夕方、1301には、微妙にピリピリした空気が広がっていた。原因は言わずもがな、シーナと刻也である。 健一の錯覚かもしれないが、斜め向かいに座る二人の間に圧力めいたものを感じるのだ。おかげで普段よりさらに会話がない。 元々食事時はほとんど自分から喋らない冴子はともかく、饒舌なシーナも黙々と箸を進めている。刻也も無表情を崩さない。隣でマイペースに話しかけてくる綾が少し羨ましい……とはいえ、さすがの綾も、一応空気は読めているらしい。若干音量控えめで、話題も無難なものばかりだった。 やがてシーナが「ごちそうさま」と手を合わせ、続けて刻也も箸を置く。二人が席に戻ってしばらく、無言の時間は続いたが、先に折れたシーナがすっと立ち上がった。 「管理人。昼は悪かった。ごめん」 「……あの時も言ったが、私も大人げなかった。すまない」 互いに頭を下げ合い、張り詰めたような雰囲気が少しだけ緩まる。その様子を静かに見守っていた冴子は、何も言わず二人分の麦茶を用意して、 「席、外した方がいい?」 「いや、構わない。……元々、いずれ皆に話すつもりでいたことだ。有馬君と綾さんも、少し時間をいただけないだろうか」 「んー、いいけど……何かするの?」 「私が何故、家を出てここにいるのか、説明しようと思う」 真剣な表情の刻也に、残り三人分も追加した。 それぞれが最初の席に落ち着くと、全員を刻也は軽く見渡し、何から話すべきか、と呟いた。 「……私の父は、弁護士でね。八雲一也という。もしかしたら、名前を聞いたこともあるかもしれない」 「八雲一也……あれ、なあ管理人、お前の父親ってテレビとか出てる?」 「そうだ。バラエティ番組などにも顔を出している」 「やっぱりか。何度か見たことあるぞ。なんか言われてみると、どことなく似てた気もするな。健一や有馬は?」 「私は見たことないかな」 「僕もですね」 「綾さんは……まあないよな」 「うん、ないよー」 「……で、テレビに出てるお前の父親が何なんだ?」 「元々私の家は法曹に携わる家系なのだ。故に父も弁護士となり、そして私もそれを望まれている。父曰く、司法試験に受かるのが、八雲の長男、子供としての義務だと」 「……司法試験に受かるのが義務?」 無茶苦茶だと健一は思った。 日本でも屈指の狭き門、国の司法を預かる、世間でもエリート中のエリート。人によっては半生を掛けても通過できない試験の合格を、子供としての義務というなんて――。 それが果たさねばならないことならば、いったいどれだけの人間が義務を全うできないだろうか。 「メディアへの出演を決めたのには、おそらく父なりの考えもあったのだろう。弁護士というのは、非常に表に出難い立場だ。広く司法のことを知らせるためなら、多少見せ物のような扱いを受けても構わないと、そう思ったのかもしれない」 「ん? じゃあ、いったい何が不満なんだよ」 「八雲の家は、代々女性のみが夭逝する家系でもある。父と母は同じ八雲の遠縁で、私の母も例外ではなく、大変に病弱でね。今はもう、病院から離れられない。しかし、父はそんな母を疎かにした」 弁護士兼タレントとしての活動。 八雲家の父としての立場。 天秤に掛けて、片方を切り捨てた。 比重が軽かったのは、家庭の方だった。 見舞いには滅多に来ない。母――八雲桔梗は、そんな父に対し、文句のひとつ、泣き言のひとつも口にしない。少なくとも、刻也は聞いたことがない。 大事だから、夫婦になったのではないのか? 家族は、妻は、仕事に劣るものなのか? 僅かな手間さえも惜しんでいるのか? ……愛しているのでは、ないのか? 「初めは、それこそ子供めいた感情からだったが、自分なりの夢ができてね。父が義務だというのなら、司法試験には合格する。だが、その上で私は、法曹の道には進まないと決めている。私の夢を叶えるために」 「折角資格取ったのにか? もったいないっつーか、他の受けた奴がちょっと可哀想っつーか……」 「他の受験者については申し訳ないがね。父の敷いたレールには従いたくないし、元々私は他人へのアドバイスが致命的に苦手なのだ」 「人の気持ちになって考えるのが駄目だからか?」 「それも否定できないが……何故か、相談事を受けた相手が酷い目に遭うのだよ。二度三度と続くと、偶然とも言い難くてな。以来、アドバイスの類はしないようにしている」 なるほど、それは確かに向いていない。 他人の司法的問題を解決するのが弁護士なのだから、根本的に職業と自己の性質の相性が合っていないわけだ。 一種オカルトめいた話だが、この十三階にいる時点で今更ではある。綾や冴子、シーナの事情も知っている健一にしてみれば、さほど驚くことでもなかった。 「家を出たのも、父への反抗心からだ。親に頼らずとも、一人で生活できると証明したかった。もっとも、ここに来られなければ、学生レベルのバイトでは住む場所も確保できなかっただろうな」 「家賃電気代水道代なしで、必要なのは食費だけですからね……」 「絹川君と有馬君にも、食事を作ってもらって大変助かっている。独り立ちをするつもりでいたのに、本末転倒かもしれないが」 「いえ、僕も八雲さんには助けられてますし」 「……私も、あんまり気にしてないです」 「そうか。そう言ってもらえると、有り難い」 噛み締めるように告げる刻也を、透明な表情で綾が見ていた。先ほどの明るさがすっと抜け落ちた様子に、健一はふと気付く。 父との不和から十三階に導かれた刻也と。 母への気遣いから十三階に逃げてきた綾。 理由は違えど、二人の境遇は近しい。主観的な原因が、親にあるか子にあるか程度の差だ。 どちらも、家族に関わる問題と言える。 ならば自分は? シーナは? ……冴子は? ここで考えるべきことではないだろうが、きっといずれ向き合わねばならないのだと、心の隅に留めておいた。 今は、刻也の話だ。 「管理人、本題から逸れてんぞ」 「すまない。少し話を戻そう。私の……彼女、のことだが。小学校からの付き合いでね、以前、彼女の家が困った際、父が手を貸したことがあった。詳細は省くが、そこから家族ぐるみでの関係だ」 「いわゆる幼馴染って奴か。ちなみに名前は?」 「……言わなければ駄目か?」 「別に隠す必要もないだろ」 しばらく躊躇っていた刻也だったが、執拗なシーナの視線に折れ、微妙に嫌そうな顔で口を開いた。 「九条、鈴璃という。言っておくが、通っているのは別の高校だ」 「……九条?」 まさか、と二人で見合う。 「管理人の彼女、弟とかいる? 流輝って名前の」 「知っているのか?」 「ファミレスの帰りでバスケのシュートしてるの見かけたんだよ。なんかバイト上がりのお姉さん待ってるとか言ってたし」 「……間違いないな。彼の姉が鈴璃君だ」 「おお……こんな偶然あるんだな」 「偶然というか、シーナが八雲さんの彼女見に行こうって言い出したからこうなったんだけど……」 「それは言わない約束だろ」 今度は刻也が冷たい視線をシーナに注いだ。 五秒で謝罪を引き出し、とりあえずの手打ちになる。 変に緩んだ空気を何とか刻也は締め直して、 「本来、私は進学校に入る予定だった。絹川君には以前少し話したな。第一志望の学校の受験を、私は結果的に受けなかった」 「……ん? 受けられなかった、じゃないのか?」 「いや。やはり受けなかった、という方が正しいだろう。あの日、鈴璃君が風邪をひいてしまってね。症状が重く、しかし鈴璃君の家族は折り悪く皆おらず、私は彼女をどうしても放っておけなかった」 母の姿が、脳裏に浮かんでしまったから。 ただの風邪だ、熱が高くても、咳が酷くても、一日くらいなら大丈夫だろう、と。割り切って、受験場に行けばよかったのだ。刻也以外の誰もがそれを望んでいた。当人の鈴璃でさえ――病気で心が弱っていながらも、自分より受験の方が大切だと主張し続けた。 嬉しくなかったと言えば、嘘になる。 恋人が心配して手ずから看病に来たのだから、寂しさや心細さは晴れただろう。眠る間際に刻也がそばにいたことで、安らぎや小さな幸福を感じたことだろう。 だが代わりに、九条鈴璃は負い目を得た。 ――自分の所為で。 全ての過失、全ての責任が刻也にしかないのだとしても。 鈴璃自身の存在が、刻也に選ばせたのだ。 「……あまり愉快な話でもないだろう? 私はこれ以上、鈴璃君に負い目を感じてほしくない。そのためにも、己の責任を果たさねばならないと思っている」 「ふうん……なるほどな。そっか、そういう理由、やっぱちゃんとあったんだな」 頷いて、シーナは席を立った。 息を吸い、微かに反った背が身体の前へと折れる。 深く、額をテーブルに擦りつける勢いで頭を下げた。 「色々勝手に決めつけて、本当にごめん。管理人の事情とか、全然考えてなかった」 「……それは違う。確かに、君の態度はお世辞にも褒められたものではないが……元はと言えば、胸を張れない私自身に原因がある。君が必要以上に謝ることはない」 「いいや、こいつはけじめだ。どんなに管理人がいけ好かない奴だったとしても、それでもお前は正しいんだよ。大事な彼女心配して、悪いことなんかないだろ」 鈴璃のことと受験のこと。 天秤に掛けて刻也が選んだのは、前者だった。 それはきっと、刻也なりの無意識の反抗で、答えでもあったのだ。 父親とは同じにならないと。 大事にすべきものを、間違えたくはないと。 「俺、好きな子がいるんだ。でも向こうはそうじゃない。無茶苦茶頑張って気惹いて、もしかしたらそれでようやく振り向いてもらえるかもしれない、くらいの相手で。無理だろって、ずっと思ってる。だけどさ、だからって止まれないんだよ。理屈じゃないんだ。諦めたら、俺は俺じゃなくなっちまうんだ」 「……シーナ君」 「だから、なんつーか……俺も悪かったし管理人も悪かったし、お互い様ってことで、もう終わりにしようぜ。顔合わせる度ギスギスしてたら疲れる」 「君の口からお互い様という言葉が出るのはおかしいのだが……皆に迷惑も掛かってしまうな。では、この話はこれきりということにしよう」 「おう。異議なしだぜ」 言って、頭を上げたシーナが手を差し出す。 一瞬刻也は硬直したが、意図を理解してその手を取った。 仲直りの握手、なのだろう。たぶん。 「一件落着……なのかな」 「そうね。私達が聞いてよかったのかな、とはちょっと思うけど」 「僕はよかったと思います。話して、気持ちが軽くなることもあるんじゃないかなって」 おかしな人間ばかりが集まる、この場所だからこそ。 誰にも言えないことだって、言えるのかもしれない。 頭ごなしに否定されたり、拒絶されたりしないから。 健一の言葉に、冴子はうん、と小さく笑った。 「ねえ、健ちゃん」 「何です?」 「私、健ちゃんのこと大好きだよ」 「……知ってます」 まず、伝えなければ伝わらない。 つまりは、そういうことだ。 何だかんだで話していたら、いつもより遅くなってしまった。 時計を見て慌てたシーナが1305に駆け入り、着替えを済ませて出てくる。トレードマークとも言える帽子を脱ぎ、野暮ったいシャツとショートパンツは、如何にも女の子らしい服装になった。 十三階から家へ帰る際、必ずシーナは日奈に戻る。 家族にシーナの正体を知らせないための処置だが、シーナとしての時間は終わり、という区切りのようにも健一は感じている。 ライブが終われば十三階に直接来て、さっと着替えて帰るのが常の流れだ。しかし今はすっかり陽も落ち、降り続く雨で外は暗い。幸い十三階にも置き傘はいくつかあるが、この状況で日奈を一人帰らせるのは危なっかしい。 刻也も同じ意見だったので、四人の中で唯一自宅へ帰る健一が送り届けようという話になった。以前それで佳奈と鉢合わせた経緯があるため、日奈は難色を示したが最後には折れることになる。何だかんだ言っても、心細かったのかもしれない。 十二階まで下りれば、あとはエレベーターが使える。 お互いがビニール傘を片手に、ぼんやりと左へ動いていく階層の表示を眺める。やがて一階に着き、マンションの玄関を出て、二人それぞれに傘を差す。 身長差と手の位置で、健一と日奈の傘には高さのズレがあった。近付いてもぶつかることはないのに、傘の端と端が重ならないくらいの距離が二人の間に横たわっていた。 シーナなら、肩が触れ合う近さでも気にならないだろう。 同じでも違う。シーナと日奈は、同一人物だが別物だ。 「……こうやって話すのって、いつ以来です?」 「前に送った時だから、二ヶ月くらいですかね」 「そっか……そんなに経ってるんだ……」 遠い目を見るように日奈が呟く。 健一からしても、あっという間の夏だった。シーナ&バケッツのファーストライブから、今の今まで――大変ながら、ぎゅっと詰まった日々。 「本当に……本当に色々、絹川君にはご迷惑掛けてます」 「気にしないでください……って、これ前も言いましたね」 「ふふ、ですね。……でも、すごく、助けられてます。佳奈ちゃんのこと、わかってて応援してくれる人がいるだなんて、全然想像もしてなくて」 正規の道を外れた時、大抵の場合隣を歩く人間はいないものだろう。そこを突き進むのなら、自分だけの力で行くしかない。 しかし十三階が、健一と日奈を巡り会わせた。 健一でなければ駄目だったのだ。 姉を受け入れてしまった健一でなければ、日奈の想いの本質は決して理解し得ない。あらゆる言葉も、行動も、白々しくしか映らなかったかもしれない。 だから、健一が考えている以上に、救われているのだと。 そう日奈は言う。 「絹川君がいなかったら、きっとシーナはすぐいなくなってたと思うんです。佳奈ちゃんの後ろに隠れて、あの背中を見てるだけだった」 「……そうなんでしょうか」 「そうなんです。シーナになって、シーナ&バケッツを始めて、もしかしたら上手く行くかもって。今は、そんな風に思います」 「上手く……行くといいですよね」 「はい」 頷く日奈の短い声を、健一は強く噛み締める。 シーナの歌は、あるいは世界にだって通用するだろう。一番そばで聴いてきたからこそ、確信めいたものがある。 けれどそれを、果たしてシーナは望んでいるのか? コンビを組んだのも、目立つ活動をしているのも、全てはシーナが佳奈の目に留まるようになるためだ。本来の目的が叶えば、シーナ&バケッツの役目は終わってしまう。 「あの、絹川君」 不意に日奈の足が止まった。 一歩進んだ健一は、何事かと振り向く。 俯く彼女の唇から上は傘で陰り、表情も見えない。 「シーナだから、私は絹川君と友達でいられるのかも、しれないですけど……もし、全部上手く行って、シーナ&バケッツが必要なくなったとしても」 意を決したかのように、傘が上がる。 日奈の顔に浮かぶ感情を、健一は知っていた。 ――寂しい、だ。 「二人でライブ、続けたいって……思っても、いいですか?」 「不思議ですね」 「……?」 「僕もおんなじこと、考えてました」 築いたものを捨てたくない。 きっかけがどうであっても、楽しかったのは嘘じゃないから。 健一は、胸にすとんと落ちる感覚を得ていた。日奈とシーナの間にあった隔絶は、気付けば消え去っていた。 埋められない肉体の現実を、自分とはかけ離れた人格で覆い隠した。日奈のヒーロー、こうなりたいと思う幻想が、シーナの本質と言える。 まるで正反対の人間だが、けれどそれでも、シーナは日奈なのだ。根本的には切り離せない。そして、いずれ向き合わねばならない問題でもあるのだから。 シーナとして佳奈と付き合って、永遠に正体を隠し通せるのか? 結局性別の壁を越えられない、どうしようもない時があるのではないか? 本当のゴールは、恋人として付き合うことではない。 ありのままの日奈を、受け入れられることだろう。 応援するのなら、まず健一がすべきだった。 シーナだけでなく、日奈とも話すべきなのだ。 現に最近、シーナと日奈の境は、健一の前だと曖昧になってきている。今も、シーナとしての言葉を、日奈が口にしていた。 男同士だから友情が生まれたわけでもない。 シーナだから。日奈だから。 そこに、差異はないはずだ。 「僕達、友達じゃないですか。友達と一緒にいたいって、当たり前のことですよね」 「……絹川君」 「シーナ&バケッツ、続けましょう。最初は恥ずかしかったけど、ハーモニカを人前で吹くのも、結構楽しいですし」 「私も……絹川君のハーモニカを伴奏に歌うの、好きですよ」 「じゃあ、まあ、そういうことで」 「そういうことでって……ふふ、やっぱり絹川君って変な人ですね」 「自覚はあります」 顔を見合わせて、笑う。 日奈が一歩を踏み出し、健一の隣に並んだ。 掲げた傘は、互いの障害にはならない。 今度は肩がギリギリ触れ合わない程度の近さに収まる。 それが二人の、親友としての距離。 「絹川君……って呼ぶのも、友達だとちょっと他人行儀ですよね。シーナみたいに呼び捨てるのもなんか違う気しますし……健一君、って呼びましょうか。外じゃこんな呼び方絶対できないですけど」 「佳奈さんに聞かれでもしたら大惨事ですからね……。なら僕は、日奈さん、って呼びます?」 「日奈でいいですよ」 「呼び捨てはなんか違う気するって話だったんじゃ……」 「健一君がそう言うのは違和感ないですし」 「何かずるいような……」 「それよりほら、呼んでみてください」 「……ええと、日奈」 「はい、健一」 「結局呼び捨ててるじゃないですか」 「なんか違うと思ったらそうでもなかったです」 開き直ったからか、ペースを握った日奈は実に活き活きとしていた。押される側としては、苦笑するしかない。 そうこうしているうちに、近場のコンビニが見えてくる。雨降る夜の中でも一際目立つ明るさに、健一はさり気なく日奈との距離を少し離した。そろそろ分かれる場所だし、もしかしたら誰かに見られるかもしれない、という考えに至ったからだ。 結果的には、それが功を奏した。 コンビニ前まで来た時、正面から小走りで迫ってきた人影が、二人の姿を認めて立ち止まる。僅かに荒れた息もそのまま、キッと睨んでくる相手は、窪塚佳奈だった。 隣の日奈が、まさか、と驚くのを横目に見ながら、健一は佳奈の視線を正面から受ける。 疚しいことは何ひとつない。が、そもそも日奈と自分との関連性を探られること自体にリスクがあるのだ。 隠すべき事実は、隠さなければならない。 「……何で絹川君と日奈が一緒にいるのよ」 「帰り道にたまたま会いまして。雨も降ってますし、一人だと危ないから、途中まで送り届けるつもりでした」 「日奈ちゃん、本当?」 「うん。一応、絹川君とは初対面ってわけじゃないし……その時は、こないだ夏祭りで会った女の人もいたから」 感嘆すべきは、日奈の演技力だった。シーナの存在を思えば当然かもしれないが、嘘の中にもっともらしい真実を加えることで説得力が増す。事実と完全に違うのは、帰り道にたまたま会ったという一点のみだ。 しばらく疑いの目は逸れなかったが、指摘に足る証拠を掴めなかったらしく、渋々ながら納得する素振りを佳奈は見せた。 「そういうことなら、わかったわ。私は絹川君のこと、全然一切信用してないけど、ここは日奈ちゃんに免じて不問にしてあげる」 「もう、佳奈ちゃんっ」 「……お礼だけは言っとく。日奈ちゃんを送ってくれてありがと」 「どういたしまして」 心配半分、不信感半分で敵意を剥き出しにする佳奈を日奈が窘め、ふて腐れつつの感謝に、健一は小さく頭を下げる。 言いたいことは言い尽くしたのか、佳奈が些か乱暴に日奈の手を取って、健一に背を向けかける。そこに丁度、コンビニから出てきた人物がいた。店員の気の抜けた「ありがとうございましたー」という声に、ふと健一は意識を傾け、そして固まる。 相手も同じく、健一と窪塚姉妹の三つ巴を見つけ、 「……佳奈?」 呆然と呼び捨てる声。 その方向に振り返った佳奈の横顔が、何かを叫びそうになり、言いたげに唇が震え、しかし結局飲み込んで、今度こそ歩き出す。 強く引っ張られ、為すがままの日奈は、最後に健一へと空いた片手で「ごめんね」とジェスチャー。雨の夜道に消えていく二人を見送り、残されたもう二人が何とも言えない空気の中で向き合う。 「確か……絹川、だったっけな」 健一の正面に立つ、コンビニから出てきた男。 ――飯笹伸太。 窪塚佳奈の、元彼だった。 どうしてこうなった。 ぽつんとテーブルに置かれたアルミ缶を前に、根元的な問いを健一は自身にしていた。勿論答えはない。 対面では、飯笹が健一と同じもの――要するに缶ビールをぐびぐび飲んでいる。くはぁーっ、と息を吐き、テーブルの中心に広げられたサラミをひとつまみ、またビールを煽って一息。 「ほら、絹川も飲んでくれよ。俺の奢りだから遠慮しなくていいぜ」 「僕、未成年なんですけど」 「俺もそうだよ。だから気にすんな。まあ法律的にはアレだけど、高校生なんてみんな飲んでるだろ」 「いやいやいやいや」 「つーか何、家でも飲まねえの?」 「飲まないですねえ。両親も姉も飲みませんし」 「ふうん。うちは元々酒屋だしなあ。親父にもガキの頃からよく勧められたんだよ。おかげで下手な酒は不味くて飲めなくてな」 飯笹の実家は、どうやら酒屋らしかった。 何故かここまで連れてこられ、案内された彼の部屋で、これまた何故かサシ飲みをすることになっている。粗暴な外見からはちょっと想像し難い、小綺麗な四畳半の一室だった。 コンビニへは酒のつまみを買いに来ていたようで、今テーブルの上にあるサラミ以外にも、裂きイカやピーナッツがビニール袋の中に眠っている。というかこれ、一人で食べて飲むつもりだったんだろうか。 ハイペースで二缶目を開ける飯笹に、健一はここまでの経緯をもう一度思い出した。 佳奈達と別れた後、確かに険悪な空気にはなったのだ。そもそも健一と飯笹は、出会いが最悪である。冴子との散歩途中で絡まれ、健一は殴られ冴子は脅された。シーナがあの時現れなければ、もっと酷いことになっていただろう。 健一個人としても、あまり彼に対して良い印象はない。冴子の噂の大きな発信源は、この飯笹伸太だ。彼が冴子と寝た件を言い触らした所為で、学校での冴子の立場は限りなく悪い。それがなくとも排斥されていただろうが、事態の悪化を早めたのは、間違いなく彼の言動によっている。 名を呼ばれて身構えるのも、当然のことだった。 相手も、明らかに喧嘩腰でいた。いつでも飛び掛かれるような様子で、健一に問いかけた。 「有馬はどうした?」 「……あの時だけですよ」 そう、あの時だけだ。 飯笹との一件で、冴子は頑なになった。迷惑を掛けたくないからと、外では決して健一と関わろうとはしなくなった。 冴子がより内向的になったのは、飯笹に一因がある。 だから僅かに怒りを込めて、半ば嫌味めいた口調で返したつもりだったのだが、飯笹には意図通り受け取られなかったらしい。そうか、と張った意識を緩め、健一に「すまなかった」と頭を下げた。 後々察したが、あの時だけ、という言葉を、飯笹は「あの一回で健一も捨てられた」と解釈したのだろう。自分と同じなのに、勘違いして殴って申し訳ない、ということである。その誤解を解く理由は、無論健一にはなかった。 そういうわけで、謝罪を兼ねて自室まで引っ張られ、酒を振る舞われているのだった。 いやもうホントにどうしてこうなった。 「ま、折角だし少しくらいは飲んでみろって。大学行けば飲まされる機会なんて山ほどあるんだ。今のうちに経験しとくのも大事だと思うぜ」 「……じゃあ、少しだけ」 執拗な勧めに、ちびりと缶に口を付ける。 麦の苦味と炭酸の刺激が舌に走り、喉を通すとアルコールの熱を微かに感じた。飲めなくはないが、好んで味わう程でもない。それが表情に出たのか、飯笹は「仕方ねえな」と苦笑した。 「飲めないもんを無理に飲んでも楽しくないしな。確か冷蔵庫に……っと、あったあった。ほれ、緑茶」 「あー……じゃあ、いただきます」 「おう、遠慮すんなよー」 ひらひらと手を振りつつ、また一缶空にする。 絶好調の飯笹に健一は嫌な予感を覚えたが、この状況で颯爽と退室する勇気はなかった。 そして案の定、ハイペースで飯笹はビールを飲み続け、雑談は徐々に愚痴へと変わり、半ばテーブルに突っ伏すようにして管を巻き始めた。最早会話ですらない。絡み酒ではないものの、テンションが上がったり下がったり忙しい。 最初は「アンタ好きな奴とかいんの?」と興味本位の問いかけだったが、いつしか「俺好きな奴いてよぉ、でも別れちまったんだよなあ。さっきコンビニで会った子、窪塚佳奈ってんだ。あ、知ってるか! ハハハ!」と一人語りにシフト。 冴子の話が出た辺りで一気に沈み、 「可愛くてさ、わがままだけど結構寂しがり屋で、告白だってあっちの方からだったんだぜ。嬉しかったし、別れる気なんてさらさらなかった。あんなことなけりゃきっと今だって付き合ってたはずなんだ」 「は、はぁ……」 「でもさあ、佳奈はキスもさせてくれなかったんだよ……セックス、したかったんだよぉ……。それで俺、有馬の誘いに乗っちまってなあ。馬鹿だったよなあ。我慢するべきだったよなあ。だっせえよな……」 もし穴があれば、そこに入って土を上から掛けて埋まったまま永遠に出てきそうにないほどの落ち込み様だった。 やがて呟く声も小さくなっていき、寝息が聞こえてくる。右手のビール缶が倒れたが、幸い中身は空で、後始末に奔走する必要はなかった。 どうしたものかと健一は悩み、結局どこかあどけない寝顔に「ありがとうございました」とだけ言い残して部屋を後にした。飯笹の家族はもう全員床に就いているのか、屋内は静かだ。なるべく足音を殺しながら、そっと玄関を抜ける。鍵に関しては、もうどうしようもないだろう。不審者が現れないことを祈って何とか外へ。 冷たいものを飲んだからか、秋口の夜風を少し寒く感じる。ぶるりと身を震わせ、健一は傘を差した。まだ雨が止む気配はない。 記憶にない通りだが、おおよその道筋は覚えていた。自宅へのルートを脳内に描き、歩き始める。霧雨に近い中、先ほどの飯笹が呟いた言葉を健一は思い出した。 いったい、誰が悪かったのか。 そう他人に問うたならば、きっと皆直接の原因は冴子にあったと言うだろう。誘いに乗った飯笹は確かに自業自得だ。しかし、付き合っている相手がいたにもかかわらず誘惑した、というのも、一側面では正しい。 冴子は後腐れのない関係を求めた。 飯笹はそれを許さなかった。 そして佳奈は、どちらの理屈も理解できなかった。 健一には、飯笹の気持ちがわからない。恋人を持ちながら、性欲を満たしたいがために靡く理由がわからない。 ある意味では、持つ者の贅沢な理屈だろう。 自分を好きと言ってくれる人がいて。 事情あってのこととはいえ、セックスをする相手がいて。 そんな健一が飯笹の心情を推し量ろうとしたところで、無駄なのかもしれないが――自分と他人が違う、ということは、きっと誰より知っている。 良かれと思ってしたことも。 決して曲げられない願いや想いも。 他の誰かにしてみれば、余計なお節介だったり、どうでもいいものだったりするのだ。二人の人間がいれば、必ずどこかで衝突する。解り合えない部分が出てくる。 「……悪い人じゃ、なかったよな」 冴子の件で抱いていた恨みの念は、今日の出来事で随分薄れたように思えた。けれどそれは、健一にのみ与えられた機会だ。 飯笹も、佳奈も、冴子の事情を知ることはない。 仮に知ったところで、理解されるわけもないだろう。 だからこそやるせない。冴子に関するこのもやもやとした感情の矛先を、健一はどこにも向けられなかった。 夜の深みにはまりそうな気持ちを、溜め息で誤魔化す。気付けばもう自宅が近かった。 こころなし足早に歩き、玄関で傘の雫を払って畳む。 鍵は掛かっていなかった。手探りで廊下の明かりを点け、恐る恐る居間の様子を窺う。 視界に収まる範囲の電気はどこも落ちていて、窓もきっちり閉まっている。部屋の中で、洗濯物が微かな外の光に浮かんでいた。蛍子が干したのだろう、特にシャツは皺が目立つが、自主的に姉がそうしたというのは少し珍しい。 まだ湿り気の強い衣類の皺を伸ばし、自室に着替えを取りに行く。傘のおかげでさほど濡れてはいないが、少し冷えた身体を寝る前に暖めたかった。 バスタオルを引っ張り出し、さっと風呂に入る。自分の洗濯物は翌朝でいいだろうと割り切った。およそ五分、芯に残る寒気を感じなくなったところで上がる。 髪だけはしっかりと乾かし、歯を磨き、一息。 寝る準備はできたが、健一は自室に向かわなかった。 本当はもっと、早く帰ってくるつもりだったのだ。 飯笹に捕まらなければ、蛍子の夕食も作れたかもしれない。ちらっと覗いたキッチンに、何枚か洗った皿が置かれていたから、何とか一人で済ませたのだろう。経緯はどうあれ、連絡できなかったのは明らかに自分のミスだった。 静かに扉を開ける。 蛍子の部屋。 カーテンは閉められていないものの、月明かりのない室内は暗かった。暗闇に幾分慣れた目が、部屋の出入口に背を向けて眠る蛍子の姿を捉える。 一歩。二歩。距離を詰めても動く様子はなく、手が届くところまで近寄った。しゃがみ、目線を合わせ、じっとその姿を見つめる。小さいな、と思う。 「……ごめん、ホタル」 「……なんで謝るんだ」 「起きてたの?」 「眠れなくてな」 半ばひとりごとのつもりだったのに、返事が来た。 健一の方へ、蛍子がのそりと身を回す。天井側の手、右手が緩やかに伸ばされ、健一の頬に触れた。 仄かなぬくもり。 「お前ももう、高校生だからな。人付き合いがあれば、遅くだってなるだろう。連絡がなかったのは、正直イラっとしたが」 「うん。ごめん」 「だから、謝るほどのことじゃないだろ。私だって、一人で飯くらいどうにかできる。すっぽかした分は、今度埋めてくれればいい」 撫でる指が後頭部に移る。 親指だけが左耳に掛かり、耳穴の付近をなぞる。 くっ、と首裏に引き寄せる力が入った。それは弱々しく、簡単に抵抗できる程度のものだったが、健一は拒まなかった。 そうして二人はキスをする。 蛍子は目を閉じていた。そのまま眠ってしまうのではないかと思うほど、安らかな表情だった。 静かに唇が離れ、しかし蛍子の手は健一の頭を固定していた。そのまま今度は胸の方へ抱き寄せ、 「今日は一緒に寝ろ」 「……この格好で?」 「ベッドは半分貸す」 「わかった」 「……最後はちゃんと、私のところに、帰ってこい」 ――それだけでいいから。 続かなかった言葉が、健一には聞こえた気がした。 けれど、その感情を何と言うのかまでは、わからなかった。 back|index|next |