さっき別れたばかりのはずの日奈が、ここにいた。 告白の成功を報告しに来たのならまだよかった。しかし、全くそんな雰囲気はなく、十数分前と同じ服装で、同じ靴で、絶望と諦念に満ちた表情を浮かべていた。 あってはならない状況に、健一は掛ける言葉を失った。割れた硝子をかき集めて無理矢理接ぎ合わせたような、軽く触れただけで粉々になってしまいかねない脆さを感じた。 「けんいちぃ……」 感情が決壊する。瞳から大粒の涙をぽろぽろと溢れさせ、半ば倒れ込む動きで、健一の胸に顔を埋める。両手が縋り付くように服を掴み、一気に体重が来た。弛緩した身体がずり落ちてしまいそうになり、慌てて、けれど恐る恐る日奈を抱き留めた。 大丈夫、なんて当たり前のことを口にしかけ、何とか飲み込む。 そんなわけないだろう。 腹の辺りが湿っていくのがわかった。涙って冷たくないんだな、と的外れなことを考えた。 何度も健一の名前を呼びながら、日奈は抑えた嗚咽を繰り返す。これが昼間や人の多い通りなら色々誤解されそうな状況だが、幸い深夜で二人を咎める者もいない。 「……ここにいるから。日奈が落ち着くまで、ずっといるよ」 背中を優しく擦り、言い聞かせる。 ずっとそうして、どれほどの時間を要したのか。随分掛かったのかもしれないが、健一にはかなり短く思えた。 服を握り締める手指の力が、少しだけ緩む。のろのろと健一から身を離す。それでも日奈は、服の裾を掴んだままだった。深く俯いた表情は、夜闇に紛れて上手く見えない。ただ、良い色をしていないことは間違いなかった。 道端で突っ立っているわけにもいかず、健一の先導で歩き出す。いくつか脳内に選択肢を並べてみたものの、ほとんどは検討するまでもなかった。家に帰すのも、絹川家に連れていくのも無しだ。結局、幽霊マンションに戻るのが一番無難だった。 初めは服の裾を摘まんでいた日奈の手が、遠慮がちに健一の手に触れる。誰かに、何かを求めるのを怖がっているようでもあった。だから安心させるために、健一から握ってみせる。返ってくる力は日奈らしくない弱さで、その感覚が胸に痛かった。 心のどこかでは、予感していたのかもしれない。 日奈の想いは、限りなく報われないものだった。それが嫌で、足掻いてきた結果として彼女は告白に踏み切った。可能性は低かっただろうが、さりとて皆無とも言えなかったはずだ。佳奈がシーナをちゃんと好きだったなら。日奈がシーナだと認められたなら。認めた上で日奈の気持ちを真摯に考えられるなら。 単純に振られただけだとして、こうまでボロボロになるだろうか。 どこか、そうなることを前提にしているところも日奈にはあった。覚悟していた、と言い換えてもいい。なのに、現実はこの通りだ。佳奈から逃げて、泣いている。 自分が想像していたより、もっと残酷な出来事が起きたのだ。 「………………」 見覚えのある建物が見えても、日奈はひとことも発さなかった。 いっそ従順過ぎるほど、健一の後を淡々と付いてくる。抵抗する気力もないのかもしれなかったが、嫌じゃないとここは信じた。 マンションの一階は、夜の道路よりよほど明るい。蛍光灯が示すルートを行き、長い階段を一歩ずつゆっくり上る。靴と床の立てる音が、静かな暗闇に強く響く。たん、たん、たん。気温だけではない肌寒さを覚えつつ、十三階に辿り着く。 「健一」 「どうしたの?」 「他の人には、会いたくない」 有馬第三ビルの各フロアと階段は、鉄の扉ひとつで隔てられている。 その扉に指を掛けた瞬間、健一の名前以外の単語を、日奈が久しぶりに喋った。 冷たいドアノブから、そっと手を離す。もう相当に遅い時間だが、昼夜の概念が薄い綾然り、一人では寝られない冴子然り、十三階の住人は深夜でも起きていることが多い。1305へ向かおうとしても、途中で誰かとばったり鉢合わせる確率はそれなりに高いだろう。 何より、冴子はきっと健一の帰りを待っている。 眠るために必要なことでもあるし、彼女なら健一と日奈の微妙な様子に感付いていてもおかしくない。 振り返ると、日奈の肩越しに階段が見えた。上か、下か。また外に出たところで、他に思い当たる行き先があるのかというと困る。少し悩み、 「屋上にしようか」 「うん」 「外歩いてた時より寒いかもしれないけど」 「……健一がいるから、平気」 そっか、と頷いて、また歩く。僅かに数の多い段差を踏み越え、空いた片手で扉を開けた。外気が押さえつけているのか、若干重い。隙間ができると、そこから一気に風が流れ込む。前髪を揺らした空気が落ち着くのを待ち、健一が先に縁を跨いだ。 日奈も出たのを確認して、なるべく大きな音をさせないように扉を閉める。 案の定、屋上は風が強く寒かった。四方を囲む塀は健一の胸程度の高さで、背を預けるには丁度良いが、乗り越えようと思えばそう難しくもない。今手を離したら日奈が飛んでいってしまうかもしれない、と嫌なイメージが脳裏に浮かび、思わず繋いだ手に力がこもった。 「健一?」 「えっと……やっぱり寒いから、何か上に羽織るものでも持ってくる?」 「ううん。要らない」 碌でもない想像を誤魔化すように訊くと、すぐさま否定した日奈が、扉近くのコンクリートに背中を付けて座る。釣られて健一も腰を下ろした途端、すっと日奈が肩を寄せてきた。服越しに触れる。さらに日奈が頭を傾け、健一の肩に乗せる。 「こうしてればあったかいから」 間近に日奈の端正な顔があった。 睫毛の長さ、さらさらの髪、漂う淡いシャンプーの匂い。 ぞわりとした。日奈から女を感じてしまった。 そんな自分が浅ましく思えて、自己嫌悪の感情が湧き上がる。 「まだ寒い?」 「いや、僕も……平気、だけど」 「ならこのまま、そばにいて」 声が微かに震えていた。 もしここで健一がいなくなれば、冗談抜きでさっきの想像が現実になりそうな危うさがある。 だから、動かないことで答えた。 ひゅるひゅると細く聞こえる風の音。唇からこぼれる息は仄白い。互いの身体に隠れた、繋いだままの手が一番熱を持っている箇所だった。 しばらく会話はなかった。 健一は、日奈が落ち着くまで待ち続けるつもりでいた。 「……ごめんね」 姿勢を変えず、正面を見つめる日奈が呟いた。 「色々手伝ってもらったのに、こんなことになっちゃって」 「いや……僕の方こそ、全然力になれなかったみたいだし」 「違うよ。違う。健一は充分過ぎるくらい力になってくれた。健一のおかげで、私は頑張れたんだから」 「ちょっと前にも、そう言ってたね」 でも。 だとしたら、どうして日奈はここにいるのか。 自分のしたことは、本当に意味があったのか。 日奈をただ傷付けるだけだったんじゃないか。 「健一が背負ったりする必要はないよ。最初から、無理だったの。無理だったんだ」 そんなことない、と言いかけて、日奈の目を見た健一は発する前の声を噛み砕いた。 耳触りの良い言葉を求めているはずがない。見せかけの希望を今更ぶら下げられたところで、日奈の心の傷が癒えるなんてこともない。それは慰めるよりよほど残酷かもしれないと思った。 深い谷底のような、真っ暗な感情を湛えた瞳から、静かに涙がこぼれる。 頬を伝う雫が風を浴び、冷たく乾いていく。 「私が」 窪塚日奈が。 「佳奈ちゃんを、好きなわけないでしょ、って」 双子の妹が、血の繋がった姉を、同性を愛するなんて、有り得ない。 それは普通じゃない。常識に照らし合わせても考えられない。 だから、 「勘違いしてるんだって。私は健一が好きで、綾さんと付き合ってるって思って、やけっぱちになってるんだって」 普通はそうだろうと。 日奈の気持ちは、愛は、佳奈の中で解体され、再構築され、原型を留めない形で決めつけられた。 それが世界で最も惨たらしい、冒涜的な仕打ちだと気付かれないままに。 一瞬で、健一の怒りは沸点に達した。この頃日奈を夜に送っていたりしたから、勘違いされる余地があったのも確かだろう。男っ気のない日奈が、唯一仲良くしているのが自分だったのだ。けれど、日奈は友達で、仲間で、相棒で――誓ってそんな感情はなかった。互いの間に横たわっていたのは、強い信頼だ。異性間の愛情が生まれ得る余地なんて、一欠片も存在しない。 だって、日奈は佳奈が好きなのだ。 シーナになってまで、嘘を吐いてまで、それが問題をややこしくするとわかっていたって、止まらなかったのだ。あんなにも悩んで、苦しんで、それでも諦められなかった気持ちが、勘違いなはずないだろう。 人を好きになることが。 誰かを、愛することが。 その果てに身体を重ねて、セックスしたいと思うことだって。 どんな形であれ、否定されていいものではない。 最初から理解しようともしなかったのは、佳奈だ。 今すぐにでも佳奈の頬を張りに行きかねない健一を、しかし日奈が繋ぎ止めた。思いの外しっかりした力で、握った手を離すまいとしている。見上げる視線が、悲しそうな色を宿していた。憤りの感情が、大きな呼気と共に萎み、健一は浮きかけた腰を落とす。 「そんなわけ、ないじゃないか」 「……うん」 「勘違いだったら、どうして今、日奈は泣いてるんだよ。どうして僕を止めたんだよ。こんな、こんなボロボロになってるのに、隣にいるのが、何で僕なんだよ……っ!」 友達でも、仲間でも、相棒でも、例えどんな立場にいたところで、佳奈の代わりにはなれない。 日奈が好きなのは、この世でたった一人。 否定され、絶望して、それでもなお、心はそこだけを向いている。 「ごめんね」 泣きながら叫ぶ健一に、日奈はもう一度謝った。 その四文字の言葉の中に、たくさんの複雑な思いがあった。 もっと、彼女のためにできることはなかったのか。自分が上手くやっていれば、手を回していれば、あるいは何もしなかったら、別の道を探れたんじゃないか。ぐるぐる回る思考は疑問ばかりで、ひとつも答えに行き着かなかった。 「日奈が謝ることじゃないよ」 「でも、健一、今悩んでくれてるよね。私が巻き込んだのに、無理に背負おうとしてる」 「僕がしたいって思ったことだから。力になろうって、決めたことだよ」 「……同情とか、憐れみじゃなくて?」 不意に冷たい声が差し込まれた。 冷水を浴びせかけられたような気がした。 「お姉さんに告白、されたんだよね。健一はそれを受け入れたんだよね。上手く行って、今もまだ続けてるんだよね。毎日セックスとかしてるの? 気持ちいいんでしょ? 終わったら、愛してるとか言ってあげるのかな。言われたりする? 嬉しい? 背徳感とか、すごい感じるんじゃない? ねえ、どうなの?」 「日奈……」 「私を見て、優越感に浸らなかった? 滑稽に思わなかった? 可哀想とか考えなかった? そんなことなかったって言える? 言えないよね? 言えるわけないよ、だって健一は普通じゃないもん。おかしいんだ。実の姉に好きって言われて、セックスしたいってお願いされて、本当にしちゃえるんだもん。佳奈ちゃんとは違う。私が、私が好きな佳奈ちゃんとは」 繋いだ手から、ふっと熱が消えた。 隣の日奈が驚くほど機敏な動きで、座る健一にのしかかる。顎に触れそうな場所に、日奈の額があった。潤んだ瞳が上目遣いで、健一をじっと見ている。押しつけられた胸が健一の胸に当たり、柔らかく潰れていた。 そして、健一は耳にする。 最も聞きたくなかった、その言葉を。 「――佳奈ちゃんが、健一だったらよかったのに」 抵抗しようとした全身から、力が抜けた。 鼓膜を震わせた日奈の声は、何より認め難いものだった。 ずりずりと背中がコンクリートを擦り、健一の顔が下がっていく。 気付けば日奈が健一を押し倒すような形になっていた。 「私ね、小学校の頃、男の子とばっかり話してたんだ。女の子と話してもなんかしっくり来なくて……中学校に入ったら、急に男の子って大きくなったりするでしょ? それで怖くなって、近寄らなくなって。じゃあ自分は女の子の方が好きなのかなって考えるようになった」 陰の奥で、日奈の唇が歪んでいる。 笑っているように見える。 「保健体育でさ、性教育したよね。それでいろいろ意識して、エッチすることとか考えたけど、男の子とって想像したらぞっとした。絶対無理だって思った。だから、女の子とすることだけ想像してた。きっと、そこから勘違いしたんだよ。男の子が怖いから逃げてただけだったんだ」 垂れ下がる前髪が、健一の額をくすぐる。 日奈が艶めかしく身を捩る度に、押し潰された胸がふくよかな感触を伝えてくる。 「でもね、ちょっと前に、健一とならどうかなって試してみたんだ。一人でしたら、ちゃんと気持ちよかった。絶対無理だって思ってたのに、健一なら大丈夫だった。……ほら、やっぱり私、勘違いしてたんだね」 唇が近付く。 過剰な熱を持った吐息が、健一の鼻先を湿らせる。 「佳奈ちゃんの言う通り。私、健一のこと、好きかもしれない」 「………………」 「聞こえるでしょ? 私の胸、すごいドキドキしてる」 心臓の鼓動が重なって、溶け合っているようだった。 健一の意思とは関係なく、股間が膨らむ。 「ねえ、健一。エッチしよう」 「……日奈は、それでいいの?」 「健一ならきっと大丈夫。健一なら私を受け入れてくれる。健一なら、私は愛せる」 「本当に?」 「……どうしてそんなこと訊くの?」 流されてもいいと思う自分が、ほんの少しいるのは否定できなかった。 異性として、日奈を意識している。女の子の柔らかさに、匂いに、くらくらしている。勝手な生理現象が身体の正直さを訴えていて、もしここで頷けば、日奈とこの寒空の下でセックスして、お互い気持ちよくなって、くたくたになりながら話して、諦めて、笑って、恋人になる未来が待っているのだろう。 それは、健一の選択で生まれ得る答えだ。 ああ――けれど。 だったら何故。 「日奈、泣いてる」 「……え?」 のしかかられてからずっと、健一の顔に、涙が当たっていた。 自分に嘘を吐きながら、真実を捻じ曲げながら、それでも心は訴え続けたのだ。 右手の甲で自分の頬をすっと撫で、日奈は呆然とした表情で健一を見下ろす。 健一は右肩を押さえている日奈の左手を優しくどかし、支えを失った日奈を空いた両手で抱き締めた。 「シーナが、日奈のどこから来たのかを、ずっと考えてたんだ。佳奈さんに受け入れてもらうために演じてたにしては、リアル過ぎるって思ってた。でも、当たり前だよね。それが、本物の日奈だったんだよ」 「ちが……っ、シーナが嘘だよ! 私は……!」 「日奈は佳奈さんに好かれたくって、自分を演じたんだ。双子の妹で、可愛い女の子で、引っ込み思案で、いっつも佳奈さんのためになろうとする、そういうキャラを作ってたんだ。本当は、佳奈さんが好きで、セックスしたくて、ちょっと馬鹿っぽくて自信満々で、格好良くて、僕がずっと見てきた……我が儘で、自分に正直な人間なんだって思う」 佳奈に己を否定された日奈に、これまで十年以上を掛けて築き上げた己を、佳奈にとって都合の良い幻を、今度は健一が否定する。余計に傷付けるとわかっていた。実際、日奈は腕の中で震えていた。けれど健一は話すことを止めない。たったひとつ守るべきものがあるとすれば、それは日奈の心だ。 誤ってはいけない。 「僕はいい。いくら酷いことを言われたって、傷付いたりしないよ。ホタルに好きだって言われて、セックスして、今も関係を続けてること、後悔はしてない。いつか、どうしようもなくなるんだとしても……あの時、ホタルが欲しいって思った自分の気持ちは本物だったから」 「……健一は、なんでそんな風にいられるの?」 「あんなこと言って、傷付いてたのは日奈の方だって知ってるから。今もずっと辛くて苦しいのは日奈だって、わかってるから。自分の気持ちに嘘を吐かないで戦ってきた、そういう日奈の力になりたいって思ったんだ」 「……やっぱり、変な人だ、健一って」 「そうじゃなければ、僕達は出会わなかったかもしれない」 「うん。……そう、なんだよね」 「お願いだから、忘れないで。日奈の、本当の気持ちを」 縮こまっていた日奈が、おずおずと腕を伸ばし、健一の背中に指を這わせるようにして抱き返してきた。鼓動は不思議と治まり、凪いでいる。胸に刺さったままの、現実という名の棘は痛み続けているが、それはきっと、一生を懸けて抱えていくものだ。 誰も彼もが、苦しみと共に生きている。 それを知って、人は大人になるのだろう。 「私、佳奈ちゃんに嫌われたくなかった。勇気出せなかったんだ。ホントのこと言ったら、嫌われるって思ってた。そしたら話してさえもらえなくなるかもって考えたら、もう駄目だった」 「うん」 「取り返し、つかないのかな」 「そんなことない。まだ終わってないよ」 「私の気持ちも、シーナの正体もバレちゃったのに?」 「でも、日奈には時間がある。今伝わらなくても、これから先はわからないよ。もっと酷いことだってあるかもしれないけど……諦めなければ、いつかはわかってもらえるかもしれない」 例えゼロに限りなく近くても。 一縷の希望さえないより、ずっといい。 僅かな可能性のために戦う力が、日奈にはあるのだ。 少なくとも健一は、そう信じている。 「好きって、辛いね」 「難しいとは、僕も思う」 「辛いけど……手放せないや」 呟いた日奈が、背に回した両腕を解き、健一の左側に転がった。 隣で仰向けになり、二人空を見上げる。手繰る指を再び結び、絡め、息を吐く。 「ハーモニカ、吹いてよ。持ってるでしょ」 「片手だから上手く吹けないかも」 「いいよ」 「曲は?」 「健一に任せる」 ポケットに忍ばせたゴスペルハープを取り出して、唇に当てる。 上を向いてはいるものの、歩くだけの力も、涙を堪えることも、今はできない。 だから何がいいかと悩んで、決める。 そうありたいと願いながら、柔らかなメロディを響かせる。 すぐに日奈が歌を被せる。シーナのような力強さも、芯もない。細く、弱く、風の音に掻き消されそうなほど儚い声だ。けれど、切実だった。 剥き出しの日奈を、ようやく見つけた気がした。 泣きたくなって、泣いて、声と音が震えて、震えながら、最後まで演奏しきった。体力も、気力もとっくに限界だったのだろう。日奈は眠っていた。涙の痕は見えるものの、穏やかな寝顔だった。 おやすみ、と囁き、目を閉じる。 健一もまた、精神が酷く消耗していた。 握られた左手の熱に安心して、意識を落とす。 雨の降る心配は要らないのが幸いだった。 目覚めて最初に、顔が冷たいな、と思った。 じりじり開く瞼の向こうから、滲むような光が来る。眠る前の暗さにピントが合ったままの瞳を、慎重に慣らしながら、健一は現状を確認した。 帳が下りていたはずの空は、白み始めていた。早朝の屋上は秋らしく寒かったが、いつの間にか身体の方には毛布が掛けられている。隣の日奈は身を丸めているので、頭以外はほぼ隠れる形になっていた。 「……熱っぽかったりしない?」 「え……有馬さん?」 頭を右に倒すと、冴子が足を横に崩して座っている。 紫色へシフトしかかった景色の中で、彼女の顔色は際立って白く見えた。 健一はずっとここにいたのだから、当然眠れていないだろう。 ぼんやりした思考の中で、申し訳なく感じる。 「おはよう、絹川君」 「……おはようございます、有馬さん。熱は、たぶんないです」 「そう。よかった」 「この毛布は有馬さんが?」 「1303から持ってきたけど……問題なかった?」 「それは大丈夫じゃないかと……えっと、すみません、色々気を遣ってもらったみたいで」 「気にしないで。私が勝手にしたことだもの」 少し時間が経ち、いくらか寝起き特有の怠さも抜けてくる。 のそりと上半身を起こし、頬の辺りを手の甲で擦る。とうに乾いた涙の痕跡が、張った肌にある。 「いつからいたんですか?」 「ちょっと前から、かな」 何とはなしに訊いてみたが、微妙に冴子が言葉を濁したので、おもむろに健一は彼女の手に触れた。 「異様に冷たいんですけど……」 「私、冷え性だから」 「……本当はいつからいました?」 「………………三時間くらい前から」 「毛布掛けてくれたのは有り難いですけど、どうしてすぐ下に戻らなかったんです?」 「二人が起きるのを、待ってようと思って」 「それで有馬さんが体調崩したら、僕が困ります。日奈も、綾さんも、八雲さんも」 「……そうね。ごめんなさい」 心配も、行き過ぎれば文字通り余計なお世話になりかねない。 健一の追及に、指摘されて初めて気付いたというような表情を冴子は見せた。 「いや、まあ、心配掛けてた僕が言っていいことじゃないでしょうけど」 「そんなことないわ。絹川君の、言う通りだと思う」 互いに微妙なフォローをし合い、しばらくどうしたものかと相手の次の出方を探る空気になった。 もにょもにょと唇を動かし、ややあって冴子が先に口を開いた。 「何かしてないと、落ち着かなかったの」 「何かって……僕と、日奈に対して?」 「うん。今更だとはわかってたけど……きっと、日奈さんはこうなってしまうんじゃないかって、心のどこかでずっと思ってた」 日奈がこの場所に行き着いた顛末を、当然ながら健一は冴子に話していない。 とはいえ、察するためのヒントはいくつもあったのだ。泊まるつもりでいた日奈が急に帰ると決めたこと。家まで送っていったはずの健一が、いつまで経っても1303に戻らなかったこと。何より冴子は、日奈の好きな相手、シーナでいた理由、その全てを理解していた。聡い彼女が結論を導き出すのは、そう難しくもなかっただろう。 それに、おそらく。 十三階に訪れて間もない頃、一晩中でも終わらないくらいの懺悔をしている、と言っていた。 自分の所為で別れてしまった佳奈と飯笹について、冴子は考え続けてきたのかもしれない。嫌われ、罵られ、頬を張られても、甘んじて受け入れてきた。罪滅ぼしにならないのだとしても、どうすればいいのか、どうしたらよかったのかを延々と。 好きだった人が、別の女とセックスしたから許せなかった。 そんな極めて常識的な感性を持つ佳奈が、日奈の想いに触れた時、どんな反応を見せるか。 当事者だった冴子が、わからないはずもない。 「私がそうなるって思ってたから、本当になってしまったのよね」 「……有馬さんの所為じゃないですよ」 「ううん。だって、私は絹川君と違って、何もしてこなかった。どうせ無理だろうって、知ってたはずなのに、上手く行ってほしい、幸せになってほしいって願ってた。願うだけだったの」 例え諦めろと忠告したところで、日奈は止まらなかったはずだ。 ならば冴子の協力でどうにかなったかと言えば、そういうわけでもないだろう。もしもの話は意味がなく、彼女の自罰は己を無駄に苦しめるためのものに過ぎない。 あなたは綺麗で、私は醜い。 諦めてしまった私より、隣で一緒に戦ったあなたの方が、よほど尊いのだから――。 健一には、冴子が憤っているように見えた。 どうしようもない自分自身に。日奈が報われなかった現実に。 憤りながら、泣いているように見えて仕方なかった。 安易な慰めも、感謝も、冴子は求めていないのだと思った。 だから、健一は自分の足に掛かる毛布を、冴子の方まで伸ばした。 少しだけ日奈の側へ身を寄せ、触れていた手を握り、引き込む。 「……絹川君?」 「いてくれるだけで嬉しかったり、救われることだって、あると思うんです」 例えば、綾が実家で冴子と行った買い物の話をしたように。 刻也が家出の理由を打ち明けたように。 シーナ&バケッツを十三階の皆に認められて、日奈が勇気を出せたように。 そこにいた冴子が、特別な何かをしたわけではなかったはずだ。けれど確かに、力になっていた。 誰かのためになるというのは、きっととてもささやかなことなのだ。 共に喜ぶ。泣く。感情を分け合う。 一人では抱えきれないものを抱えるために、誰かがいる。 健一の言葉を聞いて、冴子は微かに目を見開いた。 見落としていたものにはっと気付いたような、どこかふわふわした声で呟く。 「そうね。……本当に、そうよね」 小さく繰り返し、頷き、 「絹川君は、今夜のこと、日奈さんがちゃんと受け止められるようになると思う?」 「……きっと、一生忘れられないと思います。それでも、日奈ならまた戦うんだろうって、信じてます」 「うん。私もそう信じてる。佳奈さんのこと、本当に好きなんだって思うから」 胸元を、冴子は右手できゅっと握り締めた。 十三階の住人が、傷付き合いながら大人になるために集まったのならば、今感じている心の痛みにも意味があるのだろう。分け合ったこの苦しさは、二人もまた乗り越えるべきものだ。 少なくとも健一はそう思う。 今は難しくとも、きっと、いつか。 日奈が目覚めるまで、二人で空を見上げ続けた。 紫と白の淡いグラデーション。大人になりきれない自分達にも似た曖昧なこの景色も、忘れられそうになかった。 無事に起きた日奈が帰るのを見届けてから、健一は自宅へ足早に戻った。 荷物はあるので直接学校に行くこともできたが、半ば無断外泊をしてしまった立場としては、せめて蛍子にちゃんと会って謝っておきたかったのだ。 息を切らしながら、玄関扉に指を掛ける。施錠はされておらず、部屋の奥側からは微かな物音が聞こえてくる。両親の靴がないことを確認し、罪悪感混じりの足取りで居間に顔を出すと、台所で蛍子がフライパンを振るっていた。 「た、ただいま」 「……おかえり」 大量の申し訳なさを滲ませた健一のひとことに、振り返ることなくむすっとした声で返答が来る。 不機嫌だろうと予想はしていたが、それはもう完全に自分が悪いので仕方ないが、まさかこんな朝早くに起きていて、しかも料理をしているだなんて思っていなかった。 よくよく見てみれば、手付きはまだ若干ぎこちないものの、幾分慣れた様子だった。フライパンで目玉焼きを作りつつ、トースターに入れた食パンを丁度良い加減で取り出し、皿に並べる。 「朝、食べてきてないのか?」 「あー、うん」 「これをお前の分にしてやる。先に食べてろ」 しっかり固まった目玉焼きを新しく棚から出した皿に乗せ、健一に渡した。 いいのかな、と困惑するも、断るとそれはそれで面倒な流れになりそうなので素直に受け取る。蛍子はさっとフライパンに油を敷き、冷蔵庫の中にあった卵を両手で落とし、また視線を台所に戻した。 色々と気になることもあるが、とりあえず健一はもう一枚食パンをトースターで焼くことにした。タイマーを回し、だいたい二分。テーブルに置かれたポットには濃い色のインスタントコーヒーが入っていて、それを陶器のカップに注いでおく。自分と蛍子、しっかり二人分が淹れられていた。 さほど経たずに、調理を終えた蛍子が健一の正面に座る。 ほぼ同時、チン、と響く間抜けなトースターの音。 努めた無表情でよく焼けた食パンを持ってきた蛍子は、何も言わずバターを塗り始める。 とにかく気まずい。 いただきますと顔色を窺いながら呟き、目玉焼きに箸を伸ばす。黄身は芯まで熱が通っていたが、ギリギリ完熟とは言い難いしっとりさを保っている。 絹川家では、長らく健一だけが料理番をしていた。食材を買ってくるのも、毎日のご飯を用意するのも、食べた後の後片付けも、全て一人でやってきた。今更蛍子にさせるつもりもなかったし、以前帰りが遅かった時、碌な知識もないままに唐揚げを作ろうとしていたのを止めて以来、余計に台所には近寄らせなかった。 肌を重ね、なし崩しめいた和解をしてからは、食器の準備や皿洗い程度は手伝ってもらったが、それでもこの家で料理をするのは健一しかいなかったのだ。 なのに、いったいいつからだろう。 「……ご飯、作れるようになってたんだ」 「お前がいない時とか、ちょこちょこ練習してたんだよ」 「何で……って、僕が言っちゃいけないよな」 「ま、しょっちゅう帰り遅い奴が言っていい台詞じゃないな」 「……ごめん」 「謝るな。そんなことのためにやってるわけじゃない」 「うん」 「……美味いか?」 「おいしいよ。卵の殻も入ってないし」 「私を何だと思ってるんだ」 黙々と食卓の上の物を消化していく。 コーヒーは健一好みの濃さだった。塩気も丁度良かった。 適当ではない、努力の証が見えた。 互いに食べ終わり、食器を水に漬けてから、また座り直す。 ポットに残っていたコーヒーを自分のカップに注ぎきり、蛍子はまず訊いてきた。 「いつもなら、日が変わるくらいには帰ってくるよな」 「……うん」 「何でこんなに遅くなったんだ?」 その問いに、どう答えたものかと思う。 きちんと説明するならば、シーナ&バケッツのこと、日奈のことも言わなければならないだろう。特に前者は秘密にしなければいけないわけでもないのだが、これまで話題にしてこなかったのに今更な感もある。 バケッツとして活動しているのを、蛍子は嫌がるような気がしたのだ。 後ろめたさが健一の口を縫い付けていた。深く追求しない姉に、甘えていたのも否定はできない。 言葉を探すように唸る健一の様子に、ふと蛍子が懐から煙草の箱を取り出した。 テーブルの隅に除けられていた灰皿を引き寄せ、ライターで先端に火を点ける。フィルタを咥えたまま深く息を吸い、軽く網戸側を開けた窓の方に、細くすぼめた唇から煙を吐き出した。 右手が煙草を持ち、灰皿に乾いた灰を落とす。 「先月だったか、夜、公園の方まで散歩に行ったんだよ」 いきなり先ほどとは全く繋がらない切り出しをされ、健一は困惑した。 そんな弟に構わず、蛍子は続ける。 「広場にやたら人が集まっててさ、興味本位で見てみた。テレビカメラとかもあってな、何かのイベントだと思ってたら……アホみたいなバケツ被って、ハーモニカ吹いてる奴がいた」 「……ホタル、それって」 「顔は見えなかったけど、お前だってすぐにわかったよ」 苛立っているようでも、怒っているようでも、悲しんでいるようでもあった。 淡々とした声色が、何より健一を責めていた。 「なんかさ、途中でもう聴いてられなくなって、走って逃げたんだ。お前は私のいないところで、ちゃんと自分の居場所作ってるんだなって思ったら、耐えられなかった」 それは、その通りだろう。 十三階はある意味、健一のもうひとつの家だった。 綾。刻也。冴子。シーナ。いつの間にか自分の中で、切り離せないものになっていた。 けれど――己以外にそういうものが存在するということ自体が、蛍子にとっては酷く辛い。 私は違うのに。 私には、お前だけなのに、と。 「あんなことしてるって、私に教えてくれなかったのは、私を信じてないからか?」 「ごめん、ホタル……でも、それは違う。信じてないわけじゃない。なんていうか、シーナ……僕の相方なんだけど、色々複雑な事情があってさ。今日帰りが遅くなったのも、シーナが大変なことになってたからで」 「それも私には言えないことか?」 納得いく答えを聞けるまでは梃子でも動かない、と目が訴えていた。 日奈と佳奈の件は、限りなくプライベートかつデリケートな問題だ。本来なら軽々しく話していいことでもない。ただ、健一は前に、蛍子との関係をシーナに教えたことがある。否定されないとわかっていたからこそだったが、それを言うなら蛍子だって、日奈が抱いていた想いを否定はしないだろう。 しばし悩んで、健一は口を開いた。 「シーナは、女の子なんだけど。お姉さんのことが好きで、そのために男の子に変装したりして……昨日の夜告白して、でも上手くいかなくて。落ち着くまで、一緒にいたんだ」 「……告白、駄目だったのか」 「うん」 「そうか。そうだよな。普通は、そうなんだよな」 「だからってわけじゃないけど、もうシーナとライブして遅くなるってことはないと思う」 「……わかった。無断で朝帰りしたのは正直腹も立ってたけど、許す」 想定以上に重い話だったからか、毒気を抜かれたらしい蛍子は簡潔にそう告げると、コーヒーを一気に飲み干した。吸いかけの煙草もぐりぐりと灰皿に押しつけて火を消し、椅子から立ち上がり、座る健一のすぐ隣まで近付く。 ん、とおもむろに両手を差し出され、健一は首を傾げた。 「この手は……?」 「眠い。ベッドまで運べ」 「えっ」 「いつ帰ってくるかわからないから、ずっと起きてたんだ。お前の所為だ」 「……まあ、そういうことなら」 軽く屈んでみせた途端、背中から首筋へと腕が這う。うなじの辺りで交差した両腕が絡まり、蛍子の顔が目と鼻の先になる。健一は座ったまま椅子をずらし、蛍子の背中に右手を、膝裏に左手を差し込んで横抱きにした。それで満足したのか、ふっと体重が預けられる。間近の姉からは、煙草とコーヒーと仄かな汗の匂いがした。 屋上の固い床で寝ていたために、身体の節々がまだ微かに痛んでいるが、肉体的な疲れはあまりなかった。投げ出された蛍子の足が壁にぶつからないよう、ゆっくり階段を上がる。部屋のドアは開け放たれていた。横向きに入り、そっとベッドに下ろす。 窓から差し込む朝の光が、眼下の隈を際立たせていた。ずっと起きていたというのは本当らしい。何だかんだで蛍子に甘えていたのだと反省する。諸々の事情を話し難いのはさて置いても、些か誠実さが欠けていたように思った。 「学校、行くんだろう」 「平日だしね。ホタルは?」 「単位はほとんど取ってるからな。今日も家で絵描くつもり」 「そっか。……遅くまでごめん。待ってくれててありがとう。じゃあ、おやすみ」 「あ、待て、健一」 「なに?」 「顔、こっちに寄せろ」 言われた通りにした直後、両頬を押さえられて、唇が触れ合った。 少しだけ苦くて煙い。煙草とコーヒーの味。 「半無断外泊の罰だ」 「あんまり罰になってないような気が……」 「煙草味のキスは嫌いだろ、お前」 「まあ……うん」 「ほら、さっさと行け。遅刻するぞ」 自分からしておいて相変わらずというか、横暴だった。 しっしっと手で追い払われ、立ち上がって窓のカーテンを引き、蛍子に背を向ける。 唐突に、今度は「なあ」と呼び止められた。 振り向くより早く、蛍子は言った。 「酷い言い草かもしれないけど……私は、お前が普通じゃなくてよかったと思うよ」 何も返さず、扉を後ろ手で閉じる。 登校する前に顔くらいは洗っておこうと階段を下りながら、健一はさっきの言葉の意味を噛み締めた。 普通じゃなくてよかった。 きっと、蛍子にとっては本当にそのままの意味なのだろう。 健一だったからこそ、今の関係がある。 (――佳奈ちゃんが、健一だったらよかったのに) 忘れようとしていた呪いの言葉が、ふっとリフレインする。 日奈の本意ではなかった。自棄になってこぼれたものに違いなかった。 それでも、心の奥底に眠っていた感情だったのだ。 『好きって、辛いね』とも日奈は呟いた。 どうしてそんなに辛いのに、誰かを愛さずにはいられないのか。 その答えを、今もまだ健一は理解しきれずにいた。 back|index|next |