「シーナ&バケッツって知ってる?」 私が最初にその名前を聞いたのは、クラスメイトの友達からだった。 何だか随分勿体ぶった感じというか、言いたくて言いたくてしょうがない風だから、ちょっと私も興味が出てしまった。知らないけど、と探るように返してみると、嬉しそうに話してくれた。 曰く、最近巷で有名なストリートミュージシャンのコンビ。 ボーカルのシーナは中性的な美少年で、あの歌声は一回聴いたらもう耳から離れなくなるなー、とか。 バケッツってのは名前通りバケツ被ってる男の子なんだけど、彼の吹くハーモニカがまたすごくて胸に染みるんだー、とか。 そういうことを休み時間いっぱい熱のこもったトーンで語ってきて、気付けば私の頭の中には、まだ見ぬシーナ&バケッツの二人がぼんやり住み着いていた。 自分で言うのも何だけど、私はアイドルが好きだ。 カッコいい人を見てるときゅんきゅんする。お金がそんなにないから、CDやグッズを手当たり次第買うわけにもいかないけど、注目してるグループが出演する番組なんかは欠かさずチェックする。そうして次の日「昨日のテレビ見た?」「やっぱりカッコいいよね!」なんて話の種にしたりして。 シーナ&バケッツはいわゆるローカルの、この辺でだけ活動してる二人らしい。ただ、ストリートライブを見に行くのはとても簡単。ほぼ毎日決まった場所、決まった時間にやるみたいだから、そのタイミングで行けばいい。 友達から聞いたのは、なかなかに遅い時刻だった。おおよそ一時間近く。終わりまでいると、今の時期なら陽が暮れてしまう。 微妙に難色を示した私に、それでも聴く価値はあるよ、と同行を促され、結局頷いて約束した。次の土曜。何だかんだでアイドルのライブなんて行ったことないし、正直結構わくわくもしてた。 ……というのが、一昨日の話。 ところでここ何週間か、私は毎日夕方になると外を歩き回るようになった。日奈ちゃんが夏頃以降、決まった時間にずっと家を空けてるからだ。 最初は特別不審にも思わなかった。私と日奈ちゃんは双子で、昔から一緒なことも多かったけど、いつでも二人でいるわけじゃない。きっと友達と遊んでるんだろう、なんて、気楽に構えてた。 ただ、これが一ヶ月、二ヶ月も続くと事情は変わってくる。 もしかして悪い男に騙されてるんじゃないか。 変なことに引っかかってるんじゃないか。 よくない夜遊び始めちゃったんじゃないか。 一度心配したら、もう居ても立ってもいられなくなった。日奈ちゃんを問い質そうとしたこともあったけど、何でもないよ、佳奈ちゃんが心配するようなことはしてないよ、大丈夫、って言われて、しかも何だかすごく頑なで。 日奈ちゃんは気弱で引っ込み思案で、可愛くて優しい子だから、姉の私が守ってあげなきゃいけない。 ずっとそう思ってた。 その気持ちが、私を夜の見回りへと突き動かした。 けれど、今までほとんど成果なし。 八月くらいに日奈ちゃんのとすごくよく似たハーモニカを持った絹川君を見つけたけど、ギリギリ疑わしい、ってラインでストップ。はっきり容疑者とは言い難く、その場は見逃してしまった。 ――なのに。 今日、日奈ちゃんは絹川君といた。 たまたま帰り道に会って、心配だから途中まで送ってたっていうけれど、日奈ちゃんは可愛いから、あのまま私に会わなければ送り狼になってたかもしれない。 「心配したんだからね」 「……うん、ごめんね、佳奈ちゃん」 「絹川に変なことされなかった? 日奈ちゃんは可愛いんだから、油断しちゃ駄目だよ」 「大丈夫。……あの、本当にたまたま会っただけだから。佳奈ちゃんが心配してるようなことは、何もないよ」 でも日奈ちゃんは、柔らかい笑顔でそう言うんだ。 優しいよね。 優しくて……やっぱり、危なっかしい。 私の可愛い、双子の妹。 そこでふと、クラスメイトの言葉を思い出した。 シーナ&バケッツ。彼らの名前が広まり始めたのは、丁度夏休みの頃だったらしい。日奈ちゃんの帰りが遅くなった時期とも一致する。 まさか、日奈ちゃんはシーナ&バケッツのファンじゃないだろうか。それこそデビューしたばっかりから知ってて、ストリートライブも毎日見に行ってるのかもしれない。 だとすれば、色々辻褄が合う。まあ、合ったところでよくないのは間違いないけど……それが確かなら、最悪よりは遙かにいいだろう。 だから、私は歩きながら訊いてみる。 「ねえ、日奈ちゃんはシーナ&バケッツって知ってる?」 繋いだ手がぴくりと震えた。 横を見ると、一瞬だけ日奈ちゃんが目を見開いたのがわかった。長い睫毛がふるふる揺れて、声にもならない掠れた音が私の耳に届いた。 「……佳奈ちゃんは、誰から聞いたの?」 「クラスの友達からだよ。最近有名なんだって」 「うん……私も、聞いたことあるかな」 当たりだ、と思った。 どうして隠したがるのかはともかく、日奈ちゃんはシーナ&バケッツを前から知ってるんだ。だからきっと、そんなに予想も外れてない。 なら、私も行ってみよう。 ライブの場所なら、日奈ちゃんを見つけられるかもしれない。そうでなくても、手がかりくらいはあるはず。 私とばったり会ったら、驚くかな。一緒にライブを見られるって、喜んでくれたりするのかな。……そういえば、シーナもバケッツも男の子みたいだし、どっちかを日奈ちゃんは好きになっちゃってたりとか! だったら尚更、見極めなくちゃ。 私は――日奈ちゃんの、お姉さんなんだから。 私、窪塚日奈は、双子の実姉であるところの窪塚佳奈が好きだ。 好きといっても当たり前の家族愛じゃない。付き合いたい、恋人になりたい、結婚したい――あわよくばセックスしたい、の好き。人によっては、肉欲と言うのかもしれない。 勿論口には出せない。だって、佳奈ちゃんは家族だし、血の繋がった姉だし、しかも同性、女の子だ。私も性別的には女の子。もう今の家に産まれる前からやり直す方が早いんじゃないかとすら思う。嘘だけど。お母さんも、お父さんも……当然佳奈ちゃんも大好きだから。この家族以外は考えられない。 どうしてこんな駄目な人間になってしまったのか、と考えると、実のところよくわからなかったりする。いつの間にか佳奈ちゃんを意識してて、好きにも種類があることに気付いて、もしかしたら自分は産まれてくる時に性別を間違えたんじゃないかと疑うようになった。 もっとも、女の身体も悪くはない。むしろいいことばっかりだ。 一緒にお風呂入っても文句は言われない。一緒に着替えても何の問題もない。だって女の子同士だもん。下着も二人で買いに行ける。佳奈ちゃんのを私が選んだりもする。ちょっと大きくなったかな、って確かめる名目で胸に触ってもきゃーきゃー言われるだけ。当然叫ばれることもない。双子だし、姉妹だし。 佳奈ちゃんの胸は私より小さくて、そのことをずっと気にしてる。差ができちゃったのは中学生くらいの頃だけど、育ってきた時はこの膨らみを分けてあげたいと思った。でも、今は恨めしそうな、羨ましそうな視線で見られたりするのが嬉しかったりする。いいなーとか言いながらじゃれついて揉んでくるとばっち来いって気分になる。そのまま押し倒してくれてもいいんだよ! なんて気持ちは顔にも出せないけど。 佳奈ちゃんはミーハーで、アイドルとか大好きな子だ。例えば新しく発売したシングルのCDを買いたくて、でもおこづかいが足りなくて、私に泣きついてきたりする。ホントはあんまり歌も上手くないアイドルの曲なんて興味ないんだけど、佳奈ちゃんに“お願い”されるとついつい甘やかしてお金も出しちゃう。割り勘だよ、なんて言い訳付きで。 そうすると佳奈ちゃんはすっごく嬉しそうに「ありがとう、日奈ちゃん!」って言ってくれる。しかも抱きついてくれる。その笑顔と感謝の言葉と柔らかい身体といい匂いを味わう度、生きててよかったって思うんだけど、CDを買ってくると佳奈ちゃんの興味はすぐそっちに行っちゃう。だから私はいつもやきもきする。そんな感じの繰り返しで、私と佳奈ちゃんの毎日は続いてる。 私はアイドルのちゃらちゃらした歌より、父が持ってるレコードの洋楽や昔の邦楽が好きだった。時折父の部屋に忍び込んで、勝手にレコードのスイッチを入れる。何万もする大きなスピーカーから響くざらついた歌声を、目を閉じて胸の奥に刻んでいく。シーナの欠片は、だから父の部屋で作られたのかもしれない。 佳奈ちゃんと私は、違うところばかり。 合わないところだって、たくさんある。 何より佳奈ちゃんは普通の子だ。お洒落が好きで、アイドルが好きで、クラスメイトとお喋りするのが好きで――妹でも女の子でもない、男の子を好きになる、普通の女の子。 けれど私は、佳奈ちゃんが好きだった。愛してた。 そういうのって、理屈じゃない。世間一般にはおかしい、異常なことだとわかってても、佳奈ちゃんの裸を見れば欲情するし、いやらしい目で見たくもなる。 愛と肉欲のふたつは、私にとって切り離せないものだ。だって、好きならセックスしたい。一緒に気持ちよくなりたい。そうじゃないのかな。それって、当たり前のことじゃないのかな。 だからこそ、私はシーナになった。 窪塚日奈じゃ駄目だったから。男の子じゃないと、佳奈ちゃんには届くことさえできない。きっかけも作れないから。 それが偽りの姿、嘘の塊だとしても。 私にとっての理想なら、射止められるかもしれない。 ……そして今日、蒔いた種がようやく芽吹いた。 「ねえ、日奈ちゃんはシーナ&バケッツって知ってる?」 佳奈ちゃんの問いかけに、私は驚きで一瞬だけ目を見開いた。健一との活動が実を結んだ何よりの証拠が、佳奈ちゃんの口から聞けたから。 ストリートミュージシャンとして、有名になれば。 いずれ佳奈ちゃんの耳にも、私達の名前が入る可能性はある。そうして佳奈ちゃんがライブを見に来て、私を――シーナを好きになったら。 本当に欲しいものは、決して掴めないと思ってた。 地獄の中に垂れ下がった、一本の細い蜘蛛の糸。 私が足掻いて見つけたそれを、健一が太く、強くしてくれた。だからきっと届く。届き得ることを、この時私は確信したんだ。 佳奈ちゃんの妹じゃなくて。 それ以上の何かになれるんだって、私は信じて疑わなかった。 秋から冬へ、移り変わる季節と共に。 ――やがて二人は、現実と向き合うことになる。 back|index|next |