綾からの告白を経て、色々と考えることが増えた健一だったが、十三階に戻ったその夜には、もう余韻も何も吹っ飛んでしまっていた。
 シーナが壊れていたからである。
 思いきり緩んだ顔で唇を尖らせ、ちゅーちゅーとしか鳴かないネズミ人間と化していた。それでいて健一の周りを煽るようにぐるぐるしてくるので、鬱陶しいことこの上ない。しばらく無視していたものの、いい加減耐え切れなくなって1305にシーナを放り込んだ。
 まあ、要するに話を聞いてほしいのだろう。
 溜め息混じりに腰を据えると、案の定浮かれたシーナは頼んでもいないのにデートの顛末を話し始めた。

「そこでさぁ、佳奈ちゃんってば『いいですよ』とか何とか言っちゃってさー!」
「うん」
「いきなり目を閉じてくるわけだ。あ、これいけるなって思うじゃん? もうばっち来いだなってなるじゃん?」
「うん」
「だから俺は肩をそっと抱いて、こう、ちゅー……うへへ……」

 万事こんな調子なので全く要領を得なかったが、どうやらホテルには連れ込まなかったこと、キスまでは済ませたことがわかった。ダブルデート直前にヘタレていたのを思い返せば、充分過ぎる結果と言える。
 ひとしきり喋らせても浮かれポンチなシーナは落ち着く様子がなく、仕方なくライブも中止する羽目になった。元々デートを早めに切り上げてきたのはライブのためなのに、あんまりにもあんまりな本末転倒ぶりだった。
 とはいえ、シーナ&バケッツの目的を考えると、今日の流れは決して悪いものではない。少なくともキスを許すくらいには、佳奈はシーナに好意を抱いているはずだ。接点すらなかった当初からすれば、大きな進歩だろう。

「で、今後はどうするつもりなの?」
「しばらくは地道に好感度稼ぎっつーか、積極的にスキンシップを取りたいところだな」
「スキンシップねえ……」
「おい何だその目は。ちょいと疑い過ぎだろ。俺にだってちゃんと自制心はあるっての」
「じゃあ例えば、佳奈さんがキスしてって言ってきたら?」
「迷わずするね」
「胸触ってもいいよって言われたら?」
「いやお前、それはエロ過ぎんだろ! 触るけど!」

 返答にも躊躇が一切感じられない。
 若干佳奈の貞操が心配になってきた。

「付き合えて嬉しいのはわかるけど、程々にね」
「わかってる。脱いだらさすがにバレるしな」
「発想が先に行き過ぎてる……」

 不安は拭えないが、ともあれ適当なところで会話を切り上げ、シーナは着替えて日奈に戻る。送っていこうかという提案は、口にしかけて飲み込んだ。ばったり佳奈と飯笹の二人に遭遇した件は記憶に近いし、健一自身、考えたいことがあるからだ。
 シーナと別れ、1303に入ると、冴子が丁度洗面所の方から出てくるところだった。タオルで拭いたのだろうが、まだ少し口元が濡れている。

「……シーナ君は、もう帰ったの?」
「はい。一応落ち着いたので」
「送ってはいかなかったのね」
「こないだのこともありますし……僕がいると、心の整理とかもつけにくいでしょうから」
「そうなのかな」
「というか、一緒にいるとまたちゅーちゅーとしか言わないので……」

 本当にしょうもない話である。
 今度は冴子が何とも言えない表情を浮かべ、

「ん……とりあえず、座って話しましょうか」
「ですね」

 折角居間で電気を点けているのに、暗い玄関で立っているのも変だろうと、二人で奥に向かう。
 先導する冴子の後ろに付くと、仄かに健一の鼻を爽やかな匂いがくすぐった。幾度か嗅いだ覚えのある、柑橘系のシャンプーの香り。

「お風呂入ってたんですか?」
「シャワーを浴びてただけ、なんだけど」

 夏の名残も消えかかってきているこの時期、外を出歩かなければそうそう汗も掻かない。そして冴子自身は、極端に綺麗好きというわけでもない。一般的な女性としての頻度で風呂は利用するが、記憶の限りでは、朝にも入っていたはずだ。
 半共同生活において、お互いのプライベートは境がなくなっている。それに対し、殊更に意識しない程度には、この関係に慣れてしまっている。
 ふわりと柑橘の香りを髪と共に揺らし、ソファに座った冴子は、緩やかに息を吐いて呟いた。

「……香りが、何となく気になって」
「香り、ですか」

 自然な流れで冴子の隣に腰を下ろし、健一は再び冴子から感じるものを意識する。シャンプーと、淡く混じった彼女独特の匂い。それ以外には、特別何もないように思える。

「……よくわからないですね。煙草とか、だったりします?」
「ううん。違う。コーヒー、なんだけど」
「全然感じないです」
「……ほんとに?」
「はい」
「そう。私が気にし過ぎだったのかな」

 安堵の声色を落とし、冴子がそっと健一に寄りかかってきた。思いの外、肩に掛かる重さは強く、身を預ける冴子の疲れが窺えた。
 最近、学校を除けばほとんど十三階の外に出ることのなかった冴子だが、アルバイトの目処が立ってからは、不在の時間も生まれてきている。少なくとも、冴子にとって良い方向に働いているのだろう。気の所為でなければ、たまに見せる塞ぎ込むような姿は減っている。身体はともかく、心は元気でいることが増えてきていた。
 バイトにやり甲斐を感じているのかもしれない。
 健一達以外誰も訪れない場所に居続けるよりも、きっとそれは良いことだ。どうしたって、健一にできることは高が知れている。本当の意味で自分の何かを解決できるのは、自分自身でしかないのだから。
 しばらく冴子は、そのままの姿勢でいた。静かに目を閉じていると、時折精巧な人形のように見えることがある。元々生気の薄い彼女だが、そうしていると特別脆く思えて、触れるのを躊躇してしまう。

「大丈夫かな」

 ぼんやり天井を見つめていた健一に、ふと冴子が声を掛けた。ひとりごとめいてもいたが、シーナを指しての言葉だとすぐにわかる。

「相当浮かれてはいましたけど、帰りは大丈夫だと思います。……でも、そういうことじゃないんですよね?」
「そうね」

 いつの間にか、黒い瞳が健一をじっと見つめていた。
 責めるでもなく、促すでもなく、ありのままを受け入れる色だった。
 それは冴子の優しさだと思う。気持ちの良い話にならないと理解していても、ちゃんと付き合う、と言外に伝えてくれているのだ。
 だから、健一は言うべきことを探した。

「佳奈さんは、シーナが好きなんですよね」
「うん」
「シーナ、なんですよね。日奈じゃなくて」

 以前、刻也が身の上を話した時のことを思い出す。
 あの時シーナは刻也に頭を下げて言っていた。
 好きな子がいるんだと。でも向こうはそうじゃないと。 無茶苦茶頑張って気惹いて、もしかしたらそれでようやく振り向いてもらえるかもしれないくらいの相手だ、と。
 今、シーナの想い人は、確かにシーナを見ているだろう。キスだってした。浮かれるほどに嬉しくて、幸せの絶頂にいるのかもしれない。
 けれどシーナは――日奈は、知っているはずなのだ。
 おそらく、誰よりも。

「理由はどうあれ、佳奈さんを騙してるのよね?」
「……そう、ですね。ライブで会ってから、ずっと」

 日奈にはそれしか道がなかった。正面から行って叶う可能性は、万に一つも存在しないとわかっていたから。
 だからといって、その手段は正当化されるのか?
 溝を深めることにしかならないんじゃないのか?

「絹川君は、もし同じ立場だったら許せる? 好きだから仕方なかったんだって思える?」

 浮かび上がる健一の思考を明確な形にする、鋭い問いを冴子は投げかけた。日奈と佳奈の関係に、自分と蛍子の姿が重なった。
 何も感じなかったと言えば、きっと嘘になる。
 姉弟として、十数年を過ごしてきた。こんな風になるなんて、あの瞬間までは少しも考えなかった。
 常識的に生きる人間なら、蛍子の懇願にも首を横に振るのだろう。今までと同じ関係に戻ろうと、そう提案するべきだったのかもしれない。
 もしそうしていれば、蛍子は頷いたろうか。
 閉じ込めて、懸命に蓋をするしかない想いは、いったいどこへ行けばいいのか。その重さに耐え切れず壊れてしまうのだとしたら、どうすればよかったというのか。
 諦められないから蛍子は泣いて、叫んで、訴えた。
 あの時の衝撃を、抱いた気持ちを、健一は忘れない。
 自分の世界全てを引き換えにしてもいいという、そんな感情を、否定できない。

「……僕は、許すと思います」
「私は、たぶん許せない……と思う」
「どうしてって、訊いてもいいですか?」
「それが他人なら、許せると思う。でも、日奈さんは佳奈さんの双子の妹なのよ。血の繋がった、家族だもの」

 家族、という単語を、冴子は噛み締めるように口にした。
 ――十三階の人間は、家族に対して問題を抱えている。
 その事実に、そろそろ健一も気付き始めていた。
 綾は己の性故に、両親と離れている。
 刻也は父に反発して家を出た。
 シーナ……日奈は双子の姉、佳奈が好きで。
 健一は両親との仲が希薄な上、姉と肉体関係を持っている。
 冴子も、おそらく何かしらの事情があるのだろう。セックス依存症のことを抜きにしても、少なからぬ確執は見える。
 厳しいながら、冴子の発言には気遣いが含まれていた。第三者として距離を置きつつも、日奈だけでなく、佳奈の立場で考えている。

「好きな人のことなら、何でも許せるっていうけど……好きだから、逆に許せないんじゃないかなって、そう考えたりするの」
「確かに、そうかもしれないですけど。でも、全部が全部許せなくなるってわけでもないですよね」
「うん……確かに、そうね」
「それにやっぱり、前よりはずっとマシだと思うんです。最初はシーナのことも好きじゃなかったんですから」
「その通りだけど、嘘がより深刻になったとも言えるわ。双子の妹が、男のふりをしてキスまでしたのよ?」

 健一からすれば、シーナは日奈から切り離された人間だ。男のふりというか、ある意味健一よりよほどわかりやすい男そのものである。
 しかし、冴子が言いたいのはそういうことではないのだろう。
 詳しい事情を知らない第三者が見ればどう感じるか。
 そして誰より、佳奈からすればどうなのか。
 口にせずともお互いわかっている。
 今に至っても、窪塚佳奈は窪塚日奈を見ていない。シーナと日奈は彼女の中で全く結びついていないのだ。
 ――それでも、と日奈は言うだろう。
 望み薄でも、上手く行かないのだとしても。
 諦められないから、止まれないから、足掻き続ける。

「……わかってても、そうするしかないのかもしれませんね」
「そっか。そうね、きっとそういうことなのよね」

 悲しげに俯き、冴子は手繰るように健一の手に触れた。
 風呂上がりの少し熱っぽい肌から、命のぬくもりが伝わってくる。

「絹川君」
「はい」
「上手く行くって信じていれば、何とかなるのかもしれないわ」
「信じていれば……」
「色々言っちゃったけど……私も、上手く行ってほしいって思ってる。だから、日奈さんのこと、シーナ君のこと、信じてあげたい」
「僕も、そう思ってます。信じたいです」

 日奈にとってシーナは、真っ暗な道に細く差し込んだ、微かな可能性の光だ。
 それを求めて、辿って、歩いていく。
 辛い道行きだろう。けれど、祈ることはできる。
 健一の指先が、冴子の手指に絡んだ。手のひらを重ね、指の間から甲へ、血管が浮き出た肌をくすぐるようになぞる。
 ……もしかしたら自分は、想像以上に欲深いのかもしれない。
 綾に告白されて、蛍子に望まれて、それなのに今こうして、冴子のそばにいる。
 絶対に好きにはならない。かつての約束を想起しながらも、ここに冴子がいてくれてよかったと、そう思うのだ。
 気付けば健一も、視線を冴子に注いでいた。
 疲れからか、少しぼんやりした瞳。その黒色が怪訝に揺れる。

「キス、していいですか?」

 きっとシーナの所為だろう。
 あんなに自慢したりするから、頭から離れなかった。
 そういうことに、しておく。
 普段はまず言わない宣言に、冴子は一瞬ついと目を逸らし、唇を震わせ、

「い、いいけど……」

 一息。

「絹川君、キスすると止まらなくなるから……」
「……ああ」

 動いた視線の先を健一は追う。
 ソファの後ろ、居間の照明用スイッチ。

「明るいの、駄目なんですよね」
「……うん」

 やがてぱちりと、部屋に闇の帳が降りる。
 衣擦れと粘り気のある水音が、行為の始まりを告げていた。










 数日するとさすがにシーナも落ち着いた。
 もっとも、テンションが高いことには変わりない。佳奈と真剣に付き合う(最終的にはセックスする)という目標が目に見えて近付いてきたからか、よく妄想を語り出す。そしてまた勝手にテンションが上がる。
 正直ちょっと面倒だなー、とは思わなくもないのだが、何だかんだでシーナとの会話は楽しかった。健一にとっては悪友みたいなものだ。些か下ネタに寄り過ぎている感があるものの、馬鹿な話で笑うのも嫌いではない。
 しかし、言動だけでなく挙動も怪しいとなると話が違ってくる。

「ちわー! おっす健一、元気だよなそうだよな!?」

 基本的にシーナが十三階に来るのは、ライブの準備のためだ。内容は練習だったり、新しいレパートリーの相談だったりするが、それがなければ大抵休日だと夕方頃に訪れる。あっても早くて昼時といったところだ。
 健一が主に蛍子関係で来ないことがあるように、シーナにも日奈としての日常(プラス最近は佳奈とのデート)が存在するのだから、個人の都合によるのは当然だろう。
 そんなシーナが、まさかの昼前登場。
 しかもレパートリーの話も練習も、昨日したばかりで今日はいいか、たまには何もしない時間作らなきゃな、とか言っていたはずである。
 嫌な予感がひしひしとした。

「おはよう。まあ、一応元気だよ」
「おはようっつーには微妙な時間だよなー。いやそんなことはどうでもいいんだよ。元気ならちょっと一緒に遊びに行かね?」
「………………どこに?」

 長い溜めにたっぷりの疑いを乗せて、健一は問いかけた。警戒し過ぎな気もするが、身構えるに越したことはない。

「いや、どこかは俺も決めてない。ノープランだぜ」
「適当にその辺をぶらつくってこと?」
「散歩って感じでもないな。行くべき道を見つけるための、探求の旅ってところだ」
「無駄に仰々しい……」
「ま、別に遠出するつもりはないぜ。電車とか乗ったら金掛かるし、下手すりゃライブにも間に合わなくなるしな」
「ライブまでにはちゃんと帰ってくるつもりなんだね」
「モチのロンよ。今日だって佳奈ちゃんが来るんだし」
「他の人だって来るでしょ」
「当然。ちゃんとわかってるって。観客をがっかりさせる気はないさ」

 下心バリバリの目的で結成されたシーナ&バケッツだが、この頃健一には、集まってくれる人達のためという意識が強くなってきていた。
 とはいえ、シーナはこれでいいのかもしれない。ある意味初志貫徹とも言えるのだ。その上で、実際に結果は出している。

「ちょっとお昼には早いけど……ご飯は食べてから行く?」
「そいつは魅力的だが、あと少しだけ待ってからだな」

 いったい何を待つんだろう、と健一は首を傾げた。
 この時間だと、今いる1301には二人以外誰もいない。綾はしばらく作業でほとんど姿を見せないし、刻也はバイトに向かっているはずだ。1303に寄っていないので冴子の様子は不明だが、そういえばこちらにいないのが気になる。
 と、疑問に思った直後、当の本人が現れた。
 1301の玄関からちらりと顔だけを見せ、

「絹川君……とシーナ君」
「あ、はい」
「これから私、バイトに行ってくる。帰りは、夕方くらいになると思う」
「ええと……いってらっしゃい」
「うん。いってきます」

 短いやりとりの後、扉が静かに閉まる。
 それを見送って、健一ははっとした。
 隣のシーナが「計画通り」と言わんばかりの顔になっていたからである。

「……まさかとは思うけど」
「そのまさかで合ってるはずだぜ」
「八雲さんの件で懲りたんじゃなかったの……?」
「反省はした。が、知りたいって欲求には逆らえないんだ」

 割と本気で殴ってやろうかと思ったが、ドヤ顔の中に僅かながら、健一を責める色があることに気付いた。

「なあ、お前は有馬のこと、知りたくないのか?」
「そりゃあ知りたいとは思うけど……でもこれは駄目だって」
「時には少しくらい強引に行くことも必要じゃないのか? 本当に秘密にしなきゃいけないようなことなのか?」
「それは……って、何いい話にしようとしてるんだよ。尾行とか常識的に考えてよくないに決まってるだろ」
「常識は投げ捨てるものだ!」
「あっ、ちょっ、シーナ!」

 両肩を掴んで制止しようとした瞬間、察知したシーナがダッシュで玄関に向かって走り出す。慌てて健一が後を追うも、既に帽子を被ったシーナの背中は階段に差し掛かっていた。
 たたたたたたん、と小刻みにリズミカルな足音を立て、かなりの速度で駆け下りていく。一歩遅れた健一は壁の手すりに掴まりながら、二段飛ばしで追従するが、なかなか距離は縮まらなかった。
 身体的には日奈のはずで、日奈はそこまで運動ができるタイプではないと思う。にもかかわらず、シーナの身軽さは半ば活発な少年めいている。何度も呼び掛けたが、やはり止まる様子はない。
 十三階分の階段が途切れ、外に出る。
 曲がり角ひとつ分の距離を維持したまま、健一とシーナの追いかけっこは駅向こうの商店街辺りまで続いた。マラソン並みのペースで、実に十五分後のことである。
 脇道に入ったところで、どうやら冴子を見失ったらしいシーナがうろうろしていたのを羽交い締めにした。勿論暴れられたが、こうなると腕力の差は如何ともし難い。走った分の疲労も重なって、すぐに抵抗はなくなる。

「はぁ、はぁ……お前も随分、しつこい奴だな……」
「しつこいのは、そっちの方だろ……駄目だって、何度も言ったのに……」

 互いに息を切らしているので、交わす悪態も弱々しい。

「ったく、これじゃ追ってきた意味がないじゃん。すっかり見失っちまったぜ」
「……それでよかったんだよ」
「よくわかんねーなー。そりゃ管理人の件は悪かったけどさ、有馬はまた事情が違うだろ。恥ずかしがるかもしれないけど、あいつだってそこまでして隠してるわけじゃないと思うんだけどなあ」

 不機嫌半分、純粋な疑問半分といったシーナの言葉に、健一は少しだけ冷静さを取り戻した。
 確かに、秘密にしてほしいと頼まれてはいない。帰りが遅かった時も、シフトと連絡先を聞いておく、と言っていたのだ。そうなれば、こちらで調べることも可能だろう。遅かれ早かれ、冴子のバイト先は判明するはずだ。
 では、何故健一はこんなにも抵抗を覚えているのか。
 プライベートは尊重すべき。その通りだ。無理してまで訊くつもりもない。それもその通りだ。
 けれど何より、彼女の行き先が、外にあるからだと思う。
 健一と冴子の間にある不文律。
 外では他人として接するべき、という暗黙の了解を、健一は今も守っている。冴子が望まないことを、しようとは思わないからだ。
 バイト先を調べるのは、それを反故にすることに繋がる。
 冴子の望みから、反してしまう。
 健一はずっと、そうなるのを危惧していた。

(……ああ、そうか)

 シーナと温度差があるのも当然だろう。
 あの日冴子に拒否されたのも、夜の散歩で飯笹に絡まれたのも、そうして冴子を悲しませたのも、健一だけなのだから。

「シーナは、有馬さんと外で他人じゃなくてもいいのかもしれないな」
「は? 何だって?」
「僕は駄目でも、シーナなら大丈夫かもしれない」
「おい健一、どういうことなんだよそれ」
「シーナはさ、有馬さんに外では他人でいようって、言われてないよね」
「ああ」
「だったら、有馬さんのバイト先、知っててもいいと思う」
「……意味がわからん。つーか今更だな、本当。んなこと言われてもテンション下がっちまったぜ」
「だよね。ごめん」

 勝手に一人で空回りして、自己完結して、結果的にはシーナを振り回してしまった。
 心がじわりと痛むのは、きっと罪悪感だけではない。
 滲む見苦しい嫉妬の感情を、健一は俯いて飲み込んだ。
 重い空気を変えようと何か口にしかけ、

「こんなところで何をしているのかね、君達は」

 横合いから来た声が、健一の耳を打った。
 まさかと思いながら見れば、いるはずのない人物――刻也が立っていた。
 どうしてこんなところに、と一瞬考えたが、そういえば刻也のバイト先であるファミレスも同じ方面だと気付く。必死に追いかけっこをしている間に、知らず抜き去ってしまっていたのだろう。
 硬い言葉とは裏腹に、こちらに注がれる視線には心配の色が強い。

「そっちこそ、何でこんなところにいるわけ?」
「私はいつも通りバイトに行く途中なのだが、たまたま君達の姿が見えたのでね。どうやら口論をしているようだったので、声を掛けさせてもらった」
「別に気にすることはねーよ。こいつは俺と健一の問題だ」
「道の真ん中で言い合っておいて、気にするなというのもおかしな話だと思うが」

 確かに、それもそうだ。
 至極真っ当な正論に納得した健一だったが、シーナは一人でヒートアップし始めた。
 先ほどのやりとりで、不機嫌ゲージが上がっていた所為かもしれない。

「何だ、外でも管理人気取りか?」
「そもそも管理人ではないし、気取ってもいない。君達を心配して言っているのだ」
「だから、心配してくれだなんて誰が言ったよ! 俺達の問題なんだから、当事者で解決するのが筋だろ!」
「当事者が冷静でなかったら、話はこじれるばかりだろう。君はまず一旦落ち着くべきだと思うがね」
「少なくともそれはお前に言われる筋合いじゃねーよ!」
「あの、シーナ、ちょっと落ち着いて」
「健一は黙っててくれ!」

 当事者でも駄目なら、いったい誰が言えば筋なのか。
 売り言葉に買い言葉といった様相で、健一とシーナの時よりも激しく口撃を交わし出した二人に、もうこのまま置いてって戻ろうかと本気で検討し始める。
 と、正面、向かいにいる刻也の背後から、ゆったりした速度で歩いてくる女性が視界に入った。
 見た目だけで言えば、相当に若い。服装こそ少し野暮ったくもあるが、均整の取れた体型と面立ちは、道行く人に訊けば十人に八人は美人と答えるレベルだった。柔和な表情のまま、何故か真っ直ぐ健一達を目指してきている。
 その顔に、健一は引っ掛かるものを覚えていた。
 誰かに似ている気がする。
 しかしそのことを考えるより早く、女性は自然な流れでシーナと刻也の間に割り込んでいた。

「そこの二人とも、どうして口論してるのかしら?」

 突然現れた乱入者の、子供を諌めるような声のトーンに、血が上っていた二人の毒気があっさり抜かれる。
 同時に、まずシーナが明らかに驚いた顔をした。心の動揺を隠すかのように、帽子を深く被り直す。そんなシーナを見た女性は、柔らかく細めていた目を少しの間だけ瞠った。けれどすぐに平静を取り戻し、

「今来たばかりで事情もよくわからないけど……とにかくケンカはよくないわ。まずは二人とも、深呼吸しましょ」
「えっ」
「ほら、吸ってー、吐いてー」

 異様なマイペースさに引っ張られ、言われるがままに深呼吸を繰り返す第二次当事者二名。

「落ち着いた? ならゆっくり話せるところに行きましょ。いい喫茶店を知ってるのよ。今日はおばさんが奢ってあげるから」
「いえ、その、私は別に」
「いいからいいから」
「俺も別に」
「いいからいいから。そこの男の子も、無関係じゃないんでしょう? 一緒に来なさいな」
「えっと……はい」

 ふわっとした印象とは違って、随分強引なところもあるらしい。
 ……まあ、悪いことにはならないだろう。
 そう自分を納得させて、健一は女性の後ろに付いていった。










 オススメだという喫茶店は、商店街を出て一分も掛からない場所に建っていた。
 シックな色合いの外装で、表側に窓はない。木製の扉には『OPENED』の札が掛けられ、その上に些か控えめな形で店名が書かれている。
『天国への階段』。
 女性が扉を開けると、カランカランと独特なベルの音が鳴る。中へ踏み込む背に続いて入った店内は、外装と同じく木の自然な色をベースにした、大人しい雰囲気だった。入口から右手に二人テーブル席がいくつか。あとはカウンター席だけだ。全てを足しても、二十あるかどうかといったところで、あまり大きい規模の店ではないようだった。
 カウンターで食器を整理していた人影が「いらっしゃい」とこちらを見て、それからおや、という表情をした。

「波奈さん」
「こんにちは、早苗ちゃん」
「後ろの三人はどうしたんです?」
「ちょっとそこで拾ったの」
「俺達は犬か何かかよっ」

 反射的にツッコんだシーナが、何故か慌てて口を押さえた。
 その反応にくすっと笑った、波奈さんと呼ばれた女性は、慣れた動きでカウンターに座る。
 着席を促され、波奈の右隣に刻也が、その右に健一、さらに右にシーナが腰を下ろした。
 未だに状況は掴みきれていないものの、ここまで来るともうどうにでもなれという気分になる。不機嫌な表情を崩さないシーナに、何と言えばいいのか考えながら健一が店内を見回すと、カウンターの右端で皿洗いしているらしき人物と、丁度目が合った。
 冴子だった。

「……絹川君?」

 恐ろしい勢いで血の気が引いた。さーっと血管内の潮の音が聞こえる錯覚さえあった。
 思い返せば、ヒントは出ていたのだ。綾に告白されたダブルデートの日の夜、冴子はコーヒーの香りが気になると言っていた。健一は十三階や外でコーヒーを飲まない。淹れるための道具がないというのが主な理由だが、大抵他人が淹れたものだと薄く感じておいしくないからだ。そのため市販のものは、例え1301の冷蔵庫に入っていても一切手を付けたことはなかった。
 アイスコーヒーではまず身体に匂いは染みつかない。インスタントでも大差ないだろう。香りが気になるほどということは、つまり豆を挽くようなところで頻繁に触れていることになる。
 もっとも、それだけの情報で今の状況を回避しろというのは酷だろう。
 お互い全く、予想だにしない遭遇だった。
 あまりの恥ずかしさと居た堪れなさに、健一は冴子の顔をまともに見られなかった。向こうも同じなのか、大きめの皿で口元を隠しつつ、申し訳なさそうな上目遣いでちらちらとこちらを覗いている。
「あら、知り合いなの?」
 スーツにも似た服装の店長――早苗が、珍しいものを見たといった表情で問いかける。
 冴子は口元の皿を下ろさないまま、肯定とも否定とも取れない仕草で身を微かに捩った。

「く、クラスメイトです。ただのクラスメイト、なんです」
「ふぅん……ま、いいわ。波奈さん、ご注文は?」
「ブレンドを四人分で。お会計は私が持つわ」
「わかりました。でも、一人分でいいですよ。色々と面白そうな関係みたいだし、話を聞かせてくれるなら、そっちの三人には一杯奢っちゃいましょう」
「太っ腹ねえ」
「度量が広いと言ってください」

 からからと笑う早苗は、非常に慣れた手捌きでブレンドを用意した。
 カップを並べ、既に淹れてある黒色の液体を順に注いでいく。今も火に掛けられているそれは、カップの中でふわりと湯気を立てていた。

「はい、ブレンド四人前。冴子ちゃん、お願いね」

 無言で頷き、お盆に置いたソーサーにカップを乗せてカウンターに運んできた冴子は、どうぞ、と事務的な口調で各人の前にブレンドとミルクを置いた。今更ながら、健一はまじまじと冴子の姿を見た。
 深い青と白の上着に、バックリボンのスカート。肩口には膨らみがあり、胸元には淡い赤のリボンが結ばれている。頭頂部にはヘッドドレス、そして側頭部にも髪留めのような小さなリボン。どこか怜悧で儚い印象のある冴子だが、制服を着ていると、可愛らしさが先立っている。
 これは確かに、恥ずかしいだろう。
 私服姿は見慣れているが、この手のものは当然ながら着ているのを目にした覚えがない。
 カウンターに戻っていった冴子は、間もなく健一の注視に気付いた。どこか咎めるような視線を受け、慌てて顔の向きをコーヒーカップに落とす。取っ手を掴み、まずは香りを確かめる。鼻に抜ける、不思議と落ち着く豆の匂い。
 軽く口を付けたブレンドは、やはり健一には薄かった。苦味も感じるが、好みの濃さには届かない。これはもう仕方ないだろう。ブレンドだけは、見た限り客にすぐ出せるよう予め淹れてあるものだ。健一の好みが他人とズレている以上、ブレンドは合わなくて当然と言える。
 ちびりと口に含んだ液体を飲み込み、密かに溜め息を吐く。
 冴子からしてみれば、いきなり健一達がバイト先に現れたとしか思えないはずだ。実際は半分故意、半分偶然といった割合なのだが、中途半端に(シーナの)故意が混ざっているから困る。責められても、否定しきれない。

「とりあえず、ブレンド代の代わりっていうと何だけど、名前を聞かせてもらってもいい? 冴子ちゃんのクラスメイト、絹川君から」
「あ、はい。はじめまして、絹川健一です」
「ふむふむ……私は古西早苗。ここのマスターやってるわ。それにしても、なかなかの美少年ね」

 褒めてくれているのだろうが、微妙に反応し難い。

「ちなみにそこの波奈さんは、私の母の妹ね。血縁的には叔母ってことになるかしら」
「叔母の窪塚波奈です。ふふ」
「窪塚……あの、もしかして、日奈さんと佳奈さんの?」
「日奈ちゃんと佳奈ちゃんは私の娘よ。二人を知ってるってことは……あの子達のお友達?」
「えっと、佳奈さんはちょっと違いますけど……まあ、そんなようなものです」
「そう。絹川君ね、覚えました。うちの娘とこれからも仲良くしてあげてね」
「は、はい」

 シーナがさっきから異様に大人しい理由がわかった。
 実の母親がいたら、それはテンションも上げられないだろう。
 この席取りも納得が行く。率先したがりなシーナがわざわざ最後に、健一の隣を選んだのは、なるべく波奈の目の届かない位置を確保したかったからだ。本当なら今すぐにでもここから立ち去りたいのだろうが、いきなりそうしたら変に怪しまれる。理性が蒸発しがちな頭を絞ったらしい、涙ぐましい隠蔽工作である。
 日奈とは似ても似つかない格好と口調だし、シーナの時は意図的に普段の声を低くしている。一見なら女性と見抜かれることはあっても、正体に気付かれるとは考え難いのだが……果たしてにこにこしている波奈が感づいたのかどうか、少なくとも健一にはわからなかった。

「で、そちらの眼鏡の男の子も冴子ちゃんのクラスメイトかしら」
「はい。八雲刻也と言います」
「八雲刻也君ね。いい名前だわ。それじゃ、そっちの帽子の子も?」
「……俺は違うぜ、本当」

 気の所為でなければ、いつもよりさらに声が低い。
 俯き、不機嫌さを隠そうともしない態度は、ある意味シーナらしくない警戒心に満ちている。
 カウンターから見ても、おそらく帽子の下の表情はほとんど窺えないだろう。波奈だけでなく早苗にも対応が硬いのは、彼女とも面識があるからかもしれない。波奈の姪だというのなら、日奈として交流があってもおかしくはない。

「そっか、ごめんなさい。改めて、お名前は?」
「俺はシーナ。謎のストリートミュージシャンだ」
「へえ。ストリートミュージシャンなの。ってことは、近くで活動してるの? 二人とはどういう関係?」
「健一は俺のバンドのパートナー。シーナ&バケッツって名前でやってる」
「シーナ&バケッツ……聞いたことあるわ。じゃああなたがそのシーナの方ってわけね?」
「そうだぜ、本当」

 健一は冷や冷やし通しだった。明らかに話を早く切り上げたがっているシーナと、そんなことは露知らず、好奇心に目を輝かせている早苗。どう考えても噛み合っていない。というか最近治まっていた謎の口調が復活している。

「八雲君の方とは?」
「……彼とは半共同生活をしているので」
「なるほど、一つ屋根の下みたいなものなのね。絹川君、あなたはシーナ&バケッツの、バケッツなのよね」
「ええ、まあ、そういうことになってます」
「名前通りバケツ被ってるの?」
「はい」
「ここには……当然持ってきてないわよね。ライブに行けばその姿は見られる?」
「……そうですね」
「毎日やってるのかしら。今度見に行ってもいい?」
「別にいいですけど……」

 ふっと矛先を変えてからの質問ラッシュに、健一は苦笑するしかなかった。正直、できればライブには知った顔に来てほしくない。他の誰かに正体がバレると面倒なことになるし、そうでなくてもつい意識してしまうのだ。とはいえ、ストリートライブという体裁上、そもそも断りようがない。

「あ、別に興味本位で言ってるわけじゃないのよ。取材みたいなもので」
「取材?」
「そう、取材。ちょっと物書きもしててね」
「物書き……小説家ってことですか?」
「ええ」
「喫茶店も経営してるのに、多才なんですね」

 このブレンドも、濃さこそ健一の好みには合わないが、ファミレスやそこらの喫茶店よりはよほど味に深みを感じる。
 才能なのか、あるいは並々ならぬ努力の成果か。
 どちらにしろ、成功者ではあるのだろう。

「物書きの方はそこそこよ。身近にとんでもない人ばっかりいたから、それがずっとコンプレックスでね」
「そうなんですか?」
「ひとつくらい負けないようにって始めたのが喫茶店なのよね。おかげでコーヒーの味なら仲間内じゃ負けない自信ができたわ」
「早苗ちゃんのコーヒーはおいしいものねえ。特にブルーマウンテン」
「褒めてもこれ以上サービスはしないですよ」

 少しだけ会話が落ち着き、空白が生まれた。
 一息吐き、残ったブレンドを半分ほど喉に流し込むと、左隣でかちゃりと陶器の音が響く。

「ごちそうさまでした」
「お代わりは要る?」
「いえ、大丈夫です。有り難い話ですが、これからバイトがありますので。今日はこの辺りで失礼させていただきます」
「バイト? 失礼じゃなければ、どこでしてるか教えてくれる?」
「国道沿いのファミレスで、ウェイターをしています」
「おおっ、八雲君には結構似合ってそうね。制服とかあるんでしょ?」
「支給されたものが」
「いい感じね。そういう仕事が好きなの?」
「いえ、高校生の私を雇ってくれる職場自体限られていますから、そこで働かせてもらっています」
「じゃあ、うちで働かない?」

 唐突に引き抜きが始まった。

「……それはどういった意味でしょう」
「ちょっと話しただけだけど、あなたのことが気に入ったの。もしよければ、そのファミレスよりもいい待遇で雇いたいなと」
「ここで……ですか?」

 刻也の視線が、店内の端から端へ移動していく。健一達以外、客の入りはない。
 鋭く細められた瞳が、無言で自分の必要性を訴えていた。

「有馬君のいない時間であっても、敢えて私を雇う意味はないと思いますが」
「ま、人手的にはね。でも、あなたのことが気に入ったってのは本当よ。時給はファミレスより出すし、結構仕事がない時間もあるから、そういう時は自由にしてくれてもいいし」
「身に余る待遇ですが、今のバイト先の店長さんには充分良くしてもらってますので。あちらを辞めるつもりはありません」
「生真面目というか、義理堅いのね。今時珍しい。そういうところも気に入っちゃったな」
「……彼女がいるから辞めたくない癖に」

 我慢できなかったのか、ぼそっとシーナが横槍を入れた。
 口論の件をまだ根に持っていたのかもしれない。

「こいつ、真面目そうな顔してるけど、彼女と一緒にバイトしたいむっつりすけべだからな、本当」
「む、むっつりすけべとは何だね!」
「違うのか?」
「違……わないかもしれないが……いや、違う。違うし、誰より君に言われたくはない」
「俺はオープンすけべだからな。お前と違って隠さないし、揉める時には遠慮なく揉むタイプだぜ」
「……常々思うが、君はもう少し恥じらいというものを持つべきだ」
「あら、いいじゃない。むっつりすけべ」

 危うく第二ラウンドが始まりかけたが、早苗のインターセプトで空気が戻った。
 波奈もそうだが、妙に毒気を抜くのが上手い。割り込むタイミングも、ちゃんと狙っていたのだろう。

「彼女と同じところでバイトしたいって、素敵なことじゃない。個人的には男友達の方が好みだけど」
「それが動機というわけではないのですが。彼女と職場が同じなのは、あくまで結果です」
「彼女を置いていけないっていうことなら、二人一緒でもいいわよ。冴子ちゃんもいるし、さすがに毎回同じ時間ってわけにもいかないから、二人ずつのローテーションになるけど」
「お気遣いは大変嬉しいですが、やはり私には今の職場がいいのです」
「そう。気が変わったり、もし何かの事情で辞めなきゃいけないってことになったら、いつでも言ってね」
「わかりました。ブレンド代も含め、今日は色々とありがとうございました」
「どういたしまして。また客として来てくれると嬉しいかな」
「はい。今度はしっかりお代もお支払いします。では、お先に失礼します」

 席を立って背筋を伸ばし、礼儀正しく頭を下げてから店を出ていく刻也を、早苗はひらひらと手を振って送り出した。
 そのタイミングを狙っていたのか、シーナが勢い良く腰を上げる。

「俺も用事があるし、これで失礼するぜ」
「あら。もっと話を聞きたいところだけど、仕方ないか。また来てねー」

 慌ただしいというか、どこか逃げるように去ったシーナを見て、健一はよっぽど居心地が悪かったんだなと一人頷いた。
 用事があるというのも方便だろう。ライブの準備にしても早過ぎる。
 どうやらシーナも律儀に飲み切ったらしく、冴子が空のカップ二人分を回収する。気恥ずかしさからか、頬を薄赤く染めながらも、健一とは意図的に目を合わせないようにしていた。ショックではないが、ここまであからさまな反応だとどうすればいいのかわからない。
 何とも言い難い針の筵な雰囲気に、健一もコーヒーを飲み干し、シーナの後に続こうと腰を浮かせかけたが、

「絹川君、よければもう少し私とお話ししてくれないかしら?」
「え、あ……はい」

 波奈に呼び止められ、出ていくきっかけを失った。

「コーヒーのお代わりは要る?」
「……すみません、いただきます」

 合わない濃さでも、口元を寂しくするよりはいい。
 さっと二杯目を注がれたカップに唇をつける。舌に響くほろ苦さを確かめて、健一は波奈へ視線を移す。
 にこやかな表情を崩さない波奈は、一瞬だけ早苗に目配せをした。それを受けた彼女が二人の前を離れる。今からの話は聞かない、というポーズ。一連のやりとりに、波奈が言わんとしていることの予想がついた。

「日奈ちゃんのお友達って言ってたわよね」
「はい」
「さっきの子……シーナ君と、関係があることなのね?」
「……はい」

 声音を下げた問いかけに、確信する。
 波奈は、シーナの正体に気付いている。
 シーナの変装は、健一の目から見てもかなりのものだと思う。緩めのシャツで体型はぼかしているし、胸もサラシを巻いているはずだ。ハーフパンツから覗く足は、男としては綺麗過ぎるところもあるが、ちゃんと手入れしていると言えば誤魔化しの利く範囲だろう。声色も女性というよりは少年寄りで、総じて性別を特定し難い。普段の口調や仕草から、大抵の人はシーナを男と判断する。
 しかし、やはりわかる人にはわかってしまうのだろう。
 以前エリには見抜かれたし、ましてや波奈は実の母親だ。もっと細かな部分から、推察できてもおかしくはない。
 どう変装したところで、面立ちや身体付きまでは変えられないのだから。
 偶然とはいえ、顔を合わせてしまったのが失敗だった。
 隠し通すのはもう無理だ。
 そう結論付け、健一は波奈の言葉に身構えた。

「大丈夫よ、別に日奈ちゃんを責めたりするつもりはないの」
「でも……ずっと黙ってたわけですし」
「変装してたこと? それとも、二人でバンドしてるってこと?」
「両方です」
「なら気にしてないわ。ううん、してないって言っちゃうと嘘になるけど……もう高校生ですもの。親に言えないことのひとつやふたつ、あるものよね」
「なんていうか、随分おおらかなんですね」
「悪いことしてるみたいなら、止めるのは勿論親の役目だけどね。そういうわけでもなさそうだし、絹川君も付いてるんでしょ? だったら心配要らないかなって」

 そう言い切る波奈に、他意はなかった。少なくとも健一にはそう思えた。

「自分で言うのも何ですけど、会ってそんなに時間も経ってないのに、僕を信じてくれるんですか?」
「絹川君がいい人だってのは見てればわかるわよ。うちの娘にも、あんな風に接してたんだもの。一緒にバンドしてて、今まで問題になってないんだから、信じる理由も充分だと思うの」
「……その、ありがとうございます」
「どういたしまして。ふふ、それにしても、最近日奈ちゃんの帰りが遅いのはそういうことなのね」

 頬に手を当てて健一を見る目が、別の色を含み始めた。
 嫌な予感がして咄嗟に視線を逸らすが、当然問いかけの続きには全く効果がなかった。

「絹川君は、日奈ちゃんと付き合ってるの?」
「付きっ……!?」

 危うく飲みかけたコーヒーを噴き出すところだった。
 いやいやいやいや、と首を振る。日奈と付き合うなんて、想像したことさえない。いくら日奈とシーナがほとんど別人に近い存在だといっても、同一人物であるのには変わりないのだ。友情こそあれど、恋愛感情は一切ない。断言できる。
 混乱しかけた思考を落ち着かせ、一息。

「僕とシーナ……日奈さんは友達ですから、そういう気持ちはないです」
「あら、そうなの? 絹川君カッコいいし聞き上手だし、私応援しちゃうけどなぁ」
「本当に、全然ないんですよ。僕にとっては、シーナとして接してる時間の方が多いですし」
「なるほどねぇ。ああ、そうそう、シーナ&バケッツってどこで活動してるのかしら?」
「えっと、今は駅近くの公園でやってます」

 場所を説明し、さらに訊かれたので曲の内容、観客はどのくらいいるのか、健一はどういうことをしているのか、などなど。一度正体を知られてしまったからには、隠すべきこともさほど多くはない。親として、子供の心配をする気持ちもわかる。最も重要な事実のみを伏せ、健一は自分とシーナについての一通りを波奈に話した。
 たったひとつ、絶対に言えないこと。
 シーナと佳奈の関係だけは、口にするわけにいかない。
 こうして会話をしてわかったのは、根本的な部分で波奈は常識人だということだ。子供に対して理解があり、バンド活動にも忌避感を持っていない。放任主義ではないが、信用しているからこそ、選択を子に託せるのだろう。
 けれど、健一とシーナがしているのは、ある意味では社会の道理から外れている。
 先日冴子が言ったように、名と性別を偽って、佳奈を騙しているのだ。
 こちらにどんな事情や理由があっても、それは明確な嘘で裏切り、と言えるのかもしれない。
 日奈の選択が間違っていると知られれば、きっと波奈は止めるだろう。
 絹川家とは違う。ちゃんとした、破綻していない家族。
 千夜子の家にお邪魔した時にも似た、眩しさを感じた。
 二杯目のコーヒーを飲み終え、丁度話も一段落したところで、今度こそ健一は席を立った。
 今日はありがとうございました、と頭を下げる。

「一人でもいいから、また来てね。次は絹川君の話もゆっくり聞かせてほしいかな」
「はい、機会があったら、足を運ばせてもらいます」

 健一達の前に戻ってきた早苗の言葉に頷き、波奈へと向き直る。

「遅くなるようだったら、日奈ちゃんを送ってきてくれると母としては有り難いわ」
「そういうことなら、佳奈さんにも伝えておいてもらえると……」
「ええ、言っておくわね。絹川君が日奈ちゃんのナイトだって」
「違います」
「もう、そんな真顔で返さなくてもいいじゃない。あ、ついでにうちに寄ってくれても全然構わないからね?」
「……考えておきます」
「日奈ちゃんのこと、これからもよろしくね」

 最後にもう一度だけお辞儀をして、店を出る。
 温い室内と比べると、頬を撫でる秋風は少し冷たい。

「これからもよろしく……か」

 仮にシーナの、日奈の目的が達成できたとして、果たしてその先には何が待っているのか。
 いつまで自分はシーナの力になれるのだろうか。
 近付いたはずの未来が、健一には酷く遠いものに思えて仕方がなかった。










 最近、ライブが終わった直後の健一とシーナは別行動だった。
 まずシーナは佳奈に会う。観客が散り切ってから、彼女を送りがてらいちゃいちゃする。波奈に正体がバレた(それは帰ってから健一がシーナに伝えた)こともあり、家に送るといっても途中までになるが、どちらにしろ健一は付いていけないしいくつもりもない。
 だからほとんどの場合、十三階に戻るしかないのだが、今日ばかりは憂鬱な気分を払拭できなかった。
 何せシーナは送り迎え中、刻也もまだこの時間はバイトだ。綾はまだ作業が落ち着かないらしく、一向に1304から出てこない。となると、あとは冴子しかいない。
 当然ながら『天国への階段』での一件は、まだ釈明できていなかった。ライブまでは意図的に思考から外していたものの、ここまで来るとそうもいかない。健一には説明の義務があるだろう。それも辛いが、何より約束を破ってしまったのが心苦しい。

「……怒ってるだろうなあ」

 バイト先についても、冴子が話してもいいと思うまで待つのが筋だったはずだ。なのにシーナが後をつけたりするから……というかよく考えるとほぼ全部シーナが原因じゃなかろうか。帰ってきたら着替える前に責めてやるべきじゃないのか……って問題はそこじゃない。
 隠したかっただろうことを、勝手に暴いてしまった。
 外では他人でいるべきという約束も、反故にしてしまった。
 その事実を反芻する度、際限なく足が重くなる。十三階に辿り着くためには一階から階段を上らなければならないという条件が、今は冴子の許へ向かうまでの時間を引き延ばす、大義名分になっていた。
 それでも前に進めば、いずれ着いてしまう。
 1301の玄関扉は、普段より無機質に見えた。意を決し、ノブに指を掛ける。
 回してゆっくり引くと、金属の軋む音が殊更大きく聞こえる。

「こ、こんばんは」
「……こんばんは?」

 素朴な声色の鸚鵡返しに、遅れて挨拶を間違えたことに気付く。
 十三階は外ではないのだ。この場所でこそ、他人行儀になる必要はない。

「ええと……間違えました。ただいま、でしたね」
「ふふ、そうね。おかえりなさい。お疲れ様、絹川君」

 冴子の様子は、いつも通りだった。図らずもボケた健一に笑う余裕もある。
 予想とはかけ離れた反応に、拍子抜けしてしまった。

「どうしたの?」
「あ、いえ……昼のことで、怒ってるんじゃないかなって」
「別にそんなことないけど……。私、絹川君に怒ったことってあったかな」
「……ないですね」
「うん。怒る理由なんてないもの。むしろ、絹川君が私に怒ってるんじゃないかって思ってた」
「僕がですか?」
「だって、私が外では他人でいようって言ったのに、絹川君って呼んだから」
「でも、そもそもあれは僕が喫茶店に行ったのが原因ですし」
「絹川君が自分で探して来たわけじゃないんでしょ?」
「それはまあ……そうなんですけど」

 会話が途切れ、しばし顔を見合わせる。
 微妙なすれ違いがあった。冴子は健一の反応を気にしていたし、健一は冴子のバイト先に来てしまったこと自体を申し訳なく感じていた。お互い、相手を怒りたいわけでもないのだ。ただ、後ろめたい気持ちを抱いていた。

「ねえ、絹川君」
「はい」
「私達、クラスメイトなんだし……無理に知らないふりをするのも、おかしな話よね」
「ですね」
「急に仲良くなるのは変だけど、外で挨拶するくらいは普通じゃないかなって……思うんだけど」
「僕もそう思います。クラスメイトなんだから、他人ってわけじゃないですよね」

 元々冴子の提案は、健一を守るためのものだった。自分の悪評に巻き込まれた結果が飯笹との件だ。それがなくとも、冴子と知り合っているという事実だけで、健一の評判も下がりかねない。
 おそらく、冴子にとっても心の防壁になっていたのだろう。他人だから一緒にいなくていい。一人でいい。誰も傷付けずに済む。そんな理由を押し出して、自分の居場所を限定していた。彼女の世界は、つい先日まで、十三階にしかなかったのだ。
 バイト先――『天国への階段』は、彼女の居場所になり得たのだろうか。
 だとすれば、冴子を変えたのは、早苗と、居場所を見つけたという自信なのかもしれない。
 微かなわだかまりが解け、健一は刻也に対してのフォローもしつつ、波奈について説明をしておいた。

「話は聞こえてたけど、日奈さんの母親なのね」
「はい。シーナの正体にも気付いてました」
「……佳奈さんがシーナ君について、お母さんに話したりしちゃわない?」
「それは一応、ライブの前に話しておきました。佳奈さんに、付き合ってるのは秘密にしてほしいことを伝えるようにって」
「いいことじゃないけど……もしお母さんに知られたら、色々続けられなくなるかもしれないのよね」
「それでも、何とかやってくしかないですから」

 わかってても、そうするしかない。
 上手く行くと、信じるしかない。

「……ああ、そうだ、お店はすぐ出ちゃいましたけど、いい雰囲気でしたね」
「場所が場所だからあんまり頻繁にお客さんは来ないんだけどね。居心地はすごくいいと思う」
「次行くことがあったら、もうちょっと長居したいです」
「でも絹川君、コーヒーはそんなに好きじゃないのよね?」
「あれ、有馬さんには話しましたっけ?」
「ううん。ただ、ブレンド飲む時においしいって感じの顔をしてなかったから」
「ああ……別に嫌いなわけじゃないんですよ。自分で淹れる時はかなり濃くしてるんで、外で飲むと薄く感じちゃうんです」
「早苗さんのコーヒーはどうだった?」
「やっぱり薄かったですけど、深みみたいなのはありましたね」
「なら、次はブレンド以外のものを頼んだ方がいいかな」
「ブレンドは他と違うんですか?」
「コーヒーって、ちゃんと淹れると時間が掛かるから、ブレンドだけはすぐ出せるように予め用意してあるの。特にこだわりがない、飲めればいいって人には、さっと安く出すのもサービスなんだって」
「なるほど。ということは、こだわる人にはじっくり淹れてくれるわけですか」
「豆の違いとかもあるけど……早苗さんに言えば、きっと絹川君が満足できるコーヒーを出してくれると思う」

 どちらかというと寡黙なタイプである冴子が、これだけ饒舌に話しているのも珍しい。
 普段は大人びた彼女の年相応な姿に、健一は嬉しく思いながら、同時に例えようのない寂しさを覚えていた。
 早苗が冴子に与えたのは、この数ヶ月間一緒にいた健一達には決して与えられなかったものだ。
 自分では駄目だったのかという嫉妬めいた感情と無力感が、また胸の奥にじんわり滲む。
 その度し難さを噛み砕き飲み込んで、目尻を薄く緩めた。
 今、冴子は元気になっている。楽しげに、バイト先の話をしている。
 それだけでいいだろう。冴子の幸せを願うのなら、それだけで。
 いつか、彼女が十三階を出ていく未来に繋がるのだとしても。

「……また行ってもいいんですかね」
「早苗さんもまた来てねって言ってたと思うけど……どうして?」
「いえ、早苗さんというより有馬さんが……バイトしてるのを見られるの、恥ずかしいのかなと」

 昼の状況を思い出したのか、冴子の顔がさっと赤く色付く。
 熱を持った頬を押さえながら、言葉を探し、うう、と呻いて俯き、

「駄目ですか?」
「駄目って言ったら早苗さんに悪いけど……その……うう……」
「じゃあ、有馬さんがいない時なら大丈夫です?」
「そ、そうよね。それなら、うん。明日、シフトは確認してくるから」
「わかりました。有馬さんのバイトの日以外、ですね」

 恥ずかしさの抜けない冴子に、健一は微笑んでみせた。
 不安は山ほどある。考えなければいけないことも。
 でも今は、冴子と一緒にいる。それが一番大事なんだと、そう思った。



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何かあったらどーぞ。