最近気温の上がり下がりが激しいからだろうか、起きてすぐ濁った咳が出た。
 もしかして風邪かも、と嫌な予感を覚えたものの、熱がある時特有の身体の重さはない。一応体温計で測ってみて、ちょっと平熱より高いくらいだったので、学校にはちゃんと行くことにした。
 何とか自分と健一、二人分の弁当を作り、いつもより少しだけゆっくりめの支度をして、いってきますと家を出る。ふぅと吐いた息の白さに冬の足音を感じつつ、千夜子は夜に視聴した番組を思い出す。
 普段、全くと言っていいほど千夜子は音楽番組を観ない。弁当のこともあり、この頃早寝早起きを徹底しているので、深夜放送となれば尚更だ。
 しかし、昨日ばかりは別の話だった。何せシーナ&バケッツ、即ち絹川健一が出演するわけで。ツバメから散々「取材を受けたので絶対チェックするように!」と耳タコレベルの頻度で聞かされたし、それがなくとも見逃すつもりはなかった。
 千夜子自身、一度きりではあるが、彼らのライブをツバメの付き添いで見に行った身だ。ともすれば熱狂してしまいそうになるあの凄まじさなら、こうして目を付けられるというのも納得だった。あの日の帰り道、健一に言ったように、自分が呑まれる感じは苦手なのだが――テレビならいくらか構えて見られるだろう、と考えていた。
 実際もまあ、その通りで。
 最初に千夜子が思ったのは、あそこにいないでよかった、ということだ。
 シーナの歌声は、かつての記憶よりさらに壮絶なものになっていた。観客が圧倒され、支配される様子が、スタッフのカメラによって克明に示されていた。バックで踊っていたダンサーが呆然と立ち尽くしていく姿はどこか非現実的な光景だったし、けれどそれを当然だと思わせる力が彼らにはあった。
 そして、歌声にも負けていない、健一のハーモニカ。
 優しく包み込むような音色は、千夜子の耳から心の奥に滑り落ちていくようで、酷く心地良かった。彼自身みたいにどこか掴みどころがなくて、柔らかくて、不思議な感じ。千夜子の好きな絹川健一が、その中にぎゅっと詰まっている気がした。
 放送が終わった後、ベッドに入ってもすぐには眠れなかった。クラスメイトの、好きな人のすごいところを見られたからかもしれない。ドキドキがいつ治まっていつ寝てしまったのかはわからなかった。

「絹川君も、肩の荷が下りたのかな」

 あのライブと今回の放送が、一区切りになったのは確かだろう。
 ツバメの言だと精力的に活動は続けているらしいが、あるいはもうメジャーデビューの話が水面下で動いていたりするのか。だとしたら、健一の生活はがらっと変わってしまう可能性だってある。
 ……もしかして、早く告白しなきゃまずい?
 若干飛躍した思考に至り、千夜子は焦った。
 別に悠長に構えていたつもりはないのだが、どうにも最近健一が忙しそうだったので、今日こそはと決めては引き下がり、もうちょっと後で、また今度、みたいにずるずると先延ばしにしていたのだ。
 脳内のツバメが「いやいや駄目でしょ。即断即決!」と胸を張る。
 本当にそう言いがちな当人が即断即決した結果、見事に毎回玉砕して帰ってくるのだから、友人たる千夜子が慎重になるのも当然かもしれない。見本のような反面教師である。
 ともあれ、今日こそ勇気を出そうと千夜子は胸の前で可愛く両拳を握った。幸い弁当を一緒に食べるという名目で、呼び出して話をする機会は簡単に作れる。ツバメにも事前に伝えておけば、空気を読んで二人きりの状況にしてくれるだろう。あとは千夜子次第。放課後、ずっと前のリベンジをするなら公園か。色々と悩みながら教室に着き、遅れて来たツバメに挨拶する。
「おはよー!」と妙にテンション高い返しもそこそこに、ツバメは昨日の興奮がまだ冷めやらないらしく、同じく番組を観たと思われるクラスメイトに教壇前で出演自慢を始めた。
 悪い癖が出た、と半目でツバメを見るも、全く止まる気配がない。
 こうやって一回調子に乗ると、しばらく戻ってこないのが困り物だ。相談するのは後にしようと溜め息を吐き、無意識に健一を探して扉の方へ視線を映した直後、からからと力なく引き戸を開けて目当ての人物が現れた。
 いつも通りおはようから、そう思って浮きかけた腰に待ったを掛けた。
 様子がおかしい。
 まず最初に、目線が教室の端、廊下側へ向かっていた。そこはクラスの女子がよく固まるスペースだ。釣られて見ると、きゃいきゃいはしゃぐ中、一人だけ微妙に陰っている子がいる。
 窪塚加奈。校内でも可愛いと評判の双子の、お姉さん。
 そこまで接点もないはずなのに、どうして彼女を気にしたのだろうか。全体的に外へ出す感情が薄い健一にしては、珍しく明らかにネガティブな感じだった。
 相手の方は、健一の視線を意に介していなかった。教室に入ってきたのは気付いているのかもしれないが、特にリアクションもない。健一も、さっきの仕草は錯覚だったのかと思うくらいに素っ気なく自分の席まで歩いて座った。

「……おはようございます、絹川君」

 ピリピリした空気もあったが、ひとまず千夜子は無難な挨拶をすることにした。
 健一は鞄を横に掛けてから、普段と変わらない声色で言う。

「ああ、おはようございます、大海さん」
「えっと……今日は寒いですね」
「そうですね」

 広げようとした会話が五文字で畳まれた。
 浮かべた笑みもどこかぎこちないというか、力ない。
 朝に決めた告白の意思が、急速に萎れていくのを千夜子は感じた。

「いやー、昨日のはもう完全保存版よねー。私も出てるし!」

 今日は何だか調子良くなさそうだし、こんな時に言っても困らせるだけだよね、と通算十何度目かの後回しをしたところに、一際大きな声が響く。認めたくないが自分の友人だった。
 判別し難いがさらに表情を曇らせた健一の様子は一切察さず、足取り軽過ぎるツバメが半透明の地雷に突っ込んでいくのが見えた。

「おーい、絹川、ちょっとこっち来てー!」
「……何だよ、鍵原」

 返事のトーンが露骨に低い。
 友人の蛮勇を止めようと千夜子も遅れて立ち上がりかけたが、喉に絡んだ粘つきが制止の一声を潰した。ごほごほと咳をして、ようやく具合が戻った頃にはもう手遅れだった。

「ほら、こっちこっち」
「……話があるんならそっちが来るのが礼儀だろ」
「心狭いわねー。いいじゃない、みんなに聞かせたいんだから」
「何を」
「シーナ&バケッツの話に決まってるでしょ」

 健一の視線が氷点下まで冷え込んだことにも、浮つきまくったツバメは気付かない。
 当然ながら「どうして絹川君?」と周囲の女子が疑問を持ち、そういえばみんな知らなかったんだっけ、とツバメがわざとらしく驚く。ストリートグラップラーを視聴した、健一と千夜子以外の誰もが、おそらくは昨夜の熱をまだ残し続けていた。同じ温度でない二人だけが、それを共有できていない。ツバメ達もまた、共有できていない健一が見えていなかった。
 だから遠慮をしない。躊躇わない。

「そんなおおっぴらに言うことじゃないだろ」
「何言ってんの、ここは大いに自慢するところでしょ。だって絹川はバケッツなんだから」
「えっ、それホント!? あのハーモニカ吹いてたのって、絹川君なの?」
「……そうだけど」
「うわー、バケッツって絹川君だったんだ。意外ー」
「でしょー? そんでさぁ、絹川。是非知りたいことがあるんだけど」
「……なに」
「シーナ&バケッツ、メジャーデビューの話とか来てるんじゃない? つーか絶対来てるわよね?」

 いよいよ最低限の言葉しか発さなくなった健一に、数人揃いで期待の目が向けられる。
 長い沈黙があった。
 堪え難いものを抑えるように眉を顰めて、健一は呟いた。

「来てないし、来てても関係ないよ」
「え? 関係ないって、何で?」
「もう、シーナ&バケッツはライブをしないから」
「そんなわけないでしょ、昨日だってシーナさん、また明日も来てくれって言ってたじゃない。……みんなも聞いたわよね? ね?」
「うんうん」
「言ってたよね」
「……確かに、昨日はそう言ったよ。でも、事情が変わったんだ。もう続けられないんだよ」
「なあに絹川、それって新手の焦らしプレイ? そりゃあメジャーデビューするんならそういうのも大事かもしれないけど、冗談なんか挟まなくたってみんな絹川の話はちゃんと聞くわよ?」
「こんな冗談言うわけないだろっ!」

 一瞬、教室内の全生徒が教壇の方を注視した。
 千夜子も初めて耳にするほど、健一の声は大きかった。泣きそうな叫びだった。
 硬直した空気の中、ふと千夜子の視界の端で、誰かが目を逸らした気がした。けれどそんな些事を咎める余裕もなく、項垂れる健一の背中をじっと見つめる。

「……まさか、マジなの?」
「本当だよ」

 まだ信じきれていないツバメの問いかけを、健一が突き放す。
 そのタイミングを見計らっていたかのように、始業の鐘が鳴る。

「残念だけど、嘘じゃないんだ」

 戸惑いながらも座席に戻る生徒達の流れに、健一もまた混ざっていく。
 地雷を踏んだことを悟ったツバメのフォローは、もう少し後になりそうだった。


 昼休み、あんなことがあったにもかかわらず、健一は千夜子の呼びかけに快諾してくれた。
 折角作ってくれた弁当を無駄にしたくない、という理性的な感情が働いたのかもしれないが、時間が経って多少は落ち着いたのだろう。ピリピリした雰囲気は幾分鳴りを潜めていた。
 寒々しい屋上で、壁に背を預け、二人並んで箸を動かす。
 ツバメはいなかった。朝からずっと気まずい空気を払拭できなかったのもあるが、千夜子が二人きりにしてほしいと頼んだのだ。代わりに後で謝罪の機会を作ると約束した。調子に乗りやすい友人は、けれど道理を弁えている。
 秋も半ばを越し、暦が冬に寄ってきたので、屋上は風が随分冷たい。いくら天気が良いといっても、三十分以上も居続けるには辛い場所だ。それでも千夜子は、なるべく人がいないところを選んだ。健一も声を荒げた体面、教室では据わりが悪いだろうと思ったのだった。
 食べながら教えてくれる出来栄えの感想も今はない。
 もそもそとおかずをつつく姿は、お世辞にもおいしそうな風には見えなかった。
 とはいえ、ちゃんと胃に入れられる以上、食欲は人並みにあるのだろう。
 それが確認できただけでも、ちょっと、安心した。

「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」

 箱の中身がなくなり、箸を置いて健一が両手を合わせる。
 空になったケースを受け取って、千夜子は小さく笑んだ。
 遅れて自分も完食し、大きめの包みに二人分の弁当箱を収め、上で結んでおく。
 それからしばらく、会話はなかった。焦点の揺れる瞳で前を見つめる健一を、千夜子はじっと眺め続ける。少しして、ぼんやりしたまま健一が呟いた。

「朝は、すみませんでした」
「……何がですか?」
「鍵原と、その、口論みたいになっちゃって」
「別に絹川君が謝ることないですよ。あれはツバメが悪いと思います」
「そうなんですかね」
「そうなんです。……あ、でも、反省してましたから、後でツバメに謝らせてあげてください」
「わかりました」

 ほんの僅か、尻の位置をずらす。
 健一の方へ。

「シーナ&バケッツのこと……何か、あったんですよね」
「……まあ、はい」
「私はライブにも一回行ったきりですし、きっと絹川君が悩んでることとも、全然無関係ですけど」

 横に並んでみたって、背の高さも目線も、心の向きも違う。
 彼と同じものは見えないだろう。
 だけど、

「他人だからこそ、話せることもあると思うんです」
「他人だからこそ……ですか」
「はい。誰かに相談してみたら、気持ちが軽くなったりするじゃないですか。絹川君、悩んでるみたいでしたから……私に話して、それで楽になれればいいなって」

 踏み込み過ぎかなと内心では頭を抱えていたが、辛うじて表情には出さずに済んだ。
 千夜子決死の提案に、健一は考える仕草を見せた。
 唇に握り拳の人差し指を当て、千夜子から顔を逸らし、目を閉じる。
 静かに息を吐いてから、何事か決意したように千夜子へと向き直った。

「じゃあ、聞いてもらってもいいですか」
「はいっ。いつでもどうぞっ」

 嬉しくて気持ちが勢い余った。身体も寄せ過ぎた。
 慌てて五センチほど距離を取り、深呼吸。
 そんな千夜子の姿に、健一は強張り気味だった頬を微かに緩めた。

「……例えばの話、なんですけど」
「はい」
「ある人に、好きな人がいて。その人以外何も要らないってくらい好きで。でも、距離が近過ぎて、お互いの関係が壊れてしまうのが怖くて、ずっと気持ちを伝えられなくて」

 彼自身の話だろうかと身構えたが、乙女の勘がそうじゃないと訴えていた。
 ならばこれは、おそらく。
 シーナ&バケッツの片割れ――シーナのことだ。

「色々頑張って、いけるかもって思って、勇気出して気持ちを伝えたんです。なのに、全然届かなくて……伝わらないどころか、あなたが私を好きなわけないって言われちゃって」
「……それ、すごい残酷です」
「僕もそう思いました」

 他に何も要らないくらい好きなのに、好きなわけないだなんて。
 そんなの、自分をまるまる否定されたようなものじゃないか。
 己の立場に置き換えてみて、千夜子はきゅっと心臓が縮み上がるのを感じた。
 世界が遠のくような息苦しさを抑え、唇を噛み締める。
 ぴりっとした痛みが千夜子を現実に引き戻す。

「その人は、物凄く傷付いてました。けど僕は……諦めるなって言ったんです。そしたらいつか、伝わる日が来るかもしれないって。諦めてほしくないとは、今も思ってます。ただ、僕も無責任で残酷だったのかなとか、そんな風にも思えてきて」
「絹川君は、諦めちゃ駄目だと思ったんですよね」
「はい。あの気持ちは、本物です。少なくとも僕は、そう信じてます」
「だったら私も、絹川君と同じ意見です」

 所詮千夜子は外野だ。当事者からは程遠く、健一の発言から事情を推察することしかできない。ある意味人生を左右するような決断に対し、どうこう言うのは健一よりよほど無責任だろう。
 けれどひとつ、確実にわかることがある。
 誰かを好きになる気持ち。好きでいる気持ち。
 それがどれほど厳しく、難しく、尊いものなのか。

「告白して、それで駄目だったら仕方ないなって思います。でも、伝わってさえいなかったら、好きな気持ちがどこにも行けなくなっちゃいます。そこで諦めたら、一番大切なものを裏切ることになるんです」
「……一番大切なもの?」
「自分自身です」

 己を裏切ったら、いったい誰が信じてくれるのか?
 そんな自分から目を逸らして、ずっと生きていくことになりはしないか?
 勝ちか負けかで言うならば、そいつはどうしようもない負け犬だ。
 負けず嫌いの大海千夜子は、誰より自身に負けることを許せない。
 先に待つのが、苛烈な苦難の道であったとしても。

「だから、その……すみません。何だか好き勝手喋っちゃって」
「いえ、そんなことないです。なんていうか、こう、上手く言えないんですけど……ちょっと楽になりました。僕だけ楽になっていいのかって気もしますけど」
「一人で抱え込むよりはいいですよ。……たぶん」
「ですね。ありがとうございました。大海さんに聞いてもらってよかったです」
「私も、力になれたのならよかったです」

 座ったまま、互いに頭を下げて微笑み合う。
 さすがに昼休みが終わるまでいるのは辛いからと、会話も一段落したところで室内に入り、教室へ戻る。そうして出待ち状態だったツバメが不器用に謝っている様子を見ながら、千夜子は咳と共に人知れず深い溜め息を落とした。
 ……また、タイミング逃しちゃった。










 最後の授業が終わっても、日奈が学校に来る気配はなかった。
 健一は千夜子とツバメに別れを告げ、幽霊マンションへとダッシュで向かった。まだ窪塚家にいる可能性も勿論あったが、どちらにしろ十三階には顔を出すはずだと思ったのだ。
 家に帰らせてからいったいどうなったのか、ずっと気になっていた。佳奈に告白した以上、何もかもを隠し通すことはもうできない。そうなった日奈が下す決断について、健一は知らなければいけなかった。それが彼女の背を押し、さらなる茨の道に送り出した自分の責任だろう。
 長い階段を上る間、様々な考えが脳内に流れていく。まだ凹んでないかな。大丈夫かな。佳奈さんと会ったのかな。波奈さんにも話したのかな。……シーナ&バケッツは、やっぱもう続けられないかな。
 今朝蛍子にも、ツバメやクラスメイトにも言ったことだが、健一自身にはまだ未練がある。初めは恥ずかしかった人前での演奏も、いつしか楽しさを感じるようになったし、ハーモニカが上手くなっていく達成感、シーナとシンクロする気持ち良さ、万雷の拍手を聞いた時の胸が熱くなる感覚――全部、シーナ&バケッツでしか得られなかったものだ。
 メジャーデビューが視野に入り、これからも続けていいんじゃないかという気持ちが二人の中に強く生まれた。日奈の想いを成就するため、そんな屈折した理由からスタートした活動も、やっていくに従って違う意味を持ち始めた。
 嘘が本物になったっていいのかもしれない。
 シーナにはそれだけの力があると、健一は思っている。
 けれど、言ってしまえばシーナという存在そのものが、佳奈に吐いた嘘の結晶なのだ。偽りの彼女を否定した健一が、今更シーナでいることを願うのは自分勝手に過ぎやしないか、とも思う。
 ……どちらにしろ、日奈のことは日奈にしか決められない。
 雑多な思考を振り払い、1301の玄関扉を開ける。

「あっ、おかえり健一!」

 途端に奥から駆けてきた人影が、笑顔で健一を迎え入れた。
 それは日奈だったが、一瞬シーナと見間違った。帽子を被っておらず、服装もいくらか女性的ではあるが、肩口やうなじに掛かっていた髪がばっさり切られていた。まるで男子と言うには長い髪を帽子に詰めていたシーナのように。

「えっと……ただいま、日奈。その髪はどうしたの?」
「切ってきちゃった。本当はずっと、短い方がさっぱりしていいなって思ってたから」

 困惑しつつの問いかけに、あっさりした口調で日奈が答える。

「……どう? 似合ってない?」
「いや、似合ってる……んじゃないかな」
「何でそこで自信なさげなのかなあ。褒める時ははっきりしなきゃ。はい、もう一回」
「……似合ってるよ」
「ぷふぅっ」

 リピートさせておいて噴き出す畜生がいた。
 酷い仕打ちに健一はジト目を送るが、一方で安心もする。
 どうやら空元気の類ではないらしい。どこか吹っ切った感じがした。

「ごめんごめん。でもまあ、健一はそのままでいいのかもね」
「微妙に納得いかないんだけど……」
「あはは」

 満足するまで笑い尽くし、玄関で話してるのも何だし、とリビングに移動する。
 健一に先に座らせると、日奈はすかさず隣を選んだ。コップも率先して自分で出し、甲斐甲斐しく健一の分も飲み物を用意する。昨日からは考えられないほどの機嫌良さに、健一は首を傾げた。

「あの後、何かあった?」
「うん。色々あったよ。健一にはちゃんと話そうって思ってたんだ。聞いてくれる?」
「最初からそのつもりだったよ」
「ありがとう」

 感謝の言葉にも、陰りはない。
 そうして日奈はゆっくりと話し出す。
 健一が知り得ない時間に、何を決意したのか。

「帰ってからね、お母さんと話したの。シーナのこと、佳奈ちゃんのこと、全部。そしたらお母さんが、たぶん早苗さんに電話して、一時間もしないうちに錦織さんが家に来たんだ」
「……錦織さんが?」
「話だけは健一から聞いてたけど、すごい人だね」
「すごいっていうか……なかなかいない人だとは思うけど」
「確かにね。で、錦織さんが言ったんだ。あなたが窪塚日奈として戦うなら、私にあなたを歌手としてプロデュースさせてほしい。いずれ必ず日本を代表する、世界に羽ばたける人間にしてみせるって」

 敢えてエリがシーナの名を出さなかったのは、日奈の事情を鑑みてというだけではないのだろう。
 これまで築き上げてきた偶像に頼らず、あるがままの自分でいなさい、と。
 かつて己を偽り、今は誰より自分に正直なエリだから、即座に日奈の嘘を見抜けたのかもしれない。見抜いたからこそ、偽らず、そして正直に生きることを求めたのだ。

「日奈は、なんて答えたの?」
「お願いします、って。返事したら錦織さんがいろんなところに電話して、あっという間に転校が決まっちゃった」
「転校……? 別の学校に行くってこと?」
「そう。もっと芸能活動に理解があるところなんだって。全寮制で、家からも出ることになったんだ。で、入寮が今晩。錦織さん、段取り良過ぎだよね」
「頭の回転速いのは間違いないけど……って、今晩?」

 次々と投げ込まれる情報に、健一の思考は突き放されるばかりだったが、これ以上ないくらい強烈なパンチだった。
 言葉を理解するのに一拍、その意味に辿り着くまでもう一拍を要した。
 入寮が今晩。
 つまりそれは、もう日奈がここには戻ってこないということだ。

「今日はね、みんなに挨拶したくてここに来たんだ」
「……出ていくの?」
「うん。1305は、シーナの部屋だから」

 頷く日奈の表情は、晴れやかですらあった。
 シーナでいたから十三階に導かれた。けれど佳奈への告白を経て、シーナ&バケッツと共に、シーナ自身の役目も終わったのだ。佳奈に望まれた女の子でも、大胆不敵な男の子でもない。窪塚日奈でいることを、彼女は選んだ。
 新しい門出を素直に祝えない気持ちも、やはりある。楽しかった。充実していた。もっと、続けたかった。それはきっと日奈も同じで、あるいはそんな未来もあったかもしれなくて、ただ、その上で出しただろう答えを、決意を鈍らせたくはなかった。
 ともすれば感情が滲みかけない瞳を、静かに逸らす。
 健一の仕草を日奈は咎めず、互いに正面を向いた。

「ごめんね。健一には、いつも応援してもらってばっかりだった」
「それしかできなかったからね」
「……私、健一に何かできたのかな」
「いろんなものをもらったよ。友達になって、一緒にライブして、馬鹿やったりして」
「楽しかったの、私だけじゃなかったんだ」
「うん。日奈と一緒にいて、僕も楽しかった」
「……ねえ、健一は、これからも私のこと、応援してくれる?」
「当たり前だよ。親友なんだから」
「そっか。ありがとね」

 椅子と椅子の間で、探るように日奈の手が健一の手を求めた。
 躊躇いなく握る。柔らかな、女の子の手指。シーナも、日奈も、この大きさと温かさは変わりない。

「時間は大丈夫?」
「もう少しなら。まだみんなに挨拶できてないし」
「僕は急いで来ちゃったから……八雲さんと有馬さんもそろそろ帰ってくるはずだけど」

 ちらりと時計を窺った直後、玄関から物音が聞こえる。
 現れたのは刻也だった。1302に一度寄ったのだろう、荷物も持たない私服の格好で、日奈の姿に目を見開いた。

「窪塚君……その髪型はどうしたのかね?」
「すぱっと切っちゃいました」
「うむ、それは見ればわかるが……随分思いきったものだね」
「実は昨日、失恋したんです」

 笑みを浮かべながらの一切取り繕わない直球発言に、刻也が固まった。
 健一としても、さすがに驚かざるを得ない。それこそ昨日の今日で、まだ引きずっていてもおかしくないはずなのに、こうもあっさり口にできるだなんて思ってもみなかったのだ。心の整理がついたのか、敢えて包み隠さないことで精神の平衡を保っているのかは判別し難いところだが、少なくともある程度は割り切れたのだろう。

「……もしや、訊いてはいけないことを訊いてしまったかね」
「いえ、私だっていきなり八雲さんが丸刈りになってたりしたらびっくりしますし」
「例えにしても想像できないね、それ……」
「驚かせちゃってすみません。あと、失恋したからってわけでもないんですけど、明日から転校することになりまして」
「転校?」
「歌手になるので、芸能活動に理解がある学校の方がいいだろうって」
「それはまた、急な話だね」
「今日決まったものですから。転校先は選択式ですけど寮があるので、卒業までは寮暮らしですね」
「全寮制ではないのか。ならば家からでも通学できそうなものだが」
「場所は仲野です。そんな遠くはないですけど、私朝弱いですし、それを抜きにしても、寮から通った方が何かと便利なので」

 電車ならだいたい乗り継ぎも含めて三十分前後というところだ。
 徒歩圏内の通学に慣れていると、それだけの時間はなかなか大きなロスに感じるかもしれないが、刻也は言外の意図に何となく気付いているようだった。何しろ刻也もまた、実家が近いにもかかわらず十三階で一人暮らしをしている。
 子供が家族から離れようとする動機は、そう多くない。
 不和にしろ、あるいは他の事情にしろ、先達者である刻也が日奈を止める理由はなかった。

「ふむ……君には君なりの考えがあるのだろうな。入寮はいつなのかね?」
「今晩です。ここには元々大した荷物も置いてないですし、家からも着替えくらいしか持っていくつもりはないので、あとはもう一度戻って寮に行くだけなんですけどね」
「ということは、挨拶のために来たのか」
「はい。綾さんとはもう済ませたので、八雲さんと有馬さんで最後です」
「……最後、か。有馬君と話したらすぐに出るのかね」
「家でも少しやることありますからね。そのつもりです」
「決まったのが今日とはいえ、事前にわかっていれば送別会を企画したのだが……いや、今更言っても詮無いことだな」
「もしわかってても言いませんでしたよ。そんなことしたら寂しくなっちゃいます」
「そうか。そうかもしれないな」

 刻也に動揺や不服めいた感情は、ないように見えた。
 日奈の言葉に頷く様子から健一が感じたのは、納得だ。
 いつかこんな日が来るとわかっていて。
 それは日奈以外の人間も、自分でさえも例外ではないのだ、という。
 揺らがない刻也を、冷たいとは思わない。
 むしろ己にないものを持っている刻也のことが、少しだけ羨ましかった。

「綾さんは、何か言っていたかね?」
「日奈ちゃんは偉いねって、抱き締めてくれました。柔らかかったです」
「そこまでは訊いていないが……ある意味、あの人らしいと言えばらしいな」
「あの……八雲さんには、綾さんがどうしてそう言ったのかわかりますか?」
「どういうことかね?」
「偉いねって言われましたけど、私のどこが偉いって思ってくれたのかなと」
「……私は綾さんではないから、主観でしか言えないが」
「はい」
「根本的なところで、私は弱い人間なのだよ。父に反発して家を出たが、顔を合わせなくなったからといって問題が解決するわけではない。別の見方をすれば、問題を先送りしたとも言えるだろう。そうして一度逃げてしまうと、意固地になるものでね。もっと賢くて真っ直ぐなやり方があると理解していても、それができなくなってしまう」
「……なんでですか?」
「きっと、恐ろしいのだよ。より酷い結果が待っているのかもしれないと思うと、途端に足が竦んでしまう。だからこそ、そこで踏み出せる人間には、敬意を抱かずにはいられないのだ」

 今度は日奈が瞠目した。
 ぼろぼろになって泣いた屋上で、健一が日奈に言い聞かせたことが、刻也の言葉と重なった。
 もっと酷いことだってあるかもしれないけど……諦めなければ、いつかわかってもらえるかもしれない。
 その希望を信じて、日奈はエリが差し出した手を取った。皆と別れることになっても、事態が好転する保障がなくても、歩くだけで血塗れになるような茨の道であっても――前に進むと、決めたのだ。

「僕も、日奈はすごいって思うよ」

 綾の告白は先延ばしにしてしまっているし、蛍子にも誠実には向き合えないでいる。
 ひとつを選ぶ決断をする、それだけのことが、本当に難しい。
 なのに、今朝は泣き過ぎて目が真っ赤だったような日奈が、半日も経たずに立ち直り、こうして十三階を去ろうとしている。弱々しかった姿を思い出すほどに、健一の胸にじわりと滲む熱にも似た、誇らしい感情が広がった。

「だとしたら、きっと健一のおかげだね」
「僕はシーナのそばにいただけだよ」
「ううん……私を見て、私を変えたのは健一だから。健一が、私を“本当”にしてくれた」

 けれど日奈は首を横に振る。
 テーブルの下に隠れた手が解かれた。おもむろに立ち上がり、健一の背後に回ると、不意に肩辺りに重さが掛かってきた。するりと細い両手が首の両側を通り、胸前で結ばれる。右肩に日奈の顎が乗り、ようやく背中側から抱き締められていることに気付いた。
 正面に座っていた刻也が、日奈の髪を見た時より驚いていた。

「ちょっ、日奈!?」
「ありがとう、健一。これで最後だから」

 耳元での囁きが尾を引くように、すっと離れていく。
 当たり前だが、柔らかかったです、なんて言う余裕は健一にはなかった。

「……その、何だ、君達はそういう関係だったのかね?」
「そういう関係って何です?」
「いや、何というか……すまん、忘れてくれたまえ」

 訊き返す日奈に特別な意図はなかったが、刻也が珍しく慌てて誤魔化したので、むくむくと悪戯心が湧き上がってきたらしい。
 振り向かなければ健一には表情が窺えないものの、わざわざ見なくてもわかる。
 間違いなくいい笑顔をしている。

「もしかして、八雲さんもしてほしいんですか?」
「い、いや、遠慮しておく。君とはあまり親しいとも言えない関係だったしな」
「ふうん。八雲さんって実は冷たい人だったんですね。私は結構親近感覚えてたんですけど」
「ぐ……べ、別に君のことを嫌いだと言っているわけではなくてだな」
「でも、抱き合うのは困るんですよね。その程度の関係だって思ってたんですね」

 露骨な当て擦りというか、本気でないのは一目瞭然だったが、混乱しっぱなしの刻也はさらに狼狽した。完全にドツボに嵌まっていた。
 にやりと意地の悪い表情を浮かべ、健一に日奈が目配せをする。
 追撃よろしく。了解。アイコンタクトは一瞬で済んだ。
 見事な男友達との悪乗りだった。

「日奈はそれくらい仲が良かったつもりだったみたいですよ?」
「……君までそんなことを言うのかね」

 不満げではあるが、怒っているわけではない。どうしたらいいのかと困った顔をする刻也に、健一は席を立ち、後ろからぽんぽん、と肩を叩いた。こういうノリが珍しくて楽しいというのも勿論だが、先ほど日奈が言った通り、これが最後かもしれないのだ。日奈の味方である健一は、なるべくその願いを叶えてあげたかった。

「八雲さんは気にし過ぎなんですよ。そりゃあ彼女がいるからちょっと気後れするのもわからなくはないですけど、私なんかにドキドキするなんて変です」
「いや、待ちたまえ窪塚君……というか君は、何だ、その……かなり、可愛い方だと思うのだが……」
「へえ……。私のこと、そういう目で見てたんですか」
「そ、そういう目とは何だね。そもそも私は君が自分を卑下するからそれを否定しただけで、別に疚しいことを考えているわけでもないし、だいたい私には鈴璃君という相手が」

 じりっ、じりっ、と近付く日奈に、刻也は腰を浮かし、一歩ずつ壁の方へと下がっていく。四呼吸目の言い訳が飛び出る瞬間、日奈が動いた。少し離れて二人の様子を見守っていた健一には、頭から前傾姿勢へ移る日奈と、咄嗟の状況に硬直した刻也の姿がはっきり捉えられた。
 飛び掛かる、というには軽く柔らかい動作で、日奈が刻也の胸に顔を埋める。
 指先まで針金が入ったかのように、両腕が宙で固まった刻也は、しばらく健一と日奈を交互に見た。視線が助けを求めていたが、健一は無言を貫く。ややあって、日奈がそのままの状態で刻也に上目遣いを向けた。

「そこまで嫌がることもないじゃないですか。私だって傷付きますよ?」
「う、すまない……ただ、私はこういうことに慣れていないだけで……先ほども言ったように、別に君のことが嫌いだというわけではなくて……」
「じゃあ八雲さんの方から抱き締めてください」
「待った、さすがにそれは」
「できないってことは、やっぱり私のこと嫌いなんですね……」
「ぐう……! む、そうだ、絹川君は一方的にされていただけではないかね!?」
「健一には今朝、たくさん抱き締めてもらいましたから」
「た、たくさん……!? それはどういう……いや、答えなくていい。君達の個人的な関係に私が踏み入るべきではないし、今の状況とは何ら関係ないことだし、というか絹川君は早く助けてくれてもいいのでは……」
「八雲さんが駄目なら、代わりにもう少しぎゅっとしてもいいですか?」
「………………これ以上となると、まだ私から抱き締める方がいいような気がするのだが」
「はい、じゃあそうしてください」

 逃げ場が塞がれた。
 完璧な追い詰め方だった。そこそこ理路整然としているのでなお性質が悪い。
 既に結構な密着度ではあったが、もう少しぎゅっとしたら果たしてどうなっていたのか。ともあれ天を見上げ、躊躇いながらも恐る恐る刻也が両腕を下げる。まだ指は強張ったままだったが、ゆっくりと日奈の背中に腕が回る。
 ところで、1301のリビングは、玄関から一直線の廊下で通じており、廊下とは小型のガラス窓を嵌め込んだ扉だけで隔てられている。
 そのため位置によっては玄関にいても様子が丸見えになったりするし、玄関と違って扉の開閉も静かだ。
 刻也にとっての最大の不幸は、物音がなかったことだった。あるいは鉄の軋みくらいは響いたのかもしれないが、日奈に神経が集中している刻也には、どちらにしろ気付けなかったと言えるだろう。

「あっ」

 と小さな声が聞こえて、初めて刻也は後ろの四人目に気付いた。
 健一と刻也から僅かに遅れて下校してきた、冴子だった。

「えっと……こんなことになってるだなんて思わなくて……ご、ごめんなさい」

 ぱたん。
 軽い音で扉が閉められる。

「あ、有馬君!?」

 日奈には抱き着かれたままなのでその場から動くこともできず、背中に回りかけた両手をぶんぶんと振り上げて、

「待ってくれ、ご、誤解なのだ、別に私と窪塚君は何でもない! いや、実際に抱き合おうとしてはいたがこれにはちゃんとした理由があってだね、は、話は聞こえているかね!?」

 本人的には人生でも五指に入りかねない必死さだろうが、傍目にはもうギャグシーンにしか見えなかった。
 日奈が耐えきれずに「あはっ」と声を漏らし、笑って、笑い尽くして、それからようやく刻也を離した。

「慌て過ぎですよ、八雲さん」
「……窪塚君?」

 反射的に名前を呼んだものの、刻也も何と言っていいかわからなかったのかもしれない。
 日奈は特に答えることなく、淡い笑みを残して、廊下の冴子に声を掛けにいく。
 健一にも、刻也にも伝えた決別の言葉を、また口にする。

「私、このマンションを出ていくことにしました」










 湿っぽくは絶対ならないようにしよう、と思った。
 だから見送りも断った。私が言わなければ家まで健一は送ってくれただろうし、八雲さんも有馬さんも、きっとそういう流れに持っていったはずだ。十三階の人達の中で、一番私との関わりが深かったのは、やっぱり健一だから。
 ポケットには、錦織さんに渡されたPHSが入ってる。これからお世話になるわけだし、寮だとなかなか連絡も取りにくいからってことで受け取ったものだ。一応私用で使ってもいいとは言われてるから、健一に番号を教えた。何かあったら電話してね、って。
 でも、本当によほどのことがない限り、健一は電話してなんてこないだろう。
 ばいばいって手を振って1301の玄関扉を閉め、踊り場に出て、階段を下りる。1305の鍵は有馬さんに預けた。私はもう持ってても仕方ないし、手放さなきゃ意味がないと思った。ポストにでも放り込めばよかったのかもしれないけど、あの中で自分だけの部屋がないのは、有馬さんだけだったから。どんな理由であれ、異性が同じ屋根の下にいるのはよくないことだ。例え健一や有馬さんが相手を必要としているんだとしても、寄り掛からずにいられるような逃げ道はあった方がいい。
 十三階の住人の証たるあの鍵がなければ、この不思議な居場所に踏み入ることは二度とできないんだろう。ここは優しくて、居心地良くて、賑やかで、楽しくて、本当に幸せなところだった。叶うならずっといたかったし、みんなと離れたくなんてなかった。
 そうだよ。
 当たり前だよ。
 辛くないわけ、ないじゃん。
 シーナ&バケッツ、もっと続けたかった。健一だってそう思ってたに違いなかった。八雲さんとはやっと少し仲良くなれたばかりだった。彼女さん、紹介してほしかったな。有馬さんは最初、佳奈ちゃんのこともあってもっと冷めた人だと思ってたけど、そんなことなかった。ちょっと不器用で、でもすごく優しい人。綾さんは破天荒で、結構エロくて、かなり駄目な人だけど、みんなの中じゃ一番大人になろうとしてる人だった。
 私のこと、理解してくれる人間なんて永遠に現れないと思ってたんだ。
 だけど健一はそばにいて、どんなことがあっても応援してくれた。私を認めてくれた。
 それで満足しちゃって、佳奈ちゃんと健一がいればいいやって考えてたけど、それも間違ってた。ホントは有馬さんも、綾さんも、八雲さんだって、私のことをちゃんと見てたんだ。見ようとしてくれてた。私が歩み寄らなかったから、どうせわかってもらえないって見切りをつけてたから、距離があるように感じちゃってたんだと思う。
 あの時ああしてたら、こうしてたらって、今になって色々考えちゃう。もっと別の道があったのかな、全部手に入れる方法だって見つかったのかな、とか。でも私に残されたのは、泣きたくなるほど小さな希望がひとつだけ。それしかなかったわけじゃない、ただ私がそうするべきだと思って選んだ。自分に言い聞かせてみるけれど、水の中で吐いた息が泡になって浮き上がってくみたいに、ぽこぽこぽこぽこ、もしもの想像が溢れては弾けていく。
 後悔なんてしない?
 ……するに決まってる。
 一人でも大丈夫?
 ……寂しいよ、一緒にいたいよ。
 窪塚日奈として戦える?
 ……そんな自信、あるだなんてとてもじゃないけど言えない。
 いつの間にか階段は下りきって、外に出ていた。陽が落ちるにはまだ早く、けれどもう随分影の多い道を歩く。健一とシーナでよく通った道だ。ライブに行く時、遊びに行く時、いつもこの辺りを最初に見た。なんてことのない景色が、私の中に染み付いてる。
 思い出を辿るように、私は少しだけ遠回りをする。
 それは私が、最後の勇気を出すために必要な時間でもあった。
 幾度目の曲がり角に差し掛かると、家々の隙間から陽射しが瞳に入り込んだ。眩しさに目を細め、立ち止まる。逃げちゃえ、と耳元で自分の声が囁いた。それを振り払い、また足を動かす。動かす。動かす。
 錦織さんとお母さんと、転校の話をまとめてから私が十三階に訪れたのは、昼を過ぎた頃だった。丁度1301では綾さんが火に掛けた鍋をじっと見つめていて、何作ってるんですか、って訊いてみると、インスタントラーメンだよと答えが返ってきた。
 絹川君や有馬さんが作ったものか、コンビニで買ってくる出来合いのものを食べるだけだった綾さんも、簡単なインスタントラーメンとはいえ、一人で何とかしようと頑張ってるんだ。そう思って、私は自分が何も見ていなかったことを知った。
 世界のどこかで、誰かが生きて、変わっていく。
 私は隣で、綾さんが持ってきてた袋を開け、自分も鍋でラーメンを茹でた。粉のスープと備え付けのコショウ。包丁もまともに握ってこなかった二人じゃ、青ネギも満足に切れない。健一の作るご飯と比べたらあんまりにも侘しい昼食だったけど、二人で食べるラーメンの味はチープで、おいしかった。
 健一と八雲さんに言った通り、ここを出ていくと最初に告げたのは綾さんだ。
 食器を片付けた後、転校と入寮の話をした私のことを、綾さんはぎゅっと抱き締めてくれた。ああ、そういえば有馬さんにだけはやらなかったな。綾さんがしてくれたから、健一達ともしたくなったんだけど……惜しいことしたかもしれない。
 おっぱい柔らかいなとか、まあちょっとだけ不純な考えもしちゃった自分が哀しいけど、それはともかく。いやらしさとか甘やかな感じは全然なくて、どちらかというと年上のお姉ちゃんがいたらこうなのかなって思うような優しいハグだった。

「日奈ちゃんは偉いね」
「偉い……ですか?」
「うん。きっと辛いこと、いっぱいあると思う。それでも頑張るんだよね?」
「……はい。ここにはもう、来ることはないと思います」
「偉いよ。私よりずっと、大人になろうとしてる」

 声は震えてたし、ぽろぽろ泣いてた。別れが辛いのか、それ以外の理由があるのかはわからなかったけど、私のために泣いてくれてるのは間違いなかった。
 世界に名を轟かせる芸術家、アヤ・クワバタケ――どこか浮世離れしたところもあった綾さんは、この時確かに“普通の人”だったように思う。そういうものになろうとしているんだと、私は直感的に悟った。
 たぶん、健一のために。
 健一と一緒に、いるために。
 佳奈ちゃんへの想いを失わないために、ここを出ていくと決めた自分だからこそ、かもしれない。そうしなければ甘えて、頼って、己を見失ってしまいそうになる。誰かに自分を委ねるのではなく、依存するのでもなく、この足で立って、踏み出して、そうして隣を並んで歩けるようにならなきゃいけないんだ。
 だから私は、もう嘘を吐かない。それがどんなに適当でも、真剣でも、正面から向き合ってくれる人なら見抜いてしまうから。向き合いさえしない人は、きっと永遠に騙されたままだから。
 あるがままに生きて、理解してもらうんだ。
 私のこと。私の気持ち。そうして得た答えを抱えて、大人になる。
 昨日の夜、健一とぶつかった角まで来た。あの時はもう何も考えたくなかったけど、冷静になってみると案外どうでもいいことを覚えているものだと思って苦笑する。
 一旦止まった足をまた前に進めながら、先ほどの続きを思い出す。
 抱き締める腕を解き、こぼれる涙を袖で拭って、これから出かけてくるんだって綾さんは言ってた。よくよく見れば結構しっかりした余所行きの服装で、いつもみたいに白衣姿でちょっと買い物という感じじゃなかった。
 元気でねって、笑って送り出そうとしてくれた。外に出ていくのは綾さんなのに、なんだか不思議でおかしくて、私も笑っちゃった。
 それからひとつ、お願いをした。

「綾さん。健一のこと、お願いします」
「健ちゃんは私がいなくても、大丈夫だよ」
「いなくなるつもり、あるんですか?」
「……ない、かなあ。ないといいな」
「健一って、あれで結構弱いところあると思うんです」
「うん、知ってる」
「そういう時、一番そばにいた方がいいのは、綾さんだって私は思うから」
「……日奈ちゃんは、どうしてそんなことをお願いするの?」
「だって私、健一の親友ですから。だから、私にできないことは、綾さんにお任せします」
「そっか。うん、わかった。お願いされたよ」

 健一にもきっといつか、私みたいに泣きたくなる瞬間が来る。
 その時私はそばにいられないから。綾さんには、頼み込む必要なんてないのかもしれないけど。有馬さんがいれば充分なのかもしれないけど。
 頷いた綾さんが踊り場に向かうのを見送って、やっぱり逆だよねって笑って、おしまい。別れは呆気ないものだった。それで、いいと思った。
 憂いはない。
 やるべきことは全部やった。
 ああ――でも、でも。

「もっとライブ、したかったな……」

 未練も、望みも。
 綺麗に捨てられるほど、強くない。

「もっとみんなと、いたかったなあ……!」

 辛いよ。泣きたいよ。胸が痛いよ。痛くて、苦しくて、叫びたいよ。
 それでも私は決めたんだ。上を向いて、歩いていくんだって。
 いつか、本当に有名になって、世界でも通用する歌手になってみせよう。どこにいても、私がわかるように。
 そしたらみんなに、会いに行ってもいいって思えるから。
 長い旅路の始まりを、私はまた歩き出す。
 本当の願いが、この道の先にあると信じて。



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何かあったらどーぞ。