大海千夜子は、人生最大級の危機感を覚えていた。
 健一と女性のキスシーンを目撃し、何となく尾行したら蛍子と鉢合わせした挙句、件の女性――桑畑綾と蛍子に挟まれて針の筵を味わった結果、ついに明確なライバルの存在を知ったのだ。しかも相手が圧倒的に優勢。むしろ勝ち目が自分にあるのかちょっと疑わしくなるレベルである。
 あの時はとりあえず奮起して可愛らしく気合を入れてみたものの、それで状況が大きく変わるわけでもない。健一との距離を詰めるには当然何かしらの行動を起こさねばならず、ではいったいどうすればいいのかというところで早くも行き詰まっていた。
 ここ数日、家に帰って軽く勉強をして、あとは寝るだけとベッドに潜り込んでから、考えて悩んでは悶えている。
 ぽつぽつと取り留めもなく浮かんでくる案を脳内でボツにし、唸る。
 今の千夜子と健一の関係は、あくまでただの友人だ。クラスメイトよりかは近いが、さりとて甘い関係からは程遠い。ある程度仲良く話すことはできても、手を繋いだりどこかに出かけたりは限りなく実現性が低い。いきなりそんな提案をしても、首を傾げられるだけだろう。
 アドバンテージがひとつあるのだとすれば、ほぼ毎日、昼のお弁当を食べてもらっていることくらい。勿論これも恋人に作ってあげるようなものではなく、料理を軸にした二人の関係は、師匠と弟子である。

「お弁当……料理……自然な流れ……」

 何か閃かないかなと適当に呟いてみるも、やはり良い案は思いつかない。
 結局その夜はいつの間にか眠ってしまい、悩みは翌日に持ち越しとなった。

「……それで、私に相談ってわけ?」
「うん。一人で考えてても駄目そうだから……」
「なるほどねー。そういうことなら、この恋愛経験豊富なツバメさんに任せなさい!」

 自分で言っちゃうんだ、と思ったが、口に出すとツバメが機嫌を損ねるので、千夜子は頷くに留めた。
 朝方、まだ人気の少ない教室で、空いた席に座った友人は乏しい胸を張っている。
 恋多き女、自動告白玉砕装置とも裏で密かに呼ばれている鍵原ツバメは、正直相談相手としてミスキャストなところがある。誰かを好きにはなれど、好きだと言われたことはなく。目当ての男に突貫はしても、今のところ十割アウトだ。そもそもスタートラインにすら立てていない。
 そんなツバメにどんな助言ができるのか、疑わしい気持ちは捨てられない。
 が、一応これまで参考になる意見もいくらかもらっているので、今回も千夜子は彼女に頼った。

「んー、でも、キスしてたのは間違いないのよね?」
「間違いない……と思う」
「しかもかなり親しげだったと」
「うん」
「……もうすっぱり諦めた方が早いんじゃない?」
「怒るよ?」
「タンマ千夜子、冗談だから。ちょっと声がマジ過ぎる」

 瞳を貫いて脳に達しかねない、能面めいた笑顔と射殺すような千夜子の視線に、即降参したツバメが両手を突き出し制止する。

「諦められるなら、こんな相談してないよ」
「まあ、そうよねえ。となると、ここからもっと絹川に踏み込んでいかなきゃなんないか」
「そこなんだけど、取っ掛かりが掴めなくて……」
「いい、千夜子? 取っ掛かりはあるものを掴むんじゃなくて、掴めるところを作るものなの」

 些細なきっかけでも告白に走っては砕け散るツバメらしい至言である。

「最近、だいたいお昼は絹川と食べてるでしょ? 突っ込むならそのタイミングしかないと思うのよね」
「私もそれは考えてた。お弁当だって、食べてもらってるし」
「そこよ。いい機会だから、家に誘っちゃえば?」
「誘っちゃえばって……どうやって?」
「味見だけじゃわからないこともあるだろうから、一から作るところを見てほしいって感じで。料理指導って名目なら、絹川もハードル下がるでしょ」

 普通付き合ってもいない、異性のクラスメイトの自宅に行くというのは、かなり抵抗を覚えるものだ。
 しかし健一は、以前大海家に足を踏み入れたことがある。たまたま見かけた父親が連れてきただけとはいえ、一度来た実績があれば、二度目のチャンスを作るのはそう難しくもない。
 ツバメの意見を吟味し、千夜子はいけるかもしれない、と思った。

「とりあえず、今日のお昼に言ってみる」
「オッケー。私も援護するから、大船に乗った気持ちでいなさい!」
「ありがとう、ツバメ」
「……上手く誘えるといいよね」

 優しい、どこか祈るようなツバメの言葉に、曖昧な笑みを返す。
 ひたひたと忍び寄る、恋の終わりの足音を感じながら。



 結果だけを言えば、八割成功だった。
 料理してるところを直接見て教えてほしい、という提案を前面に押し出し、健一も悩む様子は見せたものの、無事約束を取り付けた。もっとも、放課後すぐとはいかず、週末の昼だ。健一がシーナ&バケッツとしてバンド活動をしているのはツバメ共々知っているし、そのこと自体に是非はない。
 ただし、問題もある。
 学校もない日曜だと、漏れなく家族が付いてくるのだ。
 公務員の父は原則日曜が休みだし、母は主婦なのでだいたい昼は家にいる。兄の悟はどこかに出かけるかもしれないが、夕食までに帰ってくる可能性が高い。実家暮らしなので仕方ないと言えば仕方ないが、嬉し恥ずかしの二人きりなシチュエーションとはいかないのだった。
 平日が終わるまで、千夜子はずっとそわそわしていた。幸い健一には気付かれなかったし、勉学にもさしたる影響は出なかったものの、微妙に落ち着かない感情を引きずったまま当日を迎えてしまった。
 リビングで立ったり座ったり麦茶を飲んだりしながら待っていると、玄関のインターホンから電子音が鳴り響く。瞬間、がたっと椅子を軽く吹き飛ばし、娘の激しい動きに驚いた母が思わず腰を浮かせた。
 小走りで近付き、ノブを捻って開けた扉の先に、私服姿の健一が立っていた。

「えっと……こんにちは、ですかね」
「はいっ。ど、どうぞ、上がってください」
「すみません、お邪魔します」

 靴を脱いだ健一に、律儀に揃えたスリッパを千夜子が差し出す。
 遠慮がちに履かれたそれは兄のものだが、今はいないしいても別に構わないだろう。千夜子の兄に対する扱いは、全体的に良くない。一日帰ってこなければいいのにと思ってさえいた。

「あらあら、いらっしゃい。千夜子のお友達の絹川君、でいいのよね?」
「はい、絹川健一です。大海さんのお母さん、ですよね」
「そうよ〜。今日は千夜子に料理を教えてくれるんですって? 嬉しいわ〜、私も後ろで見てていいかしら」
「大丈夫ですけど……そんなに見てて面白いものでもないと思いますよ」
「私、あんまりご飯作るの得意じゃないから、参考にしたいのよ〜。千夜子がおいしいご飯作れるようになるなら、それはそれでいいことだし。娘のこと、よろしくお願いしますねぇ」
「……絹川君、お母さんのことはなるべくスルーしてください」
「は、はぁ」

 頬を膨らませた千夜子が、困惑する健一の背を些か強引に押して、台所に連れていった。
 時間は正午前、ちょうど昼食時だ。許可を得てざっと冷蔵庫の中身を確認した健一は、場所を確認しながらぽんぽんと食材を並べていく。その躊躇いなさは、千夜子にはまだ真似できない。後ろで母も感心していた。
 実際に調理が始まってからも、健一の手際の良さは際立っていた。鍋を火に掛けながら、あっという間に準備を進める。都度まず手本を見せ、それを千夜子がなぞるようにして教わる。そして、例えば上手く包丁で切れなかったりすると、健一は千夜子の後ろに付いて、包丁を握る右手と食材に添えた左手を上から押さえるのだ。
 最近姉に同じことをしていたりしたので、どうもその辺の感覚が健一は麻痺していた。当然そんな事情を知る由もない千夜子からしてみれば、正に嬉し恥ずかしの状況である。頬がかっと熱を持ち、心臓がばっくんばっくん弾み出す。母の目も一時忘れ、恋する乙女冥利な時間を過ごしていた。
 しばらくして昼食ができると、母が奥の部屋から父を呼ぶ。
 インターホンにも気付かなかったのだから、おそらく持ち帰りの仕事をしていたのだろう。桑畑綾記念館の件はこの頃佳境に入ったようで、平日も帰りの遅い日が続いている。それでも全く疲れた様子を見せない辺り、どうやら相当充実しているらしい。

「お、こんにちは、絹川君。今日の昼は千夜子と絹川君の合作か」
「僕は手伝っただけですよ。メインで作ったのは大海さんですから」
「ちょっと切り口とか、不揃いだものね〜」
「普段のお母さんも人のこと言えないんじゃ……」
「私、料理苦手だから、大目に見てほしいわぁ」
「はっはっは、ちなみにわしは全くできんぞ!」

 大仰に笑う父と惚けた感じの母に、すごい家族ですねという目を健一がした。
 兄がいなくても、やっぱりちょっと恥ずかしい家である。穴に入りたい気持ちを抱えながら、千夜子は健一と両親を先に座らせ、残りの食器をテーブルに運ぶ。それから自分も座り、いただきます、と手を合わせて食べ始めた。
 ……あ、お母さんのよりおいしい。
 目前の当人には絶対言えない感想を飲み込み、先ほどまでで教わった内容を思い出しつつ、少しずつ味わっていく。健一の調理技術は、独学ながら無駄がない。とにかく動きが効率的なのだ。二つ三つの作業を、平然と同時進行していたりする。
 まだまだ自分にはできそうにないなあ、と思う。
 けれど、いつかはできるようになりたい。料理を通じて、今までできなかったことができるその楽しさを、千夜子は強く感じていた。
 全員が食べ終わり、片付けは千夜子一人が請け負った。食器の位置は健一より詳しいし、ここまで色々してもらったから、ゆっくりしてほしいという気持ちがあった。皿を割らないように気を付ける傍ら、背後の会話に耳をそばだてる。

「前は少し強引に連れてきてしまったからね。だから、また来てくれて有り難い」
「いえ。あの時は色々話も聞けましたし、楽しかったです」
「私もいたかったな〜。確か買い物で出かけてたのよねぇ。絹川君、おばさんともお話ししましょ?」
「い、いいですけど……」
「じゃあ、うちの娘のことはどう思ってるのか、訊いてみたいなぁ」
「前に大海さんのお父さんにも訊かれましたけど、友達だと思ってますよ。こんな僕にも引いたりせずに接してくれる、すごくいい人なんだなって」
「そう自分を卑下することもないだろう。絹川君は好青年じゃないか。なあ千夜子」
「えっ!? あ、うん、私も、絹川君はすごくいい人、だと思います」
「あはは……ありがとうございます」

 振り向いて答えて、恥ずかしくてすぐ千夜子は流し場に顔を戻してしまった。
 だから健一がどんな表情をしていたのかも、わからなかった。

「ああ、そういえば、錦織さんが絹川君の話をしていたよ」
「錦織さんが?」
「絹川君のことを随分評価していたようだったな。彼女とはどこで知り合ったのかね?」
「ええと、まあ色々ありまして」
「ふむ。君の交友関係も、なかなか面白そうだね」

 その名前を聞いて、思い出す。
 父の仕事相手だという女性は、あのアヤ・クワバタケと深く関わっているらしい。
 アヤ・クワバタケ――桑畑綾。
 健一と、キスをしていたひと。
 胸の奥がざわつくのを、千夜子は止められなかった。
 皿を洗っていた右手が宙を彷徨い、左胸に伸びかけたが、まだびしょびしょに濡れているのに気付く。当たり前だ、流水に触れていたのだから。この水と一緒に酷い気持ちも流れてくれればいいのに。そう思う。思わずにはいられない。
 恋は苦しいものだと、千夜子は知っている。
 幸せと痛みは表裏一体だ。健一を想って暖かくなる心は、同じようにしているのに、泣きたくなるほど軋んだりもする。それらは全て、たったひとつの同じ感情が齎すものだった。
 最後の食器を水切りに入れる。泡まみれのスポンジを軽く水で洗って置き、備え付けのタオルで両手を拭く。健一と両親の話は、既に桑畑綾から逸れ、全然関係ないところに着地しようとしていた。
 千夜子も席に向かおうとすると、不意に玄関から物音が聞こえた。インターホンを鳴らさず、どたどたと若干乱暴な足取りで近付いてきた人影は、リビングの様子を眺めて、物珍しげに目を見開いた。

「ただいまーっと。その男の子が絹川君?」
「あ、はい、絹川健一です」
「千夜子の兄の大海悟。よろしく! で、いきなりだけど、お姉さんいる?」
「一人いますけど」
「もしかして蛍子って名前?」
「……ホタルを知ってるんですか?」
「おう。高校の時の同級生。世間って狭いもんだなー。性別逆だけど、姉弟でうちと同学年か」

 しれっと千夜子の席を確保した悟が(四人家族なので席も四つしかない)、健一と会話し始める。ドヤ顔で高校時代の蛍子について語り出し、しかも健一がちょっと興味深げに聞いているので性質が悪い。後ろで小さく頬を膨らませていると、千夜子を見て苦笑した父が自発的に席を立った。気を遣われたことに複雑なものを感じながらも、大人しくそこに腰を下ろす。
 喋っているのが実の兄であることを除けば、蛍子の話は千夜子にとってもいくらか興味を惹かれる内容だった。大半は当たり障りのないものだったが、どうやら当時、同じ高校に通っていた桑畑綾と一悶着あったらしい。先日の蛍子と綾が脳裏に浮かび、あの険悪さについて多少納得がいった。きっと、元々確執があったのだ。
 蛍子の話題も落ち着き、あとはほとんど取り留めもない雑談になった。
 折角だから夕飯も食べていかないか、と父が提案したが、それは健一が固辞した。遠慮をしているというより、帰ってから誰かと食べるためという雰囲気があった。それが綾なのか、蛍子なのか、あるいは他の誰かなのかはわからない。変に勘繰ってしまう自分の思考が、何だかとても嫌なものに思えて、また胸が軋んだ。
 結局、健一が大海家を後にしたのは三時過ぎだ。
 遠慮なくまた来てくれていいからねと、千夜子以外の三人が見送る中、玄関から外に二人で出て、千夜子はぺこりと頭を下げた。

「騒がしくてすみません。特にうちの兄が」
「いえ、知らなかったことも聞けましたし……面白いお兄さんですね」
「全然面白くなんかないです。表に出しても出さなくても恥ずかしい兄ですよ……」
「……なんか、そういう大海さん、初めて見ました」
「え、そ、そうですか?」
「はい。こう言っちゃうと何ですけど、ちょっと新鮮です」
「正直複雑な気持ちです……」
「すみません。でも、羨ましいなって思いまして」
「兄がですか?」
「お兄さんもですけど、大海さんの家族が、ですかね。僕の両親は仕事が忙しくて、もう全然帰ってこないものですから。こういう家族の団欒みたいなのはくすぐったいっていうか、馴染みがないんです」
「……寂しいですか?」
「もう慣れちゃいました」

 なんて。
 千夜子を心配させまいと浮かべただろう表情には、どこか陰りがあった。
 健一と別れて、曲がり角に消えた背中と、喫茶店での蛍子の言葉を重ね合わせる。
 他人の、あんなにも剥き出しの感情に触れたのは、初めてだった。
 それがどこから来たのか、千夜子には想像する他ない。
 綾にも、蛍子にも、当たり前だが理由がある。事情がある。
 健一は何を、どこまで知っているのか。わかった上で、何を思っているのか。
 本当はもっとたくさん訊きたかった。教えてほしかった。綾のこと、蛍子のこと、健一自身のこと。
 けれど、千夜子にとって、望まない答えが返ってきたら?
 芽さえないんだって、否が応にも理解してしまうことになるとしたら?
 希望があると、信じたい。
 信じたいから、最後の一歩は、まだ踏み出せない。
 しばらく千夜子は、大海家の玄関前で、ただ立ち尽くしていた。










 シーナ&バケッツの情勢が大きく変動したのは、健一が大海家にお邪魔したその夜だった。
 ライブそのものはいつも通り、特別問題もなく完遂したのだが、解散した直後、二人に見知らぬ男性が声を掛けてきた。記憶を探ってみるも、全く覚えがない。シーナのそばには佳奈がいたこともあり、一応身構えていたところ、男性は丁寧に頭を下げると、懐から名刺を取り出して健一達に手渡したのだ。
 遊びのない事務的な表記で、その男性がテレビ局の職員であることを示していた。
 健一は一瞬偽物な可能性を疑いもしたが、割と抵抗なくシーナが話を聞く姿勢を見せた。スーツ姿ではなく、カジュアルな私服に近い格好の男性は、ストリートグラップラーという番組のスタッフであり、近頃この辺りで噂のシーナ&バケッツを見に来たのだという。

「評判は聞いてましたけど、想像以上でした。それで、お二人が構わないのなら、是非ともうちの番組で取材させてほしいんです」

 シーナは少しだけ悩む素振りをしたものの、ほぼ二つ返事で頷いた。
 健一としても、取材自体を拒否する理由はない。シーナ&バケッツの最終決定権はシーナにあったし、以前、十三階の住人達にテレビ出演が目標だと宣言したのを思い出していた。取扱いの大小はあれど、放映されるのなら綾や冴子、刻也にもライブの様子がわかるだろう。そう考えれば、やはり首を横に振る選択肢はなかった。
 番組の詳細と取材日を詳しく聞き、連絡先を交換して、スタッフの男性はもう疎らな観客に紛れて去っていった。あとはその場に残る必要もなく、佳奈を送るために歩き始めたのだが、三人の間にはどうにも落ち着かない空気が広がっていた。

「シーナさん、テレビですよ、テレビ!」
「ああ、そうだな。何かまだちょいと実感薄いよなあ」
「でも名刺くれましたし、偽物だとは思えなかったですよ」
「佳奈さんは、その番組って見たことあるんですか? 確か、ストリートグラップラーって言ってましたけど」
「ううん。うちは夜テレビ点けないの。部屋にもないし」

 放映時刻は二十六時――深夜二時かららしいので、生で視聴するにはなかなか厳しいものがある。素っ気ない口調からすると、佳奈は番組そのものには興味がなさそうだった。ただ、シーナが出演するからはしゃいでいるのだと思う。
 街で噂のストリートミュージシャンで、自分の彼氏。
 そんなステータスに、テレビ出演するほど有名の、という箔が付く。
“普通の女の子”にとってはきっと、他人に自慢できるような、嬉しい話だ。

「シーナさんだったら、これからもテレビに出たりしちゃいますよね」
「どうだろうな、放送したら思ってたよりしょぼいって言われる可能性だってあるぜ」
「絶対そんなことないです! さらに評判になって、メジャーデビューだってできますよ!」
「……そしたら、今日みたいにライブはできなくなるかもしれないなー」
「それはそうかもしれませんけど……私、シーナさんはもっと有名になれるって思うんです。こんな街のストリートミュージシャンじゃなくて、自分のCD出して、オリコンとかに入っちゃうくらいの活躍ができる人です」

 完全に健一が蚊帳の外である。わかっていたが苦笑せざるを得ない。
 シーナも押せ押せの発言に複雑な笑みを浮かべ、

「ま、そこまでいけたらカッコいいかもなあ。世の中のミュージシャンは、だいたいそういうところ目指してるだろうしさ」
「ですよね!」
「けど、俺は佳奈ちゃんだけのヒーローになれるなら、それでいいんだけどな」
「もう……シーナさんってば」

 恋人めいた甘いやりとりの中に、しかし健一はシーナの真剣な言葉があったのを見逃さなかった。
 佳奈は冗談だと軽く流しただろう。自分を喜ばせるためのリップサービスだと、そんな風に解釈したのだろう。どんな気持ちでシーナが言ったのか、彼女にはわからない。伝わらないのだ。
 二人を見ていると、彼氏彼女の関係になってくれたことは嬉しいのに、だからこそ余計浮き彫りになった溝の深さが目についてしまって仕方なかった。それが世界と自分達、外れた人間を隔てる壁に思えて、時に酷く息苦しくなる。
 佳奈ちゃんが喜ぶならもっと有名になろうかな、とシーナは言う。
 キラキラと目を輝かせて、応援してますから、と佳奈が言う。
 たったこれだけの会話の中に、悲しいほどの無理解とすれ違いが存在する。
 分かれ道に至り、二人に再会の挨拶を告げ、健一は逃げるように足を速めた。
 やがて早歩きは回転を上げ、小走りになる。
 無心で健一は走った。身体を動かすことで何も考えない時間を作りたかった。
 五分ほどで幽霊マンションの前に着く。十三階へ続く階段も、駆け足で上りきる。
 1301の玄関扉を開けた時には、額にじんわり汗が浮いていた。
 息を整え、靴を脱ぐ。
 居間のテーブルには、冴子と刻也が座っていた。二人は揃って健一の姿を認めると、

「おかえり、絹川君」
「おかえりなさい。……麦茶、飲む?」
「ええと、ただいま帰りました。すみません、いただきます」

 甲斐甲斐しくコップに冷えた麦茶を注ぐ冴子は、比較的顔色も良い。
 ほとんど毎日眠れていることと、バイトが充実しているおかげかもしれない。
 受け取った麦茶に軽く口を付けてから、健一はシーナを待たず先ほどの出来事を二人に話した。

「……ふむ、テレビか」
「はい。とはいっても、収録はまだ先ですし、放送はもっと先になるんですけど」
「私はまだ君達の曲を聴いたことがないが、わざわざ先方から言い出して取材が来るのなら、それなりのものなのだろうな」
「僕のハーモニカはともかく、シーナの歌は本当にすごいですよ」
「シーナ君がかね」

 日頃ちゃらんぽらんな姿しか見ていない刻也からしてみれば、シーナの実力は半信半疑だろう。
 屋上での練習も、十三階に響くほどではないのだ。それにあの凄さは、実際聴いてみないことにはわからないと思う。小説の面白さは読まないと不明なように、音楽の素晴らしさは聴いて初めて実感できる。

「私は絹川君のハーモニカ、結構いいと思うけど」
「ほう。そうなのかね?」

 油断してたら健一の方に矛先が向いた。

「練習始めた頃にちょっと聴いただけだけど……あの曲、何だったっけ」
「キラキラ星ですね。練習用の簡単な曲ですけど」
「でも、すごく優しい音色だったわ」

 呟いてから、はっとしたように冴子が薄く頬を赤らめる。
 あの時と同じことを言ったはずなのに、何故だか妙に恥ずかしそうだった。
 刻也は珍しいものを見たといった様子で、テーブルの上で両肘を立てて手指を組み、

「まあ、難しいからいいという話でもないだろう。簡単なものには簡単なりの良さがあると思うよ」
「そういうものですかねえ」
「複雑な技術を駆使せずとも、簡単なもので良さが伝わるなら、その方が素晴らしいのではないかね」

 意外と饒舌な刻也の言に、なるほどと健一は頷いた。
 言ってしまえばシーナの歌も、そう難しいことはしていないはずだ。
 声をよく通す。呼吸を乱さず、喉を無駄に震わせず、感情を込めて歌う。
 シンプルだからこそ技量が要求されるのかもしれないが、シーナという楽器そのものが最上級なのだ。小細工も、見せかけの技術も必要ない。それに、シーナがチョイスしてくる曲は、ハーモニカ側もあまり複雑な演奏にはなっていない。自分の歌声に自信があるからこその、シーナの判断だった。

「ともあれ、楽しみだよ」
「え?」
「……私が楽しみにしていたら変かね?」
「いえ、そんなことはないんですけど。八雲さんはあんまり興味ないんじゃないかって思ってましたから」
「確かに、普段はほとんど音楽も聴かないし、格段好きなわけでもないが……君やシーナ君が毎日のように続けていることだし、どんなものかとはずっと気になっていたのだよ」
「じゃあ、観に来ればいいんじゃないです? 遠慮しなくてもいいですよ」
「遠慮しているわけではないよ。ただ、なかなか踏ん切りがつかなくてね。勉強やバイトで忙しいというのもあるし、ほぼ毎日やっているとなると、逆にいつでもいいか、という気持ちになってしまうのだ」
「……ああ、何となくわかります」
「しかし、テレビでやるというのなら、これは一度きりだろう。まだ先とのことだし、気持ちの上でも準備して臨める」
「そんな特別なものじゃないと思いますよ? 詳しいところまではわからないですけど、シーナがちょっと話して、一曲か二曲分放送して、ってところかなと」
「君達のための番組でもなければそんなところだろう。だが、他でもない君達が出るのなら、少なくとも私にとっては特別なことだと思っているよ」

 刻也の視線が冴子に行く。言外の問いかけに、冴子も控えめな動作で首肯した。

「……有馬さんも観たいですか?」
「ん……前にも言ったけど、観たいとは思ってるのよ。実際のライブには行けないかなってだけで」

 人(特に同年代の女性)が多い。一種熱狂的な空気に中てられる。しかもシーナのそばには佳奈がいる。
 冴子が行きたがらない理由を探す方が簡単である。
 となればやはり、今回の話はある意味渡りに船だろう。
 健一としても、冴子や刻也、綾には知ってほしい。
 自分達のしてきたことが、いったいどんなものなのか。どういう意味を持っているのかを。

「とはいえ、ひとつ問題がある」
「問題ですか?」
「私の部屋にはテレビがないのだ」
「そういえば、ここにもないですよね……。まあ、1303にはビデオもあるので、当日はそっちで観ません?」
「邪魔ではないかね?」
「もう綾さんとシーナには使わせたこともありますしね。こういうのはみんなで観た方が楽しいでしょうし、有馬さんもそれで大丈夫ですよね?」
「ええ。私もその方がいいと思う」
「わかった。二人の好意に甘えさせてもらおう」
「綾さんにも言っておかなきゃなあ……」

 この時間にも出てこないということは、作業が佳境なのかもしれない。
 だいぶ長い間姿を見ていない気もするので、そろそろ1304に突入すべきかと考えていると、玄関側で控えめな軋みが響いた。

「……あのう」
「あれ、もう戻ってたんですか?」
「は、はい」

 着替えも終わった日奈が、申し訳なさそうに様子を窺っていた。
 随分早いなと時計を見てみたら、想像以上に時間が経っている。かなり話し込んでいたらしい。

「送っていきますよ。もうだいぶ遅いですし、波奈さんに頼まれましたしね」
「すみません……」
「いえいえ。それじゃ、八雲さん、有馬さん、話の途中ですみませんけど、僕もこのまま家に帰ります」
「気にすることはないよ。では、また明日だな」
「二人とも気を付けてね」
「はい。おやすみなさい」

 シーナの時とは打って変わって、平身低頭な日奈と共に、1301の扉を閉める。
 階段を下り外に出ると、夜風が頬を撫でた。寒くなってきたな、と思う。
 長らく日奈は無言だった。表情も妙に硬い。
 何かやらかしただろうかと心配になりながらも、どう切り出せばいいかがわからない。
 横の日奈をちらちら確認しては正面に視線を戻す、一連の動作を繰り返していると、俯き気味でいた日奈がぽつりとこぼした。

「……怒ってます?」
「え、何がです?」
「佳奈ちゃんを送ってた時、デビューするとかしないとか、勝手に話しちゃってたこと」
「いや、別に、全然怒ってないですけど」
「でも……シーナ&バケッツは、シーナとバケッツ――健一のユニットなのに、私の、シーナの都合でしか話してなくて」
「元々シーナがリーダーというか、シーナのためのユニットですからね。僕は、基本的にシーナが決めたことに協力するってスタンスなので」

 イコールどうでもいいわけではないのだが、健一の行動理念は、日奈の本当の望みを叶えることだ。
 そのためにデビューが必要なら、出来得る限りの協力もする。問題は、本来の目的に反しているかどうかで、正直今回の話は微妙なところだ。佳奈と結ばれることが第一なのに、メジャーデビューなんてしてしまったら、確実に忙しくなる。シーナが言ったようにライブもできなくなるし、会える時間も減ってしまうのではないか。
 恋愛事には疎い健一から見ても、そういうパターンで長続きする例は少ないと思う。
 いくら佳奈がデビューしてほしいと言っていても、別れることになってしまったら本末転倒だろう。
 ……肝心の当人に、そういう未来がさっぱり見えていなさそうなのが最大の問題かもしれない。

「協力するって割には、ちょっと反応薄くなかったです? もしかしてテレビとか駄目なタイプですか? だからマスコミは、とか言っちゃう感じですか?」
「そもそもあんまり観ないので、特別そういうポリシーもないですけど……やっぱりバンドとかって、ボーカルが一番目立つじゃないですか。スタッフの人も、シーナ目当てだったと思うんですよね」
「ユニットのリーダーはシーナだから、それはある意味当然じゃないですか? 私、スタッフの人が名乗る前から観察してましたけど、ちゃんとバケッツのハーモニカも真剣に聴いてましたよ」
「えっと……名乗る前から気付いてたんです?」
「だって、シーナ&バケッツの観客は大半が中高生の女の子なのに、スーツ姿でもない初見だろう大人があんなに混ざってたら、明らかにおかしいですよ。何しに来たんだろうって思いません?」
「……それもそうですね」

 これっぽっちも考えていなかった。
 どうも自分は他人に対して興味が薄いというか、余裕がないというか。
 バケッツの時は、演奏で必死なところがあるから特にそんな感じだ。

「で、ホントにデビューってことになったら、どうしましょうか」
「とりあえず、両親には話をしなきゃいけないですよね」
「ですね……」
「ああ、そういえば、錦織さんが前にシーナのことプロデビューしてみせるって言ってなって。今回の件って錦織さんが関係してるんですかね」
「私は会ったことないからわからないですけど、健一の話を聞いた限りだと、こういうのは自分から来る人だと思いますよ。自分がプロデュースする相手を、他人に任せるタイプじゃないかなって」
「言われてみれば、そんな感じはしますね」

 全くの別口ということか。
 しかし、ある意味シーナはエリが予約済とも言えるわけで、テレビ出演を期にエリの関係ないところでデビューの話が出てしまったら、ダブルブッキングになったりするのだろうか。

「……デビューすることになったら、錦織さんに話は通した方がいいかもしれませんね」
「んー……説明すれば、両親に話す時、私のことも誤魔化してもらえるかなあ」
「誤魔化すって、シーナの正体についてですか?」
「もうお母さんにはバレちゃってるし、お父さんもたぶんいいって言ってくれるとは思うんですけど……佳奈ちゃんのこととか、ありますし。お母さん、変なところで頑固だから」

 少しむくれた言い方に、健一は苦笑を漏らした。
 あのマイペースさは、裏返せば自分を曲げないことにも繋がるはずだ。
 本当に駄目なことに対しては、決して頷かないところがあるように思う。

「波奈さんさえ味方につけられれば、何とかなりそうですけど」
「シーナ&バケッツのことを認めてくれてるなら、デビューしても大丈夫、だとは思うんですけどね……」

 親としての芯を持つ波奈は、日奈の――子供の強い味方になってくれるだろう。
 困っていたら手を貸すし、心からしたいことがあるのならフォローもする。決して突き放しはしない。健一の、両親のようには。

「……お母さんは、きっと佳奈ちゃんの味方をするんだろうな」

 日奈の声は平坦で、けれど言葉尻が震えていた。
 だから健一は、ほんのちょっと距離を詰めた。肩が触れそうなところまで、日奈に近付く。
 自分は日奈の味方だと、行動で示す。

「どこかで、本当のことは言わないといけませんよね」
「嘘なんて、永遠に吐き続けられるものでもないですからね……。はふぅー」

 気の抜ける溜め息を落とし、それから日奈は健一を見た。

「健一は大丈夫なんですか?」
「え? ……ああ、僕もデビューするって話です?」
「むしろなんで健一はデビューしないんですか」
「いや、錦織さんもシーナだけのつもりでしょうし、別に僕は必要ないかなと」
「シーナ&バケッツは、二人のユニットだって言ったじゃないですか。シーナが本物になれたのは、バケッツが……健一がいたからだって、言いましたよね」
「僕はきっかけに過ぎませんよ。日奈と佳奈さんが付き合い始めたとして、その間にいつまでも僕がいるのは、やっぱりおかしいって思うんです」
「それは、そうかもしれませんけど……」
「別に自分が要らない人間だっていうつもりはありませんよ。でも、僕はあくまでおまけなんです。日奈が願いを叶えるための、踏み台みたいなものですから」

 わざと露悪的な言い回しをしたが、本当に健一はそう思っていた。
 力になりたかった。彼女の険し過ぎる道行きを助けられれば、それだけでよかった。

「嫌、なんですか?」
「そんなことはないですよ。ライブしてるといろんな人が来てくれて、僕の拙い演奏でも聴いてくれるし、ハーモニカが上達するのも楽しいです」
「じゃあ、今より上を目指そうって思わないんですか?」
「……思わないですね」
「なんでですか。思いましょうよ。一緒に上を目指しましょうよ」
「ちょっと待って、落ち着いてください。シーナ&バケッツの目的は、日奈が佳奈と結ばれることでしょう。二人でデビューしてそっちが疎かになったら、本末転倒じゃないですか」
「それも、そうですけど……! も、もっとやる気見せましょうよ。健一は淡泊過ぎです」
「淡泊……」
「もうちょっと本音とか言ってくれていいんですよ。私のことばっかり考えて、気を遣わなくてもいいんです。どっちかしか駄目なんて、そんなことないはずなんです。欲張ってもいいじゃないですか。両方手に入れる道だって、絶対あります。私は、そう思うんです」

 なのに日奈は、取り零したくないという。
 一番大切なものだけでなく、全部、抱えていたいのだと。
 すぐに言葉は返さなかった。真っ直ぐぶつかってきてくれている日奈に対して、中途半端な気持ちで向き合うのは失礼だ。
 だから、思考をまとめられるだけの間を以って、健一は口を開く。

「あのマンションの十三階って、不思議なところですよね。電気も水もガスも使い放題だし、鍵を持ってなければ入ってこられない。高校生の僕達がやっていけるのは、あそこがあるからこそです」
「……はい」
「でも、ずっとそれに甘えてちゃいけないのかなって。前に綾さんが言ってたんですけど、あの場所は、いつか大人になったら出ていくところなのかもしれません。頼り続けちゃ駄目だと思うんですよ」
「それって、何だか親離れするみたいですね」
「たぶん予行演習みたいなものなんです。今まで上手く生きられなかった僕達が、きちんと心の準備をするための」
「心の準備、ですか」

 噛み締めるように、日奈が呟く。
 いつか、大人になれば、みんな別々の道を行く。
 ずっと一緒にいられるなんてことはない。必ず別れの時は訪れる。
 その始まりが“ここ”なのだと、健一は感じていた。自分達を大きく動かしていく現実は、確かに迫ってきている。

「本当に必要なら、僕も頑張ってシーナに付いていきますよ。でも、僕がいなくなることで日奈と佳奈さんの関係が上手くいくんだとしたら、その時はちゃんとお別れしましょう」
「……何だかこれじゃ、私だけが我が儘言ってるみたいじゃないですか」
「そんなことないです。シーナは……日奈は、それでいいんだって思いますから」

 自信満々で、不敵で、欲張りで。
 未来を信じて疑わない、バカだけどカッコいい男の子。
 健一にとってのシーナは、そういうものだ。
 変わらないでいてほしい。
 変わらなければいけない瞬間が、遠からず来るのだとしても。

「私、諦めませんからね」
「はい」
「やれること、全部やってみせますから」

 あとはもう前を見て、歩くだけだった。
 健一も、日奈も知っている。
 どんなに手を尽くしたところで、誰も望む結末の保証はしてくれない。
 このまま突き進んでも、悲しいことになるだけかもしれない。
 そう思いながらも、それでも、止まることだけはできないのだ。
 戦うか、諦めるか。
 たったふたつの選択肢を前に、日奈は戦う道を選んだ。
 健一はその答えを、尊重したい。
 勝ち目がないだなんて、そんな程度、諦める理由にはならない。

「……できますよ、日奈になら」
「私も……できるって信じてます」

 何を、とは言わなかった。
 日奈の、ともすれば聞き取れないほど微かにあった声の震えには、気付かないふりをした。










 翌日はお互いけろっとしたものだったが、肝心のシーナは何故か1305で着替えてからすぐ、ライブには間に合わせるからとひとこと残して早々に外出してしまった。平日なので学校が終わった後、直接1301に来て待ち構えていたわけだが、中に入らず玄関扉を軽く開けての一方的なコメントである。どこに行くのかと訊く間もなかった。
 これが佳奈とのデート前なら、いつもの調子で惚気をかますだけだろう。そうでないということは、他に目的があるのかもしれない。ちらっと見えた表情は真面目だったし、おそらくライブに関わる何かだと思う。ただ、具体的な内容はさっぱりわからない。

「随分急いでたみたいね」
「何なんでしょうね……」

 夕食前に台所周りを整理していた冴子が、小さく首を傾げた。
 健一は苦笑を返し、シーナの行き先に対して想像をめぐらせてみるも、特に思いつかない。

「こないだのテレビ出演に関係あるのかしら」
「かもしれませんけど、うーん……」
「シーナ君にも友達がいるのなら、その人達にテレビ出演の話をしにいったのかもしれないわ」
「……ああ、それは有り得ますね。最初にライブした時、シーナに話しかけてきた人がいましたし」
「他には、サクラのお願いとか」
「サクラ?」
「私は二人のライブにどれくらいの人が来てるか知らないけど……撮影するんだったら、観客は多い方が見栄えもいいでしょ?」
「……なるほど」

 あまり人が多過ぎると緊張してしまいそうだが、事ライブに関しては鋼の心臓持ちなシーナにとっては、ギャラリーが増えたところでさしたる問題にもならないだろう。プロデビューへの足掛かり、アピールであると考えれば、効果的な手とも言える。

「僕も、そういうことをした方がいいんですかね」
「どうなのかな。手伝ってほしかったら、シーナ君は絹川君に直接言うと思うのよね」
「まあ確かに」
「絹川君はどうしたいの?」
「シーナがライブに向けて手を回してるなら、こっちでもできることはしておきたいです。でも、いったい何をすればいいのか」
「……告知とか?」
「告知……ライブ中止の時みたいに、ポスターとかで宣伝するってことですか」
「うん。テレビ出演の話って、表には出てないんでしょ? 口止めされてなければ、効果はあるんじゃないかしら」
「口止めはされなかったですね。一応後でスタッフの人に確認してみますけど……となると、綾さんの手が空いたらお願いしてみますかね」

 引きこもりもそろそろ一週間に突入するので丁度良い。
 不定期に冷蔵庫の中身(主にプリン)が消えたり増えたりしたのを確認しているので、一応無事なのはわかっているのだが、いい加減まともな食事が欲しい頃だろう。
 ひとまず胃に優しそうな料理を作ろうと立ち上がったところで、玄関から些か怪しいリズムの足音が聞こえてきた。

「うはよー」
「おはようございま……じゃなかった、こんばんは、綾さん」

 釣られてそう返しかけ、今の時間帯を考えて言い直した。
 冴子は特に躊躇うこともなく、こんばんは、と声を掛ける。
 二人の挨拶に、綾は嬉しそうに目を細めてから冴子の隣に腰を下ろした。

「ねえねえ、さっき私の話してた?」
「ええと、はい、してました。実は今度、僕とシーナがテレビに出ることになりまして」
「それと私にどんな関係があるの?」
「宣伝用のポスターを、できれば綾さんにお願いしたいなと」
「いいよー」

 滅茶苦茶軽い了承だった。
 二つ返事どころか、ほぼ全肯定に近い反応に、色々と心配になってくる。
 綾は眠たげに目を擦りつつ、すんすんと鼻を鳴らして健一の方に視線を移した。

「なんかいい匂いするね」
「昨日の残りの魚出汁があったので、それでおじやを作ってます」
「私も食べていいの?」
「むしろ綾さん用ですよ」
「やったぁ。結構お腹空いてるみたいだから嬉しいな」
「作業は落ち着きました?」
「残りは細かい仕上げだけだよ。明日にはできると思う。そっちが終わったらポスターも作るから、その時は健ちゃんも手伝ってね」
「わかりました。おじやはもうちょっと待ってください」

 土鍋の魚出汁から粗を網で掬い、火を通す。冷凍してあったご飯をレンジで解凍する傍ら、昨日使った残りの三つ葉と葱を適度な大きさに切り、小さい器に卵を溶いておく。
 出汁が充分な温度になってから解凍したご飯と葱を入れ、解しながら温める。次いで溶き卵を注ぎ、火を弱め、鍋全体に散らしてから蓋をする。タイミングを見極め、火を止めたらお玉でよく掻き混ぜ、軽く醤油で風味付けをして三つ葉を乗せれば完成だ。

「はい、熱いので気を付けて食べてください」
「いただきまーす!」

 小さな器にお玉でよそい、スプーンで綾が食べ始める。
 案の定冷まし損ねてはふはふと熱そうにするので、ぼんやり綾を眺めていた冴子が、機敏な動きで麦茶をコップに注ぎ差し出した。それを一気に飲み干し、またがつがつと食べ進めては火傷しかける。よっぽどお腹が空いてたんだな、とまな板を洗う健一の頬が緩んだ。
 しっかり鍋を空にして、ごちそうさまでしたと手を合わせる。
 土鍋と食器を片付け、一息吐いた綾は、だいぶ元気を取り戻したようだった。

「おいしかったよ。最近プリンしか食べてなかったから、あと一日経ってたら部屋で倒れてたかも」
「わかってるんならもっと早く出てきてほしいんですけど」
「あはは、ごめんね。やっぱり集中してると時間忘れちゃうんだ。でも、鍵は閉めてなかったから、いざとなったら健ちゃんが助けてくれるんだよね?」
「今日出てこなかったら、鍋持っていくつもりでしたよ」
「そっか。えへへ」

 笑う綾から、健一は咄嗟に目を逸らしてしまった。
 先日キスされた時のことが、脳裏にふっと蘇った。
 気の所為でなければ、笑顔の質が変わったように思える。
 綾の隣に座る冴子が、何かを悟ったように瞼を揺らした。

「あ、そうだ、さっきのポスターの件なんだけど」
「ちゃんと手伝いには行きますよ」
「それもだけど、描く代わりにひとつお願いしてもいい?」
「……エッチなのでなければ」
「えー」
「僕がそう言わなかったらどうするつもりだったんですか……」
「冗談だよ。ほら、最近お仕事頑張ってた私に、ご褒美ほしいなって」
「それはいいですけど」
「勿論エッチなので健ちゃんがいいって言うなら、私もそれでいいよ?」

 前までの綾なら、直接的なアプローチをしてきただろう。おもむろに健一の横に付いて、腕を組んで胸で挟むくらいはしたかもしれない。が、綾は座ったまま、自然体で問いかけてきた。
 咲きほころぶ花を、健一は連想する。
 ――ごめんね。でも、いつでもしたいって、私は思ってるから。
 リフレインした囁きが、心の肌をざわりと撫でた。
 湧き上がる薄い顔の火照りを誤魔化すように、健一は首を横に振る。

「是非ともそれ以外でお願いします」
「じゃあね、そのライブが終わってからでいいから、一緒にお出かけしてほしいの」
「お出かけですか。どこにです?」
「んー……内緒」
「内緒って」
「当日まで秘密ってことで。健ちゃんの都合のいい日で大丈夫だから。私は作業してる時以外ならどうにでもなるし」
「……じゃあ、行ける日がわかったらお知らせします」
「よろしくね。さて、私は残りの作業してくるねー」
「あ、はい。いってらっしゃい」

 ぱたぱたと、今度はしっかりした足取りで出ていった綾の背を眺め、しばし微妙な空気が続く。
 先に口を開いたのは、冴子だった。

「……絹川君、綾さんと何かあったの?」
「まあ、あったというか、何というか……」

 キスされて、告白されました。
 そう言えばよかったのかもしれないが、何故か冴子には伝えられなかった。
 毎夜の如く交わす彼女との口付けと、あの時の綾とのそれは、明らかに何かが違った。

「とりあえず、ちょっと早いですけど、僕らもご飯食べましょうか」

 その“何か”の正体を考えたくなくて、話題を変える。
 冴子は追及しなかった。そのことを、有り難いと思ってしまった。



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何かあったらどーぞ。