健一は両親が嫌いではない。 しかし、仕事にかまけてほとんど帰ってこない二人に愛されていると思ったことはないし、 蛍子に関してはもう露骨に嫌われているようにしか見えないので、他の家庭がどうかはわからないが、 絹川家の家族の繋がりは一般的なそれより薄く感じる。 例えばクラスの男友達と話している時、ふっと家族の話が出たことがあった。 母親の弁当がレパートリー少な過ぎて困るとか、 親父がテレビのリモコン抱え込んで占拠するもんだから好きな番組を見られないとか、 そんな他愛ない会話の途中で、絹川はどうよ、と聞かれた瞬間、答えられずに雰囲気を気まずくしてしまった。 両親不在が当然な家に、作ってもらった弁当の中身やチャンネル争いなどの悩みがあるはずもなく。 敢えて挙げるとすれば、他人の、それも同年代の男子には決して理解されない、 健一にとっては見苦しく感じる蛍子の痴態くらいだった。姉が半裸でうろつくと言っても、 少なくとも健一の知り合いは全員が口を揃えて羨ましいとしか返さない。 そして、最も身近な女性である蛍子がどうしようもないからか、 健一はおよそ全ての女性に対し恐れのような感情を抱いていた。 誰もが蛍子と同じでないことは頭ではわかっているのだが――やはり、気後れしてしまう。 ……僕に恋愛は向いてない。 いつも、いつもそう思う。綾の猛烈なアプローチを受けている時も、 千夜子とツバメ、三人で昼休みに弁当を食べていた時も。 心のどこかに、自分は愛されることなんてないんだという思考が住み着いていた。 「綾さんは、どうして僕を好きだって言ってくれるんだろうな」 健一が綾に関して知っていることは、さほど多くない。 世界的に有名なアーティストであることと(本人にはまるで自覚がない)、 集中すると言葉通り時間を忘れて平気で三食抜いたりすること、襲いたいと思ったら躊躇なく襲うほど欲望に素直なこと。 一人じゃまともに遠出もできなくて、その場の思いつきで生きていて、あらゆる意味で自由な人。 そこまではわかっても、どうして1304に住んでいるのか、家族とはどうしてるのか、 大学には行ってないのか……健一はそのほとんどを知らない。 恋って何だろう。誰かを好きになるって、どういうこと? 答えは、まだ出せずにいる。 そしてそれがわからないまま綾の告白に対して返事をするのは、不誠実な気がするのだ。 自分の気持ちも掴み切れてないのに、偉そうなことなんて口にできない。 だからといって今すぐはっきりさせられるわけもなく、うだうだと悩みながら家路に就いているのだった。 「ただいま」 帰宅の挨拶を告げて玄関の扉を開けると、奥の方から何やら音が聞こえてきた。 キッチンの明かりが点いている。最初は両親が帰ってるのかと思ったが、靴がなかった。いつも通り、蛍子の分のみだ。 つまり、今キッチンで料理をしているのは蛍子ということになる。 不安に駆られ、靴を脱いでから少し慌てた足取りで廊下を小走り。 滑るように踏み入ったキッチンには、予想通り蛍子が立っていた。しかも風呂上がりらしく、下はパンツだけ。 上は何も着ておらず、首に掛けたタオルが辛うじて胸を隠している。 羞恥心という言葉を忘れてしまいそうな姿の蛍子は、健一に気づくも全く視線を動かさず、鍋を親の仇とばかりに睨みつけていた。 姉の態度にむっと来たが、それよりも中華鍋が大変なことになっていたので慌てて火を止める。 「何やってんだよ」 「……お前が帰ってこないと思ったから、仕方なく料理をしようとしてたんだよ」 さらに強烈な視線を向けられるが構わない。逆に睨み返し、雰囲気はかなり険悪なものとなる。 鍋周りに散らばっているのは、どうやら唐揚げの材料らしかった。 種はまあ、一応食べられそうな出来なのだが、問題は鍋に敷かれた油の方だ。 熱を入れ過ぎた所為でぱちぱちと音を立て、泡まで吹き上げている。 もしこの状態で種を放り込もうものなら……惨状を想像し、健一はぞっとした。 「あのな……そりゃ料理をしてくれるのは有り難いけど、危ないだろ。 下手したら火事になってたし、だいたいそんな格好じゃ油が跳ねたら火傷する。せめて服を着て作れよ」 「そういうことは先に言ってくれないと困る」 それは、考えなしな行動に対する叱責と、苛立ってはいたが自分なりの心配を込めた言葉だった。 だが蛍子には上手く伝わらなかったのか、返ってきたのは不機嫌そうな口調のひとこと。 健一の中に、負の感情が湧き上がった。そのことには気づかず、蛍子は続ける。 「お前がいつも簡単そうにやってたから、危ないとは思わなかったんだよ」 「……常識だろ、そんなの」 「何だ、じゃあお前は私が非常識だと言いたいのか?」 「………………」 売り言葉に買い言葉。 あからさまに棘を含んだ言い方に、健一は閉口する。 「私は料理のことなんて碌に知らないからな、お前からすれば非常識に見えるだろうが、そっちの方がよっぽどだろう」 「……どういうことだよ」 「最近帰りが遅いじゃないか。今までは学校が終わればすぐ帰ってきてたのに、ここしばらくはいつも夜が更けてからだ。 前なんて、一度とんでもない時間に戻ってきたよな。女と乳繰り合って」 「だから何だってんだ? 小中学生じゃあるまいし、陽が暮れる前に帰ってこいって言うのかよ」 「いや、そうは言ってない。でもな、お前はこないだ一度深夜に帰ってきてから、あそこまで遅くなることがなくなった。 私が怒ってるんじゃないかと不安がって、夕食の時間には家に着くようにしてる」 反論、しようとした。なのに声が出ず、飲み込んでしまう。 頭の片隅で自分が叫んでいる。理不尽だが、蛍子の指摘には正しい部分もある、と。 「お前は姉の私が怖くてまともに女とも付き合えないようなヘタレた奴だ。 その癖私の胸をこっそり見るような真似をする、情けない男だ」 「……誰がお前の胸なんて見たいって言ったよ。お前はその方が楽だからおおっぴろげにしてるんだろうけど、 こっちは迷惑してんだ。何度も言ってるだろ、ちゃんと服着ろよ、服を!」 「は、別に私は見るなとは言ってない。堂々とすればいいだろう? そうやって恥ずかしがってる方がみっともないな」 「お前……っ」 危うく拳を握りかける健一に、蛍子は不敵な笑みを浮かべて近寄る。 首に引っ掛けていたタオルを投げ捨て、上半身を晒した。 思わず健一は目を逸らすが、それを蛍子は許さなかった。くつくつと、馬鹿にするような笑い声が響く。 「ほら、私は隠さないから、好きなだけ見ればいい。自分の情けなさを証明したければ話は別だが」 ――プツン、と。 理性の糸が切れる音を、聞いた気がした。 あからさまな挑発だとわかっていながらも、健一は止まれない。 自ら蛍子の前に立ち、殺気の篭もった瞳で睨む。女性にしてはかなり高い背を持つ蛍子を相手にすると、 目線の位置はさして変わらない。それこそ真正面から視線がぶつかり合う。 「……反抗するだけの度胸はあるみたいだな」 「どうだ。お前の胸なんて見たくもないし、見たって何とも思わないんだよ」 「その割にはおどおどした喋り方に聞こえる。何だ、その程度か?」 「っ、五月蝿い! 何とも思わないって言ってるだろ!」 反射的に、健一は右手で蛍子の胸を掴んだ。そのまま強く握り潰す。 一瞬蛍子は顔を顰めるが、すぐに調子を取り戻した。口元だけを薄く歪め、 「それが精一杯か?」 「……これ以上、どうしろって言うんだよ」 「先を思いつかないのがお前の器の大きさだな。底が知れる」 「ぐ……」 「どうしようもないヘタレな弟に教えてやろう。女の胸は、そんな乱暴に扱うもんじゃない」 そう言うや否や、蛍子はおもむろに健一の腕を取った。 胸から手を引き剥がし、もう一度押しつける。さっきよりも緩やかなタッチで。 柔らかな感触が改めて手のひらから伝わり、つい力んでしまう。健一の焦りは即座に勘づかれ、また笑われる。 冷静な自分の一部が、今日のホタルはどこかおかしい、と叫んでいた。 仮にも、蛍子は健一の姉である。三歳年上、身長も僅かながら健一より高く、 決して褒められたものではない人格だが、自分よりも大人だと思っていた。人間として、それなりに尊敬もしていた。 なのに、今は違う。健一をヘタレだ情けない奴だと罵倒する蛍子は、その情けない弟と同じように、 どこかムキになって、意地を張っている。 ここで健一がもう少し大人だったなら、自身の苛立ちから何からを抑えることもできたかもしれない。 しかし高校生の健一はそこまで大人になれなかった。発展途上の子供でしかなく、 結果、お互い収まりのつかない状況を作り出してしまっている。最早、引き下がれない。 健一も、蛍子も、冷静さを失っていた。だからこそ、躊躇いは、感じなかった。 「……む」 「んぐ」 唇を押し当てるようにして奪う。その瞬間、健一には蛍子に対する敵愾心のみが燃えていて、 不快な笑みを漏らし続ける口を閉ざすには、それしかないと思った。 時間にして二秒、お世辞にもキスとは言えない強引な仕打ちに、されど蛍子は揺らがない。 さらに嘲笑を濃くし、健一を煽った。 「ま、お前じゃこの程度が限界だな」 「わかったことを言うな!」 鈍い音と共に、健一は蛍子を床に押し倒した。両の手首を押さえ、身動きが取れない状態に持ち込み、 自身の優位性を確立してから見下すような目で睨む。翳った蛍子の表情はやはり揺らがなかったが、 行動を封じているというこの形がちっぽけな自尊心を満たした。 「俺だって男なんだ。力だったら俺の方が上だし、こうやってお前を押さえつけることもできる。 それがわかったらもう二度と馬鹿にするな。俺を怒らせるな」 「――フン、そんなんだから餓鬼なんだよ」 「な……っ!」 「その程度で屈服すると思ってるだなんて、どれだけ情けないんだお前は」 どこまでも冷たく鋭い言葉に、薄氷の如き自信はいとも容易く砕かれた。 健一の手からすっと力が抜け、それを察知した蛍子は拘束を振り解く。 恐れが、健一を硬直させた。激しやすい蛍子なら、きっとその手で健一を殴るだろう。 倒れ伏した姿勢での殴打に大した威力は出ないだろうが、与えられる直接的な痛みが問題ではない。 殴られるという事実そのものが、僅かに残った気力さえ粉々にしてしまうと思ったからだ。 意味のない抵抗と知りながら閉眼し身を竦めた健一を、蛍子は、殴らなかった。 どころか、二つの腕は脇を通り、背に回り、優しく抱きしめられる。 細い腕だった。 こんなところは女らしいと、困惑した頭で素直に感じた。 「……でもまあ、確かに身体は男なんだな」 「ホタ……ル?」 「いつの間にかお前も、男の匂いがするようになってたんだな」 目を開ける。すぐそこに姉の顔があり、ふわりと、風呂上がりの石鹸の香りが漂ってきた。 押しつけられた蛍子の胸が、ただ触れるのではなく、何かを得ようとするように動く。 繋がった理性の糸は、肌を通して伝わる熱で焼き切れそうになっていた。 頭が、くらくらする。激しい鼓動は自分のものなのか、あるいは蛍子のなのか判別が付かない。 浮き上がった本能に健一は流されそうになり、 ……一瞬、綾の顔が脳裏を過ぎった。 意思が身体の自由を取り戻す。名残惜しさを錯覚だと自分に言い聞かせ、振り返らず、玄関まで走った。 申し訳程度に靴を引っ掛け、外に飛び出す。今戻ったら、取り返しがつかなくなる気がした。無心で、逃げるように、目指す。 幽霊マンションの十三階へ。綾のいる、その場所へ。 1301号室に入ると、綾が冷蔵庫から食べ物を取り出しているところだった。 ざっと見渡すが、刻也はいない。1302にいるのかもしれないし、あるいはもう帰ったのかもしれないが、 真偽はわからなかった。物音を聞いた綾は健一を見つけ、嬉しそうに駆け寄る。 健ちゃん、と明るく声を掛けて、そこで健一の尋常ではない様子に気づいた。 「大丈夫? 元気ないみたいだけど」 「……綾さん」 「何か、あったのかな」 問われ、健一は口を開きかけるも躊躇う。 綾を頼りに来たはずなのに、何だか安易に助けを求める自分は蛍子が言ったように情けない男だと思った。 いや、そもそも、こうして綾に会って、いったい何をするつもりだったんだろうか。 まだ思考はぐちゃぐちゃなままで、上手く纏まってくれない。 結局俯いた健一の顔を綾は下から覗き込み、心配そうな表情をしてからとりあえず座らせた。 綾自身は健一の隣に腰を下ろし、自分から話してくれるのを待つ。 静寂に耐え切れず、沈んだ声で健一はぽつりぽつりと語り始めた。 「僕は……最低です。最低なんです」 「どうして? 健ちゃんは、悪いことをしたの?」 「はい。さっき、家でホタルとケンカして……」 「お姉さんとケンカしたの?」 「……理由は、単純なんです。ホタルが唐揚げを作ろうとしてたんですけど、油の温度を上げ過ぎてて、 僕がいなかったらきっと、大変なことになってました。だから火を止めて注意したのに、 ホタルは僕のことを非常識だ、って言って……ううん、これじゃホタルだけが悪いみたいだ。 そうじゃなくて、たぶん僕も、ホタルも、冷静になれなかったんです。 相手の言葉がいちいち気に障って、言い返して、それで……」 「それで?」 「僕は、ホタルを襲いかけました。キスして、抱きしめられて、欲望に負けそうになったんです」 実の姉なのに。 血の繋がった姉弟なのに。 「そんな自分が怖くて、何も考えずに逃げてたら……綾さんのいる、この場所に来てました」 「そっか。話したら落ち着けた?」 「……少しは」 「ならいいんだけど。そうだ、お腹空いてない? 冷蔵庫見たらこんなのがあったけど」 「きゅうりを生でかじるつもりだったんですか……」 「えへへ、料理なんてほとんどしたことないから、包丁の使い方とかも全然わからないんだよね」 「ちょっと待っててください。今簡単なサラダを作りますから」 「……大丈夫なの?」 「少しでも、気を紛らわせたいんです」 綾からきゅうり(丸ごと一本)を受け取り、さらに冷蔵庫からレタスやトマトを取り出す。 包丁で適量を食べやすい大きさに切り、さっぱりしたドレッシングを自前で作って皿に盛りつけた。 夜食としては重くなく、小腹を埋めるには丁度良い。姉との諍いで健一は夕食を口にしていなかったが、 今はあまり食べる気になれなかった。が、それでも空腹であることに違いはない。多少は胃に入れたかった。 しばらく無言でしゃくしゃくと野菜を食べ進める二人。まず綾が完食し、続いて健一も皿を空にする。 綾はやろうかと申し出たが、皿洗いも健一が終わらせた。再び先ほどまで座っていた位置に戻り、息を吐く。 「すみません、迷惑掛けちゃって」 「健ちゃんだったらいいよ。それとも、悪いことだと思ってる?」 「……僕は、綾さんに助けてもらってばかりですから」 「それは違うよ。健ちゃんは、私を助けてくれたじゃない」 「そんなことないです」 「ううん、最初に会った時も、こないだも、いつも健ちゃんは私に力を貸してくれたよ」 そう言って微笑む綾のことが、健一には眩しく見えた。 純粋さを突きつけられるほどに、自身の無様さを鏡映しにされているようで、心が痛い。 「ねえ、健ちゃん」 「……はい」 「健ちゃんは、自分の何が悪いって思ってるの?」 「それは……家族なのに、僕はホタルを襲おうとして……」 「ホタルさん、嫌がってた?」 「……え?」 「嫌がってたなら健ちゃんのしたのはいけないことだと思うけど、どうなのかな。本当に嫌がって抵抗したの?」 予想外の質問に健一は固まる。 あの時、蛍子はどうしていたろうか。男の匂いがするようになってた、 そんな言葉と同時に自分を抱きしめた蛍子は、胸をすり寄せた蛍子は―― 「………………」 「だったら、たぶんそれは悪いことじゃないよ」 「で、でも!」 「健ちゃんは、気持ち良くなりたいって思ったんだよね。ホタルさんもきっと同じ。なら、どこに問題があるの?」 「だって、僕とホタルは姉弟ですよ! なのにあんなこと、していいわけないじゃないですか!」 「そうかな。姉弟だとか、関係ないよ。健ちゃんだけとか、 ホタルさんだけが気持ち良いのは独りよがりで良くないことだけど、お互いが気持ち良くなれるのはいいことだもん。 だから私は、健ちゃんのしたことが悪いとは到底思えない」 「そんな……そんなこと言ってたら、何もかも、無茶苦茶になっちゃいます」 「かもしれないね。だけど、気持ち良くなるのを否定するのなら、きっと社会とか世間の方が間違ってる。 その中で生きるために、私達は上手く折り合いをつけていかなきゃならないんだろうけど、 それでいいことと悪いことは変わらないよ。そして私は、 折り合いつけて合わせて生きてくのは、気持ち良くないことだって思うから」 ようやく、健一は綾の本質を少し理解できたような気がした。 彼女は世界に迎合しない。常識に欠けていると言われようとも、 一人じゃまともに生活できないと罵倒されようとも、決して自分を曲げないのだ。 ある意味では頑なで、自由で、孤高で、他者とは在り方そのものが違う、己を偽らない素直な人。 「綾さんは……すごいですね」 「そうかな。健ちゃんがいなかったらすぐ空腹で倒れちゃうんだよ?」 「それでもです。羨ましいって思います」 「あはは、じゃあ私と同じだ。私は健ちゃんのことが羨ましいし」 「……僕が、ですか?」 「うん。ほら、私ってこんなんだから、みんなに迷惑掛けてばっかりだなあって」 「ならおあいこです。綾さんに助けられた分、僕は迷惑掛けられてもいいですから」 「だったら嬉しいな」 それは健一の本心だった。確かに自分は綾に救われていて、綾もまた、健一に助けられていると思っている。 互いに気持ち良くなること。つまりは、そういうことなのかもしれなかった。 「あのね、健ちゃんは、やっぱり悪いことをしたんだと思う」 「……ですよね」 「でも、ホタルさんを襲いかけたのが悪いんじゃない。もっと他に、健ちゃんはしちゃいけないことをしたんじゃないかな」 「他に?」 「置き去りにして、逃げてきちゃったよね」 「………………あ」 綾の言わんとしていることはすぐにわかった。 蛍子を突き放し、一切の言葉も残さず、健一は走って、逃げてきたのだ。 自分がこうして悩んでいるように、蛍子だって苦しんでいる。そんな考えに到らなかったことを、恥ずかしく感じる。 情けない奴、という蛍子の指摘は、正しくその通りだろう。自分でも呆れるほどの馬鹿さ加減だった。 「もう少し落ち着いたら、謝りに行った方がいいよ。まだ辛いならここで寝てもいいけど、できるだけ早く帰ってあげて」 「……はい」 「健ちゃんはね、私や刻也君とは違うと思うんだ。ここは健ちゃんにとって逃げ場じゃない。 もしホタルさんとのことで家に戻れなくなってここに住むことになってたら、鍵を拾うのは今日だったんじゃないかな」 「じゃあ……僕はどうしてここに来ることになったんですか?」 「たぶん、十三階に住むことになる人達のためだよ。健ちゃんが来てくれてから、 私は刻也君と前より話せるようになったし、これからもう少し仲良くなれるんじゃないかなって思ってる。 勝手な期待かもしれないけど……健ちゃんの存在が、私達を繋いでくれるような気がする」 「僕の、存在が……」 「だから、とは言わないけど……健ちゃんにはホタルさんと仲直りしてほしいな。 それを健ちゃんが望まないなら押しつけるつもりはないけど、私はそうしてほしいと思ってるし、 今日みたいに逃げるようにして来るよりは、元気でいてくれた方が嬉しいから」 もう、迷いや躊躇いはなかった。 自分の帰るべき場所は、ここじゃない。蛍子を一人置いてきてしまった、絹川家だ。 だけど、そう、帰るべき場所はあるけれど、綾のいるここも、健一にとっては大事な家だから。 「行ってきます」 駆け出した健一の顔には、笑みが浮かんでいた。 いつからいたのかはわからない。ただ、蛍子は居間の椅子に座って、火の点いていない煙草をくわえていた。 頬杖をつき、焦点の合わない目で虚空を見つめる姿は、茫然自失という表現が殊更に似合う。 健一の帰宅にも気づかなかったのか、正面に回るまでは微動だにしなかった。しかし、 「ホタル、ごめん」 頭を下げた弟の方に、僅かながら首が動く。 反応しているのかいまいち判別はつかなかったが、今の健一にはさして重要なことではない。 もう一度、先ほどよりも深く頭を下げる。 「ごめんなんて言っても許されることじゃないけど、ごめん」 不安になってゆっくり顔を上げると、緩やかに蛍子は動き始めた。 目覚めて血が通ったかのように、すっと光を取り戻した目で健一を見る。 「……ごめん、と来たか」 喋った拍子に口元の煙草がぽとりと落ちたが、それには一向に構わず苦笑する。 座ったまま杖代わりに使っていた右手を額に当て、溜め息。 「全く、それはこっちの言葉だよ」 「………………」 「私は保護者代わりなんだから、お前を叱ってやらなきゃならなかったのにな。 そんな程度のことも忘れて、何もできずにぼーっとしてたら『ホタル、ごめん』と来た。私はいったいどれだけ情けないんだ?」 「ホタルは悪くない。俺の所為だ」 「違うな。私が挑発したからお前もその気になっちまったんだろう?」 「いや、その、まあそうかもしれないけど……」 珍しく殊勝な蛍子の態度に、健一は面食らう。 「……ムサクサしてたんだよ。私は父さんと母さんにお前のことを任されて、 姉だからそれは当然のようにできてると思ってた。少なくとも今日まではな。 でも、とんでもない勘違いだった。唐揚げ一つまともに作れない自分がいて、 油の温度を上げ過ぎたことにも気づかず、挙句の果てには守ってくれたお前に八つ当たりだ。 ほら、今の話のどこにお前が悪いっていう証拠がある?」 「そんなことない。ああなったのは、やっぱり俺がまだ餓鬼だからだよ」 「なあ……健一。父さんと母さんがしょっちゅう家を空けるようになって、お前と二人で暮らすことになった時、 私はお前に華を持たせようと思って料理を担当させた。 何もかも私がやるより、その方がお前は引け目を感じずに済むんじゃないかって」 「そうだったんだ」 「だが、私は気づけば碌に飯も作れない女になってて、お前は私がいなくてもちゃんと暮らしていける人間だって思い知らされた。 そこで意地を張ったのは、私が大人になりきれてなかったからだよ。お前はまだ餓鬼なんだと思いたくて、当たり散らしたんだ」 「……でも」 「拒もうと思えば拒めたさ。お前程度の力ならまだ振り解けた。なのにそうしなかったのは、自分でもよくわからない。 ご無沙汰だったのかもしれないし、単純にムサクサしててどうでもよくなったからかもしれない。 お前が例の女とよろしくやってたことが気になったからかもしれない。とにかく私はあの時、お前に欲情したんだ。 お前が私に欲情したのと同じように」 どれだけ健一が否定しても、蛍子は全て自分の所為にしたいようだった。 保護者代わりの自負なのか、あるいはやっぱり意地を張っているのか。 いずれにせよ、これではまるで責任の背負い合いだ。不毛なことはすぐわかる。 「わかった。じゃあ、それはそれでいいとして、これからどうする?」 「これから、ね……」 「とりあえず謝らなきゃと思って戻ってきたけど、俺達、この先もやっていけるのかな」 「私は……」 「いや、ごめん。言い方が悪かった。ホタルはもう、俺には家にいてほしくない?」 「逆だろう。お前は悪くないんだから、出ていくのは私の方だ」 「でも、俺は一人でこの家に残されても困る。ただでさえ寂しい家なのに、ホタルまでいなくなったらもっと寂しいよ」 「だったら例の女のところに泊めてもらえばいいじゃないか。さっきもそこに行ってたんだろうに」 「そうじゃない。我が儘かもしれないけど、俺はこれからもホタルと一緒にここで暮らしたい。 そりゃあ今までと全く同じってわけにはいかないと思うけど、まだしばらくは、こうしていたいんだ」 「……そうか」 「……駄目、かな」 言うべきことはちゃんと言った。 祈るような気持ちで、健一は蛍子の返答を待つ。 表情を曇らせ、悩む仕草を見せた蛍子は、 「はあ……。お前がそう言うなら、無理でも努力するしかないだろ。私はお前の保護者代わりなんだから」 「じゃあ、ホタル」 「出ては行かないさ。今まで通り、私達はここで暮らす。それでいいか?」 「うん。……俺も、努力するよ」 万事無事とは言い難いが、どうにか蛍子と仲直りすることができた。 それを喜ばしく感じるのは、健一だけだろうか。蛍子も自分と同じ気持ちでいるのだろうか。 もしそうだとしたら、なるほど綾のアドバイスにも素直に頷けると思う。 「風呂入ってくるから、その間に作っとけよ」 「はいはい」 結局こき使われることになっても、離れ離れになるよりは、よっぽど良かった。 今日の 「うあー、今日もお賽銭一円すら入ってなかったー……。依頼も最近ないし、どうやって生きてけって言うのよ……。 だいたいちょっとこの頃暑過ぎない? ミンミンミンミンうるさいセミどもよね。あ、あいつら食べたらおいしいのかしら。 油でからっと揚げれば結構いけるかも……って逃げやがった。静かになったのはいいけど、これで振り出しかぁ。 うぅ……食料誰か持ってこないの? 勝手に人ん家の敷地使って散々暴れて帰ってく癖に手土産のひとつもないんだから。 む、湯飲みの中身が空になったわ」 (ぶつぶつ言いながら急須を取ろうとする) 「って、急須はどこ行ったのよ」 「お借りしてますわ」 「……今更不法侵入に関して問い質しても無駄なのはわかってるから何も言わないけど、 勝手に人が淹れたお茶を飲まないでくれる? 茶葉だってタダじゃないのよ。水は汲んでくればタダだけど」 「博麗の巫女はいつからそんなにケチ臭くなったのかしら」 「あんたらが居座るようになってからね」 「私は少しの間お邪魔してるだけですわ」 「ここしばらく毎日見てるような気がするけど?」 「このお茶、随分薄いのね」 「無視すんな。……そういえば、さっきからあんた何ずっとスキマ覗き込んでるのよ。 気持ち悪いからさっさと塞いでほしいんだけど」 「霊夢も覗いてみる?」 「慎んで遠慮するわ」 「あら残念。なら質問に答えてあげましょうか。私はスキマを通じて外の世界を見ていたのです」 「外の世界? もしかして、博麗大結界に穴でも開けたの?」 「まさか。ちょっと外界と幻想郷を繋いだだけよ。久しぶりにいい見せ物があったから、眺めていたの」 「あんたに覗かれるなんて、その見せ物とやらも可哀想ね」 「知らなければそれは初めからないのと同じでしょう。例え私が観測してようと、 その対象が観測されてることに気づかなければ、向こうにとってはそんな事実自体存在しないの」 「ふうん。じゃあさしずめあんたは神様ね」 「お褒めにあずかり光栄ですわ」 「十割皮肉なんだけど」 「霊夢は本当に素直じゃないのね」 「私は生まれた時から自分に正直よ」 「ふふ、だから貴方は面白い。ちょうどこのスキマの先にいる人間達とはまた違って」 「……何、あんた人間観察でもしてたの?」 「ええ。幻想の空間に住まう少年少女が互いを慰め合いながら暮らしている情景は、滑稽なものよ」 「あんたも充分過ぎるほど滑稽だと思うけど」 「あらあら、霊夢に比べれば私なんてまだまだですわ」 「使用済みのお茶っ葉を頭から被りたい?」 「怖い怖い。本気で怒る前に退散しましょうか」 「あ、ちょっと待て、せめて何か置いてけーっ! ……くそ、本当に帰りやがったわね。 今度会ったら逆さ吊りにしてポケットの中の物まで全部回収してやるんだから」 (先ほどまでスキマがあった場所を凝視) 「――滑稽でも、無様でも、生きていくしかないんでしょうに。人間ってのは、そういう風にしかできてないのよ」 「……うわ、お茶切らした」 back|index|next |