秋雨前線の隙間を縫った、よく晴れた空だった。 風もまだ肌寒いというほどでもない、絶好のお出かけ日和。健一の足は幽霊マンションを離れ、公道沿いのルートを辿っていた。夕食用の買い物がてら、この近くでシュート練習をしているはずの、流輝に会うためだ。 しばらく歩くと目的の人影を見つける。正面側から近付き手を挙げると、向こうの表情がぱぁっと明るくなった。背丈に似合わない幼さを感じ、つい苦笑してしまう。 「絹川先輩、来てくれたんすね」 「ご飯の買い物があったからついでにね。いないかもしれないかなって思ってたんだけど」 「今日は休日っすから。暇があればシュートしてたいんす」 相変わらずな調子に感心しつつ、健一はコートの隅に設置された小型のベンチに腰を下ろした。確か私有地と言っていたし、本来の持ち主の意向なのだろう。大したものではないとはいえ、この規模のコートにぽんとベンチも備え付ける辺り、結構な資産家なのかもしれない。 観戦モードに入った健一を確認して、流輝もまたシュート練習に戻った。 定位置につき、ゴールを真っ直ぐ捉える。おぼろげな体育の記憶から掘り起こすに、流輝の立つ場所はツーポイントのライン際だ。ボールを頭の僅か上に掲げ、両手は添えるように。腕の力だけではなく、膝の屈伸から前進を跳ね上げて、最後に両手が斜め前へと伸ばされ、茶色のバスケットボールが放物線を宙に描く。 一連の動作はあまりにも自然で、何度見ても現実味が薄かった。風が吹けば木の葉が揺れるように、放たれたボールはゴールの枠に一切触れず、中心へと吸い込まれる。網だけが乾いた音を立て、シュートの正確さを主張する。 しかし繰り返す流れをよく見れば、落下するボールの軌道にはブレがあった。本当に些細な違いだが、おそらくそれこそが“同じにならない”証拠なのだろう。 仮に、シュートの体勢やボールの軌道だけでなく、ゴールに入った後の落下位置まで一定になれば。流輝の求める完成形と言えるのかもしれない。 ひっきりなしに、ともすれば機械的に行われるシュートを、健一は飽きずに眺め続けた。飛ぶ。放つ。入る。拾う。時には立ち位置を変え、ドリブルを交え、まるで目の前に誰かがいるような動きさえする。が、基本的にはパターンだ。振り子や砂時計を見つめる感覚にも近い。そうしていると、外野である自分の思考も、クリアになっていくようだった。 流輝に会いに来たというのは、間違いではない。 十三階で作る夕食の買い物をしていたのも確かだ。 実際手元にはそこそこ大きなビニール袋がふたつあるし(冷蔵食品や冷蔵食品は避けた)、わざわざ少し遠出をしたのは、皆で持ち寄った生活費をなるべく節約するため。自宅のポストに入っていた安売りのチラシをチェックしてのことだ。 ただ、一人で考え事もしたかった。 「……ホタル」 真っ暗な部屋で健一にキスをした、姉の姿を思い出す。 あの後、請われた通りに同じベッドで夜を過ごした。服は脱がず、愛も交わさない。互いの身体を抱きしめ、目を閉じて、静かに眠るだけ。 いつもベッドでセックスをしても、就寝は極力別々だった。万が一両親が深夜、あるいは早朝に帰ってきた時、疑われる公算が高いからだ。あんな風に二人で寝たのは、それこそ小学生かもっと前以来だろう。 だから、知らなかった。 柔らかくて、細くて、けれど割と肉付きは良くて。 そんな彼女が、小さくて、か弱くて、折れてしまいそうに感じたのだ。あの日、告白されて受け入れて、思い知ったはずなのに。超然とした人間でも、横暴な姉でもない。どこにでもいる一人の女性なんだと理解したはずなのに。 誰よりも蛍子がそうだったことに、健一は驚いた。キスをしたって、セックスをしたって、やはり蛍子は姉でもあるのだ。健一にとっては特別な人だった。 わかっている。 自分がそうしてしまった。 受け入れなければ、虚勢であっても張り続けただろう。いつか想いも閉じ込めて、やがて忘れるかもしれない。そういう未来は、確実に存在した。 (本当に、これでよかったのかな) そうしなければならない、と思った。 現状に後悔はしていないし、してはいけないとも思う。 けれど、恐れは消えないのだ。何か決定的なものが失われたような。走り出して、転がり落ちて止まらないような。 あの蛍子を見て、考えずにはいられない。 シュートを繰り返す流輝は、健一にしてみれば一種の理想でもあった。ひたすらそれだけに注力する。振り向かず、躊躇わず、迷いさえしない。蛍子のことも、シーナのことも、そうやって向き合えればいい。 しかしそれこそ、何より難しいことなのだ。だから流輝の姿は美しいし、年下ながら尊敬もしたくなる。 ――と、気付けばシュートは止まっていた。 ボールを拾った流輝の視線が、ゴールの奥に注がれていた。同じ方へと健一も意識を向けると、見慣れない少女が立っている。 有り体に言って、とんでもない美人だった。 秋晴れの陽射しに、黒い長髪が煌めいている。すっきりと整った面立ちは、別の誰かを彷彿とさせたが、具体的な正体まで健一は辿り着けなかった。背も女性にしては高く、おそらく健一より若干低い程度。足の長さもスタイルの良さも、どこかの雑誌のモデルと言っても普通に通用しそうなレベルだ。 その目は流輝をしっかと捉えていたが、一瞬健一にも逸れた。僅かにびっくりしたような表情を浮かべ、少しだけ瞳を細める。疑いというより、嬉しそうな色が窺えた。 「何の用っすか」 「あら、酷い言い草。可愛い後輩の様子を見に来ただけなのに」 対する流輝は、顔こそ見えないものの、あまり歓迎していない様子だった。練習を中断されたからかとも思ったが、どうやらそういうわけでもないらしい。 「……わかってるとは思いますけど、部に戻る気はないっすからね」 「無理強いをするつもりもないよ。今のまま仮にあなたが戻っても、また同じようになるだけだろうし。あと今日は全くの別件」 「男バスの話じゃないんすか?」 「そっちじゃなくて、女子バスの娘達にシュートを教えてもらえないかなって」 「んー……お断りするっす」 「一応訊いておくけど、どうして?」 「俺のシュートはまだまだっすから。人に教えられるようなものじゃないっす。それに、女子バスの雰囲気苦手なんすよ」 「そう。ごめんね、いきなり来て無理言って」 「気にしてないっす」 「あ、ちょっと練習見ていってもいい?」 「それは別に構わないっすけど……」 頼み事をしに来た割には、随分あっけらかんとした感じだった。柔らかい笑みを崩さず話を進めた少女は、流輝の許可を得てから健一に改めて会釈し、 「流輝君の先輩で、八雲狭霧と申します。お名前を伺っても?」 「あ、絹川健一です……って、八雲? もしかして、お兄さんとかいます?」 「兄さんをご存じなんですか?」 「八雲刻也さんがお兄さんなら、クラスメイトですね。ええと、比良井高校です」 「……間違いありませんね。刻也は私の兄です」 なるほど、妹だと思えば、初見の際の既視感にも納得が行く。どこか刻也に似ているのだ。 流輝の姉が刻也の彼女だというのも考えると、部活の件を抜きにしても、彼女と流輝の間にそういった繋がりがあるのだろう。だからこそこうして、プライベートな時間に邪魔できるのかもしれない。 「絹川さんは、兄さんとは親しいんでしょうか」 「うーん、どうなんでしょうね。個人的には、友達のつもりでいるというか……八雲さんにとってもそうだったらいいな、とは思ってますけど」 「きっと兄さんのことですから、クラスでも全然皆さんと話さないんじゃないかと……。でも、絹川さんとはお話しするんですよね?」 「いや、学校じゃ確かにほとんど話さないです。他のところでちょっと顔を合わせることが多くて」 「だとすれば絹川さんは、兄さんにかなり気を許されてるんじゃないかって思います。意地っ張りで、頑固で、口下手な人ですから。周りの人をよく心配させるんです」 「……そうなんですかね」 「はい。兄さんに彼女がいることはご存じですか?」 「流輝君のお姉さんというところまでは」 二人の眼前、ボールを拾いかけた流輝の手が数秒止まったが、何事もなかったかのようにシュート練習を再開する。 狭霧は健一の言葉に、ふっと安堵の表情を見せた。 「そこまで話してるんですね」 「半分くらいは成り行きでしたけど……」 「それでも、本当に兄さんが絹川さんに心を許してるのはよくわかります。……鈴璃さんも以前、絹川さんと同じことを言ったんですよ。私は恋人のつもりなんだけど、って」 「……なんだか変な言い方ですね」 「だから、兄さんはそういう人なんです」 きっと刻也は、必死過ぎるのだ。 自分で始めたことだからと、誰かに頼るのを良しとしない。周りの皆の心配も、自ら視界を狭くして、その所為でわからなくなってしまう。 頼らないから言葉にしない。 言葉にしないから、周囲を不安にする。 けれどそれは、刻也の性格なのだろう。助けを借りないことは、美点でもあり欠点でもある。不器用さの発露だ。 兄の話をする狭霧は、困ったような、嬉しいような表情をしていた。似た顔を以前、健一は見たことがある。 昔の蛍子が時折自分に向けていた。仕方ない弟だ、と。 一線を越えた今となっては、決して目にすることのないもの。 「どうしました?」 少しばかり感傷的になった健一の様子に気付いてか、狭霧が小さく首を傾げる。無意識の仕草が可愛らしく、声色も淡く、その一方で瞳の力は強い。対していると、内面を暴かれそうな気になるのだ。 何でもないですと返し、健一はそっと吐息を地に落とした。これまで刻也から狭霧の話を聞いたことはなかったが、もしかしたら彼自身、苦手意識めいたものを持っているのかもしれない。 「確かに八雲さんは、不器用なところもありますけど……不器用なりに、気遣いのできる人だと思います。なんか、偉そうに聞こえるかもしれないですけど」 「そんなことないです。兄さんのこと、ちゃんとわかってくれる人が友達で、妹としても嬉しいです」 狭霧が笑みを深くする。 不意に風が吹き、彼女の長い髪を揺らした。丁度シュートに差し掛かる流輝にも、おそらく影響はあったのだろうが、ボールは当然の如くゴールネットに吸い込まれる。 乱れる黒髪を片手で押さえながら、あの、と前置きをし、 「絹川さん。ひとつ、お願いをしてもいいですか」 「ええと、何でしょう」 「家に戻ってくるよう、兄さんを説得してもらいたいんです」 「それは……たまには顔を出せ、とか、そういう感じのことじゃなく?」 「一人暮らしを止めて、実家に帰ってきてほしいんです」 真剣な表情と声で訴える狭霧に、何がしかの含みはないように見えた。 刻也の事情については、シーナとの一件で先日おおよその部分は本人の口から聞いている。父との確執、反抗心から家を出たこともだ。 勿論、あの場での話は刻也の主観しかない。周囲の人間、狭霧や二人の両親がどう考えているかは、健一には知り得ないことだったが――少なくとも狭霧は心配している。 それが健一には喜ばしく、羨ましい。 「うちは母が病弱で、兄さんも時々お見舞いに来ているのは知ってるんですが、アルバイトが忙しいみたいで。家に戻れば、その頻度も減って、もっと母に会いに行けるんじゃないかって」 「一人暮らしだとお金掛かりますしね……」 「バイト先は鈴璃さんと一緒ですし、別に辞めてほしいわけじゃないんですけど。ただ、毎日アルバイトして、司法試験の勉強もして……かなり無茶してるでしょうし、周りにも迷惑掛けてると思います。もし母に何かあっても、今のままだとすぐには動けない。やっぱり、それってよくないんじゃないでしょうか」 「まあ、確かに」 「絹川さんの言葉なら、兄さんも無碍にはしないはずです。だから、お願いできますか?」 もし。 刻也が自分の事情を説明していなかったら。 彼との出会いがもう少し違ったものであったなら。 狭霧の頼みを、受けていたかもしれない。 間違ったことは、ひとつも言っていないのだ。 心配で、不安で、よくないことだと感じていて、ちゃんと相手を慮った提案をしている。その通りだろう、正しいだろう、たぶんそうした方がいいのだろう。健一にもわかる。 けれど刻也は、一度間違える道を選んだ。正しくないと知りながら、それでも自分の心に従った。 友達だ、と思う。そうであってほしいと思う。 同じ十三階の住人で、同じご飯を食べて、話して、お茶を飲んで、笑い合ったり怒ったり、苦い顔をしたり、助け合ったりする。そういう関係だ。他の誰にも来られない場所に集まった、一種の運命共同体。 刻也は戦っている。 現実や理不尽。目に見えて、形のないものと。 だったら、手助けしたいと思うのが、友達だろう。 拙くても。間違っていても。 意を汲むこと、力になろうとすることは、きっとおかしな話じゃない。 だから、 「すみません。八雲さんの妹さんにも色々思うところはあるでしょうけど、僕は八雲さんの味方でいたいので」 「……わかりました。ひょっとしたら、くらいの気持ちだったんですが、絹川さんは頷かないだろうって思ってました。ちょっと悔しいですけど、でも安心です」 「安心?」 「兄さんに何かあったら、絹川さんは絶対兄さんの力になってくれるでしょうから。……あ、それと私のことは狭霧でいいですよ。八雲さんの妹さん、って言いにくいでしょうし」 「……じゃあ狭霧さんで」 「はい、健一さん」 一瞬で呼び名が親しい方向にシフトした。 何か妙に気を許されたというか、錯覚でなければ視線の色合いも変わってきたような。ふと流輝を見ると、シュートの手を止めてこちらを窺ってすごい顔をしていた。信じられないものを見つけた感じの表情だった。 二人分の注目を集めた狭霧は、それを全く意に介せず立ち上がった。そのまますたすたと歩き、ハーフコートを抜け、足を止めて振り返る。 「流輝君、お邪魔しました。コーチの件はよければ考えてくれると嬉しいな」 「後ろ向きに検討するっす」 「健一さん、兄さんによろしくお願いします。またお会いしましょうね」 「あ、はい」 にこやかに言い放って去っていく背中を、しばし呆然と見送ってから、ぽつりと流輝が呟いた。 「……絹川先輩、さすがっすね」 何が、とは訊けなかった。 手元のビニール袋が、早く帰れとばかりに音を鳴らした。 今日の夕食は鳥の水炊きだった。 あの後流輝と別れ、帰り際に鍋用の鳥肉を買った健一は、1301に戻ると手早く材料を切り分けた。 だいたいの具材を皿に乗せておいたタイミングで、まずふらりと綾が現れる。背後でにこにこ眺める彼女をそのままに、棚からガスコンロとミニボンベを引っ張り出す。 十三階に来る前、一人暮らしのために刻也が買ったものだという。キッチンもないような、相当安い物件を借りるつもりだったのかな、と思いつつ、鍋に水を張り、昆布出汁を取る。そこでお腹を空かせたシーナも混ざり、早く早くと催促し始める。 残りの二人だが、意外にも先に来たのは刻也の方だった。賑やかに過ぎる光景に眉を顰め、シーナへの小言がひとしきり当人に叩き込まれたところで冴子が顔を出す。 「ごめんなさい、ちょっと遅くなっちゃって」 「あれ、1303にいたんですか?」 「ううん。その……アルバイトの目処が立って」 つまり出かけていたということだろうか。 十三階の住人は、1301にいる時以外、あまり互いに干渉をしない不文律ができている。例外はしばらく姿を見ない綾くらいだ。その場合は大抵倒れかけているので、健一が1304に突入することになる。 一人で外出する用事があっても、それを他人に伝える必要はない。呼び鈴を鳴らしたり玄関扉をノックでもしない限り、不在を確かめる術はないのだ。 帰ってきてから健一は1303に寄らなかったため、冴子がいなかったのにも気付かなかった。しかしそもそも、冴子が外に出ること自体が非常に珍しい。噂の件もあり、健一も冴子もトラブルに関しては敏感になった。特に冴子は、綾とは別の意味で危なっかしい。 大丈夫なのか、という健一の視線に、冴子は小さく頷いた。 「明日、面接があるから、夕方はまた出かけるわ」 「何だか急ですね。付いていかなくても平気です?」 「絹川君、私の保護者みたいね」 「あ、いや、そういうつもりじゃないですけど……」 「心配しないで。今日お話しした人も、すごくいい人だったし。あそこなら私も働けると思う」 「ふむ。帰りは遅くなりそうかね?」 「面接だけなら一時間ほどのはずです」 「そうか。無理だけはしないようにしてほしい」 「はい。ありがとうございます、八雲さん」 「冴ちゃんバイトするの?」 「面接が上手くいけば、ですね」 「バイトかー。ま、トークの下手な管理人だってファミレスのホールでずっとできてるんだし、有馬なら問題ないだろ」 「……非常に君の言葉には含みがあるように聞こえるのだが」 「気のせい気のせい」 ヒートアップ寸前の二人を止め、充分に煮立った鍋の蓋を開けた。もわりと立ち昇る湯気。熱の通った野菜と鶏肉を、各自ポン酢と大根おろし、刻みネギで食べ進めていく。 決して少ない量ではなかったが、五人もいると減るのは早かった。穴空きおたまで器用にくず野菜を拾い上げる刻也に、そういえば、と健一は狭霧の件を話した。 「管理人、妹なんていたのかよ。しかも美人なんだろ?」 「母に似ているのは確かだな。一般的には、面立ちが整っている部類に入るのだろう」 「なんでこないだ一緒に話さなかったんだ?」 「父と鈴璃君の件に、妹は無関係……というわけではないが、ほとんど関わっていないのでね。それに妹には、帰ってこいと何度も言われている。そして妹の話によれば、母も……父もそう思ってくれているようだ」 「何だ、じゃあホントにいつでも帰れるんじゃん」 「だからこそ、私は帰れないのだよ」 一度決めたことは曲げないと、そう決めたのだろう。 安易な逃げ道には行かない。楽な選択肢に甘えない。 でなければ、間違えた意味もなくなってしまう。 「妹は父に、私を説得してくれと小遣いまでもらっているらしい」 「……それはまたなんというか、すごいですね」 「そのくらい八雲さんが心配、なのかもしれないですけど」 「かもしれないな。妹としては、だからもう少しこじれてもいいけど、最後にはちゃんと戻ってきてほしい、だそうだ」 「結構強かだな、妹さん。ちゃっかり小遣いせしめてる辺りなんか特に」 「賢い子だろうとは思うよ。私よりよほど」 「頭がいいって意味じゃなくて、ですか?」 「そういう意味でも賢くはある。確か去年は女子バスケ部のキャプテンをしながら、学年一位の成績をキープしていたはずだ」 「滅茶苦茶ハイスペックじゃねえか。美人で成績優秀でバスケ部のキャプテンするくらいに運動神経抜群って、漫画の主人公か何かか」 「まあ、もっとも、彼女の賢さというのはそういう部分で発揮されるものではないのだが……」 感心するシーナに対し、渋い顔で呟く刻也。 実際に会った健一としては、刻也の言葉の裏が微妙に読めて苦笑するしかなかった。 シーナ辺りは、狭霧に掛かればころっと騙されそうである。 「ともあれ絹川君、妹の説得に乗らないでくれて本当に助かった。君まで敵に回ったら、相当困っていただろう」 「代わりになんか気に入られたみたいですけど……」 「私が言うのも何だが、悪い子ではないよ。また会うことがあれば、よくしてくれると有り難い」 「俺も俺も! 美人なら是非一目見たい!」 勢い良く手を挙げたシーナに、一瞬刻也が健一に目配せをした。 絶対会わせないように。 了解です。 共同生活が育んだ、言語に頼らないコミュニケーションだ。 二人の気持ちは全く同じだった。 「っと、そうだ健一。そろそろ俺達も次の目標を決めようぜ」 「次の目標って、シーナ&バケッツの?」 「そうそう。だいぶこの辺じゃ名前も知れてきたみたいだし、どうせならもっと上を見たいっつーかさ」 「それはいいけど……例えば?」 「プロデビュー……はさすがに言い過ぎだな。なるにしてもステップ必要だろ。あ、有馬、綾さん、今日とかライブ来ない? 二人の感想も聞いてみたい」 「……私はちょっと無理かな。人混みが苦手で」 「むむ、そっか。残念だな。綾さんはどう?」 「私も無理かなー。会場まで辿り着けないし。健ちゃんが一緒に行ってくれたら平気かもしれないけど」 「行きはともかく帰りが難しいですね……」 観客に飲まれて綾が遭難しかねない。 「テレビでやるなら、観てみたいと思うけど」 「また有馬はきっつい条件出すな。……でも、なるほどテレビか。目標は大きく。いいじゃん」 「それなら私も観られるかなあ」 「綾さんも賛成と。ん、そういや1301ってテレビないよな。仮に俺達が出演したとして、どうやって観るんだ?」 「1303ならテレビあるから、そっちにみんな入ればいいんじゃない?」 「あー、俺と綾さんもこないだ入ったな。だったらいけるか。よし、じゃあ次の目標は有馬と綾さん……とついでに管理人のために、テレビ出演ってことで!」 ついでで片付けられた刻也が何か言いたげな表情をしていたが、健一にも特に異論はなかった。元々シーナのために始めたことだ。本当の目的が達成できるなら、コンビを続けられるなら――どこを目指していたって、構わない。 程良く鶏肉の旨味も出た鍋に、締めのうどんを沈めながら、健一は決意を新たにした。 ファンの数が増えるに従い、シーナ&バケッツの活動場所は固定されるようになった。ファーストライブで利用した駅前などでは、明らかに通行の邪魔になるからだ。そうなれば最悪警察の干渉も有り得るため、かなり早い段階で候補の選出は為された。 最終的に行き着いたのが、瓶井戸中央公園だ。人通りがそこまで多いわけではなく、拓けたスペースと外灯があり、周囲に一般家庭がない。正にうってつけの場所だった。 口コミの効果が如実に出てきたのは、場所が決まってからだろう。ライブ回数を増やしたのも大きい。今では毎回、三桁に迫ろうとする人数が、夜毎二人を取り囲むことになっている。 今日もおおよそ一時間を歌いきり、黄色い声援に後ろ髪を引かれながらも解散した。 公園から幽霊マンションまでの距離はあまり遠くない。それも選んだ理由のひとつだった。 シーナは手ぶら、健一は先ほどまで被っていたバケツを片手に、のんびりと歩く。その道中、興奮の名残で頬を薄く上気させたシーナが口を開いた。 「なあ健一、お前は気付いたか?」 「え、何が?」 「何がって……ほら、来てただろ?」 「来てた? 誰が?」 「おいおい、いくらバケツ被ってるっつっても、もっとよく観客の方を見るべきだぜ。いいか? シーナ&バケッツの結成理由を、一度しっかり思い出してみろ」 呆れた様子で言われ、一瞬健一は割と本気で「シーナの気まぐれか何かだったんじゃ」と声にしかけた。実際それも外れてはいないのだが、すぐにシーナの意図を察する。 「……佳奈さん?」 「ああ。ちょっと後ろの方だったから、最初は錯覚なんじゃないかって思ったけど、ありゃ間違いない。佳奈ちゃんだった」 「シーナがそう言うなら、確かなんだろうけど……ふうん」 「テンション低くねーか!? ここは盛り上がるところだろ!?」 「いやだって、僕は佳奈さんにかなり嫌われてるっぽいし」 「お前が嫌われてる分には俺は全然構わねーんだけど、そういうことじゃねぇだろ。健一、これは大きな一歩だぜ」 佳奈がライブに来た、という事実は、シーナにとって非常に重大だ。シーナ&バケッツの行動原理は、集約すれば“有名になって佳奈の目に留まる”こと。となれば、実質当初の目的は八割方達成したと言っていい。 どういった経緯で見に来たのかは不明だが、少なくとも彼女の耳にシーナ&バケッツの名が届き、ライブに顔を出そうと思う程度には興味を持ったのだろう。これまでの活動が実を結んだ証拠である。 「友達とかと一緒に来てたのかな」 「そうだとしても、たぶん高校のクラスメイトじゃないな。ま、ライブ中だったし、俺も遠目で気付いただけだから、隣に誰がいたのかまではわかんねーよ」 「どんな感じだった?」 「さすがに遠くて表情もちゃんとは見えなかった。でも、楽しんでくれてたと思う。……きっと、おそらく、めいびー」 「自信なさげだね……」 「仕方ないだろ!? そりゃずっと来てくれりゃいいなって思ってたけどさ、実際こうなってみると、なんかこう、ドキドキしてくるんだよ」 「……緊張してる?」 「してるしてる。興奮もしてる」 シーナの足取りはどこかふわふわしていて、放っておけばそのまま浮かんで飛んでいってしまいそうだった。浮ついている――というか、浮かれている。表情も緩んでちょっとだらしない。 本当に嬉しいのだろう。日奈がシーナになった意味が、シーナ&バケッツを始めた意味が、ようやく明確な成果として見えたのだ。浮かれポンチになるのも無理はない。しかし、これでもし実際に佳奈と付き合えてしまったらいったいどうなるのか、健一は心配になった。 そんな健一の内心を知らずか、にやけたままシーナは話を続ける。 「実はこないだ飯笹と会った日さ、佳奈ちゃんに『シーナ&バケッツって知ってる?』って訊かれたんだ」 「それってつまり、あの時にはもうライブに来る気があったってこと?」 「かもな。俺も上手い具合に誤魔化して誘導した甲斐があったってもんよ。これで後は佳奈ちゃんがハマってくれてれば……うへへ」 「シーナ、涎」 「おっと」 不安しかない。 「とはいえ、まだ試しに来ただけって線も捨てきれないからなー。明日も来るか、ひとまずは様子見だな」 「だね。……そういえば、佳奈さんは本当にシーナ目当てだったのかな」 「ん? どういうことだ?」 「いや、最近佳奈さんって、夜は一人なんでしょ?」 「俺が家にいないからなあ」 「ってことは、もしかしたら夜遊び仲間を見つけて、一緒に来ただけなのかも」 「まさかそんな……そんな……」 呟きながらも可能性は否定できなかったらしく、さぁっと顔色が青白くなっていく。さすがにまずいと思い、慌てて健一はフォローした。 「ごめん、シーナ&バケッツのライブを見に来るんだから、シーナ目当てに決まってるよね」 「………………バケッツのファンも、地味に多いんだよな」 「えっ」 「お前結構顔はいいし、何でもそつなくできるし」 「バケツ被ってるんだから顔は見えないって」 「しかもセックスも上手いんだろ! 綾さん言ってたぞ!」 「ちょっ、綾さんー!?」 矛先がこっちを向いた。 慌てて周囲を見回す。セーフ。通りがかる人はなし。 危うく公開羞恥プレイをさせられかけ、健一の背中を冷や汗が伝った。というかどうしてこんなことに。 どうにかシーナを宥めるのに五分を要した。 「……ともかく、佳奈さんはシーナ目当てで来てたと信じよう。万一そうじゃなかったとしても、絶対シーナの方がカッコいいから。自信持って」 「お、おう。悪ぃ、ちょっとテンパった。もう大丈夫だぜ」 「そっか。よかった」 「でもさー、健一、少しだけ愚痴らせてくれよ」 「何を?」 「んな警戒すんなって。まあこう言っちゃなんだけど、俺って童貞だろ?」 また碌でもない話題だった。 極寒の目付きに変わった健一にたじろぐも、しかしシーナは引かなかった。 「つまり経験ないじゃん。で、佳奈ちゃんも処女なわけだ。俺の経験則から言って、経験ない同士のセックスは大抵上手くいかない。つーか自信ない」 「そもそもその経験則自体がないんじゃ……」 「うるせえいいから聞け。俺は童貞だけど、お前は綾さんなり有馬なりで経験豊富だろ? 下手な奴より上手い奴の方が安心するに決まってるじゃん。俺とやったら痛がるんじゃないかって心配でなあ」 「……さらっと有馬さんを入れないでほしいんだけど」 綾については本人の証言があったのでもう否定できない。 守秘義務の欠片もない人である。 「というか、そういう想像するのは早くない?」 「何だよ、佳奈ちゃんは俺としたがらないっていうのか?」 「付き合えば最終的には……まあそうなるだろうけど、順序が違うような」 「お前綾さんとはどうだったんだよ」 「……出会って一時間くらいで襲われた」 「ほら、セックスから始まる関係だってあるだろ!?」 「でも僕、綾さんと付き合ってないし……」 「つまりあれか、セフレか!」 「違う」 「健一はいいよなー。頼めばやらせてくれるどころか、頼まなくてもセックスしようって言ってくれるおっぱい大きい綾さんがいて。佳奈ちゃんなんて……佳奈ちゃんなんて……」 エンジン全開だったはずが、また急に萎み始める。 妙に躁鬱が激しい辺り、割と本気で佳奈が来たことに動揺しているのかもしれない。にしたってトークは酷いが。 「俺、肉まんとあんまんだったら、あんまんの方が好きなんだよ。でも佳奈ちゃんは肉まん派でさ。二人で食べる時は、いつも肉まんなんだ」 「……えっと、それで?」 「別に俺は、佳奈ちゃんと一緒に食べられるならどっちでもいいんだよ。けど、俺があんまん好きだって佳奈ちゃんは知ってるはずで、だったらたまには『私もあんまんがいいな』って言ってくれてもいいんじゃねーかな……」 「シーナはそう言わないの?」 「ない。っつーか言えねーよ。嫌われたくないし」 「別にあんまんの方がいいって言ったくらいで嫌われたりしないと思うんだけど」 「でも絶対ってわけじゃないじゃん。ほんのちょっとでも可能性あったらさ、怖いよ。嫌われるかもしれないって思ったら、何もできなくなる」 声と共に、横を歩く身体までしゅんと小さくなったように感じた。 健一には理解できなかった。 逆らわず、ただ頷いているだけなら――唯々諾々としているだけなら、自分はどこにあるのか? そうまでしてそばにいて、辛くないのか? 他人と関わる、付き合うということは、それだけでひとつのリスクを伴う。反目し、衝突すること。人間二人いれば争いの芽が生まれるように、人と人が噛み合い続けることは、普通ならまず有り得ないのだ。 どこかでぶつかるしかない場面がある。 心を押し隠し、意見を譲れば波風は立たないだろう。だが代わりに、力づくで押し込んだ心には負担が掛かる。 永遠に耐え忍ぼうとすれば、いずれは潰れてしまう。 (……だから、シーナは選んだのかな) 窪塚日奈でないことを。 このままではいられないという、叫びの形がシーナなのかもしれない。 「俺、やっぱセックスしたいよ」 「うん」 「佳奈ちゃんと付き合いたい。キスしたい。デートしていちゃいちゃしたい。でも、一番したいのはセックスなんだ」 「……うん」 「こんな俺で、本当にいいのか?」 それは、根源的な問いだった。 シーナでいいのか? 窪塚日奈でいいのか? おそらくずっと、走り始めた瞬間から考え続けていたことだ。 ――けれど。 人は、自分以外の何者にもなれない。 健一が絹川健一であるように。 己自身からだけは、決して逃げられない。 「僕は、いいと思うよ」 だから、健一は認める。 お調子者で、ちょっと馬鹿で、下ネタ大好きで、エロいことばかり考えていて――必死に男の子であろうとするシーナを。 気が弱くて、でも結構芯は強くて、女の子らしくもあって、実の姉が本当は好きで――絶対に男の子にはなれない日奈を。 何度でも肯定して、背中を押すのだ。 そうして初めて、シーナは、日奈は踏み出せる。 それを求めているのだと、わかる。 「明日のライブも頑張ろう。シーナのカッコいいところ思いっきり見せて、佳奈さんに好きになってもらおう」 「……そうだな。ああ、そうだ。ついでにテレビ出演も、だな」 シーナに不敵な笑顔が戻った。 健一も笑い返し、二人で前を向く。 薄闇が覆う夜道は、どこまでも続いているように思えるが、必ず終わりはある。シーナの目指す場所も同じだ。 ゴールは決して遠くない。 「明日の練習、気合入れるぞ」 「うん」 気持ちが逸るのか、ずんずん風を切って前に出ていくシーナの背中は、何だかとても頼もしかった。 back|index|next |