通常の面会時間を終えた夜の病院は、主だった電灯が消えている所為で薄暗い。非常口の淡い緑色をした明かりと、消防設備のランプが示す微かな赤い光。その中では受付だけが白く塗られたように眩しく、どこかこの世の場所ではないようにも思えた。
 夜間用の面会カードを受け取って首に下げ、すぐ近くにあるエレベーターのボタンを押す。鈍い駆動音が迫り、扉が開いた。刻也と二人、目当ての階に向かう。
 昇り行くまでの短い間、健一はタクシーでの会話を反芻する。
 刻也が冴子の病気を知ったのは、ほぼ一年前だという。彼の母である桔梗が入院した際、たまたま同じ病院にいた彼女の病状について耳にする機会を得た。
 ただしそれはあくまで人伝、直接ではない。結局刻也は冴子の入院姿を見たことがなかったし、確かに一時期学校を休んでいたものの、何事もなかったかのようにまた登校していたのだから、単なる噂話だったのかもしれないと結論付けた。
 あるいは、そう思いたかっただけだろうか、と。
 俯きがちに呟いた刻也の苦い表情が、健一の脳裏に焼きついている。
 この一件に関しては、日奈にも連絡を試みた。夜も遅いし、あまり積極的に自分から掛けるつもりはなかったのだが、今は緊急事態だ。強く握り締めたPHSのアドレス帳から日奈の番号を呼び出し、反応が来るのを待った。十秒、二十秒待ち続けたが、声が返ってくることはないままだった。
 留守番電話の設定もしていないのか、もしくは何か回線に問題があったのか、伝言さえ残せなかったので、履歴に気付いてくれるのを祈るしかない。もっとも、病院内では電話禁止だ。PHSの電源を切らなければならない以上、折り返しがあったとしても、ちゃんと連絡を取れるのは面会が終わってからになる。
 エレベーターが停まり、開いた先のエントランスに足を踏み出す。やはり周囲は薄暗く、空気もひんやりとしていた。歩くと踵がリノリウムの床を叩き、こつん、こつんと靴音を響かせる。足裏からの反発で、そのまま身体が浮いてしまいそうだった。
 現実に対する実感がない。
 そう思いたかっただけだろうか、と刻也は言った。
 健一も同じだ。この状況を認めたくない自分が、心の中で頑なに瞳を閉じ、耳を塞いでいる。
 だって、昨日も冴子は笑っていたのだ。
 当たり前のように。
 一緒にご飯も食べた。二人でコーヒーも飲んだ。眠れなかった彼女とセックスもした。穏やかな寝顔をひとしきり眺めてから自宅に帰る時、明日も続くのだと信じて一切疑わなかった。
 どうして、と自問する。
 わからない。
 どうしてこんなことに、なっているのか。

「健ちゃん、管理人さん」

 教えられた病室の前に、中背の人影が見えた。最近では逆に珍しい、白衣姿の綾だった。
 日常生活ではどこかおかしな服装でも、病院という非日常の空間では逆に自然な風に思える。ともすれば医師か看護師か、何がしかの医療関係者と勘違いしかねない格好だ。裾や袖先には微かに絵の具らしき色が散っていて、おそらく作業着のまま出てきたのだろう。それもまた、現状の深刻さを如実に表している。
 健一と視線を合わせた綾は、何かを口にしかけ、しかし躊躇うように唇を結んだ。
 いつもは眠たげな瞳が、悲しげに揺れている。

「美佐枝さんは?」
「中にいるよ。ふたりきりにさせてほしいって」

 以前も聞いた、冴子の母の名前。
 彼女が倒れたというのなら、真っ先に話が行くのは両親だろう。当然だと思う。思いながら、健一はぎゅっと左胸を押さえた。
 息苦しい。喉にせり上がってくる感情を、努めて飲み込む。
 気遣うような綾の眼差しに、小さく首を横に振って応える。

「……綾さんは、知ってたんですか? 有馬さんの、病気のこと」
「うん」

 絞り出した声は、震えていた。
 だから余計に、綾の返事ははっきりと聞こえた。

「八雲さんも、知ってたんですよね」
「ああ。……すまない、君も有馬君から教えられていると、当然のように思っていたのだ。私とて、無闇に口にしたい話ではなかった。特に彼女の前では」

 人知れず握った右拳が、ぎり、と軋む。
 爪先が手のひらに食い込み、鋭い痛みが走る。が、健一は力を抜かない。抜きたくない。
 その刺激がなければ、何を叫んでしまうか自分でもわからなかったからだ。
 刻也も、綾も、知っていた。
 健一だけが知らなかった。
 日奈はどうだろう。知らなかったかもしれない。けれど、少なくとも今この場では、健一だけが仲間外れだった。
 何故冴子は、自分に病気のことを言わなかったのか。
 それが酷い裏切りのように感じられて、隠されていた理由が理解できなくて、さっきからずっと胸がじくじく膿んでいる。

「有馬さんの、病気っていうのは」

 なけなしの理性を以って問う。
 刻也は静かに息を吐き、

「私も、詳細な病名までは聞いていないが……かつての話が確かならば、有馬君は一年前に死んでいたはずだった」
「……え?」
「これまで、生きていたことが奇跡だったのだ」

 一瞬、世界が真っ白になった。薄暗い病院の廊下も、固く閉ざされた病室の扉も、正面に立つ綾も右横に並ぶ刻也も、全てが健一の意識から消失した。苦しげに発されただろう言葉の断片から、僅かな意味だけが頭の中に滑り落ちてくる。
 一年前。健一と出会うより前。冴子が死んでいたはずだったのだとしたら。今は何なのか。ここにいるはずの冴子は。健一が知っている彼女は。死人ではなかった。生きていた。間違いなく生きていた。手が冷たくても。重ねた肌は温かかった。血が通っていた。何度も触れた。声を聞いた。ありのままの彼女を見た。見ていたはずだ。それなのにどうして。どうして。思考がまとまらない。わからない。わかりたくない。教えてほしかった。そうでなければ知りたくなかった。他人ではなかった。家族だった。そう思っていた。思いたかった。いやだ。信じられない。信じたくない。何も――考えたくない。
 膝から力が抜ける。崩れ落ちそうになった身体を、横合いから刻也が支えた。
 血の気の引いた顔で、健一はゆっくりと刻也を見る。

「今、こんなことを君に言うのは酷だと思う。だが、どうか覚悟しておいてほしい」

 何を、とは訊かなかった。
 冷静になれない頭でも、その程度は読み取れた。
 目を伏せた刻也が、健一から視線を逸らす。釣られて同じ方を向くと、綾が二歩を詰めてきていた。右肩を支える力がなくなり、代わりに正面から優しく抱き締められる。首筋に垂れ下がる髪が鼻をくすぐった。シャンプーの香り、日常を思い出す感覚に、少しだけ意識が現実へ浮き上がる。

「辛いよね。苦しいよね。どうしたらいいのか、わからなくなっちゃうよね」

 後ろに回った手が、ぽんぽんと優しく健一の背中を叩く。

「私や管理人さんのこと、今は考えなくていいよ。だからその分、冴ちゃんのことを考えてあげて。ちゃんと、言葉を聞いてあげて」

 密着した胸から、強い鼓動が伝わってくる。
 まだ心の余裕はない。けれど、綾が震えているのはわかった。
 辛いのも、苦しいのも、自分だけではないはずなのだ。
 にもかかわらず、こちらを案じてくれている。

「それだけは、お願い」
「……はい」

 頷くと、綾はそっと身を離した。
 ぬくもりの名残が、冷たい廊下の空気に溶けて消える。
 そのタイミングを見計らったかのように、病室の扉が静かに動いた。

「絹川さんはいますか?」

 開いた隙間から、すっと人影が現れた。
 冴子の母――有馬美佐枝。
 前に幽霊マンションの一階ですれ違ったと、日奈が興奮していたことを思い出す。口元のほくろはかつて聞いた特徴とも一致するし、よく見れば彼女の面影は、確かに冴子にも見て取れた。
 ただ、決定的に違う部分がある。
 健一が冴子に対し感じ続けていた、今にも消え入りそうな儚さが、彼女にはない。

「はい。僕が絹川です」
「……娘が、あなたと話したいと」

 声には張りがなく、背筋も若干曲がっていたが、健一を呼ぶ言葉ははっきりと聞こえた。
 わかりました、と頷き、綾と刻也を順に見る。
 無言の肯定が、最後の覚悟を健一に与えた。
 反射的に右手で左の手首を握る。大丈夫。震えていない。するりと廊下に出た美佐枝と入れ替わるように、健一は病室に踏み入った。
 室内は、廊下以上に闇が深かった。
 上階の個室だからか、それなりに広い部屋の奥に大きなベッドがひとつだけある。カーテンの仕切りは端で止められており、廊下側から入り込んだ僅かな光が、月明かりめいた白色でぼんやりと冴子の顔を照らしている。

「……絹川君?」

 気配に反応した冴子の声量は、普段よりさらにか細かった。
 それでも静か過ぎる室内では、殊の外よく響く。

「そっち、行ってもいいですか?」
「……うん。私、動けないから」

 後ろ手で扉を閉め、距離を詰める。窓も開いていないのに、冷たい空気が頬をぞわりと撫でた。
 廊下からの明かりも途切れると、光らしい光は枕側の近くにあるいくつかの小さなランプだけだった。重病人と聞いて思い浮かべるような、点滴も心電図もない。本当にただベッドに横たわっているという状況だ。
 1303でも、冴子はほとんど自分の物を持ち込まなかった。衣類と財布、ボストンバッグ、学校の鞄。拠点を定めてからも、どこか地に足が付いていないところがあった。
 この病室の殺風景さは、冴子らしい。冴子らしく、生気に欠けている。
 枕元まで来て、暗がりにいる冴子を健一は見下ろした。
 うっすらと浮かび上がる姿は、昨日とまるで変わりないように感じた。

「来てくれないって、思ってた」
「……どうして、そう思ったんですか?」
「病気のこと……ずっと黙ってたから。怒ってるんじゃ、ないかって」
「怒ってないですよ。もっと早く言ってくれればとは思いましたけど」
「そうよね。絹川君は、そういう人よね」

 ふふ、と微かに息を吐く音。
 希薄過ぎて、笑ったのかどうかも定かではない。

「人より沸点高い自覚はあります」
「うん。知ってる。……なのに、なんで絹川君が、怒ってるだなんて、思っちゃったのかな」
「後ろめたかったり、したんですか?」
「どうだろう。わからないわ。ずっと、言わないままでいられたら、よかったんだけど」

 ひとりごとのように呟いて、また一息。
 長く喋る体力がもうないのか、あるいは考える時間が必要だったのか、次の言葉までは間が空いた。

「……こうなる前に、話せなくて、ごめんなさい」
「謝る必要なんてないですよ。それより、ちゃんと話してくれるんですよね」
「ええ。怒ってくれても、いいから」
「怒らないです」
「うん」

 徐々に暗闇にも慣れてきた目が、瞬きで揺れた冴子の睫毛を追う。
 かさついた唇で、冴子が途切れ途切れに話し始める。

「本当は、去年の冬には、死んでるはず、だったの」

 刻也の口から同じ単語を聞いていなければ、この場でくずおれていたかもしれない。
 僅かばかりできていた覚悟が、辛うじて健一の足を地に縫い付けていた。

「私は鈍感だって、前に言ったこと、あったよね」
「……はい」
「初めは、気の所為だって、思ってた。ときどき、胸やお腹が痛んだけど、お母さんに心配、掛けたくなくて、我慢してたの。五分か十分、耐えれば痛みは引いたし、何度もやってるうちに、我慢の仕方が、わかってきたから、うずくまったり、することもなくなって。なんだ、大したこと、なかったんだって」

 それは。
 約束された、今に続く破滅の話だ。

「でもね、結局、我慢、しきれなくなって、倒れちゃって。救急車で、病院に運ばれたらしいけど、気付いた時には、ベッドの上だった。起きたら、お母さんが、ナースコールをして、お医者さんが来て。手遅れだって、診断されたわ」
「………………」
「ここまで進行してたら、常人ならまず、痛みに耐えられないって、お医者さんは、言ってたわ。延命しても、一ヶ月が、限度だって。でも、不思議とショックは、なかったの。だって、入院してからの私は、今までの人生で、一番、幸せだったから」

 また冴子は笑う。
 淡い記憶を呼び起こすように。

「母子家庭で、お母さんは、いつも、忙しそうにしてた。お仕事で帰りも、毎日遅かった。だけど、風邪をひいて、学校休んだ日は、一日お母さんが家にいて、看病してくれた。それが、申し訳ないけど、嬉しくて。入院してからは、本当に毎日、面会時間ギリギリまで、お母さんはそばに、いてくれたの。お仕事の邪魔、してるのは、わかってたけど、もう長くないって、言われたんだもの。最期の時間くらい、お母さんを独り占めしても、罰は当たらないって、思った」

 一息。

「死ぬのは、怖くなかった。その時まで、お母さんが、一緒にいてくれるなら、それだけで、よかった。二人だけの世界で、閉じていれば、幸せだった。……うん。私は、きっと、幸せで、居続けたかった」
「……だけど、そうじゃなかったから、こうなってるんだよね」

 酷い反証だ。
 健一との出会いも、この瞬間でさえ。
 本当の意味で冴子の幸せには繋がり得なかったからこその結果だというのだから。

「元々、お父さんは、私の存在も、知らなかった。お母さんは愛人、だったから、妊娠が発覚した時、黙って、一人で育てるって、意地を張ってたの。それなのに、私を助けたいって、ありもしない、希望を求めて、お父さんに、頼った。無理なのに。助かるわけ、ないのに。相談されたお父さんは、私を認知して、血縁の手続きもして、できることは何でもするって、お母さんに、約束したわ。お父さんが助けてくれる、一緒に暮らしてくれるって、お母さん、嬉しそうに、私に教えてくれた」

 ――裏切られたって、思ったわ。
 抜き身の刃物を想像させるほど、鋭く冷え切った声色だった。

「お料理が得意じゃない、帰りの遅い、お母さんのために、ご飯を作るのが、好きだった。最初は、上手くできなかったけど、お母さんのためなら、がんばれた。喜んでくれるなら、学校も、友達も、全部、どうでもよかった。片親だって、愛人の子だって、私を馬鹿にする子も、私を通して、お母さんを馬鹿にする親も、関係なかった。お母さん以外、私は何にも、要らなかった。要らなかったの」

 盲目的な少女は、しかして己が過ちを知る。
 自身の存在が母を父から遠ざけたのだと。
 人は皆祝福されて産まれてくるなんて、真っ赤な嘘だ。今がどうであれ、その時彼女は決して望まれていなかった。母を不幸にし、父には誕生も知らされず、両親の愛さえ歪なこども。唯一の寄る辺にも理解されない、可哀想な一人娘。
 幸福とは、専ら個人の認識の上に成り立つものだ。
 そしてその形は、必ずしも共有し得るわけではない。
 誰かの幸福が、誰かの不幸と繋がることもある。
 冴子の母は、確かに娘を愛していたのだろう。でなければ手厚く面倒を見ることもしない。しかし、有馬十三に相談した時、全く打算はなかったのか? 一から十まで娘のために決めたことだったのか?
 冴子にとって重要なのは、当人にしかわからない真実ではなかった。自分にとって、どうなのかだ。
 証明できない曖昧な“愛”というものを、冴子はもう、信じられなくなったのかもしれなかった。

「お父さんは、自分の伝手で、優秀なお医者さんと、立派な病院を、探したわ。でも結局、何も、できなかった。何もできないまま、唐突に、私は元気になった。病状は変わらない、手遅れって、言われた状態の、ままなのに、ベッドから起きて、歩けるところまで、回復したの。理由もわからないうちに、退院することに、なって。お母さんにも、甘えられなくなった。すぐ死ぬから、わがまま言ってもいいんだって、そう、思ってたのに」

 長く喋り続ける体力もないのか、冴子は一旦言葉を止め、浅い呼吸を繰り返した。
 健一は、ただじっと待っていた。
 彼女の話を聞くことが、今の自分に与えられた大切な役目なのだと思った。

「……退院したけれど、病気が治ったわけじゃ、なかったから。何かあった時、すぐ対応できるようにって、お父さんは、私とお母さんを、有馬の家に、迎え入れたわ。初めて連れられた日のこと、覚えてる。酷い、騒ぎだった。お父さんの、本当の奥さんが、すごい剣幕で怒鳴って、私を睨んでた。当然よね。いることも知らなかった、愛人の娘が、いきなり現れたんだもの。でも、お父さんは、最初から最後まで、私の味方で、いようとしてた。奥さんに土下座して、子供達にも、丁寧に説明して……そんなことしたって、私の居場所が、家の中にできるわけじゃ、なかったのにね」

 しゅる、と衣擦れの音が聞こえる。
 微かにベッドから出た冴子の手指が、掛け布団の生地を握り締めていた。
 指の力が足りず、掴み切れていない。
 こんなに――こんなに、弱っているのか。
 現実から目を背けたくなったが、健一は堪えた。それだけはしてはいけないと。
 でなければ、何のためにここに来たかもわからなくなってしまう。

「身体は、痛くなかった。けど、私はずっと、孤独だった。痛みと一緒に、大事なものを、持ってかれたみたいだった。生きてる意味を見失って、死にたいって、何度も思ったわ。唐突に、元気になったんだから、同じように唐突に死んで、そうしたら、もう、苦しまなくてよくなるって、考えもした。そうやって、毎日祈って、でも死ななくて。気付いたら、怖くなってたの。ふっと私が死んでも、お母さんは、悲しまないんじゃないかって。死なないまま、終わりがないまま、誰にも知られず、みんなの前から消えて……永遠にひとりの世界に、放り込まれるんじゃ、ないかって」
「ひとりが、怖かった?」
「うん。いつの間にか、私は眠れなくなってた。誰かが、そばにいる時だけ、眠れたの」
「……そっか。だから“誰とでも寝る女”だったんだね」

 おそらく冴子は、有馬家ではないどこかに、自分の居場所を求めたのだ。
 相手は本当に誰でもよかった。孤独を思い出さない状況であることが重要だった。セックス依存症――肌を重ねるのは、その手段でしかなかったのだ。
 肉体的に繋がっていれば、一人でないと実感できる。
 他人の熱を、欲望を、自分を求められることを、全身で感じられるから。
 細い吐息が静かな夜の病室に響く。
 立ちっぱなしだった健一は、膝を折り、冴子と目線を合わせた。
 その動きを追って、緩やかに冴子が首を捻る。
 暗闇の中で、自分を覗き込む彼女の瞳は、深い感情の色を湛えていた。
 悲しみではない。怒りや、苦しみでもない。
 透明な眼差しが、じっと健一に注がれている。

「有馬さん」
「……なに?」
「どうして、教えてくれなかったんですか?」
「……どうして、なのかしら」
「自分でもわからないんですか?」
「初めは、絹川君と、綾さんが、付き合ってるんだって、思ってた。でも、違ってたって、すぐにわかって……あの夜、最初に絹川君と、エッチした時、言えばよかったのかも、しれないけど」

 言えなかった、と唇が震えた。

「十三階で、暮らし始めて……絹川君と、綾さんと、八雲さんと、途中から、日奈さんも来て……楽しかった。楽しかったの」
「……はい。僕も、楽しかったです」
「ずっと続けばいいのに、なんて、少しだけ、思っちゃったからかな」
「それは……いけないことなんでしょうか。確かに、シーナは……日奈はいなくなっちゃいましたけど、綾さんや八雲さんがいて、そこに有馬さんもいる、そういう日常を大事に思うのは、駄目なことなんですか?」

 だって当たり前のことじゃないか。
 今日も、明日も、変わらず幸せでありますようにと願うのは。
 どんな人間にも幸福を追求する権利がある。幸せになってはいけない理由なんて、ないはずだ。ないはずなのだ。

『私のことを、絶対、好きにならないでほしいの』
『……好きにならないでほしい?』
『絶対、絶対に。お願い、それを私に約束して』

 あの夜、冴子は健一に楔を打ち付けた。
 いずれいなくなる自分だから、心を傾けなくていいと。あなたの幸せに私は必要ないからと。
 言えなかっただけで。
 ずっと、彼女は未来を見据えていたのだ。
 ――けれどそれでは、あまりにも救われない。

「約束、覚えてますよね」
「私のことを、絶対、好きにならないでほしい。……守って、くれた?」
「無理ですよ」

 伸ばした右手で、布団を掴む冴子の手を上からそっと包み込む。
 氷のような冷たさだった。人の持つ熱をまるで感じない。血潮が引いた、命を失いつつある者の温度だ。
 それでも、まだ、生きている。
 有馬冴子は、ここにいる。

「怒ってくれていいです。約束破ったのは僕ですから、責めてくれたって構いません。でも、あんな約束、守れるわけないじゃないですか。僕が辛い時、いつもそばにいてくれましたよね。ホタルのこと、シーナのこと、綾さんのこと、話を聞いてくれて、いっぱい救われました。有馬さんがいなかったら、僕はもっと前に折れてたはずです」
「……絹川君」
「好きです。好きなんですよ。こんなに……胸、痛いのに……好きじゃない、何ともないなんて、言えるわけない……!」

 視界が滲んで歪む。薄闇に浮かぶ冴子の顔さえもよく見えなくなる。
 心が張り裂けそうだった。ぎゅっと握った冴子の手は、もうほとんど力がない。病室に漂う寒々しい空気も、このぞっとする冷たさも、死に限りなく近い冴子から来るものに違いなかった。
 ぽた、と雫がこぼれる。顔を近付けた自身の手の甲に涙が弾け、滑り落ちて冴子の手に流れていく。

「涙って、あったかいのね」
「有馬さんの手が、冷た過ぎるんですよ」
「うん。そうね」
「……返事、聞かせてください」

 空いた左手で目元を拭い、冴子を見つめる。
 一瞬さえも逃さないように。

「きっとそれは、絹川君の、勘違いよ」

 突き放す言葉とは裏腹に、声色は優しい。
 僅かばかり瞳を細め、冴子は告げる。

「絹川君、色々と、鋭いから。私がもう、長くないのも、心のどこかで、気付いてたの。だから、そんな可哀想な私を、守って、あげたかったんだと、思う」

 そんなこと、と反射的に返しかけ、しかし健一は口を閉ざした。
 まだ冴子の話は終わっていない。
 最後まで、ちゃんと聞くべきだ。

「好きは好きでも、それは、男女の愛じゃない。家族に向けるような、同情よ」
「同情……ですか」
「うん。だから、ごめんなさい」

 不思議と、前後不覚になるほどのショックはなかった。
 初めからわかっていた。決して冴子が頷かないことを。
 毎夜のように身体を重ねて、どこが弱いかも、喘ぎ声の種類も、胸や尻の柔らかさも、どの体位が好みかも、肌荒れの状態やほくろの位置も全て知っている。コーヒーを飲む時の色気がある仕草、台所に立つ時は長い髪を後ろで縛ること、困った時は少しだけ左に視線が泳ぐ癖、テーブルマナーが十三階の住人の中では一番綺麗なこと、滅多に怒らないけど怒ると結構怖いこと、可愛らしい笑顔、手の動き、傾げる首の角度も、何もかも。
 何ヶ月も暮らしてきて、たくさん、本当にたくさん、冴子のいろんな面を見てきた。
 けれど、人間は深遠だ。健一は彼女の過去も、秘めた想いも、病気も、全て知らなかった。きっと、知らないことの方が多かった。
 ただ。
 ひとつ、確かなことがある。
 二人は“家族”だった。
 互いに身を委ね、重みを預けた、運命共同体だった。
 そう思っていたのは、健一だけだったのかもしれない。徹頭徹尾、勘違いで空回っていたのかもしれない。

「冴子さん」

 それでも。

「キス、してもいいですか」
「……家族、だものね。親愛のキスくらい、しても、いいのよね」

 触れる。かさかさに乾いた唇は手と同じように冷たく、喉奥からこぼれる細い息もひんやりしていた。
 上から押し付け、熱を伝える。舌は入れない。激しい要求に応えられる体力は、もう冴子にはないだろう。
 一分にも満たない、儚い接触だった。
 唇が離れる。閉じた目を開くと、冴子の目端から薄墨めいた水跡が頬へと落ちていた。

「……健一、君」
「何でしょう」
「わがまま、言ってもいい?」
「いいですよ。いくらでも言ってください」
「このまま……一晩、手を握っててほしい。私が、眠るまで」

 頷く。
 そうしてずっと、冴子の手が完全に力を失うまで、健一は祈るように両手で握り続けた。










 ぱちりと目を開けた時、見慣れた自室の天井が視界に入った。
 まだぼんやりした頭から曖昧な記憶を掘り起こし、現状を確認する。
 最期を看取った、のだと思う。いつまでも出てこない健一の様子を窺いに来た美佐枝が、呆然とする健一をまず引き剥がし、だらりとベッドの外へ投げ出された手を握って、沈痛な面持ちでナースコールを押していた。慌ただしくなる病室、駆け寄る綾と刻也、引きずられるように部屋から出されてそのまま座り込んだリノリウムの冷えた床。どうやって帰路に就いたのかも不明だ。一度幽霊マンションの十三階に戻ったのか、あるいは直接絹川家に帰ってきたのか。誰かが迎えてくれたのか、一人で鍵を開けて眠ったのかさえわからない。
 緩やかに開いた右手をじっと見下ろす。微かに震えている。
 ふと、隣で何かがうごめくのを感じた。電気の消えた部屋は暗く、窓側のカーテンも閉められていてほとんど光がない。闇に順応しきれていない瞳は、やがて起き上がった人影の輪郭だけを捉えた。

「……健一」
「ホタル……? あれ、ここ、自分の部屋……だよな?」
「ああ。私が連れてきたんだ。覚えてないのか?」

 囁きに近い問いかけに、こくりと頷く。
 蛍子はそうかと小さく呟いて、カーテンを少しだけ開けた。
 月と外灯を混ぜた光が射し込む。寝間着姿の蛍子は、心配そうな顔をしていた。

「酷い顔だな」

 家事をまともにし始めて若干荒れた、けれど細く長い指先が、健一の頬をなぞる。温かい。それは間違いなく命のもたらす熱だった。冴子にはほぼなかった、生者の証。
 親指が目元に掛かる。涙の跡を拭うように、指の腹でひと撫で。
 そのまま手のひらは顎へと滑り落ち、首筋から胸を辿り、布団に隠れた左手まで行く。

「汗、掻いてるな。一回風呂入るか?」
「……いいよ。そんな気分じゃない」
「ならこのまま横になれ。眠れなくても、私がずっといてやるから」

 唐突に伸びてきた蛍子の左腕が、健一の背中に回って上半身を引き寄せた。
 二人揃って、些か乱暴な動きでベッドに倒れる。スプリングの軋みも気にせず、蛍子はぎゅっと頭を抱えてくる。押し付けられた胸から伝わってくる、静かな鼓動。

「子守歌でも歌ってやろうか?」
「……ホタル、歌、上手かったっけ」
「さあな。音楽の授業はあんまり真面目に受けてこなかったし」
「カラオケとか、行ったことないの?」
「ない。誘われても断ってた。んなことしてる暇あったら絵描いてたかったからな」
「そっか。なんか、ホタルらしい」
「お前は?」
「あると思う?」
「似た者姉弟だな」
「うん」
「……そこはいつもだったら否定するところだ」
「そうだっけ」
「ああ」
「……ねえ」
「なんだ?」
「何があったか、訊かないの?」

 返答までは、間があった。

「家族にだって、話したくないこととか、話せないこととか、あるだろ」
「ホタルにも、あった?」
「お腹の子のこととかな」
「……ごめん」
「別に謝ってほしいわけじゃない。……あー、いや、なんつーかさ。お前が嫌なら、何も言わなくたっていいんだ。このまま寝ちまえ。でも、誰かに聞いてほしいんなら、私がいくらでも聞いてやる。それでお前が楽になるなら」

 優しい声色が、耳の奥にするりと入ってくる。
 それは幼い頃を最後に、長らく忘れていた人の母性というものだったのかもしれないし、あるいは、他人に愛されているという確かな実感なのかもしれなかった。

「好きな子が、いたんだ」
「それは、綾じゃなくて?」
「……うん。有馬冴子っていう、同級生の、女の子」
「有馬……ああ、悪い、何でもない。続けてくれ」

 微妙な反応をした蛍子に、しかし追及をせず健一は語り始める。
 前後がほとんど繋がらない、ちぐはぐで、支離滅裂で、他人に聞かせるにはあまりにも整理されていない話だった。まるで思いつくそばから口に上らせているかのように、ぐちゃぐちゃな記憶の引き出しを、健一は蛍子に披露し続けた。
 例えば、アルバイトのこと。ひょんな流れで同居まがいの生活をしていたこと。半当番制で作る食事のこと。学校での印象。飲んでいた薬。煙草の匂いを気にしていたこと。たまに見せる笑顔が可愛かったこと。セックス依存症。眠れない夜に肌を重ねたこと。蛍子との関係を認められたこと。飯笹や佳奈との一件。綾と仲が良かったこと。ずっと感じていた儚さ。眠る顔の白さ。倒れたと聞いた時の血の気が引く思い。病室の冷たい空気。ベッドで横になった姿。一年前には死んでいたはずという言葉。最後のキス。失われていく体温。告白と、その返事。
 好きだと言って、セックスして、孕ませてしまった実の姉に対してするには随分残酷な話だろう。それでも蛍子は一切余計な口を挟まず、黙って健一の声に耳を傾けていた。
 いったいどのくらいの時間が経ったのか、気付けば窓から射す光が明るさを増していた。
 眠気は既に消え去っていた。喋り続けた喉が痛かった。

「ホタル……好きって、何なのかな」
「そんなの、答えなんてないだろ。お前の好きと、私の好きだって、きっと違う」
「うん。わかってる。でも、わからないんだ」

 僕は恋愛に向いてない――。
 いつかも脳裏に過ったフレーズを、健一は思い出す。
 自分の『好き』は他人とズレていて、歪んでいて、だからどうしようもなくなってしまうのだろうか。短慮な思考と行動が蛍子を苦しめ、結果的に父親のいない子供が産まれることになった。冴子には同情だと突き放され、そしてその真意ももう二度と聞けない。誰かを愛することで、その誰かを不幸にしている気さえする。

「俺、酷い男だよな」
「馬鹿。自分を責めるな」
「でもホタルだって、俺の所為で」
「私は、お前を好きになってよかったよ。今だって幸せだ」
「……子供にも、母さんにも、俺が父親だって言えないのに?」
「それでも、お前との子供だから。絶対愛せる」
「……ホタルは強いな」
「いや。私は弱かったよ。強くなったんだとしたら、お前のおかげだ」

 背中に回った腕の力が緩んだ。
 蛍子の両手が、健一の肩を掴む。ベッドで横になったまま、真っ直ぐ健一を見つめる。

「絵だけ描いて生きていければいいって思ってたよ。ずっとそんな風にして、お前に負担ばっかり掛けてきた。私はお前に頼ってたんだ。飯も、家のことも、全部任せて寄りかかって、そのことに気付いてもいなかった」

 なのに、

「お前をここに連れてきたのは、あいつだ。桑畑綾だ。蛍子ちゃんあとはお願い、って私に健一を預けて帰ってったんだ。何だよ。あいつ、いつの間にあんな気遣いとかできるようになってたのかよ。私にはできなかった。お前がこんなに苦しんでるなんて知らなかった。お前の中で、私は頼ってもいい人間じゃなかったんだってわかった」

 それが悔しい。
 どんな作品を見た時より、コンクールの賞を横から掻っ攫われた時よりも。

「辛かったら、もう一回寝てもいい。私は一緒にいてやる。母さんには怒られるかもしれないけどな。けど、落ち着いたらお前は行くべきだ。あいつのところに行って、言うべきこと、ちゃんと言ってこい」
「言うべき、こと……」
「できるな?」

 蛍子の言葉を静かに噛み締め、健一は首肯した。
 重い気持ちを振り払うように勢いよく立ち上がる。まだ身体の調子が付いていかず、若干ふらついたが、大丈夫だ。いける。

「……あのさ、ホタル」
「ん?」
「ありがとう。ちょっとだけ、マシになった。……行ってきます」

 まだ伸びきらない背中が遠ざかり、階段の方に向かっていった。
 一人残された蛍子は、ばたんとベッドに倒れ込む。
 今のうちに自室へ戻れば、母親に見咎められることもないだろう。
 けれど、もう少し。
 もう少しだけ、ここで。

「ふ……っ、ぐ……! うぅ、うー……!」

 枕に顔を伏せたのは、せめてもの抵抗だった。
 馬鹿だ。誰より馬鹿なのは自分だ。一番気に入らない相手の背中を押すような真似なんてして。
 でも、好きなのだ。健一が、好きで好きでしょうがない。
 幸せになってほしい。自分が傷付けた分も。隣にいるのが、自分でなくても。

 その感情の名を、絹川蛍子は知っている。
 健一にもちゃんと理解してほしいと、願っている。



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何かあったらどーぞ。