二度目の口論は、翌日土曜の夕方から一晩続いた。
 当然ながら、やはり母は子供の父親が誰なのかを知りたがったが、終ぞ蛍子がその名を口にすることはなかった。あまりの頑固さに、怒鳴り疲れた母が渋々折れ、以降は今後の話にシフトした。
 片親の子が社会的に背負うハンデは、決して少なくない。
 蛍子達にとって幸いだったのは、絹川家が経済的に困窮していないということだ。両親の事業は既に安定しており、稼ぎも多い。仮に蛍子や健一が仕事を持たず、家にお金を入れずとも、慎ましく暮らしていけば一生問題ない程度の貯金があった。
 今後、父も母も頻繁に帰宅するつもりらしい。これまで姉弟で家事を回してきたが、まだ高校生の健一はいつも家にいられるわけではない。もし身重の蛍子に何かあった場合、そばに付いて対処できる人間が必要だろう。在宅でもやれる仕事はあるからと、なるべく交代で両親のどちらかが家にいるような計画が立てられた。
 皮肉な話だ。
 はっきりとは望まれず産まれる子が、壊れていた家族を結びつけようとしている。
 およそ会話の中で、健一は蚊帳の外だった。絹川家四人のうち、健一の生活だけがほとんど変わらずにいられる。あるいはこれまでより身軽になるかもしれなかった。何しろ蛍子は料理を覚え始めたし、母や父がいれば家事も分担される。
 果たして、それがいいことなのかはわからない。
 ずっと家のことを任せてばかりだったな、と申し訳なさそうに父に言われ、健一は曖昧に頷いた。
 そうする以外の答えを、持ち合わせていなかったのだ。
 話が落ち着いてから、身体が弱い友達の様子を見に行ってくると理由を付けて、半ば逃げるように外へ出た。嘘は吐いていない。実際、一日空けてしまうと冴子の調子が気になってくる。
 夜も遅い時間だが、まず1301を覗いた。共同部屋のためにいつでも鍵は掛かっていないものの、電気が落ちていた。念のため奥の部屋もいくつか見てみたが、誰の姿もない。一応1305もチェックし、こちらは開いていないことを確かめる。
 最後に掴んだ1303の玄関扉は、呆気なく健一を迎え入れた。
 真っ暗な廊下を、足音を殺しながら歩く。

「……そういえばこれがあったな」

 ズボンの右ポケットに手を突っ込み、ひとつの機械を取り出した。
 家を出る前に、父に渡されたPHS。わざわざ蛍子と健一、二人分を契約してきたのだという。連絡先の項目には、絹川家の番号と蛍子、昨日受け取った日奈、そして父のPHSが登録されている。
 もう二人ともいい歳なんだから持ってても困らないだろう、ということだったが、そこに父の後ろめたさが込められているように感じた。家庭を蔑ろにし続けてきた自覚は、ずっとあったのかもしれない。勿論、蛍子のためにいつでも連絡できる手段を用意しておきたかったのもあるはずだ。
 適当なボタンを押すと、小さな画面から微かな光が発される。
 その明かりを頼りに、健一は居間をぐるりと見回した。
 冴子はすぐに見つかった。
 ソファで、横になっている。顔は背もたれと反対側に向けられており、左肩を下にした姿勢だ。遠巻きに光を当てながら窺ってみれば、目を閉じて、静かに浅い呼吸を繰り返していた。
 信じ難いが、眠っているらしかった。

「有馬さん?」

 絞った声で呼びかけてみるも、目覚める様子はない。
 想像以上にぐっすり寝ているようだった。これが普段なら、横になってはいても、物音や気配を察して近付ききる前に起きてくるのだ。狸寝入りをし続けるお茶目さは冴子にないし、そうなると本格的に一人で落ちた線が濃くなる。
 しかし、普通に考えれば有り得ない状況だ。元々冴子は、他人の協力なしには眠れない。セックス依存症と本人は言っていたが、その単語通り、誰かと肌を重ねなければ、体力が尽きて気を失うまで起きているしかないのだという。
 健一が十三階に来られない時、いつも冴子は一人で夜を越していた。その度に目の下の隈が深くなるのを何度も見てきた。セックスをした後、真っ暗なベッドでほっとしながら熟睡する姿を、毎夜のように確認したのだ。
 冴子が掲げたその理由は、決して作り話ではない。
 だからこそ、急にこうなったのは何故なのか、健一には理解できなかった。
 それが本当に病気なら、いつか治る日も来るだろう。
 精神的なものなら尚更だ。些細なきっかけで原因がなくなることも、あるのかもしれない。

「そしたら有馬さんも、ここにいる必要、なくなるんですかね」

 他の誰かに迷惑を掛けたくないから、冴子は十三階に住むことを選んだ。
 今、1303に冴子を繋ぎ止めているのは、健一の存在があるからだろう。
 眠るためにセックスをしても、後腐れがない。好きにならない、勘違いしないと約束した。
 そう、勘違いをしてはいけない。冴子にとって、セックスはあくまで手段だ。
 綾とも、蛍子とも違う。感情を引き金に始めたものではない。

「……あー、僕、なんか嫌な奴になってる」

 PHSを床に置き、健一はソファの前で膝を付いた。
 丁度正面に眠る冴子の顔が来るようにして、じっと見つめる。
 先ほど抱いた感情が、身勝手な独占欲の類だという程度の自覚はある。
 日奈や蛍子の件で、精神的に不安定になっていることを差し置いても、それは持つべきものではないだろう。病気が治らなければいい、冴子がここを出ていかなければいいだなんて、いくら何でも自分勝手に過ぎる。
 照らしているのが電子の光だからか、より冴子の顔色は健一の目に青白く映った。
 セックスの後だと、あまりそうは思わない。が、少し寒いこの部屋で眠り続ける彼女は、生気に欠けた、人形めいた印象が強かった。息が途切れ、このまま永遠に目を覚まさなくてもおかしくはない気さえする。
 それが恐ろしくて、気付けば右手が冴子の頬に伸びていた。
 触れるか触れないかの距離まで来て、慌てて下ろす。

「ん……ぅ」

 直後、細い呻きが聞こえた。
 暗がりに睫毛が震える。緩やかに瞼が上がり、焦点の合わない瞳が健一を捉えようとする。

「あれ……私、寝てた?」
「えっと、はい、さっきまで」

 やがて目ははっきりと開いたが、問いかけながらも現状を飲み込めてはいないらしかった。
 端的に答え、健一は立ち上がって居間の明かりを点ける。ここに至り、PHSの心許ない光に頼る意味はもうなかった。

「……そうなんだ」

 半信半疑の声色で、冴子が呟く。
 もそもそと上半身を起こし、ゆっくりソファに座り直す。

「隣、いいですか?」
「うん」
「じゃあ、失礼します」

 ポケットにPHSを仕舞い、空いたスペースに健一も腰を下ろす。
 寝起きは喉が渇くだろうと、半分ほど入れた麦茶を手渡した。
 ぼんやりしたまま、こくりこくりと冴子が飲む。
 舌先が唇をちろりと舐めて濡らし、そうしてようやく一息吐いて、視線が健一へと向いた。

「昨日はこっち来なかったけど……家の方で、何かあった?」
「まあ、色々。どこから話しましょうか」
「……話してもいいことなの?」
「正直自分だけだと結構煮詰まっちゃってたんで……よければ聞いてほしいです」
「そういうことなら。寝起きで、申し訳ないけど」

 微妙に調子外れな謝罪に苦笑してから、健一は掻い摘んで蛍子の件を説明した。
 姉の妊娠。父の過去。自分達が、どれだけ考えなしの子供だったのか。
 要点を押さえて語る分には、五分と掛からなかった。
 結局あれほど重く考えていた問題も、言葉にすればこんな小さなものだったのか、と思う。
 冴子は頷きも否定もせず、本当にただ聞くだけだった。
 それでも、随分救われたように健一は感じた。

「絹川君とお姉さんの決断が正しいのか、私にもわからないけど……後悔は、してないのね」
「はい。それはしちゃいけないって思うんです。なんていうか……全部、認めることが、僕の取れる唯一の責任なのかな、って」
「……責任」
「子供なのに、何言ってんだって話ですけどね」
「ううん。とても、大切なことだと思う」

 冴子の肯定が、じんわり胸に温かく滲む。
 自罰的にはなるまいと決めていたが、許されたい自分が心のどこかにいたのも確かだ。
 複雑な気持ちになりながら、コップに唇を付ける。
 会話がなくなると、いつも以上に静けさが耳に痛かった。
 誤魔化し誤魔化し麦茶を啜り、意を決して健一の方から切り出す。

「あの」
「え、あ、うん、なに?」
「有馬さんは、ここを出ていくんですか?」
「……どうして?」
「いや、その……一人で寝られるなら、僕と一緒にいる必要もないのかなと」

 表情を見る限り、どうもそんな考えは一切冴子の中になかったようだった。
 健一の言葉をしばらく咀嚼して、

「……確かに、本当にそうなら、ここにいなくてもいい、わよね」
「別に、有馬さんに出ていってほしいとかは全然ないんですけど……日奈も、自分の道を見つけて出ていきましたし。有馬さんにとってのタイミングが今なのかなって、そう思いまして」

 不必要に饒舌な返しをしてから、健一は脳内で頭を抱えた。
 なんかもう色々と酷い。全く不安感を取り繕えていなかった。
 また冴子が悩む仕草を見せる。もっとも、さっきほどの溜めはなかった。

「私にも、どうして寝られたのかわからないの」
「きっかけとか、何かそれっぽい出来事とかはないんですか?」
「そういうのもさっぱり。だから、今日はたまたまじゃないかな」
「たまたま……ですか」
「たぶん、だけど……私の病気というか、依存症は、快方に向かってるのかもしれない。でも、そうなった理由がわからないし、また同じように寝られるとは限らないわ。だから治ったと決めつけるのは早いかなって」
「ということは、もう少し様子見、ですかね」
「うん。完全に治ったからって、出ていかなきゃいけないわけでもないでしょ?」
「……まあ、そうですね」

 理由がなければ居てはいけない、というのも確かに暴論だろう。
 日奈のケースと冴子のケースを同一視してはいけない。最後は本人の意思で決めることだ。

「それに、私がここを去るのは、病気が完治した時じゃないと思う」
「え?」
「どちらにしても、きっとまだ先の話よ」

 微かに頬を緩めて、冴子はそうまとめた。
 だから健一は追及できず、口を閉ざすしかなくなる。
 冴子の言い分も、間違ってはいないだろう。日奈だって、抱える問題が綺麗に解決したから十三階を去ったのではない。佳奈との関係は振り出しよりなお難しいところへ着地してしまったし、他にも多くの懸念をそのままにしている。
 ただ、日奈は正直に生きることを、大人になることを選んだ。だとすれば冴子が出ていくのも、彼女が何かしらの決心をする時だろう。子供で居続けることを止め、大人になるための、茨の道へ踏み出す瞬間が訪れるのだ。
 その時自分は、笑って送り出せるだろうか。
 みっともなく縋りついたり、しないだろうか。
 どうにも心が弱っている。力なく俯いた健一を、冴子はしばし見つめ、おもむろに自分の膝を叩いた。

「有馬さん?」
「絹川君、疲れてるみたいだから。……私の膝でよければ、使う?」

 予想だにしない申し出に、健一の思考が停止した。
 煮えきらない健一の手からコップを下ろし、自分の方に引っ張り、その上半身を冴子が倒させる。
 流されるように、頭が冴子の両膝に収まった。
 スカートではなくズボン生地なので、服がまくれるようなことはないが、そもそも女性の下腹部に顔がある、ということ自体が危ない。もっとすごいことをいくらでもしているはずなのに、妙な気恥ずかしさがあった。

「……有馬さんは、寝なくていいんですか?」
「さっきまで寝てたから、しばらくは平気かな。あとでまた一人で眠れるか試してみるけど」

 素っ頓狂な問いかけにもさらっと答え、健一の頭を固定する。
 冷たい手のひらが髪を梳いてくる。膝は柔らかく、仄かにいい匂いがした。
 突発的な状況への緊張感が、ゆるゆると解けていく。

「私にできるのは、このくらいだから。絹川君が、また明日から、歩いていけるように」

 思えば昨日から、両親との話を控えて、ずっと緊張が抜けていなかったのかもしれない。
 気を張り続けた二日間だった。それも終わり、身体はともかく、気持ちが安堵を求めていたのだろう。
 眠りはすぐに来た。無意識に何かを探した手を、優しく包まれたのが最後の記憶だった。










 週明けの月曜、放課後に健一はツバメに呼び出された。
 珍しく千夜子は抜きだ。ちょっと顔貸してよと言われたのが昼のことで、その時のツバメは睨むような目付きをしていたものだから、正直時間が来るまで気が気ではなかった。苦笑気味の千夜子に送り出され、早足で進む背を追って屋上に辿り着く。
 昼休みでもない屋上は、殊更に風が強く空気も冷たい。
 その分訪れる人間がいないため、あまり大きな声でできない話にはうってつけの場所だった。
 鉄の扉を閉め、少し歩いたツバメは何かを決意したように大きく息を吐く。
 そして、

「こないだは本っ当にごめん!」

 いきなり頭を下げて健一に謝った。
 何の話かわからないのもあるが、それ以上に割と傍若無人なツバメの謝罪、というレア過ぎる状況に思考が停止する。
 どう返したものか迷い、結局口をついて出たのは無難な言葉だった。

「……えっと、何か謝られるようなこと、あったっけ?」
「あったでしょ! シーナ&バケッツの件! アンタが私にキレたこと!」
「……ああ」

 ここ二日ほど立て続けにイベントが起こり過ぎた所為で、すっかり頭から抜け落ちていた。
 言われてみれば確かに、あの時初めてツバメに対して怒鳴ったのだ。不特定多数の人前であそこまで感情を露わにしたのは初めてだったし、無遠慮な言い分に、冷静になれなかった自覚がある。

「いや……でも、もう一回謝ってもらったし、それで終わりだと思ってたんだけど」
「絹川はそうだったかもしれないけど、それじゃ私の方が収まりつかないの。というか、結構今でも納得いってないのよ」
「納得って、何が?」
「シーナさんのこと。だって、理由もなしに突然いなくなっちゃうような人じゃないでしょ?」

 珍しく、というと失礼かもしれないが、ツバメは真面目な表情をしていた。
 口は軽いし、すぐ調子に乗るし、ミーハーで割と自分勝手な性格だが、本気でシーナ&バケッツのファンだったのかもしれない、と健一は思う。少なくとも、応援には熱意があった。誰かに共感を求めるのも、好きになってほしいという気持ちも本物だった。
 それはある意味、とても得難いものだ。
 答える前に、健一はツバメを横切り、屋上の端まで移動した。
 軽く地面を手で叩いて座り、ツバメに隣のスペースを示す。
 こんな寒い場所に長居するつもりはなかったが、彼女にはちゃんと話すことが誠意だと思った。

「まさか、先に座ってスカート覗く気じゃないでしょうね」
「別に鍵原のパンツなんて見たくないよ」
「見たくなりなさいよ!」
「ちなみに見たら?」
「ぶん殴る」
「理不尽過ぎる……」

 若干大回りで健一の左隣に付き、両手を尻の方へ差し込み、スカートがめくれないようにして腰を下ろす。
 微妙に足を外側に向けた体育座りの姿勢で、ツバメは続きを促した。

「で、結局何があったの?」
「……そんなに詳しくは話せないけど」
「別に気にしないわよ。元々私はファンでしかないんだし」
「じゃあ、窪塚日奈……さんのことは、知ってる?」
「知ってるも何も、今日はいろんなクラスで持ち切りだったじゃない。突然の転校だって。でも佳奈さんは特に喋らないし、ずっと暗い感じだし。複雑な事情があるのかなとは思ってたけど」
「日奈がシーナだって言ったら、信じられる?」

 一瞬ツバメは目を見開いた。
 しかしすぐに平静を取り戻し、得心したかのように頷く。

「なるほどね。あー、そっか、なんか色々繋がったわ。シーナさん肌綺麗だったし、脛毛とかも全然なかったし。ちょっと女の子みたいに可愛いなーって思ってたけど、そりゃ日奈さんだったら可愛いに決まってるわよねえ」
「……驚かないんだ」
「これでも結構びっくりしてるわよ。けどまあ、コンビだった絹川の言うことなら間違っちゃいないでしょ。正直もうちょい気になるところはあるけど、あんまり突っ込まないことにする」

 それは例えば、姿や名前を偽った理由だとか。
 公然と双子の姉である佳奈と付き合っていたことだとか。
 いつものツバメなら容赦なく訊いてきただろうが、一度やらかしたからか遠慮が芽生えていた。

「ん? シーナさんが日奈さんだとして、それでどうして日奈さんが転校するって話になるの?」
「デビューするんだ。シーナ&バケッツのシーナじゃなくて、窪塚日奈として」
「だから転校?」
「うん。もっと芸能活動に理解のある学校の方がいいからって」
「それにしたって即断即決っちゅーか……そんだけ本気だってことか」

 人は見かけによらないってホントよねー、とツバメが呟く。
 学校での日奈は、いつも佳奈と一緒にいる、少し気弱で可愛らしい女の子だった。
 その姿が一種の偶像だったと知っている人間は、決して多くなかった。
 嘘ばかり見せてきた場所だからこそ、さして躊躇わず捨てられたのかもしれない。
 あるいは、それを悲しいと言う者もいるだろう。
 けれど日奈にしてみれば、佳奈以外は何も要らなかったのだ。
 結局今も昔も、佳奈への想いを突き通すためであることに変わりはない。
 そこに至るまでの葛藤や苦しみは、自分達十三階の住人が知っていれば充分だと健一は思う。

「絹川はさ、デビューしようって考えなかったの?」

 僅かな間、遠い目をしていたところで、ふとツバメが問いかけてきた。
 何となく訊かれる気はしていた。そして答えも決まっている。

「僕は最初から、そんなつもりはなかったよ」

 バケッツでいたことは、あくまで日奈の目的を果たすための手段だった。
 仮に自分が奏者として優れていたとしても、他人が羨む才能を持っていたとしても、日奈と同じステージに立とうとは思わない。日奈がシーナであるのを止めたように、バケッツの役目も終わったのだ。だからシーナ&バケッツが再結成される日は、きっと永遠に訪れない。いつか日奈が歌い、その横で健一がハーモニカを吹くことがあっても、それは「窪塚日奈と絹川健一」でしかないだろう。

「ま、絹川ならそう言うわよね。アンタらしいわ」
「そうかな」
「そうなの。時々心配になるわよ。絹川って風船みたいだから」
「風船?」
「誰も掴んでなかったら、どっか飛んでいっちゃいそうなとこ」

 執着心がない、というようなことを言いたいのだろうか。
 否定しようと口を開きかけたが、明確な反論が思い浮かばずに止める。
 少なくともツバメほどには、何かひとつに熱を上げた覚えがない。
 誰かを好きになることも。
 蛍子の顔が脳裏に過ったものの、それは胸の痛みを強めるだけだった。
 吐息を落とし、曖昧に笑う健一を見て、ツバメは「処置無しだわ」と呆れた声を漏らした。

「アンタ、千夜子を泣かせるようなことはしないでよね」
「なんで大海さんの名前がここで出るの?」
「……何となくよ。っていうか絹川」
「何?」
「シーナ&バケッツが解散したんなら、ちゃんとみんなに知らせるべきじゃない?」
「……あ」

 完全に失念していた。
 とはいえ、日奈の転校が決まってからまだ一週間も経っていないのだ。蛍子の妊娠絡みの件もあり、健一が心休まる暇はほぼなかった。昨日一昨日にその話をされたとしても、対処に走る余裕はやはりなかっただろう。

「昨日も結構な人が集まってたわよ」
「それは……なんか、申し訳ないな……」
「一応確認しとくけど、再結成の予定はないのよね?」
「うん。絶対にないよ」
「オッケー。そういうことなら、私がみんなには伝えておく」
「……どうして鍵原が?」
「インタビューで言っちゃったからね。本物を聴かなきゃ絶対損だって」
「言ってたっけ」
「おい」

 ドスの利いた声に、健一の肝が少し冷えた。
 気を取り直し、ツバメが続ける。

「それにさ、アンタちょっと凹んでるみたいだし。ファンのみんなに面と向かって宣言するのも辛いでしょ」
「だからって、全部鍵原に任せるわけにもいかないだろ。どんな理由でも、みんなの期待を裏切ったのはこっちなんだから、僕の責任だよ」
「裏切りたくてこうなったわけじゃないでしょ? いいから任せなさい。だいたいバケッツの絹川がいきなり顔見せなんてしたら、別の意味で大騒ぎになるわよ」
「というか、まず偽者だって疑われそうだよなあ……」
「どうしても納得できないんなら、ここ数日バケッツの友達ってことで鼻高々だったお礼だと思いなさい」
「……わかった。ありがとう、鍵原」
「なんか、素直にそう言われると気持ち悪いわね」
「折角感謝してるのに、酷い言い草だな」
「だってこんなの、お互い似合わないじゃない」

 確かに。
 先ほどとは違う笑みをこぼすと、ツバメが尻側のスカートを押さえながら立ち上がった。
 軽い足取りで階段への扉に手を掛け、最後に振り向いて、

「最初はシーナさん目当てだったけど、私、アンタのハーモニカも結構好きだったから」

 閉じた扉を、しばらく健一はじっと見つめた。
 指先がかじかむまで、切り捨ててしまったものの大きさと尊さを、ゆっくりと噛み締めた。










 屋上から下り、教室に鞄を取りに行くと、既に千夜子はいなかった。
 おそらくツバメと帰ったのだろう。部活動でまだそこかしこが賑わう校舎を後にし、一人帰路に就く。
 道中、健一は歩きながら先ほどの話を思い返した。

「鍵原に任せっきりなのは、さすがに駄目だよなあ」

 夜毎集まるファンへの説明は問題ないはずだが、一度広まった噂は如何ともし難い。テレビ出演を果たしたという評判も、健一の手が届かないところで拡散されている可能性は高いだろう。ツバメが肩代わりしてくれることは、あくまで対処療法にしかならない。
 となれば、もっと明確な形で解散を知らせる必要がある。

「……やっぱり綾さんにお願いして、ポスターを貼りに行くかな」

 少し悩んだが、これまでと同じ方法しか考えつかなかった。
 駅前と、あとは早苗の店か。そういえばここ何日か顔を出してないな、と思う。
 無断でバイトを休んだわけではない。蛍子の妊娠が発覚してから、一度『天国への階段』には連絡を入れたのだ。非常にプライベートな問題だったので詳しい事情は話せなかったが、早苗は「落ち着いたらまた来てね」と快く承諾してくれた。
 色々な人に迷惑を掛けて、世話になって、助けられている。
 何ヶ月か前なら想像もできないくらい、健一の世界は大きくなった。
 一生付き合えるような友人はいなかった。姉との仲も良くはなかった。誰かを好きになることも、将来の自分について考えることも、誰かを、何かを大切に想って失いたくないと感じることも。
 十三階の住人になって、全てが変わった。
 綾と、出会ってから。

「今は何してるんだろうな」

 近頃綾は、十三階にいない時間が増えてきた。
 気まぐれにふらっと出かけていることも勿論あるが、1301に顔を出し、ちょっと外行ってくるね、としばしの不在を伝えるようになった。そういう時は大抵かなりまともな服装で、時折妙に大人びて見えたりもする。年齢的にはもう成人済みだし、下手な会社員よりよほど稼ぐ社会人なのだが――外見的にも内面的にも、一番大きく変わったのは彼女だろう。
 喜ばしいような、寂しいような、羨ましいような。
 未だに綾に対する感情を、健一は掴みかねている。
 保留したままの、告白の返事と一緒に。
 後ろ向きな思考を紛らわせたくて、冷たい両手に息を掛け擦り合わせていると、曲がり角の先に不自然な人だかりを見つけた。
 いつもなら素通りするところだが、多少は気晴らしになるだろうと覗いてみる。
 店構えからして、どうやらエスニック系の料理店らしい。新装開店のお祝いなのか、派手な贈花が店頭に飾られている。
 近付くにつれ意識を強く惹かれたのは、店の上部に取り付けられた看板だ。
 目算で二メートルほどもある、幅広のパエリア鍋を中心にして、幾重にも金属パイプが絡み合い、有機的な形を成している。それは銀と銅の鈍い色でしかなかったが、間違いなく太陽だった。
 血潮が滾る錯覚。
 瞼の裏に灼きつくほどの、強烈なイメージだ。あまりにも理不尽なその表現力を、健一は知っている。

「あら、健一くんじゃない」

 背中から声を掛けられ、しかし健一は確信を以って振り向いた。

「錦織さん……ってことはまあ、そういうことですか」
「そういうこと? ……ああ、ごめん待って。自分で考えるから」
「……相変わらずですね」
「それは褒め言葉ね。で、さっきのはあの看板を作ったのが綾なのか、ってこと?」
「はい」
「ま、健一くんならわかっちゃうわよね。ただでさえ綾のはわかりやすいし」

 人だかりから引いたところで、そこはかとなく誇らしげな表情をエリが浮かべる。
 綾のことになると、微妙に保護者っぽいところがあるなと健一は心中で苦笑した。

「ところで健一くんはどうしてここに?」
「学校の帰りにたまたま見かけたんですよ」
「ふうん。じゃあ、事前に知ってたわけじゃないのか」
「あの看板以外に何かあるんですか?」

 問いかけに対し、エリは意味ありげな微笑みと共に人だかりを指差す。
 改めて観察してみれば、集まった人達の視線はほぼ一様に店内へと注がれている。

「中で綾がインタビューを受けてるのよ。そう見られるものじゃないから、健一くんも見ておくといいわよ」
「インタビュー……綾さんが?」
「信じられない?」
「いや、そうじゃないんですけど……」
「健一くんの気持ちも多少はわかるわよ。ちょっと前までの綾だったら、考えられないことよね」
「……ええ」
「あなたに教えなかったってことは、たぶんあの子、健一くんには知られたくなかったんでしょうけど……たまたまじゃ仕方ないわよね。そう思うでしょ?」
「あの、錦織さん、なんで手を引くんですか」
「近付かなきゃ綾が見えないから」
「それはそうですけど、綾さん、僕に知られたくないんですよね?」
「どうかしらね。きっと照れてるだけよ」
「……照れてる?」

 初対面からいきなりエッチしようと誘ってきた人間には最も似合わない形容なのでは。
 そんな健一の怪訝な表情に、エリはさらに手を引っ張りながら返す。

「余所行きの格好とか、外向けの態度とか、親しい人に見せたくなかったりするでしょ?」
「そういうものなんですかね」
「ピンと来ないなら、とりあえず納得しておけばいいわ。恥ずかしいかもしれないけど、でも、綾は健一くんが見に来てくれたって知ったら喜ぶはずだから」

 エリと健一の姿を認めた何人かが、軽く隙間を空ける。
 微かに開いたスペースから、店の奥が窺える。
 テーブルに向かい合わせでそれぞれ座る、二つの人影。一人はインタビュアーらしき壮年の男性。そしてもう一人、少し背筋を丸くした姿勢で、綾がいる。
 カジュアルな服。よく整えられた髪。遠目でわかりにくいが、おそらく化粧もしているのだろう。艶めく唇はたどたどしく動き、想像以上にしっかりインタビューに応えているのが聞こえた。
 初めに感じたのは、隔意だ。
 そこにいるのは綾であり、綾ではなかった。ステージに立ったシーナと同じだ。アヤ・クワバタケ。日本ならず、外国にもその名を知らしめる屈指の造形家。本来ならば、遠い世界の人間。
 自分の手が届かない場所にいるのが、行ってしまうのが怖い。
 孤独に繋がる感情が胸を締めつける。
 けれどそれを塗り潰すように、次に抱いたのは祝福したいという気持ちだった。
 以前、雑誌に掲載する写真の撮影に行った時。電車で痴漢に遭い、吐いた綾を慰めたことがあった。他人に合わせられない、当たり前に溶け込めない、そんな自分を嘆いていた彼女が、きっと『普通』にはなれないと思っていた彼女が今、こうして頑張っている。
 そうだ。
 頑張ったのだ。
 どれほど難しく、辛いことか。
 不思議な心持ちだった。
 自らの力で立ち上がり空に昇る太陽を、尊く眩しいものを見るような心境なのかもしれない。

「この取材はね、綾が自分から言い出したものなの」
「……綾さんが?」
「ずっと、そういうのは全部私がしてきたのよ。健一くんも知ってるだろうけど、綾は知らない人と話をするの、あまり得意じゃないでしょう?」
「知ってる人でも厳しいところ、ありますしね……」
「ええ。だから取材の類は避けてきたんだけど、苦手なだけで、別に嫌いじゃなかったんだなって」

 健一の背後で、エリが息を吐く。
 そこに僅かな後悔が滲んでいる気がして、こんな人でも間違うんだ、と気付かされる。

「自分をコントロールするのに、あんまり向いてないのよね。自覚あるのが余計に不憫というか。人と話すのは嫌いじゃないのに、きっと自分と話すのを他人は嫌がるだろうなって、そう思ってる」
「何となく、わかります」
「健一くんは例外でしょうけどね。実際綾と話してると疲れるって人は多いみたいだし、綾から聞いた限り、たぶん健一くんのお姉さんもそういうタイプじゃないかしら」
「……ですね」

 むしろ典型だろう。水と油の感すらある。

「でも、もっとちゃんと話してみたら、そうじゃないかもしれない。初めて話す人だって、綾のことをわかってくれるかもしれない。勿論どうしても合わない人はいるでしょうけど、そこをフォローするのも私の仕事だもの。あの子がしたいことを、私はできる限りさせてあげたい。今回のことも、綾のためになると思うから」
「本当に綾さんが大切なんですね」
「ほっとけないのよ」

 視線の先で、綾がぎこちなく笑っている。
 不器用なその表情も、状況も、全て綾が望んだことだ。
 苦手だから無理なんだと諦めるのを止めて、抗った結果が目の前にある。

「きっと、健一くんのおかげよね」
「そんな大したことは、してませんよ」
「ううん。あなたがちゃんと綾の話を聞いて、受け入れてくれたから……綾も勇気を持てたのよ。ご両親のことも、ね」
「だとしても、僕はただのきっかけだったんじゃないかって思います」
「そのきっかけが、あの子は一番欲しかったんじゃないかな。私の知らない場所で、もっとたくさんの人に救われたり、支えられたりしたのかもしれないけど、間違いなくあなたのおかげでもあるのよ」
「……そう言われれば、そうかもしれないですね」
「これは是非ともお礼をしなきゃって思うんだけど……」

 嫌な予感がして、エリの方を向く。
 明らかに碌なことを考えていない顔だった。

「綾と私と健一くんで3Pってのはどう?」

 懲りないなこの人。
 いや冗談だってのはわかってるけど。
 ともすれば本気にしかねないのが、錦織エリの油断ならないところである。

「……えっと」
「冗談よ。やるにしても、もうしばらく未来の話ね」

 インタビュー中の綾とはまた別種のぎこちない笑みを浮かべた健一に、エリはくすくすと楽しそうな声を漏らした。
 恐ろしい予告は、聞かなかったことにした。



 無事インタビューが終わったのは、それから十五分ほど後だった。
 興味本位で集まった人々が散り、店内の席を立った綾が、空いたスペースを抜けてくる。
 エリを探していたのだろう。目線が合い、ぱっと顔を上げたところで、隣の健一の存在に気付いた。

「健ちゃん? どうしてここにいるの?」
「あー、いえ、学校の帰りにたまたま通り掛かりまして」
「……ほんとに? 錦織さん、教えてない?」
「言ってないわよ。本当に偶然。ね、健一くん」
「はい。嘘じゃないですよ」

 同意してみせるものの、まだ綾の中で疑いは消えていないらしかった。
 じっとりした目で見つめられ、若干健一はたじろぐ。
 と、不意に背中を軽く押された。思いの外強い力で、つんのめるように足が前に出る。

「綾、残りの細かいことはこっちでやっておくから、健一くんと一緒に帰ったら?」
「いいの?」
「充分頑張ってたしね。健一くん、綾のことお願いできる?」
「わかりました」
「健ちゃんは他に用事とかない?」
「下校中ですから。夕食の材料も、確かまだありましたし……ゆっくり行きましょう」
「ん、じゃあ帰ろっか」

 差し出された手を少し躊躇いながらも握り、エリに見送られて歩き始めた。
 まだ陽が沈むには早く、綾の気を惹くものも多い。
 しかし、その足が横に逸れる様子はなかった。

「……いつから見てたの?」

 三つめの角を曲がる頃、そんなことを訊かれた。
 何をだろうと考え、インタビューの件かとすぐ思い至る。

「十五分くらい前からですね。たぶん始まってそこそこ時間は経ってたんじゃないかなと」
「最初からじゃないんだ。ならいいんだけど」
「……見てない方がよかったですか?」
「ううん。嬉しいよ。ちょっと恥ずかしいなって思っただけ」
「なんていうか、立派でしたよ。別人みたいでした」
「別人?」
「説明しづらいんですけど……僕の知ってる綾さんじゃなくて、あそこにいたのはアヤ・クワバタケだったのかなって」
「うん……そうかもね。健ちゃんの言う通りかも」

 今日もスケッチブックを持っていない綾は、真っ直ぐ前を向いていた。
 時折視線は揺れるが、その度にきゅっと繋いだ手の力が強まり、正面に戻る。
 彼女の実家へ行った時より、明らかに頻度が減っている。

「ちゃんとした人になりたいなって、最近よく思うんだ」
「無理は……してない、ですよね」
「大丈夫だよ。大変なこともあるけど、ちょっと楽しい」
「あのインタビューを受けたのも、そういう理由なんですか?」
「うん。錦織さん、いっつも忙しそうだから。少しでも私の方でできることがあればやっていきたいなって。今はできなくても、いつかいろんなことができるようになりたいって思う」
「できないことを、できるように……」

 ――それは、いつかの告白の日、綾が健一に対して告げたことだ。
 そして言葉通り、彼女は変わりつつある。
 健一の想像を超えて、大きく。

「うん。雑誌の取材とかも、受けていきたいかな。そしたら日奈ちゃんだって、健ちゃん達だって、私が頑張ってるなってわかるでしょ?」
「日奈はともかく、僕達は毎日のように会ってるじゃないですか」
「……あはは、そうだよね。これからも、そうだったらいいよね」

 まるで綾さんもいなくなっちゃうみたいだ、とは口にしなかった。
 ぼんやりとした不安を抱えたまま、とりとめもない話を続ける。
 夕食の献立、先ほどの店に飾られた看板の感想、綾が外出用に買ってきたというサングラスについて。
 ポスターの件も説明をして頼んだ。健ちゃんに頼られるのは嬉しいと、当然とばかりに快諾された。
 幽霊マンションに着き、ポスターのデザインを考えて居ても立ってもいられなくなったのか、加速度的にそわそわしてきた綾に合わせ、小走りで階段を上る。
 十二階の踊り場から、十三階まであと少しというところで、ぱっと綾が手を離した。
 健一は思わず自分の手を見つめてから、一段飛ばしで駆け上がる綾を目で追う。

「ね、健ちゃん!」

 高い位置からの声は明るく、そしてよく響いた。
 両腕を左右に広げ、くるりと身を回し、何ですか、と返した健一に、

「ポスター、これからちゃちゃっと仕上げてくるから! そしたら、健ちゃんがご飯作るの、横で手伝ってみてもいい!?」
「……綾さん、料理できるんですか?」
「それも、これからできるようになりたいの!」
「わかりました。そういうことなら、準備してますから」
「うんっ! また後でね!」

 軽快な足音が遠ざかり、置いていかれた健一は重い息を吐く。
 自然で、嬉しそうな笑みが胸に刺さった。

「僕は……ずるいよな」

 告白から随分経った今も、健一の中に明確な答えはない。
 その結論を出せた時、自分も十三階から出ていくことになるのだろうか。
 わからない。
 けれど、日奈も、蛍子も、綾も――誰もが大人になっていく。
 この、奇妙な共同生活にも終わりが近付いていることを、健一は強く実感した。



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何かあったらどーぞ。