十三階に顔を出そうと思っていたのだが、一階で綾がしゃがみ込んでいるのを見つけて健一は足を止めた。
 近づいてみると、何やら自転車と格闘しているようだった。
 足下には色とりどりのペンキ缶。刷毛を片手に、骨組みの隅から隅へと塗りたくっている。
 健一が声を掛けようと綾の後ろに移動し、そこでちょうど赤色のペンキを塗り終えた綾が自転車と距離を取ろうとしたので、

「あうっ。……あれ、健ちゃん?」
「……どうも」

 示し合わせたかのようにぶつかった。
 健一は力なくふらついて倒れかけた綾を支える。

「何してたんですか?」
「自転車に乗ろうと思ったの。ここに越してきた時に買ったんだけど、 全然使ってなかったから錆びついちゃっててね。それでオーバーホールしてたんだ。 ついでに塗装もしてみたんだけど、どうかな」

 ゆっくり綾の姿勢を戻してから、どうやら完成したらしい自転車に視線を移す。
 素体はどうということのない、二十六インチのいわゆるママチャリだ。 しかし、購入した当時の地味だったろう色合いは見事に上塗りされ、 幾重にも覆った極彩色の塗装がただの自転車を芸術作品にまで高めていた。
 パステルカラーが交じり合いながら後方に流れる形で描かれた、一種の立体的な絵画のようにも見える。 先ほど使っていた赤はアクセントの意図でところどころにぽつぽつと付けられている。 それがまた目を引き、健一は改めて感心した。

「へえ……。こういうのを見ると、綾さんが芸術家なんだなあって思いますね」
「えへへ。私のこと見直した?」
「はい。かなり」
「じゃあさ、後でこれ乗って出かけたいんだけど、健ちゃんも付き合ってくれない?」

 そう言われ、少し考える。
 時間帯は昼過ぎ、休日なので行く場所によっては少し混むかもしれないが、まあ問題ないだろう。
 特に目的があって来たわけでもないし、用事らしい用事はもう済ませてある。

「いいですよ。……変なことをしないなら」
「変なこと? んー、その注文は難しいかな」
「なら行きません」
「えー。む、わかった。頑張ってみるから、一緒に行こ?」

 結構押しが強いのは先日から知っているので、あまり抵抗しようとも思わない。
 一応言質は取ったと判断し、健一は頷く。望む答えが得られたので、綾は表情を緩く綻ばせた。
 と、健一の左手にぶら下がったビニール袋に目が行く。

「健ちゃん、それ何?」
「これですか? 自分の物なんですけど」

 ごそごそと取り出した中身は、緩衝材に包まれた茶碗だった。
 皿洗い中に健一が割った物の代わりである。安価で素っ気ないデザインのを選んできた。
 綾は茶碗をしばらくじーっと見つめ、その目にちょっと熱が篭もっているように感じたので健一はそそくさと袋に戻した。
 そんな所業に気を悪くするでもなく、綾は言う。

「お茶碗見てて思い出したんだけど、そういえば私、朝からずっと自転車いじってたからお腹空いてたんだ」
「相変わらずですね……。わかりました、何か作ります」
「ありがとう。健ちゃんの作るご飯はおいしいから好きだよ。チャーハンとか」

 先日、例の分解した門松のことが気になって、夜に十三階へ足を運んだ時、 空腹で倒れていた綾を介抱し振る舞ったのがチャーハンだった。 その際何故か唐突に告白の返事を迫られたりしたのだがどうにか誤魔化した。 まあ、それはともかく、ふらついていたのはやっぱりというか、腹が減っていたかららしい。
 自転車を通行の邪魔にならない場所まで運び、十三階へ上がる。 エレベーターが使えないのは辛いよなあと思いながら、いつもより遅い綾のスピードに合わせる。 何度か足を止め、1304号室に辿り着いた頃には、綾はへとへとだった。
 冷蔵庫を見ると、幸い食材が入っていた。ある物で何が作れるか、頭の中で適当なレシピをリストアップする。

「……またチャーハンになっちゃいますけど、いいですか?」
「健ちゃんが作ってくれるなら大歓迎」

 綾の言葉を肯定と解釈し、手早く調理した。所要時間は十五分。 冷凍の白米があったので米は研がずに済ませ、具材は二分で適当なサイズに切り刻む。 中華鍋がなく、フライパンで代用。慣れた手付きで炒め、皿に盛ってスプーンを添える。
 出されたそれを、綾は妙に急いで食べた。一度喉に詰まらせ、慌てて水を飲ませたのだが勢いは治まらない。
 ものの四分で完食し、健一が皿を洗っている間、出かけるならせめてちゃんと服を着てください、 というお願いにも素直に応えてくれた。もっとも、それであのカーペンターパンツを選んできたのはちょっとどうかと思ったが。

「それじゃ行こう」
「あの、僕は行き先をまだ聞いてないんですけど」
「んーとね。食材と……それから、お皿とか買いたいかな」
「皿ですか?」
「うん。健ちゃん、ちょこちょこここに来るつもりでしょ? なら健ちゃんの分もあった方がいいかなって」
「自分のは自分で買いますよ」
「いいっていいって。そうだ、中華鍋も買おう。包丁とかも必要かな」
「えっと……とりあえずは、中華鍋だけで平気です」

 服も買った方がいいんじゃ、とは言わない。食材だけでも結構な量になるのは間違いないだろう。
 お金は全部綾持ちだということに申し訳なさを感じながら、頬を掻く健一だった。



 綾との外出は、ある意味根気比べのようなものだ。
 ふっと自転車の後ろから降りてはスケッチブックを構える彼女を見て、健一はそんなことを考えた。
 出かける前、一人じゃ危なくて遠出できないんだ、と言っていたのを思い出す。 綾の人並み外れた集中力と、時や場所を選ばない好奇心がそうした、 傍からすれば奇行に見えるような行動に走らせる原因なのだろうか。
 その度自転車を止め、健一は後ろから綾の様子を見つめる。素人目にも凄まじい速度で輪郭が描かれ、 それこそあっという間に全体像が掴めるようになる。描き終わると背後の健一に気づき、 少し申し訳なさそうな顔でごめんね、と謝る、その繰り返し。
 おかげで遅々として進まなかったが、陽が暮れる前にどうにか目的地には着くことができた。

「本当にごめんね、私ああいうの見るとつい我を忘れちゃうんだ」
「別にいいですよ。とりあえず、買い物をささっと済ませちゃいましょう」

 近場の商店街まで来るのに一時間(本来は徒歩十分以内)も掛かった。 綾と出かける時はかなり余裕を持たないと駄目だなあと学習しつつ、先に食材を揃えることにする。
 買い物をしていて気づいたのは、綾がかなりのお金を持っているということだった。
 前と同じように財布は持っていないらしかったが、それは今は置いておく。 ぱっと見ただけでも、ポケットから出てきた一万円の札束は二十枚を越えていた。 一度懐から束ごと取り出したので、健一はかなり焦って制止し、 三枚ほど預かってこれで充分ですから人前では絶対それを見せないでくださいと厳命した。 ……致命的なまでに警戒心がない。
 妙な気疲れを感じながら、どうにか食材の買い物は終わった。重い荷物を片手に、調理器具が売っている店へと向かう。

「どう、健ちゃん、良さそうなの見つかった?」
「この辺でいいかなあっていうのはありました」
「じゃあそれを買おう」

 中華鍋も無事購入し、最後に、綾が寄りたいところがあると言った。
 それはすぐ近くの雑貨店で、節操ない品揃えの中の一つを綾は手に取って、満足げに頷き健一に見せる。

「これだよね」
「はい。……でも、どうしてわざわざ?」
「だって、健ちゃんのを見ていいなあって思ったらさ、欲しくなっちゃったんだ」

 綾が掲げたのは、健一が買ってきた茶碗と全く同じ物だ。
 お揃いの茶碗で今度一緒にご飯を食べようね、とアプローチされ、健一は苦笑する。
 開けっぴろげ過ぎる好意の示し方は、かえって気負うことはないと言われているように思えた。
 健一の分も含めレジで手早く精算を終え、かなり荷物は膨大になった。
 男だからと全部自分で持ったはいいが、正直限界に近い。
 耐え切れず袋を落としてしまう前に、何とか自転車まで辿り着くことができた。

「お疲れー」
「はあ……っ、これ、全部籠には、入らないですよね……」
「ハンドルの横に下げるしかないんじゃない?」
「やっぱりそれしかないですか」

 食材は入る分だけを籠に、中華鍋と割れ物以外の雑貨はハンドルの左右に。
 茶碗などの扱いに気をつけるべきものがてんこ盛りな袋のみ、後ろの綾が持つことにする。
 商店街を出た頃には陽も沈みかけ、辺りは夜の帳を下ろし始めていた。
 ふらふらになりながら、自転車は暗い道を進む。行きと違い綾がスケッチブックを取り出すこともなく、 十五分ほどで幽霊マンションの一階に到着。思わず一息吐くが、大変なのはむしろそこからだった。
 両手でも持ちきれない量の荷物を、十三階まで運ばねばならないのである。
 既に満身創痍な健一は、この時ほどエレベータが使えないのを恨めしく思ったことはなかった。
 三つの袋を抱え、1304号室の玄関にそれらを置くと同時、前のめりにどさっと倒れる。
 後ろから割れ物入り袋だけを持って入った綾は、だらしなくシャクトリムシの如く横になった健一を一瞥し、

「健ちゃん、大丈夫?」
「すみません……少し、休ませてください」

 消耗した声が返ってきたので、荷物を仕舞うことにした。
 食材は冷蔵庫、茶碗や皿は食器棚、中華鍋は適当な場所へ放り込む。
 健一の分は、後で1301に置きに行く手筈だ。中身を無くし無用となったビニール袋を丸めて隅に投げ、 綾は倒れっぱなしの健一にそろりそろりと近寄る。足音は聞こえているはずなのだが、 起きる気配はない。相当疲れているらしい。
 チャンスとばかりに背後へ回り、綾は健一の上に覆い被さった。

「ちょっ、ちょっと綾さん!?」
「あれ、もしかして重かった? 私そんなに体重ないはずなんだけどなあ」
「そういうことじゃなくてですね……」
「じゃあ何かな、健ちゃんはこういうの嫌いなの?」

 反論しかけるも、綾の細腕が絡みつくように健一の腹下へ滑り込み、くすぐったさに言葉が途切れる。
 ちょうど息が首裏に掛かり、背中には薄い服越しに柔らかな二つの感触がある。 抱きつかれているというよりは、襲われているという形容の方が正しいかもしれない。 うつ伏せのままでは抵抗もできず、そもそも消耗しているのは本当なので、今は身体を動かすことすら億劫だった。
 ただ、自分の意思と関係ない部分だけが元気さを主張している。こんな状況では、さすがにどうにもならなかった。

「嫌いじゃないですけど、何て言うんですか、恋人同士でもない関係なのにすることじゃないかなって」
「なら私が健ちゃんの彼女になればいいと思うんだけど」
「だからまだ会うのも四回目くらいなのに、返事なんてできませんよ」
「でも」

 綾の腕が、次第に下半身へと移動する。臍を越え、下腹も通り過ぎ、問題の箇所に触れた。
 思わずびくんとしてしまう。軽い刺激に、そこは過剰な反応を示した。

「健ちゃんのここは正直だよね」
「うぅ……」
「ねえ、触っていいかな」
「駄目です!」
「こんなに大きくなってるのに?」

 直接的な言い回しに健一は否定で答える。
 綾の追求に、心が揺れ動かないわけでもなかったが、寸でのところで自制し頭を左右に振った。
 これで諦めてくれなかったらどうしよう、と少し不安になり、首を捻って綾の顔を見上げると、意外にすんなり退いてくれた。

「ごめんね、私、健ちゃんの嫌がることしちゃったよね」
「……いえ、別にそうは思ってないですけど」
「さっきの健ちゃん見てたら、こう、エッチしたいなあって気持ちになって。健ちゃんはやっぱり、したくなかった?」
「えっと……その、流されるままするのは、もう嫌なんですよ」
「前みたいに?」
「はい。そういうのって綾さんにも失礼ですし、何より自分が許せないんです」
「うーん……そんなものなのかなあ。別に私はいつでもオッケーだし、健ちゃんが悪く思う必要はないんじゃない?」
「どうしてですか?」
「だって、気持ち良かったんだもん。私ね、健ちゃんとするまで、 エッチがあんなに気持ちいいものだって知らなかったんだ。 何かに没頭するのは凄く気持ちいいことだし、私は作品相手にそれをずっとしてきただけだったから、 健ちゃんが気持ち良さそうにしてたのを見て、嬉しかったんだよね。 二人でさ、同じ時間に、同じことをして、同じように気持ち良くなれるって、とってもいいことなんだなあって思ったの」
「……はい」
「だから、何て言えばいいのかな……。健ちゃんが本当は私とエッチしてて気持ち良くなかったって言うんなら、 それはいけないことだと思うけど、そうじゃないなら、悪く思う必要は全然ないよ。 私がいいって言ってるんだし、他の誰にも否定されることじゃない」

 そこで綾は一度言葉を切り、

「大事なのはさ、自分の気持ちがどうかってことだよ」
「自分の、気持ち」
「私は健ちゃんが悪いとは思ってないし、それで健ちゃんを嫌いにもならない。 でも、健ちゃんの考え方を否定するつもりもない。健ちゃんが自分を悪いと思うんなら、 きっとそういうことなんだろうなって。私はそんな健ちゃんを美しく感じるし好きだけど、 健ちゃんも私と同じ気持ちかどうかなんてわからないよね。同じだったらいいな、とは思うけどさ」
「………………」
「次は、健ちゃんから誘ってくれると嬉しいな」

 結局、言いたいことはそこに収束するのだろう。
 しかし、それまでに綾が話した内容は、綾なりに健一のことを考えてのものだというのはよくわかった。
 真剣な想いをぶつけられて、なあなあのまま流すわけにもいかない。

「……考えておきます」
「うんっ」

 健一は、その問題と、真面目に向き合うと決めた。
 向き合った結果することは、些か不真面目とも言える行為なのだが。





 今日の薄幸少女千夜子ちゃん(以下略)


「ただいまー。あれ、誰もいないの? 困ったなあ、通り雨で濡れちゃったからタオル持ってきてもらおうと思ったのに。 しょうがない、急いで……っと。それにしても酷かった。 あんないきなり土砂降りになるなんて、もう靴の中までびしょびしょで気持ち悪かったよー……。 あ、着替えは……いっか。誰もいないんだし、ちょっとくらい裸で歩き回っても平気だよね?  それじゃお風呂に……きゃっ、ガスのスイッチ入れるの忘れてた。 そろそろ本格的に暑くなりそうだから少しは冷たくてもいいかもしれないけど、水じゃ心臓に悪いよ。 ……うん、温まってきた。それじゃ、」

(以降、バスタイムです。音声のみでお楽しみください)

「うわ、髪も冷たい。あとで床拭かないとなあ」
「どうしてこんなに胸が大きくなったんだろう。特別なことなんて全然してないのに……」
「あっ、シャンプーが目に入ったっ」
「ボディソープ切れてる。石鹸しかない……」
「ちょっと、どうしてそんなつるつる飛んでくのっ」
「あうっ」
「勢い余って壁に頭ぶつけた……痛い」
「胸が洗いにくい」
「……まだ誰も帰ってきてないよね?」

(千夜子、風呂から出る)
(バスタオルで身体を拭き、慌てて自室に着替えを取りに)

「よし、着替え終了。お風呂入ったから喉渇いたよ。飲み物あるかな……あ、麦茶冷えてる。ラッキー♪  ラップは取って、それじゃいただきまーす。んく、んく――」










「そばつゆっ!」










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何かあったらどーぞ。