日奈が去ってから、皆が普段通りに戻ろうとした。
 どうしても会話はぎこちなかったし、それぞれの間に横たわる空気は息苦しいものでもあったが、いつまでも引きずっていていいわけではないだろう。日奈が十三階の鍵を置いていく選択をした以上、ここに彼女が訪れることはもう二度とない。
 見送りを断ったのだって、おそらく湿っぽい最後を嫌ったからだ。
 離れても、日奈の味方であることには変わりない。自分の所為で皆が暗くなるのを、きっと彼女は望まないだろう。だから健一は努めて元気を装い、刻也も、冴子も、後ほど1301に顔を出した綾も健一の意図を汲んだ。
 夕食時より前に、健一は家に帰った。ローテーションで言えば今日の食事当番は自分だったが、刻也が代役を名乗り出、その厚意を有り難く受けることにした。
 心の整理が付いていない。
 日奈がさっきまでいた場所にいるのが辛い。
 理由はいくつかあったものの、居た堪れなくなったことと、気遣われたことは確かだ。
 いくらか足早に自宅へ辿り着き、表の扉を開ける。
 ただいま、と声を投げかけ、しかし健一は躊躇った。
 玄関に靴が三足ある。一足はほぼ毎日見る蛍子のものだが、残り二足は両親のものだ。
 前回からは、おおよそ一ヶ月半くらいだろうか。頻度としては可もなく不可もなくといったところで、特別な理由で帰ってきたわけではなさそうだった。
 ただ、健一の足を留めさせたのは、珍しく両親がいるからという理由ではない。
 居間の方から玄関まではっきり届く、母と蛍子の声。
 軽く拾い上げただけでも、穏便な雰囲気は一切なかった。ほとんど口論に近い。母が問い詰め、蛍子が返し、母が怒鳴り、蛍子が黙る。そんな状況でのこのこ入っていくのには多大な勇気を要するが、かといって一段落するまで待っているのもおかしな話である。意を決し、健一は足音を殺しながら廊下を歩き、そっと居間の様子を覗いた。

「む、おかえり、健一」
「……ただいま、父さん」

 目敏く健一の接近に感付いた父が、後ろ手でこっちに来いと呼ぶ。
 一瞬、わざわざ床で蛍子共々正座している母が横目で健一を窺い、すぐに視線を蛍子へと戻した。
 こうして表情を直に見るとよくわかる。今までにないほど、母は激怒している。
 場の空気に従うように、当事者から少し離れた父の横で正座をした健一は、可能な限り落とした声量で隣に問いかけた。

「……何があったの?」
「私も、まだ理解できていない……というか、認めきれていないところがあるんだがな」

 そう難しい顔で前置きをし、

「蛍子が妊娠したらしい」

 聞いた瞬間、全身から波のようにさぁっと血の気が引いたのを健一は感じた。
 あるいは一秒か二秒か、本当に意識を失っていたのかもしれなかった。どうして、と父に向けた声が震えなかったのは奇跡だった。

「それが、わからないの一点張りでな。当然母さんも相手は誰だってずっと訊いてるんだが、そっちも知らないし言えないってずっと口を噤んでる」
「……なんで、妊娠してるってわかったの?」
「帰ってきたら、蛍子が流し場で嘔吐いていてな。話を聞いて、母さんが病院に連れていって検査をしてきた」

 ――三ヶ月だそうだ。
 父の言葉に、意識が内へ畳まれていく。いやに冷えた頭が時期を逆算する。いつだ。今は十月末、つまり七月終わり頃。相手が誰かなんて考えるまでもなかった。後にも先にも、蛍子を妊娠させられる人間は、絹川健一以外に有り得ない。
 七月。夏休みに入ったばかりの夜から、二人の関係は始まった。
 確信ではない。多少の前後はあるかもしれない。けれど突き詰めれば、他の可能性は否定できなかった。
 最初だ。
 求められ、応えた時。一番初めの数回で引き当てたのだ。健一には女性の排卵周期がわからない。蛍子も言わなかった。安全なのか危険なのか、そういうことはあの日、些事でしかなかった。それに、仮に安全日だったのだとしても、絶対なんてものはない。
 全ては、二人の浅慮が招いた結果だ。
 責任を持てる人間が大人だというのなら、健一も蛍子もやはり子供でしかなかった。姉の想いを受け入れて、行き着けば幸せになれると思っていた。そこがゴールだと、ずっと勘違いをしていた。
 事の大きさを理解しても、健一にできることはあまりに少ない。
 今この場では、唇を固く結ぶのが最良だった。
 血の繋がった姉弟の肉体関係は、非常識なのだから。
 現実に許されるものでは、ないのだから。

「健一、あなたは知ってたの?」

 母が急に矛先を向けてきた。
 頷いてはいけない。そうして追及されて、黙り続けても些細な反応から何かを察せられるかもしれない。
 でも、だったらどうすればいい?
 母のこんなにも怒りを露わにしている姿は、健一の中にもないものだった。しかしそれを当たり前だと思う自分と、今更なのかと思う自分がいる。家庭を顧みてこなかったのはそっちじゃないかと言いたい気持ちが、じわりと心に滲み出てくる。
 だって、両親が家にいたのなら。
 そもそも二人は間違うことさえなかっただろう。
 許されないことをしたのに、母の言い分は理不尽にも聞こえた。
 ほとんど口を挟まない父は比較して理性的だったが、だから何だというのか。苦しんできた蛍子を認められるのは、自分しかいなかった。それが許される環境を作ったのは、他ならぬ両親なはずだ。
 渦巻き煮立つ思考は、いずれ決壊するものだったろう。
 一度は俯いた顔を上げ、発作的に横槍を挟みかけ、健一はそこで蛍子がじっとこちらを見ているのに気付いた。
 目が合う。
 心配するな、と唇だけが動いた。
 蛍子の顔色は、明らかに白かった。唇を震わせながらも、気丈に背筋を伸ばしていた。
 結局何も言わず、健一は首を横に振る。
 控えめな否定を受け、特別母は疑問を持たなかった。
 後ろめたさと申し訳なさが胸を締め付ける。世間的に許されない行為をしたからではなく、一人で矢面に立つ姉に対しての罪悪感が痛かった。
 母の一方的な追及は、健一が帰宅してさらに一時間を要した。
 その間、蛍子も、健一も黙して聞き続けた。静かになり、ヒステリックにもなり、震え、年甲斐もなく泣き、精神の均衡を崩していく母を、間近で目にし続けた。
 軽挙な自分への罰なのだと思った。
 それでも本当に守るべきことだけは隠し通した。もし真実を詳らかにしたとして、受け入れられるなんて甘い展望はどうしても抱けない。どころか、より酷い状況になることだって考えられた。

「……母さん、そろそろ仕事に戻らないと」

 喋り疲れた母が息を吐いたところで、父がやんわりと割り入った。
 まだ納得していないことは顔を見ればありありとわかったが、根っからの仕事人間だからか、おそらくずっと会社が脳裏にちらついていたのだろう。蛍子への問い質しは自分が引き継ぐと言い出した父に、そういうことならと首肯を返した。
 慌ただしく出ていく母の背中を、三人で見送る。
 ぱたんと表で扉の閉まる音が聞こえ、それからしばらくしても戻ってこないことを確認して、のそりと父が立ち上がった。

「とりあえず、二人とも足を崩すといい。ずっと正座は辛かっただろう」

 強く張り詰めていた母とは違う柔らかな声色に、身構えていた二人は毒気を抜かれた。
 どうやらコーヒーを淹れようとしたらしく台所に向かったものの、道具の場所がわからないのかふらふらとうろつく父に揃って噴き出す。空気を変えるために狙ってやったのかもしれないが、構わなかった。

「健一は濃い目だったかな」
「あ、自分で淹れるよ」
「まあまあ、ここは私にやらせてくれ。オフィスでは淹れ慣れてるんだ」

 健一の指示で見つけた諸々を使い、三人分のカップに、深い色のコーヒーが注がれる。
 誰も砂糖やミルクは入れない。まだ痺れの残る足を投げ出しつつ、受け取ったカップに唇を付ける。
 すっと広がる苦味と熱さが、嵐の只中にあった思考をいくらか落ち着けてくれた。

「さて」

 そう切り出した父に、母への宣言通りにこれ以上追及する気はさほどないようだった。
 だからこそ、次の言葉がすぐには飲み込めなかった。

「蛍子。お前の相手は、健一だな?」

 唐突な指摘は、恐ろしいほど完璧に真実を言い当てていた。

「っ……違う」
「落ち着け蛍子。隠そうとする気持ちはわかる。でも別に、私はこれ以上追求するつもりはないよ」
「……父さんは、母さんみたいに怒ったり取り乱したりはしないんだね」
「今も泣きたいし、どうしてこんなことをしてしまったんだと言ってやりたいさ。だが、そもそも私には、お前達を責める資格がないからな」
「どういうこと?」
「ずっと昔、私も健一と同じことをしたんだ」

 身体の奥に詰まったものを吐き出すような、重苦しい声だった。
 そっと床にカップを置く、父の手は細かく震えていた。思い出したくない記憶を、けれど二人のために引っ張り出しているのだろう。激高した母を見るより、切実な父の姿に胸が痛んだ。

「私の生家は、東京と比べると随分な田舎なんだがね。地元ではそれなりに大きな家だった。お前達には想像がつかないかもしれないが、地方の名家というのは非常に体面を重んじるものでな。長男は家を継ぎ、娘は余所の名家に嫁ぐことが定められていた。もう二十年以上も前の話だが、当時はまだ男尊女卑が罷り通っていたんだよ」
「父さんは長男だったの?」
「いや、私は次男だったよ。だからまだ自由というものがあった。しかし、姉はそうではなかった。花嫁修業を終えてすぐ、父に言われるまま隣街の大家に嫁いだ。確か、十八になる頃だったか……父の教育もあってか、大和撫子を体現したような人だった」

 一息。

「……一年もしないうちに、姉は帰ってきた。夫の暴力が酷かったそうだ。身体に痣がいくつも残っているのを見た。行き過ぎた亭主関白と言えばそうだったんだろう。嫁ぎ先では、それを止める者もいなかったらしい」
「向こうも古い考えの人達ばかりだったんだ」
「ああ。そうして帰ってきた姉を、父は許さなかった。嫁がせた娘が逃げたとなれば、家の体面が潰れるからだ。助けを求めてきた姉に対して、家の恥だと父は言った。一室に幽閉し、見張りを立たせ、満足に外にも出さなかった。嫁ぎ先の家とも随分揉めたと聞く。それもまた、姉を許さなかった理由なのかもしれないがな」
「離婚はしたのか?」
「公的には、結婚したままだったよ。実際に離婚してしまえば形に残るし、体面に障ると踏んだんだろう。どちらの家も、内々に話を収めたかったんだ」

 愛はなかったのか、とは訊かなかった。問うまでもなかった。
 絹川家――父の実家、健一と蛍子の祖父に会ったことはない。家族で帰省した覚えもない。それは仕事が忙しいからだと健一は思っていたが、おそらく父は避けていたのだ。
 祖父が娘を許さなかったのと同じように。
 父も、祖父を許していないのかもしれない。

「姉さんは、それでも逃げなかった。時間が経てば父の怒りも治まると信じていた。……いや、信じたかったのかもしれないな。父がそんな殊勝な人間でないことは、誰より知っていたはずなのに。徹底して父は、姉も、母も……家をより大きくするための道具としてしか見ていなかった」

 震えていた手が、胡坐をかいた足のズボン生地を強く握り締める。
 血管が浮き出るほどの力が、無意識のうちに掛かっていた。
 声こそ淡々としていたものの、仮に祖父が目の前にいればすぐにでも殴りかかっていきそうな、怒りと憎しみに満ちた表情を浮かべていた。
 柔和な人だと思っていたのだ。
 こんなにも、誰かを殺しかねない感情を抱えていただなんて、想像もしなかった。

「父の態度がいつまでも変わらないとわかり、姉は日に日におかしくなっていった。父に従う以外の生き方を知らなかったんだ。だが父はそんな姉の生き方を否定した。嫁ぎ先にも、家にも、姉さんの居場所はなかった。おかしくもなるだろう」
「……うん」

 生きていくには、生きるための理由が要る。
 それは人によってとても些細なものであったり、酷く重いものであったりもする。
 複数の理由を持つ人間もいるだろう。逆に、たったひとつの寄る辺に縋る者もいる。
 健一にはわかる。日奈が正にそうだった。
 自分の意味を否定されることが、どれほど残酷なのか。
 誰より近くで、見てきたのだから。

「私は、姉のことを愛していた。きっかけは自分でもわからない。姉さんは傍目からも美しい人だったし、父がそう教育したからというのもあるだろうが……気立ても良く、奥ゆかしく、男の一歩後ろに付いて歩く人だった。元々思慮深く、常識的で賢い人でもあった。何より、笑顔の綺麗な人だった」

 喋りながら、緩やかに父の顔から怒気が抜けていった。
 瑞々しさを失った枯れ木にも似た、擦り切れた悲しみが代わりに浮き上がる。

「一生秘めるつもりだった。だが、狂っていく姉を見て、欲が出たんだ。姉さんが私を心の底から好きになるはずはないとわかっていたのに……支えを失った今なら、と。そう思ってしまった。私だけが味方でいれば、私だけを見てくれるだろうと。結局私も、あの父と大差なかった。愛しているなどと言いながら、姉の気持ちを尊重する気はなかったわけだ」

 そして悲しみの感情も語りと共に萎み、再び父の手が震え出す。
 じっと手のひらを見つめるその目には、自嘲と怯えの色があった。

「私がいるからと、見張りを追い払った。男だから父も私には甘かった。姉の部屋に入り浸り、やがて私は姉と肌を重ねた。人間というのは、一度してしまえば箍が外れるものでな。父の監視がない時を見計らって、それこそ猿のように求めたよ」

 若干生々しい話にシフトし、健一と蛍子が互いに顔を見合わせる。
 覚えがあり過ぎて、苦笑いもできなかった。

「姉さんは、美しかった。許されないことをしたのに……したからこそ危うげな美しさを増したように思えた。それに、元気になっていったんだ。私が姉さんを求めたからだと自惚れもした。このまま一緒になれればいいと、あの頃は本気で考えていた」
「……お姉さんに、何かあったの?」
「自殺した」

 ひゅっと息を詰める音が聞こえた。
 左隣に座る蛍子が、健一の左手を探るようにして触れる。
 己と父が語る亡くなった叔母を重ねたのかもしれなかった。

「父も私も、気付けなかった。真夜中に家を抜け出した姉は、近くの山中で発見された。飛び降り自殺だった。遺書もなかった。しかし、私には姉の心境が手に取るようにわかった。実の弟が、自分を元気付けるためにしたことに……近親相姦の事実に耐えきれなかったんだ。あるいは私が本気ではないと思っていたのかもしれない。どちらにしろ、私がしたのは許されることではなかった。姉さんのためにと思ってしたことが、姉さんを殺した。ある意味、父よりも酷いことをしたんだよ」
「だから、父さんは家を出たのか?」
「まあ……そうだな。葬式は身内で済ませた。警察も詳しくは調べなかったし、父を初めとした有力者が圧力を掛けたらしい。姉の死はほとんどなかったことにされ、皆、姉の名前を口にしなくなった」
「………………」
「誰もが忘れろと言っているように聞こえたよ。そういう状況自体が、身勝手な自分を責め立てていると感じていた。家を出ると言った時、父は止めなかったよ。縁は切らなかったが、それきり一度も会っていない」

 一旦そこで、父は言葉を切った。
 健一も蛍子も、どうしたものかわからなかった。聞いた過去はあまりにも壮絶で、自分達の境遇に近くもある。二人の選んだ道が間違いだというのなら、やはり待っているのは悲劇的な終わりしかないのかと、そう考えてしまいそうになる。
 黙る二人をしばらく眺め、父が硬い表情をようやく緩めた。

「私は姉さんと好き合っていたわけではないし、どこまで行ってもこの気持ちは一方的なものでしかなかった。だが、お前達はちゃんとお互いに求め合ってそうなったんだろう?」
「ああ、そうだ」
「……うん、僕もそうだって思ってる」
「ならお前達は、私のようにはならないはずだ。世間的には許されないことだと理解しているのであれば、お前達の関係についてはこれ以上言うこともない。もっとも、母さんはそうじゃないだろうがな」

 想いが通じていても、同意の上だったとしても、禁忌を犯したことには変わりない。
 佳奈が日奈の告白を受け入れられなかったように、母もまた常識の中で生きているが故、二人の選択を認めはしないだろう。直感的に蛍子はそれを悟っていたし、健一も同じ見解だった。
 表沙汰になった時点で、どうしようもなかったのだ。
 自分達の立つ場所は、簡単に崩れる砂上の楼閣でしかなかった。

「蛍子の妊娠を知ってしまったからには、私も母さんもお前達を放ってはおけない。これまで碌に家にも帰らなかったのに、親として身勝手な言い分だとは思うが、大事な娘が身籠ったんだ。それはわかるな?」
「わかるよ。……わかる」
「勿論私にできることはする。母さんにお前達の関係を言うつもりもない。ただ、最後に決めるのはお前達だ。ちゃんと産むのか、中絶するのか。これからどうするのか。よく考えろ」

 敢えて突き放すような口調で父は言った。
 健一は、蛍子は、静かに頷いた。
 頷く以外の答えを、持っていなかった。










 健一の作った夕食を食べてから、父は仕事に戻った。本音ではまだ残っていたかったのかもしれないが、時間を掛け過ぎると母が訝しむと判断したのだろう。一応ながら味方がいるという現実は、二人の心に幾分かの余裕をもたらした。
 蛍子は自分の部屋に入っていった。話し合うべきだとは思っていたが、まずは一人で悩む必要があったのだ。日奈の件から立て続けで、健一のキャパシティが限界に近かったのも大きい。ずっと目を逸らして、気付かないでいたことの揺り戻しが、今になって一気に来たようにも感じた。
 精神的にはどっと疲れているはずなのに、いやに頭が冴えていた。
 自分と蛍子の子供ができたのだという。
 色々想像してみようとしたが、上手くいかない。全くピンと来ない。例えば男の子か女の子か、どちらに似てるのか、重いのか軽いのか、そういう見た目に関しても、靄が掛かったようになっている。産まれたらどうなるかなんて、そんな未来の展望はさらに不明瞭だ。誰が世話するのか? 保育園? 幼稚園? 学校は? お金は? ぱっと思いつく限りの問題を挙げてみても、果たしてそれが正しいのか間違っているのか、大事なのか些事なのかさえわからない。
 だって、自分は高校生で。
 将来どんな仕事に就くかも一切決まってなくて。
 こうなる覚悟さえも、なかったのに。
 そんな人間が、いったいどうやって子供を育てられるというんだろう。
 ぐるぐると、脳内で散らばった思考の欠片が掻き混ぜられる。
 僕に恋愛は向いてないと、いつも思ってきた。それはまだ子供だからとか、本気で誰かを好きになったことがないからとか、いくつも適当な理由を並べていたけれど――今日、父の話を聞いて、やっと気付いたのだ。
 父は姉を、もう亡くなった自分達の叔母を愛していた。その想いが成就することなく終わって、それでも忘れられずにいるのだろう。
 だったら、母のことは?
 結婚はしても、愛してはいないのではないか?
 何か理由があったのかもしれない。傷心のところで出会って、優しくされて絆されたのかもしれない。仕事の関係かもしれないし、妥協の結果かもしれない。もしかしたら、健一と蛍子を産んだのだって、結婚したことを、家族になったことを証明するための手段だったのかもしれない。
 この歳になるまで、きっかけはどうあれそれなりの愛情を以って育ててくれたのだと思う。そういう部分を疑ってはいない。感謝もしている。けれど小学生になったくらいの頃からもう、両親共々家を空けることが多かった。四人で住むには些か広い家も、家族全員で入れるほど大きな風呂も、結構な値がするだろう品の良い食器や調度品も、全て、形だけのものだった。
 今の家に越したのも、丁度その時期だ。
 以前住んでいたところはもっと狭くて、でもどこか温かくもあった。

「ああ……そっか」

 1303は、幸せだった過去の居場所の再現だったのだ。
 初めて見た瞬間感じた懐かしさは、前に住んでいたからだけではなかった。あの時はまだ両親も、家族であろうとしていたのだ。
 しかしそれも、いつの間にか終わってしまっていた。
 きっと疲れたのだろう。愛がある、温かい家族の振りをすることに。
 ないものをあるように見せかけても、いずれ無理が出る。
 嘘が破綻するのは、誰かを騙せなくなった時だ。それは他人でも、自分でも同じだろう。
 父は自分を騙しきれなくなった。だから、この家は健一と蛍子、二人だけの居場所になった。
 子供は親を見て育つ。言葉も、礼儀も、心の在り方も、一番最初に親から学ぶのだ。
 健一が愛を知らないのは、至極当然の話だった。自分を形成したものは、偽りで塗り固められていたのだから。

 好きって何?
 人を愛するってどういうこと?

 その問いに、今でも健一は答えられない。綾に、冴子に、刻也に、日奈に会い、もう少しで掴めそうなところにいるのかもしれなかったが、こうして蛍子に抱いている感情にも、明確な名前を付けることができていない。
 優柔不断だから自分は求めを断らないだけなのか。
 あの日欲しいと思ったのは、身体だけなのか。
 本当に愛しているのなら、産まれる子を祝福するものじゃないのか。
 確かなはずの土台が急激に揺らいで、真っ直ぐ立つことも難しくなる。
 このままだと、自分の情けなさに泣いてしまいそうだった。別れてそう時間も経ってないのに、蛍子の顔を見たくて仕方なかった。
 右手の甲で目を擦りながら、健一はベッドから起き上がった。部屋の扉を開け、廊下に出る。すぐ隣が蛍子の部屋だが、壁越しに物音が抜けない程度には距離があった。姉弟とはいえ異性だからと、両親が家を買う時にそういう条件で選んだらしい。
 距離で言えば、たったの六歩。
 ノブに指が触れかけたところで、思い出したかのようにノックする。しばらくして、入れ、という声が聞こえてきた。上機嫌でも不機嫌でもないフラットなトーン。静かに踏み入る。
 室内は、真っ暗だった。
 窓のカーテンも閉まっている。画材が陽に焼けるのを嫌うので、絵を描く時は昼でも大抵そうなのだが、おかげで部屋の奥の様子がほとんど窺えない。廊下から射し掛かる僅かな明かりで、ベッドに蛍子が突っ伏しているのがわかった。

「……ベッド、座っても大丈夫?」
「座るくらいなら一緒に横で寝ろ」
「ん」

 父も母も今日は戻ってこない確証が取れているからか、お互い躊躇いはなかった。
 毛布を押し潰すようにして乗り、うつ伏せの蛍子の隣で、健一は仰向けになって天井を向く。
 眠くはない。むしろ目は冴えていた。

「父さんの話、どう思った?」
「……複雑だよ、色々。お前もそうだろ」
「うん。一人でも考えたけど、答えなんて出なかった」

 もぞりと隣の影が動いた。
 健一の側に背を見せる形で身を回し、蛍子も仰向けになる。

「私はさ、お前がいればよかったんだ」
「……うん」
「父さんも母さんも、碌に家にも帰ってこない。いてほしい時にいてくれる家族はお前だけだったし、その、何だ……告白して、セックスもしてからは、お前以外何も要らないってずっと思ってた」
「なんで今更告白のこととか恥ずかしがってるの」
「うるさい。黙って聞け」

 横暴な、と苦笑しつつ、健一は口を閉じた。
 暗闇の中、天井に蛍子が左腕を伸ばす。伸ばしながら話を続ける。

「朝、話したよな。お前が私のいないところで、ちゃんと自分の居場所作ってることに耐えられなかったって。だって私には、お前しかいなかったんだ。こないだ宇美に会って……ああ、三条宇美っつって、高校の同級生だよ。何度か家に連れてきたことあるから、お前も会ったことあるはずだ。私より背小さくて、なんかやたらお前に構いたがってたっけな」
「言われてみれば、何となく覚えてる。おかっぱっぽい髪の人だよね」
「そう。そいつと久々に会って、話してな。私、友達もほとんどいないんだって気付いたんだ。大学入ってからは、適当に単位だけ取って、興味ある授業にだけ出て、あとはうちで絵ばっかり描いてた。それしかしてこなかった。実家暮らしだし、バイトする必要もないしな。ある意味恵まれてるのかもしれないけど」
「ホタル、土日もだいたい家にいたからね」
「悪いか」
「そんなこと言ってないって」
「……私はきっとお前が思ってるよりずっと、お前のことが好きだよ。お前がいてくれるなら、絵を捨ててもいいと思いもした。そのくらいだって言ったら伝わるか?」

 意図して平坦な問いかけに、声にはせず、ただ頷く仕草で答えた。
 天井に伸ばされた手は、結局何も掴まない。けれどベッドに落ちたところで、健一の右手が受け止める。
 特にこの頃肌を重ねると、いつも蛍子は手指を絡ませたがっていた。
 それは、寂しさや恐れから来るものだったのかもしれない。
 健一がいつか、自分の前からいなくなってしまうのではないか、という。

「ここ一ヶ月くらい、身体の調子がちょっとおかしかった。もしかしたらとはずっと思ってたんだよ」
「……全然気付かなかった」
「お前はそういうところ鈍いからな。母さんと一緒に病院行った時はさ、正直言えば、期待してたんだ。本当に妊娠してればいいってな。そうしたらあいつに……桑畑に負けないものが手に入ると思った」
「負けないもの?」
「証明、みたいなもんだ。子供がいれば、お前は私を忘れない。私を見てくれる。私を、捨てようだなんて考えないだろうって。産まれてくる子からすりゃあ、ふざけんなって話だよな。母さんに怒られて、父さんに諭されて、やっとわかった」
「……俺も、そういうこと、全然考えてなかったよ。ホタルが喜んでくれれば、お互いに気持ち良くなれてれば、それでいいと思ってた」
「馬鹿だったな、私達」
「子供なんだよ、たぶん」
「そうだな。……大人じゃ、なかったんだよな」

 高校を卒業して、結婚もできる年齢になって、二十歳も迎えて。
 それでも蛍子は子供であることから抜け出せなかった。
 健一については言わずもがなだ。歳も、心も、立場も、大人と呼ぶには程遠い。

「なあ、健一。正直に答えてくれ。私のこと、好きか?」

 天井に向けて投げられた声が、放物線を描いて落ち、耳に滑り込むような錯覚があった。
 隣にいて、今も触れている蛍子のことを思う。
 つい数ヶ月前までは、面倒な姉だとしか見ていなかった。傍若無人で、理不尽で、血が繋がっていても、近しくても、同じ家で暮らしていても、健一にとってはずっと理解できない人間だった。
 戻れないところに踏み出してから気付くのも、変な話だ。
 頑なで、強かったはずの姉は、本当はとても弱かった。人並みに悩んで、苦しんで、劣等感に苛まれる。誰かを好きになって、抱えきれなくて泣いてしまう、そんな人。家族の幻想を取り払った先にあったのは、目の前で傷付く女性だった。
 だからあの時、拒もうとは少しも考えなかった。
 自分が普通でないからかもしれない。誰彼構わず受け入れられる、精神的な欠陥があるのかもしれない。けれど、蛍子だって健一にしてみれば、綾や冴子、日奈と変わらないのだ。たまたま好きになったのが実の弟でしかなかった。言葉にすると、たったそれだけのこと。誰かにとっては絶対遵守すべき現実も、健一には薄紙のように脆い壁だった。本当に、それだけのことなのだ。
 結局どれほど考えてみても、人を愛する気持ちの正体はまだわからない。
 だから、唯一確かなものを言葉にする。

「大事だよ。すごく、すごく」
「……はっきり、好きだ、とは言ってくれないんだな」
「ホタルにこういうことで、嘘吐きたくはないから」
「希望はあるって、信じていいのか?」
「わからない。人を好きになるってことが、上手く想像できないんだ」
「父さんが、ああいう人だったからか?」
「どうなのかな。元々そういう人間なのかも」
「そんなことないよ。お前は、自覚してないだけなんだと思う」
「どうしてそう言えるの?」
「私も……きっとあいつも、お前のおかげで変われたからだ」
「ホタルと、綾さんが……」
「この気持ちを本物にしたのは、お前だよ。嘘にしなくていいって、そう言ってくれた」

 とん、と。
 優しい声に、背中を押された気がした。
 昨夜の、日奈とのやりとりが蘇る。
 ――あの時、本当の気持ちを忘れないで、と健一は言った。
 全てが自分に返ってくる。そうだ。あるがままに生きようとする人が眩しくて、輝かしくて、尊くて。だから力になりたかった。ちゃんと応えたかった。
 嘘にしてはいけない。後悔だって、するべきじゃない。
 温い雫が頬を滑り落ちる。無言のまま、健一は静かに泣いていた。悲しくはない。辛くもない。ただ心が訴えていた。
 それはまだ明確な形を持たない、透明の叫びだ。
 けれどその熱に突き動かされるようにして、健一は隣の蛍子を抱きしめた。すぐに背中へ腕が回ってくる。
 あたたかかった。二人分の命がそこにあるのだと思った。

「父親のこと、やっぱり母さんには黙っておくよ」
「俺にできることはない?」
「一緒に黙っててくれ。あと、父さんにも根回ししとかないとな」
「……うん」
「子供が産まれたら、色々苦労させちまうよな。父親、いないってことになるもんな」
「……ごめん」
「謝るな。私が産むって決めたんだ。お前も産むなとは言わないだろ」
「言わないよ。言うわけない」
「ならいいんだ。例えお前がいなくなっても、しっかり育ててみせるさ」

 まるで別れのようだった。
 健一も、蛍子も、家を出るわけではない。とはいえ両親はこれから、もっと頻繁に顔を見せるだろう。無事子供が産まれれば、寂しかった家は賑やかになる。二人だけの居場所も、失われていく。
 優しい夢、短い蜜月は終わったのだ。
 蛍子には予感があった。健一が、この家に留まり続けることはない。自分以外の誰かのために、やがて弟も大人になって、外に出ていくのだと思う。
 腹の内にいる子は、証明で、楔のつもりだった。しかし今となっては、蛍子にとっての楔だ。父であることを隠さねばならない健一は、それ故に家にいる必要がなくなった。むしろ、あまり蛍子のそばにいようとすれば、母に怪しまれるかもしれない。蛍子のためにも、産まれてくる子のためにも、健一はいない方がいい。

「……母さんには、一生、嘘吐かなきゃいけないんだよな」
「きっと、それが俺達のしでかしたことに対する、罰なんだと思う」
「仕方、ないよな。だって選んだんだ。お前を好きになって、結ばれて、やっぱよかった。嬉しかった。後悔なんてするもんか」
「ホタル……胸の辺り、冷たいよ」
「気の所為だ。……そういうことにしろ」
「わかった。そういうことに、しておく」

 今日、戦う力はもう二人になかった。
 けれど明日には。未来には。立ちはだかる現実と、また向き合えるようになるはずだ。
 だから眠る。これが最後かもしれないと思いながら、健一は目を閉じた。
 画材の匂いに混ざった、煙草とシャンプーの香り。
 命の熱と、細く柔らかい身体と、微かな吐息、嘘の痛み。
 全部、忘れない。
 忘れられない、激動の一日の終わりだった。



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何かあったらどーぞ。