不安は山のようにあったが、ともあれ決まってしまったことは仕方ない。翌日佳奈に連れてこられる相手が決まった、と言伝をし、そしてその場でダブルデートの日程が確定した。次の土曜、つまるところ明日である。
 佳奈としては一刻も早くデートをしたいらしく、勢いで押してくる彼女に反論する気力も勇気も、健一は持ち合わせていなかった。そんなわけで、下校後十三階に直行し、綾に予定を伝え、デートの準備でバタバタすることになった。勿論ライブは普通にやるので、気の休まる時間はほとんどなかったと言ってもいい。
 余所行きの服も、結局健一が一緒に選んだ。放っておけばいつもの白衣姿で外に出かねない。綾に羞恥心や常識を期待する方がおかしいのだ。
 さらに冴子を寝かせ、帰って蛍子に外出の用事があることを話し、露骨に不機嫌さを纏う姉を(主に身体で)宥めるハードスケジュール。実際のところ冴子は「一日くらいなら全然平気だから」と遠慮したし、蛍子に対しても別のやり方はあったはずだが、この辺りはどちらも切り捨てられない健一の自業自得だろう。
 幸い翌朝は寝坊しなかった。まだ眠ったままの蛍子に簡単な朝食を作り置き、手早く身支度を整えて綾の元へ。案の上夢の中だったので何とか起こし、寝ぼけ眼の綾の着替えを何故か手伝い、冴子と刻也に見送られて出発した。
 集合場所は、瓶井戸の駅前だ。

「こんな早い時間に外出たの、久しぶりかも」
「もうちょっと健康的な生活を心がけましょうよ」
「それは無理かなあ」

 見上げた空は、気持ちのいい秋晴れ。風もない。
 天気予報でも雨の確率はなく、絶好のお出かけ日和だろう。
 先日の宣言通り、綾は健一の左腕に両腕を絡めていた。抱き寄せるように密着しているので、豊かな胸が二の腕から肘に掛けて押し付けられている。ここのところ触れる機会はなかったのだが、やはりこうされると意識せずにはいられない。
 努めて感情のうねりを顔に出さず、健一は上機嫌な綾を「行きますよ」と急かした。快活に頷いた綾が歩き始めると、腕を挟む柔らかな膨らみが揺れ、健一の理性をごりごりと刺激してくる。早くも安易な許可を出したことに後悔した。
 それからの行程は健一にとって、短くも遠いものだった。
 集合時刻から一時間ほど余裕を見たのだが、想定以上に綾が寄り道をせず、前倒しで着いてしまったのだ。
 綾自身が提案した腕組みの効果であるのは間違いないだろう。しかし、無意識かつ無邪気なセックスアピールに、否応なく健一の股間が危険域に幾度も達しかけた。ギリギリのラインで(物理的に)自制できたのは奇跡に近い。ついでに通りがかる人達の注目もかなり集めた。あれだけ熱く腕を組んでいれば、まあ当然である。

「……何やってんの?」
「あ、あはは……こんにちは、佳奈さん」

 到着が早過ぎたかと思っていたが、集合場所には既に先客が一人いた。彼女は現れた健一達を何とも言えない目で見つめた後、呆れたように息を吐いた。

「その人、夏祭りの時に会った人よね。確か……綾さん、だったっけ」
「はい、そう、ですけど……」
「こないだ、彼女じゃないんですけど、とか言ってなかった? なのになんでそんな仲良さそうに腕組んでるの?」
「だって私と健ちゃん、もうエッ」「す、すごく懐かれてるっていうかでもまだ彼女じゃないのはホントですから!」
「………………ふーん」

 核爆弾が投下されかけたので魂のインターセプト。
 明らかに言い訳めいた被せ方をした健一の様子に、佳奈は疑いの視線をじぃっと注いだものの、特に詮索するほどの興味もないらしい。「ま、いっか」とあっさり流した。

「えっと、それよりシーナはまだ?」
「来てないわよ。私も早く来過ぎちゃったし」

 そういえば、十三階ではシーナの姿を見なかったなと思い出す。当然ながら日奈が窪塚家で着替えるわけにもいかないので、必ず一度十三階に立ち寄るはずなのだ。
 おそらく健一が綾を迎えに行った時は、1305にいたのだろう。1301に顔を出していなければ、冴子や刻也がシーナの所在を知ることもない。あるいは健一達より先に向かっていた可能性もゼロではないが、まだ着替えが終わっていなかった可能性の方が高い。

「……すぐには着きそうにないかな」
「わかるの?」
「たぶんですけどね。でも、遅くても五分か十分前には来ると思いますよ」
「そう。なら、いくつか訊いてもいい?」
「何でしょ?」
「シーナさんって、甘い物は好き?」
「うーん……嫌いではないかと。杏仁豆腐とかは喜んで食べてましたし」
「じゃあ船堀屋とかは駄目かな?」
「船堀屋……くず餅を売ってるお店のことです?」
「くず餅はお持ち帰りでも売ってるわね。和風の喫茶店みたいなところなんだけど」
「和風はあんまりよくないですかね。シーナはロッカーだから、和風なのはそんな好きじゃないって言ってました」
「なるほど……。そこに行こうと思ってたの。危ないところだったわ。ありがと」
「いえ、もうちょっと詳しくシーナの好みを知ってれば、わかりやすい例も出せたんですけどね……」
「ん、それならコーヒーと紅茶は?」
「確かコーヒーです」
「わかった。コーヒーのおいしいお店がいいのね」

 おおよその話を健一から聞き、佳奈は嬉しそうに頬を緩ませた。元々今日の行き先は、当人の希望で佳奈に一任していたが、こうして意見を突き合わせる機会はなかった。
 今回のダブルデートも、あくまでメインはシーナと佳奈だ。健一に行きたい場所はないし、綾に訊いたところで「健ちゃんとならどこでもいいよ?」としか言わないのは目に見えている。……ホテルのことは忘れた。忘れたったら忘れた。
 強いて言うなら、薄いコーヒーの苦手な健一としては、あまりコーヒーがメインの店は好きではないのだが、デート自体途中で綾と一緒に抜ける気である。そこに行くまでに別れられれば問題ない。
 健一はシーナのおまけ。シーナをお膳立てするための添え物だ。少なくとも四人でいる間は、そのつもりだった。

「……絹川君」

 そろそろ左腕が痺れてきた頃、ふと佳奈が健一の名前を呼んだ。
 何事かと首を傾げると、安堵したような表情で、

「色々、本当にありがとね」
「ええと……僕、何かしました?」
「協力してくれたじゃない。絹川君がいなかったら、こんな風にシーナさんとデートなんて絶対できなかったと思うし……感謝、してるのよ」
「それはまあ、口添えはしたかもしれませんけど……シーナがその気じゃなければ、ここまで来られなかったと思いますよ。佳奈さん、可愛いですからね」
「……そ、そうかな」
「はい。……なんで目を逸らすんですか」
「だって……いきなり面と向かって可愛いとか言われると、照れるじゃない」
「シーナに言われたならわかりますけど、僕なんかに言われて照れるものなんですかねえ」

 途端に「何言ってんだコイツ」という目をされた。

「自覚ないの?」
「え?」
「絹川君って、外見だけならどう考えてもモテるじゃないの」
「そんなことないと思いますけど……」

 実際、中学生の頃はそういった話にも縁がなかった。
 健一にとって代表的な“女性”は姉の蛍子であり、恋愛という言葉から想起されるのは両親の冷えた関係だ。故に、異性そのものに興味がなく、また恋愛にも苦手意識を持っていた。
 ――僕に恋愛は向いてない。
 恋をすることにも、誰かを愛することにも、実感がなかった。
 ならば逆説的に、そんな自分に魅力はないだろう、と。
 今も健一は思っている。
 そう、思おうとしている・・・・・・・・

「こっちのクラスにも、絹川君のこといいなって言ってる女の子は結構いたわよ?」
「……初耳ですね」
「みんな綾さんのこと知らないんだし、もう少し言動とかには気を付けた方がいいんじゃない? 勘違いで恋愛関係のトラブルに巻き込まれかねないし」
「はあ」
「ただでさえ、今をときめく『シーナ&バケッツ』のバケッツなんだから、シーナさんほどじゃないにしても、ちょっとファンの女の子に優しくしたらすぐ誤解されるから」
「……気を付けます」

 反論する隙間もなく言葉を叩き込まれ、勢いに押されて頭を下げてしまった。一応多少は心配してのことであるのはわかるので、素直に受け止めておく。
 横で一部始終を聞いていた綾は、ここまで全く口を挟まなかった。ただ、抱きしめる腕の力がほんの少しだけ強まったのを感じた。
 微妙な空気になりかけ、どうしたものかと頬を掻いたところに、場に似合わない陽気な挨拶が響いた。

「おっす! お、もうみんな揃ってんだな」
「シーナさんっ!」
「ふ……今日も佳奈ちゃんは可愛いね」
「きゃ――――! そういうシーナさんこそ今日もすっごくカッコいいです!」

 あっという間にバカップルオーラを醸し出す二人に、健一は早くもげっそりした気持ちになった。腕を組んでいても、自分はこうはなれない。というかなりたくない。
 そんなこちらに遅れて意識を向けたシーナは、目線で「わかってるよな?」と訴えながら、

「健一、綾さんももう行けそうか?」
「二人ともさっきからずーっと腕組んでるんですよ。ホント熱々っていうか、ここまで来ると何だか邪魔しちゃいけないような気になりますよね」

 準備の有無を訊いた直後、すかさず佳奈が間に入ってくる。
 健一には、一瞬彼女の瞳がぎらついて見えた。
 佳奈がシーナの正面に回る。にこっと笑って腕を取る。綾と同じく抱きしめるようにし、胸を押し付けて密着した。シーナの顔があからさまに緩んだ。

「ダブルデートの提案しておいてこんなこと言うのは申し訳ないけど……私、シーナさんとふたりっきりの方がいいな」
「お、おう、か、佳奈ちゃんえらい積極的だな、本当」

 既に表情や声を取り繕えてさえいない。
 鼻の下がだらしなく伸びている。佳奈の側から見えてないのが幸いだった。

「絹川君と綾さんはどう?」
「……そうですね、僕も二人の邪魔はしたくないですし」
「ちょっ、健一、お前それは冷たくないか?」
「いや、その調子なら別に一緒にいなくても大丈夫そうかなって」
「んー、私も健ちゃんと二人きりの方がいいかな」
「綾さーん……」
「ということで佳奈さん、シーナとゆっくり楽しんできてください。僕達も折角の土曜ですし、適当にぶらつきますから」
「うんっ、ありがと! さ、シーナさん、行きましょっ」
「……オッケー。なら精一杯エスコートするぜ」

 少々強引な突き放し方ではあったが、どうにかシーナも覚悟を決めたらしい。いざとなれば健一よりよほどプレッシャーに強いのだ。
 仲良く寄り添って歩いていくふたつの背中を見送り、健一はほっと息を吐いた。重い肩の荷が下りた気分だった。

「行っちゃったねえ」
「行っちゃいましたね」
「これからどうするの?」
「どうしましょうか……」

 デートプランを佳奈に一任していたので、健一には行き先の案がほとんどない。元々聞いていたのだって、ウインドウショッピングをしてからどこかおいしいところで軽食とお茶、程度の大雑把な案である。
 これが佳奈とシーナなら問題ないだろうが、綾がウインドウショッピングに興味を持っているはずもなく。となると食事処だが、残念ながらこの辺りには全く詳しくない。

「……綾さんはどこか行きたいところあります?」
「ホテル――」「は駄目です」
「えー。じゃあ、甘い物とか食べたいかな」

 珍しく女の子らしい提案に、少し頭を悩ませる。
 佳奈が言っていた船堀屋も悪くないと思うが、根本的に駅前は人通りが多く、綾に向かない場所だ。さっきから組んだ腕に掛かる力が強いのは、おそらくそういうことだろう。
 なるべく人の少ない、健一でも知ってる場所。
 そう考え、一箇所だけ閃いた。

「ちょっと歩いてもいいですか?」
「健ちゃんと一緒でこのままなら平気だよ」
「わかりました。案内しますから、行きましょう」

 人波から離れるコースへ歩を進める。
 ――目指すは『モン・サン・ミシェール』だ。










 半ば来た道を戻る動きになったが、隣の綾は不平不満のひとつも口にしなかった。健一とくっついているだけでご機嫌なのか、突発的にスケッチブックを取り出す気配も一切見られない。
 大通りから徐々に細いルートへ。住宅街の中に位置する目的地は、一方通行の交差点も多く、自動車では向かい難い場所にある。
 有り難いことに、健一は方向音痴ではなく、また記憶力も良い方だ。エリと共に通った道もだいたいは覚えている。おかげでさして迷わずに着けた。
 土曜の昼だからだろう、些か辺鄙な立地にもかかわらず、少しだけ列ができていた。ここまで来て帰るわけにもいかないので、大人しく最後尾に並ぶ。あまり回転は早くないが、多少なら待つのも一興かもしれない。
 客はやはり八割が女性で、男性も大半はその連れのようだった。店の雰囲気から見ても、男一人で訪れるにはハードルが高い。健一とて自分だけなら、入るのを躊躇してしまうはずだ。
 待ち時間の間に、店員がメニューを持ってきた。中に案内された時、すぐに物が出せるよう配慮してのことだ。前回は目を通す必要もなかったが、こうして見るとなかなかにケーキの種類が多い。ドリンクも、単純にコーヒー紅茶というわけではなく、色々と種類があるようだった。
 もっとも、何がおいしいかなんてわかるわけもない。
 健一は安牌のサギリ・ロールを選び、特にこだわりのない綾も同じ内容を選んだ。少し気は引けたが、コーヒーは濃い淹れをお願いした。
 程なくして店内に案内され、奥の席に通される。
 そこで丁度、カップに唇を付けかけた遠い別席の女性と、たまたま目が合った。

「……あ」

 お互いに動きが止まる。
 カップをゆったりとソーサーに戻し、腰を上げ、近付いてきた女性が、うっすらと笑みを浮かべた。
 見間違うはずもない。

「健一さん、ですよね?」
「はい。八雲さんの妹さん……狭霧さん、ですよね」

 八雲狭霧だった。



 結局、健一は前回と同じスペースを陣取ることになった。
 狭霧が店員にいきなり話しかけ、移動と相席を提案してきたためだ。
「並んでるお客さん達には悪いですけど、私、ここではちょっとだけわがままが利いちゃうんです」とは彼女の弁だが、どうやらこの店における狭霧はいわゆるVIP待遇らしかった。

「こんなところでお会いするなんて、すごい偶然ですね。健一さんは何故こちらに?」
「ええと、まあ、デート的な何かです」
「はっきりデートとは言わないんですね……ふふ、お隣の方がお相手ですか。よろしければお名前を教えていただけますか?」
「あー……すみません、一度こうなると落ち着くまで集中しっぱなしになるんです」

 びびっと来るものを見つけたのか、つい先ほど綾はスケッチブックを取り出し、凄まじい勢いでペンを走らせていた。瞬きさえ惜しむような筆速に、向かいの狭霧は驚き半分、感心半分といった表情を見せる。

「代わりに紹介しますね。桑畑綾さんです」
「桑畑……あの、外れてたら恥ずかしいんですが、もしかして“アヤ・クワバタケ”と同一人物ですか?」

 後半は小声で訊いてきた狭霧に、今度は健一が驚いた。綾自身、有名な割にメディア露出が皆無なため、その正体を知る者はほとんどいない。そもそも、名が売れているといっても芸術方面での話なのだ。お茶の間の誰もが知っているようなタイプではないが、それでも面と向かって言い当てたのは、健一が把握している限り狭霧が初である。

「……たぶん狭霧さんの想像してる通りです」
「やっぱり……お名前もですけど、今描かれてる絵を見て、そうなのかなって思ったんです。あ、勿論大声で言い触らしたりはしませんよ?」
「そこは心配してないです」
「ありがとうございます。この辺りにお住まいなんですね」
「まあ、そうですね。成り行きで知り合うことになって、半分お世話係みたいになってます」
「健一さんらしいですね」
「……どうしてそう思いました?」
「本当に困ってたりする人を放っておけなさそうなので」

 褒められてるのかからかわれてるのか。
 柔和な表情からは、非常に本心が読み難い。
 返答に困っていると、隣で「できたー」と暢気な声が聞こえた。
 それから辺りを見回し、えへへ、と苦笑い。

「……またやっちゃった」
「むしろ今までそうならなかったのがびっくりですよ」
「言ったでしょ? 健ちゃんがいてくれるなら大丈夫だって。……あ、ごめんね、名前とかちゃんと聞いてなかった」
「八雲狭霧です。綾さん、ってお呼びしても?」
「いいよー。私も狭霧ちゃんって呼ぶね」
「はい、その方が嬉しいです」

 人見知りだが、打ち解ける時は一瞬なのが綾の長所だ。
 女性同士なのもあってか、健一を介さずともすぐに仲良くなれたらしかった。狭霧の要望で今もスケッチブックを見せている。
 何を描いたのか気になった健一も、ちらりと目を向けた。
 展示用の古びたティーセットが原型のようだが、辛うじて判別できる、というレベルでアレンジがされている。頂点からは枝めいた細く複雑な線が幾重にも伸び、ペンの濃淡で金属的な色合いを出しながらも、生物的な躍動感が強く出ていた。
 紙面から飛び出し、すぐにも動きそうな。
 そういう印象を、誰が見ても与えるラフスケッチ。

「……すごいですね」
「そうなの? 自分じゃよくわからないんだ」
「正直お名前を聞いてもあまり実感はなかったんですけど、この絵を見て今更ながら湧いてきました」
「まあ、これだけ見れば確かにすごい人なんですよね……」
「ねえ健ちゃん、ひょっとして私褒められてる?」
「一応は」
「そっか。なんだかちょっと嬉しいな」

 恥ずかしげにスケッチブックを仕舞い、綾は吐息を落とした。並外れた集中力は、精神的な疲労を招く。それを察した狭霧は場の空気をリセットするように、わざとカップを持ち上げる際かちゃりと音を鳴らした。
 それに呼ばれたわけではないだろうが、ぴったりのタイミングで店員が健一達のケーキセットを運んでくる。
 しっとりした見た目のサギリ・ロールに綾は目を輝かせ、申し訳程度に手を合わせて大胆にフォークを差し込んだ。

「んー、おいしいねーこれ。はい健ちゃん、あーん」
「僕も同じのを頼んだんですけど……」
「だってあーんしてみたかったから」

 顔を引く。綾がフォークをさらに突き出す。
 危うく乗っていたケーキの欠片がずり落ちそうになり、諦めて健一はぱくりとフォークを咥えた。

「おいしい?」
「自分のと味は変わりませんね」
「あーん」
「……何やってるんですか」
「お返しに健ちゃんからもやってくれないかなって」
「やりません」
「えー」
「ふふっ、二人とも仲が良いんですね」

 否定はできないが全肯定するのも抵抗がある。
 複雑な表情になった健一と、にへーと緩んだ顔で頷いた綾の対照的な構図に、狭霧はもう一度含み笑いをこぼしたのだった。










 狭霧との談笑は一時間にも及んだ。
 初めこそ無難だったトークの内容は、何故かあまり大声で言えない、ぶっちゃければエロ方面に逸れていったのだが、途中から現実逃避した健一は二人のやりとりをほとんど覚えていなかった。堂々とそっちに走る綾も綾だが、さらっと受け答えする狭霧も狭霧である。
 別に意外だとか、似合わないからどうこう、というわけではない。
 一見では清楚な感じの狭霧にだって、そういったことに対する興味は持ち合わせているだろう。ただ、それはそれとして、堂々と話されると困る。
 おかげで去り際はまともに顔を見られなかったが、そこで平然と「では、またお会いしましょう」なんて言える辺り、大変いい性格をしていると思う。
 店を出れば他に行きたい場所もなく、今は帰路の途中だ。また綾は健一の腕を抱き、少し傾いた姿勢で歩いている。

「狭霧ちゃんって、管理人さんの妹さんなんだよね」
「前に確認しましたけど、そうだって言ってました」
「色々と似てないよねえ」
「顔は結構似てると思いますけど……。輪郭とか、目元とか」
「うん、でも性格はかなり違うでしょ?」
「……まあ」
「私一人っ子だから、兄弟とか姉妹がいる人の気持ちってわからないけど、どうなのかな」
「あんまりいいものじゃないですよ」
「そう? 健ちゃんは楽しそうだし、嬉しそうだよ」
「なんですかね。自分じゃやっぱりわからないです」
「そっか。お互いわかんないことだらけだ」
「はい」

 今頃、シーナと佳奈は上手くやっているだろうか。
 テンパって勢い余ってホテルに突入、なんてアホなことにはなっていないと思いたい。けれど、もしかしたらキスくらいはするのかもしれない。
 シーナも、日奈も、佳奈が好きだと言っていた。
 では、好きとは何なのだろう?
 一緒にいたいと思うこと?
 セックスしたいと思うこと?
 それはかつても、何度か己に投げかけた問いだ。
 そして問いかける度、健一は自答する。
 わからない。
 自分のことも、他人のことも。
 きっと、わかることの方が少ないのだ。

「健ちゃんは今日、楽しかった?」
「はい。綾さんはどうでした?」
「楽しかったよ。一緒にこうやって歩いて、おいしいものも食べられて、狭霧ちゃんともお話しできて」
「ダブルデートって話はどこかに行っちゃいましたけどね」
「あはは、いいんじゃないかな。たぶんあの二人もめいっぱい楽しんでるよ。私が混ざったって、邪魔になるだけだったと思うし」

 からっとした口調で、綾は自身を卑下する。
 健一はフォローの言葉を探そうとしたが、それを察した綾が首を小さく横に振った。

「健ちゃんはいつも、私に・・優しいね」
「……綾さん?」
「でもね、それじゃいけないなって、最近、思うようになったんだ」

 綾の足が止まる。
 釣られて、健一の足も止まる。
 するり、左腕に絡んだ感触が消えた。横を見る。綾の瞳が、真っ直ぐ健一の目を射抜いている。
 まるで泣きそうな。
 怯えたこどものような。
 それでいて、咲きかけの花のような。
 淡い表情。

「ねえ、健ちゃん。私、大人になりたい。そうしてあの場所から、十三階から出ることになるんだとしても」
「綾さんは……もう充分、大人じゃないんですか? 仕事もしてて、収入があって、ちゃんと生きていけるんじゃないんですか?」
「そんなことないって、健ちゃんが一番良く知ってるでしょ? 一人じゃ遠出もできない。ご飯もつい抜いちゃったりする。お母さんにもお父さんにも、迷惑しか掛けてない」

 だから、

「できないこと、できるようにならなきゃ。健ちゃんに世話されてばっかりじゃ、駄目だから。ちゃんとしなきゃって、そう思うの」
「……どうして、です?」
「健ちゃんと、ずっと一緒にいたいから、かな」

 その時健一は、初めて知ったのだ。
 どれだけの気持ちを向けられているのか。
 途方もない壁に、どうしようもない現実に、弱くてちっぽけで幼いままの子供が立ち向かおうとするほど、変わろうとするほど、自分が彼女にとって、大きな存在であることを。
 突きつけられた感情の重さに固まってしまった健一に、改めて綾は笑いかけた。今度は指先を手繰るように掴まれ、引っ張られる。それは微かな力だったが、半ば呆然とした健一は僅かに姿勢を崩し、頭が下がった。
 閉じた目。揺れる睫毛。
 近いと思って、触れると思って、その通りになった。
 綾の唇は少しだけ冷たく、ケーキを食べた帰りだからか、ほんのり砂糖の味がした。

「……ちゃんとキスしたのって、もしかしてはじめてかな。変だね、あんなにエッチしたのに」

 絹川健一にとって、桑畑綾は。
 危なっかしくて、放っておけなくて、心配で、エッチ過ぎるところが玉に瑕で――

「ごめんね。でも、いつでも私はしたいって、思ってるから」

 ――本当に向き合うべき女性へと、変わったのだ。










 料理のレシピ本を買った、帰り道のことだった。
 冷凍物や昨晩の残り物に頼らないレパートリーを増やすため、自腹を切っての勇気ある購入。トートバッグに書店の包装がされた本を入れ、早足で自宅を目指していた千夜子は、とんでもない光景を目の当たりにしてしまった。
 路上で男女がキスしてる。
 慌てて後ろにダッシュして、さっと物陰に隠れてしまい、別にこっちは悪くないんじゃ……と思いながらも、件の二人をじっと見てみる。
 えっ、と素の声が漏れた。
 まさかもまさか、男の方は自分が懸想している相手、絹川健一だった。ちょっと有り得ないというか信じたくない状況にくらくらしつつ、女の方も観察。
 見覚えがある、どころじゃなかった。忘れもしない、意を決して彼に告白しようとした当日、どこぞのマンションに健一を連れ込んだ女性その人だ。
 顔はすぐ離れたし、もしかしたらキスじゃなくて何か別のことだったんじゃ。いやいや現実逃避はいけない千夜子、どう考えてもキスでしょあれ。ぐるぐるまとまらない考えが頭の中を高速で回転し、もうそのまま卒倒したい気分だった。
 何事かを話し、すぐに二人はまた歩き始める。その背中を虚ろな目でしばらく眺め、はっと気を取り戻し、千夜子は反射的に追いかけた。追いかけてどうするか、それは全くノープランである。
 付かず離れず、万が一振り向かれても気付かれない距離を保って尾行を続けること十五分弱。いつかのマンションに入っていくのを見届け、千夜子は盛大な溜め息を吐いた。
 まだ心臓がばくばくしている。鼓動は喉元までせり上がっているようで、無意識に深呼吸をした。
 ほんのちょっとだけ落ち着く。
 ……とりあえず、状況を整理しよう。絹川君が前にも見たあの女の人とキスして、おんなじマンションにまた入ってったんだよね。ええと、つまりさっきはデートの帰り? っていうことは付き合ってるの? やっぱり?
 あっという間にネガティブな方面へと思考が傾き、じんわり涙が出そうになる。まだ完全に確定したわけじゃない。でも、これって希望……あるの……?
 今の姿を誰かに見咎められれば、不審者として通報コースも有り得たかもしれないが、幸い人通りの少ない住宅街、千夜子の痴態を発見する人物はいなかった。
 ここは玄関まで突入すべきかと些か物騒な考えに行き着きかけたところで、先ほどの女性が同じ服装でマンションから出てきた。
 今度は迷わない。ターゲットを定めた千夜子は、女性の尾行を再開した。
 一見手ぶらだが、ポケットが軽く膨らんでいる。お財布入れてるのかな、と見当を付け、微妙にふらふらしがちな足取りを追う。
 やがて女性は、近場のコンビニに入店した。勿論一緒に中へ入れば怪しまれかねないので、外から観察する。棚に隠れてちょこちょこ見えなくなるものの、どうやらお菓子と飲み物を買いにきたらしい。さらっと会計を済ませ、店から出てくる。
 ……今しかない、と思った。
 ここで引いたら、チャンスは二度とないかもしれない。
 健一と彼女がいったいどういう関係なのか、知りたかった。
 物陰から一歩踏み出す。正面、ビニール袋片手に歩く彼女と目が合い、

「……桑畑、綾」
「あれ……蛍子ちゃん?」

 しかしその声は、千夜子の背後から聞こえてきた。
 振り向く。あの女性を名前で呼んだ声の主は、千夜子が知る人物だった。

「大海の、妹か?」
「……蛍子さん?」

 大海千夜子。桑畑綾。絹川蛍子。
 三人の女性が一同に介した瞬間だった。



 有り体に言って、場を支配しているのは非常に険悪かつ張り詰めた空気である。
 偶然に三人が遭遇した後、ひとまず腰を据えて話せる場を、ということで、近くの喫茶店に揃って入った。個人経営の、雰囲気は悪くないがどうにもぱっとしない感じの場所だ。その分店内に客はおらず、千夜子達が現状では唯一だった。
 四十か五十代らしきマスターが注文を聞きに来る。メニューはテーブルの端にひっそりと立て掛けられていたが、蛍子は何も見ずにブレンドを頼んだ。綾と呼ばれた女性も、特にこだわりはないのか同じものを頼み、千夜子も流されるまま同調する。ただならぬ空気を感じてか、マスターは「かしこまりました」とだけ頷いてそそくさとカウンターに戻っていった。
 テーブルは窓際で店内隅の四人席、配置は蛍子と綾が窓側で、何故か千夜子が綾の隣である。煙草を吸うと言った蛍子が、一応千夜子に気を遣ったらしいのだが、知らない人の隣に座る方が……とは勿論口にできなかった。
 銀色の灰皿を手元まで引き、蛍子が咥えた煙草にライターで火を点ける。ゆらゆらと漂う煙がなるべく千夜子達に掛からないよう、吸う間はそっぽを向くくらいには、まだ冷静なようだった。
 家では誰も吸わないからか、千夜子にとってのそれは嗅ぎ慣れない匂いだ。店内に染み着いたものと混ざって、何とも言えない気持ちになる。もっとも、隣の綾は平然としていて、むしろ少し心配にすらなった。
 五分と経たないうちに、マスターがブレンドを三つ運んできた。ことんと置かれたカップからは、煙草とはまた違う香ばしい匂いがした。
 綾がざらざらと砂糖を入れる。千夜子もブラックは厳しいので、その後に甘くなり過ぎない量を投入。蛍子は砂糖のポットに触れる気配もなかった。

「……久しぶりだな」
「うん。蛍子ちゃんは元気そうだね」
「この辺に住んでるんだったな。健一から聞いてる」
「いいとこだよ。蛍子ちゃんは大学生なんだっけ」
「もう単位もほとんど取ったし、今はあんまり行ってないけどな」

 二人の関係を最初千夜子は掴みかねていたが、昔の同級生だというのは察せられた。ただし、明らかに仲は良くない。今も蛍子は刺々しさを隠そうとしていないし、それに対する女性――桑畑綾と呼ばれていた――は気付いていないようでもあった。
 というか、桑畑綾ってどこかで聞いたことあるような。
 しばし首を傾げ、思い出す。

「桑畑さんって、記念館の……?」
「記念館?」
「えっと、私のお父さんが区のお仕事してるんですけど、今関わってる話にそういうのがあって……」
「錦織さんが進めてるのかな。私はそういうの全部任せちゃってるから、よくわかんないけど、なんかやってるって言ってたよ」
「じゃあ、桑畑さんってやっぱり、あの公園のオブジェを作った人……なんですか?」
「うん。あれは小学生の頃に作ったものだよ。あと私のことは名前で呼んでいいからね」

 とんでもない有名人だった。
 桑畑綾。アヤ・クワバタケ。
 瓶井戸公園に展示されている『時の番人』のようなオブジェを主に製作する美術者だが、世界的にはデザイナーとしての面が有名だ。メディアを嫌っているのか本人の露出は皆無で、出身地と簡易なプロフィールのみが公開されている。
 それらは全て父からの受け売りだったが、自分の住んでいる街にそんなすごい人がいるんだ、と千夜子は感心したものである。
 当然、本人とこうして出会うことになるとは考えもしなかった。……しかも、自分の想い人絡みで。

「あ、そういえば名前聞いてなかったね」
「すみません。大海千夜子です」
「千夜子ちゃんだね。私は桑畑綾だよ」

 この状況においてぽやぽやとした笑顔を浮かべられるのは、精神が図太いからか単純に鈍いからなのか。おそらく後者だろう。悪い人じゃないけど変な人だ、と千夜子は思った。

「それで蛍子ちゃん、どうして私とお話ししようって思ったの? 私は蛍子ちゃん好きだし、すごく嬉しいけど……」
「私はお前が嫌いじゃないのか、って?」
「……うん」
「そのくらいはわかるようになったのか」

 千夜子にしてみれば、印象が変わったのは蛍子の方だ。
 二度電話で話し、夏祭りで顔を合わせた時には、こんなにもピリピリした感じはなかった。ぶっきらぼうながら気遣いのできる、ちゃんとした大人。少なくともそう認識していた。
 今は、敵意が見える。
 女としての勘が訴えていた。大半は綾に向けられているその感情が、自分にもいくらか注がれていると。
 けれど、何故かがわからない・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
 恨まれたりするようなことなんて、ないはずなのに。

「前に、健一に古い服をやったことがあった。……あれは、お前に着せるためだな?」
「健ちゃんがお姉さんからもらってきたって言ってたから、そうかな」
「ちょくちょく帰りが遅いのも、お前に会うためか?」
「そういうわけじゃないと思うけど、結構毎日のように会ってはいるよ? みんなと一緒にご飯作ってもらったりしてるし」
「今日アイツが出かけたのも……お前のためか?」
「健ちゃんはシーナ君のためだって言ってたけど、うん、今日のはちゃんとデートだったと思う」

 まだ半分近く残った煙草が、ぐりぐりと灰皿に押し付けられた。断末魔めいた煙を最後に火が消える。
 覚悟はしてたけど、デートとか一緒にご飯とか……。想像以上に切ない現実を突きつけられた千夜子はかなりショックを受けていたが、それが一瞬で吹き飛んだ。
 蛍子が、怒っている。
 二本指で握った煙草の尻が醜く潰れていた。

「また、またお前は私から大事なものを奪うのか……っ!」
「蛍子ちゃん、落ち着いて」
「私は不安なんだ、不安なのに、待つことしかできないんだ! その気持ちがわかるか!? いつアイツがあの家を出てくのか、私を見捨てていなくなるのか、考えるだけで……死にたくなる」
「蛍子ちゃん」
「……悪い。大声を出した。大海の妹も、すまん」
「あ、いえ……」

 いまいち事情は把握できない、けど。
 蛍子の叫びはちょっとつつけばそれだけで崩れそうで、脆くひび割れていて、本当に剥き出しの心に触れてしまったような、見てはいけないものを見てしまった気がした。
 どうして私はここにいるんだろう、とか。
 今聞いたことは忘れるべきなのかな、とか。
 色々考えてみたけれど、ただ傍観者で居続けることだけは駄目だと思った。だって少なからず、自分にも関係あるはずなのだ。
 絹川健一。
 この場の三人にとって、彼こそが中心だから。

「あの、綾さん、ひとつ訊いてもいいですか?」
「何?」
「絹川君と……どういう、関係なんですか?」

 口にして、じっと綾を見つめる。
 その眼差しに、彼女は表情を柔らかく緩めた。
 何かに感づいたように。

「できたら、ずっと一緒にいたいなって思う人だよ」

 奇しくも同じ想いを抱くからこそ。
 千夜子も、蛍子も、理解できてしまう。
 綾は本気だった。切実な願いの言葉だった。

「千夜子ちゃんは、健ちゃんとどんな関係なの?」
「……クラスメイトです」
「そっか。うん、きっと、そういうことなんだよね」

 蛍子が主導権を握っていたはずの場は、いつの間にか綾が中心になっていた。苛つきを抑えきれない蛍子にも、彼女は言う。

「ねえ、蛍子ちゃん。私、健ちゃんが好きだよ。でも、それって私だけじゃないし、私だけじゃなくていいって、そんな風にも思うんだ」
「……お前、やっぱりおかしいよ」
「うん。知ってる・ ・ ・ ・
「私は、お前みたいにはなれない」
「難しいかな」
「お前にとっては、アイツだけなのか?」
「……たぶん違うよ。ううん、違うようになった」
「だからだ」

 そう、だからどうしようもない。
 想いも。時間も。現実も。
 なにひとつ、止まってはくれない。
 絹川蛍子は二人だけの世界を望んだ。
 桑畑綾は求め、縋るだけでない道を選んだ。
 そして大海千夜子は、困惑し、理解の外に置かれながらも、ようやく舞台へ至るきっかけを見つけたのだ。



 支払いは綾が千夜子の分もしてくれた。
 蛍子の分も出すと言ったが、頑なに固辞して、そのまま去っていってしまった。最後まで険悪なままだったが、ほんの少し隔意が薄くなったように感じたのは、錯覚ではなかったかもしれない。
 別れ際、僅かばかり二人で話す時間があった。
 綾は世間的な評判とは似ても似つかない、とびっきりの変人だった。常識不足で会話もよくズレる。年上のはずなのに危なっかしくて心配になる。どうにも憎めない人。
 自分にとっては恋敵だ。まだ健一とは付き合ってないらしいが、千夜子よりはよほど芽があるだろう。状況は劣勢、負け戦の予感もひしひしする。ツバメはいつもこんな気持ちなのかな、と思って、いやそんなことないかと苦笑した。もっとあの親友は、後先考えないでとりあえず玉砕するタイプだ。
 それでも、負けられない。負けたくない。
 好きな気持ちに嘘は吐けないし、相手がいるからってそれで諦められるほど淡い感情でもない。胸を焦がすこの炎は、きっと世界で一番確かなものだ。

「……うん。私は絹川君が、好き」

 噛み締めるように呟く。
 呟いて、千夜子は心を決めた。
 あの日し損ねた告白を、もう一度しよう。
 そのための覚悟を、成功の可能性を、ちょっとずつでも積み重ねよう。

「頑張ろう。……えいえい、おー!」

 周りに誰もいないことを確認して、一人気合を入れる千夜子だった。



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何かあったらどーぞ。