1303号室の様子を見て、綾と別れ帰宅してからのことである。
 着いたのがだいぶ遅い時間というのもあり、もう寝てるかもしれないと思ったのだが、外の鍵は施錠していなかった。
 居間の方は明かりが灯っていて、しかも独特のむせ返るような煙草の匂いがする。
 少し臭う、といったレベルではない。扉を開けた瞬間にまず感じたくらいなのだから、 今までにどれだけの量を吸っていたのかがわかろうものだ。廊下分の距離があるにも関わらず、玄関は煙かった。
 健一は嫌な予感を覚え、躊躇しながらそろそろと居間に顔を出す。

「……ホタル、煙草吸ってるの?」
「吸ってるけど、何か文句があるのか?」

 そんな健一の第一声に、蛍子は如何にも不機嫌そうな口調で答えた。
 テーブルの上に乗った灰皿には数えるのも馬鹿らしくなる量の吸殻が積まれており、まだ微かに煙を立てているものもある。
 どれも長く、ほとんどはあまり吸わないうちに火を揉み消したらしい。灰色の燃え滓が少ないのはそういうことだからだろう。
 空き箱も床に山と投げ捨てられ、最早この光景は惨状と言う他ない。

 絹川家で煙草を吸うのは蛍子だけだ。両親共々全く駄目で、吸う時はベランダで、と厳命していた。
 それは両親が留守にしがちの現在も暗黙の了解として認識されているはずだったのだが、 健一が知っている限りはおそらく初めて、そのルールを蛍子は破っている。
 呆れを顔に出さないように、健一は床に転がった空箱を拾い始めた。換気のため窓も開ける。
 箱だけでも一ダース超はあり、それはつまり、吸殻が百本以上であることを意味する。

「夕御飯は食べたわけ?」
「食べてないに決まってるだろう。作るはずのお前がさっきまで帰ってこなかったんだから」
「……遅くなるって言っただろ」
「私はどんなに遅くなっても絶対帰ってきて作れと言った」

 何故、こうも頑ななのか。健一には理解できない。
 腹が減ったなら自分で作ればいいじゃないか。わざわざ人に作らせる必要がどこにあるんだと思う。
 苛立ちを内に秘めた健一を一瞥し、蛍子は最後の一本をぐりぐりと灰皿に押し付け、立ち上がった。

「どこ行くんだよ」
「洗面所。歯を磨くから、その間に唐揚げを作れ」
「そんな早くはできない」
「じゃあ風呂にも入る。これ以上の譲歩はしない。絶対だ、いいな?」
「……わかったよ」

 一方的にそう告げ、蛍子は不機嫌な表情のまま風呂場へ向かう。
 こうなった姉はもうどうしようもない。そもそも端から、まともな話ができるはずはなかったのだ。
 仕方なく冷蔵庫を開け、材料の確認をする。米だけは炊いてあるようで、あとは肉の下拵えと油を敷いた鍋の加熱をすればいい。
 他に選択肢もなく、沈んだ気持ちで健一は唐揚げの調理を始めた。



 蛍子が風呂から上がる頃には、遅過ぎる夕食はあらかた完成していた。
 まだできたばかりであることを照明するように、盛られた唐揚げや味噌汁、白米がゆらゆらと湯気を立てている。
 最後にレモンを四分の一に割り、錯覚でなければ幾分落ち着いた風の蛍子に小皿とセットで出す。
 平坦な声でいただきます、と呟き、蛍子は黙々と食べ進めた。まず味噌汁を軽く啜り、 具の豆腐と油揚げを箸で摘まみ口に運ぶ。無言で唐揚げを丸ごと一口、しばらく咀嚼してから茶碗の白米を減らしていく。
 その様子を眺め、小腹が空いた健一も一つ二つ唐揚げを取って食べた。いつも通り、充分及第点が出せる味だ。
 しかし蛍子は健一に労いの言葉を掛けることもなく、作業めいた雰囲気で着々と料理を消化する。
 今の絹川家を象徴するような、会話のない、冷めた空気の食事風景。
 それを崩したのは蛍子のひとことだった。

「今日のお前は何か違うな」
「……何がだよ」
「普段ならもう少し私に文句を言ってるだろう。有り難く思えとか、女なら料理くらいしろとか」

 確かに、座ったり煙草を吸ったりしているだけで何もしない蛍子によくそういうことは言っている。
 今日に限り、というわけではないが、文句を口にしない日の方が珍しい。
 蛍子は箸を一度置き、何かを見定めるように健一の顔をじろりと見た。

「帰りが遅くなったのと関係があるな」
「……そりゃまあ、関係あるっちゃあるけど」
「ふうん……」

 無遠慮な視線に晒されながら、健一は帰ってくるまでの出来事を思い出した。
 公園のオブジェで拾った不思議な鍵。道端で倒れていた女性、桑畑綾との出会い。 幽霊マンションの、存在しないはずの十三階と、自分が新しい住人であるという説明し難い事実。そして、

(僕は、綾さんと……)

 状況に流された。襲われて理性が持たなかった。言い訳はいくつも考えられる。
 でも、知り合って半日も経ってない相手とエッチをしてしまったのは、動かせない現実だ。
 ふと今更になって綾の白い裸体や豊満な胸、柔らかい肌触りが脳裏に浮かび、慌てて掻き消す。

「女でもできたのか?」

 が、蛍子はそれを許してくれなかった。あっさり確信を突かれ、 まるで思考を読まれているかのようなタイミングの良さに健一はぴしりと固まる。そしてこの場合、健一の過敏な反応は答えも同然だった。

「ほう。どうやら図星のようだな。その様子だと、かなり関係は進んだと窺えるが」
「……な、ななな」
「なるほど。それで私をこんなにも待たせる愚行を犯したのか」
「あ、うぅ……そういうのって、見ただけでわかるわけ?」
「まあな。特にお前は顔に出やすい。調子に乗って何度もしてきた、って書いてある」

 最早言い返す気力も持てず、健一は小さく唸って俯く。

「女の勘と観察力を嘗めて見ると痛い目に遭うぞ。今回は若さ故の過ちということで大目に見てやるが、 二度目はないと思え。優しい優しい姉からの忠告だ」
「ぐ……」

 その言葉を皮切りに、食事を終えた蛍子は流し場に食器を放り込み、再度洗面所へ向かった。
 歯磨きのしゃかしゃかという音を聞きながら、健一も使った食器と夜食の残りを片付ける。 余った唐揚げは小皿に移し、ラップを掛けて冷蔵庫に。野菜も同様で、保温を切った白米は後で適量に纏め冷凍庫へ詰め込む。
 皿を洗うのも、健一にとっては日課めいた作業だった。どんなに少量であっても、蛍子は絶対に後始末をしない。
 最初から最後まで、食事に関することはいつの間にか健一の領分になっていた。
 無心でスポンジを握り、油汚れと格闘しつつ健一はふと考える。
 綾との関係を、人物の特定こそされなかったものの (もしそこまで見破られていたら健一は蛍子をエスパーだとしか思えなかっただろう)呆気なく気づかれてしまったのは、 果たして蛍子の勘が特別鋭かったのか。それとも、いみじくも言葉通り、女性ならみんなわかるものなのか。
 例えばの話だ。有り得ない仮想だけれど、健一に彼女がいたとすると――

「……うわ」

 嫌な想像に、怖気を感じた。
 よくドラマで、浮気のバレた夫が妻に刺される、という状況を見るが、それは大袈裟だとしても、 相手を傷つけるのは間違いないだろう。綾との行為後も、たぶんもっと罪悪感を抱いていたと思う。
 今更ながらに鬱屈とした感情が湧いてきて、健一は顔を情けなさそうに歪めた。
 そこでつい手の力も抜け、つるりと茶碗が滑り落ちる。幾分控えめな破砕音が響き、健一専用のそれは見事に二分割された。
 耳聡く割れた音を聞き、歯ブラシをくわえた蛍子が飛んでくる。
 まずショックで口を半開きにした健一に視線をやり、次に流し場を覗き込んで、

「私は別に困らんが……明日買って来い。手を切らないように処理しろよ」

 破片には触れもせず洗面所に戻った。
 健一は盛大な溜め息を吐き、また一つ増えた面倒事に対処するべく、濡れた手で新聞紙を取りに行った。






 翌日、千夜子は危うく遅刻しかけた。
 理由は単純だ。今日のことを考えて悶々とし、なかなか夜眠れなかったのである。
 その割にどこかですっと意識が落ち、気づけば目覚ましを盛大にスルーして起床時刻は普段より三十分遅かった。
 しかも父は早くから仕事、兄の悟もちゃんと起きられたのか大学で千夜子より先に家を出発しており、 肝心の母親は何故か今日に限って千夜子と同じようにぐうすか寝ていた。こんな時に親子で似ないでもいいのにと思うが、とにかく急ぐ必要があった。
 朝食は本当に簡単な、焼いたトーストとジャムに牛乳をコップ一杯。 オーブンでこんがりとトーストが焼き上がるまでの間、着替えの準備と時間割の確認をする。 五分で食事は済ませ、時間がないとわかっていたが風呂には入った。千夜子とて女の子だ、 人目は気になる。しかも勝負日なのだからなるべくきっちりしておきたい。
 鏡と向かい合ったら寝癖が見つかったので髪を洗うついでに整え、時間が許す範囲で身体も丁寧に磨く。 最近また胸が大きくなったなあ、とふにょふにょ触り、少し憂鬱になりながらも入浴はどうにか十分弱で終了、 バスタオルで肌の水気を拭き取り、ショーツとブラジャーだけ先に着け、髪をドライヤーで乾かす。
 自室に戻って、予め出しておいた制服を着れば、後は最後の一つ。お気に入りの髪留めで長く垂れた黒髪を左右に結わい、 時計を見ると走って行けば何とか間に合いそうだった。
 鞄を掴み、このまま寝かせるべきかどうか少し迷ってから、母を起こす。
 寝惚け眼で千夜子の姿をしばしぼんやりと見つめた母、大海久美子は、力ない動きでいってらっしゃいと手を振った。

 極端に早い、というわけではないが、普段千夜子はかなりの余裕を持って登校している。
 そのため、多少家を出るのが遅れても、完全に遅刻とまではならなかった。これがツバメならまず出席確認には間に合わない。
 担任がホームルームを始める僅か一分前に息を切らせて千夜子が教室に入ると、何やらきょろきょろと視線を彷徨わせていたツバメが驚いた目で千夜子を見る。

「え、嘘、千夜子今来たの?」
「……そ、そう、だけど」
「千夜子が遅刻寸前に来るなんて、今日は雪でも降るんじゃ……あ」

 そんなことを言いながら、ツバメは途中で遅刻の理由に気づいた。
 千夜子の目の下に、ぱっと見ではわからないほどうっすらとだが、青黒い色が浮かび上がっている。
 まさか、とまでは口にしなかった。ツバメにも経験がある。それも一度や二度どころではなく、両手の指で数え切れないほど。

「……そうよね、今日は大事な日だもんね」
「もしかしてツバメ、忘れてた?」
「ちゃんと覚えてるわよ。とりあえずは昼休み、手筈通りに。ね」
「……うん」

 消極的な声色に、ツバメは少し不安を覚える。
 自分にできるのは、きっかけを与えることだけだ。そこからは千夜子が頑張っていくしかない。
 あと一つ二つアドバイスをしようと唇を開きかけたところで、教卓側の引き戸から担任が姿を現した。
 教室の生徒に着席を促し、出席が取られる。ツバメは『鍵原』なので千夜子より遅く、健一より先に呼ばれた。 なので適当に返事をした後、若干離れた席に座っている健一に視線を向けた。
 クラスメイトの中でも、健一はどちらかと言えば美形に分類される側だ。面立ちは綺麗に整っており、 例えば学校一の優等生と呼ばれる同級生、八雲刻也とはまた違った外見をしている。 しかし普段はまるで目立たず、奇抜な行動をして教師に注意されるわけでもなく、 成績や運動神経といったものも特別他人より優れてはいないようで、友人らしき男子と話している姿は、どこにでもいる高校生にしか見えない。
 しかし、なるほどよく見れば、健一はどこかおかしかった。具体的に挙げるのは難しいが、頬杖を付く彼の視線は窓の外を移ろい、 時折担任に戻してはまたふっと遠くの空を眺める。
 簡単に言うと、変な奴、なのだった。

(どうしてこんなぼーっとしたのを好きになったんだか)

 恋多き女、鍵原ツバメの目には、ちっとも魅力的に映らない。
 それは親友たる千夜子の想い人だからかもしれないが、単純に、好みじゃないからだ。
 美形なだけで相手を好きになっていたら、週一ペースで告白しても足りない。
 もっとも、千夜子が今のツバメの思考を読み取れたなら、 イケメンだからって理由で会った翌日告白した回数もいっぱいあったでしょ、と冷静に突っ込まれただろうが。
 ふと横を見れば、千夜子の視線もツバメと同じように健一を捉えていた。そこに込めた感情は、全く別物だが。
 頑張れ千夜子、とツバメは心の中でエールを送った。



 四時限分の授業を滞りなく終え、健一は自分の席で弁当箱を広げようとした。
 いつもはだいたい一人、あるいはそれなりに仲の良い男子と食べるくらいで、今日は前者。 外に出ようとも思わず、周囲を気にすることもなく包みに手を掛けようとし、そこで不意に背後から声を掛けられ驚く。
 振り向くと、クラスメイトの女子が二人いた。一応、名前を知っている二人だ。
 ねえ、と強めの口調で話しかけてきた方が鍵原ツバメ。クラス内でも恋多き女として有名な、 正直進んで関わりたいとは思わない人物である。そしてもう一人、ツバメの後ろで肩身狭そうに縮こまっているのは、 確か、大海千夜子。健一はあまり、というか全く話したことがないが、大人しく控えめな女の子だという印象を抱いている。
 健一の脳裏に巨大な疑問符が浮かんだ。どうして自分に声を掛けてきたのか、それがさっぱりわからない。
 状況がよく理解できず首を傾げる健一に、ツバメは机の上に置かれた包みをちらりと見てから言った。

「絹川、ちょっと私達と一緒に来てくれる?」
「……はあ。でも僕、これから弁当を食べようと思ってたんですが」
「ならそれも持って付いてきて」

 ツバメが睨むような目付きをしていたので、逆らうのは得策じゃないと健一は躊躇い半分で頷く。
 申し訳なさそうに頭を下げる千夜子とは反対に、ツバメは何故か機嫌良さそうにしながら健一を教室から連れ出した。
 まばらに生徒の行き交う廊下を抜け、人気の少ない場所まで移動すると、めぼしい位置を見つけたのかそこで腰を下ろす。
 流されるまま健一も座り、隣に並んだ千夜子がぺこりと相変わらず肩身狭そうにお辞儀したので頭を下げ返す。
 疑問はさらに膨らみ、その場でツバメが懐から取り出した弁当箱を開けたところで頂点に達した。

「あの……」
「何?」
「僕は何でここに連れて来られたんですか?」
「あれ、言ってなかったっけ。絹川が寂しそうにしてたから、三人でお弁当でも食べないかって」
「全然聞いてないんだけど……」
「まあいいじゃない。どうせ一緒に食べる相手なんていなかったんでしょ?」
「それは、そうだけど」
「……すみません、絹川君。ツバメが強引に連れてきちゃって」

 ふと、それまで俯き口を閉ざしていた千夜子が喋った。
 ツバメと比べれば小さくか細い声だったが、本当に申し訳なさそうにしているのが伝わり、健一はいえ、と返す。
 瞬間、健一の死角でツバメが握り拳に親指を立て千夜子に見せていたのには気づかなかった。

「……もう、ツバメったら」
「何か言いました?」
「あ、いえ、何でもないんです。……よかったら絹川君も、私達と一緒に、ご飯、食べませんか?」

 千夜子としては、今の申し出が精一杯だ。
 言って、気分を損ねてしまわなかったろうかと恐る恐る健一の顔を窺う。v  健一はしばし考える表情を見せ、それから、

「わかりました。ここで断るのも何ですしね。でも、そっちこそ僕なんかでいいんですか?」
「そ、それはもう、絹川君さえ迷惑じゃなければ私は全然気にしませんから! ……って、すみませんいきなり大声出しちゃって」
「いえ、むしろ僕の方こそ邪魔にならないかなあと」
「……私は見事に無視ですか」

 案の定と言うべきか、お見合いめいた形で頭を下げ合う二人に、ツバメの冷えた言葉が届く。
 慌ててシンクロした動きで姿勢を戻し、まだ少し固い空気の中、結局三人で昼食を摂ることになった。
 いい加減腹の虫が鳴りそうだった健一は、手早く結び目を解き自前の箸を持つ。
 蓋を開ければ、温かさこそ失われたものの未だ香ばしい唐揚げの匂いが鼻に入り、横の二人から感嘆の声が上がる。

「うわ、絹川それすっごいおいしそう」
「別にそんなすごくはないと思うけど」
「お母さんが作ってくれたんですか?」
「あ、いえ。両親共に料理はできないんですよ。仕事でほとんど家は空けてますし」
「じゃあ誰が作ったのよ」
「えっと……僕なんですが」
「嘘、絹川料理できるの!?」
「誰も作らないから、気づけばできるようになってたって感じです」
「それはすごいですよ。私なんて、全然です」

 千夜子の発言を聞いて、健一は意外に思った。
 何となく、料理ができそうなイメージを持っていたからだ。
 その後、他愛ない会話をしながら昼食を平らげ、健一に少し遅れて二人も食べ終わる。
 ちょうど、そろそろ昼休みも終わりそうな時間だった。

「……それじゃ、教室に戻りましょうか」
「あ、あの、絹川君」
「はい、何でしょ?」
「もし……もし良ければ、なんですけど、暇があったら、これからも一緒にお昼を……」
「え、それはつまり……明日からも同じように、ってこと、ですよね」
「そう言ってるじゃない」

 ツバメの冷静な突っ込みで幾分頭が冷え、だが今度は妙な状況に困惑する。
 思わず反射で何かを言いかけ、千夜子が不安そうな顔をしているのに気づき自制した。
 無言でどうなのよ、というような視線を向けてくるツバメは迂闊な言動をすれば即座に噛みついてきそうで、 安易な返答はできない。時間が押している中、かなり真剣に健一は悩み、

「……迷惑じゃなければ」

 そんな結論に辿り着く。実際、彼女達との一時は決して悪いものには思えなかった。
 逆に一人だけ混ざった男の自分が場を白けさせていないかと心配になるくらいだ。 歓迎してくれるのなら、明確な断る理由もない。少々口が回り過ぎるツバメの過剰な元気さはともかく。
 なんてことを考えていると、予鈴のチャイムが響いてきた。

「それじゃ、戻りましょうか」
「はい」

 健一の言葉に千夜子が頷き、自然、三人で歩き出す。
 ツバメが先頭に立ち、その後ろを健一、僅かに離れて千夜子が付いてくる形になる。
 どうして二人は一緒に行かないのかと疑問に思ったが、特に他意はないんだろうと健一は納得した。
 階段を上がり、教室に戻ったところで、時計の針は次の授業まで残り三分の位置を指していた。
 同じクラスなのに別れの挨拶をするのも変かと思い、軽く手をひらひらと振って自席に座った健一は、何となく千夜子を見る。
 彼女は鞄から教科書とノート、筆記用具を取り出し、時計に目をやって、それから健一の方に小さく首が動いた。
 僅かな間、視線が絡み合う。先に逸らしたのは千夜子だった。恥ずかしそうに頬を染め、正面に向き直る。
 釣られて健一も恥ずかしくなり、結局昼食に誘われた理由はわからないまま授業を受けることになった。

 ……何だかんだで、健一は少しばかり、浮かれていたのだ。
 千夜子とツバメの行動の下にある、その思惑には全く気づきもせずに。

 ちなみに、ツバメ的には今日の千夜子の点数は七十点。
 もう少し積極的な方がいいと思うんだけど、千夜子ならこれでも充分なくらいよね、ということらしい。
 とりあえず、当初の目的――友達とは行かないまでも、話をする間柄にはなれたのだった。

「絹川君と、お話ができた……あう」

 今度は嬉しくて眠れなかったのだが、きちんと起きられたのでツバメに悟られることはなかった。










 今日の社会不適合者綾さん(瀬戸の花嫁風に)


「……ん? あれ、確か日が変わる前に私パーツを運んでる途中で倒れて、 そこで健ちゃんにまた助けられてチャーハンを作ってもらうんじゃなかったっけ。 しかもその時私がエッチした後の告白の返事を迫ったりするはずなんだけど。どうしてカットされてるのかな。 それとも次に書いてくれるの? ならいいんだけど、次回その辺の出来事が二、三行で片づけられそうだよね。 (前略)〜だったのだがそれはさておき、みたいな。あ、そういえば今の、私どうやって発音したんだろう。 良くさ、物語の中で登場人物が記号を台詞内で言ってたりするけど、あれって実際聞いたらどんな感じなのかな。 私はほとんど本とか読まないけどね。だってほら、いっつもは物を作るので忙しいし、 一段落したらご飯食べないといけないし、買い物にも行く必要あるでしょ。 工具もあんまり使ってると駄目になっちゃうから、その都度買い足さなきゃならないし。 それに私、外出るとすぐ迷子になっちゃうから遠出もできないんだ。あ、そうだ、今度健ちゃんに付き合ってもらおうかな。 一緒ならふらふらしても止めてくれるよね。そうなると自転車修理しないと……」
「……綾さん。何もない空間を見つめて、今回はどんな奇行をしているのですか」
「あ、管理人さんだ。いやね、忘れられてないかなあ、って思って、アピールしてるの」
「意味がわかりません……」
「管理人さんもやらない?」
「やりません」
「えー」



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何かあったらどーぞ。