 「だからしてませんって」 「じゃあしてないけどしたいと思ってたとか」 「綾さんはそんなに僕をがっついた男にしたいんですか……」 「別にそうじゃないし健ちゃんのことは信じたいけど、何か、健ちゃんが女の子を連れ込んできたなら嫌だなって」 「……二人で住む気はないですよ。僕には帰る家があるんですから」 「そっか。そうだよね」 安心したように頷き、そこで小さく、くー、と音が響いた。 発信源は綾の腹。いつも通りと言えばいつも通りな弛緩した空気に、健一は苦笑して台所に向かう。ざっと冷蔵庫の中身をチェックし、作れそうな物を頭の中でトレース。健一自身は自宅に戻って夕食を胃に入れる必要があるので、最低限綾が完食できる分だけを調理する。そうして完成した焼きそばを、綾は実に楽しそうな顔で食べ始めた。 義理は果たしたしここで帰ってもいいのだが、綾に後片付けを任せるわけにもいかない。なので食べ終わるまで健一は待つことにした。ぼんやりとテーブルの向かいで綾の食べっぷりを眺めながら、呟く。 「綾さんって、いつも楽しそうですよね」 「そうかな。私だって悲しい時や怒る時はあるよ」 「でしょうけど……綾さんのそういう姿を想像できないんですよね。だいたい僕の前ではぐったりしてるか今みたいかのどっちかだし」 「んぐ、んー、それは健ちゃんがいるからだよ」 一度箸を止め、口内の焼きそばを飲み込んでから、綾は言った。 「健ちゃんといるといつも楽しいから、一緒にいる健ちゃんにはそんな風に見えるんじゃないかな」 「……なるほど。じゃあ、僕がいない時はどんな感じなんですかね?」 「え? 健ちゃんがいない時? ……うーん、ほとんどは部屋に籠って作業してる」 「他にはないんですか?」 「えっとね、後は、コンビニにご飯買いに行ったり、寝たり、ひとりエッチしたり」 「……綾さん、さらっと恥じらいもなく言うの止めましょうよ」 「どうして? 健ちゃんが何してるか訊いたから答えただけだよ?」 「いや、そうですけど……」 どこかズレた綾の発言に首を傾げ、ふと健一は以前刻也と交わした会話を思い出す。その時彼は、綾のことを『陰気な女性』と評していた。今目の前にいる本人は、陰気という言葉からは程遠い印象を受けるが、人間は誰しも相手によって態度や言動を使い分けるものだ。勿論、わざわざ器用に切り替える、なんて面倒なことを綾がしているとは到底思えない。しかし、例えば普段の綾が、刻也が言うように陰気な女性だとして、自分の前ではそうでないのだとしたら―― (僕がいるから、か) 綾にとって、自分は良いものなのだろうか。 その問いに対する答えを教えてくれる者はいない。ただ、そうであればいい、と思った。 「……あ、そういえば綾さん、ちゃんと補給してます?」 「へ? 補給って、何のこと?」 「冷蔵庫の中身です。あれ、八雲さんが自分で買って入れてるものなんですよね? 時々こうやって勝手に使っちゃってますけど、その分ちゃんと元に戻さなきゃいけないんじゃないか、と……すみません、訊くまでもないですね」 「うん、買ってきてない」 「これからは駄目です。補給しなきゃ」 「でも健ちゃん、私がお出かけすること自体苦手なのは知ってるでしょ? コンビニまで行くのがやっとなのに」 この辺なら、刻也が食材を買いに行くのはスーパーか商店街だ。困ったことに、そのどちらもコンビニより遠い。 もし綾を一人で行かせれば、十中八九夜になっても帰ってこれない。すぐ寄り道してしまう上、色々と常識が欠如しているのでまともにお使いができるかどうかも怪しいところだ。そもそも、何とかなるのなら先日みたいに二人でビデオ屋に行く必要もなかっただろう。 刻也に怒られる前に補給はしておかなければいけない。結局、健一は自分が行くしかないなと頭を抱えた。 そんな姿を綾は不思議そうに見つめ、 「買い物で思い出したんだけどさ、今度服を買いに行きたいの。健ちゃん、また付き合ってくれないかな」 「服? ってことは、ようやくちゃんとした物を着る気になったんですか?」 「そういうのとはちょっと違うんだけどね、買う必要が出てきて。それに、まともなのを着たら健ちゃんもちょっと残念でしょ?」 「いえ、ホタルもそうですけど、むしろもっとちゃんと服を着てほしいくらいです」 年頃の女性がだらしない格好をしていると、健全な男子が抱くような幻想はあらかた崩れ去ってしまう。 それに、蛍子は家族の前でのみだからまだいいが、綾の場合は白衣にパンツという、聞いただけで頭痛がしそうな姿でコンビニまで行ったりするらしい。無防備にも程がある。店員や客はいったい彼女のことをどう思っているのかと考え、慌てて妙な想像を振り払った。 「で、肝心の理由を聞いてないんですが」 「理由って、どうして服を買いに行きたいのか?」 「はい」 「うんとね、今度出る本で私の作品を紹介してくれることになったんだって。それで、私の写真も載せるみたいな話になってて、じゃあそのために着る服を買っておいた方がいいかなと」 「なるほど。……でも、そういうのってスタイリストさんとかが選ぶものじゃないんですか?」 「どうなのかなあ。私その辺あんまりよく知らないんだよね。小さい写真みたいだし、小綺麗な恰好なら何でもいいって言われたけど」 健一は納得した。確かに、今の服装とも呼べない見た目では問題外だ。 「……わかりました。いつがいいんですか?」 「今週中かな。本当は随分前から何とかしろって言われてたんだけど」 「でしょうね……。じゃあ、明日は大丈夫です?」 「うん、特に予定はないよ」 「後は補給用に買い物もしておかないといけないので……今日は僕が家の買い物のついでに調達してきます」 「あ、なら私お金出すね。んしょ、っと、これくらいでいいかな」 無造作に白衣のポケットから一万円札を五枚取り出す綾。 相変わらず危機感がないというか、まあそれも彼女らしいと思いながら、健一は一枚だけを受け取った。 先ほど目を通した冷蔵庫の中身と以前綾に食べさせた物を脳裏に浮かべ、足りない食材をリストアップする。 一万円なら余裕でおつりが出るだろう。綾に別れを告げ、とりあえずは近くのスーパーへ行くことにした。 日暮れ前の道を歩き、今日の夕食はどうしようかとぼんやり考えてながら曲がり角に差し掛かったところで、 「もしかして、絹川君ですか?」 横から声が聞こえる。 そちらに視線を移すと、千夜子が驚いた顔で立っていた。 放課後軽く挨拶を交わして以来だが、冴子と綾の件があったからか、随分長い間会っていなかったようにも思う。 初めて見る私服姿は、白を基調とした清楚な感じが彼女によく似合っていて、健一は小さく目を見開いた。 「……あの、どうしました?」 「い、いえ、すみません。ちょっと意外だったので」 「意外?」 「学校の外で大海さんを見たのは初めてですし、こんな場所で会うなんて、偶然だな、と」 「ですね。私もまさか絹川君に会えるとは思いませんでした」 びっくりするくらい可愛らしい、という感想はどうにか口に出さず、無難に誤魔化す。 普段目立たないものだからわからなかったが、改めて目にすると千夜子はクラスの中でもかなり整った容姿をしていた。 美人と評されるホタルとはまた違う、少女的な面立ちと体型。健一が知っている限りでも、男子は時折女子の誰がいいとか悪いとか、そんな話をしていることがあるのだが、一度も千夜子の名前が出てこなかったのが不思議なくらいだ。 「絹川君はどこか行くところがあったりします?」 「スーパーに夕食の買い物に行こうかと思ってまして」 「……それじゃあ、私も付いていっていいですか? ちょうど麦茶を買いに出てきたところなんです」 「別にいいですよ。僕といても面白くないでしょうけど」 「そっ、そんなことは全然!」 何故かぶんぶんと首を左右に激しく振り、淡く微笑んで健一の隣に並ぶ千夜子。 とりあえず問題はなさそうだと判断し、健一は再び歩き出した。 「そういえば、おうちのご飯は絹川君が作ってるんですよね」 「はい。最近はホタル……あ、僕の姉で本名は蛍子って言うんですけど、ホタルと交替でやってますね」 「でもすごいです。私なんてほとんど料理できなくて……」 「大海さんの家では普段誰が?」 「お母さんです。ちょっと私もお手伝いしますけど、自分でちゃんとしたのを作ったことは……」 「なら大丈夫ですよ。料理を始めた頃は、僕も全然上手くできませんでしたから」 「そうなんですか?」 「だけど何度も失敗してくると、段々やり方を覚えていくんですよね。そしたら次はもっとおいしく作れるようになりたくなって」 「……絹川君も苦労してきてるんですね」 「まあ、一応は。だから大海さんも、もし料理を頑張ろうと思ったら、失敗なんて気にしない方がいいと思いますよ」 「……はい。頑張ってみます」 スーパーまでは、徒歩で十分ほど。 話し込んでいればあっという間だった。 しかし、夏なのでまだ陽は落ちていないが、もう六時を過ぎている。タイムセール狙いでかなり人が多い。 「いつ見ても凄まじいですよね……」 「大海さんはどうします? よかったら僕が麦茶も取ってきますけど」 「あ、私も行きます。これしきのことには負けません」 ぐっ、と拳を握る千夜子はどことなく頼もしく、健一は可笑しくて少し噴き出した。 人波の流れがどういう風に動いているかを入口側からある程度把握し、心の中で揉まれる覚悟を決めて、身を投じる。 途中千夜子とはぐれもしたが、どうにか値引き物も入手して出口で合流することができた。 両手に大きく膨らんだビニール袋を持った健一と、片手に小さな袋を持った千夜子は、スーパーから抜け出す。 「私の家はあっちですけど、絹川君は……」 「僕はこっちです」 「……それじゃ、ここでお別れですね」 残念そうな表情を浮かべる千夜子に僅かな疑問を抱くも、重い袋を吊り下げた腕が早くも震え始めた。 そんな健一の様子をすぐに察し、千夜子は一歩離れる。 「絹川君、また明日、です」 「はい。また明日学校で」 歩き出してからしばらく、何となく振り返ると、千夜子も同じようにこっちを見ていた。 遠くで優しく手を振る彼女の姿が、妙に印象に残った。 「……絹川君も、ここのスーパーで買い物するんだ」 また一つ健一のことを知って、足取り軽く帰路に就く千夜子。 頬の緩みが収まらず、兄の悟に「何にやけてるんだよ、気持ち悪いぞ」と言われて蹴り飛ばしたのだが、彼女にそんな面があるというのは知られない方がいいのかどうか、微妙なところだった。 back|index|next |