「……あの、絹川君、大丈夫ですか?」
「え? あ、はい、何でしょ」
「何でしょってアンタ、さっきから千夜子の話を全然聞いてないじゃないのよ」

 昼休みの時間、今日も健一は千夜子とツバメの二人と一緒に昼食の席を囲んでいた。
 あれからよく四時限目の授業が終わると誘われるようになり、別に断る理由もないので付いていく、というのがほとんど日課になってしまっている。
 そのせいか、何故か健一と千夜子の関係をクラスメイトに疑われているのだが、今のところそういう事実は全くない。
 ちなみにツバメとの関係が少しも疑われないのは、単純に現在進行形で他の男に対しツバメが玉砕を繰り返しているからである。

「悩み事でもあるんですか?」
「あー……悩み事と言えばそうなのかもしれないんですけど」

 そう言われ、健一は自分が先ほどまでぼーっとしていた理由を考える。
 話しかけてくれていたらしい千夜子の善意を無碍にしてしまったのは申し訳なく感じるが、それで懸念が頭から消えるわけでもなかった。
 ――朝、幽霊マンションの十三階に顔を出しに行った時のことだ。
 健一はほぼ毎日足を運んでいるのだが、およそ四日間、綾が1304号室から出てくる姿を見ていない。
 また大規模な物の制作に取り掛かっているらしく、覗き見た室内には形容し難い巨大なオブジェが組み上がっていた。
 倒れるんじゃないかと心配になり、訪れる度用意している食事にも困ったことに手を付けられた様子はなく、 昨日のかぴかぴに乾いた夕食だったものを新しい料理と取り替えて嘆息する。そろそろ、綾が持たなくなる頃だ。 だからそれは、口にできる何かを求めて外に出てきた時、すぐ食べられるようにという健一の小さな心遣いだった。
 しかし、綾の集中力は驚異的だと思う。一度制作を始めれば、文字通り他の全てが目にも耳にも入らない。 アトリエの中を覗いても、ちょっと近くに寄って話しかけても、決して反応しないのだから。 一心不乱、という表現がぴったりで、鬼気迫った綾の姿を見ると、健一は綾がそのためだけのものになっているような気がする。

「僕にはこれくらいしかできないんだよな……」

 呟き、冷たくなった昨日の分の食事を代わりに持って1301へと向かうと、そこには刻也がいた。
 時刻は七時。登校時間が八時半だということを考えると、些か早くも感じる。 が、調理器具を取り出そうとしていた刻也はきちっと整った制服姿で、前にも健一は幾度か、このくらいの時間に朝食を摂る刻也を見かけたことがあった。

「これから朝ご飯ですか?」
「ああ。今から作ろうと思っていた」
「じゃあ、僕の分もまとめて作るんで、ちょっと待ってくれます?」
「すまない、いつも助かる」

 以前焼きそばを振る舞ってから、健一は刻也の分も料理を作るようになった。 元々1301の冷蔵庫に入っている食材は刻也が買ってきたもので、刻也自身健一が来るまでは自炊をしていたのだが、 どうやらあまり腕は良くないらしかった。健一が作った方がおいしいし食費も浮くので、 食材を提供してもらう代わりにこうして来た時は健一が台所に立っている。

「ハムエッグでいいですか?」
「ああ」

 椅子に座った刻也の視線を浴びながら、冷蔵庫の中に目を通す。
 あまり重いものを作る気にはならず、卵とハムを発見して安易なレシピを提案した。
 返事はやはり短く、すぐに言葉は途切れ無表情の刻也は再び健一を観察し始める。
 それを居心地悪く感じることもなく、健一は順調に朝食の準備を進めていく。
 調理時間は、十五分にも満たなかった。食卓に並ぶ皿に二人で手を合わせ、礼を除けば互いに無言で箸を進める。
 刻也が口を開いたのは、だいぶ皿の上のものが片付いた頃だった。

「こういう言い方をすると気分を害するかもしれないが……君はこんなことをしていて楽しいかね?」
「……どういう意味です?」
「何の得もないのに、人のために食事を作る理由が私にはわからない」
「それはまあ、成り行きっていうか、自分のを作るついでだって言いませんでしたっけ。一人分も二人分も大差ないですし」
「いや、私のことではないよ」
「綾さんのこと、ですか?」

 肯定の返事。
 健一は刻也にどう言おうか少し考え、

「それも行きがかりみたいなものですね。三日前にちょっと余裕があって、ご飯を作って持ってこうって思ったら、 ずっと部屋に籠りきりじゃないですか。だから心配になるというか、出てきた時お腹空いてるだろうなって思うと放っておけないというか」
「ふむ。それで今朝も気になってここに来ているわけかね?」
「いけませんか?」
「いや、悪いとは言わないが……何が楽しいのだろうかとは思う」
「……何か悪いって言われてるような気がしますけど」
「違う。本当にそうは思っていない。ただ、私には理解できないのだよ」
「どうしてです? 他人を心配するのは、自分で言うのは変ですけど、いいことじゃないですか?」
「それはその通りだが……あんな陰気な女性と一緒にいて楽しいのかね?」
「え? 陰気?」
「……君の前では違うのか」
「不思議な人ではありますけど、陰気って印象とは正反対ですよ」
「そうか……。ではそう見えるのは私のせいなんだろうな」

 空になった皿を積み上げ、刻也が立ち上がる。

「片付けは私がしよう」
「僕がしておきますよ。昨日のご飯の処理も残ってますし」
「……わかった。すまない、よろしく頼む」
「はい」
「今日もおいしかった。いつも、ありがとう」

 感謝の言葉をこぼし去っていく刻也の背中を見送って、健一は未だ上手く掴めないクラスメイトのことを考えた。
 友人になれた、とは思わない。自分と刻也がどういう関係かと訊かれれば、首を傾げるだろう。
 しかし、忠告めいても聞こえた刻也のひとことが、健一の耳からは離れなかった。

『あんな陰気な女性と一緒にいて楽しいのかね?』

 何かが、乖離している。
 健一の持つ印象と、刻也の持つ印象。それは果たしてどちらが正しいのか。どちらが、本質なのか。
 思考を巡らせてみても、納得できる答えは出そうになかった。勿論、他人に相談するようなことでもない。
 結局千夜子には濁して返事してしまい、ツバメに蹴り飛ばされることになった。
 どうも会う度ツバメは健一に対し暴力的になっているよう思えてならない。
 それを遠慮がなくなっていると見るべきか、単に気に食わないから的にされているだけなのかはわからなかった。

「っと、もうそろそろ昼休みも終わりね」
「正直鍵原は俺を蹴り過ぎだと思うんだけど」
「そうだよツバメ。もう少し女の子らしくしないと」
「ちょっと二人とも息合い過ぎじゃない!? 何で示し合わせたみたいに私を責めるのよ!」
「そ、そんな、絹川君と息なんて合ってないよ」

 ツバメのさり気ないプッシュに顔を赤らめる千夜子だが、健一は発言の意図に気付かない。
 そうだろうか、と疑問を抱くも、校舎中に響き渡ったチャイムを聞いて、問答する二人を軽く急かした。
 まだ歩いても間に合うだろうと判断し、焦って走りまではしない。そこで、

「……絹川君、あの、本当に悩んでることがあったら、いつでも相談に乗りますから」

 教室への戻り際、千夜子にそう告げられ、健一は頷いた。
 どうしても解決できそうになかったら、話してみるのもいいかもしれないと思って。






 授業が終わってすぐ、1304に綾の様子を見に行くと、鍵が閉まっていた。
 作品が完成したのか、それともようやく四日近く何も食べていないことを思い出したのかは不明だが、とにかくもう片方の当て、1301に入る。

「あ、健ちゃん」
「……何を食べてるんですか」
「え? プリンだけど?」

 予想通り綾はそこにいた。しかも、何故かプリンを食べていた。
 テーブルの上には透明の小さな容器が所狭しと転がり、また新たに一つを取って、ぺりぺりと上蓋の部分を剥がしていく。
 スプーンがせわしなく動き、口に運んでもしゃもしゃとろくに噛まず飲み込んでいく様は、得も言われぬ迫力がある。
 その横にはコンビニのビニール袋が置いてあって、そこから取り出したのを見る限り、自分で買ってきたらしい。
 積み重ねられた空のプリン容器は十個以上。どれだけ一人で食べるつもりだったんだろうか。

「健ちゃんも食べるかと思って余分に買ってきたんだけど、要る?」
「……まあ、要ります」

 軽い眩暈を覚えながら、健一はスプーンを持ってきて綾の向かいに座った。
 プリンを一つ受け取り開ける。微かなカラメルの甘い匂いが鼻に届く。その間に綾はさらに一個を完食。
 そんな綾の姿を見ながらだったので、プリンの欠片をすくう健一の手はぷるぷると震えていた。

「そうだ、ご飯ありがとね。おかげで倒れずコンビニまで行って帰ってこれたよー」
「……それでプリンですか?」
「何かデザートが欲しいなって思ってさ。最近のはコンビニ物でも結構おいしいんだね」
「にしたって、食べ過ぎだと思いますけど」
「ん? そうかなぁ、まだまだいけるよ。二十個買ってきたし。健ちゃんがいくつ食べるかだけど…… あ、管理人さんにも一個残しといた方がいいかな。いつものお礼にってことで」
「…………」

 前にも感じたが、作品を作り終わった、あるいは制作が一段落した綾は妙なテンションだと思う。
 実際三日や四日食事も摂らずやってるわけだし、徹夜明けみたいなものかもしれない。そもそも、綾がちゃんと寝ているかも知らないのだ。

「あ、でも、管理人さんは甘い物嫌いかな?」
「一応残しておいて、要らないって言われたら自分で食べればいいんじゃないですか?」
「なるほど、そうだね。じゃあそうしよう」

 何故か嬉しそうにプリンを冷蔵庫へ仕舞いに行く綾を見て、とりあえず健一は安心することにした。
 口の中に広がる強い甘さを水で流し、綾が食べ散らかしたものも含め容器をまとめて燃えないゴミに捨てる。
 席に戻ると、綾は不意にこんなことを言い出した。

「でね、健ちゃん。私、健ちゃんが来るのを待ってたんだ」
「何か用でもあるんですか?」
「ほら、こないだ買い物行った時みたいに、自転車で行きたいところがあるの」
「別にいいですけど……どこにです?」
「さっきコンビニで、隣の駅前のレンタルショップは品揃えがいい、みたいな話をしてたんだ。だから、アダルトビデオを借りに行こっ」
「……えっと」

 また突拍子もない話だった。

「僕は十八歳未満だからそういうところには行けないんですけど」
「私は十八歳だから大丈夫だよ?」
「そういうことじゃなくてですね……」
「借りるのは私だしお金も出すから、健ちゃんは付いてきてくれればいいよ。健ちゃんが見たいものも一緒に借りてあげるし、ね?」
「そういうことでもなくてですね……そもそもどうしてアダルトビデオを借りようと思ったんですか?」
「前にさ、話さなかったっけ。私、ひとりエッチで最後までイッたことないって」
「ぶふっ、けほ、ごほっ! な、何を言い出すんですか綾さん!」

 あんまりにもあんまりな発言に、軽く含んでいた水を噴き出しかける。
 気管支に入り咳き込んだ健一を心配してから、綾は続けた。

「あのね、健ちゃんとエッチした時は何度もイケたんだ。でも一人じゃ相変わらずだから、ちょっと研究してみようかなって。 あれから健ちゃんちっとも誘いに乗ってくれないし。勿論健ちゃんが今からエッチしてくれるんなら行かなくて済むんだけど」
「しません」
「えー。じゃあもう借りに行くしかないよ。じゃないと私、いつまで経っても一人じゃイケないんだもん。 あ、あとさ、胸でするっていうのもどういうことか知りたいんだよね。ねえ健ちゃん、駄目かな。 一人で行くのは不安だから一緒に来てほしいんだけど、どう?」

 正直今すぐ断りたいが、もしそうしたとして、綾はなら自分だけで借りに行ってしまうような気がした。
 そうなったら、冗談抜きで本当に帰ってこられないかもしれない。何しろ自他共に認める、筋金入りの社会不適合者なのだ。 スケッチに集中して気付いたら知らない場所で迷子になっていた、と言われても健一は普通に納得する。
 簡単に見放せるのならいいのだろう。しかし、健一には心配の塊みたいな綾をそのまま行かせることができそうになかった。
 選択肢は、端からない。

「……わかりました。さすがに制服はまずいので着替えてきます」

 そう決め、立ち上がったところで綾の服装をしっかりと目に入れ、健一は思わず足を止める。
 今の綾はいつも通りのカーペンターパンツ姿だ。作業着としては優秀でも、外出するにはどう考えたって向いていない。

「もしかして綾さん、その恰好で外に出るつもりですか?」
「パンツいっちょに白衣よりはいいでしょ?」

 まずすべきは、綾の服を調達することらしかった。






 買いに行くにはちょっと時間がない。なので健一は唯一頼れる蛍子に服を借りることにしたのだが、帰ってきた家の中は静かだった。
 リビングを除くも人影はなく、先に戻ってきているはずの蛍子はどこにいったんだろう、と思いながら階段を上った。
 二階には自分と蛍子の部屋がある。いないなら無断で持っていくという手もあるが、そんなことをしたら間違いなく激怒するに違いない。 どうしようかと首を捻りつつ自室で着替えようとし、そこでふっと、小さく自分を呼ぶ声が聞こえた。 それは幻聴かもしれなかったが、何となく後ろ髪を引かれるような思いで辺りを見回す。どこから届いたのかはわからない。 人の気配が感じられない家で何故名前を呼ばれるのか、少し考えて一つの可能性に辿り着いた。

「そうか、ホタルは寝てるのか……」

 ならリビングにいない理由も説明がつく。もしかしたら何か妙な夢でも見て、そこで登場した自分を呼んだのかもしれない。
 眠っているところを起こすのは若干心苦しいが、他に当てもないので健一は蛍子の部屋のドアをノックした。

「ホタル、いる?」

 途端、扉の向こうでどたどたと慌ただしい音が響いた。
 やっぱり寝ていたんだと思い、申し訳なさの籠った声色で、

「ちょっと頼み事があるんだけどさ、開けていい?」
「いや、待て! 少し待て!」
「……何をそんなに慌ててるわけ?」
「服を着るんだよ! いいか、絶対に開けるな!」

 中に入ろうとすると、物凄い勢いで止められた。そんな蛍子の言動に健一は違和感を覚える。
 服を着る、ということはつまり裸でいたのだろう。前に綾が風呂上がりは全裸で寝ると言っていたので、蛍子もそうなのかと思う。
 が、今まで平気で半裸のままうろついていたのに、急にそんな態度を取る理由がわからない。
 健一がノックもなしに部屋へ入っても、蛍子は平然としていたはずなのだから。

「……で、何だ? 頼みってのは」

 どういうことなのか考えている間に着替えが終わったらしく、蛍子が部屋から出てきた。
 急いだせいかかなりの薄着で、心なし息も荒い。しかし蛍子の雰囲気からはそれ以上追及するなという圧力が感じられた。
 争いの火種をわざわざ起こすこともない。用件だけ済ませて早く戻ろうと健一は話を切り出す。

「あのさ、服を貸してほしいんだ」
「……女装をするのなら止めはしないが、迷惑の掛からないところでやれよ」
「違う。俺じゃないよ。余所行きの服が必要でさ」
「例の女用にか?」
「うん。普段はいっつも引きこもってるような人で、ちょっと遠出したいって言うんだけど、まともな服を持ってないんだよ」
「……ふうん」
「そんな立派な奴じゃなくていいから、頼めるかな」
「私の服は丈が合わないだろう。自分で言うのも何だが、私は女の中でもかなり大きい方だぞ」
「丈は問題ないと思う。その人、俺と同じくらいだし。サイズはちょっと違うかもしれないけど」

 言いながら、健一はつい蛍子の胸に視線を向けてしまう。

「何だそのいやらしい目は」
「いや、別にいやらしくないと思うけど……胸のサイズは違いそうだなって」
「……よくわからんが、背が同じくらいなら適当なのを見繕ってやる。去年ので捨てようと思ってたのがあったし、そんなもんでいいんだろう?」
「助かる。って、捨てようと思ってたって、もらってもいいってこと?」
「まあ、構わん。お前も着替えるんだろ? その間に探しといてやるよ」

 そう言って蛍子は自室に戻っていった。しばらく掛かるだろうが、頼んだ以上任せるしかない。
 ドアが完全に閉まってから、健一も着替え直すために部屋へと向かった。






 事に及ぶのは、初めてではなかった。
 自分くらいの年齢なら大概はしているとどこかで聞いたことがあるし、いつからなんてことは覚えてないが、ふっとそういう衝動に駆られたりもする。
 ただ、家族の前では当然できず、必ず誰もいない時に自分の部屋で、というルールを作っていた。

 今は、一人だ。
 健一はまだ帰宅しておらず、相変わらず両親も家に寄り付かない。最後に帰ってきたのは何日前だったろうかと考えて 一ヶ月単位なことにすぐ思い至り苦笑した。子供に対する愛は人並み程度持っているのに、それ以上に仕事好きなのだからタチが悪い。
 けれどこの場合は、幸いと言う他ないだろう。むしろ帰ってこられたら困る。
 何しろ、これからやろうとしているのは絶対誰にも見られたくないことだ。文字通りの、秘め事。

「………………」

 風呂に入って、服を着ずに部屋まで歩いた。緊張感、背徳感、倒錯した微妙な快感、色々なものが混ざり合って、心臓の鼓動を早める。
 ドアを閉め、一糸纏わぬ姿でベッドに倒れ込む。柔らかな毛布の肌触りを全身で感じ、少し暑いと思った。
 身体は自然と、胎児のような姿勢になる。自分の膝が目の前に来る形。記憶すらない母の胎内を想起させるからか、 そうしていると何故か不思議と安心できるようで、しばらく丸まっていた。それからおずおずと、細い右手の白指が下へ伸びていく。
 小さく両膝の真中に隙間を作り、腕を挟むようにする。内腿を撫でながら、指は剥き出しになった秘裂に辿り着いた。

「んっ……」

 指が沈む。襞に触れると微細な、こそばゆさに近い快楽が走り、小さく声を上げる。
 さらに指を進めれば、ぷっくりと膨らんだものに突き当たった。なぞるだけで甘い痺れを感じ、手を止める。
 初めてではない。――蛍子にとって、自慰行為は決して初めてのことではない。
 何度も、もう何度もしてきたのだ。それを禁忌と知りながら、愛しい者の名前を呼んで、想像して、達してきたのだ。

「ふ、あ……っ」

 二本目の指を入れた。
 脳裏に思い浮かべる。あいつが、ここを見て、ここに触って、ぐちゃぐちゃに掻き回す、そんな光景を。
 歯の浮く台詞なんて期待しちゃいない。あいつは単純だから「触るよ」とかそんなひとことで許可を得たと思い込んで、 私の制止は聞きもせず遠慮なしに貪っていくんだ。あの時、強引にキスをしたように。力強い手。男の匂い。端正な顔。火傷しそうなほどの、熱。
 じゅわり、と秘裂の中に愛液が染み出し、溢れる。ぬめった感触が指に絡みつき、しかしそれを不快に感じることなく蛍子は指を動かす。
 自分の指は、健一の指だ。それが好き勝手に暴れていく。つつき、撫で、つまみ、時には爪を立て、あらゆる刺激を蛍子に与える。

『気持ちいい?』

 そんな幻聴を耳にして、熱に浮かされたように蛍子は指の動きを速めた。
 卑猥な水音が部屋中に響き、泡の混じった愛液が秘裂からベッドへと飛び散る。
 じわりと身体に浮かび上がる珠の汗が合わさり、濃い女の匂いを充満させながら、ベッドの染みは加速度的にその範囲を広げていった。

「あっ、ん、けんいち、けんいちぃ」

 次第に何も考えられなくなる。現実と妄想が混濁する。
 キスをして、触れ合って、繋がりたかった。狂おしいほどの欲求が蛍子の心にはあった。
 男と付き合ったことはない。セックスなんて絶対御免だった。美人と称される蛍子はそういう目で見られることも多かったが、 交際の申し出も下心が見え見えの甘言も悉く切り捨ててきた。興味もない男と交わるだなんて想像するだけで気持ち悪い。吐き気がする。
 なのに、健一だけは違った。もう、健一でなければ駄目になっていた。
 受け入れられるわけはない、そう思う。両親にも、世間にも、そして健一本人にも。だってそれは、間違ったことだ。おかしいことなのだ。
 血の繋がった弟が好きな自分に気付いて、必死に否定しようとした。この想いが露見すれば、今の生活を失ってしまう。 二人でいる、殺伐としながらも安らかな日々は、二度と戻らなくなってしまう。 でも、どうしても気持ちに嘘が吐けなくて、言い出す勇気は当然なくて、情けないと理解していながらも、自分を慰めることしかできなかった。

 一人の時なら、名前が呼べる。
 一人の時なら、正直になれる。
 何より好きな相手を思ってするのは、気持ちの良いことだった。

「ふぅ……っ、ぁん、んっ、ひゃあんっ!」

 爪が陰核を引っ掻き、強烈な快感が蛍子を彼方へ持ち上げていく。
 けんいち、とその名前を叫ぶ度に、背筋がぞくぞくと痺れどこかに飛んでいきそうになる。
 恥ずかしさで抑えていた声も、締め切った室内より外には漏れないものの、いつの間にか水音に負けない音量となっていた。
 終わりを先延ばしにするかのように、蛍子の指は断続的な刺激をもたらす。少しでも夢みたいな一瞬を長続きさせるために。
 けれどそれにも限界はある。波のバランスが取れなくなれば、傾いた方に流されていくだけ。
 達せそうで達せないもどかしさに我慢できなくなった蛍子はスパートを掛けた。
 指を肉襞に擦りつけ、また鉤のように奥へ引っ掛けて性感帯をピンポイントで攻める。
 じわじわと昇り詰めていく感覚。終わりが近いと悟り、最後に陰核を強めの力できゅっとつまんだ。

「ひあああああああああああああっ! あ、あ、ぅ……」

 高圧電流を流されたような気持ち良さに、蛍子の身体が跳ねる。
 快感の名残で何度か小さく痙攣し、全身に行き渡っていた狂熱は次第に鳴りを潜めていった。
 何とも言えない虚脱感に包まれながら、ぼんやりした頭で思う。自慰行為中の自分の顔は、きっと鏡で見られないほど酷いんだろうな、と。
 しばらく気だるさに身を任せようとして、

「蛍子、いる?」

 思わず叫ばなかったことを褒めてほしいくらいだった。
 その後の行動は迅速のひとことに尽きる。即座に考えついた言い訳を駆使してどうにか誤魔化し箪笥の中身を引っ繰り返す。
 慌てながらも割とちゃんとしたものが選べたのは凄いことなのかもしれないが、自画自賛をしている余裕もなかった。
 着替えようとパンツを穿きかけ、股下が酷い状態なのに改めて気付く。拭き取るのに十秒ほど。
 ベッドの染みまでは隠しようがないので、健一には絶対中に入らせないと一人頷きドアを開ける。
 目の前にいた弟の姿に、先ほどの自分の行為を思い出して心中はどうしても穏やかになれなかった。

「……で、何だ? 頼みってのは」

 努めて平静を装い訊ねる。
 話を聞くと健一は着替えのついでに服を借りたくて蛍子に声を掛けたらしい。
 それが前によろしくやってきた女のためだとすぐ察し、黒い嫌な感情が湧き上がるのを蛍子は必死に抑えた。
 嫉妬だとは、認めたくない。
 好意的な答えを返して扉を閉めてから、蛍子は重い溜め息をこぼした。

「……嫌になるな、自分が」

 一人愚痴るがどうしようもない。
 秘めた恋慕を持て余しつつ、複雑な心境のまま蛍子は古着のリストアップを始めた。










 今日の玉砕マスターツバメさん(ry

「うあー……」
「おはようツバメ……って、元気ないみたいだけど、もしかしてまた?」
「そうよ……。物の見事に一撃ノックアウトよ……」
「今回は誰?」
「三年の一橋先輩……。昨日の放課後手紙で呼び出して告白したら一刀両断だった……」
「ツバメのことだから好きになったのも二日前とかだと思うんだけど、話、聞いた方がいい?」
「……うぅ、千夜子ぉ」
「ほら泣かないで、酷い顔になっちゃうよ」
「でも、だってぇ……今度こそ運命の人だと思ったのに、思い切って告白した私になんて言ったと思う?  君みたいな騒がしい女性とは付き合えないんだ、って……断るにしても言い方ってものがあるでしょ……」
「騒がしいのはその通りだと思う」
「ちょっと、千夜子までそんなこと言う!?」
「落ち着いて。教室のみんながびっくりしてる」
「むぅ、わかったわよ。だけど、どうしてこんな上手く行かないんだろ……。何が悪いのかな。千夜子はわかる?」
「え、いきなり言われても答えられないよ。ツバメの悪いところ、悪いところ……」
「……あー、ごめん。千夜子に訊いても答えられるわけないわよね」
「そ、そうなのかな……」
「別に責めてるんじゃなくて。それが千夜子のいいところ、ってこと」

(千夜子、首を傾げる)

「ま、わからなくてもいいんじゃない? それより、どうしたら私の恋が成就するか千夜子も考えて」
「今日は随分復活早いね……」
「前向きに生きないとやってけないわよ。で、どう? 次こそ成功させるためにはどうしたらいい?」
「……とりあえず」
「とりあえず?」
「私はその惚れっぽいところをどうにかした方がいいと思う」
「千夜子ぉ……それができたら苦労しないわよ……」



「……あの二人、何を話してるんだろ。いちいち鍵原のリアクションがオーバーで見てて飽きないけど」



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何かあったらどーぞ。