ストリートグラップラーの撮影を終えてからは、幾分大人しい日が続いた。 十三階に帰ってきた直後こそ疲労困憊だったが、程良い充実感や満足感があった。シーナと別れてすぐ一人になっていたなら、あるいは祭りの後めいた寂寥感や孤独感を覚えたかもしれないが、冴子や綾のおかげでそれもなかった。 カメラが入らなくても、ライブのペースは変わらない。テレビに取り上げられるという評価がより人を集め、観客も増すばかりで、今サボるわけにはいかないとシーナが言った。一波越えたからって気を抜くな、ということでもあるのだろう。練習もこれまで通りの密度だった。 学校では、取材日の翌日から、ツバメがやたらクラスメイトにシーナ&バケッツのことを広めていた。どうやら撮影の際、ファンの一人として取材されたらしい。いったい何を話したのかは放送されるまでわからないが、こうなると調子に乗るのが鍵原ツバメという人物だ。ライブの宣伝をするだけに留まらず、興味を持ったクラスメイトをまとめ上げ、全員夜に連れてくる勢いを見せた。 もしバケッツの正体がバレた時は、どうなってしまうのか。横で一緒にツバメの様子を眺めていた千夜子に心配され、絶対知られないようにしようと健一は決意した。 他にあった変化らしい変化は、先日のコーチの甲斐あってか、千夜子の弁当がだいぶおいしくなってきたこと。 それと、正式に始めた早苗の店でのバイトで、健一がいる時のみ、本当にナポリタンがメニューに追加されたことくらいだ。 元々『天国への階段』に来る客はさほど多くない。出るとしても一日に一食二食(早苗の昼食分は除く)程度だが、今のところは概ね好評である。小説家としての早苗の担当編集と名乗る、薫沢歌織という女性とも知り合った。健一を見て何やら得心していたようだったが、早苗の小説と関係あるのかもしれない。 一度、最初に取材の話を持ってきた番組スタッフが、シーナ&バケッツの許を訪れた。 改めて感謝と応援をされ、放送日が決まったことをその時に知らされた。およそ一週間後。十三階ではテレビこそ繋がるものの、新聞の購読などは当然していないので、非常に有り難い話と言えた。 綾や冴子、刻也にもそのことを告げ、当日はみんなで観ようと約束し、数日が経った日曜。 「もう大丈夫ですか?」 「うん。じゃあ行こっか」 宣伝用のポスターを描いた“ご褒美”として、健一は綾と出かける準備をしていた。 着替えてくるからと1304に入った綾を待つこと数分、玄関を開けて顔を見せた彼女は、珍しくまともな服装だった。白衣姿やオーバーオールとはまた違う、体型が出難いゆったりしたワンピースに、踵が低めのヒール。帽子はいつもと同じだが、記憶を辿った限り、蛍子のお下がりにこんな服はなかったはずだ。つまり、どこかで新しく買ってきたものということになる。 微かに驚いた健一に、綾は何も言わず小さく口元を緩めた。 自然な仕草で手を取り、指を絡める。ヒールなのもあり、階段を下りる速度はゆっくりだった。硬質な音を響かせながら、五分近く掛けて幽霊マンションを後にする。 お出かけするとは聞いていたものの、行き先は未だに不明だ。エッチなのは禁止したし、さすがにラブホとかではないだろうが、まだ微妙に不安が拭えない。 手を繋いだまま、しばらく歩く。 綾の横顔は、気の所為でなければ少し緊張していた。割と饒舌な部類である彼女が珍しく無言なので、健一としても自分から声を掛け難い。会話がない代わりに横目で綾を見ていると、ふと気付いた。 ……スケッチブックを持っていない。 興味を惹かれる何かがある場合、状況に構わずスケッチしてしまう悪癖が、綾にはあるはずだ。実際何度か二人で外出した時は、自転車に乗っていても唐突に降りては足を止めていた。ペンを握れば凄まじい集中力で描き切るまで何も聞こえない様子だったし、だから綾は決して一人で遠出しようとはしなかった。 シーナとのダブルデートでさえ、スケッチブックは持参していたのだ。 なのに、今日はそれがない。描くものがないと、指を噛み切って地面に血で描いてしまうと言っていたのに。 どうして、とは聞けなかった。単純に忘れたのではなく、何かそこにはとても大きな意味があるように思えた。 時間が経過する程に、握る手の力が少しずつ強くなってきているのを感じた。 綾がよく足を運ぶコンビニを過ぎ、住宅街の付近に差し掛かった辺りで、健一は既視感を得始めていた。前にも見たような気がする。それは次第に強くなり、やがて目的地に辿り着いたところではっきりと思い出した。 一般的な民家と、奥の方にある大きな離れ――アトリエ。 綾の、実家だった。 「……綾さん、ここって」 こくりと頷き、綾は窓の方に目を向けた。 前に来たのは夏頃だ。今はもう寒くなりつつあるからか、カーテンは閉まっている。 「あの時はさ、これでよかったって、私言ったよね」 「……はい」 「本当に、ずっとそう思ってたんだ。迷惑掛けるばっかりの私が、お母さんと一緒にいても……また、同じことを繰り返すだけだって、わかってたから」 空いた右手が、ゆっくりとインターホンに伸びる。 ボタンに触れかけ、震える指先が怯えたように引かれた。 「あはは……やっぱり怖いね」 震えは繋いだ左手からも伝わってきていた。握り締める力は、痛々しいほどだった。 ようやく理解する。 どうしようもないと思っていたことを、綾は変えようとしているのだ。巧く生きられない自分を、好きなことをしていればいいと逃げていた自分を、このままじゃ駄目だと悩んで、考えて、苦しんで、ずっと足掻いていたのだ。 足掻いたって意味はないのかもしれない。 根っこの部分は、やっぱり他人と致命的にズレたままなのかもしれない。 けれどそれを、綾は言い訳にしようとしなかった。 「でも、そろそろちゃんと、大人にならなきゃ、いけないよね」 「大人でも……親と上手くいかない人だって、いっぱいいますよ。無理しなくたっていいじゃないですか」 「ん……健ちゃんは優しいな。だけど、私はお母さんもお父さんも好きだから。仲良くしたいんだ」 「手、すごい震えてますよ」 「知ってる」 「……僕に、何ができますか?」 「このまま手を繋いでてくれたら、それで充分かな」 綾の意思が固いことを悟り、健一は止めるのを諦めた。 人差し指が、インターホンを押し込む。微かな電子音が鳴り、右手を下ろした綾が一歩を踏み出した。二歩、三歩、四歩。玄関が目と鼻の先に近付く。 扉が開いて、中から現れたのは、薄く髪に白髪が混ざった女性だった。 面立ちがどことなく綾と似ている。彼女の母親だとすぐにわかった。 綾の母は、こちらを見て大きく目を見開いていた。 「お母さん」 「……綾?」 「うん。久しぶりだね」 娘の言葉に、困惑と怯えをない交ぜにした表情が浮かんだが、隣の健一を見て、若干警戒が緩んだようだった。 少し間が空き、どうぞ、と迎え入れる。ほぼ部外者な健一は気が引けて仕方なかったが、とりあえず「お邪魔します」と軽くお辞儀をして綾と共に中に入った。握った手は、まだ解かなかった。 居間に案内され、二人並んでテーブルに備え付けられた椅子に座る。 秋の寒さを考慮してか、出された麦茶に氷は浮いていなかった。何とも言えない居心地の悪さを飲み込みつつ、娘の向かいに腰を下ろした綾の母を改めて見る。 自分の両親と比べても、いくらか老け込んだ印象がある。それが年齢の所為なのか、心労が祟ってのものなのかは判別が付かない。どちらにしろ、綾に注がれた視線には、あまり好意的な色がないことは確かだ。 一分二分ほど見合う時間が続いた。先に話を切り出したのは綾だった。 「いきなり来ちゃってごめんね」 「……そうね。お父さんも仕事でいないし、先に連絡してくれれば、まだ心の準備もできたのに」 「うん……。でも、電話番号わからなかったから」 「あなた、うちの電話自分から使ったことなかったものね。錦織さんは知ってるはずだけど」 「あ、そっか。錦織さんに訊けばよかったんだ」 「……それで、隣の男の子は?」 「健ちゃん……じゃなかった。えっとね」 「すみません、絹川健一と申します。綾さんには色々お世話になってます」 微妙に長考しそうな気配があったので、助け舟を出す。 呼ばなさ過ぎて苗字を忘れてるんじゃないだろうか。 「綾の母の、小夜子です。こちらこそ、娘は迷惑掛けてばかりでしょう?」 「いえ、そんなことないです。まあ確かに、危なっかしいところも結構ありますけど……本当に色々、助けてもらったりとか、してるので」 「そう……。娘が……」 社交辞令やお世辞で言ったつもりはないが、綾の母は健一の話を信じ切れていないようだった。 しょうがないよね、という風に力なく綾が笑う。 「綾。私は、もうあなたは家に二度と帰ってこないと思ってたの」 「……ちょっと前までは、そのつもりだったよ」 「どうして?」 「私の所為で、お母さんは眠れなくなったから。戻ってきて、また無理させたくなかった」 「なら、今になって帰ってきたのは?」 「言わなくちゃいけないことがあるって、気付いたから」 怪訝な顔をした母に、綾は立ち上がって、真っ直ぐ頭を下げた。 「ごめんなさい。私、自分のしたいことしかやってこなかった。お母さんにいっぱい迷惑掛けて、無理させちゃったよね」 「別に……もういいのよ。あなたはそういう子だもの。ちゃんと面倒見切れなかったお母さんもいけないのよ」 「ううん。そうじゃないんだ。お母さんは、私のこと、しっかり考えてくれてたよ。私がお返しできてなかっただけ。それじゃ駄目だって、健ちゃんとみんなのおかげで、やっと気付いたんだ」 綾が自分から繋いだ手を離す。 あのね、と前置きして、 「スケッチブック持たなくても、外歩けるようになったよ。一人じゃまだ無理だけど、健ちゃんと一緒なら大丈夫になった」 それから、 「この服だって、冴ちゃんと買いに行ったんだ。他の服も何着か、今住んでるところにあるよ。あ、冴ちゃんっていうのは健ちゃんのクラスメイトで、同じマンションにいる子なんだけどね」 他にも、 「最近は作業してても倒れる前にご飯食べるようにしてるし、こないだ健ちゃんと二人でデートにも行ったし、冴ちゃんだけじゃなくて、管理人さんとか、シーナ君とか、いろんな人とも知り合ったし……だから」 意を決して、言う。 「私、お母さんにも迷惑掛けないように頑張るから……たまに、帰ってきても、いい……かな」 尻すぼみになった声で、綾は母に問いかける。 かつて、親子が別れたままの状況を、これでよかったと思う、なんて健一に話した綾は――今、勇気を出して変わった自分を見せようとしている。 好きなことだけしていればいい子供ではなく、現実と、何かと戦う、大人になるために。 ならなくても生きていける環境にありながら、彼女は選んだのだ。 綾の母は、祈るように目を閉じた。 そうして吐息を落とし、緩やかに微笑む。どこかに置いていくタイミングを失った酷く重い荷物を、やっと下ろせたようでもあった。 「今度は、お父さんがいる時に顔を出しなさい」 「あ……う、うんっ!」 「絹川さん」 不意に名前を呼ばれ、慌てて健一は「はい」と頷いた。 「娘のそばにいてくださって、ありがとうございました」 「いえ、僕は何もしてませんので……」 「えー。健ちゃんは色々してくれたよね? エッチとか」 「……絹川さん」 「ご、誤解です! いや誤解じゃないんですけどちょっと待ってください! 綾さん!?」 「あ、そうだ。折角だから言っておくね。健ちゃんは私の好きな人だよ」 積極的に場を混乱させていく綾を抑え、彼女の母に適切な説明をするまで、十分近く掛かった。 誤解は解けたが、娘をよろしくお願いしますと何故か目の前で頭を下げられ、玉虫色の返事をするしかない健一だった。 その夜、1304――綾の部屋に、十三階の住人全員が集まっていた。 シーナ&バケッツの特集が組まれた件の番組、ストリートグラップラーの放映日である。初めは1303で観ようという話になっていたのだが、いつの間にやら、綾が1304の設備を整えていたらしい。アトリエの奥、生活に必要な最低限のものだけが置いてあったスペースは、少し見ないうちに色々な家具が増えていた。 十三階の部屋の中では(刻也の住む1302は不明だが)、唯一空の様子が窺える吹き抜けのガラス張り天井。隅のベッド周辺にはいくつか箪笥が増え、室内中心に白い革製のソファが鎮座している。その正面にどんと設置された、映画のスクリーンかと一瞬思いかけた超巨大テレビが一際目を惹く。さすがというか、ここまで過剰な設備をしれっと準備してしまう辺り、やっぱり金銭感覚はおかしいんだなと健一は内心で苦笑した。 文字通り、この程度の出費は痛くも痒くもないのだろう。 家主たる綾が中心に座り、その右に健一、シーナ。左に刻也、冴子の順で並んでいる。 席決めの際には一悶着あったが、結局だいたい無難な配置に収まった。 「それにしても、これだけの荷物、どうやって十三階に運んだんです?」 「えっとね、買ったのは通販で、一回冴ちゃんのお母さんに住所貸してもらったんだ。で、一階に届けてもらったのを、管理人さんにちょちょいっとね」 「ちょちょいって」 「結構簡単だったよね、管理人さん」 「ええ。全てが一度に来たわけではありませんでしたし」 存在しないはずの十三階は、鍵を持つ住人以外踏み入ることができない。 となると、通販で購入したところで、宅配業者は直接運び込めないわけだ。電話もまともに通じない以上、いったいどうするのかが謎だったが、名義借りをしたのならまあ納得は行く。 問題は、以前の洗濯機より明らかに多く、かつ重いこの荷物達を、どのようにしてここまで持ってきたのかだ。綾が手伝ったと仮定しても、相当に難儀したのは間違いない。 「声掛けてくれれば手伝いましたよ」 「君とシーナ君は取材の件で忙しそうだったのでね。しかし、こういうものが来るとひとこと言っておけばよかったかもしれないな。すまなかった」 「いえ、むしろ気遣ってもらってたみたいで……」 自分が蚊帳の外に追いやられていたような、微妙な疎外感を健一は覚えた。 先ほど綾の口から出た、冴子の母についても、未だに面識がない。顔を合わせるきっかけがそもそもなかったのだが、どうも綾や刻也が知っていて、自分は知らないというこの状況自体に据わりの悪さを感じる。 勿論これで二人を責めるのはお門違いだ。わざわざ家出している冴子は、もっと責められない。 ただ、理性が納得していても、感情も同じ方を向けるとは限らない。 結果的に、言語化できないもどかしさが表情に出てしまっていた。 「……健ちゃん、何か気になることあるの?」 「あ……その、有馬さんのお母さんって、どんな人なのかなと」 この頃特に健一の変化には目敏い綾が、心配げに顔を覗き込んできた。 軽い手振りで誤魔化し、無難な言葉を選ぶ。 綾はふぅんと頷き、冴子をちらりと見た。 「すっごく優しくて綺麗な人だったよ。冴ちゃんはお母さん似だよね?」 「えっと……見た目はそうかもしれません。父よりは母に似てると何度か言われましたから」 「うむ。私も美佐枝さんと有馬君はそっくりだと思う」 「そ、そうですか? でも、私はお母さんみたいに綺麗じゃないですし……」 「あー! ってことはあれか! もしかしてあの人か!?」 「どうしたのシーナ、いきなり大声出して」 「いつだったかな、ここ出る時に、一階の入口でえらい美人とすれ違ったことがあったんだよ。有馬と同じくらいの長い髪でさ、こう、しずしず歩く感じの。うわ、大人版有馬だってびっくりした覚えあるぜ。いつ『実は未来から来ました』って言い出すのかと思ってたんだけど、まあ普通に会釈して通り過ぎたな」 「当たり前だよ……」 「口元にほくろがあってなー。大人の色気っていうの? すごかったなあれ。うちの母親にも見習ってほしいもんだぜ、本当」 「……たぶんそれ、お母さんです」 見習ってどうしてほしいのか。 というか波奈さんも充分美人なのでは。 ツッコミどころは多数あったが、下手に茶々を入れるとややこしいので健一は黙った。 結局冴子の母と面識がないのは自分だけだと知って、ちょっと凹んでもいた。 「そっか、やっぱりか。名前はなんつったっけ?」 「は……じゃなくて、有馬美佐枝」 「親なんだから別に苗字は要らないだろ。有馬って結構お茶目さんだな」 「あ、う……そうよね。うん、お母さんの話題で、ちょっと混乱してる、かも」 少し前に冴子の母の名前を口にしていた刻也がじっとりシーナを睨んでいたが、それはともかく。 最近、夜に冴子と寝る前や起きた後、彼女の境遇などを聞く機会があった。これまで話したがらなかったのに、どういった心境の変化があったのかは不明だが、アルバイトの件でより打ち解けたのが一因かもしれない。 彼女は元々、有馬家の人間ではなかったという。 母、美佐枝は今の冴子の父、有馬十三の愛人だった。妊娠が発覚し、美佐枝は十三の許を離れ、女手一人で冴子を育てることになる。生活苦から水商売に走り、しかし後に十三が冴子を認知したことにより、母子は有馬の姓を得た。そういった流れがあり、有馬本家では冴子の立場はあまり良くない。まだ十三の妻は存命らしいし、当然と言えば当然だろう。両親が自宅に寄り付かない絹川家とはまた別の意味で、居心地が悪かったのだと思う。 何を言いかけたのかはわからないが、おそらく冴子にはまだ、有馬という苗字に馴染みがないのだ。 旧姓でいた時間の方が、長かったのかもしれない。 もっとも、母の話題で混乱していたというのも本当だろう。 十三階で共同出費している生活費を、母からもらっていること。アルバイトの許可をほぼ間違いなく保護者から得ていること。そこから推測する限り、冴子と母の関係は、決して悪くない。 綾が母親と和解のきっかけを得たように、冴子もまた、いずれは有馬の家に戻る時が来るのだろうか。 それが、十三階を出ていく――大人になることに、繋がるのだろうか。 「なあなあ、健一」 「……何?」 「なんか今日の有馬、妙に可愛くね?」 真面目な考え事をしていたところで、シーナが酷く俗な話題を振ってきた。 思わず半目になる。 「欲求不満なの?」 「その返しはストレート過ぎんだろ! 平常運転だぜ、俺は」 「シーナって結構浮気性だよね」 「ちょっとお前今日セメントじゃないか? だいたい、女の子が可愛いのを可愛いっていうくらいなら浮気のうちには入らねーだろ」 「今の発言を佳奈さんに伝えようか」 「勘弁してくださいお願いします」 「綾さん、録画は大丈夫なんですか?」 「俺はスルーかよ!?」 「その辺は管理人さんが全部やってくれたよ。……だよね?」 「ええ、配線も予約設定も完璧です。先ほど確認しました」 シーナの妙なテンションはいつものことなので、全員がしれっと流した。 刻也がどことなく誇らしげな表情で眼鏡を掛け直し、手元のリモコンを操作すると、画面がぱっと点く。 丁度前の番組が終わったタイミングらしく、CMが短いスパンで切り替わっていた。 「へー、管理人ってこういうの得意なのか。頭でっかちなイメージしかなかったけど」 「どうして君はひとこと余計なのかね……。まあ、この程度なら特殊な技能がなくてもできる範囲だよ」 「俺はこういうの苦手だからな。ちょっと尊敬する」 「む……そうか。だが、別に難しいことはないぞ。説明書を読めばできるし、ビデオ端子などは色分けされているものだ」 「でも説明書ってやたら小難しく書いてあったりしないか? 刺さったと思ったらうんともすんとも言わなかったりするしさ。もっと用途別に形違ってたりした方がいいだろうに」 「そうすると金型が多くなってしまうだろう。コスト削減の意図があるのだと思うよ」 「ふーん、そういうもんかねー」 ソファの端と端から声が飛び交う。 十三階でも一番反りが合わない二人だったが、ファミレスや喫茶店、取材の件などもあり、多少は打ち解けてきていた。互いに歩み寄ったというよりかは、頑なな刻也の態度が和らいだという方が近いだろう。今回は、刻也がやけに饒舌なのも大きい。 「なんか嬉しそうだね」 二人の様子を眺めていると、隣の綾が健一に囁いた。 小さく頷き、健一も返す。 「共通の話題があると、話って弾むものなんですね」 「だねー。管理人さんがAV関係にこんな詳しいなんて知らなかったし。あ、そうだ健ちゃん」 「何です?」 「AVと言えば、これでここでもアダルトビデオ見られるようになったから。冴ちゃんが気になるならいつでも来ていいからね」 「来ません」 「えー」 何故冴子に聞こえる場所でそういうことを口にするのか。 恐る恐る視線をやると、目が合った冴子はきょとんと首を傾げた。 あまり気にしていないらしい。少しほっとする。 「……もうすぐですよね。何か飲み物持ってきますか?」 「あ、冴ちゃん、飲み物はそこの冷蔵庫に入ってるよ。ポテトチップスも買ってきて、そこの棚に仕舞ってるから。あとはコップだよね。ちょっと待ってて、取ってくる」 「五人分は持ちきれないですよ。手伝います」 「ありがとー」 立ち上がった綾を追い、冴子もソファの後ろに歩いていく。 二人で分けて持ってきたコップを健一達に手渡し、ソファの前にあるこれまた高そうな木製のテーブルに、ジュースやコーラ、麦茶のペットボトルと皿に乗せたポテトチップスが置かれた。 「コーラとポテチ片手にテレビ見るっていうの、やってみたかったんだよね」 なんて笑う綾が率先してつまみ始めたので、次に遠慮のないシーナが手を伸ばし、すぐに全員でポテトチップスを食べ進める。冴子が注いでくれたコーラはよく冷えていて、強い炭酸が喉を熱くした。 あとは続くCMを眺めながら、ああだこうだと雑談をする。 「そろそろだ」 腕時計をしていた刻也が、手首をちらりと見て呟く。 CMが終わり、画面が変わった。 パンクなフォントで表示された『ストリートグラップラー』の表示と共に、DJらしき男性のタイトルコールが響く。 「健ちゃん達の出番はすぐなの?」 「ええと……いつなんでしょう。シーナは知ってる?」 「静かにしろ健一! ナレーションが聞こえないだろ」 かぶりつくような前のめりの姿勢で画面を見つめるシーナは、明らかに五人のうちの誰よりも集中していた。ちょっと引くくらいの感じだが、自分がメインで出る番組なのだから、まあその気持ちは理解できなくもない。 さっきの綾の疑問については、続くテレビからの声が解消した。 『今日の特集は、比良井で活動してるヴォーカル&ハーモニカの絶妙なハーモニー、シーナ&バケッツ! 新曲紹介の後に注目!』 「うおっ、今言ったな! シーナ&バケッツって言ってたな!」 「……私、ドキドキしてる」 「俺もだぜ。有馬ももっとドキドキしていいぜー。つーか今の有馬の台詞かなりエロいな」 「そ、そうかな……」 珍しく冴子がリアルに引いた。 軽くシーナの後頭部を叩き、健一は空気を変えようと次の言葉を選ぶ。 「新曲紹介の後って言ってましたね」 「それってどのくらい掛かるのかな」 「十分くらいじゃね? いやー、しっかしこう、わかってても緊張するなー。やっぱ放送前にチェックしときゃよかったぜ」 「え、そんなチャンスあったの?」 「そりゃそうだろ。変なこと放送されても困るしな。お前がへばってる間に打ち合わせしたんだよ」 「呼んでくれれば頑張って起き上がったのに……」 「人生サプラーイズ! って言ったろ? チェックしますかって聞かれたけど、プロの腕を信じますって返しておいたからな。実は俺も全く中身は知らない」 「ちょっと不安なんだけど……」 「お前が信じる俺の判断を信じろ」 信じられないとは言わないでおいた。口にしない方がいい真実もある。 スポンサーのCMが明け、予告通り新曲紹介から始まる。過去にこの番組がきっかけでデビューしたグループのその後を追いかけ、メジャーとして出す新譜を流すコーナーらしかった。 聞き覚えはないものの、なるほど確かにどのグループからも実力を感じる。 曲がりなりにも音楽に触れた今の健一だからこそ、技術的な部分にも僅かばかりの理解が及ぶ。 「本当に、この番組から有名になった人達がいるのね」 「みたいですね」 「私でも聞いたことあるグループの名前があったわ。何だか不思議な感じ」 「……有馬さん、こういうの知ってるんですか?」 「テレビ、全く見ないわけじゃないから」 健一がいない間に、1303で点けているのかもしれない。 どうしようもなく疎いので、実際有名なのかはわからないものの、オリコンで何位だとか具体的な数字を出されると、何となくすごいことは伝わってくる。 四曲ほどが足早に紹介されると、DJが『CMの後はシーナ&バケッツの特集をお送りします』とナレーションを入れた。ぱっと画面が切り替わり、少し前にも見た同じ宣伝が聞こえ出す。 「いよいよか。やべえ、マジで緊張するわ。トイレ行っとけばよかったぜ」 「今からでも行ってくればいいんじゃ……」 「くわ――!」 脳天にチョップされた。 「……なんで怒るのさ」 「そんな緊張感ないことができるか!」 「じゃあどうするの?」 「気合で忘れる」 理不尽なやりとりに、健一はこれ以上の抗弁を諦めた。 隣では目を輝かさせた綾が「次? 次だよね?」とわくわくしている。 気を取り直し、健一も画面に集中した。 四本目のCMが終わり、また映像が変化する。 そこは、健一とシーナにとってよく見慣れた光景だった。 ライブ会場の公園ではない。最初の頃に使っていた、ストリートミュージシャンが集まる駅前の広場だ。 カメラを向けられた同年代の女の子四人は、同時に息を吸い込むと、示し合わせたかのように声を揃えて「シーナ&バケッツ最高ー!」と叫んだ。 「……鍵原さん達ね」 ぽつりと冴子が言う。 ツバメだけではなく、その隣には咲良もいた。残りの二人は知らない顔だ。確かクラスメイトではない。となると、咲良の友人か、もしくは全く無関係の子か。仮に今のがスタッフの仕込みだとしても、ファンとしての交友があるのかもしれない。 佳奈ちゃんはいないのかよ、とシーナは不満を漏らしたが、どうもツバメと佳奈は仲が良くなさそうな気がするので、健一は出てなくてよかったと思った。クラスメイトにインタビューを受けたと自慢していたツバメが空回りしないで済んだのも大きい。これで出番がなかった場合、明日学校で荒れるのが目に見えるからだ。 軽い聞き込みの後、カメラが次の光景を映す。 当日のライブ後だろう、汗まみれになりながらもまだ気力が充実しているシーナが、スタッフのインタビューに答えている。周囲からは観客のまばらなざわめきが聞こえ、シーナの背後では半分見切れたバケッツ、つまり健一がちらっとフレームに入っていた。辛うじて立ってはいるものの、露骨に疲れているのがよくわかる。ちょっと恥ずかしい。 『なんでヴォーカルとハーモニカだけなのかって? それだけで充分だからさ』 些か気取った感もあるが、疲労を微塵も表に出さない、堂々とした声色だった。 あれだけ精根使い果たしたはずなのに、健一と違って随分なタフさだ。 刻也がシーナにちらりと視線をやり、感心したように漏らす。 「同じ人物のはずだが、こうしてテレビ越しだと格好良く見えるものだな」 「そうですね」 褒めてはいるが普段の評価の低さが窺える。地味に同意する冴子もなかなか容赦ない。 シーナなら反論するんじゃないかと健一は隣を向いてみたが、当の本人はテレビの自分に熱中していてそれどころではないようだった。 しばらくはシーナが調子の良いことを言い続ける。 「健ちゃんは喋らないの?」 「見ての通り、僕は後ろでずっとバテてたんで……」 「じゃあ出番はないのかな」 「いえ、この後たぶん演奏してるところが出るかと」 不満げな綾をやんわり宥めていると、インタビューを終えた画面がまた切り替わった。 シーナが前座で呼んだ、ダンサー達のパフォーマンス。彼らは間違いなく懸命だったが、観客はさほど乗っていない風に見えた。 そんな、弛緩した雰囲気を一瞬で切り裂く、シーナの歌声。 テレビを見ていた誰もが、そのタイミングから言葉を忘れた。当日、あそこにいたはずの健一とシーナでさえも。 カメラの枠内に、無造作なステップでシーナが入ってくる。 後ろで一部始終を見ていた健一とは、全く反対側の光景だ。カメラはいくらかステージに近かったが、それでも背後の健一ほどではない。にもかかわらず、ほぼ変わらない声量で響く。場の空気を支配した、としか言えない、魔法めいた歌声だった。 1304、綾の部屋においても例外ではない。 反響はしない。が、よく通る。おそらく玄関辺りにいても、聞こえ方は大差ないだろう。 雑な意識を漂白しかねない、心を揺さぶる強さがあった。 シーナを除いた中で、健一だけがまだ余裕を持っていた。ソファに座る四人を順に見る。冴子も、刻也も、綾も、魂を画面のシーナに引っ張られているかの如く、テレビに釘付けになっている。 ライブの時とは違う、透明な実感が健一の胸に染み渡った。 名も知らない誰かではない、十三階の住人が、よく知った人達が、こんなにも惹かれてくれている。 これがシーナ&バケッツなんだ、と。 みんなを通して、アーティストとしてのシーナを、バケッツとしての自分を初めて見た気がした。 最初の曲『上を向いて歩こう』のサビが終わる。 ソファに座る全員が一息吐き、しかしすぐに意識を戻す。 シーナの背後から出てきた、バケツを被った人影が、両手に持ったハーモニカを口元に当てる。すぅっと場の空気に溶け入るように、意味のある音が生まれていく。 「これ、健ちゃんだよね?」 「はい」 「やっぱり。だと思った」 健一の短い返事に頷き、綾はゆっくり背もたれに上半身を預けた。目を閉じ、深く息を吸う。何故か刻也と冴子も、こちらを見ていないのに同じ行動を取っていた。 どうしてだろう、と思う間はなかった。画面の向こうで演奏する自分は、酷く静謐で、侵し難い何かを纏っているようでもあった。機械的ではない。仕草はどこかたどたどしい。なのに、奏でられる音色は、驚くほど透き通っている。感情がそのまま心にすとんと落ちてくる。 いつしか、視界が少しだけぼやけていた。 シーナの声がそこに重なる。静と動、相反するふたつの音が、凄絶なハーモニーを作り出す。 よく見ると、周囲のダンサー達が一人、また一人と足を止めていた。 前座だが、健一よりほとんどはパフォーマンサー歴の長いメンバーだ。彼らにも矜持があったはずだし、自分達も評価してもらう、一種のチャンスになる可能性もあっただろう。 客観的に考えれば、こんな状況は見栄えも悪い。シーナも健一も、音を揺らさないために派手な動作をしていないからだ。けれど、ダンサーを批判する声はなかった。誰も、当人達ですら、そんな些事を気にしていられなかった。 ……健一は、ライブ後のことを思い出した。全ての演奏を終え、観客もいなくなったステージで、ダンサーの纏め役らしい青年が話しかけてきた。伸吾と名乗った彼は、お疲れ様と言った後、健一に頭を下げたのだ。 お前らが出たら、邪魔にならないよう引っ込むつもりだったのに、立ち尽くして聴き入っちまったよ――。 その時はまるで周りが見えておらず、謝られることでもないと思っていたのだが、ようやく彼の言葉の意味が理解できた。シーナ&バケッツでなければ、これは謝罪すべき状況だったかもしれない。 結果は、今見えているものが全てだ。 立ち止まる彼らも、ここでは演出にしかなっていない。 「……こんなことって、本当にあるのね」 感慨深い冴子の声で、ライブシーンがもうとっくに流れきっていたことに気付いた。 番組自体の長さから逆算して、一時間全部はどうやっても盛り込めないだろう。頭の二、三曲が精々なはずだが、それにしてもあっという間だった。 まだ鳴り止まない心臓の鼓動を感じながら、冴子の表情を窺う。 微かに俯き、彼女は指先で目元をそっと拭い、 「どうしてかはわからないけど、二人の演奏を聴いてたら泣いてたわ。音楽を聴いて、涙が出ることなんて……物語の中だけだって思ってた」 「正直、自分でもびっくりしました」 「これが俺達、シーナ&バケッツだぜ。びっくりしたか!」 「……うん、すごかった」 「私も驚いたよ。一見噛み合わない組み合わせだと思っていたが、何と言えばいいのか……己に音楽の素養がないことを、惜しく感じるものだな。凄まじいとしか言葉にできないのが勿体無い」 「どうよ管理人、見直したか」 「いや、大したものだ。これだけのことを毎日のようにやっていたとは恐れ入った。脱帽だ」 「これから毎日聴きに来てもいいんだぜ? 何なら彼女連れてこいよ。噂のシーナ&バケッツと懇意だって教えれば、好感度アップ間違いなしだろ」 「好感度アップはともかく、本気で検討してみるよ。鈴璃君にも聴かせてあげたいと思ったからな」 「コイツ、彼女バレしてるからって遠慮なく惚気やがる」 「……悪いかね」 「いんや」 珍しく拗ねたような刻也の反応に、にししと笑うシーナ。 綾はどうだったろうかと左に顔を向け、健一は僅かに目を瞠った。 「どうしたの、健ちゃん?」 「あ、いえ……綾さんは、どうでした?」 「すごくよかったよー。シーナ君もだけど、私は健ちゃんのハーモニカ、好きだな」 「えと……ありがとうございます」 「……実はちょっとイッちゃったんだ」 「えっ」 耳元で囁かれ、落ち着きつつあった心臓が別の理由で跳ねた。 慌てて綾を見るも、もう視線はテレビに戻っている。 少し前までの表情は幻だったのかとも思ったが、健一はすぐに否定した。 明確な根拠はない。 けれど――嬉しそうなのに、どこか寂しそうに、見えたのだ。 CMが明け、今度はツバメ一人だけが映る。単独インタビューのようだった。 意外にもまともな応援をしている様子に驚愕する傍ら、先ほど感じたものの意味を、健一はずっと考えていた。 いつまで経っても、答えはやはり出なかったのだが。 無事録画もできていることを確認してから、健一は着替えた日奈を送るために外へ出ていた。 当初は泊まるつもりだったそうだが、番組を観ている間に心変わりしたらしい。シーナの時とは全く違う低姿勢でぺこぺこ謝る姿も、何度か目にしてだいぶ慣れた感がある。 もうかなり時間は遅く、そろそろ日を跨ぐ頃だ。明日は普通に平日なので、波奈も心配しているだろう。シーナとして外出している以上、泊まる理由も説明し難いと思う。 ……というようなことを健一が言うと、それもそうなんですけど、と一度言葉を濁してから、 「佳奈ちゃんに、どうしても会いたくなって」 「あー……まあ、番組には出てなかったですしね」 「でも、どうかな。夜遅いし、もう寝ちゃってるかも。佳奈ちゃん寝るの早いし」 「今日が放送だってわかってるなら、佳奈さんも観てたと思いますし……興奮して眠れないって可能性もあるんじゃないかなと」 そう返しはするものの、実際は微妙なラインだろう。仮に波奈と一緒に視聴していたとしても、あまり長い時間話し込むことはないはずだ。 「これから帰るよって電話するのは、さすがに非常識ですよね?」 「ですね。家の電話だと特に」 「結構音大きいですもんねー……。お父さんは確実に寝てるだろうし」 「んー……でも、何となくですけど、佳奈さんは起きてるんじゃないかって気もします」 「……私もです。番組のこと話したいのかもしれませんけど、何となく私が帰ってくるのを待ってくれてるような……こういうの、勝手な思い込みなんですかね」 「双子なんですし、無意識で通じ合うみたいなこともあるかもしれませんよ」 「だったらいいなって、思います」 健一を見て頷き、自分の言葉にはっとして恥ずかしげに目を逸らす日奈は、有り体に言えば、恋する少女めいていた。 日奈から顔の赤みが引くまで、無言が続く。 次の話の切り出しもまた、彼女からだった。 「あの、健一は、今日の放送を観て、どう思いました?」 「どうっていうと色々ありますけど……シーナの声って正面からだとこんな響くのかとか、自分の演奏とか……」 「いえ、そういうことじゃなくて、デビューした方がいいのかって話です」 「シーナが……って話じゃないですよね」 「シーナ&バケッツが、ですよ」 「うーん……まあ確かに、このままじゃ勿体無いかな、とは少し」 これだけの才能だ、世に出ても通用するのは間違いない。 番組の特集で取り上げられたのもそうだし、エリが目を付けていたのも。 奇しくも佳奈がかつて言った通り、地域の有名バンドで終わるレベルではないだろう。 そう考えて健一は喋ったが、シーナは現状を別の側面で捉えていた。 「私は、有馬さんみたいな人がもっといっぱいいるんじゃないかって感じました」 「有馬さんみたいな?」 「はい。例えば距離の問題だったり、時間の問題だったりで、聴きたくても聴きに来られないというか。まあ、私達の活動場所ってこの辺だけですから、当たり前なんですけど」 番組終了後、冴子は二人の音楽を気に入りながらも、現地に足を運ぶことには拒否反応を示した。 彼女自身にまつわる噂や、元々さほど活動的でないことも理由にあるのだろうが、おそらく一番の問題は、ほぼ確実に佳奈がいるからだ。人間関係の不和については、健一達にはどうしようもない。 勿論冴子の件はレアケースだが、今回の放送でシーナ&バケッツは全国に広まった。遠いどこかの知らない誰かが、二人の歌を、演奏を求めているかもしれない。 「だから、できるならメジャーデビューした方がいいかなって……」 佳奈と付き合うために、始めたバンドだった。 それさえ叶えば他はどうでもいいはずだった。 けれど今、日奈はファンのことを考えている。自ら空に昇り、輝く星になろうとしている。 安易な発言でないのは、健一にもわかった。 本気さが伝わってくる顔をしていた。 だからそれは、意外でも何でもない。変わっていく彼女の、新しい答えだ。 健一は薄く笑み、いいんじゃないですか、と肯定した。 「シーナ&バケッツなんだから、健一も一緒にデビューするんですよ?」 「前にも言いましたけど、本当に必要なら、頑張ってシーナに付いていきますよ。一緒の方がデビューしやすいならそうしますし、シーナだけでいいってことなら、その時は陰ながら応援するだけにします」 「……健一は変わらないんですね」 「そうですか?」 「ずっと、私のために力を貸してくれてます」 「力になってればいいなとは思ってますけど」 「なってます。だって私、すっごく心強いですから。今も」 わざとらしく両手の拳を胸の前でぐっと握り、日奈は健一に微笑みかける。 そして、一度間を置き、息を吐き、吸い、表情を引き締めて、 「今晩、思いきってアタックしてきます」 聞いた言葉の意味を反芻するのに、時間が掛かった。 何秒かしてようやく理解し、健一は目を見開く。 「佳奈さんに、ですか?」 「はい。本当のこと、話そうと思います」 「……告白するんですね」 こくんと頷き、行く道を向く。 全てが。 全てが、この日のためにあった。 一世一代の状況を控えながらも、彼女に気負った様子はないようだった。 「佳奈さん、起きてるといいですね」 「起きてますよ、きっと」 薄闇の奥に、窪塚家が見えた。 位置的に居間だろうか、まだ明かりが点いている。 消し忘れでなければ、寝ていない誰かがいるのだろう。 それが佳奈であればいいと、心から思う。 「ここで待ってましょうか?」 「大丈夫です。……いつも通り、応援しててくれれば」 「わかりました。じゃあ、帰りますね。結果は明日、聞かせてください」 「楽しみにしててください。それじゃ、今日は……ううん、今まで、ありがとうございました」 「お礼なんていいですよ。シーナ&バケッツは、まだ終わってないんですから」 「……ですね。ゴールには早かったです。全部、絶対手に入れましょう」 あの時もシーナが口にしたフレーズを、今度は日奈が健一に言った。 学校でも評判の美少女。可愛らしい女の子。けれど健一にとっては、とびきり歌が上手くて、少し乱暴で、適当で、たまに変な口癖が出て、変態で、食いしん坊で、馬鹿で、きっと誰より懸命に生きている、そんな親友だ。 だから信じている。 こんなところで、立ち止まるような人間ではないのだと。 いつだってシーナは自信満々、不敵な表情で、戦ってきたのだから。 また明日。 ありきたりな別れの言葉と笑顔で、次を約束する。 帰り道をゆっくり歩きながら、大切な親友の成功を、健一は願っていた。 現実を疑う気持ちは、一切なかった。 なかったのだ。 鍵はさすがに掛かっていたから、自分の合鍵でかちゃり。 派手な物音を立てないよう、そっと中に入る。 すると丁度、お風呂上がりらしい佳奈ちゃんが洗面所の方から現れた。 ドライヤーは掛けただろうけど、まだ髪はしっとり濡れていて、パジャマの襟裏に見えるうなじも艶めかしい。ハンドタオルを軽く頭に巻き、垂れ下がった端で頬を拭く姿は、否応なく私の鼓動を加速させる。 「ただいま、佳奈ちゃん」 「おかえり、日奈ちゃん」 「お母さんはまだ起きてる?」 「もう寝ちゃった。ストリートグラップラー観終わったらすぐ」 「そっか。……いつもだったら、この時間は佳奈ちゃんも寝てるよね?」 「何となくね、遅くなっても日奈ちゃんが帰ってくる気してたから。お母さんにもそう言ったんだけど、それなら佳奈ちゃんが待っててあげれば充分でしょ、って」 双子のシンパシーかもしれない。 普通に考えれば、ただの偶然だ。けれど私は、運命がお膳立てをしてくれているようにしか思えなかった。告白を決意したその夜に、佳奈ちゃんが珍しく起きていて、私を待ってくれている。お母さんも、お父さんも眠っている状況で。 きっとこの先どんなことがあっても、今ほどの好機は訪れないんじゃないだろうか。 やっぱり、今日しかない。 靴を脱ぐ間も惜しくて、私は佳奈ちゃんを呼び止めた。 「大事な話があるんだけど」 「大事な話?」 「うん」 「……もしかして、恋愛関係とか?」 一瞬きょとんとした佳奈ちゃんは、神妙な声色でそう返してきた。 先手を取られ、言葉が詰まる。そんなはずないと思いながらも、実は私の気持ちをわかってくれてるのかな、なんて勘違いをしたくなる。 不安で崩れそうになる声を何とか抑えて、訊いた。 「心当たりとか、あるの?」 「ない……って思ってたんだけど。今ちょっと考えてみたら、色々納得いったっていうか」 「じゃあ、私の言いたいこともわかる……?」 「わかるよ」 本当に? 本当に? 何度も自問して、期待に裏切られるのが怖くて、それでも信じたくて。 手も足も、小刻みに揺れていた。佳奈ちゃんは私の震えに気付いていないみたいだった。 「だって、私達双子の姉妹じゃない。日奈ちゃんと私は、いつだって通じ合ってるもんね」 にっこり笑って佳奈ちゃんは言う。 一番大好きな人の、一番大好きな表情。 それを前にするだけで、私の怯えは、すぐにどこかへ消えていってしまう。 心が決まった。 わかってもらえているのなら、そこまでの勇気も必要なかった。 だから、告白のひとことは思った以上にすんなりと、口からこぼれ出た。 「私、佳奈ちゃんが好き」 世界で一番。 何よりも、誰よりも、欲しいと思ってた。 「ずっとずっと前から、佳奈ちゃんのことを愛してました。だから私と……シーナじゃなくて、私と、改めて付き合ってください」 いつだって通じ合ってるって言ってくれたから、シーナの正体も、私がひた隠しにしてきた気持ちも、全部全部見抜かれてて、知ってて、その上で佳奈ちゃんは私を受け入れてたんだと。 ――そんな都合の良い希望を、ここに至るまで、手放したくなかった。 理解なんて、とっくの昔にしてたから。 どんなに淡い夢を抱いたところで、私のこの恋は、十中八九叶わない。健一と頑張って、限りなく小さな、か細い蜘蛛の糸を辿り続けたけれど、心の奥でいつか切れるものだと諦めてもいた。 勿論、全てを諦めるつもりもなかった。投げやりな告白なんてまっぴらだった。 私は最初から最後まで真剣だ。本気で、佳奈ちゃんと結ばれる未来を目指し続けてきた。 そうまでして欲しかったのは、たったひとつの答え。 この想いの、行き先だ。 「………………」 無言で、ぎゅっと目を閉じたまま、私は佳奈ちゃんの返事を待った。 罵られるかもしれない。呆れられるかもしれない。あるいは冗談と取られるかもしれない。 それならもう一度告白をし直すだけだし、時間が欲しいというのならいくらだって待つつもりだった。そう簡単に出せる結論でないことは、自分自身が佳奈ちゃんよりもよくわかっていた。 十秒。二十秒。 おかしいなと思い始めて、恐る恐る瞼を持ち上げる。 佳奈ちゃんが浮かべていたのは、笑顔でも、怯えや嫌悪の表情でもなかった。 困惑ですらなかった。 「ねえ、日奈ちゃん……よく考えて」 優しい声が、私の耳から頭に入ってくる。 ちっとも場にそぐわない、まるで、我が儘な子供をあやすような。 「日奈ちゃんが私を好きなわけないでしょ? きっと、勘違いしてるんだよ」 双子の姉妹なんだから。 女の子同士なんだから。 「絹川君なんだよね? 日奈ちゃんのそばにいる男の子って絹川君くらいしかいないし。うん、そうだよ。日奈ちゃんは絹川君が好きで、でも、前に夏祭りで会った人と付き合ってたのかな。それで、やけっぱちになってるんだよ」 私を見る佳奈ちゃんの瞳には、シーナも、私も映ってなかった。 違う。違うよ。 それは私なんかじゃない。 佳奈ちゃんが見てるのは、佳奈ちゃんにとっての“窪塚日奈”だ。 両手が伸びて、私の肩に触れようとした。 一歩、後ずさる。宙に浮いた佳奈ちゃんの指先が虚しく空振る。 そんなわけないと叫びたかった。けれど喉が詰まって、声も出ない。 受け入れられないのなら、まだよかった。断ってくれれば、苦しくても納得はできた。 現実は、最悪の上を行く。私の想いは認められないどころか、佳奈ちゃんの中で形を保てないほど捻じ曲がって、ばらばらになったものを適当に繋ぎ合わせて、初めからなかったことにされてしまった。 知ってたよ。 佳奈ちゃんはそういう人だって、知ってた。でも私が頑張れば、少しずつでも変わっていってくれるかもしれないって思ってたんだ。そうしたらいつか、私を受け入れてくれる佳奈ちゃんになるんじゃないかって、思ってたんだ。 「……日奈ちゃん?」 変わらない声色が、何より残酷だった。 身を回す。振り上げた左手が乱暴にドアノブを叩き、体当たりするように玄関扉を開ける。転びそうになりながら全力で走った。私の名前を呼ぶ声には振り返らない。追いかけてきてるのかもしれないけど、もうどうでもいい。逃げて、逃げて、そのままどこかへ消えてしまいたかった。 目的地もなく走り続けた。ばか、ばか、と叫ぶ私はきっと相当に近所迷惑だったろうけど、当然そんなことを気にする余裕もなかった。私の気持ちを聞いてさえくれなかった佳奈ちゃんも、そんな佳奈ちゃんに期待して、希望を夢見てた自分も、どうしようもない。躓きかけては不恰好に姿勢を戻し、息が切れても足を止めなかった。止めたらもう、二度と動けなくなる気がした。 曲がり角。駆け抜けて、そして勢い良く何かにぶつかる。 反射的に「すみません……っ」と謝罪の言葉が出て、けれど私は立ち上がれなかった。身体は限界に行き着いてたらしく、ふくらはぎの辺りがぷるぷると痙攣している。 「あの……大丈夫ですか?」 「は、はい……」 情けなさと惨めさを感じつつ、それをなるべく顔に出さないように努めて、差し伸べられた手を取る。 そうして見上げて、私は呼吸を忘れた。 「……え? 日奈?」 今、誰より会いたくて、会いたくなかった人。 ぶつかった相手は、健一だった。 back|index|next |