冴子と食事を済ませてから、健一は少しばかり早く外に出た。
 若干暇になったのもあるが、シーナが来る取材日のために何かをしているかもしれないと知って、落ち着かなくなったのだ。綾に頼んだポスターは明日にできるだろうから、とりあえずそれを貼れる場所を探すことにした。
 これまで何度かライブが中止になっているが、その際は駅前を使わせてもらっていた。暗黙の了解としてアマチュアの人間が利用しているスペースで、シーナ&バケッツも便乗している。あまり継続的に貼っていると清掃員が剥がしに来るので、今回の告知にはちょっと向かない。
 ライブ後に話をすれば、いつも見に来てくれているファンには伝わるだろう。しかし、折角の機会なのだから層を増やしたい。シーナ&バケッツを噂でしか聞いたことのないような、まだそこまで興味を持っていない人達を引き込めれば――。

「……難しいかな」

 駅前以上に人通りの激しいところはそうそうない。
 不特定多数が訪れ、かつゆっくり腰を据える場所があればと考えて、健一は苦笑した。
 その発想は些か都合が良過ぎやしないか。
 大通りから駅前に出て、迂回して向こう側へ。先日シーナと追いかけっこをした商店街に入り、左右に並ぶ看板を適当に眺める。服屋に肉屋、総菜屋、八百屋など、駅前とはまた違うラインナップだ。ちらほらと見えるのは喫茶店か。

「あ……そっか、喫茶店」

 店にもよるだろうが、さっきの厳しい条件に概ね当てはまる。例えば店内の目立つところに貼ってもらえれば、充分な宣伝効果を見込めるだろう。
 とはいえ、いきなり知らない店に頼むのも難易度が高い。というか迷惑になりかねない。
 そうなると、健一がお願いできそうなのは、一箇所しかなかった。

「有馬さんは1301にいたし、大丈夫……だよなあ」

 ぼやきつつも、行き先を決めてからは早かった。商店街のアーチを抜けてすぐ、記憶を深く掘り起こすまでもなく見つけた扉を、健一はそっと開ける。
 カウンターでは、早苗が顔から突っ伏していた。
 えっ、と思わず声が漏れる。控えめなベルの音に、のそっと上半身を起こした早苗は、健一の姿を認めるや否や、明らかに怪しい足取りで近付いてきた。肩を掴まれ、縋り付くような上目遣い。

「絹川君、ちょうどいいところにぃ……」
「ど、どうしたんですか? 随分ボロボロみたいですけど」
「なんか今日はお客さんが殺到したのよ……」
「それはいいことなんじゃ」
「確かに売上はよくなったけど、お昼を食べる時間もなくて」
「えっと……つまり、お腹が空いてるだけ?」
「うん」
「強盗にでも遭ったのかと思いましたよ」
「そんな酷い顔してた?」
「ええ、まあ。この世の終わりみたいな」

 女性として見せてはいけないレベルの焦燥っぷりだった。

「普段はちっとも来ないのに、今日だけひっきりなしでね。目が回る忙しさだったわよ。冴子ちゃんにヘルプの電話もしたんだけど、これが全然出なくて参っちゃったわ」
「あれ、有馬さんって携帯持ってましたっけ」
「ううん。私が聞いてるのは家の番号ね」

 健一と話して張り詰めていた気が抜けたのか、半ば後ろへ倒れるようにカウンター側の席に早苗が座った。妙に男らしい仕草で肩を回す様子を見ながら、健一は内心で首を傾げる。
 元々実家にいないのに、何故冴子は家の番号を教えたのだろうか。
 十三階はそもそも電話番号が存在するかも微妙なので、他に選択肢がなかったのかもしれないが――何か、冴子にとってすごく大事なことのような気もする。
 それが何かまでは、健一にはわからないが。

「もう落ち着いたみたいですけど、お昼は食べないんですか?」
「食べたいんだけどねえ。近くで買ってくるにしても、お店空けなきゃいけないし」
「僕が留守番しましょうか?」
「さすがにそういうわけにもいかないでしょ。お客さんが来たらお待たせすることになっちゃうもの」
「一応ブレンドくらいは淹れられると思いますけど……」
「他のもの頼まれたら困るでしょ? それに今日は幹久が来るのよ」
「幹久っていうと、モン・サン・ミシェールの?」
「あら、絹川君は幹久のこと知ってるの?」
「直接会ったことはないですね。錦織さんから話を聞きまして」
「ふうん、エリも知ってるんだ……。じゃあ、荊木圭一郎って名前には聞き覚えある? 最近テレビにも出てる事業家なんだけど」
「……ないですね」
「そっかー。圭一郎も知ってたらほぼコンプリートだったのに」
「コンプリートって、何がです?」
「私の親友……あ、いや、親友って言っちゃうと微妙なところだけど、まあその話はいいのよ。コーヒーだけだと寂しいかなって思ったから、ケーキを出すことにしてね。それで幹久に頼んだの」
「でも辻堂さんってお店の偉い人だったような」
「あいつは私にいっぱい貸しがあるから。多少の無茶は利くのよね」
「……なるほど」

 としか言えなかった。
 エリも大概だと思ったが、早苗はいったいどういう経歴を持っているのだろうか。
 喫茶店のマスターで、小説家で、世界的に有名なパティシエに大量の貸しがあって……どう考えても盛り過ぎだ。
 こうなると、先ほど彼女が口に上した荊木圭一郎という人物も、とんでもない立場にいるのかもしれない。

「ともかく、マスターの私が不在って状況は作りたくないのよ。だから申し訳ないけど、昼食お願いしてもいいかしら」
「まあいいですけど……どこかで買ってきます?」
「厨房と材料はあるから、もしできるなら何か作ってくれると嬉しいかな」
「ん……そういうことなら、ちょっと見させてもらいますね」

 どうやら立ち上がる気力もないらしく、芯のない動きでカウンターの奥を早苗が指差した。健一は軽く頭を下げ、示された通りの場所に踏み入る。
 カウンターを挟んだ反対側、席からは隠れてほとんど見えない位置に、ガスコンロが二つ。冷蔵庫や調理器具はこじんまりとしたキッチンの下にあった。ざっとチェックした限り、錆びて使えないということもない。
 有り合わせの材料から瞬時にレシピを脳裏に浮かべ、調理を始めた。
 火加減だけは慣れていなくて上手くコントロールできなかったが、あとは普段と大差ない。手早く完成させ、皿に盛りつけた料理とフォーク、スプーンを早苗の前に置いた。

「ナポリタンです。これくらいしか作れそうになかったので」
「いや、充分過ぎるくらいよ。もう匂いだけでも涎出てきそう」

 本当に、お腹が空いていたのだろう。
 いただきますと手を合わせた瞬間、物凄い勢いでパスタが口の中に消えていった。
 ナポリタンはその性質上、具が最後まで残りやすい。早苗も途中まではパスタばかりを食べていたが、皿の底が見えてくると、スプーンを器用に使って野菜や薄切りのウインナーを一緒に減らしていく。
 完食までは、十分も掛からなかった。
 女性としては相当に早い。なのに口元がほとんど汚れていない辺り、食べ方が上手いのだろう。

「ごちそうさまでした。はー、おいしかった! もしかして絹川君天才じゃない!?」
「普通だと思いますけど……。コンロの感じに慣れてなかったので、少し水気が残っちゃってましたし」

 茹で上がったパスタと具材を炒める際、想定より火力が弱かったのだ。
 強過ぎれば乾いた舌触りになってしまうが、弱いと特に野菜が水っぽくなる。

「何、これで絹川君的にはまだまだの出来なの?」
「別に元から大したものは作れませんけど、気持ちとしては七十五点くらいですかね」
「この出来栄えで七十五点なら、私が作ったら三点ね」
「三点って」
「どうもべちょっとしちゃうっていうか、油っぽいというか……見た目もでろんとしてるし、食べると飲み込んだ後もずっと口の中に残ってるみたいになるし、まあ酷いものだったわよ。そんなのでも文句ひとつ言わずに食べてくれる人はいたんだけど、いつまで経っても上手くならなかったから、そりゃ離婚してくれって言われるわよねえ」
「……離婚されてたんですか?」
「このお店、その時の慰謝料を無駄遣いするために作ったのよ」
「無駄遣いって言いきっちゃうのもすごいですね……」
「こっちは半分趣味というか道楽みたいなものだから。私は私で少なくない稼ぎがあったしね」
「物書きですか」
「ええ。何故かそっちが順調でね。一人でも何十年か暮らしていけるお金があるのよ。でもそれが悪かったのかもしれないし……男の子って難しいわ」

 プライドとか、そういう話なんだろうか。
 健一にはとんと縁のない考えである。
 生まれてこの方、男の立場とかプライドとかにこだわった覚えがない。

「絹川君はさ、こんなに料理上手いけど、料理人になろうって思ったことはある?」
「ないですね。必要に駆られて始めたことですし、特別好きってわけでもないので」
「好きじゃないんならしょうがないわね。でも、世の中には必要に駆られてやってみても、何ともならない人が結構多いのよ。それをどうにかできちゃうのも、一種の才能と言える」
「……いまいちピンと来ないですね」
「勉強や運動なんかもそうだけど、どんなに頑張っても成績が振るわないって人は必ず一定数いるわ。とりあえずやってみてできた、ってその人にとっては簡単な話かもしれないけど、できない人から見れば羨ましいし恨めしいわよね」

 早苗の言葉を聞いて、綾と蛍子の姿が脳裏に浮かぶ。
 好きな気持ち、やる気だけが物事の優劣を決める要素ではない。いくら努力を重ねたところで、時に才能という暴力は凡人の上を軽々と飛び越えていく。
 かつて、まだ高校生だった頃の蛍子が、コンクールのために描いたという絵を持って帰ってきたことがあった。捨ててしまおうか、なんて言ったから、そうするくらいなら自分がもらうと告げて、今もそれは健一の自室に飾ってある。
 推測でしかないが、蛍子があれだけ綾に敵愾心らしきものを抱いているのは、コンクールに関係した何かがあったからではないか。全く根拠もない話だ。しかし、そこまで見当違いではないようにも思う。
 健一はずっと姉を見てきた。部活でいつも遅かったし、休日は大抵部屋にこもって絵を描いていた。
 コンクールに出した絵は、彼女の気性を表したとも言える、燃え盛る炎にも似た激しさを示していた。そこから感じたのは、執念だ。たったひとつ、それだけがあればいいと、カンバスの中の全てで訴えてくる。
 蛍子そのものだと思った。だから、好きだったのだ。
 けれどそんな風に、他の誰かが認めてくれるわけではない。仮に十人のうち一人がいいと言ったところで、残りの九人がもっといいものを見ていれば、きっと芸術の世界では意味がないのだろう。
 多かれ少なかれ、物事にはそういう側面がある。

「私が物書きになったのって、昔からの夢だったとかじゃないのよ。高校の時にちょっとまとまったお金が欲しくて、まあ賞金狙いだったのよね。大賞なら百万だからって、とりあえず駄目元で出してみたら一発で通っちゃって。結局金賞……あ、大賞のワンランク下ね、で五十万だったんだけど」
「それでも充分すごいじゃないですか」
「ええ。今でこそ私もそう思えるけど、あの頃は別に大したことないじゃん、って感じでね。そんな調子だったもんだから、大学で友達と酷い口論しちゃったのよ。もう本当に馬鹿みたいなことで喧嘩したんだけど、お互い全く譲らなくて、険悪なまま別れてそれっきり。今は何してるのかしらねえ」
「……ええと」
「あ、あんまり難しく考えなくていいのよ。私の黒歴史っていうか、若気の至りみたいなものだから、適当に聞き流すくらいで丁度良いかな。要するに何が言いたいかって、自分を基準にして何でも考えると、どっかで酷い目に遭うって話。絹川君にはそういう覚えない?」
「まあ、近いようなことはありました」
「詳しく訊いても?」
「ちょっと人には言えない話なので……」
「そっか、残念。いやー、説教臭くてごめんなさいね。で、話戻すけど、絹川君もここでバイトしない?」

 告知用ポスターの貼り先を探していたのに、何故自分はナポリタンを作ってバイトの勧誘を受けているのか。
 当初の目的からどんどん逸れている。

「前に八雲さんも誘ってましたけど、そんなにバイトが必要なんですか?」
「もう一人くらいいてくれればいいな、とは思ってるわ。絹川君の腕はさっき身を以って確認したし、今日みたいなことがまたあると困るし。……もしかして忙しい?」
「忙しくなるかもしれない、って感じですかね」
「何か予定があるのかしら」
「今度、シーナ&バケッツが取材を受けるんですよ。ライブの映像も撮って、テレビで放映するらしくて」
「なるほど。それでメジャーデビューするかもしれないってわけだ」
「はい。そうなったらバイトするのも難しくなるかなと」

 だからすみません、とまでは言わなかったが、健一は断るつもりでいた。
 自分のこれからに対して、責任を持てないからだ。しかし、早苗は右手を顎に当て、考え込む仕草を見せた。うーん、と小さく唸り、

「冴子ちゃんもそうだったけど」
「え?」
「最近の子って、もっと軽いものだと思ってたのよ。所詮バイトだし、適当にやってつまらなくなったら次の日からは来なくなる、みたいな」
「雇う側からしたらそれって困りません?」
「そりゃ困るけど、最初はそういうつもりで始めて、でもやってくうちに、仕事に対して愛着とかやる気とかを見出してくものじゃないかなって。なのに絹川君も冴子ちゃんも、もう責任感を持ってるじゃない。どこで身に付いたのかしら」
「有馬さんはどうかわかりませんけど……僕は、可能性があるとしたら、家のことをずっとやってきたからですかね。基本誰かに頼れることじゃないですし」
「ふうん……。ま、責任感あるならそれに越したこともないか。絹川君、とりあえず今日お試しってのはどう?」
「お試し、ですか?」
「これから続けるかはともかく、一日体験って感じで。それならナポリタン作ってくれた時間から、時給でお給料も出すわ」

 随分熱心な誘いに、段々袖にするのも心苦しくなってきた。
 考えてみる。今日は外出する前に冴子と夕飯を済ませてきたので、ライブまでは暇だ。蛍子が少し気に掛かるが、一応しばらくはちょっと夜遅くなる旨を伝えてある。
 会場までは直行すればいい。ここからだと三十分もあれば間に合うだろう。

「今日もライブ? 何時から?」
「スタートは十時です」
「じゃあ九時までかな。今から四時間、時給は千円で計四千円。日給で払うわ」
「……待遇良過ぎません?」
「そう? 冴子ちゃんはもう少し上だし、絹川君ならお給料相当の働きをしてくれると思うもの。ちなみに、うちは仕事を覚える度に時給が上がってくシステムだから。間違いなく余所より好条件よ?」

 雇い主が早苗でなければ、好条件過ぎて後ろ暗いことがないか疑うレベルである。
 ともあれ、ここまで持ち上げられると、お試しくらいいいかなという気分にもなる。心情的にはすぐ頷いてもよかったが、折角なので当初の目的も果たすことにした。

「すみません、一個だけいいですか」
「何かしら?」
「さっき、取材受けるって話をしましたよね。それで、今告知用のポスターを作ろうとしてるんですけど、できれば店内にそれを貼らせてもらえないかな、と」
「いいわよー。ということは、それでバイトの件も承諾ってことね?」
「まあ、はい、精一杯やらせていただきます」
「よっし! それじゃ、これからよろしくね。絹川君がいれば、メニューのバリエーションも増やせるわねえ。ふふ、とりあえず絹川君がいる時はナポリタンを加えたいんだけど、どう?」
「ええと……僕、そんな頻繁に来るんですかね?」
「忙しくなければお願いしたいところだけど」
「ライブの練習もあるので、シーナ次第ですかね……。あと、土日はなるべく空けておきたいです」

 せめて休みのどっちかは一日家にいろと、蛍子にお願いされているのだ。
 平日は十三階にいる時間の方が長い健一としては、微妙な罪悪感もあってそれを破りたくはなかった。一緒にいてやることの大半は、ベッドや風呂でのあれこれなのだが。

「あら。冴子ちゃんも土日はお休みなのよねえ」
「有馬さんがですか?」

 別に休み問わず働く必要はないが、バイトを楽しんでいる感もある彼女が、わざわざ土日を外していることには違和感があった。健一が知る限り、冴子は土日もほぼ一日十三階で過ごしている。もっとも、四六時中顔を合わせているわけではないので、あるいはどこかに行っている可能性もゼロとは言えないだろう。
 けれど、だとしたらどこに?
 冴子について、まだ知らないことの方が多いんだな、と健一は思う。
 無理に聞き出すつもりはない。話すべき時には、彼女はちゃんと話してくれる。その程度の信頼はある。
 それでも、ささくれ立つ気持ちは否定できなかった。

「はい、エプロン。制服ってわけじゃないけど、とりあえず着けてそれっぽくしてて」

 思い悩む健一に、カウンターの裏に入っていった早苗がエプロンを差し出した。
 コーヒーの色にも似た、シンプルなデザインだ。首に掛け、背中側で紐を結ぶタイプ。
 言われるがままに手早く身に付けて、健一もカウンター側に回る。

「それっぽくというと……」
「お客さんが来たら、愛想良くいらっしゃいませ、って言えばいいわよ。私が次誰か来たら手本を見せるから、それを真似してくれれば大丈夫」
「わかりました」

 と頷いたそばから、表の扉が開いた。
 カランカランと鳴るベルの音。反射的にそちらを向き、健一は小さく頭を下げた。

「いらっしゃいませ」
「……うん、いいんじゃない? 特に問題なし」

 褒められたらしい。
 軽く肩を叩いた早苗が、扉の方に歩いていく。
 弱い逆光に浮かび上がる人影は、どうやら女の子のようだった。背は健一や早苗よりも低く、身近な人間で例えるならシーナ辺りと同じだろう。ショートカットにワンポイントの髪留め、服装はどこか垢抜けているというか、別段高そうでもないのに組み合わせが上手い。露出は少なく、可愛らしさが強調されている。

「すみません、ちょっと遅れましたー」

 声も露骨でない程度に年頃の可愛さがあり、表情からは明るさが見て取れた。両手には白い取っ手付きの箱を持ち、それを揺らさないように気遣っている節がある。健一の位置からははっきり読み取れないが、箱の中心には文字らしきものが書かれている。

「いえいえ、いつもご苦労様」

 自然な仕草で早苗は二つの箱を受け取った。
 それこそバイトの仕事ではないかと、一拍遅れて健一も早苗の方に寄る。

「あ、別にいいのよ。お客さんじゃないから絹川君はのんびりしてて」
「手伝わなくていいんですか?」
「見た目は大きいけど、両方ともケーキだから軽いのよ」

 そういえば『モン・サン・ミシェール』の辻堂幹久が来ると言っていた。
 頼んだケーキがこれらだろう。が、持ってきたのはどう考えても幹久ではない。当人を見たことがない健一にもさすがにわかる。

「今日こそ来いって言ったのに、また幹久はサボり?」
「絶対自分で行くって言ってたんですけど、二号店でトラブルがあったみたいで」
「なら仕方ないわね……。毎度毎度間が悪いんだから」
「ですねー。それで早苗さん、そちらは新しいバイトの方ですか?」
「ええ。ついさっき採用した絹川健一君」
「ついさっきって、いきなり実地体験ですか」

 あっけらかんとした早苗の言い回しに、くすりと笑みを漏らしてから、少女は改めて健一に視線を向けた。

「どうもはじめまして、御園尾咲良です。苗字はなんか変なんで、咲良って呼んでください」
「えっと、どうも、絹川健一です。苗字でも名前でも、どっちでもいいですよ」

 おもむろに少女――咲良から差し出された手を、健一は若干躊躇いながら握った。
 女性にしては直接的な触れ合いに抵抗がないというか、ちょっと今までになかったタイプの子だ。綾ほど純粋でもないだろうし、立ち居振る舞いにはどこか、己の可愛さに自覚的な部分がある気もする。

「可愛い娘でしょ」
「そうですね」
「アイドルの卵なんだって。スカウトされたんだっけ?」
「あ、はい。駅前歩いてたらいきなりって感じでした。けどまだ卵なんで、これからデビューとか全然当てもないんですよ? 毎日レッスン漬けです」
「なるほど……。でも、スカウトされたってことは、きっと目があるとプロが思ったんですよね。すごいじゃないですか」
「なんかストレートに褒められると照れますねー……。結構事務所大手ですから、私もそう思いたいところです。ま、しばらくは下積みに専念ですね」
「その歳で地に足付いてるわねえ。ああ、そういえば、二人はある意味ライバルみたいなものなのかしら」
「ライバル? 健一さんもアイドルの卵なんですか?」
「アイドルじゃないけど、この変じゃ有名なストリートミュージシャンなのよ」
「……もしかして、シーナ&バケッツ?」
「うん、それそれ」
「本当に? シーナ君は外見違いますし、ってことはバケッツの方ですか!? うわあ、バケッツの中の人ってこんな顔してたんだ」

 一歩を詰めた咲良が、下からまじまじと健一の顔を見つめてきた。
 好奇心旺盛な瞳の奥に、自分の困った表情が映っている。

「すみません、こんな顔で」
「え? ……あ、いえ、悪い意味じゃないですよ。というか普通にカッコいいじゃないですか。なのになんでバケツ被ってるんです?」
「最初にライブしようって話になった時、シーナが恥ずかしいならバケツでも被ってろって言ったからですね」
「にしては適当な店売りじゃないというか、すごくいいデザインしてません?」
「知り合いに金工できる人がいるので、その人に頼んで作ってもらいました」
「へえ……。私はてっきり、バンド名は『シーナ&ザ・ロケッツ』のもじりだと思ってたんですけど」
「本人から聞いたことはないですけど、元はそうかもしれません」
「バケツが後付けかどうかは微妙ですね。ふふ、でもそっかあ。いやー、店長には悪いけど感謝しないと。おいしいなあ、私」
「……というか、ライブ見に来てるんですね」
「はいっ。レッスンとかなければ必ず行ってますよ! 下手なアイドルよりよっぽど聴き応えありますし」

 その比較対象は彼女の立場的にどうなのか。
 突っ込みたくもあったが、迂闊に蒸し返すと余計恥ずかしいことを言われそうなので、健一は口を閉ざした。

「二人とも、ずっと立ち話も何だし、席座っていいわよ。ブレンドくらいは出すから」
「えっ? 仕事に戻らなくていいんですか……?」
「だって、お客さんいないもの。この時間の喫茶店なんて、だいたいこんなものよ。だから遠慮しなくていいわ」
「ほんとですか? やった、おいしいなあ、私っ!」

 シーナといい、謎の口調でキャラ付けするのが流行っているのだろうか。
 一切躊躇なく、健一の横を通り過ぎてカウンター席に咲良が腰を下ろした。
 過去にも同じようなことがあったに違いない、と健一は思った。何せ初対面の健一達三人にもブレンドをご馳走したくらいだ。以前にも彼女がケーキを届けに来たのなら、店内の状況次第で早苗はきっとサービスをするだろう。
 そういう人なんだ、と納得半分諦め半分で、健一は念のために訊ねてみた。

「エプロンは着けたままでいいんですか?」
「お客さんが来たら、その時はちゃんと接客してね」

 あとの答えは、二人の前に出されたブレンドが示していた。



 二度目のブレンドも、健一にとっては薄く感じるものだったが、それでも他のインスタントよりはよほど飲みやすい。香りを中心に楽しむつもりで、ゆっくりと飲み進めることにした。
 隣の咲良は、先ほどとは打って変わって静かだった。ポットシュガーをスプーン一杯だけ入れ、ちびりとカップに口を付ける。幸せそうにコーヒーを見つめ、スプーンで音を立てないように掻き回し、また一口飲んではうっとりする。どれだけ早苗のコーヒーを気に入っているか、一発でわかる姿である。
 元々健一は饒舌ではない。何も会話がない穏やかな時間は好きだし、それを苦痛に感じない性格をしている。しばらくは火に掛かるコーヒーを眺めながら、時折響くカップとソーサーが触れる音、店内に流れるジャズミュージックに耳を傾けていた。
 早苗もしばらくカウンターで道具の整理をしていたが、不意に咲良へと声を掛けた。

「それにしても、最近多いわよね」
「何がです?」
「咲良ちゃんがうちに来るの」
「ケーキはだいたい私が持っていきますからねー。おかげで早苗さんのコーヒー飲めるんで嬉しいですけど」
「私も咲良ちゃんみたいな可愛い娘が来てくれるのは歓迎よ。男が来るより華があるし」
「……やっぱり店長に来てほしいんですか?」
「来てほしいっていうか、私が呼び出してるのに幹久の奴はなんで来ないのかって話よ!」

 一瞬色っぽい話かと勘違いしかけたが、そんなことは全くなかった。
 どちらかというと、舎弟が言うこと聞かなくて不機嫌になっている姉御の図である。
 数ヶ月前までの自分と蛍子の関係を思い出し、人知れず健一の顔色が微妙に悪くなった。
 無論それに気付くことはなく、早苗と咲良の話は続く。

「店長も行く気はあるみたいなんですけど、何故かこの頃トラブルが増えまして。早苗さんのところにケーキ届けるようになった所為だ、なんて言ってました」
「アイツ次あったらシメよう。っていうか、私の所為なわけ?」
「いえ、そうとは言ってなかったですけど、でも本当にここ最近なんですよ。それまでは今のメンバーでちゃんと回せてましたし、本店も二号店も人が入れ替わったりはしてませんから」
「……うーむ」

 咲良や他の『モン・サン・ミシェール』の人間も、現状に困惑しているのだろう。
 聞いている限り、明確な原因があるようには思えない。たまたま偶然が続いて、たまたま早苗に関わる部分で問題が起きているだけなのかもしれない。
 しかし早苗にとっては、そうでないらしかった。
 何かに思い当たったのか、腕を組んで考え始める。
 彼女の顔に浮かぶ怪訝な色に、健一は形容し難い不安を感じた。
 その思考の先に待っているものが、自分にも関わっている予感がしたのだ。

「何か心当たりが……?」
「そういえば、昔も似たようなことがあったなって。圭一郎と幹久が会おうとしたら、集合場所に向かう電車の電線が切れて止まったりとか」
「大事じゃないですか」
「半日近く運転停止になってたみたいね。で、お互い忙しいからまた別の日にって話になったんだけど、丁度約束の日に台風が首都圏直撃して、外出どころじゃなくなったのよ。まあそんな感じで、結局二人は会えたのかしら? その辺聞いてないのよねえ」

 これが恋人同士なら、二人を引き裂こうとする運命が何ちゃら、みたいなフレーズが付きそうな壮絶さである。

「早苗さんの知り合いって、とんでもない人ばかりな気がしてきました」
「エリや幹久、圭一郎くらいよ? 私は小物だし、別にそういうことはないのよね」
「いや、早苗さんも充分……というか、別に早苗さんがどうとかってのは関係ないのでは」
「ま、私はともかく、やっぱ縁みたいなものってあると思うのよ。咲良ちゃんとは予定がなくても結構会ったりするし、最近の幹久みたいに毎回タイミング合わない相手もいるし。別にお互い会いたくないわけじゃないんだけど、ただひたすら間が悪かったり」
「僕は今のところ、そういうのはないですけど……」
「じゃあこれからあるかもね。絹川君は幹久に会ったことある?」
「ないです」
「うちでバイトしてくれるなら、いずれ顔合わせる機会もあるでしょ。その時は紹介するわ。そしたら『モン・サン・ミシェール』でケーキ食べ放題になるわよ」
「さすがにそれは……ちゃんとここで稼いだお金で食べますよ」
「真面目ねえ。いいところでもあるけど、もっと強かになってもいいんじゃない?」
「……そうなんですかね」

 ほぼ初対面の人間にいきなり甘えるのは、健一の性格的に難しい。
 どうしても気後れしてしまうのだ。そこまで自分は親切にされていいのかと。

「早苗さんの言う通りですよっ! 健一さんはちょっと無欲過ぎます!」
「自分としては結構欲求に素直なタイプだと思ってるんですけど……」
「だって、あのお店のケーキ、すっごいおいしいんですよ? 大抵のお店って得意不得意みたいなのがあって、これはおいしいけどこっちはいまいち、ってパターン多いんですけど、うちは一切ハズレなし。こないだ季節限定でザクロのケーキが出て、私ちょっとうぇって思いましたけど、食べたらもうザクロごめんなさいって感じでしたし」
「ザクロってどんな果物でしたっけ」
「見た目グロいやつです。具体的にどんなって言われると説明しづらいですけど……とにかく、何でもおいしく作りますからね、うちの店長は」
「やっぱりすごい人なんですね。僕も前にサギリ・ロールは食べましたけど、おいしかったですよ」
「……あれ、もしかして健一さん、お店に来たことあります?」
「少し前に二回ほど」
「確か、お嬢様と一緒にいましたよね?」
「お、お嬢様?」

 よくよく考えてみればいつの間にか名前で呼ばれているとか、気の所為でなければ微妙に椅子が近付いてるとか、引っ掛かるところもないではなかったが、何よりお嬢様とは誰のことなのか。
 健一が共に足を運んだのは、最初がエリ、二度目が綾と狭霧だ。
 エリはお嬢様という感じではないだろう。綾はもっと有り得ない。となれば、

「八雲のお嬢様のことですよ」
「ああ、狭霧さんですか」
「じゃあ、あれは本当に健一さんだったんですね。実はお嬢様と彼女だったりとかしません?」
「違います。会ったのはあれで二度目ですよ」
「そういえばもう一人いましたけど、そっちの方です?」
「彼女じゃないですが……一応仲は良いというか、その人と来て狭霧さんに会ったんです。バケッツのバケツを作ってくれた人で」
「なんかぽややんとした感じでしたよね。店内でスケッチブック広げてたみたいですけど……芸術家さんなんですか?」
「だいたいそんなところです」

 これで綾の正体を喋ったりしたら、間違いなく早苗と咲良に色々訊かれる。
 無難な逃げ口上で誤魔化し、健一はブレンドを啜った。

「咲良ちゃん、そのお嬢様って?」
「店長の恩人の娘さんなんだそうです」
「この間僕と一緒だった八雲さんの妹さんですよ」
「ってことは彼、お坊ちゃんなの? その割にはファミレスでバイトとか、お金に困ってないって感じじゃなかったけど」
「詳しくは知りませんけど、事情があるみたいです」

 実際はおおよその話を本人から聞いているが、他人にわざわざ教えることでもないだろう。
 幸い早苗はそれ以上追及しなかった。取材に慣れているのもあってか、引き際を心得ている。

「ある意味幹久らしいわね。お世話になった人の娘さんだから丁重に扱ってると」
「みたいです。さっき健一さんが言ってたサギリ・ロールも、お嬢様が最初に試食したからその名前になったんですよ」
「え、そうなんですか?」
「表向きは、ロールケーキに見せかけたケーキだから『詐欺り』って意味だ、ってなってますけど、実際はお嬢様の方が先みたいです」
「……思ってたよりもずっとすごい人なんですね、狭霧さんって」

 商品に名前を付けられるとなると、ほとんど偉人めいた扱いである。
 恩人への感謝の意も込められているのだろうが、狭霧自身に魅力がなければそうはなるまい。

「何言ってるんですか、健一さんだって充分すごいと思いますよ?」
「今を時めくシーナ&バケッツの片割れだものねえ」
「それがすごいってのが、僕にはあんまりピンと来ないんですけど……」
「いやいや健一さん、甘いです。サギリ・ロールより甘いです! もし私が明日学校で、昨日バケッツの中の人に会ったんだー、しかも一緒にコーヒー飲んでお話ししたんだー、なんて喋ろうものなら、同級生の女の子に妬まれて帰りに靴とか隠されるかもしれません」
「すごいというかもうそこまで行くと怖いですね……」
「そのくらいシーナ&バケッツの名前は大きいってことですよ」
「今度テレビの取材受けるんでしょ? 普通ないような話じゃない」
「テレビの取材……もしかして、ストリートグラップラー?」
「あ、はい、確かそんな名前です。有名なんですか?」
「ストリート系のミュージシャン追っかけてる人なら誰でも知ってますよ。ローカル含めてそういう番組っていくつかありますけど、一番アンテナ高くて、しかも深夜とはいえ全国放送です。ストグラに出演したのがきっかけでメジャーデビューしたバンドも、両手の指じゃ足りないですね」
「……今更ながらプレッシャーが」

 つまり、シーナとバケツを被った自分が全国のテレビに映るのだ。
 そこまで来ると途方もなさ過ぎて、逆に現実味が薄い。
 ようやく実感が追いついてきたというべきか、未来の光景を想像し、健一は軽く身震いした。

「いつものパフォーマンスができれば大丈夫ですよ。個人的には、デビュー曲オリコン初登場で七位辺りと見てます。そんじょそこらのバンドじゃ敵わないはずです」
「七位……」
「競合する相手がいなければ、タイミング次第で四位くらいまでいけますかね」

 数字がリアル過ぎる。

「……ま、まだデビューするって決まったわけじゃないですから」
「時間の問題だと思いますけどねー。というか、する気はないんですか?」
「元々そこまでの覚悟で始めたことじゃないので、むしろ困ってるんですよね」
「それはなんか勿体無いですねえ。健一さんのハーモニカ、本当にすごいのに」
「みんな何故かそう言うんですけど、自分じゃわからないですよ」
「んー……シーナ君の歌は、まあわかりやすくすごいじゃないですか。良く伸びて、良く響いて、高音や低音にもブレが全然ないし、感情表現も上手い。全部が高水準です。でも、健一さんのハーモニカは、技術とは別のところに良さがあると思うんです」

 残り少ないコーヒーをスプーンで掻き回し、咲良はちびりと唇を濡らした。
 まとまりきらない考えを、一息置いて脳内で整理しながら、

「私、スカウトされてからレッスンでプロの先生に教えを受けてるんですけど、やっぱりハーモニカってそう見るものじゃないんですよね。だから健一さんのが初めてで、ハーモニカってすごいんだって勘違いしてたんですよ。それから先生にお願いして、上手い人の演奏を聴かせてもらったら、バケッツの演奏ほど胸に来るものはなかったんです。具体的な違いを説明しろって言われたら、ちょっと難しいんですけど」
「……やっぱりいまいちわからないですね」
「なら、私が保証します。健一さんはすごいですから、自信持っていいです」
「ええと、それはありがとうございます。……こういうのって、客観的に聴かないと気付けないのかもしれないですね」
「だったら、テレビで放送した時に聴いてみたらどうです? きっと実感出てきますよ」
「見る予定はあるので、そうしてみます」

 苦笑混じりで頷いた健一に、咲良が快活な笑顔を返す。
 そんな二人を眺めていた早苗は、そろそろブレンドを飲みきりそうな咲良にお代わりを訊ねたが、さすがに二杯目は、と遠慮され、何故か残念そうにしていた。どうも気に入った相手には、過剰なまでにサービスしたがる傾向があるらしい。
 健一の分はまだ三分の一ほど残っているが、さっきから早苗の視線がこちらにも向いているのを感じていた。なので一気に残りを飲み干し、声を掛けられる前に立ち上がる。ナポリタンを作る際、流し場の場所も覚えていたので、そのまま流れでカップとソーサー、スプーンを洗った。悲しいことに、早苗の昼食作りを除けばそれが初のバイトらしい作業だった。
 水切りかごの類が見当たらないため、適度に雫を払って水気を拭き取っていると、咲良の登場以来沈黙を保っていた扉が数十分ぶりにベルを鳴らした。先ほどまでコーヒー片手に寛いでいたのが後ろめたくもあり、ようやくまともに仕事ができるとカウンターから席の側に回る。
 顔を見る前に、いらっしゃいませ、と声を張った。

「あら、絹川君じゃない。エプロンなんて着けちゃって、もしかしてアルバイト?」

 来客の正体は波奈だった。
 しっかり頑張ろうという意気込みが音を立てて砕け散った。

「波奈さん」
「一時間前くらいにバイトとして雇いました」
「そうなの。じゃあこれからは早苗ちゃんの店で絹川君とお話しできるのね」
「一応お給料もらう立場なので、ゆっくり話す時間はあんまりないと思いますけど……」
「だいたい人のいない時に来るから大丈夫よ」

 主婦だもの、とお茶目にウインクする波奈には、相変わらず実年齢を感じさせない若々しさがある。
 カウンターに近付き、しれっと健一の手を引っ張って、直前までいた席に再び座らせた。その隣、咲良とは反対側に波奈も座り、メニューも見ずに言う。

「早苗ちゃん、ブルーマウンテンね」
「奢りませんよ?」
「いいわよ。タダで飲むのもいいけど、有り難味がなくなっちゃうもの。それに、月に一度だけ贅沢するって決めたの」
「その贅沢にうちを選んでもらえたのは光栄ですね」
「ふふ、早苗ちゃんのコーヒーはおいしいから。絹川君もそう思うでしょ?」
「確かに、なんか一味違うというか、深みがありますよね」
「不思議よねえ。この店の豆をちょっともらって、自分で試してみたりもしたんだけど、早苗ちゃんほど上手くは淹れられないのよ。私には真似できそうにないわ」
「……褒めても奢りませんよ?」
「有り難味がなくなっちゃうって言ったじゃない」
「その割には、絹川君をダシにしようとしてませんでした?」
「タダで高いものを飲めるってのも、それはそれで有り難いだと思わない?」

 つくづく油断ならない人である。
 にこやかに言い放った波奈には答えず、早苗は棚から豆を取り出し始めた。
 ブレンドと違い、銘柄があるものは挽くところからなのだろう。

「時間掛かりますからね」
「楽しみに待つのがいいんじゃない」
「わかりました。しばらくお待ちください」

 事務的な宣言を最後に、早苗は作業に集中した。
 もっとも、口調ほど声色は硬くもない。むしろ仕方ないなというような空気を含んでいた。
 何となく二人の関係性が見えて、健一は少し感心する。
 自分とシーナのそれに一番近いのかもしれない。

「ところで絹川君」
「はい?」
「そちらの可愛い女の子は、絹川君の彼女かしら?」

 前にほとんど同じ問いかけを聞いた気がする。
 日奈といい咲良といい、どうしてこう、人の恋愛事情を知りたがるのか。
 ともあれ、ここで黙っていたら妙な勘違いをされかねない。

「違います。モン・サン・ミシェールってお店からケーキを届けに来てくれてる子だそうで」
「御園尾咲良です。健一さんとは今日が初めてです」
「窪塚波奈です。マスターの早苗ちゃんとは親戚で、私が早苗ちゃんの叔母なの」
「なるほど……早苗さんの叔母ってことは、早苗さんより年上なんですよね。なのにすっごくお若いというか……あれ、ライブに来てる子に、もしかして波奈さんの娘さんいません?」
「そうよー。双子の母です」
「お姉さんって言っても通用しそうですねっ」
「それほどでもないけど。ふふ」

 否定しない辺り、大変いい性格をしていると思う。
 咲良が饒舌だからか、意気投合はあっという間だった。

「うちは兄が一人いて、結構離れてるんです。だからってわけじゃないかもしれませんけど、お母さんは本当普通のおばさんって感じで。アイドルになりたいって言っても、芸能界は怖いところだとか、エッチなことさせられるんじゃないのとか、もういつの時代の話だって思いません?」
「あらあら」
「波奈さんなら、娘さんが芸能界に入りたいって言っても応援してくれそうです」
「軽い気持ちだったら止めるでしょうけど、やる気があったら応援しちゃうかなあ」
「ですよねですよねっ!」

 健一を挟んでの会話だったが、波奈のスタンスについては密かな収穫だ。
 仮にシーナ&バケッツがデビューすることになっても、反対はしないだろう。よほどの迷いがなければ、今の活動の延長線上として、日奈のやることを否定したりはしない。

「……波奈さんは、そういうのに理解があるんです?」
「娘のやることには理解があるつもりよ。そんな風に訊いてくるってことは、絹川君は芸能界に興味あるの?」
「いえ、特別あるわけじゃないんですけど、ちょっと真面目に考えなきゃいけないかもしれなくて」
「もしかして、バンドやってるって話と関係ある?」
「……はい」
「健一さん、今度テレビの取材を受けるらしいんです」
「そう、なるほど……。それがきっかけで、ってことね?」
「まだ決まってはいないんですけど、話が大きくなったら、そういう選択肢も出てくるのかなと。両親にも相談しなきゃいけないですよね?」
「未成年ならそうでしょうね。ご両親への説明が難しいなら、私が手伝ってあげましょうか?」
「え?」
「絹川君には日奈がお世話になってるんだし、それくらいの力は貸すわよ」
「心強いです。まあ、あんまり日奈さんの世話はできてない気もしますけど……」
「最近毎日のようにうちまで送ってくれてるじゃない。だからって日奈に気があるわけでもないみたいだし、とっても紳士的で親としては助かってます。……本当に付き合ってないのよね?」
「ないです。友達ですから」

 念を押すような確認に、先日ここでしたのと同じ言葉を伝えた。
 別に付き合ってもいいのよ、と言いたげな波奈からそっと目を逸らすと、微妙にカウンターへ身を乗り出した咲良が、やたらキラキラした瞳で健一を見つめていた。

「健一さんっていったい何者なんですか」
「何者って」
「だって、カッコいい上にシーナ&バケッツのバケッツでハーモニカも超上手くて、しかも彼女がいないのに可愛い女の子に下心なしで家まで毎日のように送ってるって……本当に男の人ですか? 非実在高校生だったりしません?」
「一応言っておきますけど、僕はノーマルですからね?」

 断じて男色家の類でも非実在でもない。
 むしろ一般的な男性より肉食だろう。公言できるはずもないが。

「健一さん今フリーなんですよね?」
「まあ、そうですね」
「結婚してください!」
「えっと……ごめんなさい」
「即お断りされましたっ!?」

 叫びながら全く残念そうでないのは何故なのか。

「まあ、今のは冗談……じゃないんですけど。本当に駄目です? 自分で言うのも何ですけど、私かなり可愛い方ですよ?」
「色々あって、そういう気持ちにはなれないので……」
「ですかー。んー、でも健一さん、気を付けた方がいいですよ? 顔も性格もいいと来たら、モテないわけないんですから。下手に女の子に優しくすると、すぐ勘違いされちゃいます。そして刺されます」
「……刺されたくはないなあ。覚えときます」
「はいっ。と、もう随分時間経っちゃいましたね。すみません、そろそろ戻ります」

 ちらっと壁掛け時計に目をやり、咲良が立ち上がった。
 ごちそうさまでした、とカウンターの上にカップとソーサーを置き、律儀に椅子の位置を整える。

「残念。もうちょっと話したかったのに」
「波奈さんはここによく来るんですよね。だったらまた会うこともあると思います」
「そんな慌てて帰らなくても、幹久には私が引き留めたって言っておくわよ?」
「いえ、やっぱり戻ります。私、あのお店の仕事も好きですから」
「そっか。じゃあまた。明日は命に代えても来るようにって、幹久に伝えといて」
「一言一句しっかり伝えておきます。それじゃまたです、早苗さん、健一さん、波奈さんも、次の機会がありましたらその時はよろしくお願いします!」

 何をよろしくお願いするのか、些細な疑問に健一が首を傾げている間に、咲良は店を駆け足で出ていった。わざわざ走る理由はないはずなのだが、彼女なりに気が逸っているのかもしれない。らしいと言えばらしいのだろう。

「面白い子ねえ」
「僕の周りにいないタイプだとは思います」
「本当のところ、絹川君的にはどうなの?」
「どうなのというと?」
「お付き合いしてくださいって言われたじゃない」
「さっきのはもっとストレートだったような……」
「だいたい同じでしょ? 咲良ちゃん、可愛いわよね。日奈ちゃんと比べたらどう?」
「それって非常に答えにくい質問だと思うんですけど」
「おべっかとか考えなくていいのよー。正直に言っても怒らないから、おばさんにだけ教えてほしいな」
「……実は、少し前に告白されまして」
「えっ、誰に!?」
「知り合い……ですかね。年上の人です」
「絹川君はその人のことが好きなの?」
「わかりません。そういう気持ちになった覚えがないものですから」
「なるほどね。告白されたから、他の人にかまけてはいられないと」
「たぶんそんな感じです」

 ――僕は恋愛には向いてない。
 常々健一はそう考えている。それは恋をしたことがないからというだけではなく、いつも心に迷いがあるからだ。複数人と肉体関係を持ちながら、誠実でいられるはずもない。現状を皆に受け入れられているのは、相手が冴子であり、綾であり、蛍子であったからだろう。仮に千夜子や咲良だったなら、それこそ人傷沙汰になりかねない。
 そんな自分でも、誠実であろうとすることはできる。
 他人の心の機微に疎くても、ズレていても、解り合うための努力は必要だ。
 少なくとも綾の告白は、決して軽く見ていいものではない。

「根っこが真面目なんでしょうね」

 不意に早苗が会話に割り込んできた。
 豆は挽き終わったらしく、ずっと響いていた硬質なものを削る音は聞こえない。
 そうしてできた粉を円筒状のガラスの器に入れ、下部に細い何かをセットする。予め湯を沸騰させたフラスコの上にそれを翳し、下部先端のチェーンらしきものをまず湯に付ける。二秒ほど見て早苗は小さく頷き、一旦手元の容器を上げてからフラスコの火を離す。緩やかに沸騰を示す泡が消えていったのを確認して、今度はしっかりとガラスの器をフラスコに差し込んだ。
 またフラスコを火に掛けると、湯がガラスの器に少しずつ上っていく。
 途中、粉を竹べらで円を描くように混ぜ、湯に溶かして馴染ませる。すぐさま火を弱め、何十秒かじっと待ち、火を消して再び竹べらで掻き混ぜる。フラスコから上りきった湯が、透き通った深い色の液体になって、一滴ずつ静かに戻っていくのがわかった。
 つい見入ってしまったが、感嘆すべき手際だ。
 作業が落ち着いたのか、早苗は竹べらを流し場で洗いながら発言を続けた。

「優柔不断とも、自制心があるとも言えるけど」
「そうねー。若いんだし、もっとがっついちゃってもいいと私は思うけどなあ」
「それはちょっと……いろんな人に迷惑掛かりますし」
「あら、いいじゃない。迷惑掛けちゃって」
「……いいんですか?」
「人間ってみんな、失敗して学ぶものでしょ? 大人になるほど失敗するのも難しくなるから、何でも試して失敗を経験するのは子供の特権なのよ。ちょっとやって上手くできちゃったらそれはそれで面白くないし、結局続かないものだわ。頑張ったけど駄目で、それでも続けたいって思えたら、きっとそれが本当にやりたいことなのよ」
「本当に、やりたいこと……」
「好きなことって言い換えてもいいかな。みんなそうやって、自分なりの“好き”を見つけていくの。……絹川君には、そんな気持ちはない?」
「……わからないんです。自分のことなのに、変ですかね」
「自分だから見えないことだってあるわ。みんなおんなじ。知らないことを知るために、人間は失敗を重ねるのよ。だから、間違わないようにするのも大事だけど、間違うことを恐れちゃ駄目。自分のもだけど、他人のもね」

 視界が急に開けたようだった。
 波奈の言葉は諭す響きを含んでいたが、大人故の確かな説得力があった。これまで健一に、そういうことを教える大人はいなかったのだ。きっと当たり前のことでさえ、自分には欠けているのかもしれないと思った。

「まあ、そういうわけだから、間違って絹川君が日奈ちゃんに手を出しても、私は許す気でいるんだけど」

 説得力と感心が儚く霧散した。
 前置きにしてもあんまりな落差である。

「そんな予定はないです」
「えー。絹川君は据え膳を遠慮なく頂かないタイプなの?」
「親が言うことですかそれ」
「日奈ちゃんも満更じゃないと思うんだけどなあ。ねえ、知ってる? 日奈ちゃんおっぱい大きいのよ? 鷲掴みできるくらいあるわよ?」
「知ってま……あ、いえ」
「あらっ、確かめたことあるのね!?」
「事故です! 間違えて、着替え中にドア開けちゃって……」
「でも日奈ちゃんは許したんでしょ?」
「……まあ、はい」
「絹川君、ちゃんと女の子に興味あるのね」
「僕をいったい何だと思ってたんですか……」

 誘導尋問をした挙句にこの揶揄だ。波奈を非難の目で見てしまうのも致し方ないだろう。
 カウンター向こうの早苗が興味津々な表情をしているのは気の所為だと思いたい。
 二人分の異なる視線を浴び、健一は溜め息を手元のカップに落とした。
 さすがにからかい過ぎたと判断したのか、ごめんなさいね、と波奈が謝る。
 雰囲気が悪くならないように、そのタイミングで早苗も割り込んだ。

「ブルーマウンテンです。どうぞ」
「ありがとう。それじゃいただきます……んー、いい匂い」

 カップこそブレンドと同じだが、立ち上る香りは明らかに違う。
 横にいる健一にも伝わってくるほど強く、しかし嫌味はない。
 砂糖やミルクを入れず、ブラックのまま波奈は口を付けた。小さな喉をこくりと鳴らし、嬉しそうに頬を緩めた。

「今、すごい優雅な時間を過ごしてるって感じだわ」
「若い男の子の接待もありますしね」
「うふふ、そうね。これならまた来たくなっちゃうわね」
「是非ともそうしてください」

 いつの間にか接待役になっていたらしい。
 一緒にコーヒーを飲んで話しているだけで、仕事をしている気には全くなれていないのだが、雇い主が問題ないというのならこれでいいのかもしれない。勿論他の客が来たら、すぐ席を立つつもりでいた。

「絹川君」
「……何でしょう?」
「もう、そんな身構えなくてもいいじゃない。ひとつね、ちゃんと訊いておきたいことがあるの」

 カップの中のブルーマウンテンが、八割も減った頃だった。
 改まった問いかけに、今度は何を言われるのかと警戒する。
 波奈は淡い笑みを浮かべてから、真っ直ぐ健一を見つめた。細めた目だけが笑っていなかった。

「あなたは、日奈ちゃんの味方なのよね?」

 肌がぞわりと逆立った。
 冷たい鉄を背中に差し込まれたようだった。シンプルな質問の内に、苛烈な意図が含まれているのを感じた。

(……この人は、感付いてるんだ)

 健一は『親』というものに対して、期待や幻想を抱いていない。社会的庇護下にはあっても、実生活の面では一切頼れなかったからだ。家にいない、話をしない、という環境に、慣れきってしまった。世間一般の親がどういうものかもわからないし、どうあるべきかのイメージもできない。絹川家の親は、いつしか『いなくてもいいもの』になっていた。
 けれど、波奈はそうではないのだ。
 自分の子供を、大事に思っている。守ろうとしている。
 日奈や佳奈を傷付ける相手がいれば、波奈は許さないだろう。だからよく見ている。おそらく、今回の件――シーナと佳奈の関係についても、おおよそ察している。
 彼女ほど聡ければ想像もつくはずだ。あるいはもっと前、日奈の秘めた想いにさえ、気付いていたのかもしれない。その行き先がどこなのかも。
 心臓がきゅっと縮み上がる。息が苦しくなる。
 シーナは……日奈はいつもこんな気持ちだったのだろうか。
 嘘を重ねて、本当の自分を隠して、一番近い人達とも向き合えずにいたのだろうか。
 あるがままでいられないのは、きっと、泣きたくなるほど辛いことだ。
 でも、と思う。
 どんな状況になったって、自分の立場は変わらない。
 世界中の誰もが否定するのだとしても、絹川健一だけは、窪塚日奈の味方でいる。
 そう決めたのだから。

「はい」

 健一は頷いた。波奈にそう伝えることに、迷いはなかった。

「僕は、何があっても日奈さんの味方です」
「……そっか。なら、大丈夫ね」

 残りのコーヒーを躊躇いなく飲み干して、波奈が立ち上がった。
 気を遣ったのか、健一達から離れていた早苗が、物音に反応してレジへと回る。
 ぴったりの金額を支払い、ご馳走様でした、と手を振って、表の扉に手を掛ける。

「絹川君、日奈ちゃんのこと、よろしくね」

 同じ場所で聞いた同じ言葉が、別の意味と重さを以って健一に圧し掛かる。
 それをしっかりと背負って、健一はもう一度「はい」と約束した。










 交換条件の通り『天国への階段』には、綾お手製のポスターを貼らせてもらうことになった。
 取材日までの短い期間、健一とシーナはひたすら練習に励んだ。健一は何度か、冴子とシフトが被らないように早苗の店でバイトもしたが、波奈とは一度も顔を合わせなかった。月に一度の贅沢という話だから、あまり頻繁に訪れるわけではないのだろう。まだ会ってもぎこちなくなりそうだったので、幸いと言えるのかもしれない。
 ポスター告知の効果は上々で、興味を示した客は少なくなかった。さすがにバケッツの正体が自分であることをバラしはしなかったが、なるべく自然な形で人伝を装い、宣伝にも力を入れた。
 そして当日。
 健一の尽力があったかはともかく、開始十分前には既に大量の人だかりができていた。
 というか、普段の三倍くらい多かった。
 思わず「うわあ」と声が漏れる。
 かなり大きな場所をステージに選んだのだが、来客はそこを埋め尽くす勢いで集まっている。
 正直健一は怖気づいていた。
 小学校の音楽会どころか、下手をすれば小規模なコンサートホールを借りた演奏会にも勝る規模の人数である。
 所詮取材って言ってもローカルのストリートミュージシャンだし、と甘く見ていた。こうして具体的な形を示されると、否応なしに掛けられている期待を自覚してしまう。
 ばくんばくん跳ねる鼓動を感じながら、健一はシーナの顔を窺った。
 暗い公園に立つ外灯の淡い光に照らされて、爛々と瞳が燃えている。

「何だよ、緊張してんのか?」
「そりゃあするよ……。シーナは平気なの?」
「むしろ面白くなってきたじゃん。こんだけの人が、俺達の曲を聴くために集まってるんだぜ?」

 言い放つ声には、震えも怯えもない。
 その手に引っ張られて、健一も今ここに立っている。

「いつも通りにやればいいんだよ。客なんてもやしだっつったろ」
「結構いつもも緊張してるんだけど」
「意気地のない奴だな……。まあ、そうなると思って助っ人を呼んどいた」
「助っ人?」
「駅前でやってるダンサー諸君に前座を頼んだから、まずは彼らに頑張ってもらう。充分場が温まったら、本命の俺達が颯爽と登場、盛り上がりはピーク、佳奈ちゃんもきゃー抱いてー! ってな流れだ」

 どこから突っ込めばいいのか。

「聞いてないんだけど、その流れ」
「言ってないからな」
「何で」
「人生サプラーイズ! だ」
「いや、お客さんに黙ってるのはいいけどさ、それをコンビの僕にも言わないってのはどうなのさ。段取りとかあるでしょ」
「だから今説明しただろ? 健一なら大丈夫だって信じてたし、それによく言うだろ」
「……何を?」
「敵を欺くにはまず味方から、ってな」

 無言で頭を叩いた。
 肉体的コミュニケーションに躊躇がなくなってきた辺り、だいぶシーナに毒されてきた感がある。
 シーナは大袈裟に帽子毎叩かれた場所を擦りながら、

「なあ健一、俺達が最初にライブした時のこと、覚えてるか?」

 一歩、ステージの方に踏み出す。
 遠くから届くざわめき。ダンサーが一足先に踊り始めたらしく、微かな声援も聞こえる。
 それらをバックミュージックに、シーナが手を広げた。

「あん時もぶっつけ本番、当たって砕けて上等だったろ? 勢いで演奏して、なんかもう熱に浮かされたみたいでさ、全然何も考えてなかっただろ? でも、俺達の最高潮はこれまでずっと、一番最初のあれだったと思ってる。継続してライブは続けたけど、最近はやって当然みたいになってた。違うか?」
「……うん」
「見てみろよ。あん時からは想像もできない光景だ。知ってるか? 人生はサプライズとハプニングでできてるんだぜ。予定外のことなんて当たり前、いきなりの無茶振りだってこれからきっと山ほどある。けど、俺達はもうそういうのを一回乗り越えてきたんだ」

 また一歩、軽い足音が地面に響く。
 気付けば健一の鼓動は、質を変えていた。

「一度も二度も一緒だろ。思い出せ、あん時の興奮を。楽しさを。これからメジャーデビューするかもしれないんだ、そしたらもっとすげえステージだっていっぱい待ってる。だったら試してみようじゃねーか。この程度で挫けちまうなら俺達はここまで、もっとやれるってんなら、メジャーでも絶対戦える」

 スニーカーの踵が、健一を呼ぶように鳴った。
 前を向いたままのシーナは、光を背負っていた。
 左右に伸ばした腕が、ステージの全てを抱きしめている。

「訊くぜ。俺達、シーナ&バケッツは、ここで終わるような奴らか?」

 顔は見えない。けれど、不敵な笑みが手に取るように脳裏に浮かんだ。
 これでこそ、シーナだ。
 そして燃え盛る恒星に惹かれた、自分がいる。
 ふたりでひとつ。シーナ&バケッツ。
 可能性を掴むために、ようやくこの場所まで来た。
 乗せられているのかもしれない。メジャーデビューなんてする気はないと、今でも思っている。
 けれど、どうしようもなく心が熱いのだ。
 試されている。
 築き上げてきたものが、どんな答えを齎すのか。
 シーナが懸命に伸ばし続けてきた手が、届き得るのか。
 健一は言葉にせず、ただ前に出て、隣に並ぶ。

「今日のライブ、完璧に成功させてやろうぜ。欲張りらしく、全部、絶対手に入れるんだ」

 それは世界への宣言だ。
 健一はバケツを被り、ポケットからハーモニカを取り出した。

「うん。全部、手に入れよう」

 次の一歩より後は、足並みが揃う。ダンサーのバックで聞こえる音楽は、録音した健一とシーナの歌だ。いつ録ったのかは知らないが、本物よりくぐもったこの音では、実際の迫力はちっとも伝わらない。
 だから行く。

「さあ――本命の出番だ!」

 弾むようなステップでシーナがステージに躍り出た。
 言葉にならない声を合図に、バックミュージックがぴたりと止む。観客の目がその一瞬で中心のシーナに注がれる。ダンサー達のパフォーマンスで程々に温まりながらも煮詰まっていた空気が、緊張と期待で一気に凝縮された。
 生まれた静寂を、シーナの歌が即座に切り裂く。
 バックミュージックを引き継ぐ形で続けられたのは、最初のライブでも歌った、坂本九『上を向いて歩こう』。マンネリ化を避けるために、ここ最近ではチョイスしていなかった曲。
 健一はまだ入らない。これも最初のライブと同じ手筈だ。初心に帰ろうと、二人で事前に相談していた。
 よく通るシーナの歌声は、バケツの中で幾度も反響して聞こえた。かつては余裕もなかったが、今は歌詞の意味を噛み締められる。狭まった視界の先で、堂々と歌うシーナが見える。
 現実が辛く苦しいから、人は泣く。
 抗いようのない波に押し流されて、戦う意思を挫かれる。
 けれどシーナは、こうして牙を研ぎ続けた。真っ向から現実にぶつかった。
 自分の相棒は“本物”だ、と健一は思う。ただ、初めからそうだったわけではない。シーナだけでは、シーナ&バケッツには成り得なかった。健一でなくてもよかったのだとしても、あの時隣にいたのは自分だ。自分だけだった。だからシーナは“本物”になれたんだと、今は自惚れていいだろう。
 信じよう。
 シーナを、自分を、積み重ねてきた全てを。
 サビの終わりに、健一は舞台に上がる。口元のハーモニカに息を吹き込み、そうして郷愁を誘う音が溢れ出る。競い合うように、溶け合うように、シーナの声量が増した。誰もが二人の曲に聞き入っていた。
 すぐに二番、三番も歌いきる。万雷の拍手。勿論、ライブはまだ始まったばかりだ。

「次行くぜ! ザ・ビートルズ『something』!」

 原曲と比べれば、ベースの音色こそ再現できないが、爪弾くギターのメロディはハーモニカのアレンジとして上手く再現されていた。シーナの歌は原詞のままで、特に若い人達には意味も伝わらないだろうと思う。
 健一にはわかる。
 これは、シーナの恋歌なのだ。
 他の恋人なんて必要ない。彼女だけでいい。離れたくない。
 そんな想いが伝わらないと知っていてなお、心は求める。
 この曲を歌う時のシーナは、いつも泣きそうになっていた。今も例外ではない。俺には分からない、と叫ぶように、剥き出しの感情を叩きつける。だからこそ胸を打つ。その色の生々しさと、切実さと、苦しさの中に咲く甘さを、余すことなく歌に乗せている。
 そして三曲目、同じくザ・ビートルズ『Let it be』。
 彼のバンドでも特に有名と言えるその歌は、多分に宗教的な側面を持ちながら、同時に酷く単純な人生論を歌詞に込めている。

 ――あるがままに。
 ――辛いことの後には希望があるのだから、あるがままに受け入れなさい。

 抗うのを止めるのではなく、それは未来を信じることと同義だ。
 これまで練習し、披露し、今日この場所で演奏する多くの歌が、シーナの魂の一欠片になっている。健一の役目は、共に泣き、笑い、苦しみ、喜び、心の荷物を背負うこと。
 茨の旅路を、シーナ一人で歩かせないこと。
 自分は道化でいい。恥ずかしくて顔を見せたくないからバケツなんて被っている、シーナのおまけ扱いで構わない。
 ただ、その行く末に光あれと願う。
 一時間は、あっという間だった。
 歌いきったシーナが、天高く右手を突き上げる。
「みんなありがとなー!」と、マイクもなしに観客の端まで届く叫びが、最後に皆を強く沸かせた。
 その姿を、やっぱり眩しいな、と思った。
 だからきっと、本当に全部手に入れられるはずだ、と。
 熱狂に浮かされて、心の底から、信じていたのだ。



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何かあったらどーぞ。