愕然とした健一の耳に微かな物音が聞こえたのは、指先がドアノブから離れた直後だった。
 それが綾であればいいと、半ば縋るような思いで音のした方向へ振り向く。

「絹川君。どうしたのかね?」
「……八雲さん」

 淡い期待が外れた失望は、努めて顔に出さず抑えた。
 ここまで散々迷惑を掛けてきた刻也に対し、反射的にでもそんな風に考えてしまう自分の醜さにほとほと嫌気が差す。だが、どうしたってこの状況では冷静になれないのだ。
 冴子がいなくなり、綾も姿を消した。
 あまりにも二人が抜けてできる穴が大き過ぎて、急な喪失感に耐えきれない。

「綾さんの、部屋の鍵が」

 空虚な声で呟く健一から、刻也は1304の扉に視線を移した。挿さったままの鍵を認め、目を見開き、沈痛な面持ちで俯く。

「鍵は1301に?」
「はい。テーブルの上に、置きっぱなしでした」
「そうか。綾さんらしからぬ……いや、ある意味ではらしいと言うべきだろうか」
「……知ってるんですか? 綾さんが、いなくなったこと」
「ああ。昨日、当人から聞いたよ。ここを出ていって、別のところで暮らすと」
「別のところ?」
「詳しい場所は聞いていない。が、少なくともこの辺りではないようだ」

 ここを出ていった。
 少なくともこの辺りではない。
 口の中で、声にはせず復唱する。刻也の説明は簡潔かつ率直で、他に解釈のしようもないものだったが、健一の脳は理解を拒んだ。
 目を閉じて、耳を塞いで、倒れて丸まって、全ての現実から逃げたかった。
 けれど辛うじて踏み留まったのは、刻也の視線を感じたからだ。
 正面から、じっと。
 健一を捉えて、向き合っている。

「……どうして、出ていったんですか」
「同じようなことを、私も聞いてしまったよ。もう子供でいられる時間は終わったからかな、と言っていた」
「僕には……何も言わずに?」
「君に会っては、なけなしの決心が鈍ると。それに、別れは伝えたとも」
「別れ? そんなの、一度も……」

 聞いてないと口にしかけ、瞬間、数日前の会話がフラッシュバックした。

 ――ぜったい、健ちゃんならできるって、私は知ってるから
 ――じゃあね

 あの時、最後。
 確かに綾は「ばいばい」と、告げていた。
 それが別れの言葉だったのだとしたら。

「っ、絹川君、待ちたまえ!」

 思考より早く、足が動いた。
 右手でドアノブから鍵を引き抜き、制止しようとした刻也の横をすり抜け、健一は十三階を飛び出した。必死に上ってきた階段を、一切惜しまず駆け下りる。頭は真っ白だった。何も考えられない。わからない。けれど、座り込むことだけは許せなかった。
 外は既に暗く、吹く風が湿っていた。星の浮かばない空は鉛のように重い雲が占拠していて、最悪一歩手前の天気だった。
 凍えるほどの寒い夜道を、走る。指の冷たい痺れを振り払いながら、当てのない捜索を健一は始めた。
 ……もし、日奈のように即座の引っ越しを敢行していたとすれば、見つけることはほぼ不可能だ。探すだけ無駄だろう。しかし、一厘にさえも満たない、絶望的なまでに拙い可能性であったとしても、今の健一には縋る他なかった。
 疲労と混乱で濁った頭でも、いくつか候補は浮かんでいた。それらを虱潰しに探していく選択肢も考えていたが、落ち込んだ体力、血のように零れ続けた気力は共に限界が近い。
 自分は何故こんなにも辛いのに、走っているのか。
 本来の目的そのものを見失いかけながらも、健一の足は明確に、ある場所へと向かっていた。
 踏み抜く地面は硬く、アスファルトの反発で足裏が酷く痛い。膝の上がりと呼吸は連続せず、上半身を揺らす衝撃で肺腑の中身を吐き出しそうになる。
 爪先が引っ掛かり、もつれて転びかけ。慌てて姿勢を戻し、ふらつきながらもまた走る。夜道を照らす電灯と、車のライトの区別が付かなくなってくる。だから大通りを避けて、隘路を縫うようにして進んだ。
 そうして辿り着いた、瓶井戸中央公園。
 木々に囲まれた深い暗闇の中、周囲の遠い明かりを浴びて聳え立つ『時の番人』前に、健一は立っていた。
 浮かび上がるシルエットは昼の明るい中で見るより些か恐ろしく、しかしその存在感は全く変わらない。言葉にし難い不思議な魅力を、かつて健一はずっと目の前のオブジェから感じていた。本人に出会うより早く、桑畑綾という人間の一欠片を見続けていたのだ。
 だから、ここしかなかった。
 こんなところしか、考えつくことができなかった。
 果たして周囲に人の姿はなく。健一を辛うじて支えていた気力が、ぷっつりと途切れる。
 近くのベンチまでふらふらと歩き、転がるように倒れ込む。投げ出した手を開きかけ、握りっぱなしの鍵がいることを思い出した。
 力を入れ過ぎて、手のひらに角が食い込んでいる。暗くて判別できないが、赤い痕になっているに違いなかった。
 ほんの僅かに握りを緩め、あとはそのまま、呆然と仰向けで空を眺める。
 ぽつり、頬で冷たいものが跳ねた。
 そういえば酷い曇り空だったな、と思う。
 湿った風も、鉛色の空模様も、遠からず雨が降ることを示していた。そんなことにも気付けないほど、心が鈍っていた。
 雨はすぐに強くなり、茂る葉を叩く音が満ち始める。
 一粒一粒が、肌を切るような冷たさだった。あっという間に服を濡らし、全身から熱を奪っていく。
 このままでいたら死ぬかもしれない。都会の真ん中で凍死なんて、あまりにも笑えない話だ。けれど、もうそれでもいいかと、健一は本気で思っていた。何より身体を動かすだけの気力が失われていた。
 静かに眠ってしまいたいと目を閉じる。
 目尻を雫が伝っていくのを感じた。それが雨なのか涙なのかはわからなかった。
 五分か、十分か、あるいはもっと長い時間か――寒さで時間の感覚も奪われていた健一は、ふと降り続く雨が途切れたのを知る。
 億劫ながらも瞼を開ける。
 傘を持った刻也が、上から健一の顔を覗いていた。

「絹川君。私の声は聞こえるかね」

 電灯の光を反射する眼鏡から、傘でも弾ききれない雨粒が伝って落ちる。影に覆われて表情は窺えないが、少なくとも声には心配の色が混ざっていた。

「絹川君、頼む、返事をしてくれないか」
「……聞こえてますよ」

 返事は自身の想像より弱々しかった。それでも刻也にはしっかり届いたらしく、そうか、と安心したような呟きがこぼれる。

「動けるかね? そのまま身体を冷やしていては、風邪……いや、肺炎を併発する恐れもある」
「……どうして、僕のいる場所が、わかったんですか」
「君が走っていったすぐ後に、私も追いかけたのだ。一度は見失いもしたが、どうにか探し当てることができた」
「そう、ですか」
「まずは身体を起こそう。雨を凌がねば」

 横になった健一に肩を貸し、ベンチの背もたれに上体を預けさせる。
 それから「隣に座ってもいいだろうか」とわざわざ確認を取ってから、刻也も腰を下ろした。
 大きめの傘に二人、比較的無事な刻也と濡れ鼠の健一が並んで入る。
 ライトアップされた『時の番人』も、まるで泣いているようだと健一はぼんやり思う。

「私も慌てて出てきたもので、傘は一本しかないのだ。タオルの類もない。すまない」
「………………」
「差し支えなければ、1301に戻り、君には風呂にでも入ってほしいところだが……難しいかね」
「………………」
「では、私もここにいよう。風邪をひくのならお揃いだ」

 微妙にズレた結論だが、突っ込む余裕はない。
 しばらく無言で座り続ける。
 垂れ下がって頬に張りつくほど濡れた髪から、ぽたぽたと雫が滴る。手の甲に当たって弾ける水を、俯いたまま見つめる。やがて右手のひらを上にし、冷えて強張った指をゆっくりと開いた。

「八雲さんは、なんで、僕を追いかけてきたんですか」
「何故、と言われてもな。私が、そうしたかったからだ」
「でも……僕は、きっと、どうでもよかったんです。このまま、消えてなくなりたいくらいだった」
「それは、綾さんがいなくなったからかね?」
「……置いてかれたように、感じたんです」

 1304の鍵。
 主に捨てられたその小さな金属片が、自分と重なって仕方なかった。

「日奈は、自分の道を見つけて。有馬さんは、いなくなって。綾さんも、こうして、どこかに行っちゃって。みんな、大人になって出ていって。なのに、僕だけが、大人になれない。誰も彼も、僕を置いていくんです」

 ちらと横目で見やった、刻也もまた。
 いずれ十三階を出ていくのだろう。
 モラトリアムの終え方を、きっと皆は知っていたのだ。
 健一だけが、大人になるための方法を見つけられずにいる。

「一人で残っても、寂しいだけじゃないですか。十三階でいる時間は、楽しかった。色々あったけど、充実してたって思ってます。だったら、そういう日がいつまでも続けばいいって思いませんか? あの場所にみんなとずっといたいって思うのは、おかしいんですか? だから……こんな、僕だけが現実の見えてない、馬鹿な子供のままってことなんですか?」
「……絹川君」
「いいんです。もう放っておいてください。八雲さんも、僕のことは気にせず出ていってくれていいんですよ」

 あんまりにもあんまりな、酷い突き放しだ。
 それでも、今の健一にとっては紛うことなき本音だった。
 隣で刻也が立つ気配があった。しょうがない、いや、当然だと思う。これだけ助けて、気遣ってくれたのに、恩を仇で返すような真似をしたのだ。
 視界の端に映っていた足が消える。どこかほっとした気持ちを抱いた。
 直後。
 おもむろに左肩を掴まれた。
 ぐっと押し込まれ、舌を向いていた頭が勢いで上がる。
 反射的に目を見開いて、しかし一瞬で迫ったものが健一の世界を埋め潰した。
 額で鈍い音が鳴る。衝撃でちかちかする。頭突きをされたのだと、現実に数歩遅れた思考が気付いた。

「君は、自分を何だと思っているっ!」
「っ、ぐ……」
「もっと己を大切にしたまえ! 君が、ぼろぼろになって、喜ぶ者がいるかね!? 悲しむ者が、本当に一人もいないと思うのかね!?」

 肩を握る刻也の手から、凄まじい力が伝わってくる。
 それに、ここまで大きな声を出した彼を、健一は初めて見た。

「……頼む。そんな寂しいことを、言わないでほしい。私は、君がいなくなれば、悲しいのだ」

 じんじんと響く痛み、真っ直ぐ見つめてくる刻也のくしゃくしゃになった顔を前にして、健一はいくらか冷静さを取り戻した。
 思い返せば、随分短絡的な言い分だった。自棄になるのだとしてもやはり限度があるだろう。周りに当たり散らすのはよくないと、数日前に自分を戒めたばかりなのに。
 死にたくなるほどの自己嫌悪が襲いかかるが、今は忘れる。八雲さん、と名前を呼びつつ、肩を掴む手を軽く叩いて、静かに上体を起こす。

「すみません。いくら荒れてても、言っちゃいけないことでした」
「……君が相当に追い詰められているのは、理解している。だからこそ、こういう時に、友人としては頼ってもらいたい」
「はい。……ありがとうございます」
「隣、もう一度、いいかね?」
「どうぞ」

 再び健一の右側に腰を下ろした刻也は、柄にもないことをしてしまったというように、手の甲で微かに赤い額を擦った。

「不謹慎だとはわかっているが」
「え?」
「実は、こんなシチュエーションに、少しだけ憧れてもいた」
「こんな……っていうと?」
「友人同士のぶつかり合い、というのかね。これまでの人生では一度も、肉体的な喧嘩をしたことがなかったものでね」
「なるほど。僕は何度かありますよ。姉と……あとはまあ、ツバメのアレもカウントしていいのなら……」
「そうか。漫画やジュブナイル小説の類はほとんど読まないのだが、鈴璃君が時折読んでいる本の感想を語ってくれるのだ。その中に、こういったシーンもあってよかったと。今更になって、ようやく共感できた気がするよ」
「……八雲さんも、大概ズレてますよね」
「だろうな。そして、それはきっと絹川君もなのだろう」

 一息。

「少し、自分語りをしてもいいだろうか」
「はい」
「以前に父の話をした時、私には夢がある、と言ったことを覚えているかね」
「覚えてます。それを叶えるためにも、司法試験に受からなきゃいけないんですよね」
「その夢というのは、いわゆる街の電気屋さんなのだ」
「電気屋さん……ですか」
「似合わないと思うかね?」
「あ、いえ、そうじゃないですけど、八雲さんはやっぱり文系のイメージありましたし、何というか、意外だなって」

 司法と電気技術は全く知識としても噛み合わないので、仕方ないと言えば仕方ない。
 正直な健一の感想に、刻也は苦笑いを浮かべて続ける。

「幼い頃、家の近くに老夫婦が営む小さな電気屋があってね。客として行ったことはなかったものの、よくお邪魔させてもらっていた。あまり来客は多くなかったが、持ち込まれる壊れた機械を、店のご主人が修理するのを見ているのが好きだった。直し終わったものを受け取って持ち帰る、喜んだ客の姿を見るのも。あの手際は今思い出しても魔法のようだった。老夫婦に向けて、大きくなったらこの店を継ぎたいと、当時は本気で言っていたくらいでね」
「当時はってことは、駄目になった理由があるんですか?」
「数年前に、奥さんの方が亡くなられた。ご主人は息子夫婦の世話になると、店を畳んでしまった。すぐに建物も壊されてしまったよ」
「息子さんは、店を継がなかったんですね」
「このご時世では、個人経営の電気屋は流行らないだろう。見切りをつけたのも、経営者の目線としては決して間違っていないと思う」

 ――人は社会で生きていくために、度々現実を突きつけられる。
 どれだけ夢を語ろうと、それを成立させるだけの条件がなければ、絵空事で終わってしまう。
 たくさんあったはずの選択肢は、大抵の場合、気付けば現実に選ばされているのだ。
 けれど。
 刻也の夢は、きっと“それでも”叶えたいものなのだ。

「父からすれば、そんな私の言葉は、厳しい現実から逃げ出したいがために出てきたとしか思えなかったのだろう。八雲の家を背負う長男としての責任、父の跡を継ぐ責務――期待を注がれていたのは、嫌でも理解できた。生臭い話だが、それだけの投資を、父は私にしてもいた」

 だから、証明しなければならなかった。
 決して言い訳ではないと。ただ現実から背を向ける道ではないのだと。

「与えられた最低条件を乗り越えて、初めて私は出発点に立てる。高校の入試に失敗したことを負い目に感じている、鈴璃君を安心させることにもなる。それこそがおそらく、私にとっての『大人になること』なのかもしれないな」
「……そうしたら、八雲さんも、十三階を出ていくんですよね」
「ああ。まだ先の話とはいえ、確実にそうなる」
「僕は」

 生真面目に父と張り合い、正当な手段で意地を通そうとする刻也の在り方が、眩しかった。
 叶うかどうかもわからない、最も過酷な戦いに身を投じた日奈の選択も。社会的に罪深い秘密を抱えたままでも子を産むと決めた蛍子の覚悟も。最後の最後で静かに健一を突き放した冴子の決意も。自分の力でしっかり歩こうとしていた綾の勇気も。全て、全て、健一にはできなかった、踏み出せなかった一歩だ。
 大人になるための、大きな一歩。

「わからないんです」

 本当に、綾を追いかけたかったのか。
 見つけられたとして、何と言うつもりだったのか。
 そもそも、探してどうしようとしていたのか。
 他の何より、自分の気持ちがわからなかった。

 大人って、どうやってなればいいの?
 二十歳になれば? 大学を出れば? 仕事に就けば?
 結婚すれば? 子供ができれば? 生きてさえいれば、いつかは?

 ずっと、考えてきた。
 健一には夢がない。必死になって叶えたいものもない。
 漫然と生きてきたのかと言えば、違う気もする。追いかけてくる現実に対応して、落ちこぼれない程度には努力だってしてきた。他人より要領は良かったから、酷い苦労はしてこなかった。歪な家庭ではあったけど、するべきことはできる限り、自分の力でしたはずだった。
 そんな自分は、いったい、何を誇れるだろう。
 このまま高校を卒業して、世間の自然な流れに従って大学に入って、絵を描いてばかりだった姉よりかはまともに勉強して、早苗の店でバイトも続けて、それで――それで?
 見るべき未来が、どこにもない。

「もう、どうしたらいいのか、わからないんだ」

 絶望を煮詰めたようなその声に、刻也は掛ける言葉を失う。
 ……ざり、と。
 降りしきる雨を掻き分ける、地面を擦る音が聞こえる。
 二人揃って、前を見た。

『時の番人』の裏から現れた人影。
 大海、千夜子だった。










 夕食を済ませ、自室で課題を進めていた千夜子は、途中で詰まって飽きて一旦放り投げることにした。提出まだ明日じゃないし、後にしよう。勉強で大事なのはやる気ですよねやる気。とりあえず気力充填の時間ってことで。
 セルフ言い訳をしながらベッドにだらしなく転がり、ぼんやりする。
 学校で彼を見かけて以来、胸の中にしこりのようなものが残り続けていた。あの暗く沈んだ表情を思い出すと、心臓の辺りがきゅぅっと締めつけられる。何だかそわそわして落ち着かず、ツーテールをほどいた髪が乱れるのも構わず右へ左へ、ちょっと気持ち悪くなるくらい動き回る。
 うーん、としばらく唸ってから、おもむろにがばっと起き上がった。
 部屋で一人うつうつしてるのは性分じゃない。変に悩んでうだうだするより、身体を動かしたい気分だった。
 窓をちょびっとだけ開けて空を眺める。天気予報では、夜から割と強い雨になるらしい。着替えはまだ。寝る前にお風呂へ入る予定だったから、ラフな格好のままだ。念のため髪を結び、いつもの姿に。このままではさすがに寒いので、上に一枚羽織り、さらに冬用のコートとマフラーを着けて、居間の両親に散歩で出ることを伝える。
 ビニール傘片手に、暗い冬の夜道を歩く。
 冷たく湿った風が吹いていた。肌にまとわりつくような寒さ。確かにこれは、すぐにでも降りそうだと思う。いつでも傘を開く準備はして、散歩続行。剥き出しの耳や頬が氷を押しつけられたみたいに冷えるけど、代わりにこんがらがった思考も程良く冷却されて回り始める。
 果たして自分は、彼に対してどんなことができるだろうか。
 具体的な案はまだ浮かばない。けれど、絶対何かやれることはあるはずだ。そうでなければ、どの口で好きだと言えるのか。
 好きな人には、元気でいてほしい。
 好きな人のために、何かをしてあげたい。
 大層なお題目なんて要らなくて、動く理由はそれだけで充分だと思う。
 まずは簡単なできることから……なら、例えば、お弁当の中身をもう少し胃に優しいものにするとか。気分が落ち着く系のハーブティーなんかを水筒に入れて持ってくとか。疲れてるならマッサージの提案なんてのもアリ? いやでもマッサージってつまり絹川君の肩とか背中とか腰とか合法的に触れるってことでそれはいろいろまずいんじゃ、と考える自分の発想そのものがまずいことに気付いて軌道修正。うん、もう少し健全な手で行こう。
 ともあれ、好きな人の役に立つことを考えるのは、すごく楽しい。
 叶うにしろ叶わないにしろ、それはいつか終わってしまうものだけど――玉砕上等で飽きずに繰り返すツバメを見ていると、終わってしまうからこそいいのかもしれないと、最近は思えるようになった。勿論ああはなりたくないという前提の上で。
 散歩するならここまで来ようと目指していた瓶井戸公園の入口付近で、空模様が一気に崩れた。慌てて傘を開く。数秒のうちに本降りになり、ビニール傘を叩く雫の強さにちょっと甘く見てたかなあと苦笑する。
 即刻引き返して帰宅してもよかったけれど、一度決めたことを翻すのも何だか天気に負けたみたいで嫌だった。発揮しなくてもいい負けず嫌いの血が騒ぎ、せめて折り返しまでと公園の奥へ向かう。
 正直に言えば。
 もしかしたら、万に一の確率で、彼がいるかもしれない、なんて。
 そんな少女漫画めいた展開を、期待してもいたのだ。
 だってその場所は、千夜子が彼に告白しようと思っていたところだったから。
 一度目は諦めてしまったけれど、今度はちゃんと呼び出して、自分の気持ちを打ち明けるつもりだった。
 彼がちゃんと元気になって、こんな自分の想いを受け入れられるくらいまで調子を戻したら。
 そう、思っていた。

 ――そして今、千夜子の目の前に。
 片思いの相手――絹川健一と、何故か学校きっての優等生、八雲刻也がいる。
 二人ともベンチに座って、刻也は傘を持っているけど、彼は何も持ってなくて、全身びしょ濡れで。額は硬いものをぶつけたみたいに赤くて、目も泣いた後みたいに真っ赤で、なのに顔は血の気が引いて白くて、もう何もかもを投げ出したような、悲しさと辛さと怒りと諦めと……ありとあらゆる暗い感情を一緒くたにした、今にも死にそうな酷い顔をしていた。
 声を掛けなきゃ、と思ったけど、拒絶されてしまうのが怖くて。
 駆け寄らなきゃ、と思ったけど、触れれば粉々に壊れてしまいそうで。
 けれどここから立ち去る選択肢だけは、これっぽっちも出てこなかった。
 どうしてこんなことになってるのか、全然想像もつかない。ただ、とても悲しい出来事があって、だから彼は泣いて、逃げて、ぼろぼろになったんだと――そしてそれは間違いなく、彼にとって大切な人に関することだと、理屈の外で感じる。
 だったら。
 息を吸う。吐く。傘の柄を強く握り締める。
 自分にできることは、たったひとつ。
 いつか、いつかと言い続けて、先延ばしにしてきた。それはたぶん、どんな形でも終わってしまうことが怖くて、心の深いところで覚悟できなかったからだ。
 運命というものを、千夜子はあまり信じていない。
 だから今、ここにいるのは、自分自身が決めたからだと、そう思う。

「八雲さん……でいいんですよね?」
「あ、ああ。そういう君は、大海君か」
「はい。いきなり来て、こんなお願いするのも何ですけど……十分、いえ、五分だけ、絹川君と二人きりにさせてもらってもいいですか?」

 どういうことかと、刻也は聞かなかった。
 千夜子の気持ちを察したのかもしれないし、わからなくてもただならぬ状況だと判断したのかもしれない。
 結果として、刻也は声が届かない程度に離れた場所へ行き、この場には千夜子と健一だけが残った。
 どこか居た堪れないような、息苦しい雰囲気。
 一歩、彼に近付くことさえ、かなりの勇気が必要だった。

「大海さん、どうしてここに……?」
「勉強に詰まっちゃって、気分転換の散歩です。こっちまで来たのは、何となくで」
「は、はあ」

 あああ、全然空気読めてない感じでぽかんとされちゃってる……!
 いやもう本当にお呼びじゃないのはわかってるし、これからやろうと思ってることも、もしかしたら彼を追い詰めて、傷つけて、苦しめるだけかもしれない――けれど。
 私は、信じたい。
 自分が好きになった人が、また笑ってくれるようになるって。
 そのためにできること、私だけにできることが、必ずあるはずだって。
 空気なんて読まなくたっていい。踏み出せ。前に出て、戦うんだ。

「絹川君」

 心臓がロックバンドのドラムみたいにばんばか鳴って、喉から空の彼方まで飛んでいきそうだった。太腿からふくらはぎまでが小刻みに震えて、立ってるのもおぼつかない。気を抜くと頭もぐらぐら揺れて、そのまま後ろに倒れてしまいそう。
 春の、あの時。
 見知らぬ女性――桑畑綾さんと付き合っているなんて勘違いして結局できなかった告白を、ちゃんとしていたら、こんな風に緊張したんだろうか。もし、告白していたら――彼と、付き合えたんだろうか。
 想像しても逆立ちしても、過去には遡れない。イフの話は、どこまで行っても現実になれない。
 今の自分には、今しかないから。
 ベンチに座る彼の真正面、膝と膝が触れそうなほど近くまで来る。
 傘を差した千夜子は、びしょ濡れで青白い顔の彼を見下ろす。
 千年の恋も冷めかねない、酷い姿だと思った。
 それでも好きで。
 泣きたいほど好きで。抱きしめたいほど好きで。叫びたいほど好きで。
 こんな、毎日振り回されてばかりのどうしようもない想いは――世界で一番キラキラした、宝物に違いなかった。

「私は」

 くっと喉奥から言葉を止めようと、しゃくり上がる感情があった。飲み込んで堪える。
 そういえばお風呂に入ってなかったことを思い出す。夜だからはっきり見えないのが救いだけど、髪はちょっぴり跳ねていて、結構適当に結んだからツーテールも左右対称になってなくてバランス悪いし、しかも湿気で少し膨らんでるし、コートの下は半分部屋着で、勝負服とは程遠い。
 もっとロマンチックに、例えば夕焼けに照らされたオブジェを背にしたりして、きっちり髪型も衣装も決めて、万全期して行きたかった。どうせなら一生記憶に残るような……いやそれは難しいかもしれないけど、でも、一ヶ月、二ヶ月でもいいから、忘れられないような、そういうものに、したかった。
 ああ、だけど――今、ここで。この時、この場所で。
 こうするんだって、決めたから。

「絹川君のことが、好きです」

 その声は、雨を裂くように力強く、健一の鼓膜と感情を揺らした。
 息が詰まる音を千夜子は聞く。あまりにも唐突で状況にそぐわない言葉が、自分に投げかけられたのだと理解するのに、健一は相当な時間を要した。
 どうして、と訊ねかけ、唇を噤む。
 いつから、と考えても、答えはすぐに出てこない。
 混乱の最中、視線を虚ろに彷徨わせながら、千夜子を見る。
 目を閉じることも、耳を塞ぐこともなく。
 彼女は静かに、何かを待っていた。
 ……何を?
 返事だ、と思う。
 告白に対する、健一の答えを。
 大海千夜子は、無言で求めている。
 でも、自分はいったいなんて言えばいいのか。
 安易に頷くことはできない。大した考えもなく否定することもできない。彼女が並ならぬ勇気で言い出したというのは、憔悴していてもわかる。
 わからないのは、自分の心だ。
 それだけは、誰も教えてくれない。
 焦燥に胸を灼かれ、膝に置いた両手をぐっと握る。右手に硬さと痛みを感じて、手のひらを開き、見やる。
 冷たく濡れた1304の鍵が、そこにある。

『ねえ、健ちゃん。私、大人になりたい。そうしてあの場所から、十三階から出ることになるんだとしても』

 脳裏に走る声。
 シーナとダブルデートの名目で出かけた時の、綾の言葉。

『できないこと、できるようにならなきゃ。健ちゃんに世話されてばっかりじゃ、駄目だから。ちゃんとしなきゃって、そう思うの』
『……どうして、です?』
『健ちゃんと、ずっと一緒にいたいから、かな』

 向き合うことを、忘れていた。
 健一はまだ何も返せていなかった。言葉も、答えも、気持ちも。
 会いたいな、と思う。無性に顔を見たかった。ちょっと気の抜けた声とほにゃっとした笑顔で、健ちゃんと呼んでほしかった。
 そして、そうか、と思う。もう随分前から、根負けしていたのかもしれなかった。
 睫毛に掛かった雨粒を落とすように目を閉じ、膝上の両拳を再び握る。すっかり冷えた足裏は靴の中まで水が染み込み、体重を乗せるとぐちゃっと湿っぽい嫌な音を出した。気にせず立ち上がる。立って、顔を上げて、今度はちゃんと向き合う。

「ありがとう、ございます」

 みっともなくて、格好悪くて、最低な自分を、好きになってくれて。
 でも、

「ごめんなさい。好きに……好きになった人が、いるんです」
「……それは、両想いなんですか?」
「わかりません。僕はずっと、自分から確かめたことがなかったので。だからこれから、確かめに行こうと思います」

 一歩下がった千夜子は、そっか、と小さく呟いてから。

「はい。お返事、ありがとうございます。……頑張ってきてください」

 頷いて、駆け出す。傘もないまま、健一は夜道の先へ消えていく。
 しばしして、離れていた刻也が戻ってきた。立ち尽くす小さな背に近付くと、足音を察して千夜子が振り返る。

「追いかけなくて、いいんですか」
「私の役目は、ここまでのようだ。あとは絹川君に任せるしかない、と思う」
「……いい、お友達なんですね」
「そう見えるのなら、有り難い」

 言って、刻也はぎょっとした。
 怖いほど無表情だった千夜子が、ほろほろと泣き始めたからだ。
 やがて雨にも劣らぬ大粒の涙をこぼしながら、それでも負けてなるものかと声だけは出さずに。
 彼女はいてもこういう状況での経験が皆無な刻也は、どうすればいいかわからず、傘を持たない片手を伸ばしかけては引っ込める。相手が鈴璃なら涙を拭うなりできただろうが、彼女でもない、友人を懸想していた上に失恋直後の女性に触れられるほど柔軟な性格ではなかった。

「す、すまない、どうか泣き止んではくれないだろうか。いや、難しいのは理解できるが……もし他人に見られれば誤解が……いやそういうことでもなく、その、女性が泣いているのを見るのは、私も心苦しいのだ……」

 折角の秀麗な顔も、おろおろしているとどこか情けない。
 慰めようとしてくれているのはわかるが、言葉選びから何から不器用過ぎて、それが千夜子には可笑しかった。可笑しくて、でも苦しくて、もうどうでもよくなって、

「絹川君のっ、ばかあああああああああああああああ!」

 叫びと共にその場の勢いに任せて傘を放り投げた。
 冷たい。寒い。あっという間に髪から服から靴から濡れて、何もかもがぐちゃぐちゃになる。
 目の前で繰り広げられた無茶苦茶な所業に、刻也が慌てて風に飛ばされる傘を走って捕まえに行く。

 明日にはまた、いつもの自分に戻れるだろうか。わからない。けど、絶対戻ってみせる。
 そうしてツバメに「フラれちゃった」って、あっけらかんと話してみせるんだ。もう平気だから、大丈夫だって言えるように。
 初恋は一生のもので、同じ恋は二度とできない。
 死ぬまでこの気持ちを引きずり続けるのかもしれないし、結構さらっと新しく誰かを好きになるのかもしれない。
 ただ、後悔だけは、しないようにしよう。
 彼を好きになってよかったと、胸を張ってみせる。
 それは千夜子の、何よりも強い決意だった。










 公園を出てまず健一がしたのは、雨を凌げる場所探しだ。
 木々なら傘代わりになったかもしれないが、この暗闇でまともに歩ける気がしない。しばし走り、シャッターが下りた適当な店の屋根で雨宿りする。
 冷えきった手を開閉し、まだ辛うじて感覚が残っていることを確かめてからポケットに突っ込む。そこにあるのは、父から渡されたPHS。結局一度も誰かに掛けないまま、とりあえずで持ち歩き続けていた。
 浸水していないかどうかが心配だったが、電源は点く。連絡先。自宅、父、蛍子、日奈――姉や親友の声が聞きたかった。懺悔をして、許されたかった。しかし、それは今するべきことではない。
 必要なのは、綾がいる場所の情報だ。知っている可能性がある人物は決して多くない。これ以上自分の足で探しても、間違いなく徒労にしかならないだろう。そもそも体力も気力も、既に限界が近い。少しでも気を抜けば、意識を失いそうだった。
 息の熱さに眉を顰めながら、ひとつひとつ、記憶を辿って指でボタンを押していく。手元にメモはない。綾の件でも日奈の件でも、これまで渡された番号に連絡したことはない。ただいつか必要になるかもしれないと、何となく覚えていた。
 十一桁の数字が、小さなディスプレイに表示される。耳に受話側を当て、静かに待つ。
 繰り返すコール音は酷く長い間、聞こえていたように思えた。

『はい、錦織です』

 繋がった。記憶違いがなかったことに安心して、瞬間どっと疲れが来る。
 襲ってきた眩暈を振り払い、声を絞り出す。

「夜分遅くに、すみません。絹川です」
『……健一くん? 電話なんて珍しいわね。もしかして外にいるの?』
「はい。ちょっとまあ、色々あって」

 目の前で降る雨の音が、向こうに伝わっているのだろう。
 ふうん、とエリは相槌を打ち、

『声が辛そうだから率直に行きましょ。要件は綾のことね?』
「そうです。綾さんは、今どこにいるのか、教えてください。錦織さんなら、知ってますよね」
『ええ。知ってるわ。でも、あなたには教えてあげられない』

 淡々と拒否した。
 健一の思考が止まる。反射的に激高しそうになり、寒さでかちかち鳴る歯を強く噛んで堪える。
 ……違う。焦るな。この人は、絶対に感情論では話をしない。
 明確な理由があるはずだ。

「それは……綾さんが、そう望んだから、ですか?」
『いいえ。あの子は何も言ってない。私がそうするべきだと思ったからよ』
「僕の存在が、綾さんにとって、よくないですか?」
『……絹川くんならわかると思うけど。最近の綾は、急激に自立してきてるわ。それこそ、昔とは別人と言ってもいいくらいに』
「はい」
『それがあなたの影響であることは理解してる。だからこそ、あなたをそばに置き続けていれば、綾は今以上に変わってしまう可能性が高い』

 言葉を区切り、健一の反論がないことを確認して、エリは続けた。

『芸術家にとって、精神の変質は作風の変質とイコールよ。変化を恐れていてはプロデュースなんてとてもじゃないけどやってられない……とはいえ、あまりにその差が大き過ぎると、あの子の世間からの評価が失われかねない。私達が知ってる“アヤ・クワバタケ”じゃない、期待外れだ、ってね』

 突き放すような声色を、わざと使っているように健一は感じた。
 考える。かつて、見事に誘導されて肌を重ねた後、彼女は己を人に嫌われるために生まれてきたと評していた。どうしたって嫌われるなら、逆に何をしても変わらない、他人に合わせる必要なんてないのだと。
 他者との断絶を恐れない。
 好かれなくてもいい、という開き直りが、錦織エリの言動の根底にはある。
 徹頭徹尾、彼女は自身の価値観に沿って動いているのだ。綾をプロデュースする。世界に通用する芸術家として売り出す。そのために必要なものは何としても取り込み、不要なものは切り捨てる。全ての基準は、綾にとって良いか悪いかでしかない。
 だから。だから、考えろ。
 提示すべきは、メリットだ。恥も外聞も捨てて、主張すべきだ。
 ここに至るまで、情けなさは一生分発揮してきた。だったらもう、なりふり構っていられないだろう。
 日奈も。蛍子も。冴子も。刻也も。そして、千夜子も。
 皆、自分を突き通すための、覚悟があった。
 今更かもしれない。手遅れと言われても、仕方ないのかもしれない。
 でも、諦められないから。ようやく気付けたから。
 未来へ踏み出す、生き方を決める覚悟を持つ時が来たのだ。

「綾さんは、あのマンションを出ていく時、どんな顔をしてました?」
『そうね……何も言わなかったけど、これでいいんだ、って顔をしてたわ』
「本当に? 本当に、そうでしたか?」
『……もし情に訴えようとしてるのなら、無駄よ。そんなの、一番役に立たないもの』
「わかってます。だから――錦織さん。取引、しましょう」

 初めて、PHSの向こうでエリが息を詰めた。
 チャンスは一度きり。
 賭けるのは、絹川健一の人生だ。

「あの時の誘い、お受けします。一年とか五年契約じゃなくて、僕か綾さんが死ぬまで」

 そして、

「僕が、綾さんに作品を作らせ続けます。その上で、笑顔にします。ずっと、幸せにします」
『………………どういう意味か、わかって言ってる?』
「はい。でも、決めましたから。これでも駄目なら、あの時の罪滅ぼし、ここでしてもらえればってことで」

 ややあって、蛇が尾を引くような長い溜め息が聞こえた。
 それから「ちょっと待って」とエリは呟き、しばらくごそごそと何かを探る物音を響かせてから、どこかの住所を読み上げた。

「今のは……?」
『桑畑家の住所。場所はわかる?』
「わかります。一回、綾さんと行ったことあるので」
『綾は離れのアトリエにいるわ。まだ引っ越しが終わってないから、一時的に実家へ帰ってるの』
「……ありがとうございます、錦織さん」
『全くもう……健一くん、覚えてる? あの時言った、あなたの力になるための条件』
「綾さんのためにならないことは、例外……ですよね?」
『そう。その条件に反さないって、信じさせてもらうわよ』

 じゃあ、またね、と。
 エリから電話が切れて、PHSはまた物言わぬ箱になる。
 濡れたポケットにそれを仕舞い、健一は最後の気合を入れ直して、夜雨の下へと飛び出していく。
 取引という名の約束を、果たすために。



 今日は走ってばかりだと思う。
 膝が上がりきらない足は、もう幾度ももつれ、つんのめり、転びかけた。真っ直ぐ進むことすらおぼつかない。
 雨ざらしの身体は冷たいのか温かいのかもわからなくて、凍えそうな、けれど熱に浮かされたような、ふわふわした感覚が続いている。
 住宅街に差し掛かる。雨に霞む、覚えのある景色が視界を流れていく。あと少し。もうちょっとで会える。その一心だけが、己を奮い立たせる原動力だった。
 民家と、それに不釣り合いな離れのアトリエが見えた。表に柵はあるが、鍵は掛かっていなかった。インターホンを鳴らす余裕もなくて、申し訳ないと思いながらそのまま中に入る。家の玄関ではなく、脇を行ってアトリエへ。カーテン越しに電気が点いている。まだ起きているだろうか。それとももう寝てしまっただろうか。こっちにインターホンの類はない。息も絶え絶えにノックをする。
 時間的には五秒ほどだが、気分的には何日も待ち続けたようだった。
 恐る恐る扉が開く。ちらりと外を覗いた目が、大きく見開かれる。

「えっ、け、健ちゃん!? え、なんで、っていうかすごいずぶ濡れだし……!」
「あはは……すみません、綾さん。来ちゃいました」
「どうしてここが……ううん、とりあえず中入って。タオル持ってくるから」
「待ってください。その前に、ひとつだけ」

 慌てて廊下を戻ろうとする綾を引き止める。
 濡れた手で掴んだ彼女の手は、ほっとする熱を帯びていて、泣きそうになる。
 今にも崩れそうな足をどうにか保たせ、綾さん、と名前を呼んだ。

「僕も、綾さんと、ずっと一緒にいたいって、思います」
「……それって、もしかして」
「あの時の返事……随分、掛かっちゃいましたけど。やっと、でき――」

 発したはずの言葉はどこかへ消えて。
 全身の感覚と共に、意識が溶けていく。
 最後に浮かんだのは、何だか言い逃げみたいだな、という益体のない思考だった。










「あ、起きた」

 目が覚めた瞬間、真上から落ちてきた声と、後頭部から伝わる温かさと柔らかさに、酷く安心する自分がいた。
 倒れる時は朦朧としていたが、もう随分すっきりしている。無茶の代償としては軽い方だろう。

「……おはよう、ございます。綾さん」
「うん、おはよう健ちゃん。まだ横になってる?」
「いえ……起きます」
「そっか。ちょっと残念」

 どれだけの間かはわからないが、膝枕をしてくれていたらしい。
 緩やかに上体を起こすと、身体の節々がひび割れたように痛く鈍かった。それでも全く動けないほどではなく、何とか反転し、綾と向き合う。
 室内は電気が点いておらず、背後、遠く廊下の奥から来る光だけが視界の頼りだった。

「ここは、綾さんのアトリエ……で、いいんですよね」
「うん。いきなり来て倒れちゃって、すごいびっくりした」
「すみません。色々あって、限界だったので……」
「謝らなくてもいいよ。だって、あんなになってまで、来てくれたんだもん」

 薄暗い中を、四つん這いになって綾が近付いてくる。
 背中からの明かりは、嬉しそうな、けれど少しだけ泣きそうな綾の表情を浮かび上がらせている。
 寝間着らしい薄手のシャツから覗く、どう見てもノーブラな胸の谷間も。
 無意識に腰が引けた。ずり、と下がる健一に、如何にも不服そうな感じで綾が頬を膨らませた。

「どうして逃げるの?」
「逃げたつもりはないんですけど……」
「じゃあそのまま、そこにいてほしいな」

 言われた通り動かずにいると、目と鼻の先まで寄ってきた綾に抱き締められる。
 そこでようやく、自分が毛布を掛けられただけの裸なことに気付いた。

「あったかい。冷たいけど、ちゃんと健ちゃんのあったかさだ」
「他の人と、違うんですか?」
「ドキドキして、胸の中心からぽかぽかするあったかさ……かな。健ちゃんは私の身体、どう?」
「その言い方だと誤解が……その、ほっとする感じ、ですかね」
「ドキドキは?」
「……します」
「やった」
「あの、ところで、どうして僕は裸なんです?」
「だって健ちゃん、全身ずぶ濡れだったし、氷みたいに冷たかったから」
「……服は、綾さんが?」
「お母さんとお父さんを呼んで手伝ってもらったよ。一番大事なところは私がやったけど」

 知りたくない衝撃の事実だった。
 致命的な箇所を綾の両親に見られなくてよかったと思えばいいのか、未成年とはいえそれなりにいい歳の男の服を脱がさせてしまったことを申し訳なく思えばいいのか。複雑な気持ちになり過ぎるので、とりあえず健一は今考えるのを止めた。
 若干余裕が出てきたため、自分の格好を振り返る。
 髪はまだ湿っているが、濡れて重くなっている感覚はない。タオルで拭いてくれたのか、ぼさぼさになっていること以外は問題なさそうだった。
 上半身は何もなく、先ほど綾が言っていたように、下半身にも何もない。毛布を被せてもさすがにフルオープンはまずいという配慮があったのかは定かではないが、一応バスタオルが巻かれていた。おかげで辛うじて股間は隠れている。

「お風呂さっき入れたんだ。まだ健ちゃんすごく冷たいし、一緒にあったまろっか」
「いや、綾さん待ってください、話さなきゃいけないことがまだあるような」
「一緒に入ってくれなきゃ何もお話ししてあげない」
「え、えぇー……」

 結局全面的に折れた。
 約五分後、アトリエ備え付け(つまり綾専用)にしてはやけに広い風呂で、健一は綾に頭を洗われていた。
 最初は勿論自分で全てを済ませるつもりだったが、冷えて固まった指がまるで動いてくれなかったのだ。シャワーの湯を浴びると異様に熱く、しばらくはまともに身体を温めることさえできなかった。
 それで何故か綾が張り切り、介護よろしく世話されているというわけである。

「健ちゃんの髪、ごわごわだね」
「雨ざらしだったからですかね……」
「かゆいところはありませんかー、なんて。えへへ」

 楽しそうな声色で床屋の真似をする綾に、健一は苦笑する。
 というか、床屋の類に行ったことがあるのだろうか。今更ながら気になったのでそう聞いてみると、健ちゃんは私を何だと思ってるのかな、と怒られた。

「行きつけのところだってちゃんとあるんだよ。さっきのはそこの奥さんの真似」
「美容院とかは行かないんですか?」
「一回行ったこともあったんだけど……なんかいっぱい質問してくるし、めんどくさいしもういいかなって」

 そういうものなのだろうか。
 心中で首を傾げた直後、遠慮ない手付きでシャワーを掛けられる。
 勢いよく流れていく湯と泡が頭頂部から頬を伝い、綾の普段使いらしい、花の香りがするシャンプーの名残が肌を滑り落ちる。
 わしゃわしゃと髪を掻き分ける指が、最後に前髪を後ろへ上げて水を絞るように払った。
 幼い子供に戻った気分。
 それが不思議と、嫌ではない。

「次は身体洗うよー」
「さすがにそれは自分でできます」
「えー」
「むくれても駄目です」
「エッチなことはしないから、ね? ね?」
「なんでそんなに必死なんですか……」

 ボディソープを泡立てたタオル片手に、背中にのしかかって執拗にお願いしてくる綾。エッチなことはしないから、と言うが、そもそも背中に思いっきり胸が当たって潰れてるし若干タオルを持つ手付きが怪しい。
 正直嫌な予感しかしなかったが、無理に押しかけて迷惑を掛けた負い目もあり、やっぱり断りきれなかった。
 結果、為すがままに背中を擦られている。

「……あのね、健ちゃん」

 風呂椅子に座り背を向けた状態で、後ろから声が飛んできた。
 今はシャワーも止まり、わしわしとタオルが肌をさする音だけが聞こえる。
 健一の正面には鏡もなく、綾の表情を窺うことは叶わない。

「私、健ちゃんが好きだよ」
「はい。知ってます」
「すっごくすっごく、すごぉーく好きだよ。……でもね、物を作ることも好きで。どっちかを選べって言われたら、悩んで悩んで、健ちゃんを捨てちゃうかもしれない、って思った」
「………………」
「何かを生み出すことをやめちゃったら、それってきっともう私じゃないんだ。錦織さんも言ってた。あなたは“桑畑綾”にしかなれない、って。どんなにがんばっても、根っこのところで、私は変われないんだと思う」

 少なくとも。
 綾は、この数ヶ月で間違いなく強くなった。
 他人と触れ合うことに躊躇わなくなった。自分のどうしようもなさを認められるようになった。ずっと避け続けてきたインタビューや取材にも応じるようになった。
 外界に出ることを、恐れなくなった。
 彼女の才能は、ある種の免罪符だったのだ。突出したものを持っていたからこそ、奇特な振る舞いや生き方を許されていた。エリを始めとした周囲はそれを良しとしたし、かつての綾には、変わろうとする考えすらなかった。

「冴ちゃんがいなくなって、健ちゃんが毎日落ち込んでるのを見て、ずっと慰めたいって思ってたよ。だけど、それだけはしちゃいけなかった。私がもしそんな風にされたら、際限なく甘えちゃうなってわかったの。健ちゃんには、そうなってほしくなかった。お母さんのこと、何年も放ったままでいた私みたいには」

 背を擦る手が止まる。
 遅れて溜まった泡の塊が、熱と重力に負けて、溶けるように落ちていく。

「ねえ、健ちゃん。冴ちゃんのこと、好きだった?」
「……はい。好きでした」
「それは、友達として? それとも、女の子として?」
「女の子として、だったと、思ってます」
「正直に答えてくれてありがとう。うん、やっぱり、そうだろうなって思ってた」
「……幻滅しましたか?」
「ううん。だって冴ちゃん、すごくいい子だったもん。健気で、優しくて、いっつも健ちゃんのこと気遣ってた。たぶん誰より、健ちゃんのことを理解してたんじゃないかな」

 好きになって当然だよ。
 そう綾に言われて安堵してしまった自分自身に、健一は酷い罪悪感を覚えた。
 二心あることを、だから許されていいわけではないのだ。
 俯いた健一の背に、再び綾はタオル越しの手を置いた。

「蛍子ちゃんも、管理人さんも、きっと健ちゃんの味方でいてくれる。それなら、私がそばにいなくても……いない方が、健ちゃんは幸せになれるかなって」
「だから十三階を出ていった……ってことですか」
「うん。なのに、こうして健ちゃんが来てくれて、私を見つけてくれて、泣きそうなくらい嬉しい。ずるいよね」
「綾さん」

 ぎこちなくも振り返る。
 釣られて横に滑ったタオルが、百八十度回った健一の腹までを撫でて床に落ちた。
 そうして正面に来た綾の手を、健一は強張った指で触れ、握る。

「ずるいのは、僕も同じです。だって、まだ有馬さんのことが好きで……ホタルのことも、好きで。でも、綾さんが好きなんです。しかも、さっき大海さんに告白されて、断りました。好きな人がいるからって。その前には、狭霧さんからエッチしないかって誘われました。こっちはちゃんと断れてないです。もし次にお願いされたら、頷いちゃうかもしれません」

 何なんだろう。
 あなたと芸術どっちも好きで、でもどっちかしか選べないなら後者を取るかも、なんて言われて。
 その返しが、あなたの他に好きな人がいて、さらにセフレが増えるかも、だ。
 互いの恥部を晒して、殴り合っているような気持ちだった。

「……どう考えても、僕の方がクズですね」
「そうかなあ。狭霧ちゃんは初めて聞いたけど、あとは予想通りだし、私は別に蛍子ちゃんと3Pでも」
「止めましょうこの話。不毛です」

 健一も。綾も。
 二人が二人とも、おかしいのだ。
 それは社会的に決して認められない欠陥かもしれなくて。
 常識とはかけ離れた結論に違いなくて。
 でも、互いの心は確かに、繋がって、通じ合っている。
 間違いながら、並んで、歩いていける。

「キス、してもいいですか」

 自分から申し出たのは、初めてかもしれなかった。答えの代わりに綾は目を閉じる。その両肩に手を掛け、頭を僅かに傾けながら、そっと触れた。触れて、押しつけ、唇と漏れ来る吐息の熱を味わう。互いにずらした鼻で呼吸を続けつつ、さらに舌を割り入れる。綾の唇は抵抗なく開き、ぬめる健一のそれと絡み合う。粘ついた水音とぞくぞくする感覚は、脳の奥を痺れさせる気持ち良さがあった。
 十二分に堪能して、離れる。
 唾液のか細いアーチが一瞬生まれ、すぐに途切れた。口端に生温い涎の糸が張りつく。

「……まだ、前の方が終わってないよ?」
「汚れた後に、洗いましょう」
「ん、そうだね」

 求められたからただ応えるのではない。
 健一自身が、綾を求めているのだ。
 先ほどより激しい口付けから始める。ねぶるように綾の口内を舌で蹂躙し、同時に豊満な胸へと手指を伸ばした。
 湯と泡に濡れた綾の肌は滑らかで、乳房には重さと張りがある。下側、胸板と肉の隙間に指先を差し込み、手のひらで支えるように持ち上げた。健一に対抗していた舌の動きが鈍る。微かな身体の震えと合わせ、綾が感じていることを確かめて、五指の力を強める。
 綾は慎重に比べて明らかな細身だが、割に一部の肉付きがかなり良い。
 巨乳に見えるのは元々サイズが大きいのもあるが、トップとアンダーの差が顕著だからだろう。果実めいた膨らみに、健一の五指が食い込む。胸を揉む度に鼻息が強く掛かり、快感の度合いを教えてくれた。
 そのうち左手を、胸から肌をなぞって下ろしていく。臍の横をつるりと滑り、下腹部に溜まった泡を掻き分けて、秘された割れ目に辿り着く。
 キスの最中で見えないものの、そこは熱く、湯とは違う湿り気に満ちていた。
 咲きかけた花のような秘所に、ゆっくり指を入れる。入口から少し奥、ひっそりと隠れた陰裂を探り当て、硬い爪先で潰さない程度に軽くつつく。直後、綾がびくんと全身を揺らした。
 不意打ちにしたって、随分敏感だ。
 健一は愛撫とキスを中断し、

「もしかして、結構溜まってました?」
「そうかも。一人でしばらくしてなかったからかな」
「痛くはないですか?」
「うん、気持ちいいよ。でもそろそろ挿れてほしいな」
「わかりました。僕も、綾さんとしたいですから」

 初めは正常位を考えたが、それでは綾を床に寝かせることになってしまう。タイルの凹凸が痕になっても困る上、ここに来るまでの強行軍で、気を失った形で多少休んだとはいえ健一の体力も心許ない。
 だから、と綾が提案したのは、対面座位だった。
 風呂椅子に座ったままの健一に、綾が立ち上がって膝の間に跨る。そこから静かに腰を下ろしていき、両腿の間でそそり立つ肉棒を、自分から膣穴に挿入した。
 ある程度行為に慣れた恥肉は、事前の愛撫もあってほとんど抵抗なく健一を受け入れる。
 中が緩いわけではない。みっちりした締めつけは、綾の身体が健一の大きさや形を覚えている証拠だ。
 健一の腿に尻肉が押しつけられる。二人の結合部には隙間が皆無だ。全てが、綾に収まっていた。

「この姿勢、好きかも。健ちゃんの顔、すごく近くてよく見えるね」
「なんか、ちょっと新鮮というか……ドキドキしますね」
「またキスしちゃう?」
「しちゃいましょうか」

 ちゅ、という綾の啄みが合図だった。
 健一が、綾の尻に回した両手でその身体を揺らし始める。思うように腰が振れないのは以前の騎乗位と同じだ。主導権は綾にある。だから、彼女に任せることにした。
 ゆっくりと綾の腰が浮き、上下というよりは前後に抽挿を繰り返す。ぐちゅ、ぐちゅっと粘着質な交合音が浴室内に響き渡る。
 一番最初のセックスは、お互い未経験らしく、些かがっついたものだった。
 二度目、痴漢のトラウマを癒すためのセックスは、不快感と嫌な記憶を洗い流すように、どこか激しさを求められていたところがあった。
 今は、そのどちらでもない。
 不思議なほどに穏やかで、スローペースで、快楽を貪るのではなく、溢れる愛しさを噛み締めるような。
 いつまででも続けられる気さえした。
 尻から離れ、柔らかい細身の背に腕を回す。指の割り込みがなくなったことで、ボリュームがある尻肉の弾力が、直に腿に伝わってくる。
 決して軽くはない。足の骨に響くのは、人ひとり分の重さだ。
 それをしっかり感じていたいと、健一は思う。
 綾もまた健一の背に腕を回した。抱き合えば、互いの間で双丘が押し潰される。微かに勃った乳首が健一の胸板で擦れ、ん、と綾が抑えた嬌声を漏らす。声と息は繋がった唇から相手の喉を震わせ、肺に落ちて循環する。呼吸も、体温も、何もかもが溶けて混ざり合う。
 血の集まりを健一は感じた。快感の果てに、立ち昇る衝動がすぐにも爆発しそうだった。

「あ、綾さん、そろそろ離れて……っ」

 脳裏に過ったのは、蛍子のことだ。
 自分の無責任さが姉を妊娠させ、絹川家を歪ませてしまった。
 仮に中出ししたところで、問題はないのかもしれない。しかし、本来背負うべきでないリスクを背負ってはいけないのだ。まだ責任を取れる年齢にも、覚悟にも至れていない。故に健一はペニスを抜こうとして、

「いいよ」

 綾が両足で、健一の腰をホールドした。
 躊躇いのない動きだった。

「私は、健ちゃんとの子供だったら、何人でも産んで育てたいって思うよ」
「でも……っ、僕は、それで、ホタルを……!」
「だったら、一緒に考えよ? 健ちゃんだけが頑張らなくたっていいんだよ。私も考える。ちゃんと二人で悩むの。だって、私と健ちゃん、二人のことだもん。それに」
「……それに?」
「私は健ちゃんと蛍子ちゃんの間に何があったのか、何となくしかわからないけど。きっと、最後は上手く行くって信じてる。ううん、私達で、上手く行くように、頑張ろう」

 唇から額、額から頬、頬から首筋――健一の肌を啄み、最後に綾は目元を舌で拭った。
 そこには、流した涙の微かな跡がある。
 誰かのために健一が抱いた、繊細な心の揺らぎ。
 その痛みや苦しみを、少しでも共有したいと、口付ける。
 肉体と精神、両方に込み上げるものがあった。
 視界に白い火花が走る。凝縮された欲望の熱が下腹部で弾け、吐き出された精液が綾の膣内に注がれる。刹那的な喪失感を覚えながら、健一の瞳からすっと雫がひとつ生まれ、こぼれる。
 悲しくはない。ただ、途方もなく大きな何かに満たされたような気持ちだった。
 もしかしたら――それこそを愛というのかもしれないと。
 そんなことを、健一は思った。



 白い濁りと透明な粘液、ついでにボディソープの泡を流し終えた二人は、ゆったりした心地で湯船に浸かっていた。
 向かい合うのではなく足を伸ばして、健一が綾を後ろから抱くように重なっている。対面座位に近くもあるが、さすがに挿入はしていない。健一の体力が保たないからである。
 次は湯船でもしようね、と宣言されたので、少なくとも次回の混浴は確定しているらしい。

「あ、そういえば健ちゃん」
「はい、何でしょ」
「1304の鍵、持ってきてくれたんだね」

 すっかり頭から抜け落ちていた。
 風呂に入る時点ではもう握っていなかったから、それより前に綾が回収したのだろう。

「……十三階に戻る気は、あるんですか?」

 かなり訊ね難いことだったが、やはり確かめずにはいられなかった。

「ない……つもりだったんだけど、実はちょっと悩んでるんだ」
「え?」
「私があの鍵を拾ったのって、お母さんから逃げちゃって、どこにも行き場がなかった時でね。あんなに好きだった物作りも全然やる気出なくて、ご飯も二日くらい食べてなくて、なんかもうどうでもいいや、って考えてたんだ」
「綾さんがそうなってるのは、想像しにくいですね」
「それは健ちゃんに出会えたからだよ。管理人さんから言われなかった? 私のこと、暗いとか何とか」
「ああ……」

 随分前だが、確かに覚えがある。
 刻也は綾を『陰気な女性』と評していた。
 勿論その印象は健一にはなかったし、おそらく刻也も割と早い段階で払拭されたのだろう。以来他の住人から同様の表現を聞くこともなかったので、記憶の底に埋まっていた話だ。

「拾った場所も健ちゃんと同じ『時の番人』だったかな。ふらふら歩いてたら硬いものを蹴っちゃって、見たら不思議な鍵で。ベンチに座ってどこのだろうって眺めてたら、通りがかった管理人さんに声掛けられて」
「八雲さんが?」
「うん。それで十三階まで案内されて、あとはずっとあそこに住んでた」
「なるほど。でも、それならどうして1303じゃなかったんでしょうね。綾さんが二人目だったのに」
「んー……実は健ちゃんの方が先に見つける予定だったとか?」
「有馬さんの方だったかもしれないですよ」
「……考えてもわかんないや。えっと、何言おうとしてたんだっけ……あ、そうそう。私が言いたかったのはね、あの鍵って、その持ち主になる人が必要な時に、自分から来るんじゃないかな。私も、管理人さんも、冴ちゃんも、日奈ちゃんも……みんな十三階のあの場所が必要だったのかも」
「言われてみれば何となく納得も行きますけど、僕には当てはまらない気もしますね」

 健一を除いた四人に共通していたのは、自分の居場所を失っていた、というところだ。
 父に反発していた刻也。両親への罪悪感から遠ざかった綾。家族の在り様を認められなかった冴子。本当の自分を隠し続けていた日奈。健一は家庭環境こそ歪ではあったが、しかし別に居場所がないわけではなかった。

「健ちゃんは、私達のために呼ばれたのかもしれないね」
「綾さん達のために、ですか」
「きっと健ちゃんがいなかったら、みんな駄目になってたと思うから」
「それは……でも、日奈は佳奈さんと上手く行かなかったし、有馬さんもいなくなって……僕は、何もできなかったですよ」
「ううん。健ちゃんは、たくさんのことをしてくれた。たくさんのものをくれたよ。私も、冴ちゃんも、日奈ちゃんも、管理人さんだって。みんなわかってる。辛い結末だったかもしれないけど、それでも、これが最善だったんだって。健ちゃんのおかげで、ここまで来られたんだって」
「だとしたら、色々、走り回った甲斐もありました」

 身も心もぼろぼろになった一日だったけど。
 その報酬が綾との安らかな混浴ならば、充分釣り合いが取れているのかもしれない。
 健一は息を吐き、全身を緩めた。程良い温度の湯を通して、疲労が外に滲み出ていく。

「鍵のことだけど」
「はい」
「健ちゃんに持っててほしいな。で、健ちゃんがあそこを本当の意味で出る時、もう一度だけ一緒に行って、二人で返そう」
「じゃあ、引っ越しはこのまま続行ですかね」
「今回はちゃんと行き先も教えるよ」
「そうしてもらわないと困ります」
「だよね。えへへ」

 少し眠くなってきて、健一は右手の甲で目を擦る。
 もう出よっかと綾が言い、立ち上がって風呂場を後にする。二人で身体を拭き、綾の父のものらしい寝間着を有り難く使う。作業で数日籠もることを想定されているからか、アトリエにも寝室があった。シングルベッドに綾が入り、床で横になろうとした健一を手招く。苦笑して隣に行き、揃って同じ布団に包まる。
 心地よいぬくもりに、気を抜けばすぐにでも睡魔が襲ってきそうな中。
 最後に健一は、優しい表情でこちらを見つめる綾に向けて、告げる。

「おやすみなさい、綾さん。また、明日」
「うん。おやすみなさい、健ちゃん」



 未来は決して、当たり前のようには続かない。
 けれど今は、朝の初めに顔を見る人が誰か、ちゃんとわかっている。
 ――それがとても幸せなことだと、絹川健一は、ようやく知ったのだ。



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何かあったらどーぞ。