『それでは、今回のゲストは近頃人気急上昇中、超絶歌唱力のスーパーシンガー、HINAさんでした!』
『ありがとうございました!』

 テレビに映る歌番組で、覚えのある懐かしい声を背にしながら、健一は玄関で靴を履く。
 昼食の皿洗いを終え、スリッパを鳴らして来た蛍子が、どこに行くんだと聞いてきた。

「えっと、なんていうか……お世話になったところに、最後のお別れ、みたいな」
「全然要領得ないな……。まあいい。夜までには帰ってくるのか?」
「そのつもり。予定変わりそうなら連絡する」
「わかった。……あともう何日もないんだから、できるだけちゃんと帰ってこいよ」
「うん。いってきます」

 外へ出ると、ほんの少し冬の名残を含んだ風が、頬を柔らかく撫でる。
 陽射しはもう随分暖かく、三月の終わりとしては標準的な気候だろう。
 何となく着替えるのが惜しくて(ついでに言うと綾の強い要望で)制服姿のまま出てきたが、この時間にこの格好だと微妙に浮いている気がしないでもない。別に後ろめたく感じる必要は全くないはずなのに、それとなく人通りのない道を選んでしまっていた。
 どうにか知り合いとは無事会わず、幽霊マンションに着いた。
 一階玄関には既に綾がいた。健一を見つけ、嬉しそうに手を振ってくる。

「おはよう、健ちゃん。卒業式は無事終わった?」
「はい。八雲さんが答辞でしたよ」
「おおー。管理人さん真面目だし、優等生っぽいもんね」

 二人並んで、階段を上り始める。
 綾はラフな私服姿だ。とはいえ下着に白衣一枚ではなく、そこそこお洒落に気を遣った感がある。柄物のシャツに薄手のカーディガンと、膝上までのハーフパンツ、歩きやすさ重視のレディースサンダル。ファッションに鈍い健一だが、春らしい装いだと思う。

「私も制服着てくればよかったかな」
「やめてください。怪しいってレベルじゃないです」
「えー。だってそしたらお揃いだし、エッチしたら燃えるかもしれないし」
「しませんよ?」
「じゃあ何のために健ちゃんは制服で来たの?」
「綾さんにお願いされたからですけど」
「イメージプレイって大事だと思わない?」
「思いません。ほら、早く行きましょう」
「健ちゃんのいじわるー」

 言葉とは裏腹に、綾の足取りは軽かった。
 何しろ最後に顔を合わせたのは、おおよそ二ヶ月前だ。綾が遠方に引っ越し、健一も卒業を控えていたため、直接会える状況が一切なかった。電話でもすればよかったのかもしれないが、これくらい我慢しなきゃ、と言い出したのは綾の方である。何かこだわりがあったらしい。

「そういえば健ちゃんって、ここを上ってる時、十三階のみんな以外で誰かとすれ違ったことってあった?」
「……言われてみると全然なかったですね」
「だよねえ。私も」
「まあ、普通に住んでる人からすれば、僕達はすごい怪しいでしょうし……追及されたりしなくてよかったと思いますよ」

 以前刻也が食事の席で軽く話していたが、通常マンションには管理組合というものがあるそうだ。
 住人同士で管理費を募り、修繕などの使い道やマンション内のローカルルール、内外のクレームなどについて議論する場で、基本的に全部屋の代表者が参加する。つまり、一部の人間は住人の顔を知っているのだ。当然ながら健一達は組合に所属していない。もっとも、そもそも十三階自体が本来存在しない場所な上、あらゆる意味でファンタジー過ぎて管理も何もという感じなので、混ざろうとしたところで不審者扱いが妥当だろう。

「冴ちゃんのお母さんは何となく知ってたかもしれないけどね」
「そりゃあ、住所借りたりしてましたからね……」

 なんて雑談を交わしているうちに、あっさりと十三階に到着した。
 踊り場の扉を開け、廊下を少し歩く。1301は最後だ。先に目指したのは、綾の部屋――1304。
 健一がずっと預かっていた鍵を綾に渡す。受け取った彼女は自然な手付きで差し込み、回し、室内に入っていく。
 ただいま、とは口にしない。それを言うべき場所は、もう別のところにある。
 中は前に見た時と変わっていなかった。むしろとっ散らかっていて、絶妙に色々なものが転がっている。健一がジト目を向けると、綾は視線を逸らして苦笑した。

「出ていく時に、ちょっと慌ててたんだよね。最初は全部置いてくつもりだったんだけど、いくつか持っていきたくなっちゃって」
「棚のスペースが空いてるのはそれでですか」
「うん。だから……このままでいい?」
「駄目です。ちゃんと片付けましょう」
「えぇー!? だってこの部屋、次の人が来たらぱっと消えちゃうかもしれないんだよー!」
「それでもです。一区切りつけに来たんですから」
「うぇーい」

 如何にも嫌そうな声だったが、口ほど嫌がっていないのは、表情を見れば明らかだ。
 このやりとりに懐かしさを感じつつ、健一は転がったオブジェや金具、荒っぽく使われた痕跡がある金工道具を整理し始める。自他共に認める整理整頓下手な綾も、都度健一に確認しながら掃除しやすいよう荷物を除けていった。

「これ……テレビとレコーダー、持っていかなかったんです?」
「運び出すの大変だし、新しいの買っちゃったから。あ、でも、ビデオはちゃんと持っていったよ」
「シーナ&バケッツの?」
「うん。あと買ったAVも」
「いつの間にそんなもの買ってたんですか……」
「だって研究したかったんだもん」

 何を、とは聞けなかった。聞いたら「じゃあ実演してあげよっか」とか綾が言い出して掃除そっちのけになりかねない。
 会話しつつも健一は手早く部屋を綺麗にしていった。共用で使っていた箒とちりとりで、四角い部屋を丸く掃くような簡単なものではあったが、それでも入った直後と比べれば随分まともになったな、と思う。

「終わったね」
「ええ。まだやることはあります?」
「ううん。もう大丈夫」

 振り返り、靴を履いて綾が1304から出る。健一が扉を閉めたのを確認し、自分の手で鍵を掛けた。

「健ちゃんは1303に行かなくていいの?」
「はい。お別れは昨日済ませました」
「そっか。なら最後だね」
「ですね」

 そうして二人は、1301に踏み入る。
 テーブルの上には既に一本の鍵が置かれていた。1302、刻也のものだ。

「管理人さんはいつ出ていったの?」
「一週間前です。本当は最後までいたかったらしいんですけど、狭霧さんに嵌められたとかで……」
「あはは、すごいね狭霧ちゃん」
「でも、嫌そうではなかったですよ。大学に通う準備もあるから、って言ってました」
「なるほど……。健ちゃんは大学行きたいなとか思ったりした?」
「正直に言えば、ちょっとだけ考えましたけど……綾さんと一緒にいるなら、そんな時間ないですから」
「……えへへ。嬉しいな」

 顔を見合わせ、笑い、健一はポケットから取り出した、綾はさっきから持ったままの鍵を、同時に刻也の横へと並べて置く。
 この鍵が、果たしてどうなるのか。やがて次の住人の――不思議な十三階を本当に必要とする人の許へ、行くのだろうか。
 わからない。
 けれど、まだ見ぬ彼らも、笑顔で出ていけたらいいと健一は思う。

「ねえ健ちゃん、折角だからもっかい奥も見てみよう」

 健一の手を引いた綾が、楽しそうに小探検気分で駆け出した。
 1302以降の部屋は、各住人の過去や趣向が反映された内装だったが、1301だけは例外だ。唯一の共用室だからか、無難な居間と台所、風呂と洗面所、トイレ――それらは刻也曰く、十二階以下のレイアウトとほぼ同じらしい。その割に、シングルとはいえどう考えても十三階の間取りでは収まらないボウリングレーンや、結局一度も利用しなかったフリースペースが居間より先に点在している。
 中でも、健一達が開かずの部屋と言っていた扉が廊下の最奥にある。
 他の部屋と同様の素っ気ないノブだけが付いていて、上部にもノブ周辺にも鍵穴がない。なのに捻ろうとしても全く動かず、勿論引いても押しても、一人一人交代で試しても微動だにしなかった。おそらくは物置のようなデッドスペースなのだろう、と最初の住人である刻也が結論付け、以来誰も触れることがなかった場所だ。
 真っ暗なボウリングレーンやその他の部屋を通り過ぎ、目当ての扉前に辿り着く。
 以前見た時と何も変わらない、無機質で無個性なままのそれを綾は指差し、

「二人で一緒にやったら開いたりしないかな」
「さすがに有り得ないと思いますけどね」

 まあ、願掛けのようなものだと考えればいいだろう。
 健一がノブを握り、その上から綾が包み込む。いっせーの、という綾の呼びかけに合わせ、力を込めた。
 開いた。
 え、と息吐く間もなく、健一の足元から床の感覚が消失した。
 反射的に目を閉じ、しかし重力に引かれる独特な浮遊感がいつまで経っても襲ってこないので、恐る恐る瞼を上げる。
 初めは自分が目を開けているのか、自信がなかった。一切の光も射さない、都会ではまず有り得ない濃度の暗闇が広がっていたからだ。それが闇だと理解できたのは、先ほどノブを握っていた手の甲に綾の手が触れているのと、不意に足の下で淡い赤光が輝き始めたためだろう。顔を横に向け、綾の姿を認めて安心する。隣の彼女も同じ気持ちらしく、不安げな表情にさっと安堵の色が浮かんだ。
 どこが地面でどこが天井なのかも不明な、重力すら感じられない宇宙めいた空間。いったいこれはどうなってるのかと考えてみるも、あまりにも常識外れの現状に答えは出てきそうもない。結局唯一の手掛かりである彼方の赤い光に目をやって、

「わあ……!」

 瞬間、怒涛の速度で光が広がる。
 塊のように見えていた赤い光は、複雑に絡み折り重なる無数の線だった。それは際限なく、健一と綾を中心に伸びていく。やがて線が結ぶ端々に、何かが繋がっていることに気付いた。目を凝らして意識を向ければ、拡大したかの如く視点が寄る。
 赤光の線が結ばれていたのは、誰かの――人の指だ。
 誰かと誰かを、繋いでいる。
 糸のように。絆のように。……縁のように。

「健ちゃん、私達にも」

 綾が掲げた手の小指にも、淡く光る赤い糸がある。一本ではなく何本も。その全ての行き先を辿ることはできないが、そこかしこへ、様々な場所、様々な人のところに伸びている。光の力強さ、太さもまちまちで、あるものは千切れそうにないほど太く、あるものは吹けばぷちんと途切れそうなほど細い。
 健一の指にもある。そして、二人を結ぶ糸は、今にも溶け落ちそうな儚い色をしていた。
 ふと、健一は思い出す。
 かつて、四方山話だと前置きしてから、刻也が話してくれたことがあった。
 例えば人と人の間に縁というものが存在するとして――その繋がりは一生のうち、どれだけのものか決められているのではないか。もし一生分の出会いが短い間にあるのだとすれば、それより未来、再び出会えることを運命が許さないのかもしれない、と。
 存在しないはずの十三階。
 この場所がなければ出会わなかったはずの人。
 あるいはそれが、縁の在り方を捻じ曲げて成立した、仮初めの奇跡だったとするのなら。

「……健ちゃん?」

 いや、と健一は首を横に振った。
 確かに、始まりは奇跡だったのかもしれない。他人には叶わない“ずる”をして、自分達は一緒に過ごしていたのかもしれない。
 でも、一緒にいると決めたのだ。これから先の一生をどうするか、答えは胸の中にちゃんとある。

「綾さん。いつか……いえ、近いうちに、きっと。指輪、僕から綾さんに渡します」
「指輪? それって……えっと、もしかして?」
「はい。薬指同士で、結び直しましょう」

 今は真似事でもいい。
 健一は手のひらを返し、甲に添えられていた綾の手を取る。
 足を動かさずとも、そうしようという意思が身体を綾の方に向けた。二つの指で空を摘まむ。そこに見せかけの指輪を想像しながら、綾の薬指に入れる仕草をしてみせる。

「あ……」

 信じきれないような、淡い熱を帯びた声を綾が漏らした。
 健一が触れていた箇所、第二関節の僅か下に光が集う。二人を結んでいたか細い糸が、互いの薬指に結ぶ先を変え、輝きと太さをぐっと増した。
 それを縁と言うのなら、きっと一生掛かっても、途切れることはないだろう。
 幻想的な光景に見惚れていた健一は、不意に自身の指から一本の赤い光がこぼれ落ちたことに気付いた。
 きらきらと、宇宙に浮かぶ星が朝焼けと共に薄れていくように遠ざかっていく。真っ暗な世界の遙か底、目を凝らしても見えない闇の奥深くで、もうどこにもいないはずの誰かが優しく笑った気がした。

「健ちゃん。健ちゃんってば」
「……綾さん? あれ、確か僕達、さっきまで」
「夢……だったのかな?」

 眠った記憶もないのに、何故だかずっと幻を見ていた気分だった。
 扉はやはり全く動かず、開かずの部屋のまま。
 向き合い、揃って首を傾げる。けれど不思議とすっきりした、あたたかな気持ちが胸に灯っている。
 夢なら夢でいいだろう。現実だったのだとしても構わない。

「行きましょうか」
「うん」

 改めて手を繋ぎ、二人は歩いていく。
 今日のところは、綾の実家まで。
 四月からは新生活だ。東京からは少し離れてしまうけど、実質綾との同棲になる。
 考えることは多い。学ぶべきことも多い。たくさん困らされるだろうし、エリに無茶振りされたりすることもあるだろう。
 全て、自分自身で選んだ未来だ。
 辛いことと同じくらい、楽しいこともある。
 好きな人と一緒にいられる、幸せがある。
 いつか脳裏に過ったお決まりの言葉も、今の健一が思い返すことはない。

 ――僕は恋愛には向いてない。
 ずっとそう思ってた。人並みに恋をすること、好きになること、もしかしたら永遠にないのかもしれないと思ってた。
 けれど、違うんだ。誰だって、誰かを好きになる。嫌いになったり、なろうとしたり、それでもなれなかったり、我慢できなかったり、泣いたり叫んだり、怒ったり笑ったりして、やっぱりまた人を好きになるんだ。
 それはとても自然なこと。
 人と人を繋ぐ、尊いことなんだと、今は思う。

 この世界で。
 みんな、誰かに恋してる。
 そうやって、僕らは生きている。






























■Epilogue U:彼女は今でも恋してる



 白い部屋の閉じた引き戸から、小さなノックの音が聞こえた。
 ベッドで横になったまま「どうぞ」と声を掛けると、静かにスライドした扉の先で、手を振る馴染みの顔があった。

「あれ、蛍子ちゃんだ。どうしたの?」
「どうしたのって、様子を見に来たんだよ。……何だ、悪いか?」
「ううん。すっごく嬉しいな」

 直接顔を合わせるのはいつ以来だろうか。
 最後に会った時と比べて、少しふっくらした気もする。

「蛍子ちゃん、太った?」
「いきなり失礼なことを言うのはこの口か」
「ひひゃいひひゃい」
「ったく……お前は本当に変わらないな」

 苦笑する彼女の背には、今年で二歳になった子供が乗っていた。
 ここまでの道中で疲れたのか、ぐっすりお休み状態だ。

「その子が健太くん?」
「ああ。どことなくあいつに似てるだろ」
「蛍子ちゃんにも似てるね」
「姉弟だからな。お前の方は?」
「さっきおっぱいあげたばっかりで、もう寝ちゃった」
「顔、見てもいいか?」
「うん」

 綾の隣にあるベビーベッドで、すやすやと穏やかに眠る幼児を蛍子は眺める。
 生後一ヶ月未満の新生児は、人間というよりほとんど猿だ。あらゆる部分が未成熟で、面立ちもまだはっきりしていないが、しかしどことなく両親の特徴が微妙に見られた。

「女の子だよな」
「そうだよー。名前ももう決めたんだ。ほら、そこに貼ってあるの。あやよ、って読むんだ」

 力強い筆字で『綾夜』と記された薄紙を綾が指差す。

「随分達筆な字だな……」
「お父さんが張り切っちゃって。いっぱい書き直したって言ってたけど」
「うちの時も、親父がそんな感じだったな。男親っつーか、孫ができるジジイはみんなそうなるもんなのかね」

 言いながら蛍子はそっとベビーベッドから離れ、再び綾に向き直る。
 どこかそわそわしたその表情を前に、えへへ、と気の抜けた笑みを綾が漏らした。

「私の顔に何かついてるのか?」
「違うよ。蛍子ちゃんと、こんな風にお話しできるのが嬉しいんだ」
「一応言っておくが、私はお前が嫌いだからな」
「そうなの?」
「あのな。好きな男掻っ攫ってったヤツを好きなわけないだろ」
「でも私は蛍子ちゃんのこと好きだよ?」
「だから……はぁ。お前と話してると、色々考えてたのが馬鹿らしくなる」

 座るぞ、と綾が頷くより早く、蛍子はベッドの端、綾の足側に腰を下ろした。
 上半身を起こした綾と、互いに手を伸ばしてもギリギリ届かない程度の距離。

「……健一は元気か?」
「うん。出産の時、何故か狭霧ちゃん連れてきてね。健ちゃんってば、予定日だからって早苗さんのお店でずーっと病院からの連絡待ってたみたいで、それで今後の参考にしたいからって狭霧ちゃんがついてきたんだって。あ、でも、赤ちゃん取り出すまでは、ちゃんと手握って励ましてくれたよ。あの子の姿見て不思議な顔してたけど、看護師さんに渡されて抱いた時、ほっとしたような感じで笑ってた」
「だからうちの両親がすごい美人さんに会ったとか言ってたのか」
「蛍子ちゃんはどうして来られなかったの?」
「健太が熱出してたんだよ。母さんが面倒見ようかって言ってくれてたけど、私が行ってこいって追い出した。にしても……そうか。なんつーか、あいつも今度こそちゃんとした親になるんだな」
「寂しい?」
「羨ましい」
「じゃあさ、今度蛍子ちゃんと私と健ちゃんで3Pしようよ」
「おい待て。お前話の前後が全く繋がってないぞ」
「えー、だって妊娠してからしばらくご無沙汰だったし。蛍子ちゃんだって健ちゃんとエッチしたいでしょ?」
「お前な、こっちはもうあいつと二度と会わないくらいの覚悟で来てるってのに」
「健ちゃんね、前より上手くなってるんだ。最後にした時なんて半日ずっとだったし」
「あ、あれより上手くなってるのか……?」
「久しぶりだから、きっと健ちゃんも燃えるんじゃないかな。私一人じゃ足りないかも」
「…………………………ゴムは、つけるんだろうな」
「さすがに蛍子ちゃんはまた妊娠しちゃったら困るもんね」
「ならお前もつけろよ。私だけゴム有りとか不公平だろ」
「うん、蛍子ちゃんが3Pしてくれるならそれでいいよ」

 あっけらかんとした表情で提案した綾の額を、ばーか、と蛍子はでこぴんした。
 ぱちんと乾いた音が響き、痛みで思わず綾が倒れる。
 ベッドに収まった、数日前まで妊婦だった高校時代の同級生、弟の妻に優しい手付きで掛け布団を被せ、蛍子はベッドから立ち上がった。

「んじゃ、私帰るわ」
「えー。もっとお話ししようよー」
「誰がお前の暇潰し相手になってやるか」

 じゃあなとひらひら手を振って病室を出ようとする彼女に、蛍子ちゃん、と綾が呼びかける。

「また来てね」
「……気が向いたらな」
「3P、約束だよ」

 最後に投げられた酷い言葉を遮るように、後ろ手で引き戸を閉めた。
 胸元の一般面会札を揺らしながら、リノリウム張りの廊下を歩く。
 不意に向かいから来る誰かが視界に入った。反射的に、蛍子の足が止まる。

「久しぶり、ホタル」
「……何年ぶりだ、馬鹿」
「馬鹿って何だよ。ホタルの方が避けてたんだろ」
「うるさい。察しろ」

 高校を卒業して、綾の下で働くと家を出て以来。
 いつかの記憶より少しだけ精悍になって、僅かに背も伸びて、けれどあとは何も変わらない弟の――最愛の男の顔を、見つめる。

「健太、大きくなったな」
「最近ちょっと喋るようになったんだ。じぃじ、ばぁば、とか言われて、父さんも母さんも大喜びでな」
「なんか想像できないなあ……」
「結婚式」
「え?」
「あいつとの結婚式、しないのか」
「あー……やっぱりした方がいい?」
「父さんと母さんは絶対喜ぶ。あいつの両親もそう思ってるはずだ」
「ホタルは?」
「それを私に聞くのか、お前は」
「ごめん」
「謝るな。私とお前は姉弟だ。それ以上でも以下でもない、そうだろ」
「でも」
「……なあ健一、知ってるか?」
「何を?」
「日本では、姉弟は結婚できないけど、セックスしても子供を産んでも、犯罪にはならないんだと」

 沈黙。

「……察したか?」
「……察しました」
「ああもう、馬鹿なこと言ってんな私。全部あいつの所為だ。約束だよとか言い出しやがって」
「まさか……」
「追及はすんな。絶対すんなよ。いいな?」
「わ、わかったから拳握るなって。健太起きちゃうだろ」
「ふん。もう帰る。結婚式の件、ちゃんと考えとけ」
「了解。ありがとな、ホタル」

 今度は後ろ髪を引かれることもなく、エレベーターのある方へ真っ直ぐ歩いていく。
 微かに背中で息子が動いたのを察知し、あやすように身を揺らす。
 仕方ねえなという気持ちが湧いてくるのは、自分が子供ではなく大人、女ではなく母親に近付いてきている証拠だろうか。
 ――なんかあいつにお情けもらったみたいで癪だけどさ。
 それでも、いいよ。私は健一が好きだ。また堂々とそう言える瞬間が来るなら、気に食わない奴と一緒にいるくらい我慢してやる。
 ま、きっとあの女は――綾は、本気で私と一緒がいいとか、思ってるんだろうけどな。
 全く。

「次に会えるのは、いつかな」

 ともあれ、ひとまずは。
 その日を、楽しみに待つとしよう。



 ――ROOM NO.1304 Happy Ending!!



 backindexpostscript


何かあったらどーぞ。