「ただいま」 千夜子と別れた後、幽霊マンションに戻り冷蔵庫に購入物を仕舞い込んで帰宅した頃には、もう陽が暮れかけていた。 とはいえ夕食時にはまだ早く、今から作り始めても充分いつも通りの時間までには用意できるので、蛍子の機嫌を損ねることはないと踏んでいたのだが――。 「……おかえり」 飛んできた返事は、あからさまに不機嫌そうだった。リビングの椅子に一人座り、何故か部屋の電気も点けずに険のある表情で俯く姿は正直怖い。そんな様子に疑問を覚えながらも、とりあえずは夕飯の準備をするためにキッチンの方へ向かった健一は、前を通り過ぎた時、蛍子の手に雑誌が握られているのを見つける。 『隔月刊アーツライフ』と表紙に書かれているそれは、どうやら芸術関係のものらしかったが、具体的にどんな内容なのかまではわからない。ただ、蛍子が機嫌を悪くしている理由が雑誌の中にあるのだろう、ということは容易に想像できた。 「ホタル、夕飯は食べるのか?」 「要るに決まってるだろう」 が、勿論わざわざ地雷原に足を突っ込むような趣味はない。健一は訝しむ気持ちを封殺し、簡潔に訊ねた。 対する蛍子は不機嫌なポーズを崩さず、瞳に重い色を滲ませて健一を睨んでくる。そこに何か言いたそうな雰囲気を感じるものの、この状況で藪を突けば、出てくるのは蛇では済まない気がした。なので余計な追及はせず、ひっそりと溜め息をこぼしながら調理を始める。 背後から注がれる、刺々しい無言の圧力が痛かった。 「そういや、彼女とは上手く行ってるのか?」 「は? 彼女?」 どことなく暗い空気の中、食卓に料理が並び、黙々と箸を進めて何も言わずに食事を済ませた蛍子が、唐突に呟いた。 皿を洗っていた健一は思わず素っ頓狂な声を上げて訊き返す。 「……こないだ持っていった私の服を、お前が着せた相手だよ。彼女じゃないのか?」 「違うよ。別に彼女じゃないし、あの時は何というか、出かけるのに付き合っただけだから」 「そういうのをデートって言うんだと私は思うんだが」 「本当に違うって。一人じゃまともに外も歩けない人で、俺はお守役みたいなものだったし」 「お守役、ね……」 含みのあるひとことに健一は小さく眉を顰める。 おそらく、どれだけ言っても蛍子は納得しないだろう。そうと知ってまだ同じ話を続けるのも馬鹿馬鹿しい。 それ以上言葉が来ないのをいいことに、口を閉ざし皿洗いに没頭した。かちゃかちゃと乾いた音が鳴り響き、同じく沈黙を纏った蛍子との間に再び重苦しい空気が横たわる。しかし、そんな状況でも蛍子は席を立たない。こちらの作業が終わるのを待っているかのように、じっと座ったままでいる。 もし蛍子が不機嫌な原因が自分にあるのだとしたら、とっくに自室へ戻っている、と思う。今は綺麗になったテーブルの上に、無造作に投げ出された雑誌のことを脳裏に浮かべ考えてみるも、その方面に疎い健一には答えを導けそうになかった。 最後に流し場の水を台布巾で拭き取り、皿洗いを終える。そうしてキッチンから離れた健一は、 「ホタルはどうなんだよ?」 「……何がだ?」 「彼氏とか、いないわけ?」 自身にとってはどうということのない、僅かに意趣返しの感を込めた問いを向けた。 端から答えを期待していないものだったが、不意に蛍子は睨む視線を強める。予想外の反応にたじろぐ健一を余所に、荒っぽい動きで椅子から立ち上がり、そのまま廊下の方へ歩き始めた。と、リビングの出入口に差し掛かったところでゆっくり振り返り告げる。 「……いるように見えるか?」 疑問の形こそしていたが、いないと返答しているも同然の言葉。 階段を上る足音が遠ざかっていくのを聞きながら、健一は自らの迂闊さを呪った。 藪を突けば蛇が出る。それはわかっているものの、どこに蛇がいるのかまでは判別できない。 「あれは、しばらくそっとしておいた方がいいよなぁ……」 とりあえず、もうしばらくは二階に上がれそうになかった。 朝になると蛍子の機嫌も若干持ち直していたが、結局どうしてあんなむすっとしていたのかは謎なまま、いつも通りの時間に健一は家を出た。天気予報でも言っていた、傘要らずの清々しい天気。くぁ、と小さく欠伸をし、浮かんだ涙を袖で擦って歩く。 公園に差し掛かり、通り抜けた辺りで、ふと同じ学校の制服が目に入った。後ろ姿から窺える、腰近くまで延びる長い黒髪と細い身体は、昨日も見たものだ。もう少し近付くと、陽に透けそうなほど青白い肌を視界に捉える。……だが、何より特徴的なのは、いつ倒れてもおかしくないとこちらに思わせるふらついた足取りだった。 色々な意味で危うい。目前を行く冴子に、何度目かわからない印象を抱きつつ、軽く駆け寄って挨拶した。 「有馬さん、おはよう」 「………………」 距離にしておよそ四歩、確実に声が届くところで呼び止めるも、彼女はまるで意に介さない。 ふらふらと歩き続ける冴子に再び言葉を掛けるが、やはり返事はなかった。初めから自分一人しかこの場にはいないとでもいうように、あからさまな無視を決め込んでいる。 昨日とは違うその態度に不審と疑問を覚え、今度は冴子を追い抜き、振り返り顔を合わせて名を呼んだ。別人じゃないだろうかとも考えてみたがそんなことはなく、下を向いて歩く彼女は有馬冴子以外の何者でもなかったが、ならば何故こうも固く口を閉ざしているのか。 「……あの、もしかして調子悪い? 寝てた方がいいんじゃないかな」 「………………」 「…………有馬さん?」 度重なる問いに無言を貫くのを諦めて、冴子は僅かに頭を上げた。端整な顔に不釣り合いな、深い隈が厭に目立つ。 その黒い瞳が健一を見つめ、すっと視線が逸らされるのと同時、微かな囁きが聞こえた。 「外で、私には話しかけない方がいいですよ」 「……何で?」 「知ってるでしょう、私の噂」 一瞬頷きかけ、慌てて自制した時にはもう、冴子は健一を置いて歩き去ってしまっていた。 学校へ続く道でないことを妙に感じるも、追うわけにはいかない。遠ざかる冴子の背中は、健一が付いてくるのを拒絶している。 幽霊マンションでの一件で、多少は冴子を理解したつもりだった。しかし、さっきの冴子は普段学校で見るあの暗いイメージ通りで、どちらが本当か、と訊かれれば、健一には答えられそうにない。 彼女が、自分に関する噂を知っているのは確かだ。ツバメの忠告を思い出し、肺に溜まった息を吐く。 噂の内容がどこまで的を射ているのかはともかく、話しかけない方がいいというのはわからないでもなかった。 気遣われてるのかな、と思う。 それを冴子の優しさだと受け止める傍ら、どうも憮然とした気持ちを抱かずにはいられない。 「……行こ」 「あ、あの、絹川君……ですよね?」 鈍っていた足を速め、さっさと公園を抜けようとした健一は、不意に呼ばれて振り向いた。 「え……大海さん?」 「はい」 声の主が千夜子と知り、再び歩を止めてしまう。その間に隣まで寄ってきた千夜子は、恥ずかしそうに俯きながらも、おはようございます、と呟いた。脳裏に浮かぶ疑問符を隅に追いやり、とりあえずは挨拶の言葉を返す。 そこからしばらくはお互い喋らず、何とも言えない空気が漂い始めた頃、沈黙の息苦しさに負けた健一が口を開いた。 「……今まで一度も会ったことなかったですけど、大海さんはこの辺を通ってるんですか?」 「えっと……そうです。時間もだいたい毎日一緒です」 「僕も同じですよ」 「じゃあ、もしかして私達、いっつもここですれ違ってたのかもしれませんね。すごい偶然です」 なるほど確かに、一日二日ならまだしも二ヶ月以上通学路を変えずに登校していたのにもかかわらず、今日初めて顔を合わせたのは偶然以外の何物でもないだろう。そう健一が納得する横で、千夜子はほっとしていた。実は運良く会えたりしないかな、という期待を胸に、少しだけ遠回りして公園を通っていたなんて言えるわけもない。そもそも健一の通学路の途中に公園があること自体、知ったのはつい先日なのだから。 まさか本当にこうして二人きりでいられるとは思わず、冷静さをどうにか装ってはいるものの、内心千夜子は心臓を高鳴らせていた。勿論そんなことには全く気付かず、健一は半歩分の距離を空けて並行する千夜子と会話を続けようとする。 「昨日もでしたけど、まさか大海さんと鉢合わせるとは思ってませんでした」 「いえ、こちらこそ……。あ、そういえば、随分いっぱい買い込んでましたけど、あれってやっぱり家で使うんですか?」 「あー、昨日のはちょっと違うんですよ。頼まれ物というか、お世話になってるところのお使いみたいなもので」 「そうなんですか。お世話になってるってことは、お友達とかでしょうか」 「まあそんな感じです。勝手に冷蔵庫の中身を使っちゃってたので、その補給に」 幽霊マンションのことを話しても、信じてはもらえない。それに、何となく刻也や綾のことを言いふらすような真似はしたくなかった。そんな意図があってかいまいち的を得ない説明から、千夜子は一人暮らしをしている友人、という風に想像する。おおよそ間違ってはいないが、友人ってもしかして女性じゃないかと考えてしまった辺りで大変なことになった。千夜子の頭の中が。 (女の人が一人暮らししてる家に絹川君が上がり込んで、代わりにご飯作っちゃったりとかして……) みるみるうちに端整な面立ちでナイスバディな人物が脳内に描かれる。 空想の健一とその相手役が仲睦まじく食事をしている風景が展開され、羨ましさと他諸々で勝手に落ち込み始めた千夜子を、現実の健一は困惑しつつ眺めていた。千夜子百面相。表情豊かな子なんだなぁ、とぼんやり思っていると、戻ってきた千夜子が健一の視線に今更気付き、物凄い勢いで顔を真っ赤に染めた。 奇行を見られていたのだから、恥ずかしいのも当然だった。 「あうぅ……ご、ごめんなさい、何か変な姿を見せちゃったみたいで……」 「いや、こんなこと言うと失礼かもしれないけど……見てて飽きなかったです」 「……うぅ」 そんな感じで、半歩分の距離は縮まらないまま学校に辿り着く。 ただ、色々と余裕のなかった千夜子はともかく、健一は途中で自分に突き刺さった視線を感じていた。横断歩道の信号を待っている間、反対側の通りを歩いていた二人の女子――妹である窪塚日奈と、その姉にして、敵意を向けてきた張本人、窪塚佳奈。 冴子に味方したことをまだ恨まれているのだろうか。そう、思わずにはいられない、強い眼光だった。 お約束、という言葉が脳裏を過ぎった。 朝の様子が忘れられず、授業中もちらちらと冴子を盗み見ていた結果、昼休みに入って教室を出ようとした瞬間、怪鳥めいた掛け声と共に首を絞められた。背後からぐるりと腕を回され、もう片方の腕でそれを固定し、押さえ付けられた状態でギリギリと力を込められる。いわゆるチョークスリーパー(のようなもの)だが、唐突に仕掛けられた健一にとっては技名なんてどうでもいい。詰まる呼吸が全てである。 「絹川ぁ! あんたね、人の忠告を軽々と無視してるんじゃないわよ!」 「か、鍵原、苦しいって……息が、できな……」 「あれだけ言ったってのに性懲りもなくじろじろじろじろ……覚悟はできてるんでしょうねえ!?」 「ちょっとツバメ、絹川君の顔がすごい色になってるよ!?」 そろそろ窒息死するんじゃなかろうかといったところで千夜子の制止が入り、渋々ツバメの手は引っ込められる。 咳き込みながらどうにか息を整え、健一はフォローしてくれた千夜子に軽く頭を下げた。 「……でも、今回は確かに僕も悪いかな」 「何だ、わかってるじゃないの。多少は反省の色があるようね」 「随分偉そうだねツバメ……。あの、絹川君、いったい何があったんですか?」 「こいつが有馬冴子のことをずーっと目で追ってたのよ。昨日強く釘を刺しておいたのにもかかわらず」 「――ツバメは黙ってて。ややこしくなるから」 「う」 「二人とも、とりあえずここから離れません? 邪魔になってるみたいだし」 低い声でツバメを抑えた千夜子に感心し、そこで自分達が教室の出入口を塞いでいることに思い至る。 微妙な周囲の視線から逃げるようにして、三人はいつもの場所まで移動し腰を下ろす。 そうして弁当箱を広げると、まだ怒りが収まっていなかったらしいツバメがぷいっと健一から顔を逸らした。 「ごめんなさい絹川君、ツバメが迷惑掛けちゃったみたいで」 「いや、さっきも言いましたけど、僕にだって原因はありますし」 「こう見えても悪い子じゃないんです」 「……ねえ、千夜子が私の保護者なようにしか聞こえないんだけど」 「世話が焼けるっていうのは確かだよね」 「私の扱い、段々酷くなってきてない……?」 「別にそんなつもりじゃないけど……それで絹川君、よかったらお話ししてくれますか?」 仲がいいなあ、とぼんやり見つめていた健一は、不意に話を戻されて一瞬困惑した。 しかし、千夜子の心配そうな顔を前に、黙っているのも忍びないと思う。 「うーん……あんまり詳しくは言えないんですけど、有馬さんと色々ありまして」 「色々って何よ。まさか絹川、あんたあの女と……!」 「誓ってそういうことはありません」 「……? よくわからないけど、絹川君はそれで有馬さんを気にしてるんですね」 「まあ、そんな感じです」 「ならツバメがあんなうるさく言う必要もないんじゃないかな」 誤魔化し混じりの説明に余計な勘ぐりをしたツバメとは逆に、千夜子には『そういうこと』の意味がわからないようだった。 結局二人のやりとりをさらっと流し、健一を擁護する形でまとめる。 当然と言うべきか、それがツバメには納得できなかった。 「千夜子だって知ってるでしょ? あの女の噂」 「いくつかは聞いたことあるけど……でも私は、そんな悪い人には思えない。噂だって全部が全部事実だとは限らないし、本当だとしても、何か事情があるのかもしれないよ」 「仮に事情があっても、酷い女だってことには変わりないじゃない。……って絹川、さっきから他人事みたいに黙ってないでよね。あんたのことなんだから」 「いや、大海さんがだいたい僕の言いたいことを言ってくれてるからいいかなあって」 「………………」 うわ何こいつ、というような視線が健一に注がれる。 呆れの色が窺える表情を浮かべ、弁当の残りを一気に平らげると、ツバメは荒い動作で立ち上がった。 「あーはいはい、邪魔者みたいだし私は失礼しますよーだ」 「え、ちょっとツバメ……!」 「私のことはいいから二人でごゆっくり」 最後に小さく千夜子へ向けてウインクをし、すたすたと足早に去っていく。 その背中が見えなくなるまで眺め、どう反応すればいいのかわからず困り果てる健一に千夜子が話しかけた。 「あの、できれば気にしないでもらえると」 「大丈夫ですよ。何というか、もう慣れてきましたから」 「悪気はないと思うんです。たぶん、私に気を遣ってくれて……」 「……鍵原と、仲いいんですね」 「長い付き合いですから。ちょっと思い込みの激しいところもあるけど、私を心配してくれてるのはわかります」 ちょっとどころじゃないのでは、という言葉は喉元で止める。 きっと、それで済ませられるからこその良い関係なのだろう。いちいち突拍子もない彼女の行動に目くじらを立てていては、振り回されて疲れるのがオチだということくらい健一にも理解できる。 だから代わりに、冴子のことを考えた。噂の内容と、彼氏を文字通り寝取られたらしい窪塚佳奈。そして本人の口から発せられた、噂を肯定する言葉。総合すれば、普通はツバメが言うように『酷い女』と評価するものだ。だが、頭のどこかでその判断を否定する自分がいる。幽霊マンションでの冴子を思い返す限り、そんなふしだらな人物には見えない。自分が周囲にどう捉えられているかをしっかりと把握していて、その上で甘んじて今の立場を受け入れている。 (――そもそも、どうして学校に来てるんだろうか) 元々冴子とは全くと言っていいほど接点のない自分や千夜子の耳にも入るほど、噂は広まっているのに。佳奈にも頬を張られ、余計学校は居心地の悪い場所になっているはずだ。けれど授業を真面目に受けるのでもなく、友達に会いに来ているのでもなく、何故冴子は登校し続けているのかがわからない。 「……絹川君?」 「あ、はい、どうしました?」 「すごく難しい顔をしてましたけど……大丈夫ですか?」 答えの出ない問いに頭を悩ませていたところで、不安げな千夜子に下から覗き込まれる形で声を掛けられる。 少し申し訳なくなり、軽く謝って考え事を中断することにした。 後は昼休み終了を告げるチャイムが鳴るまで、二人、どことなくぎこちない空気で過ごした。 ○ 下校後、家に荷物を置いてから、健一は幽霊マンションに向かった。昨日の約束通り、綾と一緒に服を買いに行くためである。今までの経験上、できるだけ早く出かけておかないと帰りが夜になってしまうのは間違いないので、階段を踏みしめる足も些か早かった。……とはいえ、人並みの体力しかない健一では歩いて上るのが精一杯。相変わらず十三階に辿り着く頃には息を切らしてしまう。 呼吸を整え、まずは1301の方に顔を出すことにした。1304にいるか確率は半々だったが、結果的に健一はテーブルの前に座る綾を発見する。大きめのビニール袋から何かを取り出していた彼女は、物音に気付き玄関側、健一の方へと振り向いた。 「綾さん、こんにちは」 「あ、健ちゃん。来てくれたんだ」 「約束してましたからね」 いつも通りの白衣姿でもしゃもしゃと口を動かす綾の手元には、食べかけのクッキーと破り開かれた小さな袋。 どうやらコンビニでお菓子をまとめ買いしてきたらしい。 「……お昼ご飯は食べました?」 「んー、一応お弁当買って食べたよ。でも健ちゃんが作るご飯の方が全然おいしいかな」 「そう言ってもらえると嬉しいですけど……とりあえず綾さん、外に出られる格好に着替えてきてください」 「だから、そのための服も買いに行くんじゃない」 一応言ってみたものの、綾が目ぼしい衣服を所持していないことは明確だ。これがコンビニ、いや、商店街くらいまでの距離なら許容できるが、今回は電車に乗る必要がある。ラッシュアワーからは外れた時間でも、それなりの人に囲まれるだろう。衆人環視に近い状況であんな服装(といっていいのかどうかも怪しい)の綾を放り込んだら、どんな目で見られるか――想像したくもなかった。 ほとんど半裸のスタイル良い女性を前にしてじろじろ見るなというのは、男からしてみれば難しい要求だと思う。 綾を無遠慮な視線に晒すのは心苦しい。かといって、1304の箪笥に外行きの服が埋もれているとは到底考えられない。先日貰った蛍子のお下がりも使えないとなると、さてどうしたものか、健一は首を傾げた。 「どうしたの? お腹でも痛いの?」 「違います。出かける前に、僕が適当なのを見繕ってこようかと」 「え、もしかして健ちゃんが私の服、買ってきてくれるの?」 「ここで綾さんに買いに行かせたら、こうして申し出てる意味がないですからね……。とにかくちゃちゃっと済ませてきますから、綾さんはその間に出かける準備をしておいてください」 「準備って、何かあったっけ」 「……お風呂入ったり化粧したり、しないんですか?」 「したことないし、面倒だもん」 化粧っ気がないとは常々思っていたが、いっそ清々しいくらいだった。 軽い頭痛を覚えつつも、綾に手渡された一万円札を受け取り懐に仕舞う。 と、玄関に向きかけた足を止め、テーブルの上を見やる。 ……クッキーの欠片が散らばり、無造作に袋がばら撒かれていた。 「綾さん、ちゃんと片付けていってくださいね」 「……やっぱり? このままにしたら、管理人さんに叱られるかな?」 「ええ。たぶん」 「じゃあ片付けとく。健ちゃん、服、お願いするね。私はこれが終わったら1304に行くから、戻ってきたらそっちに来て」 「わかりました。行ってきます」 今度こそ振り返らず、1301を出た。 男である自分が女物の服を買う以上、見知った人間がいる場所を行き先に選ぶのは避けたいところ。 階段を下り、少しだけ休んでから、健一は走り始めた。なるべく急いで済ませようと思いながら。 back|index|next |