精神的な消耗があるのか、絹川家から有馬第三ビルまでの道程は思いの外長く感じた。
 着の身着のままで出てきた所為で、上着の類を羽織り忘れていた。深夜、日を跨いで随分経つ。剥き出しの顔や手先に当たる風は刺すように冷たい。白く煙る息をたなびかせながら、重い足取りで進んでいく。
 間もなく辿り着いた幽霊マンションのエントランスは、明かりが落ちてほとんど真っ暗だった。非常灯の微かな光を頼りに、階段を上り始める。
 かつん、かつん、と響く足音。
 その中で健一は考える。何を言うべきか、何をするべきか。
 呆然自失としていた健一を絹川家まで連れてきたのは綾だった、と蛍子が言っていた。明確な記憶はないが、あそこで嘘を吐く理由もないだろう。まともに立てたかも怪しい自分を、決して仲が良いとはいえない蛍子の元まで送ってくれたのだ。
 今、彼女はどうしているのか。
 同じ場所にいたはずの、刻也も。
 十二階の踊り場から、さらに上へ。屋上に向かうはずの階段は、当たり前のように十三階――本来存在しないフロアに続いている。鉄製のドアを開け、まずは1303に行く。
 室内の様子は、最後に見た時と変わらなかった。キッチンの水切りに伏せられた二つのコーヒーカップ。居間には綾が買って刻也がセッティングした巨大なテレビとVHSレコーダー。お互い全くと言っていいほどテレビを点けないので、リモコンはラックに仕舞ったままだ。
 寝室の箪笥には、冴子の衣服が収納されている。これもそのまま残っていた。誰も取りに来られないのだから当然だろう。健一も、わざわざ外に運び出すつもりはなかった。
 こうしてひとつひとつを眺めていけば、冴子のいた痕跡はたくさんある。
 確かに、生活臭は薄いかもしれない。元々彼女は物欲がまるでなかったし、今にして思えば、敢えて何も残さないようにしていた節さえあった。けれどやはり、ここには冴子がいたのだ。一年には満たなくとも、長く一緒に暮らしてきた健一にはわかる。
 わかるからこそ、胸が痛んだ。
 この部屋は日常を保ち過ぎていて、今日か明日か、遠からずひょっこり彼女が帰ってきて、またあの日々に戻れるのではないかと勘違いしてしまいそうになる。
 ……そんなはずはないのに。
 これ以上いても気分が沈むだけだと玄関に向かった健一は、ふとキッチン近くのゴミ箱に視線を落とした。
 住人以外には認識されない十三階だが、水道電気ガスが使い放題であることを除けば、他の様式は基本マンションに準ずる。ゴミ捨ても例外ではなく、一階に設置された共同のゴミ捨て場に持っていかなければならない。
 普段はコーヒー殻程度しか出ないため、滅多にまとめることはなかったものの、気付いた時にはどちらかが捨てに行くようにしていた。前回は二日ほど前。一度は空にした箱の奥には、かつて見たメタリックブルーの薬封が放り込まれていた。
 無造作に腕を入れ、手に取る。
 結局、いったい何の薬だったのかは謎のままだ。だが冴子はこれを飲み続けていた。

「……生きたかった、のかな」

 死ぬのは怖くなかったと、そう言った彼女の小さな矛盾にも思えた。
 あの夜の言葉は、どこまでが本当だったのだろうか。
 わからない。
 それを紐解くには、健一の心は弱り過ぎていた。
 1303を退室して、1301に足を運ぶ。この時間だ、誰もいないとばかり思っていたが、予想に反して居間の方から光が来ている。
 半開きのドアからそろりと覗いてみると、台所に刻也が立っていた。
 若干ぎこちない手付きで包丁を握り、何かを切っている。健一ほどリズミカルではないものの、トン、トンと規則正しく聞こえる音。
 このまま戻ろうか、とも一瞬考えたが、さすがにそれは不義理だろう。
 意を決し、居間に踏み入る。

「む……絹川君か」

 人の気配を察した刻也が振り返り、健一の姿を認める。微かに眉を動かし、また台所に向き直った。

「……ご飯、食べてないんですか」
「うむ。慌ただしかったし、気持ちの整理をつける時間もあったからな」
「手伝いましょうか?」
「いや、構わないよ。大した手間でもない。座って待っていてくれると助かる」

 提案を遠慮され、言われた通り健一は刻也が見える位置の席に着いた。
 まな板の端に寄せられた食材は、薄切りのきゅうりやトマト、手頃なサイズにちぎったレタス、半分にカットしたハム、ゆでたまごにマヨネーズを和えて潰したもの。その横にはこれまた半分にした食パンがいくつか積まれている。
 すぐにわかった。サンドイッチだ。
 チューブの辛子をバターナイフでパンの表面に塗り、そこに具を適量乗せ、もう半分のパンで挟んでいく。少しはみ出したりもしたが、見た目としては充分な出来だった。
 四つの完成品を皿の上に置き、手を洗った刻也がテーブルまで運ぶ。

「君も食べるといい」
「え?」
「さすがに一人で四つは多過ぎる」

 コップを取りに行った刻也の背中を眺め、健一はサンドイッチに視線を落とした。
 途端、小さく腹が鳴る。そういえば、最後に胃に入れたのは狭霧と飲んだ喫茶店のコーヒーだったなと思った。
 どんなに悲しいことがあっても、生きるために身体は求めるのだ。

「麦茶でよかっただろうか」
「ありがとうございます。……いただきます」
「いただきます」

 正面に座った二人で手を合わせ、一つを掴み端からかじる。
 耳を残してあるので、感覚的には結構なボリュームだ。もそもそした歯応えの中から、具の水気や塩気、酸っぱさが一気に来る。舌を刺激する辛子の痺れがアクセントになり、一切れを食べ終えるまであまり苦労はしなかった。
 しばらく互いに黙々と食事を進める。

「絹川君」
「はい」
「多少は、落ち着いたかね?」
「……たぶん」
「そうか」

 ただでさえ不器用な刻也の問いは、大雑把過ぎて何とも答え難い。
 努めて明るく振る舞うこともできず、おざなりな返事になってしまう。
 しかし刻也は嫌な顔ひとつせず、静かに頷いた。

「病室から出た君は、酷く憔悴していた。その時と比べれば、幾分良くなっているように思う」
「そうなんでしょうか。自分じゃわからないですけど……」
「少なくとも、こうして冷静に話せているのだ。気持ちに余裕ができた証拠だろう」

 空になった皿を刻也が片付ける。
 コーヒーは要るかね、と訊かれたので、迷ったが首肯した。

「……まだ、日程は決まっていないが」
「日程?」
「数日のうちに、葬儀が執り行われるはずだ」

 そうぎ――と唇を動かす。たった三文字の言葉なのに、驚くほど頭に意味が入ってこない。
 理解を拒んでいる自分がいるのを健一は感じた。

「美佐枝さんは家族葬の予定だと言っていた。だが、絹川君なら参列できるかもしれない」
「……どうして、ですか?」
「君は最後まで有馬君のそばにいた。なら、有馬君もそれを望むだろうと」
「有馬さんが、そう言ってたんですか?」
「いや……そうだな。私達の、勝手な言い分だとは思うよ。それで、どうするかね」
「やめておきます。行ったら、叫び出したくなりそうな気がするので」
「わかった。美佐枝さんには私から伝えておこう」

 意固地になっている自覚はある。
 それでもやはり、簡単に大人にはなれない。
 認めたくないことを、本当の意味で認めることも。
 ことん、と目の前に置かれたコーヒーは、刻也のものよりも黒色が深かった。
 火傷しないように少しだけ啜る。苦味が僅かに思考をクリアにしてくれる。

「明日は平日だが、学校はどうする?」
「八雲さんは行くんですか」
「有馬君に関して、今の私にできることはない。行かない理由がないよ」

 淡々と言いながら、刻也がコーヒーを呷る。速いペースで飲み終えると、律儀に自分のカップを流し場で洗い、きっちり拭いて食器棚に仕舞った上で、

「厳しいようなら、学校には私から連絡しておくが」
「……すみません。お願いします」
「わかった。今日は一日休むといい」
「あの、八雲さん」

 1301から出ようとする背中を、健一は呼び止めた。
 振り向いた刻也に、問いかける。

「有馬さんのこと、平気なんですか?」
「そう見えるかね?」
「……あんまり、辛いようには」
「ならば、そうなのかもしれないな」

 呟くように言い残して、刻也が扉の向こうに姿を消す。健一はしばらく玄関の方をじっと見つめ、やがて酷い自己嫌悪に襲われた。
 何も感じていないわけがない。ないはずなのだ。
 なのについ、責めるような言い方をしてしまった。
 普段の精神状態なら、その程度はすぐ理解できただろう。しかし今は、他人を気遣うことまでなかなか頭が回らない。
 自分の感情を制御するというのは、こんなに難しいことだったろうか。
 溜め息と共に俯き、ちびりとコーヒーを舐める。
 舌に広がる苦さを確かめ、落ち着こうと自身に言い聞かせた。

「……綾さんは、どうしてるかな」

 時間が時間だ、寝ていても全くおかしくはない。元々綾は不規則な生活を送っていたが、最近どうやらある程度規則正しい就寝を心掛けているらしく、朝食や夕食の席にも一緒にいる機会が増えていた。
 今日は殊更冷静さを欠いていたとはいえ、そんなことにも気が回らなかった自分に苦笑する。もし眠っているのなら、1304の呼び鈴を鳴らすのも迷惑だろう。
 空になったカップと皿を洗い、帰ろうかと椅子の位置を戻す。
 元来存在しないはずの十三階では、電気水道ガス代を要求されることもない。つまり使い放題なのだが、だからといって点けっぱなし出しっぱなしは何となく据わりが悪く、1301を最後に出る時は必ず電気を消すようにしていた。
 ぱちり、スイッチを切る。ふっと暗くなった居間を後にしようとしたところで、

「あれ、健ちゃん。どうしたの?」

 玄関から、探し人の声が聞こえた。
 思わず勢い余って、扉を強く閉めてしまった。
 想像以上に大きな音が響き、びくんと背筋が伸びる。
 そんな一部始終を見ていた綾が、小さく笑った。

「びっくりさせちゃってごめんね」
「いえ。ただ、ちょうど帰ろうとしてたところだったので」
「そっか。私はできれば健ちゃんとお話ししたいかな。まだ時間は平気?」
「大丈夫です」

 後ろ手で扉を開け直し、電気を再び点け、健一は元の場所に収まった。
 飲み物を入れようとしたが、私がやるから健ちゃんは座ってて、と固辞された。どことなく嬉しそうに食器棚からコップを取り出した綾が、麦茶を注いで健一に手渡す。

「……あの」
「なに?」
「どうして隣に座ったんですか」
「こっちの方がいいなって思って」

 二人しかいないのに並んで座ると、何とも言えない感じになる。

「……あの」
「なに?」
「近くないです?」
「そうかな」

 ずず、と椅子を動かし、綾が身を寄せてきた。
 肩が触れる。少しだけ寄りかかられる。
 人ひとり分の重さが来て、上半身が僅かに傾ぐ。

「重くない?」
「むしろ軽いくらいですけど……」

 いつも以上に色々と唐突で、困惑が先立ってしまう。
 しばらく為すがままにされながらじっとしていると、すぐ横で目を閉じた綾が、小さな声で呟いた。

「前に、私が電車で痴漢に遭って、健ちゃんに慰めてもらったこと、あったよね」
「ありましたね」
「あの時ね、健ちゃんにしてもらったこと、ぜんぶ、ほんとに嬉しかったんだ」

 いったい自分は何をしただろうか、と思う。
 信じて送り出して、けれどそれが綾にとっては残酷な願いで、傷付いて帰ってきた彼女に請われ身体で慰めた。
 恋人ではない。友人とも言えない。自分と綾は、酷く歪な関係だ。
 ともすれば、彼女の好意を利用して、性欲を満たしただけとも捉えられるだろう。

「普通じゃなかったかもしれないけど……でも、健ちゃんが、私を立ち直らせてくれた」
「そう……なんでしょうか」
「うん。だから、今度は私の番。健ちゃんの力になりたいの」

 ふっと肩にあった重みが消え、代わりに包まれるような温かさを感じた。横合いから抱き締められたのだ。
 淡い人の熱と柔らかさ、心臓の鼓動、綾の匂い。
 絹川家で蛍子にされたのとはまた違う、優しく、微妙にこわごわとした手付き。

「ちょっと前、一回だけ、冴ちゃんが倒れたことがあったんだ」
「え? ……い、いつだったんですか?」
「確か、日奈ちゃんがここから出ていって、私がポスター作ったくらいの頃かな」
「待ってください。そんな素振り、全然なかったですよ」
「うん。私もいきなりだったからびっくりしちゃって。この部屋で、管理人さんもいない時だった。椅子から立ち上がったら、ふらってそのまま。慌てて近付いたら、ポケットから薬出して、すみません、水を取ってきてくださいって言われて」
「……その薬って、メタリックブルーの封でした?」
「たぶん違うのだったと思う。飲んで、しばらくしたら治まったみたいで。身体悪いのって訊いたら、辛そうに、絹川君には言わないでくださいって。すごく真剣な顔してたから、ずっと言えなかった。それが、冴ちゃんにとっては大事なお願いだと思ったから」

 記憶を掘り返す。その時期に、どこにも予兆はなかった。なかったはずだ。
 冴子は自分を隠すのが上手かった。きっとそういうことがなければ、本当に誰にもわからなかっただろう。
 あるいは。
 日奈のこと、蛍子のことで精一杯で、冴子が見えてなかったのか。

「知ってたのに言えなくて、ごめんね」
「いや、綾さんは何も悪くないじゃないですか」
「でも私は、健ちゃんに申し訳ないなって思うから」
「……頑固ですね。みんな」
「健ちゃんもそうだよ」
「かもしれません」
「……難しいよね。健ちゃんも冴ちゃんも大事だけど、みんな上手くはいかなくて。すれ違ったり、噛み合わなかったりしちゃう」

 何かを選ぶというのは、何かを捨てるということでもあって。
 取りこぼしたと気付いた時には、もう手が届かなくなっている。

「全部、上手くいくような道はあったんでしょうか」
「きっとなかったんじゃないかな。だけど、私はそれでいいって思うよ」
「……上手くいかないことが?」
「最初から何もかも間違えてなかったら、私と健ちゃんも出会えてなかったはずだから」

 確かに、と健一は微かな苦笑を漏らした。
 他人とずれたおかしな自分達は、人より多く間違いながら生きている。そういう者だからこそ、この十三階に辿り着いたのだ。

「あの、綾さん。そろそろ」
「ん?」
「離れてもらえると……」
「健ちゃんは私に抱き締められてるの、嫌?」
「嫌じゃないですけど、もう大丈夫ですから」
「ほんとに?」
「ホントです」
「そっか。じゃあ、離れるね」

 微妙に名残惜しそうな顔をしながら、綾が腕をほどいた。
 元の位置に戻り、麦茶をちびりと飲む。それを横目で窺い、健一は当初の目的を果たすべく口を開いた。

「えっと……あの後、病院から家まで送ってもらったみたいで。ありがとうございました」
「あれ、蛍子ちゃんから聞いたの?」
「はい。起きてすぐに。ここに来たのも、綾さんにお礼を言いたかったからで」
「気にしなくてよかったのに」
「ホタルに背中押されたんですよ。言うべきこと、ちゃんと言ってこいって。だから来たんです。僕もそうするべきだって思ったから」
「……ん、なら、素直に受け取るね。どういたしまして」

 何故かふっと遠くを見るようにして、綾が優しい表情を浮かべた。
 その理由について健一が考える間もなく、

「管理人さんにもお礼言っておいた方がいいよ。私一人じゃ健ちゃんを運べなかったし。着いたらすぐ戻っちゃったから、蛍子ちゃんは見てなかったと思うけど」
「……次会ったら伝えます」

 さすがに酷く申し訳ない気持ちになった。いくら知らなかったとはいえ、こんな大変な状況の中、冷静になれなかった自分をわざわざ家まで送り届けてくれた相手に対してあの態度は正直ない。有り得ない。
 隣で綾が首を傾げていたが、情けなさ過ぎて穴に埋まりたいくらいだった。
 深く溜め息を吐く。幸せが大挙して逃げかねない感じだが、これ以上は減りようがないだろう。
 手元の麦茶を一気に飲み干し、がたっと立ち上がる。

「今日のところは帰ります。明日以降は……すぐには、来られないかもしれませんけど」
「ん、わかった。管理人さんには私から話しておくね」
「すみません」
「ありがとうございます、って言ってくれた方が嬉しいかな」
「……ですよね。ありがとうございます、綾さん」

 私も部屋に戻るよーと席を立ち、綾が健一の後ろに付く。
 コップを片付け、今度こそ居間の電気を消して、1301から出た。
 静まり返った十三階の廊下。
 簡単な別れの言葉を交わし、健一は踊り場に続く扉に手を掛ける。

「健ちゃん」

 短く呼ばれ、振り向いた。
 先ほどの位置から動かないまま、およそ四歩分の距離を隔てて、綾が立っている。

「何日掛かってもいいから、冴ちゃんのこと、ちゃんと乗り越えてあげて。みんなのために。誰より、冴ちゃんのために」

 健一を安心させようとしているのか、柔らかい笑みを見せて。

「ぜったい、健ちゃんならできるって、私は知ってるから」

 けれど、ほんの少しだけ。
 泣きそうになっているのは、気の所為だろうか。

「じゃあね」

 ばいばい。
 綾が踵を返す。歩き出す。
 錯覚だと思った。病院にいた時と比べれば随分落ち着いたが、それでもまだ健一の心は本調子から程遠い。ネガティブによりがちな思考が、綾を暗く見せてしまっただけなのだと。
 そうして健一もまた、綾に背を向ける。
 去り際に投げかけた「また」という声は、静寂に吸い込まれてほとんど響かなかった。










 表向きは、体調不良ということになっていた。
 精神的な問題なのだから、ある意味では間違っていないだろう。普段の自分をある程度取り繕えるようになるまでは二日を要した。そうして再び登校した健一は、それとなく心配してくるクラスメイトにぎこちない笑みを返しつつ、空っぽの席をじっと見つめる。
 冴子のいた場所。長年使い回されている机や椅子は日に焼けてくすみ、ところどころ表面が薄く剥げている。机にはいくつも刃物やペン先で削られた痕があり、それを誤魔化すように傷が上塗りされていた。
 彼女が「誰とでも寝る女」と一番良く言われていた頃、誰かが刻んだ敵意の名残だ。
 少しだけ、騒ぎになったことがあった。見るに堪えない机の落書きを前にして、冴子は何も言わず、そのまま静かに座ったのを覚えている。ただ黙ってやり過ごしたからか、それ以上の悪戯は起こらなかった。翌日、落書きはいつの間にか消されていた。
 教室の中で、有馬冴子は、いてもいなくても変わらない存在だった。
 冴子の死は昨日通知されたのだという。きっと皆が形だけ悼み、すぐ当たり前の日常に埋没して忘れていったのだ。その証拠に、誰も彼女の席を見ない。もういない人間は、彼らにとって、存在しないのと同じなのだ。
 当然ながら、授業はまともに頭には入ってこなかった。暗鬱な、健一が外に振り撒くぴりぴりした空気を察してか、どの科目でも教師に指されることはなかったが、それで何かがよくなるわけでもない。昼休みを迎えた頃には、クラスメイトの誰もが健一を触り難いものとして扱っていた。
 一人を除いては。

「……あの、絹川君」

 地蔵のように座ったまま、昼食を摂る気配すら見せない健一に、千夜子が話しかけた。
 周囲で遠巻きに窺っていた教室で食べる組達が、唐突な勇者の行動に耳をそばだてる。普段より明らかに重い、のそりとした動きで声のした方を向いた健一は、掠れた声で「大海さん」と呟いた。

「何か用ですか?」
「えっと、もうお昼ですけど……今日もお弁当、作ってきたので」

 一拍遅れて、そういえばという仕草で健一が頷く。
 手ぶらで立ち上がり、わかりました行きましょう、と教室を出ていき、慌てて千夜子も付いていった。
 地味で目立たない同級生のただならぬ様子に、教室はしばしざわつきが治まらなかった。
 そこかしこから聞こえる昼の賑わい、騒がしい空気を全く意に介さず、気遣いのない歩幅で健一は階段を上る。何とか追いついた千夜子が横に並び、お互い無言のまま屋上へ。特に冬ともなると利用者は少なく、幸いというべきか二人以外には誰もいなかった。

「鍵原は?」
「別の友達と食べるって言ってました」

 実際のところは「なんかアイツ超暗いし落ち込んでるみたいだから励ましてきなさいよ」的な発破を掛けられた結果なのだが、ともあれ千夜子にとっては千載一遇のチャンスである。
 さすがに告白できる雰囲気ではないものの、元気づけてあげたいという気持ちも強い。
 当初より格段に見栄えの良くなった弁当と箸を手渡し、自分も食べ始める。今日の出来はなかなかだと思いつつ、横目で健一を見る。ゆっくりではあるが、ちゃんと口に運んでいるので、少なくとも食欲がないわけではないのだろう。

「……すみません、大海さん」
「え?」
「色々、指摘とかできればいいんですけど……コメントとか、上手く出てきそうにないです」
「あ、いえ、気にしないでください! こうやって食べてもらってるだけでも嬉しいですから」

 それは正直な言葉だった。
 箸が止まらない程度には食べられるレベルになったとわかるし、何より自分が健一に手作りの弁当を振る舞っているという状況自体が良い。かなり幸せ度数の高い時間だ。
 けれど、健一はそうじゃないんだろう、と。
 そう考えながら、千夜子は問いを慎重に選んだ。

「有馬さんと……何か、あったんですか?」

 昨日。
 担任の教師から、有馬冴子さんが亡くなりました、と告げられた。
 クラスでの反応は、本当に様々だった。あまり興味がなさそうな者、痛ましげな表情を見せる者、どこかほっとしたような顔をしていた者。ただ、全員に共通していたのは、実感がないということだった。
 昨日までいたはずの他人が、もういない。
 例えばそれは、不登校者や転校生にも適用される話だ。別れを言えなかったところで、ほとんどの人間にとって大した感慨はない。ああそっか、あの席は空くんだな、程度の思考で、そんな軽い感情さえも一日二日で流されてしまう。
 特に、有馬冴子は、元々幽霊にも似て希薄な存在だったから。
 千夜子とて、彼女について知っていることは決して多くない。が、健一をずっと見てきたのだ。授業中も、ずっと。
 時折彼の向ける視線が、それとなく冴子に注がれていたのを、知っている。
 健一の休んだタイミングといい、偶然として片付けるには些か符合が多過ぎた。

「あっ、勿論話したくないならいいんですけど」
「……どうしてそう思ったんです?」

 わたわたと両手を振って無理強いするつもりはないと示した千夜子に、健一が問いを問いで返した。
 恋する乙女はいつでも好きな人を見てるんです――などとは空気的にも心境的にも言えるはずがないので、少し迷い、

「ときどき、絹川君、有馬さんの方をじっと見てたりしましたから」
「そんな風に、してました?」
「はい」

 断定の首肯に、でしたか、と苦笑いを浮かべて。
 視線を空に向け、健一が吐息を漏らした。
 寒さで白く煙った息が、ゆっくりと揺れて消えていく。

「何でもなかったんです」
「……絹川君」
「本当に、何でも。だからきっと、気の所為ですよ」

 心配そうな顔の千夜子を安心させようとしたのか、ぎこちなく笑い、空の弁当箱を丁寧に渡してくる。腰を浮かせ、ごちそうさまでした、と律儀に告げて屋上を出ていった。
 残されて一人、ぼうっと去った背中の跡を眺めながら呟く。

「……嘘、下手過ぎます」

 千夜子が好きな男の子は、あんなにも辛そうに笑ったりしなかった。
 千夜子が好きな男の子は、あんなにも諦めたような目をしなかった。
 絶対何かがあったのだ。有馬冴子という人間の死を、重く引きずるほどの関係性が。
 一瞬、もしかして恋人だったんじゃないかと思ったが、すぐにそれは違うと確信した。であれば真っ先に自分が気付いていただろうし、そうでなくとも綾や蛍子と出会った時、二人から何らかのリアクションが得られたはずだ。
 けれど――。

「私、絹川君のこと、ほとんど知らないんだなあ……」

 好きになって、あの背中を目で追いかけるようになって、お弁当まで食べてもらえるところまで来て。なのに、彼が学校以外ではどうしてるか、まるでわかっていない。
 話してくれればよかった。解決できなくても、相談になら乗れたかもしれない。聞くだけで少しくらいは、健一の気持ちが晴れたかもしれない。辛いことや苦しいこと、分け合って、軽くしてあげられたかもしれない。
 自分は頼ってもらえるほどの関係ではないと、実感する。

「ううん、だからって、このままじゃ駄目だよね」

 弁当箱を抱え、勢い良く立ち上がった。
 負けてはいけない。負けたくない。
 後ろ向きになりがちな自分にも、健一を悲しませる現実にも。
 その瞳に小さな決意を湛えて、千夜子もまた屋上を後にする。
 昼休みの終わりを知らせる鐘の音が、階段を駆け降りる足音と混ざって響いた。










 放課後、気が進まないながらも、健一は『天国への階段』を目指していた。
 何しろ数日、バイトを無断欠勤してしまったのだ。冴子の件で頭がいっぱいになって、正直に言えばすっかり抜け落ちていた。情状酌量の余地があったにしろ、相当迷惑を掛けたことは間違いない。
 早苗が怒る姿はあまり想像できないが、クビにされても仕方ないだろう。そうなれば店にも行きにくくなるかもしれないと思い、さらに憂鬱な気持ちが膨らんだ。働いて稼ぐ給料の多寡はともかく、あそこは健一にとって居心地の良い場所だった。それはきっと、冴子がいなくなった後でも。
 重い足取りはしかし、覚えている道を律儀に通っていく。やがて店の扉が迫り、健一はそのすぐ前で立ち止まった。
 逃げてしまおうか、という後ろめたさから来る選択肢を、歯を食い縛って飲み込む。大きく息を吐き、ゆっくりと扉を押し開ける。備え付けられたドアベルが不可避的に高い音を鳴らし、拓けた視界の中、店内から視線が注がれたのを感じた。

「いらっしゃいませ、って、健一さんじゃないですか」
「……ええと、その……はい、どうも、お久しぶりです」
「早苗さーん! 健一さんが来ましたよー!」

 ウエイトレスとして来客を出迎えた狭霧が、健一の顔を認めた瞬間、唐突に大声で早苗を呼び出した。いきなりのことにびくっとしたが、ふと周囲を見回してみれば、どの席にも客がいない。夕方の微妙な時間帯だからか、丁度暇な状況だったらしい。
 狭霧の呼びかけに、カウンター奥からガタガタと慌てたような物音が聞こえてきた。何か裏で作業していたのか、前につんのめりかねない勢いで出てきた早苗は、エプロン姿で腕まくりをしていた。

「絹川君っ? 本物?」
「一応、偽物じゃないつもりですけど……」
「その感じは確かに絹川君ね。とりあえず、立ち話も何だし座って座って」
「え、でも」
「気が引けるなら店長命令ってことで納得しなさい。狭霧ちゃん」
「はーい店長! さ、健一さん、お席にどうぞ」
「わっ、さ、狭霧さん!? 大丈夫、一人で座れますからっ」

 いつの間にか背後に回っていた狭霧が、背中を押してカウンター前の椅子に健一を座らせる。
 為すがまま一席に収まると「コーヒーでいい?」と早苗に聞かれ、曖昧に頷く間もなくおしぼりを渡され、しかも何故か甲斐甲斐しく手と顔を狭霧に拭かれる。喫茶店というよりいかがわしいお店のサービスめいてきていたが、今の健一に抵抗するだけの気力はない。
 使用済みのおしぼりを回収し、早苗の指示を受けた狭霧がぱたぱたと小走りで表の札を『CLOSED』に引っ繰り返してくる。客が来ないようにしてくれるのは有り難くもあったが、ある意味では退路が絶たれたとも言える状況だ。
 やがてソーサーと共に出された、深い色のコーヒー。目の前に置かれたそれをしばし眺め、健一は向かいの早苗を見る。歳の割に可愛らしいウインクが返ってきて、少しだけ頬の固さが緩んだ。カップの取っ手を掴み、そっと唇を付けて啜る。
 鼻に抜ける豆の香り。透明な水気の中に潜む微かな苦味と、舌に淡く広がる酸味。喉に滑り込む熱さが胃まで落ちて、滲むようにふわりと溶けていく。
 ここしばらく、食事に栄養補給以外の意味を見出すことができなかった。
 冴子の死を経てもう何日も経っているはずなのに、その間の記憶はどこかおぼろげだった。学校にも行っていた。家にも帰った。1301にも顔を出した。断片的に覚えていることはあるが、形が合わないパズルのようにちぐはぐで、どうにもそれらは上手く繋がらない。誰もが当たり前に過ごす時間から、自分一人が浮いてしまっているような感覚。
 それをこのコーヒーで、引き戻された気がした。
 無意識のうちに、おいしい、と呟いていた。カップを置く手が少し震える。味が、香りが、過去を呼び起こす。
 狭霧と同じ制服を着て、恥ずかしげに微笑む冴子の姿が脳裏に蘇った。絹川君、と名前を呼ぶ声。
 こんなところにも、彼女の名残がある。
 カップから指が解けた。力なく下がる右手の甲に、冷たく熱い何かが落ちて弾ける。
 健一は、泣いていた。
 声は出ない。出ないのだ。子供のように感情を吐き出すにはもう遅く、心は冷え過ぎた。本当はこんな、馬鹿みたいに人前で涙を流すつもりだってなかったのに。
 脆い堰が一度壊れれば、溢れるものはもう抑えられない。
 隣に座った狭霧が静かに息を飲み、それから無言で、投げ出された健一の右手に自身の両手を重ねた。
 ……どれほど、ただ泣いていただろうか。
 ふっと我に返ると、酷く瞳が乾いていた。空いた左腕の袖で目元を拭い、隣の狭霧に「すみません」と告げる。

「いえいえ。不謹慎かもしれませんけど、健一さんの力にちょっとでもなれたみたいで嬉しかったので」
「……で、そろそろ手を離してもらえると」
「もう平気なんですか? 私はいつまででもいいですよ?」
「遠慮しておきます」
「えー。……ふふ、冗談です」

 わざとらしく不服そうな仕草を見せてから、狭霧が手を離した。
 それから健一は早苗の方に向き直り、

「改めて、その、色々すみませんでした」
「いいのよ。まあ心配はしてたけど、事情は聞いてる……っていうか、わかってたから」

 考えてみれば当然だ。
 ここは冴子のバイト先なのだから、彼女の母から直接連絡が行っていてもおかしくない。
 全く同時期に健一が来なくなった理由も、推察するのは容易かっただろう。

「でも僕、ちゃんと連絡もしないで無断欠勤しちゃってたわけですし」
「え? 刻也君からしばらく休むって伝えてもらってたんだけど」
「……八雲さんが?」
「自分だって辛いでしょうに……優しくて、いい友達ね」
「兄さんがそんな風に優しくする人なんて健一さんくらいだと思いますよ」
「なるほど……うん、有りね」

 どことなく不満げに言う狭霧と、見ているとそこはかとなく不安になる表情で頷く早苗。
 両極端な二人に挟まれながら、しかし健一は笑う余裕もなかった。
 あの夜、衝動的に八つ当たりしてしまった自分の器の小ささが余計に際立ったからだ。
 思わず両手で顔を隠すように押さえ、俯く。

「どうしたんですか?」
「いや……八雲さんには迷惑掛けっぱなしだったんだなって気付いて……。次会った時に謝らなきゃいけないですよね」
「そんな気にしなくてもいいですよ。兄さんは絶対迷惑掛けられたなんて認めたがらないでしょうし」
「……それは確かに」

 不思議と、他人からの好意には頑固なのだ。
 意地悪な笑みを浮かべる狭霧の言に、妙な納得をしてしまった。

「ま、そういうわけで、お店のことは心配しなくていいわよ。申し訳なく感じてるんなら、元気になってからの働きで返してくれると私的には嬉しいわね」
「はい。そうさせてもらいます」

 ――どれだけの。
 どれだけの人に助けられながら、自分は生きているのだろうか。
 こんな、どうしようもない、自分のために。
 綾も、刻也も、蛍子も、狭霧も、早苗も――皆が手を差し伸べてくれている。
 その優しさと温かさに、いったい何度救われているのだろう。

「健一さん。今、みんなにお返しできることはないか、とか考えてます?」

 不意に横から飛んできた狭霧が、ぴたりと心情を言い当ててきた。
 あまりにも正確な指摘に、びくっと驚きで背筋が跳ねる。

「ここ一週間くらい、健一さんの分も毎日働いてたんです。ちょっとくらいはお願い聞いてもらっても、平気ですよね?」
「……何をすればいいですか?」
「バイト終わった後、デートしましょう」
「デート?」
「はい。私と健一さん、二人でおでかけです。シフト外勤務のボーナスってことで、早苗さん、どうですか?」
「いいんじゃない?」
「店長の許可も出ましたし、あとは健一さん次第ですね」

 気付けば一瞬で外堀を埋められていた。
 この鮮やか過ぎる手際は、さすが狭霧と言うべきなのか。どこからどこまでが計算なのかはわからないが、初めから計画していたと明かされても驚かないだろう、と思う。
 そして健一としても、積極的に断る理由はなかった。
 いいですよ、と頷いた後の笑顔は、少なくとも本当に喜んでいるように見えた。










 もうこれ以上は客も来ないだろうと、結局早苗はあのまま閉店してしまった。個人経営だからこそできる気まぐれというか、早苗本人に経済的余裕があるが故の大胆な決定である。
 当然ながら狭霧の身も即座にフリーとなり、バイト終わりまで待つつもりだった健一は、誘われた十分後には連れ回されていた。
 とはいえ、デートらしく遠くへお出かけだとか、そういう派手な遊び方をするつもりもないらしく、あてどなく歩く彼女に付いていっているのが現状だ。
『天国への階段』を出て商店街の通りを抜け、閑静な住宅街の、本当に何でもない道を進む。特に会話らしい会話もないが、折角デートなんですし腕組んでもいいですか、と隣にくっついてきた狭霧は上機嫌な表情だった。

「ほんのちょっと、やつれましたね」
「そうですか?」
「頬とかかさついてますし、血の気が引いてて若干白いです。ご飯ちゃんと食べてました?」
「……たぶん」
「たぶんって。覚えてないんですか?」
「食べてる時にはわかってるんでしょうけど、あんまり実感なくて。家にいる時は、ほとんど何もせずぼーっとしてたので」
「それはだめです。よくないです。じっとしてるだけだと、滅入っちゃいますから」

 抱くように押さえられた右腕には、狭霧の温かさと柔らかさを感じる。
 ここまで密着していると、見上げて話しかけてくる彼女の顔が、とても近い。

「経験、あるんですか?」
「どうしてそんなことを聞くんです?」
「なんていうか、言葉に重さみたいなのがこもってた気がしたので」
「……やっぱり不思議な人ですねえ。健一さん、ぼんやりしてる感じなのに、変なところで鋭いですし」

 長い睫毛。恐ろしいほど整った面立ち。利発的な瞳と、しっかり手入れされた艶やかな髪。
 綺麗な人だな、と健一は改めて思う。

「エッチする時も鋭いんですか?」
「いきなり話題が変わり過ぎじゃ……」
「だってデートですよ。普段表じゃ聞けないことだって聞いちゃいます」
「……ノーコメントで」
「えー。ちょっとくらい正直に言ってくれてもいいじゃないですか」
「仮にそうですなんて返したとして、いったい僕にどうしろっていうんですか」
「それなら私ともしてくれないかな、ってお願いしようかと思いまして」

 だから、例え心が弱っていたとしても。
 反射的にびくりとしてしまうのは、逃れようのない男の性なのかもしれなかった。
 一瞬足が止まった健一を、狭霧は静かに見つめてくる。
 やがて再び歩き出し、無言が続く中、意を決して健一が切り出した。

「狭霧さん、確か結婚を約束してる人がいるんですよね」
「はい、そうですね。先日も会ってお話ししてきました」
「なのに僕と、その……したいんですか?」
「したいですよ。興味津々です」

 前後の答えが噛み合っていない気がする。
 聞き間違えじゃなかろうか、と健一は考えたが、腕に伝わる彼女の感触が現実だと告げていた。
 おかしい。
 綾といい狭霧といい、自分の周りには性に奔放な女性が集まりやすいのだろうか。何かそういう類のフェロモンとか発していたりするのか。
 そんな困惑と疑問を見て取ったらしく、狭霧はくすくすと笑って「彼女にしてほしいとか、面倒臭いことは言いませんから。後腐れない身体だけの関係でいいので」と言い放った。フォローどころか明らかな追撃だった。

「むしろその方が余計にまずいのでは……」
「愛と性欲って混同されがちですけど、私は結構別物だと思うんですよ。好きな人となら絶対セックスしたいかっていうと違いますし、ほら、急に何となくエッチな気持ちになることあるじゃないですか。そういう時、健一さんとしてみたいなーってよく考えるので、思いきってお願いしてみようかと」
「……ええと、僕はどう答えればいいんでしょう」
「頷いて、このままラブホテルとかに連れてってくれたらベストですね」
「とりあえずその選択肢は絶対にないです」

 金銭的にも道徳的にも、ついでに言えば年齢的にもアウトである。スリーアウトで人生が終わる可能性もゼロではない。

「でも、元々は健一さんが言ったことですよ?」
「え?」
「結婚相手とは別の人と恋するのはどうかって聞いた時に、いいんじゃないですかって言ってくれましたよね。あ、じゃあアプローチかけていいんだなって」
「……まさかあれ、そういう意味だったんですか?」
「はい。そういう意味でした」

 鈍いですねー、とまた忍び笑いを漏らす狭霧に、健一は苦い表情を浮かべる他なかった。

「私、見ての通り容姿も整ってますし、胸だって中学生にしてはなかなかの大きさですよ。あと、我ながらエッチな欲求は強い方だと思うので、多少大胆な要望にも応えちゃいます」

 自己アピールを始めながら、抱えた健一の腕にぎゅっと柔らかなものを押しつけてくる。ふわりと長い髪から立ち昇る花のような香りと、連日のバイトで染みついただろうコーヒーの匂い。
 あるいは。
 冴子のことがなければ。綾との関係がなければ。
 迷いや躊躇いをさほど感じず、彼女に転んでしまっていたかもしれない。
 けれど、

「さすがに、今は」
「まあ、そうですよね。……じゃあ、元気になったらいいんですか?」
「それはまた別の問題というか……狭霧さんが嫌いってわけじゃないんですけど」
「わかってます。ふふ、やっぱり健一さんって不思議な人ですね」
「そんなに的外れな答えでした?」
「だって、普通あそこは頷くかすぱっと断るかのどっちかじゃないですか。なのに、今は、って。返事は優柔不断そうなのに、たぶん健一さん、本気で言ってますし」

 絡めていた腕を解き、狭霧が少しだけ健一から離れる。
 手繋いでもいいですか、と問われ、首肯した直後、控えめに手のひらが合わさり、細い指先で握られた。
 自分より、ほんの僅かに温かい。
 それが何故か健一には、腕を組んでいた時より有り難く思えた。

「これはこれでデートっぽい感じですよね。初々しいカップルみたいというか」
「何だか妙にデートを強調しますね……」
「学校のみんなと同じようなこと、一度やってみたかったんですよ。結婚相手は年上ですし、一緒に出かけたとしても、きっと健一さんとは距離感から何から違いますから」
「なるほど」
「あ、ちなみに私、処女なので。もし健一さんがしてくれるなら、その時は優しくしてもらえると嬉しいです」

 謎の主張は聞かなかったことにした。
 静かな住宅街を抜け、いつか狭霧とも出会った、流輝がいつもいるバスケットコートのある公道に出る。
 中途半端な時間だからか、車の通りは全く見られず、流輝の姿もない。もしかしたら狭霧は彼に会うためこっちの道を選んだのでは、と思っていたのだが、そういうわけでもないらしかった。
 広い道は西陽が丁度向かいで、暮れかけの光が眩しい。正面から吹く風の冷たさと陽の明るさに、二人揃って目を細める。

「マフラーとか、持ってくればよかったです」
「確かに、首元寒いですね」
「いえ、それもそうなんですけど、ほら、長いのがあれば二人で巻けるじゃないですか」
「あー……あれ、歩きにくくないんですかね」
「意外と平気なのかもしれません。試したことないのでわかりませんけど」
「やってみたいんですか?」
「うーん、それほどでもないんですよねえ。ただまあ、そういう人達を見かけると、すごい恋人っぽいよなあって思ったりしてたので」

 言いながら前を向き、ふぅー、とわざとらしく白い息を吐く。

「健一さんは、冴子さんとそういうこと、してこなかったんですか?」

 唐突な問いかけに、一瞬呼吸を忘れた。
 話題の転換としては、さほど不自然でもないだろう。ただ、冴子の名前を聞くだけで、健一の思考は酷く乱れる。
 どうしてそんなことを、と返しかけ、唇を強く結んだ。代わりに小さく、首を横に振る。
 答えは予想できていたのか、ですよねと狭霧は呟いて、

「実は私、一年くらい前に、冴子さんと会ったことあるんですよ」
「……え?」
「別に何か理由があって黙ってたわけじゃなくて、本当につい最近思い出したんですけど……聞きたいです?」

 返事をしようとしたはずの喉からは、掠れた音しか出なかった。
 それでも繋いだ手に掛かる力を感じて、仕方なさそうな顔で狭霧は言葉を続けた。

「もしかしたら兄さんからも聞いたかもしれませんけど、母さんのお見舞いに行った時です。たまたま病室が近くで、横でお医者さんが話してるのも聞こえたことがあって。もう病院ができることは何もない、あと一ヶ月も保てばいい方だ、なんて言われてて、びっくりしたのを覚えてます」

 狭霧の話は、冴子本人から教わった内容とも一致する。
 合いの手を入れるような空気でもなく、健一は無言で次を促した。

「もうベッドから出られないくらい酷いのかと思ってたら、平然とした顔で廊下を歩いてたんですよね。だからちょっと呼びかけて、休憩所みたいなソファがあるスペースでお話ししたんです。あ、いきなり病気のこと聞いたりはしませんでしたよ。さすがにそこまで失礼じゃないです」
「……どんなことを話したんです?」
「名前とか年齢とか、どうして入院したのか、とか。冴子さんはすごくあっけらかんとしてて、傍から見れば不幸な境遇のはずなのに、信じられないくらい明るくて。何だかまるで、風邪をひいた時の兄さんみたいだなって思いました」
「風邪……ですか」
「ほら、うちって母さんがあんな感じですから、入院する前もやっぱり調子良くないことが多かったんですよ。それに私という妹がいるわけで、ついつい下の子の方が構われるんですよね。お兄ちゃんだから我慢して、みたいな。健一さんは一人っ子です?」
「あ、いえ、大学生の姉が一人います。両親は仕事大好きで全然家帰ってきませんでしたけど」
「それじゃちょっと伝わらないかもですね……。ともあれ、普段は私の方が世話焼かれるんですけど、風邪ひいた時なんかは、母さんがほとんどつきっきりで看病してくれるわけです。だからその時だけは、兄さんだけの母さんだったんですよね。いつもは絶対言わないわがまま言ったり。兄さんが母さんに甘える、唯一の時間でした」

 刻也の妹である狭霧の口から聞いて、健一にも何となく理解できた。
 週に一度、子供が寝静まるより早く帰ってくる方が珍しい両親は、私生活においてはほぼいないも同然の存在だった。姉は姉で絵を描くことにかかりきりな状況が多く、必然的に家事は健一の仕事となっていた。
 誰かに頼れない人間は、半ば強制的に自立を促される。他人の助けを考慮せず、自身の力で眼前の問題を解決しなければならないからだ。
 今なら言える。
 絹川家は、見せかけだけ取り繕われた、どうしようもなく空虚な家庭だった。
 愛もなく枯れ果てて、乾いた泉のような空間だった。
 幻の十三階へと導かれ、皆と出会うまで――ずっと、絹川健一は誰にも甘えられずに生きてきたのだ。
 だからかもしれない。
 冴子に対して、縋るような思いを今も持ち続けているのは。
 きっと彼女にだけは、無条件で剥き出しの心を預けられていたから。

「この人は私よりよっぽど短い人生なのに、誰より幸せそうにしてる。それがわかった時、いつか死ぬことを怖がっても仕方ないなって思えるようになったんです。まあ、勝手に私がそう感じただけなんですけど」
「じゃあ、有馬さんはある意味、狭霧さんの恩人みたいなものなんですかね」
「ですねー。冴子さんと出会わなかったら、もうちょっと厭世的というか、暗い性格になっちゃってたかもしれません。巡り合わせって不思議ですよね」
「……はい。本当に」

 ひとつでも歯車が噛み合わなければ、こうして出会うことはなかった。
 健一と狭霧も。狭霧と冴子も。冴子と、健一も。

「嫌な質問かもしれませんけど、聞いてもいいですか?」
「僕に答えられることなら」
「健一さんは、冴子さんを可哀想な人だって思いました?」

 それは。
 他ならぬ冴子自身に、断言されたことだ。
 恋でも愛でもなく、その気持ちは同情だと。
 可哀想な自分を、守ってあげたかっただけだと。

「いえ」

 違う、と。
 あの時、冴子には言えなかった。否定するほど、自分本位にはなれなかった。
 でも、違う。違うのだ。
 人を求めることの、冴子に抱いていた感情の本質は、そうではない。

「たぶん僕は、有馬冴子さんが、ただ単純に好きだったんです」

 胸の疼きに耐えながら、はっきりと口にする。
 狭霧は静かに笑みを浮かべ、それから握っていた手をするりと解いた。

「今日のデートは、ここまでにしましょう」
「え、いいんですか?」
「それ健一さんが言います? なんか色々話して満足しちゃいましたし、初恋は引きずるってよく言うじゃないですか。なので健一さんの傷が癒えるまで、次のデートはお預けかなって」
「次もする気なんですね……」
「誰だって、いつかは死ぬんですよ。私も冴子さんも、健一さんだって同じです。当たり前なんだから、可哀想じゃないんです。限られた人生の中で、どれだけ満たされたかが、きっと一番大事なことなんですよ」
「……そうかもしれません」
「それじゃ、また。……あ、そういえばもうひとつ、冴子さんについてですけど」

 二歩、健一の前に飛び出した狭霧は、器用に踵だけでくるりと振り返った。
 橙色の光に浮き上がる細身の影が、健一を覆うように包み込む。

「私が病院で初めて見た時、冴子さんの苗字は有馬じゃなかったんです」

 逆光で狭霧の表情はよく見えない。
 けれど何故か、どんな顔をしているか、健一にはわかった気がした。

「ハシバミに名前の名で、榛名。榛名冴子さんが、一年前、私とお話ししてくれたあの人です」

 今度こそ手を振って、狭霧は光の先に歩いていく。伸びゆく影と共に遠ざかる。
 最後の言葉が耳に入った時から、健一はその場に呆然と立ち尽くしていた。
 榛名。
 ――ハルナ。
 それは、かつて夏休みの短い間、健一と『時の番人』を一緒に見つめていた少女の名前だ。
 黒く艶やかで長い髪の、同い年くらいの女の子。
 難しいからわからないと言われた文字。ハシバミ、という字は果たしてどんな字なのか、狭霧に聞いた今でも想像できなかった。
 年齢にしては大人しく、しかしよく笑う明るい子だった。冴子とは似ても似つかなかった。
 でも。
 妙な確信がある。
 榛名冴子は、有馬冴子だ。苗字の変遷に合わせて、彼女もまた、変わったのだ。
 一番欲しかったものは全て、失くした過去の苗字に詰まっていたのだろう。
 ずっと昔に、出会っていた。
 冴子は覚えていたろうか。わからない。真実はもう、誰も語ることができない。
 不意に世界が淡く歪んだ。何も見えない。光がきらきらと乱反射して、健一の瞳を輝きが満たす。
 それが涙だと気付くまでは、随分掛かった。狂おしいほどの求めが胸に広がり、心を支配した。
 ……もし、覚えていたとしても。
 冴子なら、決して自分から言い出しはしない。
 健一が出会い、言葉を交わし、肌を重ね、好きになったのは、榛名冴子ではなく――有馬冴子なのだから。

「う」

 呼吸を思い出した喉が、冷たい空気を肺に落とす。
 沈みゆく西陽の光に背を向ける。狭霧とは逆の、今、帰る場所。冴子のいない、十三階へ。

「わあああああああああああああああああ!」

 自分の全てが、走れと叫んでいた。
 袖で目元を擦り、無茶苦茶に両腕を振り、もつれて転びかけた足で踏ん張り、徐々にしくしく痛み出す左の脇腹を肘で押さえながら。
 幼子のように、冬空へ叩きつけたのだ。










 感情に任せるまま慣れないことをした所為か、幽霊マンションの玄関に辿り着いた頃には随分汗を掻いていた。寒々しい風が服の隙間から内側へ滑り込み、動いて火照った身体を急速に冷やしていく。
 一度足を止めると、さっきまでは忘れていた疲労が襲い掛かってきた。特に太腿、ふくらはぎの辺りが酷い。酷使された気管支がぜえぜえと苦しそうな音を立てている。膝に手を当てて俯き、ゆっくりと健一は息を整える。
 こういう時ほど十三階という存在の不条理さを恨むことはないだろう。エレベーターで一気に行ければ楽なのに、謎の力がショートカットを許してくれない。無駄になるとわかっている以上、どれだけ嫌気が差していても、自分の足で階段を上る以外の手段はなかった。
 手すりに掴まり、一段ずつ踏みしめながら、いったい何をしているんだろう、と思う。
 みっともなく叫んで、走って、へとへとになって。
 こうなると予想できていなかった自分の馬鹿さ加減に、苦笑いが漏れる。

「……誰か、いるのかな」

 無性に、他人の顔が見たかった。
 綾や刻也と、話がしたくて仕方なかった。
 十二階まで来た頃にはもう息も絶え絶えだったが、気力を振り絞ってさらに歩を進め、1301の前で立ち止まる。
 祈るように覗いた玄関に、靴はない。溜め息を残して閉めたドアが、思いの外大きな音を響かせる。
 ふと、気付いた。
 フロア全体が、静か過ぎる。
 有馬第三ビル自体、元が普通のマンションだからか、あまり防音対策は取られていない。十三階の各室はフロアの広さを無視した構造になっている部分も多々あり、1304――綾の部屋はそれが顕著だ。
 普段なら、何かしら金工に関わる物音が聞こえてくる。
 言葉にし難い、嫌な予感に突き動かされ、健一は1304の扉を開けようとした。強く握ったドアノブは捻りこそできるものの、全力で引いても微動だにしない。ガタン、ガタンと硬い感触が阻害している。鍵が、掛かっている。
 外出してるだけだろう。
 そのうち帰ってくる。
 当然の可能性を、何故か飲み込めない自分がいる。理解できない焦燥感を抱え、再び1301へ。今度は靴を脱ぎ、居間まで踏み入る。
 夜の暗い室内、四人座りのテーブル。
 いつも綾の定位置だった場所に、健一の背から来る外の光を反射する、小さな金属物がある。
 駆け寄り、手に取り、目を凝らす。刻印された文字は、確かに、1304と記されていた。
 綾の、鍵だ。

「そんな、っ!」

 信じたくない一心でそれを掴み、靴を履く手間も惜しんで外に出る。鍵の根元を持つ指は震えて、なかなか上手く挿さらなかった。四回目、入る。1303と同じように回そうとして、

「な、なんで、なんで開かないんだ……!」

 差し込んだ鍵が、主人以外の行使を頑なに拒むかのように動かない。
 それでも健一は諦めず繰り返す。何度も、何度も、何度も。
 十三階での生活は、心地良かった。冴子がいて、綾がいて、刻也がいて、一時期ではあったけどシーナが、日奈がいて。本音を言えば、ずっと続けばいいと考えたこともあった。
 誰かが旅立つのを、祝福したいと思う。すべきだと思う。なのに、心は叫ぶのだ。悲しみに暮れる自分を置いて、誰もが大人になっていく。ここから去って、消えてしまう。
 身を裂かれそうな気持ちだった。
 指先が力なくノブから剥がれ、滑り落ちて、刺さったままの鍵が空しく残る。
 認めたくなかった現実が、ようやく健一に追いついた。

 ――綾が、いなくなった。



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何かあったらどーぞ。