シーナが佳奈を見かけたというライブの翌日、健一は何の問題もなく放課後を迎えた。授業を受け、昼はいつも通り千夜子が作ってきた弁当を食べ、ホームルームも終了。
 あとは帰宅して幽霊マンションへ向かうだけだったが、そのタイミングで教室に現れた人物が健一を窮地に叩き込んだ。

「絹川君、いる?」

 窪塚佳奈である。
 校内でも美人と名高い姉妹の片割れに、クラスは途端ざわめいた。しかも名指しで、別クラスの男子を探しに来た。
 世間と同じように、年頃の高校生もまた異性間の問題をすぐ色恋沙汰に結びつけたがる。多分に漏れず彼らは呼吸を見事に合わせ、健一の動向を見守り始めた。
 いきなり静かになった周囲の状況に、健一は首を傾げたものの、さして気にすることなく「あ、はい」と鞄を持って席を立つ。困惑はしていたが、それは佳奈の動向に対してだった。
 扉の方から中を覗き込む姿に近付いてみれば、彼女は何とも言えない表情を浮かべていた。疑念と羞恥、その他諸々が混じったような。ポーカーフェイスではいられないのか、注視されていることに気付き頬を薄赤く染めながら、

「時間ある?」
「これから帰るところですけど」
「じゃあ大丈夫ね。ちょっと付き合って」

 二言目以降は、問いですらなかった。
 がっしと手を取り、全く色気とは無縁な力強さで引っ張ってずんずん歩き出す佳奈に、健一は抵抗する間もなく引きずられていく。
 残されたクラスメイトは、しばし揃って呆然としていたが、次第に各々自分のペースを取り戻した。
 そして、健一の席のそばで、手を伸ばしかけたまま硬直する少女が一人。

「……な、なななんだったんだろうね」
「千夜子今すごい顔になってる」
「へーきだよだいじょうぶだよ? ……よ?」
「明らかに大丈夫じゃないわよ! ほら、さっきの思い出して! 全然親しい感じとかなかったから!」

 すわ新たな恋敵の登場かと動揺しまくる千夜子を必死で宥めるツバメという、明らかに普段とは逆の大変珍しい光景が繰り広げられたのだがそれはともかく。
 佳奈に連れられて辿り着いたのは、校舎一階の人気が特別少ない廊下隅だった。そこでようやく手を離し、佳奈が振り向く。
 相変わらず頬は赤く、何かを言いたげに唇を震わせては俯く。なるほど、と健一は思った。初めて意識したが、こうしていると確かに可愛い。黙っている時の日奈に近いものを感じる。
 こうしてわざわざ二人になったということは、他人に聞かれたくない用事があるのだろう。しかし、その内容が健一には見当つかない。
 何しろ佳奈には、嫌われているはずなのだ。
 そもそも好かれる理由が一切ない。日奈のものかもしれないハーモニカを持ち、夜遅くに日奈を連れ回す怪しい人間、というところか。文面から見ても酷過ぎる。
 そんなわけで、いつ態度が百八十度変わるかと身構えていた健一は、一分近く掛かって佳奈が絞り出した言葉に、数瞬自分の耳を疑った。

「絹川君が、シーナ&バケッツのバケッツって話、本当?」
「……は?」
「だから、絹川君がバケッツだって話」

 右から左へ素通りした問いかけが、一周して戻ってきた。
 ちょっと待とう。佳奈がライブに来たのは、十中八九昨日が最初のはずだ。そこからどうしてこうなるのか。いやそれ以前に、健一がバケッツであると知っている人物はかなり限られているのに――あっ。
 凄まじく嫌な考えが頭を過ったが、まずは佳奈への返事が先だろう。できることなら誤魔化したかったが状況は許してくれなかった。じっと健一を見つめる佳奈が、念を押すようにもう一度「本当なの?」と訊いてくる。
 どうやら、確信に近いものがあるらしい。
 これ以上の抵抗を諦め、健一は溜め息を吐いた。

「はい。本当です」
「そっか。やっぱり本当なんだ」
「……一応訊きますけど、誰からそのことを?」
「鍵原さんが、お昼過ぎに廊下で話してたの。私実はバケッツのマブダチなんだ、とか。だからたぶんそうなのかなって」

「鍵原ァ!」と叫ぶのは何とか堪えた。
 はっきり口止めをしなかったこちらも悪いと言えば悪い。が、こう、もう少し配慮は望めなかったのかと。
 具体的に健一の名前は出していないようだから、ある程度は隠せているのかもしれない。しかし現に、そこから健一との関係を辿れる人間がいたのだ。これで佳奈の口もツバメ並みに軽かったら、だいぶややこしいことになっていた可能性もあった。
 あとでツバメにはきつく言っておこう、と心に誓い、気を取り直す。今は、佳奈の真意を聞かねばならない。

「えっと……それで、僕に、というよりバケッツかな。何か用です?」
「私にシーナ&バケッツのことを詳しく教えてくれた子がいてね。その子がバケッツのファンで、一度ちゃんと会ってみたいっていうか、仲良くなりたいっていうか……デートとかできたら嬉しいって話、なんだけど」
「デート、ですか」
「うん。……無理かな?」

 予想だにしない流れに、どうしたものかと健一は唸った。
 てっきりシーナ絡みのことかと思っていたのだ。まさか矛先が自分に向くとは考えておらず、しかもデートとなると、結構素で困る。
 別に彼女がいるわけではないし、会って話をするのも抵抗はない。ただ、デートまでというのは、微妙に本気度が見える気もする。一回だけならとか、お試しにとか、そういうのも失礼ではなかろうか。
 悩み続ける健一を前にして、佳那の表情に残念そうな色が浮かぶ。

「もしかして、絹川君……夏祭りの時一緒にいた人、彼女なの?」
「え? いや、彼女ではないんですけど」

 世間一般の恋人かどうかで言えば否だ。
 二回もセックスして私生活で世話も焼いて、健一次第ではそのまま退廃的なルートに倒れ込みかねない関係を、いったいどう例えればいいのかはわからないが。
 微妙な顔になった健一に、佳奈は自分で勝手に答えを出したらしい。うんうんと一人頷き、

「もうほとんど彼女みたいな人なのかな? それだとデートは難しいだろうけど……あ、なら二人きりじゃなければよかったりしない?」
「というと?」
「私とその子と絹川君と……し、シーナさんとか」
「どうなんですかねえ。シーナには訊かないとわからないですけど、きっと呼んだら来るんじゃないかと」
「ほ、ほんと!?」
「はい。……あれ、そもそも佳奈さんも来るんですか?」
「だってその子だけってわけにもいかないでしょ」
「それもそうですね。あとは……その子って僕が知ってたりします?」
「ううん、違う学校だし、知らないと思う。中学校の頃のクラスメイトなの」
「なるほど」
「で、絹川君、どうなの?」

 ――これはチャンスかもしれない。
 返事を無言で催促する佳奈の瞳は、抑えきれない期待で揺れている。シーナの名が出た時の反応といい、唐突な「二人きりじゃなければ」の提案といい、もしかしなくても、彼女はシーナに会いたいのではないか。
 シーナ&バケッツの活動で導き出せるのは、シーナと佳奈の出会いまでだ。そう考えれば、本来の目的、計画はほぼ最終局面に入っていると言ってもいい。
 佳奈の友達には利用するようで申し訳なくもあるが、この話をとっかかりにできるなら、断る理由はどこにもないだろう。それで健一が支払う時間も気恥ずかしさも、シーナの願いに比べれば些細なものだ。

「答える前にひとついいです?」
「何?」
「佳奈さんは、シーナとバケッツならどっちの方が好きですか? ……ええと、僕のことは気にしなくていいんで、正直に言ってください」
「そういうことなら……やっぱり、シーナさんかな」
「わかりました」
「……絹川君、何で嬉しそうなの?」
「すみません。思い出し笑いみたいなものです」

 だって、嬉しくもなるだろう。
 今すぐシーナに伝えたい気持ちの昂りを喉奥で飲み込み、訝しげに目を細める佳奈へと告げる。

「いきなり四人でどこかにっていうのはちょっと難しいけど、ライブ終わった後に話すくらいなら」
「……うん、それで充分」
「僕はその子と、佳奈さんはシーナとお話しするってことでどうでしょう」
「シーナさんとおはなし……できるの?」
「はい。約束します」
「そ、それって今日?」
「さすがにすぐは……でも、近いうちに必ず」
「……ありがとう」

 がしっと佳奈が健一の両手を取った。顔も近い。
 薄赤い頬。上目遣いの潤んだ瞳。校内屈指の美人姉妹と評される佳奈の破壊力を、健一は初めて味わった。
 飯笹が未練たらたらなのも、いくらか理解できた気がする。性格や言動を横に置いておけば、確かに彼女は可愛い。それもずば抜けて。
 ただ、健一は美人に慣れていた。惑わされることなく、そっと掴まれた手を解く。こんなところをもしシーナに見られていたら、良くて半殺しかなと場違いなことを思った。
 ……そういえば。
 まだ、疑問が残っている。

「今更というか、こんなこと訊くのは失礼かもしれませんけど……窪塚さん、僕のこと嫌ってましたよね」
「正直に言えば、うん、絹川君のことは、あんまりよく思ってなかった。こないだも日奈ちゃんと一緒にいたし」
「ですよねえ」
「でも、絹川君がバケッツだって知って、色々納得したっていうか……それなら夜遅くまで外にいるのも当然だもんね」
「まあ、だいたいはライブがあって帰りも遅いです」
「だから、あれこれ疑っててごめんね。こないだも普通に日奈ちゃんを送ってくれてただけなんだよね」

 健一の首肯に、佳奈は満足げな笑みを浮かべた。
 そうして表情を崩さないまま、最後の問いを投げかける。

「ならもうひとつ、図々しいかもしれないけどお願いしていいかな」
「な、何でしょ」
「日奈も連れてきていい? きっと、バケッツに会えたら喜ぶと思うから」
「……? ま、まあ本人が来たいっていうなら……」
「じゃあ大丈夫ってことよね?」

 見逃せない違和感があった。
 しかしそれが何かまではわからず、返事を濁してやり過ごすしかなかった。
 来るはずがない。
 そのことを知るのは、健一だけなのだから。










 登下校のルートに、必ずしも公園を選ぶわけではない。
 健一が瓶井戸公園――もっと具体的に言えば『時の番人』が置かれている場所への道を通るのは、大抵が落ち着かない時だ。
 考えるべきことは多かった。佳奈との一件、蛍子のこと。冴子のバイトについても心配ではある。それらがちくちくと健一を責め立て、頭の中がこんがらがりそうになっていたからか、自然と足が向いていた。
 綾が幼い頃に創ったという彼のオブジェは、健一にとって不思議な魅力に溢れたものだった。長く風雨に晒され、ところどころ錆びついているが、一応手入れもされているのだろう。あからさまな傷や欠けはなく、昔に感じた圧倒間は色褪せていない。
 外見だけを見れば、雑多な何かを詰め込んだような落ち着かない印象を受けるのだが、眺めていると何故か、気持ちが穏やかになる。
 ベンチのひとつに座り、しばらく健一は『時の番人』を注視していた。シーナが隣にいれば「何サボってんださっさと練習すんぞ」とか言いそうだな、なんて頭の片隅で思いながら息を吐く。

「あら、健一くんじゃない」

 不意に呼ばれ、声のした方へ顔を向けた。
 全く予想だにしていなかった姿に、すっと目を細める。
 錦織エリ。綾のマネージャーたる彼女なら、別段この辺りにいてもおかしくはないのだが――それにしてもどうして公園に、という話だ。

「……錦織さん?」
「お久しぶり……というほどでもないわね。鞄があるってことは、学校帰りかしら」
「はい」
「こんなところでぼんやりしてたのは、何か考え事?」
「ええ、まあ。錦織さんはどうしてここに?」
「どうしてだと思う?」

 相変わらずの、心を見透かすような瞳でエリは問い返す。
 仕事なのは間違いないだろう。それも健一の正面、エリの後ろに鎮座している『時の番人』に関連する。
 そこまで連想して、九月頭、千夜子の父親に家まで引きずり込まれたことを思い出した。役所の公務員だという千夜子の父親が手がけている企画の内容が、

「桑畑綾記念館、でしたっけ」
「……あら、その名前をどこで聞いたの? 綾……はたぶんほとんど覚えてないでしょうし。限られた人しか知らないはずなんだけど」
「教えてくれた人がいたんですよ。ええと、」
「待って。言わなくていいわ。自分で考えるから」

 さらっと出所を口にしかけた健一を右手で制止し、思考に没頭し始めるエリ。以前幽霊マンションの一階で会った時も、事務所に連れてかれた時もだったが、やはり彼女も変人の類である。もっとも、推察好きもここまで来れば立派な特技かもしれない。
 あるいは、答えを教えられること――他人の施しを好まない、一種の負けず嫌いなのか。だとすれば、同じ負けず嫌いを自称していた千夜子の父親の意気込みも、少しだけ理解できる気がする。
 数秒で結論が出たのか、右手は緩やかに下りた。
 まずは探るような表情で、エリが言う。

「健一くんのご両親が区役所で働いてる?」
「違います。うちは両親共にインテリアの輸出業ですね」
「そう。となると……健一くんの知り合いに、大海さんという人がいる」
「……はい」
「なるほどね。だいたいわかったわ」

 一足飛びの発想に、健一は瞠目した。
 驚きが伝わったのか、満足そうにエリは頷く。

「よくあれだけでわかるものですね……」
「まあ、可能性の問題よ。記念館については、特に情報を伏せてないから関係者はみんな知ってる。けれど私が関わってるっていうのは、総数で見てもそう多くない。あとは、私と直接接触してる中で、家族や他人に話をしそうな人……と考えれば、大海さんくらいかなって」
「はあ……」

 情報とは、ちぐはぐなジグソーパズルのピースみたいなものだ。繋ぎ合わせれば、どこかで噛み合うものもある。しかし無数に存在する欠片から、適切な一部だけを選び取るのは非常に難しい。
 あるだけでは活用できず、一枚の絵を完成させるためには柔軟な発想力を要する。それを実現させ得るのは、天才的な閃きか徹底的な理詰めだ。エリは後者に相当傾いているのだろう。健一には到底真似できない。

「でも、健一くんはどこで大海さんと知り合ったの?」
「クラスメイトのお父さんなんですよ」
「……それはさすがに気付けないわ」
「ですよねえ。たまたま大海さん……ええと、大海さんの娘さんと一緒に帰ってた途中に見つかって引っ張られたというか、そんな感じです」
「ふうん。その子、もしかして彼女だったりする?」
「違いますよ。お弁当のコーチ……みたいなものですかね」
「……ま、いいわ」

 どこか呆れたような声色だったのは気の所為だろうか。

「それより健一くん、今からちょっと時間あるかしら」
「夕方にはライブなので、そんなに長くは無理ですけど」
「なら大丈夫。おいしいロールケーキを食べに行くだけだから」
「ロールケーキ、ですか?」
「あるお店のパティシエと知り合いでね。彼からこないだ挑戦状をもらったのよ。新作食べに来いってね」

 健一の交友関係について、エリにはかつて「つくづく面白い子ね」と評されたことがあったが、エリも大概ではなかろうか。
 パティシエとどんな間柄なら、挑戦状が名指しで届くのだろう。
 味わい深い表情を見せる健一に微笑みかけ、エリはもう用は済んだとばかりに歩き始める。
 どうやら一緒に行くことは決定事項らしい。

「歩くと少し遠いんだけど、タクシーで行く?」
「……いいですよ。少しくらいなら歩きましょう」
「じゃあ決まりね。あ、そうそう、店名は『モン・サン・ミシェール』っていうんだけど、聞いたことはある?」
「ないですね」
「なら、あいつの挑戦も一緒に受けられるわね」

 なんて冗談めかして。
 上機嫌なまま、目的地まで、エリはもう何も喋らなかった。



 件の店は、健一の想像よりこじんまりとしていた。
 立地的には窪塚姉妹の家に近いはずだ。万が一すれ違う可能性もないではなかったが、幸い誰にも遭遇せずに来られた。
 外見は洒落た喫茶店の風で、窓から窺える店内も、さして華美な作りではない。客層は女性が大半、席はざっと七割ほど埋まっている。時間帯を考えれば、盛況の部類に入るだろう。

「ここは幹久……店のオーナーで挑戦状を送ってきた私の知り合いが建てた、最初の店舗なのよ。他の店はもっと大きいわよ」

 健一の薄い疑問を見抜いたのか、そう補完してエリは表の扉を開けた。よく通るベルの音に、女性の店員が駆け寄ってくる。
 エリがバッグから葉書大のものを取り出し店員に手渡すと、中身を確認した相手が妙にかしこまった態度で、奥の席を案内した。おそらくあれが招待状なのだろうが、名指しで来ただけあって扱いが明らかに違う。

「名が売れる前からの場所で、思い入れがあるからそのままなんですって。周りは住宅地だし、建て直して大きくするにも土地がないってのもあるんでしょうけど」
「……なるほど」
「さて、ロールケーキは確定として、健一くんもコーヒーでいい?」
「あ、コーヒーじゃなくて、紅茶ってありますか?」
「紅茶好きなの? それともコーヒーが嫌い?」
「いえ、コーヒーは好きなんですけど……僕は濃い方が好きなんで、外で飲むといつも薄くて」
「それなら濃くしてもらえばいいんじゃない?」
「……そんなことできるんです?」
「さあ。私は言ったことないけど、できるだけコーヒーと一緒に食べてほしいみたいだし。頼んでみるだけなら損はないでしょ」

 健一が外でコーヒーを飲んだのは、考えてみればファミレス程度だ。来客の多い店では基本的に作り置きしか出せないため、アレンジを利かせるのは難しいが、きちんと淹れるところなら要望も通りやすい。
 注文に合わせ、店員に交渉を持ち掛けたエリは、さらっと成功させた。わざわざ手間を取らせて健一は申し訳ない気持ちになったが、当の公証人は全く気にした様子もなく、

「大丈夫だそうよ」
「すみません。ありがとうございます」
「客の好みに応えるのも仕事のうちでしょ。特にこういうところは、細かいサービスも大事だしね。さ、席に着いて、幹久自慢の一品とやらを待ちましょう」

 仮に地球が滅びるなんてことになっても、こういう人間が一番最後まで生き残るのかもしれない、と大変失礼なことを思った。
 突拍子もない思考は、エリにも読めないことをついでに知った。
 そうして注文が通り、席に案内されて数分。
 まだ先客に行き渡っていないからか、濃いコーヒーを淹れるのに時間が掛かっているからか、セットのロールケーキも出てくる気配はなかった。
 氷の浮いた水を前に、他の話題も特になかったので、健一はここの店主兼パティシエについて訊ねたのだが。

「幹久との関係?」
「なんか結構親しげな感じもしますけど、やっぱり仕事で知り合ったんですか?」
「それより前ね。高校のクラスメイトなの」
「昔の同級生ってことですか」
「ええ。あの頃から幹久はお菓子作ってばっかでね。しょっちゅう試食に付き合わされたものだったわ」
「未来のパティシエの試食って……考えてみれば贅沢な話ですね」
「今ほど洗練されてはいなかったけど、高校の時でも充分おいしかったから、早苗と一緒によく体型を気にしてたわねえ」
「早苗?」
「幹久と同じ知り合いの一人よ。今は近くで喫茶店をやってるみたい。もしかしたら健一くんも、どこかで会うことがあるかも」
「どうなんでしょう。僕、喫茶店ってほとんど行ったことないですし」
「そういえば、綾も健一くんはすごく料理が上手いって言ってたし、あんまり外食とかしないのかしら?」
「昔に両親と何度か、くらいですかね。あとは先日シーナとファミレスに入りましたけど」
「くつろぐにはちょっと騒がしすぎるわね」
「ですね。……他に仲良かった人はいたんですか?」
「他にというと、圭一郎かしら。荊木圭一郎。頭のいい男で、今じゃ成長株のベンチャー企業の社長様よ。たぶんこれからもっと大きな会社になってくでしょうね」
「……錦織さんの人間関係って、なんかすごいですね」
「健一くんも結構なものだと思うけど」

 有名なパティシエに喫茶店のマスター、ベンチャー企業の社長。この三人だと真ん中、早苗さんという人物が微妙に浮いているように見えるが、実は別のステータスを持っているというのも十二分に有り得る。そもそもエリからして、なかなかにとんでもない人なのだ。知り合いが一筋縄でいかないのも、当然のことかもしれない。
 感心する健一にしれっと言い返してから、一瞬エリは遠い目をした。決して戻らない過去を懐かしむような、彼女にしては珍しい表情だった。
 それが気になり、反射的に健一は何かを訊こうとして、横合いからの人影に言葉を遮られる。
「お待たせしました」と丁寧な仕草で、店員が二人分のロールケーキとコーヒーをテーブルに並べていく。薄く立ち昇る湯気と淡い香りに、健一の声は発せられぬまま喉奥に落ちていった。

「さ、食べましょ。わざわざ挑戦状を送ってきただけのものか、確かめさせてもらいましょうか」

 フォークを右手に掴んだエリは、喜色と好奇心がブレンドされた顔でケーキの端を切り取る。遅れて健一もいただきますと小さく呟き、控えめにロールケーキを薄くカットした。
 示し合わせるでもなく、ほぼ同時にぱくりと口へ運ぶ。
 そして、互いに目を見張った。
 外見だけなら、市販のものと大差ないだろう。幾分外側のケーキ生地は薄く、中心のクリームの方が割合は多い。しかし舌に乗せてみると、明らかに違う。しっとりとしたケーキ生地は柔らかく、甘さにも嫌味がない。中心は生クリームというより、バニラアイスに近い。牛乳の濃い味と、鼻に抜けるバニラの風味。常温であるにもかかわらず、口の中ですぅっと溶け、全く後を引かない。
 信じられない出来だった。
 これまで本当においしい菓子を食べたことがない健一にとっては、ほとんどカルチャーショックのようなものである。こんなものが作れるのか、という衝撃を感じた。

「あいつめ……全く、人を驚かせるためなら何でもするんだから」
「ええと、錦織さん、ものすごくおいしいってことはわかるんですけど……これってそんなにすごい技術で作ってるんですか?」
「ケーキの造形を競うコンテストで、幹久は何度も優勝してるのよ。特に飴細工の技術では、世界でもトップレベルなの。だからここに来る前は、そういうところで驚かせてくるかと思ってたんだけど……今回のはその辺を使ってるように見えないでしょ?」
「まあ、確かに。普通のロールケーキにしか見えないです」
「これ、正確にはロールケーキですらないわよ」
「…………え?」
「普通ロールケーキっていうのは、ケーキ生地の上にクリームを敷いて、それを巻いて作るのよ。巻き寿司みたいなものよね。そこまではわかる?」
「はい」
「でもこのケーキは、巻いたものを切って出してるんじゃなくて、最初からこの厚さ、この大きさで作ってる。……断面、よく見て」

 言われ、目を凝らす。
 ゆっくりと上部から確認してみると、生地の感じに僅かな差があった。素材は同じだが、一定のラインで層ができている。外側ほど密度が濃く、中心ほど薄い。それを踏まえ、クリームを省いて二口目。舌で押し潰すように味わえば、重ねられた層が絶妙な食感を出しているのに気付く。
 菓子作りの経験こそないものの、調理自体のノウハウを持っている健一には、ある程度実感を伴って理解できる。このケーキに掛かる手間暇は、決して軽いものではない。

「……要するに、これはロールケーキの皮を被ったクリームケーキ、みたいなものですかね」
「だいたいそんな感じでしょうね。普通のロールケーキに見せるためだけに、この薄さでロールケーキっぽい形にしてるのよ」

 一通りの解説を終え、エリは呆れた様子で溜め息を吐いた。
 ブラックコーヒーをちびりと啜り、

「つくづくアホね、あいつ」
「アホって……」
「だってそうでしょ? どう考えても、労力に見合ってないじゃない。同じ技術があれば、もっとストレートにすごいものが作れるんだから。真面目に売る気ないって言われても仕方ないわよ」
「いや、まあ、そうかもしれませんけど」

 果たしてこれを食べたとして、どれだけの客がエリほどの洞察眼を持っているというのか。もし雑誌か何かで紹介されたとしても、この埒外な労力はまず伝わらないだろう。
 エリの仕事はプロデュース業だ。それは言い換えれば、他人の才能が正当に、場合によっては些か過剰に評価されるよう取り計らう仕事である。対し、このロールケーキは全くの逆、評価されなくとも構わないという意図を感じる。
 一口目の後エリが呟いたように、人を驚かせるためだけの――茶目っ気や稚気に溢れたものなのだ。

「本当、何考えてるのかしらね、あいつは」
「そこのところはわからないですけど、おいしいからいいんじゃないでしょうか」
「それもまあ、そうなんだけど」

 理屈は察せられても、納得ができないらしい。
 釈然としない表情で再びケーキを崩し始めるエリに続き、健一もフォーク運びを再開した。
 コーヒーとの組み合わせは、店が勧めるだけのこともあり、びっくりするほど相性が良かった。すっきりした甘さは、特別濃く淹れたコーヒーの苦味とも違和感なく調和する。

「幹久さんは、プロデュースしてないんです?」
「してないわよ。知り合いだとやりにくいし、一回前に持ち掛けてもみたけど、どうにも頑固でね」
「そうでもないと、こんなことしないですよねえ」
「でも、努力の成果が地味過ぎると思うのよ。こんなことばっかりしてるから有名になれないんだって」
「充分有名だと思うんですけど」
「私からすれば見合ってないわ。幹久なら、世界に出たって活躍できるはずなのに……欲がないのよね」
「……綾さんみたいに?」
「ええ。綾みたいに」

 喋りながら、最後の一口。
 綺麗になった皿を前に、エリはフォークを置いて別席の客をさっと見渡した。

「結局あいつは、客の驚く顔が見たいだけなんだもの」
「それっていいことじゃないんですか? 驚くっていうか、喜ばせようとしてるんでしょうし。お客さんを大事にしてるんですよね」
「でもその所為で、ここに来ないと今回のロールケーキも食べられないのよ? 自分しか作れないケーキばっかり考案するから、他のチェーンではまず出せないし、数も全然作れない。こんなにおいしいなら、もっと多くの人が食べられるようにすればいいじゃない……って、健一くんも思わない?」
「……思います」
「だから厳密には、幹久は商売してないのよ。自分の作りたいものを好きに作ってるだけ。実力があるからそれが許されてるだけ。何というか……アホとしか言いようがないでしょ」
「でも、本人は満足してるわけですし、実際それで上手く行ってるんですよね? 楽しそうだなって気もしますし」
「仕事を楽しむことは否定しないけどね。だからこそ私は納得いかないの。もっと多くの人に知ってほしいし、才能は正しく評価されるべきだって思うから」
「才能は正しく評価されるべき、ですか」

 力がありながら、埋もれる人間も世界には山ほど存在するだろう。そういう人がきちんと評価されるのなら、個人にとっても、その業界にとっても悪いことではない。綾が世界的なアーティストになったことで、芸術自体の価値が上がるように。
 しかし、有名になればその分『個人』が薄れてしまうことにもなる。名前の眩しさに、本質が見えなくなるのだ。先日大海家で、千夜子の言葉を聞いた健一が、複雑な気持ちを抱いた理由がそこにある。
 強過ぎる光は、様々なものを見誤らせる。
 それはきっと、恐ろしいことだ。

「幹久さんのプロデュース……は駄目だったんですよね」
「一回断られた時に、絶対乗ってこないってのがわかったのよね。あいつは自分でテレビにも出てるんだけど、客を増やすためじゃないのよ。そうすればお客さんが喜ぶから、だって。だから自分で店の宣伝とかほとんどしないの。……やっぱりアホだわ」
「出るだけでも宣伝にはなってるんでしょうけど……」
「そんなんだから独立する時揉めて裁判沙汰になるのよね」
「裁判沙汰って、何があったんですか」
「よくある話よ。手放したくない店側と、離れたい幹久がぶつかっただけ。私が弁護士紹介して解決したってのに、感謝してるんならこっちの言うこと少しは聞きなさいっての」
「錦織さんって、意外と……」
「意外と?」
「……いや、何でもできるってわけじゃないんですね」

 子供っぽくむくれる様が可愛らしい、とは口に出せるはずもない。
 幸い健一の内心を察することなく、憮然とした表情を浮かべて「当たり前でしょ」とエリは苦笑した。

「そうでなければ健一くんに綾の世話を頼んだりしないわよ」
「……そんな話もされましたね」
「私はまだ忘れてないわよ? 今から考え直してくれてもいいんだけど」
「ええと……保留で」
「次に会う頃には、いい返事を期待しましょう」

 チェシャ猫よろしく意地の悪い笑みになったエリから視線を逸らし、誤魔化しがてら熱の抜けてきたコーヒーを飲む。
 あからさまな健一の態度は気にせず、そういえば、とエリは話題を変えてきた。

「健一くんの知り合いに、病気の人はいる?」
「病気ですか? 風邪とか、そういうのじゃないですよね」
「一時的なものじゃなくて、結構重い感じ……かしら」

 不明瞭な問いだ。具体的な病名は知らないか、口にし難いものなのかもしれない。エリ自身、どう言っていいかと悩んでいるようだった。
 とはいえ、興味本位の類ではないのだろう。声色には真剣さが滲み出ていた。首を傾げつつ、健一は周囲の人間の顔を思い浮かべてみる。
 まず自分は、確実に健康体だ。病気らしい病気は風邪程度で、それもだいたい年に一度か二度。姉の蛍子も大差はない。
 ならば十三階の住人は?
 綾……は不健康と言えば不健康だが、あれは単に自己管理が駄目なだけで、エリの言う“病気”ではないだろう。刻也も違う。シーナはある意味病気みたいなものだが、肉体的には元気過ぎるくらいだ。
 残るは一人、有馬冴子。
 綾とは違うベクトルで、不健康なことは間違いない。セックス依存症。肌を重ねなければ眠れないというのは、おそらく精神的な何かが要因だ。しかしそれを病気と表するのに、健一は抵抗を覚える。
「病気だから仕方ない」のか?
「病気だから誰かを傷付ける」のか?
 そんな逃げ方は、きっと冴子も望んでいない。
 だからこそ彼女は、懺悔をしていたのだ。

「……心当たり、あるみたいね」
「はい。病気っていうのとは、違うかもしれませんけど」
「一応訊くけど、綾のこと?」
「綾さんは病人ってより、要介護人、みたいな」
「なるほど、言い得て妙ね、それ」

 健一の言い回しがツボに入ったのか、薄くエリが頬を綻ばせる。

「ま、介護は健一くんがやってくれてるみたいだし、私はあんまり心配してないわ。それより、その人について、よければちょっと教えてくれるかしら」
「エリさんの言う条件には引っ掛からないと思いますよ」
「それでもいいわ。健一くんが私に訊かれて思い浮かべた人のことを知りたいのよ。どんな関係?」
「関係……」

 佳奈に平手打ちされていたところを見つけて、たまたま彼女が1303の鍵を持っていて。幽霊マンションの十三階に案内して、半分同棲みたいなことになって。
 事情を聞いて、お互いおかしな人間だと理解して、これ以上他の人間に迷惑を掛けないよう、健一だけが彼女とセックスすることにした。そうして毎夜同じベッドで、電気を消して、繰り返し果てている。
 家族のように近しいのに、恋人では決してない。
 好きにならないでほしいと、冴子は言った。
 その約束を守ったまま、彼女に対する気持ちの置き方だけが、今もわからずにいるのだ。

「……女の子?」
「はい。クラスメイトです」
「じゃあ同い年か。友達? ただの知り合い? 恋人候補?」
「……よくわからないんです。たぶん、そのどれでもないです」
「名前は訊いてもいいのかしら」
「有馬さんです。有馬、冴子さん」
「冴子ちゃん? 健一くん、冴子ちゃんと知り合いなの?」

 ともすれば、ロールケーキの一口目を食べた時よりもエリは驚いていた。しかし健一も、エリが冴子を知っているとは露ほどにも思っていなかった。

「錦織さんは、有馬さんを知ってるんですか?」
「有馬十三さんの娘さんでいいならね。もっとも、実際に会ったことはないけど」
「僕は有馬十三さんに会ったことがないですけど、その人の娘さんで間違いないはずです」

 そういえば以前事務所に連れ込まれた際、冴子の父親と何度か一緒に仕事をしたこともある、と話していた。その繋がりで、家族構成も伝え聞いていたのだろう。
 もしかしたら、健一が知っている以上のことも。

「……そう。人の縁は不思議なものね。綾に好かれてるだけじゃなくて、冴子ちゃんとも知り合いだなんて」

 呟いて、エリはすっと目を伏せる。
 何事か思案するその仕草が、例えようのない不安を健一に抱かせた。

「僕と有馬さんが知り合いだと、何かまずいんですか?」
「いいえ。冴子ちゃんが納得してのことなら、私がどうこう言う話でもないでしょ?」
「それはまあ……そう、ですね」

 家出のこと。セックス依存症のこと。伴う悪い噂のこと。
 仮に冴子の家族の立場になって考えてみれば、心配すべき点は山ほどある。彼女に付く健一を『悪い虫』と見る向きだってないとは言えない。

「錦織さんは、有馬さんの事情についてどのくらい知ってるんです?」
「どのくらいって、おそらくほぼ全部じゃないかしら。前に十三さんから、いい医者を知らないかって相談されたこともあったわね」
「いい医者?」
「あら、違うの?」
「……有馬さんに必要なのって、本当に医者なんですかね」

 エリの問い返しにぽつりとこぼした言葉は、無意識のうちに口から出ていたものだった。けれどそれは確かに、健一の本心でもあった。
 健一が付き合い続けても、セックス依存症は解決しないだろう。寡黙な冴子の心を理解することは、健一にはきっとできない。あの時の言葉の意味も、未だにわからないのだから。
 どこまで行っても、健一は他人だ。
 冴子が向き合うべき相手は、別にいる。
 医者ではなく、健一でもなく、彼女の奥底に根ざす誰かが。

「そっか。そうなのね」
「……錦織さん?」
「ごめんなさい。変なこと訊いちゃったわね」
「いえ、こちらこそ、変なこと言っちゃってすみません」
「折角だし、ついでにもうひとついいかしら」
「僕に答えられることなら」
「健一くんは、冴子ちゃんが好き?」
「え?」

 違う、とも。
 そうです、とも言えなかった。
 それこそが、何より確たる答えだった。

「ま、訊くだけ野暮よね」
「いや……あの、有馬さんには『好きにならないでほしい』って言われましたし……」
「冴子ちゃんの気持ちは、今は関係ないでしょ。健一くん自身がどう思うか、大事なのはそこだけよ」
「……はい」
「コーヒー、冷めちゃったわね。健一くんもおかわり、要るわよね?」
「………………お願いします」

 マイペースというか、空気を読まない人である。
 一瞬で会話のペースを戻され、毒気を抜かれてしまった。手のひらの上で踊らされている気もする。
 エリが店員に注文をしてから、二杯目が来るまではさほどの間もなかった。健一の分は最初と同じく濃い淹れだ。予め準備していたのだろう、文句のない味だった。
 若干乾いた口内を濡らし、一息。
 そのタイミングで顔を上げると、エリがじっとこちらを見ていた。

「……ええと、何か?」
「コーヒーを飲む様もなかなか絵になるなって」
「そうなんですかね」
「特に指の動きがいいわ。滑らかで、カップを掴む力にも無駄のない感じがするもの」
「自分じゃ全然わからないですけど」
「その指で綾を鳴かせてきたのよね?」

 危うくコーヒーを正面に噴きかけた。

「何考えてるんですか!」
「軽いお茶目よ。そうそう、女の子と言えば、シーナ&バケッツなんだけど」
「酷い連想の仕方ですね……」
「だって大人気でしょ? で、最近ますます活動的みたいじゃない。こないだシーナについて訊かれたけど、本気でプロデビューするつもりなのかなと」
「シーナがそこまで考えてるかは微妙ですけど……とりあえず次の目標はテレビ出演ってことになってます」
「メディア露出ねえ……。現実的なのは、インディーズ系の紹介にピックアップされることかしら」
「……錦織さんから見て、どうです?」
「充分可能性はあると思うわよ。ああいうのは視聴者からの意見もかなり入るし、今のまま順調にいけば、遠からず出演できるんじゃない?」
「なら、その方向で頑張ってみます」
「本気でデビューする気になったら教えてほしいかな。健一くんとシーナ……ああ、シーナさんなら私がプロデュースしたいし」
「はあ……前向きに検討します」

 苦笑いで頷き、そこでエリの発言に引っ掛かった。
 何故わざわざシーナの呼称を言い直したのか。

「あの、錦織さん」
「何かしら」
「シーナの正体、気付いてました?」
「もしかして、シーナが女の子ってこと?」
「はい」
「私も一回ライブに顔出したのよ。事務所の子は美少年って言ってたけど、声聞けば女の子ってわかるでしょ」

 残念ながら、わからなかった筆頭が健一である。
 十三階でも見抜いたのは冴子のみで、思い当たる限り健一の知り合いでシーナの性別を知る人物はいない。エリが実質二人目だ。
 あんな姿と言動で女の子なわけがない、という先入観もあるのだろうが、シーナはよく誤魔化している方だと思う。しかしそれでも、気付く人は気付くのかもしれない。
 密かに落ち込む健一には構わず、小型のメモ帳を取り出したエリは、手際良く十一桁の数字を書き込んだ。
 ページごと千切り、健一に渡す。

「絹川くん、携帯電話とか持ってる?」
「ないですね」
「何かあったらその番号に電話して。私の携帯番号だから」
「はあ……わかりました」
「エッチしたい時でもいいのよ」
「絶対しません」
「それじゃ、私は失礼するわね」

 一気にコーヒーを飲み干し、エリが席を立つ。
 まだ健一のカップには半分ほどが残っていた。追従して飲みきろうとするが、手で止められる。

「今日の支払いは全部幹久が持ってくれるそうだから、遠慮なく追加で注文してもいいわよ」
「いや、さすがにそれは……」
「ま、気が向いたらってことで。じゃあまたねー」

 困惑している間に、颯爽と出ていってしまった。
 取り残された健一は、黒い水面を見つめる。

「コーヒーのおかわりは如何ですか?」
「……お願いします」

 別におかわり自由というわけでもないだろう。
 本当に特別な待遇なんだろうなと、半ば自棄になって、三杯目を注文したのだった。
 最後の良心で、ケーキのおかわりまでは頼まなかった。



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何かあったらどーぞ。