昼前の街中、紙束を詰めた小さなバッグを片手に健一は歩いていた。 綾が仕上げたポスターを、駅前に貼りに来たのだ。以前も何度か利用したスペースに着くと、バッグからセロテープとポスターを数枚取り出し、慣れた手つきで壁に紙を押しつけ、四隅を留めていく。 通りがかる人達の視線を感じるが、気にしていてはキリがない。作業を終えたらすぐに離脱。少し離れてから背後を窺うと、早くも数人の若者がポスターに近付いて指差し、何事かを話し合っていた。 微妙な後ろめたさを胸に抱きながら小走りで去り、見えなくなったところで足を止め、息を吐く。呼吸を整えながら、数日前に聞いたツバメの言葉を思い出す。 ――私、アンタのハーモニカも結構好きだったから。 今、健一のポケットにハーモニカはない。日奈がいた頃は、ほとんどいつでも持ち歩いていた。 突然練習に引っ張り出されることもあったし、いつの間にかそこに重みがないと違和を感じるようになっていたのだ。 あるいはもう、身体の一部みたいなものだったのかもしれない。 シーナは生で渡してきたから、健一もだいたいそのままで携帯していた。埃や手垢、油で汚れるから、こまめなメンテナンスも欠かせなかった。そうしなければ音が悪くなるんだと口を酸っぱくして言っていた癖に、ちゃらんぽらんなシーナは手入れの方法をちゃんと知らなかったから、結局自分で調べる羽目になった。 ポスターを綾から預かった翌日、健一は楽器店でケースを買ってきた。 それにハーモニカを入れ、自室の物置に仕舞った。以来、ズボンのポケットは少しだけ軽くなった。 無意識のうちに、そこを手のひらで撫でる。 僅かに俯いた顔を上げ、また歩き出そうとしたところで、 「絹川君?」 ちょうど正面に冴子がいた。 よく晴れた昼の、人通りもそれなりにある道だ。 咄嗟の言葉も出ず、思わず硬直してしまう。 「……どうしたの?」 「あ、いえ、その……まさか外で会うとは思ってなくて」 「そうね。私も、ちょっとびっくりしちゃった」 「えっと……外で他人のふりは、もうしなくていいんですよね?」 「……うん。クラスメイトなんだし、これくらいはきっと、普通のことでしょ?」 互いにぎこちなく頷き合う。 それから冴子は健一が持つバッグに視線を落とし、 「もしかして、昨日綾さんが作ったポスター?」 「はい。あと何箇所かに貼りに行こうかと」 「手伝うわ」 「……いいんですか?」 「バイトの時間まで、暇潰しに歩いてただけだから」 じゃあお願いします、と小さく頭を下げ、健一は次の目的地へ向かう。隣に並んだ冴子を気遣い、普段より僅かに速度を遅くした。 以前二人で外を歩いたのは、飯笹と鉢合わせた夜が最初で最後だ。またトラブルに健一を巻き込みたくないと、以来彼女は十三階以外での接触を可能な限り避けていた。『天国への階段』での一件がなければ、今日だってこうすることはなかったかもしれない。 念のため周囲に意識を配りつつ、また別の場所でポスターを貼っていく。冴子の手伝いがある分、最初よりも掛かる時間は短い。都合五箇所ほどで作業を終えた頃には、バッグの中身も軽くなっていた。 残りは二枚、他に外で貼る場所を探すにも頼りない量だ。少し悩んだが、また早苗の店にお願いすればいいと気付く。 「あの、有馬さん」 「何?」 「最後のポスター、早苗さんにお願いして店内に貼ってもらおうかと」 「……確か、前にもそうしてたわよね」 「はい。だから頼めばいけるかなと思いまして」 「なら、このまま一緒に行く?」 「いいんですか?」 「あと三十分ほど、暇を潰してからになるけど」 「それくらいなら付き合いますよ。どうします?」 「……ちょっと考えてもいい?」 微妙に慌てた様子の冴子を見て、そんな肩肘張らなくてもいいのにと健一は苦笑した。 三十分程度だとあまりやれることもないので、結局ウインドウショッピングと相成った。 とはいえ、お互い特に気になるものがあるわけでもない。少しずつ目的地へ向かうようにして、通りがかった店を軽く冷やかしていく。 女性らしいと言うべきなのか、ほとんどは服やアクセサリだった。大抵はざっと眺めるだけだが、時折足を止めたりもする。物によっては手に取ることもある。しかし、決して購入には至らない。微妙な居心地の悪さを感じながらも、健一は冴子の姿に内心で幾度も首を傾げた。 「何も買いませんでしたね」 ひとしきり回り終えてからの道中、そう声を掛けると、冴子は微かに頷き、 「欲しいとは思うのよ。でも、実際に手に入れると、急に興味がなくなったりして、もういいかなって気持ちになるの」 「買っても使わなくなるってことですか?」 「うん、そんな感じ。お母さんが、私が欲しがってたって言って服とかをよく買ってきてくれたんだけど、もらってもその時には別に欲しくなくなっててね。何度もがっかりさせたわ」 横顔が微かに愁いを帯び、遠くを見るような目をする。 後悔しているのか、とは健一は訊かなかった。家出をしながらも、アルバイトの許可をもらえる程度に連絡は取っている。そんな彼女の母親との関係は、傍からすればどうにも不思議な距離感だ。何か複雑な事情があるのだろうが、冴子は決してそれを話そうとはしない。だからこそ、健一も無闇に問うつもりはなかった。 言いたくない、言うべきでないと彼女が判じたのなら、きっと自分が知る必要のないことだ。 「今持ってる服とかは、新しく買ったんです?」 「ほとんどは家を出る時、まとめてね。あの十三階に落ち着くまでは、いろんな人の家を転々としてたし……あ、でも、最近はちょっと、自分でも買うようにしてる」 そういえば、綾が冴子と服を買いに行ったなんて口にしていたなと思い出す。 他人の外見には無頓着な健一だが、見慣れない服装だということくらいはわかるものだ。今日の冴子も、部屋着とは別の余所行きな雰囲気がある。秋の寒さに合わせた若干厚手の長袖と、足首近くまでを隠すチェック柄のスカート。 「似合ってると思いますよ」 「え? ……あ、ありがとう」 まさかそんなストレートな賛辞が健一から聞けると思っていなかったのか、一瞬呆けた顔をしてから、冴子が感謝の言葉と共に俯く。羞恥で赤らんだ頬に、遅まきながら健一も自身の迂闊さを悟った。 というか、この状況はデート的なアレではないのか。 男女でウインドウショッピングとか。 勿論そんな意識は全くなかったのだが、客観的に見たらどう映るのか、というのはまた別の話である。 お互い微妙に視線を逸らし、半歩分ほど離れる。しばらくそうしてぎこちないまま、淡々と歩き続けた。 「……あ、あの」 「な、なに……?」 早苗の店に抜ける商店街手前に差し掛かった辺りで、健一の方が耐え切れず声を掛けた。 肩を小さくぴくりと震わせ、冴子が訊き返す。 「あれから、一人で寝ることは……できてないんですよね」 「……うん。絹川君がいないお昼に、横になったりはしてるんだけど」 「やっぱりたまたまだったんですかね」 「どうかな……。あの時はいつの間にか、って感じだったし」 結局冴子の不眠症――セックス依存症については、あれ以来改善の兆しを見せていない。やはりたまたまだったのかと思うと、残念な気持ちになる一方、どこか安心している自分がいるのも確かだった。 「絹川君の方こそ、お姉さんのことは大丈夫?」 「そうですね……ここ一週間は、大きな動きはないですよ。ただ、前より両親が帰ってくる日は多くなりました。母はまだ納得してないみたいですけど、すごいホタルのことを心配してるんですよね」 「ご両親からすれば、孫が産まれることになるんでしょう? どんな理由があれ、きっと嬉しいのよ」 「孫可愛がりする母や父は、正直いまいち想像できないんですけど……」 「人間、何がきっかけで変わるかわからないわ。自分を理由にして、自分が望まない変わり方をすることだってあるものだから」 「……有馬さん?」 最後だけ妙に実感がこもっている気がして、健一は冴子の表情を窺おうとしたが、そこで『天国への階段』に到着する。問いとも言えない呼びかけには答えず、細い腕が扉を開けた。 ベルの音に反応して、いらっしゃいませー、と笑顔で迎える人影が来る。 しかしその人物は、入ってきた二人の顔――特に後ろの健一を見て、来客用の笑みを崩した。 「あれ、健一さんじゃないですか」 「狭霧さん? どうしてここに?」 いつか冴子も着ていたのと同じ衣装を纏っていたのは、刻也の妹、狭霧だ。モン・サン・ミシェールで綾と一緒に会って以来だろうか。見知らぬ女性と健一が互いに名前で呼び合っている様子を前に、冴子が怪訝な、早苗が興味深げな表情を浮かべたが、とりあえず健一は触れないことにした。特に後者。 「早苗さんに雇ってもらいました」 「いやまあ、それはわかるんですけど……」 健一が知る限り、狭霧はアルバイトを必要とするような立場にはなかったはずだ。一人暮らし故にある程度の稼ぎが求められる刻也とは違い、まだ実家住まいかつお金に困るタイプでもない。ついでに言えば、早苗と狭霧の接点もわからない。 「お店と早苗さんのことは、咲良ちゃんから聞いたんですよ。ほら、私“お嬢様”ですし」 「ああ、なるほど……。でも、どうして客じゃなくてバイトを?」 「最初はちゃんとお客さんとして来たんだけどねー。何だか暇を持て余してるって言うから、忙しい時にヘルプで出てもらってるのよ」 「……忙しい?」 「さっきまではね。今はちょうど落ち着いたところ」 ちらりと室内の時計に視線を向ければ、針は三時を示していた。 喫茶店なら昼と並んでピークの時間帯だろう。にもかかわらず店内はがらんとしていて、来客の痕跡も既にない。狭霧の手際が良いのかもしれないが、軽く覗いたカウンターにもさほど洗い物がないので、満席になるほどではなかったのだと思う。 それでも早苗一人であれば、注文内容次第では捌くのが厳しくなることもあるだろう。ただ、そのレベルならまだ経験が浅い狭霧でもフォローが利くはずだ。コーヒーの質は高く、割に値段も安く、伝手とはいえ有名店のケーキの新作まで食べられる――駅から少し歩くことだけは欠点だが、それ以外はほとんど非の付けどころがない喫茶店なのに、何故こうも人気がないのか。何度目かわからない疑問を健一は抱いたが、言っても答えが得られた試しはないので胸に秘めた。 「確か、冴子ちゃんとは初めてよね? そういえば雇ったって話もしてなかった気がするけど」 「早苗さん」 「いやー、結構最近のことだったし、ついね?」 半目になった健一から逃げるように、流し場に積まれたコーヒーカップを早苗が洗い出す。 そんな様子を苦笑いで眺めてから、狭霧は冴子に小さく頭を下げた。 「はじめまして、八雲狭霧です。兄からお名前は伺ってます」 「八雲さんの妹さん、ですよね。はじめまして、は……ん、有馬冴子です」 一礼を返した冴子が、何かを言いかけ、軽い咳の後に名乗り直す。 狭霧は僅かに瞳を細め、 「……失礼ですけど、どこかでお会いしたことありました?」 「いえ。……なかった、と思います」 「だとすれば勘違いですね。すみません、どうも私、人の顔を覚えるのが苦手なもので」 そう言って背中に手を回し、エプロンを脱いだ。何ということのない仕草だが、狭霧がするとやたらと絵になる。器用に腕を使って四つに畳み、ちょっと着替えてきますね、とバックスペースに入っていった。 鮮やかに遠ざかる背中を見送って、冴子が珍しく溜め息を吐いた。 「綺麗な人ね」 「ですね。こう、ちょっとした仕草が様になるというか」 「……前に八雲さんが言ってたこと、少しわかった気がする」 それは、一筋縄ではいかないという意味だろうか。 追及してもいい流れにはならなさそうだと判断し、健一はカウンターの方を向いた。 視線が合うと同時、カップを洗い終えた早苗に問いかけられる。 「ところで絹川君はどうしてここに? バイトしに来たんなら歓迎するけど」 「途中で有馬さんと一緒になりまして……それで、ひとつお願いしたいことが」 「お願い?」 「このポスターを店内に貼らせてほしいんです」 バッグから取り出したそれを手渡すと、一瞬だけ早苗は眉を顰めた。 ポスターに並ぶ文字を眺め、小さく静かに吐息を落とす。 「テレビの取材の話、ついこないだだったじゃない」 「まあ、その、色々ありまして」 「喧嘩別れとかじゃないのよね?」 「はい。お互いちゃんと納得した結果です」 「ならいいわ。前と同じスペースでいいなら貼っても大丈夫よ」 「……ありがとうございます」 留めるものなく壁に刺さっていたピンを抜き、適度な位置に二枚分を固定する。 一歩離れて確認してから、もう一度早苗に感謝の言葉を告げた。 何かが終わったような、肩の荷を下ろしたような、そういう感覚がある。 健一にできることは、もうほとんどない。 ツバメの協力も含めれば、近いうちにシーナ&バケッツ解散の報も広がるはずだ。そしていずれ、人々に忘れられていくだろう。 それでいい、と思う。 あるいはいつか表舞台に立つ日奈に、シーナの面影を見出す人がいるかもしれない。 夜の公園で自分達を応援していた観客が、同じように日奈を支えてくれたらいいと、そう思う。 「あ、それ綾さんが描いたものですよね」 不意に横から狭霧の声が掛かり、健一は反射的に半歩距離を取った。 ちょっと傷付きますというように拗ねた表情を浮かべ、 「もしかして驚かせちゃいました?」 「いや……すみません。考え事しちゃってて。確かに、綾さんに描いてもらいました」 「やっぱりですか。色使いは地味ですけど、目を惹くものですねえ」 ポスターを眺め、しれっと離された分の距離を詰めた狭霧は、この後時間ありますか、と言った。直後、後ろの方で冴子が小さく咳をしたのが聞こえる。別にわざとではないのだろうが、タイミング的に責められている気がしないでもない。 予定らしい予定は、先ほど全て片付いてしまった。ポスターがなくなった以上は歩き回る必要もないし、家に戻ったところでどうせすることもないのだ。最近は蛍子がもっと料理を作れるようになりたいからと、健一が台所に立つのを禁止されているくらいである。 とはいえ、夕飯時までには帰っておきたい。遅くなるとそれはそれで蛍子や母が怒る。 その旨を端的に伝えると、二時間も掛からないはずなので、なんて即答が来た。まあそれくらいならと頷いた瞬間、いきなり左腕に狭霧の両腕が絡んでくる。思わず振り向いた先、冴子が目を見開いていた。 「じゃあ行きましょう。あとはよろしくお願いしますね、有馬さん。早苗さんはまた明日!」 何故か「ありま」の部分だけを殊更強く発音し、腕ごと健一を引っ張って店を出る。背後で「若いわねー」と呟く早苗、何か口を開きかけた冴子がどんな表情をしていたのかは、閉じた扉に遮られてもうわからなかった。 歩きながら、話題を振るのは専ら狭霧の方だった。 会話というよりは質疑応答に近く、そのほとんどは健一の人となりについてだ。何が好きか。嫌いか。趣味は。特技は。休日は何をしているか。女の子のタイプは。ほとんど訊かれるだけの状況を嫌に感じなかったのは、彼女の話し方が上手かったからだろう。さすがに女の子のタイプについては言葉を濁したが。 周囲の景色は徐々に賑わいを増し、気付けば駅前に戻ってきていた。もしかしてまたウインドウショッピングかと思うも、すぐにそうではないと気付く。ターミナルにあるバス停のひとつで、狭霧が足を止めたからだ。 「すぐ来そうですね」 健一に腕を絡ませたまま、近くの時計とバス停の時刻表を見比べて狭霧が言う。 一分も経たず現れたバスに、ようやく腕を解いて先に乗ると、手早く二人分の料金を支払ってしまった。 「財布持ってきてますし、ちゃんと払いますよ」 「いいんです。誘ったのは私ですし、必要経費みたいなものですから」 座席は全て埋まっていたので、出口近くの吊革に掴まる。 まずバスに乗る機会が少ない健一はこの路線も初めてだったが、どうやら二つ隣の駅が終点らしい。当然終点まで行くなら電車に乗った方が早いので、おそらく途中のどこかが目的地なのだろう。 「健一さん、また腕組んでもいいですか?」 「……狭霧さん、僕とはまだ会って三回目ですよね?」 「そうですね」 「ちょっと無防備じゃないです?」 「いえいえ。だって私、健一さんのこと結構好きですから」 こうもストレートに言われると返し難い。 失礼しますね、と再び狭霧が密着する。今度はさらに近く、かなり豊かな胸が触れていた。仄かに漂う甘い香り。腕に伝わる柔らかさと温かさが、否応なしに心臓を跳ねさせる。 狭霧は健一の耳元まで唇を寄せ、周囲に聞こえないくらいの抑えた声で、 「車内に男の人が多いので、視線避けになってもらえると助かります」 そう囁かれ、突飛な行動に一応納得した。 健一がこれまで出会った中でも、狭霧は一、二を争うレベルの美人だ。そういう人間の苦労を理解できるとは言えないが、彼女なりの悩みや問題もあるのだろう。実際、バスに乗った時には随分注目されていた。 「ところで、健一さんは病院って好きですか?」 「それは好きな人の方が変だと思うんですけど」 「じゃあ嫌いです?」 「あんまり体調崩したことがないので、そもそも馴染みがないんですよね」 「なるほど。実は、今向かってる先が病院でして」 「……身体のどこか、悪いんですか?」 「いえ。私じゃなくて、母が入院してるんです。だから今日の目的はお見舞いですね」 昼の冴子の件もあり、もしかしてこれもデート的な何かなのではと疑っていたが、最高に恥ずかしい勘違いだった。もっとも、狭霧自身積極的に勘違いさせようとしていた感もある。 羞恥でうずくまりたい気持ちを心の端に追いやり、気を取り直して健一は問う。 「僕みたいな他人が行っていいんでしょうか」 「娘の私が連れてきてるわけですし……それに、健一さんは兄さんのお友達なんですよね?」 「はい。少なくとも僕はそのつもりです」 「だったら大丈夫です。母も喜びます。健一さんが嫌でなければ、お願いします」 「嫌ってわけではないんですけど……」 他にもっと致命的な問題があるような。 しかしそれを上手く言語化できず、もにょもにょしている間に狭霧が停車ボタンを押した。 二十秒ほどして停車する。降りるのは健一と狭霧だけだった。すぐに自動でドアが閉まり、バスが遠ざかる。そこから徒歩で約六分、到着した建物は、健一が想像する病院の五倍以上大きかった。 セキュリティもしっかりしているらしく、まず受付で手続きをし、来客用のカードを渡される。それを首に掛けてから、エレベーターで移動する。何度も訪れているからか、狭霧の足取りに迷いはない。 受け取ったカードに書かれた病室番号は、1302。十三階における、刻也の部屋と同じ数字だ。 その奇妙な符号について考えていると、エレベーターの扉が開いた。フロアのおおよそ中心に当たるそこから端側まで行き、病室前に辿り着く。ネームプレートは一枚のみで、文字が小さい。苗字は読めたが名前の画数が多く、狭霧を挟んでいたのもあってしっかり目視できなかった。 すぐそばに置いてある消毒用アルコールで両手を綺麗にし、二回ノックした後に狭霧が引き戸を開ける。意外に音がしないんだな、と思いながら見た部屋の奥、ベッドから身体を起こした女性の姿を健一は認めた。 「お母さん、今日はお客さんを連れてきたよ」 「あら狭霧ちゃん、いらっしゃい。お客さんも、はじめましてよね。お名前伺ってもいいかしら」 「えっと、はじめまして、絹川健一です。八雲さん……あ、刻也さんの同級生です」 「健一さんは兄さんのお友達なんですよ。健一さん、こちらは母の桔梗です」 「ふふ、はじめまして、絹川君。八雲桔梗です」 狭霧に似て、随分な美人だ。歳を考えれば健一の母とほぼ同じくらいのはずだが、比較しても外見は明らかに若い。向けられた笑みは優しく、刻也からも彼女の面影を窺える。艶やかな黒髪は狭霧より長く、しかし伸ばすに任せっきりなわけでもなさそうだった。毛先や前髪辺りはよく切り揃えられている。 どうにも入院患者には見えないというか、ベッドに入っていることを除けば病人らしからぬ快活さだ。声は明るいし、顔色も悪くない。ただ、どこか儚さがある。 ふっと健一は、以前刻也から聞いた話を思い出した。 八雲の家は、代々女性のみが夭折する家系でもある――。 そんなかつての言が正しいのだとすれば、目の前にいる刻也と狭霧の母、桔梗には、遠くない未来の死が約束されている。上半身を起こしただけでベッドから離れないのも、おそらくそういうことなのだろう。 ぱっと見の印象よりもずっと気丈で、強い人なのかもしれない。 「すみません、突然押しかけてしまって」 思考をフラットに戻し、言って健一は軽く頭を下げた。 対する桔梗はいいのよ、と優しく微笑み、 「刻くんのお友達ならいつでも大歓迎よ」 「ありがとうございま……刻くん!?」 衝撃的な呼称が聞こえてきて思わず叫んでしまった。 慌てて両手で口を押さえる。隣の狭霧が苦笑していた。 「お母さん、外じゃ兄さんは刻くんなんて呼ばれてないから」 「そうなの? ああ、そういえばさっき、絹川君は八雲さん、って言ってたわね。……名前では呼ばないの?」 「何となく八雲さんは八雲さんって感じなので……」 「じゃあ刻くんは、絹川君のことを何て?」 「八雲さんのお母さん――」 「桔梗」 「――桔梗さんと同じで、絹川君、ですね」 「そう。刻くんは真面目だから、やっぱりどこでもそうなっちゃうのね」 否定的な言い方にも聞こえるが、口調は柔らかい。 「刻くんとはどこで仲良くなったの?」 「……学校ですかね。クラスが一緒なんです」 「教室では、刻くんは絹川君以外の子と話したりする?」 「あんまり多くはないですけど、今は前より話すようになった気がします」 幽霊マンションで会う以前、健一から見た刻也の印象は、生真面目な人でしかなかった。 何故あの学校に入ってきたのかわからないほど優秀で、故に周囲と隔絶したものがあったように思う。いつも張り詰めた表情をしていた。今になってみれば、彼はずっと戦っていたのだとわかる。 父に反発し家を出て、バイトで生活費を稼ぐ傍ら、司法試験に向けた勉強を続けていた。 十三階の住人が増えてから、少しずつ、刻也にも余裕ができてきたのだろう。 それが纏う雰囲気にも表れたのか、時折クラスメイトに話しかけられる姿を見かけるようになった。 具体的な内容までは知らないが、まあ、悪いことではないはずだ。 「なら、きっとそれは絹川君のおかげなのね」 「僕の……ですか?」 「この間、一人で来てくれたんだけど、随分大人になったなって感じたわ。刻くんが家を出た時は、まだ意地っ張りな子供だったから」 「……そんなことないと思いますよ。八雲さんは、自分のやるべきことをちゃんとわかってて、しっかりできる人ですから」 「一人で何でもやっちゃう人、何でもできちゃう人が、大人ってわけでもないでしょう?」 「……そうなんでしょうか」 「ええ。ふふ、刻くんのこと、悪く言われて怒ってくれたのね。ありがとう」 つい反論めいた言葉を返したら、褒められて毒気を抜かれてしまった。 妙に恥ずかしくなって、健一は頬の微かな熱を隠すように俯く。 「もし刻くんが受験に失敗してなかったら、たぶん違うところで、もっと酷い躓き方をしてたと思うの。いい学校に受かるより、絹川君がお友達になってくれたことの方が、刻くんにとってはずっと価値あることだったんじゃないかしら」 「あの、すみません、もうやめてください。そこまで褒められると本当に恥ずかしいです」 「じゃあこのくらいにしておきましょっか。でもそっか、刻くんにお友達ねえ……。鈴璃ちゃんにも伝えてあげなきゃね」 「私が言っておくよ」 「うん、お願いね、狭霧」 確か鈴璃という人は刻也の彼女だったはずだ。 そんな、彼女に伝えるほど刻也に友達ができたことは重大な事件なのか。 というかこれは単純にからかわれているだけじゃなかろうか。 狭霧は結構ポーカーフェイスだし、桔梗は掴みどころがなさ過ぎて本気なのかもわからない。 正直割と帰りたくなってきたが、とりあえずタイミングを見計らうためにも平静を維持しようと健一は表情を引き締め直した。 「あ、そうそう。狭霧ちゃん、絹川君のこと名前で呼んでたわよね。もしかして彼氏? もう付き合ってる?」 引き締め直した表情は五秒も保たなかった。 「えっ、ちょっ、桔梗さん!?」 「残念ながらお友達です。まだフリーみたいですし、彼女に立候補したいところですけど」 「狭霧さんも!?」 「あらー、でも絹川君ってばモテるんじゃない?」 「そうですねー、そのうち彼女の一人や二人できるかもしれませんねー」 「狭霧ちゃんも混ぜてもらえるかしら」 「頑張ってみましょうか。どうです健一さん、私ってなかなか優良物件じゃないですか?」 「お願いですから勘弁してください……」 先ほどとはまた別の意味で本気かどうかわからない二人に、しばらく遊ばれた健一だった。 結局桔梗にすっかり気に入られ、またお見舞いに来てねと笑顔で見送られた日からしばらく。 休み明けというのもあってか、授業中は少し気が抜けてしまっていた。ホームルームを終え、荷物をまとめて立ち上がったところで、何故か離れた席の千夜子がびくっとする。どうしたんだろうかと思いつつそのまま廊下に出ると、不意に横合いから声が掛かった。 「ねえ絹川君、ちょっと話があるんだけど……いいかな?」 話しかけてきたのは、佳奈だった。 無意識のうちに身体が強張る。日奈の一件以来、すれ違っても意図して視線を合わせてこなかった相手だ。健一自身あまり関わりたくなかったが、佳奈の方はどうも機会を窺っていた節があった。 今までは健一の態度と空気に、気後れしていたのかもしれない。そういう風に振る舞っていたのは確かだし、他人の事情を顧みないタイプの佳奈にしては、珍しく押しが弱かったからだ。 しかし、一度こうなってしまうと無視するわけにもいかない。 バイトのシフトが入っているのでそれを理由に断ることもできるだろうが、佳奈の話は間違いなくややこしい。さらに言えば、スルーしたらしたで余計にややこしくなる可能性もある。 「だめ、かな?」 弱気な口調と上目遣いが、一瞬日奈と被って見えた。 そんなところは姉妹なんだな、と思い知らされ、心が軋んだ。 ここにいない彼女の幻影を振り払い、努めて平静を装いながら返す。 「ちょっと待っててください。バイト先に電話します」 「……うん。ごめんね」 父に渡されたPHSが初めて役に立った。 覚えていた番号をプッシュし、コールを掛ける。音楽が設定されているのか、優しいピアノの曲が響き出す。それを途中で切るように「はい、天国への階段です」と早苗の少しくぐもった声が聞こえた。 手短に遅れる件を伝えると、案の定あっさり了承されてしまう。受話器越しの背後は静かで、本当にこれだけお客さん来なくて大丈夫なんだろうかと心配にもなったが、ともあれ懸念は片付いた。 「連絡したので、もう大丈夫です。どこで話します?」 「あんまり長くはならないと思うけど……アルバイトあるみたいだし、歩きながらにする?」 「わかりました。それなら遅れるって言わなくてもよかったかもしれませんね」 「先に言っておけばよかったよね」 「いえ。もしかしたら長くなるかもしれませんし」 予定の時刻までに行けない可能性があるのなら、やはり連絡はしておくべきだろう。 PHSをポケットへ仕舞い、先行して歩き始める。引き留めた負い目からか、佳奈は健一に大人しく付いてきた。ちなみに千夜子は教室の引き戸から廊下を覗き、健一に佳奈が話しかけているのを見て物凄い顔になっていたが当の二人は全く気付かなかった。 下駄箱で靴を履き替え、校門を出る。ちらほらと隣を過ぎる下校中の生徒達から離れるまで、お互い無言の時間が続いた。 「……絹川君は」 先に口を開いたのは佳奈だった。 健一より少しだけ斜め後ろの位置で、ぽつりと呟く。 「日奈ちゃんのこと、知ってたの?」 「知ってたっていうと?」 「……日奈ちゃんの、好きな人が誰かってこと」 「はい」 躊躇い混じりの濁した問いかけには即答した。 そうだ。知っていたのだ。 シーナが、日奈が告白する前から。 誰にも話せず、胸に秘めていた時から、ずっと。 健一だけは、わかっていた。 「だから、日奈ちゃんと仲良かったんだ」 「それだけじゃなかったですけどね。僕と日奈は、確かに友達でした。少なくとも僕は、そう思ってました」 「私は、絹川君のことが好きなんだって思ってた」 「聞きました」 佳奈の声は、僅かに震えているようだった。ひとりごとにも似ていたし、緊張で張ってもいた。 そういう窺える感情全てを敢えて無視し、短く事実だけを告げる。 でなければ、すぐにでも苛立ちが表情に出てしまいそうだからだ。 「日奈ちゃんってね、男の人と全然仲良くしようとしなかったの。クラスの女の子とは普通に話すけど、寄ってくる男の子には素っ気なかった。男の子は怖い、って言ってたこともあった。だから私、日奈ちゃんは男の人がみんな苦手なんだって思ってた」 健一は口を閉ざす。 聞く姿勢でいると悟り、佳奈はそのまま独白する。 「日奈ちゃん、すごく可愛いから。私達にはよく男の子が近付いてきたし、ときどき告白されることもあったの。でも日奈ちゃんは全部断ってた。興味ないから、よくわからないから、上手くいかないと思うから、って。みんな日奈ちゃんのことをちゃんと知らないのに、可愛いから寄ってくる。双子だけど、私は日奈ちゃんのお姉ちゃんだもん、守らなきゃって思ってた。絹川君が一緒にいた時も、他の男の子と一緒だろうって、最初はそう考えてた」 だけど、 「日奈ちゃんは絹川君のこと、嫌がってないみたいだった。そんなの初めてだったんだよ。特別なんだって思った。じゃあきっと、日奈ちゃんは絹川君のことが好きなんだって」 だから、 「わかるわけないじゃない。私も日奈ちゃんも女だよ? 血が繋がった双子の姉だよ? 産まれた時から、ずっと一緒にいるんだよ? なのに日奈ちゃんが私を……愛してるだなんて、わかる方が変でしょ? シーナなんて名前まで考えて、男の人みたいな恰好して、口調も変えて、嘘吐いて私を騙して、キスまでして……そこまでするとか、わかる方が変でしょ?」 佳奈は言うのだ。 わからない。わかるはずがない。おかしい。それは違う、間違いだ、信じられないと。 瞬間的に腹の奥からせり上がるものがあった。内臓を、喉を灼く熱が、外へ出ようとする。健一は無意識に、右手で左胸の服をきつく掴んだ。布が皺になり、ギリギリと繊維が音を立てそうなほど強く。 立ち止まった健一を佳奈が一歩分追い抜き、何事かと振り返る。 「……確かに、それは普通じゃないかもしれません」 「そうよね? わからなくても当然よね?」 「でも!」 抑えようとしても、抑え込めるものではなかった。 目尻が熱い。鼓動が速い。心が痛い。 健一は泣きそうだった。辛くて、苦しくて仕方なかった。 しかしそれさえ、日奈が背負っていた気持ちにはちっとも足りない。足りるわけがない。 「普通じゃないからって、諦められるものじゃないでしょう!? 好きってそういうものじゃないんですか!? 自分に嘘を吐けなかったから、ずっと日奈は苦しんできたんだ! 双子の姉なのに、何でわかってやれなかったんですか! どうして、わかろうとしなかったんですか!」 以前冴子が言っていた通り、真実はどうあれ、健一と日奈は揃って佳奈を欺いた。一時偽りの恋人になれたとはいえ、日奈と佳奈の心は、本質的にはすれ違ったままだったのだ。酷いことをしたと非難されて然るべきだろうし、やり方は間違っていたと思う。 けれど、それならどうすればよかったのか。そもそも正しいやり方なんてものは存在したのか。子供でしかなかった二人に、答えを教えてくれる人はいなかった。わからないまま、間違ってもなお進むしかなかった。 それを否定されるのは構わない。だが佳奈は、否定さえもしなかった。間違いを間違いとも認識せず、正しいと認めるのでもなく、有り得ないからと間違いの意味を捻じ曲げた。 日奈は、きっと答えが知りたかったのだ。 ただ、本当の自分を見てほしかった。向き合ってほしかった。 それだけだったはずなのに。 「……絹川君は、今でも日奈ちゃんの味方なんだね」 半ば呆然とした声色で、佳奈が言った。 まるで、話をすれば健一が認めてくれると思っていた、とでもいうような口振りだった。 「当然じゃないですか。僕はずっと、日奈の味方です。これまでも、これからも」 日奈が感じただろう絶望が、少しだけ理解できた気がした。 どれほど言葉を尽くしたところで、目の前の彼女には届かないのだ。相手は聞きたいことだけを聞き、都合の良いことだけを押しつけていくのだから。 それ以上の会話を望まず、佳奈は肩を落として去っていった。日奈に酷く似た小さな背中が視界から消えてから、胸を掴んだ健一の右手は力なく落ちる。怒りを通り越して、空虚な失望が心中には広がっていた。 どうしようもなく不毛で、残酷な事実確認だった。 「でも、日奈は佳奈さんのことが、好きなんだよな」 だからこそ辛い。だからこそ苦しい。 好きとは、何なのだろう。 大切な友達を、救われない道へ向かわせるその感情は、何故生まれてしまったのか。 わからない。 晴れない鉛雲のような気持ちを抱えたまま、健一は早苗の店へと歩いていく。 その足取りは、当たり前に重かった。 「絹川君、今日はもう上がる?」 バイトを始めて早々、心配そうな表情の早苗にそう言われた。 佳奈との一件が尾を引いているのは明白だった。苛立ちを隠そうとしても、滲み出る暗い怒りが立ち居振る舞いから見えてしまう。幸い到着してから客はまだ来ていなかったが、役に立たないどころか、現状ではいるだけで邪魔になっている感すらある。 本当に申し訳ないけどもう帰ろうか、と考え、背中で結んだエプロンの紐を解こうと後ろに両手を回しかけたタイミングで、入口の扉が開きかけたのに気付いた。 咄嗟に手の位置を戻し、いらっしゃいませと声を投げる。 自分でも意外なほど、引きずっている不快な感情は表に出なかった。 「……あれ、八雲さん?」 店内に入ってきた人影の正体に、健一は軽く驚いた。 刻也がここを訪れたのは、シーナと一緒に波奈に連れられたあの日だけのはずだ。また来るようなことは言っていたが、あまりこういう場所へ積極的に足を運ぶイメージがない。特に健一や冴子がいる時間帯は、いつもの刻也なら避けるのではなかろうか、と思う。 首を傾げる健一は、ふと刻也の背後にもう一人、誰かがいるのを認めた。 「絹川君。今日は君に会ってほしい……紹介したい人を連れてきたのだ」 「僕に、ですか?」 刻也が頷き、半身をずらす。 彼と比べ、随分小さな背丈の少女だ。決して短くはない髪をツーサイドで括っており、身長も相まって妙に幼い印象を受ける。普通に可愛らしい面立ちで、中学生と言われても信じてしまいそうだった。ただ、体型に不釣り合いなほど胸が大きい。明らかに大きい。制服らしき生地がぱっつんぱっつんに張っていた。 初対面の人間を前に警戒しているのか、刻也の背に隠れているが、何故か正面の健一をじーっと睨んでいる。こころなし怒りというか憎しみというか、殺意めいた刺々しさを感じなくもない。 「もしかして、八雲さんの彼女?」 「ああ。こちら九条鈴璃君だ。鈴璃君、彼は絹川健一君。カウンターにいるのが、この店のマスターである小西早苗さんだ」 「はっ、はじめまして、九条鈴璃ですっ」 彼女であることを否定しなかった刻也の言に照れつつ、何故か先に早苗へ向かって頭を下げる鈴璃。それから今度は健一に対し、早苗の半分程度の深さでお辞儀をした。顔を上げた瞬間、また視線が突き刺さる。 ……初対面なのに、何か悪いことでもしたのだろうか。 疑問を内に押し込めながら、ひとまず席に案内する。健一はカウンターかテーブルの二人席を勧めたが、刻也はテーブルの四人席を選んだ。布巾でさっと拭き取り、座った二人の前におしぼりとお冷を置く。 「そっかー。刻也君の彼女さんなのねー。ふふ、折角連れてきてくれたんだし、今日はお姉さんがケーキセットを奢ってあげましょう」 「いえ、そんなわけには。今度はお代もお支払いします、と言いましたし」 「ならコーヒー分だけでいいわ。ケーキはサービス。それならどう?」 「……わかりました。ご厚意は有り難くいただきます」 「絹川君もそっち座ってていいわよー」 「えっ」 「お客さんもいないしね。最近君にはご馳走してなかったし、一杯飲んで落ち着きなさいな」 さすがの健一でも、それが早苗の心遣いだということは理解できる。 「ケーキ、絹川君の分はちょっと待ってくれる? 今二つしかなくてね、そろそろ幹久のところから来るはずなんだけど」 「えっ、いや、そこまでしてもらわなくても……僕はコーヒーで充分ですよ」 「いいからいいから。今回はリベンジも兼ねてるからね」 こういう時の早苗はやたら押しが強い。結果的に、健一は刻也の隣に収まることになった。そして気の所為でなければ、斜め向かいに座る鈴璃からの視線がさらに鋭さを増した。 「……えっと、九条さんは、流輝君のお姉さん、なんですよね?」 「そうだけど」 「ぼ、僕も自己紹介した方がいいですかね?」 「別に。知ってるし」 「………………」 会話が続かない。 何でこんなお通夜みたいな空気になっているんだろうか。 「すまないな、絹川君。鈴璃君は少し人見知りで、特に男性が苦手なのだよ」 「……僕なんかと会わせてよかったんですか?」 「正直に言えば、迷いもしたのだが……以前君達には鈴璃君のことを話したし、鈴璃君自身も、一度絹川君を見ておきたいと言ったものでね」 まあ確かに、これ以上ないほど見られているが。 「はい、お待たせしました。ケーキセットです。ごめんね、絹川君の分はもう少し掛かりそう」 「大丈夫ですよ。お二人とも、僕のことは気にせずどうぞ」 皿に乗って出てきたのは、ベリーを使っているのか、鮮やかな半透明の、赤色が目立つケーキだった。ゼリーのように固まった上層とスポンジの間に、白く濃厚なクリームが挟まっている。コーヒーはブレンドだろう。深みのある、透き通った黒。働いている時も感じるが、さっと出せる作り置きの割には香りが非常に強い。 刻也は若干申し訳なさそうに、鈴璃は眼前のケーキに目を輝かせて、揃いの仕草で両手を合わせる。性差もあるのだろうが、刻也はコーヒー、鈴璃はケーキにまず手を伸ばした。 「っ、おいしい! 甘酸っぱくて、すごいさっぱりしてる……」 「……やはり早苗さんのコーヒーはおいしいな。鈴璃君も飲んでみるといい」 「うん。ん……あ、ケーキによく合ってるね。こんなに飲みやすいコーヒーは初めてかも」 すぐ隣で行われるやりとりには、気心の知れた関係特有の空気があった。 元々刻也は口数が多いタイプではないし、鈴璃も積極的に話したがる性格ではなさそうだった。会話の数はむしろ少ない方だ。しかし、多くを語らずとも通じ合っている、そんな気がする。 自分と綾なら、もっと無遠慮に距離が近くなる。自分と冴子なら、もっと互いに寄りかかっている。自分と蛍子なら、もっと傷付け合っている。刻也と鈴璃は、そのどれからも遠いように思えた。それこそが自分と彼らを分かつ何かなのだとも。 ケーキを食べきり、コーヒーの残りも僅かになったところで、刻也が突然席を立った。 「すまない。少し離席する」 言って、ポケットから小さなものを取り出し外へ向かう。 左手に握られたものからは、微かに点滅する光が見えた。 「八雲さん、PHS持ってたんですね」 「たぶん、狭霧ちゃんからだと思う。刻也君の番号、私と刻也君のお母さんと狭霧ちゃんしか知らないはずだし」 「そういえば僕も教えてもらってないですね……」 「ふうん」 気のない相槌を打つ鈴璃の顔から、微妙に優越感が滲んでいた。 「……あの」 「何?」 「僕、九条さんに何かしちゃってました? 覚えはないんですけど……知らないうちに迷惑掛けちゃったりとか」 「……別に、そういうわけじゃないけど」 ならどうして、と率直に訊くのは憚られた。 健一を見る鈴璃が、拗ねたような、悔しいような表情で頬を膨らませている。 「最近、刻也君がアンタの話ばっかりするの」 「僕の?」 「私が誰なのかって聞いたら、友達だって。今まで刻也君、男の子の友達の話なんてしたことなかったし。アンタのことを話してる時、何だか楽しそうだった。絹川君は不思議な人だ、って、よく褒めるの。世話になってばかりだとか、色々……私の知らないところの話を、私にするようになった」 ソーサーに置かれていたスプーンを取り、コーヒーの残りをかき混ぜながら鈴璃は続ける。 「流輝もそう。自分の話が通じる人に会えたって。あの子、いっつもつまらなさそうな顔してたのに、たまーにアンタと会えたって日には、必ずその時の話をする。狭霧ちゃんだって、こないだうちに来た時、面白い人に出会えましたって言ってた。きっとそれ、アンタのことでしょ」 「どうでしょう……最初に狭霧さんと知り合ったのは、夏くらいでしたけど」 「そんなのいつだっていいわよ。大事なのは、アンタが刻也君と仲良し過ぎるってことなの!」 鈴璃がガタっと立ち上がり、勢い余ったと思ったのか、すぐに萎れて座り直す。 恥ずかしげに俯くその姿を見て、健一は何となく彼女の気持ちを察した。 目の前にいる九条鈴璃という少女は、本当に普通の女の子なのだ。 好きな人のことで一喜一憂して、例え男でも自分より親しいような相手には嫉妬して、周りが勝手に変わっていく様子に怖がりもする。迷惑を掛けるのは心苦しくて、好きだから彼の重荷にはなりたくなくて、大切な絆を繋ぎ止めるため、好きな人にちゃんと見てもらうために頑張っている。 世間一般、大半の人間が持っている尺度の中で生きて、そこから少しズレた刻也のことを、それでも好きでいてくれる子だ。 「僕は九条さんのこと、八雲さんにすごくお似合いな人だと思いますよ」 ふっと口から出た言葉は、健一の本心だった。 不意打ちめいた返しに面食らい、微かに頬を赤らめた鈴璃が、複雑な顔で目を細める。褒められて満更でもないが、敵に塩を送られたようで腹立たしくもあるのだろうか……なんて考えて、微笑ましさに少しだけ肩の力が抜けた。 「だから、僕のことは気にせず、八雲さんともっと仲良くなってください」 「そんなのアンタに言われるまでもないわよ。当たり前じゃない。刻也君は私の彼氏で、私が一番そばにいるんだから」 「はい。わかってます」 「何なのよその余裕みたいな態度……ま、いいけど」 それきり健一からは興味を失ったらしく、鈴璃の意識は外にいる刻也へ向く。 ただ、その横顔が仄かに緩んでいたのが見えて、何故だか妙に健一の心は軽くなったのだった。 電話を終えた刻也が戻って間もなく、二人は店を出ていった。 直後に咲良が追加のケーキを持ってきたのだが、忙しいのかすぐ帰ってしまった。以降三十分間、相変わらず来客は全くない。 刻也と鈴璃を見送る際は、一応バイトとして立ち回っていたものの、折角だしそのままケーキも食べなさい、と健一は再び座ることになった。今度はカウンターの方だ。 やがて運ばれてきたケーキは刻也達のと同じ種類だったが、コーヒーは少し違っていた。 まず、色が明らかに濃い。作り置きのブレンドより透明感が薄く、香りも通常のものより強い。 どこか挑戦的な笑みを向けてくる早苗に内心首を傾げつつ、まず一口。途端、舌を走る苦味に健一は目を見開いた。 「これは……」 「どう? 絹川君用に淹れてみたんだけど」 「……おいしいです。でも、どうしてわざわざ?」 「前に君がブレンドを飲んでた時、一瞬微妙な顔したのよね。たぶん味が好みじゃないんだろうってのはわかったんだけど、具体的なところは冴子ちゃんから聞いたわ」 風味に比例した、ブレンドとは段違いの濃さだ。 しかし嫌味のある苦さではない。微かな酸味が程良く、渋味も抑えられている。 早苗に勧められるままケーキを食べ、さらにコーヒーを飲むと、クリームの甘さだけが中和され、爽やかなベリーの酸っぱさがほんのり口内に残る。計算された味の組み合わせだった。 「おいしいものを食べたり飲んだりすると、元気が出るでしょ?」 「はい」 「そうするとね、嫌なこととか辛いことがあった後も、また頑張ろう、やってやろうって気になるものなのよ。喫茶店のマスターやるからには、来てくれるお客さんみんながそんな気持ちになってくれればいいな、って思ってる」 だから、とは言わなかったが、それが早苗なりの気遣いであるのは理解できた。 健一は小さく頭を下げ、ゆっくりケーキとコーヒーを味わう。 「こんにちは。……この時間だと、こんばんはかしら?」 僅かにコーヒーを残すのみというところで、背後から声が来た。思わず健一の身体が硬直する。 その様子を怪訝な目で見ながら、いらっしゃい波奈さん、と早苗が言った。 「隣、いい?」 ぎこちなくも頷く。 静かに健一の左側へ腰を下ろした波奈は、何を注文するでもなく、じっと座り続けた。 誤魔化すようにちびりちびりと飲み続けたコーヒーも、すぐになくなる。おかわりを申し出ようとした早苗をアイコンタクトで止め、 「早苗ちゃん。ごめんね、ちょっと絹川君を借りてもいい?」 「次に来る時は、ちゃんと注文してくださいよ」 「ええ。奮発しちゃう。絹川君は大丈夫?」 正直に言えば、断りたい気持ちでいっぱいだった。 十三階から、健一達のそばから去っていった日奈のこと。そして今日の、佳奈のこと。二人の母である波奈には、どう責められても仕方ないと思っている。例えきっかけがどうであれ、はじまりが何であれ、自分が窪塚家を引っ掻き回した一因なのは間違いないのだから。 けれど、ここで嫌だからと逃げるわけにもいかないだろう。 向き合うことを止めてしまえば、それは日奈の覚悟から目を逸らすことにもなる。 返事代わりに立ち上がり、使った食器をカウンターの裏側まで持っていく。ほとんどバイトとして役に立てなかったが、せめてこれくらいはと手早く洗って水切り台に並べる。 「あ、絹川君、波奈さんとの話が終わったら、そのまま帰っちゃっていいわよ」 「すみません……。全然仕事できなくて」 「いいのよ。刻也君の彼女を見られたし、君にリベンジもできた。それにまあ、色々やる気ももらえたから」 「やる気?」 「こっちの話。さ、いってらっしゃい。次は元気な姿を見せてね」 そんな早苗の言葉に、今度は力強く頷いて、店を後にした。 外は既に薄暗く、丁度陽が沈む頃だった。 肌寒い風が頬を切り裂くように撫でる。剥き出しの手もあっという間に冷え、そろそろ手袋が必要な時期だろうか、とぼんやり考える。 横を歩く波奈は冬物のセーターとロングパンツ姿で、どちらも身体のラインがはっきり出るチョイスだ。そうしているとスタイルの良さが目立つ。豊かな胸の前で両手を擦り合わせ白い息を吐きかける仕草は、年齢を感じさせない可愛らしさがあった。 「……ごめんなさいね」 不意に謝られて、身構えていた健一は困惑した。 どうにも普段より感情の自制が利かず、結構露骨に表情に出てしまっていたらしく、健一を見つめる波奈の顔が僅かに緩んだ。 「ええと……波奈さんに謝られるようなこと、された覚えはないですけど……」 「佳奈ちゃんが迷惑掛けたでしょう?」 既に話を聞いていたのも驚きだが、包み隠さず白状した佳奈にも驚きだった。 白状というより、健一にしたことを波奈にもしたのだろう。自分は間違っていないと、誰かに認めてほしかったのかもしれない。 「いえ、こっちこそ怒ったりして申し訳なかったです」 「はっきりしたところまでは聞けなかったけど、あれは佳奈ちゃんが悪いわよ。よりにもよって絹川君に許してもらおうとするなんて……育て方を間違った、なんて言いたくはないけどね。母親として、娘のしでかしたことには責任があるもの。本当にごめんなさい」 「そんな、波奈さんに謝ってもらうようなことはないですよ。僕だって大人げなかったですし……たぶん佳奈さんは、不安だったんじゃないかって、今は思うんです」 鈴璃と話して、早苗に気遣われて、少し落ち着けたからこそだが。 当然佳奈だって、全く傷付いていないわけではないのだ。双子の妹が、世界で一番身近な存在が、理解できない理由で泣いて、別れて、遠くへ行ってしまった。最後まで状況に付いていけないまま、一人流れに置いていかれたと見れば、同情の余地も多少は生まれる。 「あの子のことまで、頑張って理解しようとしなくていいのよ。腹が立ったら素直に怒ればいいの。誰にだって優しくしようとしたら、きっと疲れちゃうわ」 「……そうかもしれませんね」 今更わかったからってどうなる、という気持ちも、ずっと胸の中で疼いている。 人それぞれに事情や理由があるとしても、永遠に八方美人ではいられない。一方に味方をすれば、必ず心も傾いていく。 誰かの力になるというのは、きっとそういうことなのだ。 他の何かを無視して、時には踏みにじる瞬間が、いつかどこかで確実に来る。 肺腑に溜まった重みを吐き出すように、健一は深く嘆息する。 唇から漏れる白煙が途切れるのを待って、茜色の空を見上げた波奈が呟いた。 「日奈ちゃんの気持ち、私、知ってたの」 「それは……佳奈さんが好きだってことを?」 「ええ。毎日のように遅くまで帰ってこない理由も、夏休みは特によく出かけてた理由もね。だって母親だもの、娘のことは言われなくたってよく見るわ」 初めて波奈に会った時、確かに彼女はシーナの正体にも気付いていた。 放任主義なのかとも思っていたが、全てわかった上で自由にさせていたのだろう。もっとも、佳奈は何ひとつとして気付かなかった。シーナのことも、日奈のことも。その差はいったい何なのか、理解できるからこそ、もう健一は考えたくもなかった。 「ずっと日奈のために頑張ってくれてたのに……嫌な思いをさせちゃったわね」 「そんなことないです。友達のために、僕がしたいからやってたことですし……それに、結局上手くいかなかったじゃないですか。感謝されても、ちょっと困るというか」 「ううん、それは違うわ。きっと、これ以上に上手くいくことなんてなかったのよ」 健一の足が止まった。 遅れて止まった波奈が、一歩先に出る。 戻らず、振り返った彼女を、健一は信じられないような目で見ていた。 「こんな……こんな結果が、一番よかったっていうんですか」 波奈は頷く。 頷いて、硬い表情のまま口を開く。 「佳奈ちゃんは、普通の子だから。日奈ちゃんの本当の気持ちを、本当の意味で理解することはできないの。今までもそうだったし、今回もそうだった。きっと、死ぬまでそうよ」 「だったら、どうして! どうして日奈を、止めなかったんですか!」 いつの間にか、陽が落ちきっていた。 外灯と、周囲の民家からの光だけが、二人を心許なく照らしている。 冷たい夜の空気に、健一の怒声は酷く響いた。 わんわんと泣くように、投げつけた感情と音が耳の奥で鳴る。 「僕じゃ無理だったんです。僕は応援したかった。心のどこかで、日奈の気持ちが届いて、上手くいって、幸せになれるって信じてたんです。希望はあるって思ってたから、背中を押し続けた。僕が」 現実という奈落へと、突き落とすように。 「日奈を、傷付けたんだ」 ――あなたが、母親であるあなたが止めてさえくれれば、あるいは、傷付かずに済んだかもしれないのに。 それは八つ当たりに近くもあったし、懇願でも、祈りでもあった。 涙は出ない。誰より傷付いた当人を差し置いて、自分が泣くなんて甘えは許せない。 じっと健一に睨まれた波奈は、視線を逸らさなかった。 「ありがとう、絹川君」 告げて、笑う。 一歩を詰める。そうして正面から、波奈は健一を抱きしめる。 優しく。 「……私はね、日奈を信じてるの。あなたと同じよ」 「何が、同じなんですか」 「あの子はこんなところで終わるような人間じゃない。傷付いて、泣いて、苦しんで、ボロボロになって倒れても、また立ち上がって、前を向いて、羽ばたいて、遙か高みへ駆け上がるの。願いも、幸せも、やりたいことも、絶対に諦めない子だって、そう信じてるの」 それは。 あの夜、泣いていた日奈に願ったことではなかったか。 冴子と共に、確かめ合ったことではなかったか。 「もし私が止めていたとしても、きっと日奈ちゃんは納得しなかったわ。答えを出すのは、あの子だけができることよ。自分と佳奈ちゃんは別の人間だって、納得して初めてあの子は踏み出せたんだって思うの」 築き上げてきた“窪塚日奈”は嘘だったから。 双子の妹でも、引っ込み思案で可愛い女の子でもなく、シーナこそが日奈の“本当”だったから。 「こんなこと言っても、信じてもらえないかもしれないけど……こうなるってわかってて、それでも日奈ちゃんを見守るだけでいるのは、辛かったわ。どこかでもっと間違えてたら、家族が壊れてもおかしくなかった。怖かったし、止めようかって何度も思った。自分の娘だもの。傷付いてほしくない。守ってあげたい。ほんとは、ずっと手元に置いておきたい。いてほしい。でも、それは許されないから。いつか、日奈ちゃんも、佳奈ちゃんも、大人になって私達の下から離れていくものだから」 抱きしめられ触れる胸越しに、波奈の心臓の音が聞こえていた。 速く、熱く、背に回る指先が微かに震えている。 顔は見えない。けれど、綺麗に笑えていないということだけはわかった。 恐る恐る、波奈の背中に手をやった。セーターの生地を撫で、二度柔らかく叩く。 二児の母に対して何をやっているんだろうと思うが、性的な意味合いは一切なかった。ただ、こうして受け取った優しさを、ほんの僅かでも返したかった。 十秒は掛けていなかっただろう。 やがて身を離すと、波奈は俯いて袖で目元を拭い、それから笑みを浮かべた。 大人でも泣くのだという思いを、健一は静かに胸の内へ留めた。 「……歩きましょ?」 「ですね」 互いに再び足を動かす。靴がアスファルトを踏みしめ、擦る。 今、日奈はどうしているだろうか。 元気だろうか。新しい学校で友達はできただろうか。何を考えて、毎日頑張ってるだろうか。 全て、健一には知る由のないことだ。 それでもひとつだけ、確かなことがある。 日奈は戦っているのだ。たくさんのものと向き合い、抗い、走り続けている。 その行く先が少しでも良くあるよう、健一も、波奈も、祈っている。 「私が日奈ちゃんを信じられたのは、絹川君、あなたのおかげでもあるのよ」 「……僕、何もできなかったですけど」 「日奈ちゃんのそばにいてくれたわ。あの子が苦しんでた時も、一人じゃなくてあなたと一緒だったから、私も安心できたの。……正直に言えば、ちょっとだけ、絹川君が私の義理の息子になってくれるかなって期待したんだけど」 「それは絶対有り得ませんよ」 「どうして?」 「僕と日奈は、親友ですから」 「……ふふ、そうね。恋人と友達は、別物ね」 会話はそれきり途切れ、程なくして分かれ道に辿り着く。 家まで送っていこうかと健一は提案したが、大人なんだし大丈夫よ、と波奈が固辞した。 またねと手を振り去っていく背中に、小さくお辞儀をする。 遠からず、例えば早苗の店で顔を合わせることもあるだろう。しかしもうその時には、隔意や負い目なく話せるに違いない。 帰路に就く足取りは、気の所為でなければ、随分軽くなっていた。 激動の夏秋と比べて、冬になるまでの日々は穏やかなものだった。 シーナ&バケッツの活動が完全になくなり、夜な夜な出かけることも、ライブに向けた練習もしなくなった。代わりに冴子といる時間や、自宅で家族と一緒にいる時間が増えた。 平日、学校の昼で振る舞われる千夜子の弁当も、ゆっくりではあるが着実に進歩しているのが窺えた。まだ時折調理面での甘さは見えるものの、そのうち健一のコーチは不要になるだろうと思う。 しょっちゅう早苗の店に顔を出す波奈から聞いた限り、転校した日奈の生活は順調らしい。逆に佳奈はあれから健一を敬遠するようになったが、これは仕方ないと割り切っている。あとは当人の、気持ちの問題だ。 十三階の様子も、日奈の退去を境に変わっていっている。 綾は仕事で頻繁に空けるようになったし、冴子は一人で眠れる日の割合が徐々に多くなってきていた。刻也はほとんど何も変わらないが、たまに鈴璃の話をする。健一自身、以前よりも十三階にいる日は減った。 そういった大小様々な変化のうちのひとつが、狭霧との関係だ。 バイトを始めて以来、客としても狭霧は早苗の店によく訪れる。大抵はコーヒーを飲み、早苗や健一ととりとめのない話をして帰るだけなのだが、それだけでも接触の機会が増えたと言えるだろう。ただ、その日はアプローチの仕方が別だった。 「今日はちょっと二人でお出かけしませんか?」 なんて言って現れたのは、健一のバイトが終わる五分ほど前。微妙に既視感を覚えなくもない誘いにどうしたものかと考え、まあこの後用事もないしいいかと頷くと、嬉しそうな顔をして狭霧はカウンターに座った。しれっと早苗にブレンドを頼み、ご機嫌な様子で足をぶらぶらさせる。 どうせお客さんもいないし、と早苗が早上がりを許したので、バックスペースでエプロンを外して仕舞い、カウンター側に戻る。 「健一さん、着替えるの早いですね」 「僕はエプロン上から着けてるだけですし」 「早苗さーん、男性用の衣装みたいなのはないんですか?」 「作ってもいいんだけど、絹川君が身軽な方がいいって言うのよね」 「なるほど。あ、すみません、飲み終わるまで待ってもらえると……」 「焦らなくても大丈夫ですよ。待ちますから、ゆっくり飲んでください」 気合を入れて両手でカップを持とうとした狭霧に、軽い言葉で制止を掛ける。 と、何故か早苗に手招きされた。 近付いたところで耳元に唇が寄せられる。 「もしかして狭霧ちゃんって、絹川君のことが好きなんじゃない?」 「からかわれてるだけ、だと思うんですけど……」 これまでの、特に病院でのやりとりを思い出すに、狭霧にはそういう面がある。 魔性というか、男を転がす手管というか。 ちらりと彼女の方を見る。柔らかい笑顔が返ってきて、健一は反応に困った。 それから十分ほど後、コーヒーを飲み終えた狭霧と共に出かけた先は、前回と同じ病院――ではなく、全く何の関係もない、しかも明らかに適当に入っただろう喫茶店だった。碌にメニューも見ず、狭霧はブレンドを注文する。健一もこだわりはないので同じものを。間もなく届いたカップに口を付け、二人揃って渋い表情になる。 「……ここを選んだこと、早くも後悔してます」 おいしくないですね、と率直に狭霧が言うので、抑えて抑えてとジェスチャーで示す。単純に客数だけを見れば、早苗の店より繁盛しているのだ。否定的な話をして周囲に聞かれるのは色々と怖い。 とはいえ、味については健一も全くの同意だった。薄く、風味も弱い。無駄に酸味だけが強く、早苗のコーヒーに慣れた身では一杯分を飲みきれる気さえしなかった。いくら作り置きのブレンドだとしても、これほど差があるのかと思う。 「別に、文句つけるために頼んだつもりはないんですよ。つい先日まで、コーヒー自体好きでも嫌いでもなくて、あんまり飲まなかったんです」 「じゃあ最近変わったんですか?」 「早苗さんのコーヒーを飲んでからですね。辻堂さんのお店なんかだと、ケーキに合うコーヒーみたいな感じで出てきて、それは一緒に食べることを想定してあるわけですけど……早苗さんのは、勿論ケーキとセットでもおいしいんですよ。でも、コーヒー単体で完成してると思うんです」 「それはまあ、何となくわかります」 「だから私、コーヒーが好きになったのかな、って考えてたんですよね。でもこうしてみる限り、何でもいいんじゃなくて、早苗さんのコーヒーを気に入っただけなんだなと」 つまり、自身の嗜好を確認したかったのだろう。 その手段がどこかズレているのは、お嬢様たる所以なのかもしれない。 「……あれ、今日の目的って、それだけです? この後また桔梗さんのところに行くとかは」 「考えてませんよ。用がないのに誘っちゃ駄目ですか?」 「いや、そういうわけじゃないんですけど……さっきの流れだとその方が自然だと思ってたので」 「確かに前回と同じ誘い方しちゃいましたけどね。私が絹川さんとお話ししたかったからってだけですよ。どうしても母さんのところに行きたいってことなら連れていきますけど」 「僕は狭霧さんに誘われたわけですから、狭霧さんに付き合いますよ」 「……健一さん、自然に殺し文句を口にしますよね」 何か今の発言に問題があったのだろうか。 首を傾げる健一に苦笑して、狭霧は話を戻した。 「元々母さんが入院してるのは、兄さんを待ってるからなんです」 「八雲さんを?」 「父さんは病院には来ませんから。実家に帰らない、父さんと会いたくない兄さんに母さんが会えるのは、病院しかないんですよね」 「え? お父さんは、桔梗さんのお見舞いには来ないんですか?」 「はい、絶対に。母さんは何度か入退院を繰り返してますけど、私が知る限りでは一度も」 「喧嘩してる……ってわけじゃ、ないんですよね?」 「今でも恥ずかしくなるくらい仲良いですよ。これは推測になりますけど、母さんが厳命してるんじゃないかと。私も家ではなるべく、母さんの話をしないようにしてますし。母さんにもそう言われてるんです」 「自分のことを話さないように、って?」 「病気のこと、自分のことで、父さんが悲しい顔をするのを見たくないんだと思います」 「あの……八雲さんに聞いたんですけど、八雲家は女性のみが夭逝する家系だって」 「……兄さんは、そんなことまで健一さんに話してるんですね」 一瞬優しいような、温かいような目で健一を見て、狭霧は頷いた。 「お医者さんが言うには、YY染色体……つまり女性にのみ発症する特殊な遺伝病なんだそうです。もう随分前からそういうものがあるとはわかってたんですけど、八雲の家は言ってしまえば結構な名家なので、恥だとされてきたんですよね。まあ当然だと思います。そこの家の人間と結婚して女の子が生まれたら、確実に早死にするってことなんですから」 「……ですね」 「母さんは、だから子供を産むつもりはなかったらしいです。血を絶つ覚悟だったとか。それを父が説得して、私達を産んだんですけど、どうもその時妙な約束をしたみたいで」 「それがお見舞いに来ない理由?」 「たぶんそうじゃないかなーって。だって父さんは絶対喋りませんし、母さんも口が固いものですから」 「……そういえば、さっきの条件って狭霧さんも当てはまります……よね」 「ええ」 ふとした健一の問いかけに、狭霧はあっさり首肯して認めた。 そんな軽く返事ができてしまえるものなのかと思う。 驚きが顔に出ていたのか、狭霧は心配しないでというように微笑んだ。 「大丈夫ですよ。今すぐ倒れたり死んじゃうわけじゃないですし。元々私は小さい頃に聞かされてましたから、心の準備はずっとできてるんです」 「でも……怖くはないんですか?」 「どうなんでしょう。実際に死期が近くなったら取り乱したりするのかもしれませんけど、今はまだ健康体ですし、はっきりとした実感はないんですよね。ただ、ある日突然余命半年です、なんて宣告されちゃうみたいな人よりかは、覚悟が先にできる分恵まれてるんじゃないでしょうか」 比較してしまえば、確かにそうなのかもしれない。 しかし健一からすると、余命半年と宣告された人間と、いずれ明確な破たんが約束されている狭霧、どちらの気持ちも想像できそうにはなかった。 難しい顔で考え始めた健一を見て、狭霧はトントン、とテーブルを指で叩き注視を促す。 「健一さん、私のこと、正直どう思います?」 「え? どう、というと?」 「自分で言うのも何ですけど、私って人より優れているところが多いなって思うんです。例えば容姿、今でも学校の男子には結構告白されますし、成績は同学年だと三指に入ります。女子バスケ部のキャプテンで部長やってましたし、関東の大会までは行きましたから、運動神経だって悪くありません。家の方針で花嫁修業もしてますから、こう見えて尽くす女です」 途中から自己評価というより売り文句になっているのは何故だろうか。 「母さんだって今でこそ入院生活してますけど、学生の頃は全国大会にも出たテニスプレイヤーだったそうですよ。父さんと知り合ったのも、東大のテニスサークルだったそうで」 「東大って」 その手の話に疎い健一でもピンと来る一流大学である。 一般庶民にはどうにも天井人めいた世界だが、ともあれ彼女の伝えたいことは何となく理解できた。 つまり、 「天は二物を与えず、なんて言いますよね。なら二個も三個も、あるいはそれ以上のものを持って生まれた人は、その分何か別のものを持たされていないと思うんですよ。じゃなきゃ不公平じゃないですか。私や母さんは、だからちょっと寿命が短いのかなって」 素直に認め難い気持ちはある。 が、当の本人が存外に明るい口調なので、健一は口を噤んだ。 個人の去就については、その個人だけが決められるものだ。 定められた時間を理不尽と感じるか、あるがままに受け入れるかも、狭霧にしか選択し得ない。健一が……平常に生きる他人がどう言ったところで、現実は変わらないのだから。 「母さんが治療を受けたおかげで、発症しても対処はできるらしいですけど……私はあんまり信じてないんですよね。遺伝病って要するに、他に類を見ない難病ですよ? 抑えることはできても、完全に治すのは無理だろうなと」 「………………」 「ああ、すみません。不幸自慢みたいになっちゃいましたね。そんな気にしないでください。さっきも言った通り、心の準備はできてますから。太く短く生きようって決めてるんです。人より短いなら、その分ぎゅっと詰まった、充実した人生を過ごせばいいんですよ」 微笑む狭霧に、気負いはなかった。 今年部活を引退したというのだから、歳は十五、中学三年生だろう。 日本人の平均寿命は八十前後。一般的な人間の一生から見れば、彼女の生はまだ二割程度でしかない。 たったそれだけの時間で、やがて来る死を人は認められるものなのか。 健一は、自分がとてもちっぽけな存在のように思えた。 将来どころか、己の感情さえも不確かなのだ。 少なくともそんな人間よりかはずっと、しっかりと立って、生きている。 「……ひとつだけ、父さんに対しては申し訳ないと思うんですよね。母さんは間違いなく私達より先にいなくなりますけど、よほどのことがない限り、私も父さんより先に死んじゃいます。親より先に死ぬなんて、一番酷い親不孝じゃないですか」 「本当に……狭霧さんは、すごい人ですね」 「ふふ、健一さんに褒められちゃいました。まあそういうわけで、なるべく父さんの言うことは聞いてあげたいんです。まだ先の話ですけど、高校を出たら結婚する予定なんですよ。父さんが自分の弁護士事務所の、若くて有望な人を紹介してくれる運びになってまして」 「さっき太く短くって言ってましたけど……それでいいんですか? 大学だって行けなくなりますよね?」 「はい。人に話すと、束縛強いとか可哀想とか言われたりするんですけど、私は納得してますし、父さんのこと、尊敬してるんです。だって、父さんは私の未来を真剣に考えてくれてますから。きっと母さんに入院を勧めたのも、結婚の話も、色んな可能性を想定してのことでしょうし」 狭霧の母、桔梗が危惧していたように、八雲の血筋では子供を産むこと自体がリスクだったはずだ。 それがわかっていてなお、結婚し、刻也と狭霧を産んだ。 結果だけを見れば、短絡的と指差されるのかもしれない。だが、桔梗が入院することで、遺伝病への対処法が進んだ。既に発症している桔梗は駄目でも、狭霧になら間に合うだろう。あるいは狭霧に何かあったとしても、結婚していれば、支えてやれる夫がいる。夫婦関係という社会的保障もある。万が一父親が不慮の事態に巻き込まれても、狭霧が一人残されることはなくなる。 人として、親としての責任感がそこには見える。 「だから、父さんが見初めた人となら、私は喜んで結婚できると思います」 「それだけお父さんのこと、信じてるんですね」 「ええ。兄さんに言ったら絶対機嫌損ねちゃいますけどね。……あ、でも最近、ちょっと違うことも考えてまして」 「違うこと?」 「勿論結婚はちゃんとするつもりですけど、まだ三年くらい猶予はあるわけですよ。だったらその間に、別れること前提にはなっちゃいますけど、別の人と恋するのもありかなって」 気付けば向かいの狭霧が、僅かに椅子とテーブルの隙間を詰めていた。 こころなしか顔が近い。にこにこしながら、じーっと健一に眼差しを注いでいる。 もしかして彼女は自分が好きなのでは、と勘違いしそうになるが、店を出る前、早苗に答えたようにからかわれているだけだろうと結論付けた。 そもそも狭霧なら、相手は山ほどいるだろう。三年あれば、きっとそういう男は見つかると思う。 あるいはそれを不誠実だと罵る人もいるかもしれないが、だとすれば健一は狭霧より遙かに不誠実だ。 恋愛と結婚は別物だともいう。 気持ちが本物である限り、恋をすることは自由で、ある意味全て誠実なのではないか。 故に健一は、本心から言った。 「いいんじゃないですか」 あまりにもあっさりした反応に、狭霧は珍しくきょとんとし、それから少しだけ身体ごと椅子を引いた。 表情は変わらないまま、すぅっと頬が赤くなっていく。 やがて耐えられなくなったのか、恥ずかしそうに、悔しそうに視線を逸らした。 「……計算して言ってるんだとしたら、ああいえ、どっちにしても、とんでもない女たらしだと思います」 「え?」 「何でもないですー」 喫茶店を出るまで、狭霧の機嫌が戻ることはなかった。 終ぞ健一には、その理由はわからなかった。 狭霧と別れて一人になると、否応なく親というものについて思考が及ぶ。 健一にとって、両親とはあってないような存在だった。それが最近、帰るといるのが当たり前になってきている。 いないというのは、意識されていないこととほぼ同じだ。本当にどうでもよかったわけではないのだろうが、ずっと両親は自分達より仕事を優先していた。子供である自分や蛍子は、仕事以下のものだと思っていた。 今は違う。蛍子の妊娠を期に、両親の中で優先度は引っ繰り返った。 これまで放置してきたのに今更だという感情は、自分も蛍子も共通で持っているはずだ。けれど、父は確かに自分達を気にしていた。以前は知らなかった父の過去について話を聞いて、いくらか両親に対する印象は改善したところもある。 刻也と狭霧の父も、同じなのかもしれない。 つい先ほど狭霧から聞いた父親像は、本当に立派なものだった。間違いなく娘に対しては真剣だと感じたし、どこか自身が疎まれることも織り込み済みのように思えた。 それより前、刻也に聞いた話ではどうだったか。 妻を疎かにした男。家庭より仕事を優先した公人。結婚した相手に愛を見せない、冷酷な人間。 あの時、刻也の口から示された父親像は、決して褒められたものではなかった。少なからず健一も反発めいた感情を覚えたし、夫婦間の愛情について刻也が疑うのも無理からぬことだと思った。 どちらが間違ってる、というのではないだろう。 おそらくどちらも正しいのだ。 刻也と狭霧の見ている世界は違う。同じ血を持つ家族、兄妹でさえ、認識しているものにはそれだけの差がある。 その差を埋めることが叶った時こそ、刻也が十三階を出ていくのかもしれない。 「いつまでも今の生活が続けられるわけじゃ、ないんだよな」 最も変化の少ない冴子も、いずれは健一を必要としなくなるだろう。 一人で完全に眠れるようになってからどうするのかは、未だに訊けた試しがない。 そうなったからって出ていくわけじゃないと言っていたものの、考えるきっかけになるのは確かだ。 けれど、今ではない。 今ではないと、思っていた。 「絹川君っ!」 幽霊マンションが見えたところで、一階玄関前に立っていた刻也が駆け寄ってきた。夜、周囲が暗くなる頃だ。曲がり角からは割と距離がある。ただでさえ眼鏡を掛けている、お世辞にも視力が良くない刻也が気付いたということは、ずっと健一を探していた……帰ってくるのを待っていたのか。 目前で足を止め、健一を正面に捉えた刻也の表情には、明らかな焦燥が窺えた。 しかし、小さく息を吸い、抑える。冷静を装った硬い声色で、 「バイトは随分前に終わっているはずだが……君は今まで、どこに行っていたのかね?」 「ええと……バイトの後に狭霧さんに誘われて、ちょっと喫茶店で話してまして」 「狭霧とか……いや、そんなことはどうでもいい……それよりもだ」 刻也の両手が上がり、健一の肩をがしりと掴んだ。 思いの外握る力は強く、微かに健一は顔を顰める。刻也にしては荒く、指先が強張っている。 只事ではない、というのはすぐわかった。 「八雲さん、どうしたんです? 何かあったんですか?」 「病院に行かなければならない」 「この時間に? ……もしかして、桔梗さんの体調が?」 「違う。違うが、場所は同じだ。ここから電車とバスでは時間が掛かる。大通りでタクシーを拾おう。詳しい話は移動しながらだ」 喋りながら、そのロスさえ惜しいというように刻也が走り出したので慌てて健一も追いかける。息を弾ませながら、得体の知れない不安が胸の奥で膨らんでいくのを感じる。 運良くタクシーはすぐに捉まった。行き先の病院名を刻也が告げ、後部座席に二人を乗せて夜の道を走る。運転手は何度か客を運んだことがあるらしく、後ろからのガイドは不要そうだった。 一息吐き、健一は刻也へと問いかける。 「……それで、いったい何が? 八雲さんがこんなに焦るなんて、普通じゃないですよね」 「絹川君……本当にわからないのか?」 何か。 互いの間に、見逃せない大きな齟齬がある。 考える。考えたが、健一に思い当たることはない。なかった。 だからまた訊き返すしかない。 「え、どういうことですか……?」 「まさか君は、何も聞かされてないのか……何故だ……なんということを……いや、私も気付くべきだった……」 俯き、額に手をやり、ひとりごとのように呟く刻也の声はわなついていた。 瞳の焦点が揺らぎ、記憶の海に沈む。刻也だけが知っている何かが、そうさせている。 すぐに顔を上げた刻也は、再び健一を見つめる。 訊かなければいけない、と健一は思った。 現実を。 刻也が知り、自分には伏せられていた、この状況に繋がる話を。 「僕は、何を聞かされてなかったんですか」 「有馬君の、病気のことだ。彼女の病気は、まだ治っていなかったのだ」 ――それはセックス依存症のことでは、とは、当然ながら言えなかった。 冴子が抱える問題は、心に因るものだとずっと思っていた。一人では眠れない、その体質めいた何かが彼女を苦しめていたのだと、勘違いしていた。 だから? 今、その話は何に関係ある? 認めたくなかった。信じたくない自分がいた。 それでもどこかに潜む冷静な自分が、認めろと耳元で囁いている。 刻也の口元がほんの僅か窄んだのが見えた。言葉を放つ前兆だった。 そして健一に叩きつけられる。 避けようのない、残酷な答え。 「有馬君が倒れた」 back|index|next |