佳奈にシーナと会わせる約束をした、と健一が伝えてから、実際に日取りを決めるまでには二日を要した。これはシーナが混乱し、そして落ち着き覚悟するまでに掛かった時間である。
 シーナの慌てぶりたるや本当に酷いもので、健一から聞いた直後は日奈に戻ったほどだった。どうしようどうしようと1305を右往左往した挙句、その日は思考放棄してライブに集中した。終わった後にまたテンパった。
 待ちに待った機会が訪れたのだから、正気でいられないのもわからなくはないが、先行きが不安になるのも仕方ないだろう。当日はどうにか調子を取り戻したものの、手綱を離せば風船よろしく、そのままふわふわ飛んでいってしまいそうな危うさがあった。
 端的に言って、一周回ったシーナは浮かれていた。
 それを佳奈に気付かれないよう何度も注意しながら、迎えた約束の日。
 ライブ自体に、問題はなかった。微妙なアッパーテンションが上手く作用したらしく、観客も弾むシーナの歌声に釣られて普段以上の盛り上がりを見せた。
 そこには佳奈と、彼女の友達も当然混ざっている。
 自然、ライブ後の顔合わせでも、興奮冷めやらぬ様子だった。

「今日もすっごくカッコよかったですっ!」

 会場から少し離れた待ち合わせの場所に向かうと、二人の少女が健一とシーナを認めてぶんぶん手を振っていた。近寄り、挨拶をして早々の、佳奈の言葉がそれだ。
 気の所為か佳奈は服装にも気合いが入っており、秋口の夜にもかかわらず、こころなしか肌の露出が多い。
 隣の少女が、佳奈の言っていた中学時代のクラスメイトにしてバケッツのファン、なのだろう。どうしても佳奈と並ぶと地味な印象がついてしまうが、年相応に可愛らしい面立ちだった。
 全身からキラキラした雰囲気を放っている佳奈と対照的に、彼女(佳奈には美里ちゃんと呼ばれていた)はいくらか冷めた感じがある。
 ぐっとシーナに詰め寄り、今にも手を掴みそうな佳奈。この光景、前にも見た気がする。

(……ああ、ツバメと同じだ)

 ツバメと千夜子をシーナに会わせた時も、ほとんど一緒の反応だったと思う。違うのは、対するシーナの表情だ。
 誰が見てもわかるほど、ゆるっゆるに緩みきっていた。
 完璧に浮かれている。
 少し離れた位置でついジト目になってしまった健一の隣に、同じく二人を眺めていた美里が抑えた声で呟いた。

「あんまりいい展開じゃなさそうですね」
「え?」
「いや、佳奈ちゃん結構本気な感じがして……」
「……本気だと何かまずいんですか?」
「個人的には、ですけど、やっぱりどこかで一線を引くべきだと思うんですよね。お二人とも、もうほとんどアイドルみたいなものですし」
「アイドル……なんですかね。実感は全然ないですけど」
「これだけ有名になって人も集まってるのに、普通だって主張するのは難しいと思いますよ。アイドルって、普通とは違う、虚構の存在じゃないですか。私達が同じだなんて、勘違いはしちゃいけないんじゃないかなって」

 随分冷静な意見だが、納得できる話でもあった。
 例えば綾は、周囲と隔絶した才能の持ち主だ。彼女と同じ世界、同じ場所に行けるかと言えば、健一は首を横に振る。大多数の人間、ともすれば綾以外の全てが、決してそこには辿り着けない。
 それでも追えば、あるいはそこそこの高さまで飛べるだろう。しかし、目指す背中は遠過ぎる。遠過ぎて、絶望的な差をいつか思い知らされる。
 程度や質の違いはあれど、シーナも似たようなものだ。
 少なくとも美里にとっては、そう見える。
 裏の事情に噛んでいなければ、健一も遠い世界の存在として捉えていたかもしれない。

「バケッツさんは素顔の方がクールな感じですけど」
「あはは」

 いきなり真顔のままで告げられ、少し笑いが引きつった。どう返すべきか、ちょっと困る。

「佳奈ちゃんから聞きました。彼女はいないけど、彼女になりそうな人はいるんですよね?」
「……こういう時は『どうかな?』とか言った方がそれっぽいんですかね」
「ま、そうですね。どうせ付き合えないんだから、嘘でも希望を持てる方がファン的には嬉しいですよ。前置きで台無しになってますけど」
「腹芸は苦手なもので」
「純朴なところはグッドです。配点上がります」

 遠目で見た限り、ライブ中は美里も佳奈と同じくらいはしゃいで、楽しんでいた。それでいてこの態度は、本人の言葉通り、線引きをきっちりしているのだろう。
 独特なこの会話のリズムも、健一は嫌いではない。あまり表情を変えず、右手を握って親指だけを上に向けて見せた美里に、健一は後ろ頭を掻きながら小さく頷いた。
 と、シーナ達の側から黄色い悲鳴が響いてくる。
 言うまでもなく佳奈だった。シーナと握手して、もう早くも「死んでもいい」とばかりに喜色満面である。
 ますますツバメの姿と被り、さらに健一のジト目は深くなった。

「バケッツさん、すごい顔になってますね」
「佳奈さんが知り合いに滅茶苦茶似てるんですよ」
「どんな風にです?」
「最初の台詞から今のところまで、シーナに会わせた時の反応がほとんど一緒で」
「アイドルと実際に会えた女の子の見本みたいですよね、あれ」
「美里さん……えっと、名字知らないですけど、名前で呼んじゃって大丈夫です?」
「ああ、別にいいですよ。むしろ名前呼び大歓迎です。さん付けしないとなおいいです」
「じゃあ、美里さんで」
「あはは、じゃあって言いながらさらっとさん付けしちゃうんですね。バケッツさんって面白いです」
「……僕ってそんな変ですか?」
「変っていうか、こっちの想像からちょこちょこズレるところが面白いですね。私はシーナより断然バケッツさんを応援しちゃいます」
「あんまり褒められてる気が……。それに応援するなら、シーナの方が格好良いと思いますけど」
「まあ、格好良さで言えばシーナです。でも私は、面白い人の方が好きなんですよ。ハーモニカがあんな上手いのに何故かバケツ被ってて、しかも外すと実は格好良いって、そういう無駄な部分もツボです」
「はあ……そんなものですか」

 もしかしなくとも珍獣扱いされているだけなのでは、という疑惑を覚えたが、にこにこしながら楽しそうに喋っていたので、だいたい嘘ではないのだろう。面白いか否かで言えばシーナも大概なのだが、ライブ時は大量の猫を被っているため、わからなくて当然である。

「バケッツさんは『サギリ・ロール』って知ってます?」
「サギリ・ロール?」
「『モン・サン・ミシェール』っていう、四丁目にあるケーキ屋さんで出してるんですけど」
「確か、幹久……辻堂幹久さんのお店ですよね」
「ですです。そこの新作なんですけど、一見するとただのロールケーキなんですよ」
「ああ、ついこないだ食べました。見た目はロールケーキだけど、実は味や食感の違う層をいっぱい重ねてるんですよね」
「はい、それです。あれ食べた時、私感動しちゃいまして。これ作った人は馬鹿なんだなって。あ、勿論悪い意味じゃなくて」
「わかりますよ。一緒に食べた人も『アホね』って言ってました」
「じゃあ話は早いですね。バケッツさんも、それと同じ感じなんですよ。顔出した方が絶対人気出るのに、わざわざバケツで隠して、しかもストリートライブなのにハーモニカ。クールです。すごいクールです」
「……ええと」

 大勢の前で顔出してライブするのが恥ずかしいから被ったとか。
 慣れてきた今は逆にバケツ被ってる方が恥ずかしいとか。
 いきなりシーナに誘われて適当な楽器ってことで渡されたのがハーモニカだっただけとか。
 得てして真実とは、知られるべきではないものも多い。
 絶対言えないな、と健一は静かに二の口を閉ざした。
 そうこう話しているうちに、シーナと佳奈は次のステップへ進んでいた。腕を組み、佳奈がさっきの三割増しで悲鳴を上げる。ここまで来るともう叫び声に近い。

「あれは完全にこっちのこと忘れてますね」
「二人だけの世界って感じですね……。それにしても、ああいうのって定番みたいなのでもあるんでしょうか」
「定番ですか?」
「会って話して手を握って、腕を組んだりするような」
「ステロタイプというか、そんなイメージがあるのは確かですねえ。例えば手を握る代わりに胸を揉んだり、いきなり一緒にお風呂入ったりするのはおかしいですし」
「……そうですね」

 だいたい以前に綾としたことである。
 現実への引け目が健一の言葉を濁らせた。

「胸と言えば、バケッツさんは大きい方が好きなんですか?」
「訊かれて正直に答える方が珍しいと思いますけど」
「なるほど、そういうのにはオープンじゃない、と。まあ私も佳奈ちゃんもあんまりないですしね、あはは」

 そこで美里の胸元に視線が寄ってしまったのは、男性的に不可抗力だろう。夏ほど薄着ではないため、服に隠されて判別し難いところだが、美里の布越しの膨らみはお世辞にも大きいとは言えない。手のひらで収まる小ぶりなサイズだ。
 一瞬ながら無遠慮な注視に、全く恥ずかしいわけではないらしく、うっすらと美里は頬を赤くした。もっとも、表情はすぐに取り繕われる。

「それで、実際どうです?」
「どうって……大きさとか、気にしたことはないですよ」
「露骨に逃げましたね? でもいいです、その回答もクールです」
「……はあ」
「学校の友達に、ものすごい娘がいまして。身長は百四十ってところなんですけど、胸がこう、ばばぁーん! って感じなんですよ。わかります?」
「言いたいことは何となくわかりますけど」
「背と胸がすごくアンバランスで、友達としてはいつ痴漢に遭っちゃわないか心配なくらいで。本人はかなり気にしてるから測ったことはないみたいですけど、たぶんGとかHとかあると思います」
「なんか、色々大変そうですね」
「肩はよく凝るらしいですねえ。私には有り得ない悩みですよ。しかもその子、小四の頃から彼氏がいるらしくて」
「随分早い……んでしょうか」
「バケッツさんはそのくらいの頃彼女とかいなかったんです?」
「高校生になるまで、女性とは全然縁がなかったですよ」
「今はあるんですね」
「……ないとは言えないです」
「私とも会ってくれてますしねー」

 綾と出会い、十三階の住人になってから。
 健一の日常は、目まぐるしく変わってきている。
 これで縁がないなんて言ったら、罰が当たるだろう。
 あるいは、奇縁の類かもしれないが。
 何人かの顔が脳裏に浮かび、そこにシーナがカットインした辺りで現実が横槍を入れてきた。具体的には、シーナと佳奈のやりとりがさらにエスカレートしていた。
 組んでいた腕も離れ、今は近い距離で向かい合っている。佳奈の瞳は熱っぽく潤み、シーナもこれまで見たことないほどキザな雰囲気を演出していた。最早苦笑すら出てこない。

「シーナさんは、キスってしたことありますか?」
「……当然、したことあるぜ」
「そうですよね。シーナさん、すっごくモテそうですもんね」
「まあな。でも、君くらい可愛い娘とはまだしたことがないぜ」
「シーナさん……」

 途中で少し間が空いたのは今までキスしたことないからだなとか、普段の姿を知ってるとちょっと気持ち悪くて目を逸らしたくなるとか。面と向かって言いたいことは山ほどあったが、何よりこの空気のそばに居続けるのが辛かった。どこの昼メロだ。
 どうやら隣の美里も全く同じ気持ちのようで、げっそりした顔で健一を見て頷いた。

「……帰りましょうか」
「そうしたいのはやまやまなんですけど……一応、シーナにも冷静になってもらいたいので」
「すみません、お任せします」

 佳奈がすっかりのぼせている以上、まだシーナの方が可能性はある。萎えそうな心を奮い立たせ、健一は静かに二人のところへと近付いた。

「シーナ、ちょっと」
「何だよ」
「そろそろいい時間だし、もう帰らない?」
「むしろこっちの方がいいところだっての。俺はもう少しこうしてたいぜ」
「それはよぉーくわかるけど、女の子二人をあんまり遅くまで引き留めるのはよくないだろ? シーナだって、遅くなり過ぎると家族の人が心配するんじゃない?」
「う……そりゃそうだな」
「えー? これでお開きなんですか?」

 全身で不満を表現する佳奈に、どうしたものかと健一は悩んだ。
 佳奈と美里には知り得ないことだが、シーナはこの後一旦十三階に寄り、着替えてからでないと帰れない制約が存在する。ライブ終了からしばらく経っているのもあり、帰宅は相当先になるはずだ。
 前にシーナから話を聞いた限り、窪塚家に具体的な門限はなく、度を超していなければ帰りの遅さを咎めるのも佳奈だけだという。その当人がここにいるのだから、あまり考えることではないのかもしれないが、やはり長居はいろんな意味でよろしくない。

「ほら、佳奈ちゃんが大丈夫でも、シーナさんは駄目かもしれないでしょ。今日だけでもう二度と会えないってわけじゃないんだし」
「でも……シーナさんは平気ですよねっ?」

 美里の援護も効力は弱く、背筋をぞわりと撫でる可愛い声で佳奈が訊いてきた。頷くに決まってる、という裏の意図が読める、ストレートに可愛さを武器にした問いだった。
 反射的に快諾しかけたシーナに、健一が無言で釘を刺す。種類の違うふたつの視線に挟まれ、次第にだらだらと汗を掻き始めたシーナは、何とか喉から返事を絞り出した。

「……ま、また今度、近いうちに、な?」
「む……じゃあせめて、家の前まで送っていってくれますか? 夜道は危ないですし、シーナさんが一緒だと安心して帰れます」
「おう、佳奈ちゃんを一人で行かせるのも心配だし、隣で守るのが男ってもんだろ」

 極寒の冷たさを帯びた健一の声無き訴えには、身体ごと向き合わないことで逃げた。
 絶対後でねちねち責めようと決意する。
 そんなシーナ&バケッツの不和には一切気付かず、喜びを振り撒きながら佳奈がシーナの腕をぎゅっと抱きしめるように取り、

「それじゃあ、今度この四人でどこか出かけませんか?」

 早く帰る譲歩の埋め合わせ、ということなのだろう。
 しかし、美里は首を横に振った。

「私はいいよ。今日で充分満足したし」
「えー!? 美里ちゃんも行こうよ、絶対楽しいよ」
「バケッツさん、仲の良い女の子がいるんだよね。私はそういうの気にしちゃうから」

 佳奈にした話は、美里にも伝わっていたらしい。
 あれは佳奈の勘違いだったと言えばそれまでだが、元々美里は断るつもりだったのか、健一にだけ見える角度で小さくウインクをした。

「そうなの? じゃあ絹川君、その人は連れてこられない?」

 真顔の美里にそれ以上の説得を諦め、矛先が健一に向く。横でシーナが必死にアイサインを送ってきているが、綾を外に連れ出すのは難しい。本人にやる気があっても、根本的に協調行動には向いていないのだ。
 結局、健一は次善の策を選んだ。

「……明後日まで待ってください。確認してみます」
「わかった。答えは学校で聞くからね」

 一応納得はしたのか、そう言ってから「じゃあ帰りますか」とシーナの腕を引っ張った。美里ちゃんまたねー、と呆気ない挨拶だけを残し、歩き去っていく。
 美里も元気な声で返し、手を振って見送った。
 そうして夜闇に二人の姿が消えてから、抑えた声で呟いた。

「……可愛い娘って怖いね」
「え?」
「会ってどうするとかも考えてなかったはずなのに、昨日の今日でこうなっちゃうんだなって。私にもし好きな人ができても、絶対あんな風にはなれないなって」

 佳奈ほど可愛くなければ、男は寄ってこないだろう。
 特殊な事情のあるシーナでなくとも、佳奈ならその気になれば男には困らないはずだ。かつて飯笹伸太がそうだったように、彼女さえ望めば、すぐにでもそうなる。
 可愛さとは、大抵の男を惑わす一種の魔性だ。
 その使い方を、意識的にか無意識か、佳奈は心得ている。
 心得ているから、ああやって変わってしまえる。

「……僕にも無理ですね」
「あはは、何言ってるんですか。バケッツさんは佳奈ちゃん寄りでしょ」
「いや、本気でそう思ってるんですけど……」
「じゃあそういうことにしておきます。でも、佳奈ちゃんも冷たいですよね」
「そうなんですか?」
「だって、シーナ&バケッツのこと詳しく教えたのは私ですよ?」
「どっちかというと、冷たいってより熱い人なんじゃないでしょうか」
「……ああ、確かにそうですね。熱過ぎるくらいです」

 微かに笑ってから、美里は上着の襟を締め直した。
 少しだけ、風が冷たい。木々に囲まれた周囲は暗く、先ほどシーナと佳奈が歩いていった道に光る外灯のみが頼れる標だった。

「それじゃ、私も帰ります」
「送っていった方がいいですか?」
「大丈夫です。駅まで行けばあとはすぐなんで」
「駅って、ここまで電車で来たんです?」
「ああ、そうじゃないんですよ。私の家、ここから駅を跨いだ先にあるんですよね。だから明るい方に向かっていけばいいんです」
「なるほど……。でも、気を付けてください」
「はい。色々ありがとうございましたっ」

 何故かしゅたっと右手を額に当て、敬礼めいた姿勢をしてから走っていった。微妙に掴みどころのない、けれど普通で、ちょっと不思議な面白い子だった、と思う。
 元々は、彼女がバケッツ――健一のファンだから、という話で集まったのだ。それがいつしか逆転して、佳奈のための場になっていた。シーナと共に帰路へ着いた佳奈と、一人で帰った美里の姿を順番に頭の中で噛み砕く。
 どうしてあの二人は、友達なのだろうか。
 今日の出来事を振り返ると、あまり仲良くは見えなかった。もしかしたら、どこか偏った関係なのかもしれなかった。
 全てはわからない、不確かな話だ。
 たったひとつ間違いないのは、シーナの目的が大きく前進したこと。佳奈はシーナを明らかに好いていて、シーナの側は言うまでもない。
 順調過ぎるくらい順調に、状況は動いている。

「これで、いいんだよな」

 なのに小さな棘が、健一の胸を引っ掻いていた。
 見落とすな。忘れるな。不安になって当然だ、と。
 心が囁いている。
 ――僕は恋愛に向いてない。
 事ある毎に、自分自身に言い聞かせてきたことを反芻する。
 だから、きっと錯覚みたいなもので。
 上手くいく。シーナの望みは叶う。
 だってあんなにも――

 ――公園から見える夜空の月は、綺麗だった。










 美里と別れてから有馬第三ビル十三階に直帰した健一は、まず1301に顔を出した。靴を脱ぎ、居間まで行くと、物音を聞きつけていたらしい刻也が「おかえり、絹川君」とコップに烏龍茶を入れて準備していた。
 ただいまです、と返し、のっそり椅子に座る。

「随分お疲れの様子だね」
「ええ、まあ色々ありまして……」
「シーナ君は一緒ではないのかね?」
「ファンの子を家まで送りに行きました」
「……それだけではない、という顔をしているが」
「その相手が、窪塚佳奈さんなんです」
「む……どうやら複雑なことになっているようだね」

 実姉が自分の妹と知らずにファンになって、しかも家まで送ってもらっている。子細な事情を把握しておらずとも、一筋縄でいかない事態だというのはわかるのだろう。
 何とも言えない表情を見せた刻也は、備え付けの壁掛け時計にちらりと目をやり、

「一度シーナ君もこちらに戻ってくるのだろう?」
「ですね」
「君に特別用事がなければ、日奈君を家まで送ってあげてはどうだろうか。疲れているなら私が替わるが」
「いえ、僕が送りますよ。今の状況で、佳奈さんに八雲さんと日奈が一緒にいるところを見られたら、ややこしいことになりそうですし」
「ふむ。わかった、任せよう」

 元々刻也は多弁な方ではない。
 先ほどの提案も、純粋に遅くなる日奈を心配してのことだ。語るべき話を語り終えると、しばらく無言の時間が続く。
 その間に健一は居間を見回し、1301に来てからずっと感じている違和について考えていた。流し場にはライブ前に済ませた夕飯の食器。そこで使った以上のコップがないので、おそらく刻也以外には誰もここを訪れていないのだろう。
 几帳面な刻也が整えたのか、他の椅子はきっちりテーブルに押し込まれている。テーブル上も汚れはない。よく絞られた台布巾が一枚、刻也の手元に置かれていた。
 健一が居着くようになってから、料理は大抵健一か冴子の役目として固定されているが、一人暮らしをするつもりだったという刻也もある程度家事はできるのだ。事実、自分の服の洗濯は刻也自身がしているし(冴子は綾の分も一緒にやっている)、1301の掃除は専ら彼の仕事だった。
 綺麗な床をひとしきり眺め、ようやく健一は違和の正体に気付いた。
 冴子がいない。

「あの、八雲さん。有馬さんは?」
「まだ帰ってきていないな」
「確か今日は、バイトの面接だって話ですよね」
「私もそう聞いている。君達が出たすぐ後に、彼女も出かけていったのだが……」
「……普通、面接だけで四時間も掛かります?」
「業種にもよるが、長くても一時間というところだろう。有馬君もそのくらいだと言っていたしな」

 一瞬1303にいるのかと思ったが、ライブ帰りは必ず1301に来るようにしていたので、健一に合わせて冴子もここで待っているのが半ば慣例となっている。
 そもそも一人でいても、冴子は自分で眠ることさえできないのだ。ある意味、健一がいなければ彼女の生活は成り立たない。それでももしかしたら、という不安は拭えず、とりあえず刻也に断り、1303を見に行ってみる。
 玄関の鍵は掛かっていた。この時点で中にいる可能性はほぼなくなったが、念のため開けて確認。靴はなく、電気も点いておらず、室内を探し回っても冴子の姿は見当たらなかった。

「やっぱりいないです」
「となると、まだ帰ってきていないと考えるべきか。かなり遠方で働くことにした……というわけでもないだろうしな」
「はい。有馬さんは、あんまり遠くには行きたくないと思います」

 セックス依存症――肌を重ねなければ眠れない体質により、冴子には体力がない。遠出をすれば、その分忙しい仕事は難しくなるはずだ。
 それに、彼女はトラブルに巻き込まれやすい。噂のこともあるが、どうやらそういう巡りの下にいるらしい。

「……何か、よくないことに巻き込まれたんでしょうか」
「そう考える理由があるのかね?」
「自分はトラブルに巻き込まれやすい、って前に言ってたんです」
「だから今回も、というわけか。……可能性としては否定できないが、もしそうであったとしても、私達に打てる手は皆無だよ。何せ有馬君の行き先もわからない」
「手詰まり、ですかね……」
「君は有馬君のアルバイトについて、具体的な内容を聞いてはいないのかね?」
「僕達に知られるのは恥ずかしいみたいで、仕事に慣れるまでは待ってほしいって」
「恥ずかしいか。そうなると、客商売の類かもしれない」
「客商売っていうと……八雲さんと同じようなもの、ですか?」
「ファミレスのウェイトレスや、それに準ずるものだな。普段と違う姿や様子を見られたくない、という気持ちからの言葉だったのではないか」
「……その節は本当にすみませんでした」
「む……ああ、いや、君を責めるつもりはなかったのだが……」

 前置きや覚悟なしにウェイター姿を見られた刻也は、当時如何なる心境だったのか。その一端を健一は知ったような気がした。というか実は結構根に持っているのか。
 微妙な空気になったのを感じ、刻也はわざとらしくこほんと咳をした。気を取り直し、次の言葉を選ぶ。

「あるいは、客商売でなくとも制服を着る仕事かもしれない。まあ、どちらにしろ漠然とし過ぎているな」
「これだけだと、場所の特定なんて無理ですよね……」

 探しに行くにも、あまりに情報が少ない。
 視線が床に落ちかけ、ふとそこで思い出した。

「……有馬さんのお父さんは、ここのビルのオーナーなんですよね。確か、十二階の表札が『有馬』だったと思うんですけど」

 以前エリから聞いた話を統合すると、彼女の父親――有馬十三は、おそらくこのマンションに住んでいる。つまり冴子の実家は、十三階のひとつ下、すぐ近くだ。
 どういった経緯で冴子が家出をしたのか、詳しい理由を健一は知らない。ただ、それは決して簡単な問題ではないのだろう。家族の話をほとんどしない辺りからも、明らかな不和の雰囲気が感じ取れる。
 健一の藁をも掴むような提案に、しかし刻也は頷かなかった。

「ご両親とも、今は仕事中だろう。トラブルに巻き込まれたとはっきりしているわけではないのに連絡したら、話が大きくなり過ぎてしまうかもしれない」
「……有馬さんの両親のこと、知ってるんですか?」
「父が仕事の関係で懇意にしていてね」
「そうなんですか……。それで、ええと、一応確認ですけど。有馬さんのご両親なら、バイトのことも知ってそうなんですかね」
「話はほぼ間違いなく行っているだろう。未成年のアルバイトには、基本的に保護者の承諾が要る。後から急に連絡を受けて知られるより、事前に話している、と考えた方が自然だ」
「なるほど」
「もっとも、仮に私達が有馬君のバイト先を訊ねたところで、有馬君との関係を問われるだけだろうな。彼女が美佐枝さんに我々のことを話しているとは思えない」
「まあ、そうですね」

 自分で口にして、想像以上に感情の薄い声色だったことに健一はぞっとした。
 ――刻也は、冴子の家庭事情について、ある程度把握している。ここまでの言動からそう察し、逆に自分は冴子について、ほとんど知らないことを理解させられた。
 さらりと冴子の母親の名前が出てきたのも、刻也に面識がある証拠だろう。思えば初めて冴子を十三階に招いた時、刻也は初対面という様子ではなかった。それを健一は学校で会っていたからだと納得していたが、十三階に訪れる前から知っていたのだとしたら。
 これまで得たことのない気持ちに、健一は戸惑った。
 それは、嫉妬だ。
 冴子をより知る刻也に、健一は嫉妬した。
 その事実自体が恐ろしかった。
 好きにならないと、約束したのに。
 幸い、刻也は荒れ狂う健一の内心には気付かなかった。黙ってしまった健一に首を傾げ、そして視線がふっと玄関の方を向く。
 釣られて見れば、きょとんとした顔の冴子がいた。

「あれ、どうかしたんですか? 二人とも深刻な顔をして」
「おかえり、有馬君」
「おかえりなさい。いえ、ちょっと有馬さんの帰りが遅いなあという話をしてまして」
「……心配させちゃいましたか?」

 正直に認めるのもどうなのかということで、苦笑に留める。
 冴子は時計を見て、健一の言葉に得心したようだった。シーナ&バケッツのライブ終了時間と比べても、だいぶ経ってしまっている。

「無事ならよかったのだが、面接だけだと聞いていたのでね。四時間近くも帰ってこなければ、心配にもなるだろう」
「そうですよね。すみません、ちょっと楽しくて、時間を忘れてました」
「バイトの面接は合格したのかね?」
「はい。気に入ってもらえたみたいで……急ぎの用事がないならお仕事覚えていかないかって言われて。それで、先取りで色々教えてもらってたんです」
「そうか。楽しんで仕事できるのなら何よりだ。おめでとう」
「あ、いえ……ありがとうございます」
「よかったですね、有馬さん」
「うん……その、店長さんもいい人で……まだ始めたばかりだけど、上手く、やっていけそう、かな」

 気恥ずかしそうに呟く冴子は、まだどこか実感を持ちきれていない風でもあった。きっと、居心地の良い場所だったのだろう。
 冴子の居場所は、今までここにしかなかったように思う。
 実家を追われ、皆に排斥され、そうして辿り着いた十三階。けれどこの場所に居続けることだって、健全とはどうしても言えない。綾や刻也、シーナや健一。普通でいられない人間が、爪弾きにされた子供が、傷を舐め合う仮宿でしかないのだ。
 自分の場所は、自分で見つけなければならない。
 その一歩を、冴子は踏み出した。

「では、私はそろそろ失礼するよ」
「あ、お疲れ様です、八雲さん」
「お疲れ様です」

 平常通り、ともすれば微妙にふわふわしているとも言える冴子に安心したのか、刻也は小さく笑んで席を立った。退室する背中を二人で見送り、一息吐こうとした直後に、今度は綾が入れ違いで現れた。
「うはよー!」とアッパーテンションな声色ではあるが、瞼が開ききっていない。呂律も回っていない。微妙に焦点も合っていない気がする。
 綾にも去り際に刻也は軽くお辞儀をしたものの、ひらひら手を振り返す方向がズレていた。どうやら起き抜け、しかも相当ボケているらしい。

「おはようございます、綾さん」
「うはよー、冴ちゃん。健ちゃんもうはよー」
「はい、おはようございます。……また徹夜してたんですか?」
「えーと、たぶん」

 心配げに綾を見つめる冴子が、そっと隣の椅子を引いた。ふらつきながらもそこに座り、健一の質問に綾は首を傾げた。
 一度集中し始めてしまうと、時間を忘れてしまう悪癖が綾にはある。そういう場合、作品を完成させるか、物理的に動けなくなるまで部屋から出てこないため、遅くまで姿を見ない時は扉越しに1304の様子を窺うのが健一の役割だった。

「二人とも、お腹は空いてます?」
「私はあんまり……」
「んー、私も起きたばっかりだし」
「じゃあ飲み物出しますね。さっき八雲さんが烏龍茶を飲んでたので、それでよければ」
「うん……お願いしていい?」
「私も飲むー」
「わかりました、ちょっと待っててください」

 台所の食器棚から二人分のコップを取り、冷蔵庫に仕舞われた烏龍茶のペットボトルから注いでいく。
 氷を入れずとも充分冷たいそれらを綾と冴子の前に置くと、真っ先に綾が中身を飲み干した。冴子も喉が乾いていたのか、すぐに半分近くを減らす。
 眠たげな目で何かを訴える綾に、子供の世話をする大人めいた気持ちを覚えつつ、健一はおかわりを注いだ。

「ありがとー、健ちゃん」
「どういたしまして」
「んくっ……ところで、冴ちゃんはどこか行ってたの?」
「え?」
「いつもはここで待ってるのに、今日は私と一緒でコップ出してなかったし、喉も乾いてたみたいだから」
「あ、はい。その……大したことじゃないんですけど」
「そうなの?」
「バイトの面接で、ちょっとお仕事もしてきて」
「ああ、そういえば昨日言ってたね。バイトの面接って何するのか、よくわからないけど……大変そうな感じはするかな」
「勤め先の人とお話しするんです。最初はすごく緊張しました」
「勤め先の人って……長いテーブルにおじさんが三人くらい並んでて、ドアの前で待ってたら『入りたまえ』とか言われて、あれこれ質問責めされるような?」
「そんな本格的なのじゃないですよ」

 というか何だそのとんでもない偏見。
 綾の想像する一種シュールな面接像に、思わず噴き出しかけた健一は、ひっそりと自分の口を押さえた。
 天然な綾とボケをスルーしがちな冴子の会話は、たまに妙な可笑しさを発揮することがある。

「あれって質問に全部答えたらどうなるの?」
「ええと……雇ってもらえるかどうかが決まるんです」
「じゃあ冴ちゃんは雇ってもらえたの?」
「はい。一応、次の予定も決まりました」
「そっか。おめでとー」

 労いや祝いの言葉を掛ける時も、些か表情が固い刻也と違い、綾の笑みは屈託がない。ストレートなコメントに、冴子は恥ずかしがって俯き、それから健一をちらりと見た。視線が合い、すぐに逸らす。

「でも、冴ちゃんすごいよね。私だったら絶対無理だと思うなあ。これからやれって言われても、一生お仕事なんてできないかも」
「いやいや、綾さんはもう仕事してるんですから、面接する必要はないですって」
「え、そうなの?」
「……普段やってることがそうです」
「普段やってる……金工とか?」
「はい」
「ああ、そういえばそうだね。錦織さんが色々やってくれるから忘れてたけど、あれってお仕事なんだよね」
「……綾さんは大物なんだって、改めて思いました」
「ひょっとして褒められてる?」
「それでいいです……」
「そっか。やった」

 暢気に喜ぶ綾の対角線上で脱力する健一。
 好きなことが結果的に仕事になっている、と考えればある意味理想の生き方なのかもしれないが、エリの苦労の一端がわかるような気がした。
 あるいはエリなら、苦労を苦労と感じていない可能性もないとは言えないが。

「そういえば、冴ちゃんのお仕事が決まったんなら、ここにいない時もあるってことだよね」
「ですね。具体的にいつ、とはまだ言えませんけど」
「バイトの日程とか、わかったら教えてください。夕ご飯が要らない日も出てきますよね、きっと」
「うん。決まったらみんなに言うわ」
「あ、あと……今日みたいに遅くなったり、万が一何かあった時のために、連絡先は知っておきたいな、と」

 一瞬、冴子は唇を開いてからきゅっと閉じた。
 考える仕草をして、そうね、と頷き、

「ごめんなさい。今はちょっとわからないから、次行った時、一緒に聞いておくわ」
「お願いします」

 本当に、バイト姿を見られるのが恥ずかしいのだろう。
 赤く染まった頬の色に、健一は冴子のためにもこれ以上の詮索はするまいと誓った。
 そこで会話が止まり、少しの間静かになる。
 こくり、烏龍茶を飲んだ冴子が、疲れた様子で吐息を落とした。面接の後に手伝いもしたというのだから、慣れないこと続きだったはずだ。元々体力があまりないのもあって、椅子にもたれ掛かる姿からは明らかな消耗が見て取れる。

「……大丈夫ですか?」
「大丈夫。柄にもなく張り切っちゃったからかな……今になって疲れが来たみたい」
「部屋で休みます?」
「ん……もうちょっとしたら、1303に戻るわ」
「冴ちゃん、お疲れ?」
「そうみたいです」
「なんかわかる気がするなあ。私も金工やってる時は全然疲れないのに、一段落してちょっと休憩しようかなって思ったら、そのまま立ち上がれなかったりするんだ。あはは」
「笑い事じゃないですよね、それ」
「まあ、昔は確かに危ないこともあったけど、今は健ちゃんがマンションにだいたいいてくれるし、大丈夫だよ」
「僕がいなかったらどうするんですか」
「健ちゃんがいないってのは考えられないかなあ」
「ちょっとは考えてください」
「でも、当てにされて嬉しい気持ちも少しはあるでしょ?」
「当てにしてる綾さんが言うことじゃないような……」
「あるでしょ?」
「……ないとは言わないです」
「こんなに迷惑掛けられてるんだから、お礼に三回くらいエッチしてもいいだろうとか思わない?」
「それは思いません」
「えー、思おうよー」
「そんなつもりで世話してるわけじゃないですから」
「それはわかってるけど、別にそういうつもりでいてくれてもいいっていうか、いつでも大歓迎だよってアピールしておこうかなと。最近ご無沙汰だし」
「……聞くだけ聞いておきます」
「うん、忘れないでねっ」
「じゃあすぐ忘れます」
「えー! なんでー!?」

 ほぼ全部本気で言ってるから性質が悪い。
 不満そうな綾をすげなくあしらっていると、その隣で冴子がくすくす笑みを漏らしていた。

「……そんなに面白いやりとりでした?」
「なんていうか、綾さんは可愛いなって」
「こういうこと言わなければ同意したいんですけど……」
「それに絹川君、さっき私達の会話を見て笑ってたでしょ」
「……見てたんですか」
「口を押さえたところまで」

 どうやらバレバレだったらしい。

「ええと……まあ、おあいこってことで」
「ふふ、そういうことにしておくわ」
「なになに、二人でエッチの約束?」
「違います」
「私は冴ちゃんとなら一緒でもいいよ?」
「だから違います!」

 起き抜けだからなのか、いつも以上に思考が十八禁的な何かに直結している。恥じらいが全くない……のは普段と変わらないが、積極さが五割増しだ。
 どうにかして、と誰かに助けを求めたいところだが、冴子は既に巻き込まれているので意味がない。刻也がまた戻ってきてくれないものかと淡過ぎる希望を抱いた瞬間、勢い良く玄関扉を開ける音が聞こえた。
 すわ救世主かと振り向き、

「おーっす!」

 シーナだった。
 神はいなかった。
 佳奈を送りに行った帰りで、異様にテンションが高い。幸いと言うべきか、送り狼にはならなかったようだが、絡むと鬱陶しそうな感じがひしひし伝わってきた。

「お疲れ様、シーナ君」
「おっすお疲れ有馬! でも俺は元気ビンビンだぜ。もう身体の底からエネルギーが湧き上がってきてるぜ」
「……そ、そう」

 ああやっぱりだ。
 無駄な気力をアピールするシーナに、返事をした冴子も戸惑っていた。非常に珍しい光景である。

「おはよー」
「綾さんもおはよっす。さっきまで寝てたんですか?」
「うん。これから健ちゃんと一緒に二度寝する予定」
「しません」
「えー、しようよー。ベッドで汗掻いてから寝ようよー」
「シーナは大丈夫だった?」

 綾の振りは真顔でスルー。
 構うとピンク色の泥沼に引きずり込まれる。
 まだシーナの方がダメージは少ないと判断してのことだった。

「おいおい、誰に向かって訊いてんだ。俺はシーナだぜ?」
「……そりゃシーナだろうけど」
「むしろお前の方こそ大丈夫かよ」
「え、何かあったっけ」
「ダブルデートの相手、綾さんでも他の子でも、声掛けたのか?」
「私がどうかしたの?」

 甘かった。話がまたややこしくなった。
 明後日まで待ってほしい、と言ったはずなのに、シーナは早く決めてほしくて仕方ないらしい。
 そして案の定、綾が話に興味を持ってしまった。
 ここまで来るともう誤魔化すわけにもいかないので、健一は経緯を説明した。
 ライブ後に、佳奈とその友人に会ったこと。
 会話の流れで何故か後日ダブルデートをする流れになり、健一の相手を明後日までに決めなければならないこと。
 一通りの事情を把握した綾は、満面の笑みで右手を挙げ、

「私行きたい!」
「よし、決まりだな」
「待って。ちょっと待ってお願い待って」
「えー」
「綾さん外出たら絶対途中でどっか行っちゃうじゃないですか」
「健ちゃんが手繋いで……腕組んでくれれば大丈夫だよ。何なら抱きしめてくれてても……あ、でもそれだと歩けなくなっちゃうかも……」
「なんで言い直したんですか」
「だって腕組んだ方が近いし、嬉しいし」
「……シーナ、いっそ佳奈さんと二人きりってのは駄目なの? 邪魔者もいないし、そっちの方がいいんじゃない?」
「いや駄目だ。つーか無理。緊張し過ぎて死ぬ」
「死ぬほどですか」
「ああ。想像してみろ。『今日はずっとふたりっきりですね』とか言われたら、ソッコでホテルに連れ込まず我慢できる自信がない」
「それはむしろ自信なくて正解だと思う」
「でも正直連れ込む自信もない」
「やっぱりヘタレるんだ……」
「とにかく、せめて慣れるまでは一緒にいてくれないと困るんだよ。いろんな意味で自制できるかどうかわからなくなる」
「うーん……」
「綾さんが無理なら他の子でもいいから」

 頭を抱えながら、健一は周囲を見回した。
 にこにこしっぱなしの綾。
 何とも言えない困った表情の冴子。
 おら早くしろよと目で訴えてくるシーナ。
 選択肢はなかった。

「……綾さん、お願いできますか」
「うん! 健ちゃんとホテルに行けばいいんだよね?」

 違います、と否定する気力もなく、ばたりとテーブルに突っ伏した。
 同行者だけが確定し、既に前途多難な状況だった。



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何かあったらどーぞ。