相変わらず外は暑かったが、少しずつ厚い雲が空に増え始めていた。
 無言のまま歩くシーナの隣に並びながら、健一は何と切り出そうか悩む。先ほどの刻也との会話が、まだ尾を引いている。
 あの時のシーナは、明らかに過剰反応だった。
 刻也と反りが合わない、それはわかる。向こうも少々頑なな態度ではあったから、そういう部分が気に食わないというのも一応理解できる。しかし、刻也の彼女の件で、あそこまで問い質そうとする必要はなかっただろう。健一ならず、刻也さえも若干面食らっていたのだ。
 淡々と正面だけを見続けるシーナに、もごもごと数度開きかけた口を噤んでから、健一は恐る恐る訊いてみた。

「……あのさ、シーナ」
「何だよ」
「どうしてあんなに怒ってたの?」

 率直な問いを、十秒ほどシーナは無視した。それでも横顔を窺う健一に根負けしたのか、溜め息をひとつ落とし、言葉を探すようにして呟く。

「俺は、あいつが嫌いだ」
「うん。何となくそうだと思ってた」
「……別に悪い奴じゃないとは思う。でも、あいつはいつも正しいから。どうしようもないことを間違ってるって言われたら、どうにもできないだろ」

“シーナ”という存在を、健一は一度もおかしなものだと感じたことはなかった。けれど本来、シーナは存在自体が普通ではないのだ。いくらほとんど別人でも、心の性別が異なっていても、彼は彼女であり、窪塚日奈なのだから。
 刻也は確かに正しい。彼はいつでも勤勉で誠実で、融通の利かないところはあれど、十三階ではもっとも常識に沿った人間だ。
 故に彼は己の規律に従って言う。
 君はシーナではなく、窪塚日奈だろう、と。
 思えばファミレスでも、シーナ自身に訂正されるまで、刻也はシーナを「窪塚君」と呼んでいた。あくまで刻也の中では、シーナも日奈なのだ。きっと世間的にも、それはどうしようもなく正しい。
 日奈の秘めた想いだって。
 実の姉を異性として好きだなんて――そんなの、正しくないことは、誰よりも本人がわかっているのに。

「なのにさ、あいつ、彼女のこと隠すんだぜ。そんな必要全然ないだろ。お互い好きなら、胸張って付き合えるじゃん。……キレたくもなるよ」
「……そっか」

 表に出せないのなら、それは正しくないんじゃないか?
 お前は正しいんじゃないのか?
 わからなくて、我慢できなくて、シーナは爆発したのだろう。自分を否定する刻也がダブルスタンダードに見えてしまったのだ。

「八雲さんにも、何か理由があったんじゃないかな。彼女のことをあんまり人に言えない理由みたいなのが」
「恥ずかしがってるだけって気もするけどな。だったら俺あいつを殴ってもいいと思うんだ」
「いやいやいやいや。いきなり説明なしに殴られたらさすがに八雲さんでも怒るって」
「だろうなあ。ま、事情はどうあれ、実際管理人のことなんて俺にはわかんねーし。向こうだって俺の事情は知ったこっちゃねーだろうし。俺も大人げなかった。うん」
「……後で改めて謝ろうね」
「健一の頼みならしょーがないな」

 頬を掻いてシーナは苦笑した。
 何だかんだで頑固というか、後に引けなくなるようなところがシーナにはある。健一を盾にすれば、天の邪鬼なシーナでも頭を下げられるだろう。
 とりあえずは落ち着いたかな、と一安心して、そこで俯いていた顔を上げた健一の目に、不思議な光景が映った。
 二人で歩いていた公道の脇。
 片面のみのバスケットコートとゴールが設置されている。
 おそらく練習用に備え付けられたその場所で、ひたすら同じ立ち位置からシュートを繰り返す少年がいた。
 それだけなら、一度見てすぐに視線を外していただろうが、明確に異常な点がある。
 立ち位置だけでなく、フォームも全く変わらない。
 ポジションにつく。ボールを頭上に構える。膝を軽く曲げてしなやかな動きでボールを放つ。ふわりと跳ねた身体が危なげなく着地するのと同時、鮮やかな放物線を描いたボールが、どこにも当たらずゴールネットに吸い込まれる。落ちる場所までほぼ同じで、それを拾ってはまたシュート。何度かシュートを眺めていたが、リズムまで一定だった。
 以前1301のボーリングレーンで見た、刻也のそれに近いかもしれない。一切の無駄がない、機械にも似た正確さを人間が実現させている様は、どこか非現実的でさえあった。

「……なんか、変だけど綺麗だよな」
「だね」

 投げる。入る。拾う。
 一連のサイクルを眺めていると、突然少年が動きを止めた。
 ボールを持ったまま、健一達の方を向き、

「……なんすか?」
「あ、ごめん。その、邪魔だったかな」
「邪魔ってことはないっすけど」

 どうやらこちらの視線が気になったらしい。
 健一もシーナも興味本位で見ていただけだったので、妨げになるならすぐここを離れようと思ったが、どうもそういうわけでもない。表情は本気でどうでもよさげだった。
 問答さえ面倒だというように、少年が伸びをする。
 とにかく、背が高い。健一は男子高校生の平均程度だが、それよりさらに頭半分はある。手足も長く、しかし細身とは感じさせない筋肉が付いているのがわかる。面立ちはどこか幼く、おそらく年下。中学生くらいだろうか。

「で、二人ともなんなんすか? 俺に用事でも?」
「いや、歩いてたらふと目についたっていうか……シュートがすごい綺麗だなって思って」
「綺麗っすか。本当にそうだといいんすけどねえ」
「ん? あれでも満足してないのか?」
「まだまだって感じっすね」

 シーナの疑問に答えながら、シュート。
 当然のようにそれも決まるが、ボールを拾い上げる少年の表情は、とても納得しているとは言い難かった。

「……これだけ上手いってことは、部活とか入ってるの?」
「俺はそんな上手くないっすよ。部活も入ってないっす」
「バスケ部じゃないのに練習してんの?」
「シュートが好きなんす。バスケは他にも色々やんなきゃいけないし、面倒じゃないすか」
「面倒って」
「つーかさ、同じことばっかりやってて飽きないわけ?」
「飽きないっすね。同じことじゃないっすから」
「ずっとシュートしかしてないのに? それとも途中で別の練習に切り替えんのかね」
「いや、シュートの練習であることには変わりないんすけど……同じにしたいのに、同じにはならないんすよ」
「何だそりゃ。わけわかんねえな」

 禅問答の類か、と言いたげなシーナの反応に、少年はやっぱりかと小さく溜め息を吐く。
 なるほど確かに、抽象的な話だ。しかし健一には少年の気持ちが理解できる気がした。

「僕はバスケのことはさっぱりだけど、料理してると似たようなことは思うかなあ」
「……そのふたつに近いものは一切感じられないんだが」
「いやさ、勿論やってることは全然違うよ? でも、例えば味噌汁を作るとして、ちょっとした火加減や味噌の量で味が変わっちゃうんだよね。火に掛ける時間とか、室温とかでも」
「そんなもんなのか?」
「うん。まあほとんど誤差みたいなものなんだけどさ。自分で味見して、今日はちょっと味噌多かったかな、って思うわけ。で、次は気持ち減らそうとするんだけど上手く行かなかったりして」
「ほとんど味変わんないんなら別にいいんじゃねえの?」
「食べてる側からすればそうかも。ただ、作ってる側としては、もっとおいしくしたいなって考えてるから、細かいところも気になるんじゃないかな」

 慣れるというのは、自分の感覚が一定の基準に近付くことでもある。そこから上を目指そうとするなら、より多くの部分に目を向けるしかない。
 要はどこまで突き詰めるか、なのだ。妥協すればそこで終わりだが、しなければ完全無欠なものを求めることになる。そうなれなくとも、限りなく近いものを。
 健一から見たシーナは、感覚の人間である。ハーモニカを吹くようになって感じたことだが、音楽的な素養は体現化するのが非常に難しい。
 最低限のライン、どう吸ってどう吐けば望んだ音が出るか、というのは技術面の問題。それ以上の、例えば息の強さや音の広がりを意識すると、途端に子細が説明できなくなる。
 歌うことも同じだろう。然るべき場所で師事されれば、ある程度は方法論もわかるかもしれないが、独学ともなると感覚で覚えるしかなくなる。少なくともシーナのあの歌声は、決して技術だけでは再現し得ない。才能と、努力と、鋭い感性によって生まれるものだ。
 だからこそ、天才肌とも言えるシーナには、理解し難いのだろう。無数の試行を積み重ねて、凡人はようやく理想の尾が見えるのだから。
 健一の言葉にシーナはやはり首を傾げたが、少年の反応は真逆だった。やる気のない態度や表情から一転、関心と尊敬が入り混じった目を健一に向けていた。

「そう、たぶんそういうことっす。俺は料理のことなんてさっぱりっすけど、同じことを言いたかったんす」
「この辺の感覚は、確かに説明しにくいよね」
「話すのは得意じゃない……って自覚はあるっすけど、でもこの話、伝わったのは先輩が初めてっすよ」
「え、そうなの?」

 別の経験に置き換えれば、理解できる人は他にもいそうなものだけど。
 というか少年のテンションが違い過ぎて微妙に健一は引いていた。

「大抵はそこの人みたいに呆れるか、わかった風なことを言うんす。先輩みたいにちゃんと説明できた人はホントに今までいなくて」
「そこの人って……俺もコイツと同い年なんだけど」
「先輩、名前は?」

 シーナのアピールをしかし少年は軽やかにスルー。
 ぴしっと強張った隣に戦々恐々としたものを感じながら、健一は一瞬どうしようかと悩み、答える。

「僕は絹川健一。で、そこの人がシーナ」
「おい健一」
「絹川先輩っすね。俺は九条流輝っす。呼びづらかったらルキでいいっす」
「またスルーか! お前マジで扱い滅茶苦茶違うな!」
「解り合えない相手と話すのは時間の無駄っす。そういう人の名前を覚えるのも勿論時間の無駄っす」
「ちょっと待て、いつどこで俺とお前が解り合えないって決まったんだ? まだ俺は話し足りないし、俺と健一のコンビは、どっちかって言えば俺の方がボスだからな」
「じゃあボスには興味ないっす」
「……清々しいくらいに一貫してんな、お前」
「よく言われるっすね」

 一貫した少年――流輝は、本当にシーナから興味を失ったらしく、健一の方へ視線を戻す。
 後でシーナのフォローはしておこう……。脳内メモにそう書き込んでおき、とりあえずは聞く姿勢を取った。

「あ、ちなみに俺は中二っす。先輩、で間違いないっすよね?」
「うん。俺達は高一だから。……にしても、中学生にしてはすごい背が高いよね」
「それもよく言われるっす。昔から伸びるのは早かったんすよ」
「だからバスケを?」
「んー、きっかけはそうっすかね。小学生の時、学校の授業でやってから、シュートするのがすごいしっくり来て。ここ、元は知り合いの私有地なんすけど、そいつに許可もらってるんす。学校のゴールは部活で使われてるし、一人でシュートしてる方が性に合ってるんで」
「ってことは、毎日ここでやってるんだ」
「暇さえあればって感じっすねえ。あと、姉の帰り待ちも兼ねてるっす」
「帰り待ちって、お前シスコンか何かか?」
「親に頼まれてるだけっす。姉はあそこのファミレスでバイトしてて、帰りは危ないから暇なら迎えに行けって。うちの親、姉にはちょっと過保護なんすよね」

 シーナの茶化し(意趣返しでもあったのだろう)には全く取り合わず、流輝の指差した方角は、二人が歩いてきた側だ。
 その方面で、近くのファミレスは刻也のバイト先しかない。
 姉、つまり女性。
 同じファミレスでバイト。
 偶然にしては若干要素が揃い過ぎな感もある。

「親が過保護って、お前のお姉さん、もしかして超可愛いんじゃねえの?」
「俺にはそうは思えないっすけどねえ。性格キツいし。でも、痴漢には狙われやすいタイプかもしれないっすね」
「お、じゃあつまりエロエロってことじゃん」
「……それもどうなんすかね。目立つのは確かっすけど、あんまりそんな感じもしないっていうか、バランス悪いっていうか」

 痴漢されやすいタイプで、目立つけどバランスが悪い。
 いまいち抽象的な表現ではあるが、何となく健一にはイメージがついた。童顔で、背が低くて、意外と胸が大きい――千夜子の姿が思い浮かんだのだ。友人故に性的な目を向けることはないとはいえ、ああいうスタイルだと結構頭には残ってしまう。
 もしそんなタイプなのだとしたら、夜道や電車のような環境は真っ当な親からすれば心配だろう。綾だって、以前痴漢には遭ったのだ。身近な人間に起こった以上、同じ災難が他人にはないとも言い切れない。

「まあ、親なんてのは自分の娘ってだけで必要以上に心配するもんじゃないすか。弟としては結構その辺差を感じるっすよ」
「なるほど、そりゃそうだろうなあ」
「……君も心配なの?」
「一応姉っすからね」
「そっか。……家族なんだから、気を付けてあげてね」

 果たして自分の両親は、蛍子を、健一自身を、家を空けていることで心配しているのだろうか。
 もういい歳になったんだから、とか。
 一人で何でもできるんだから、とか。
 そうやって勝手に安心、してるんじゃないだろうか。
 ――表情に出したつもりはなかった。ただ、シーナだけは僅かな違和感を、察したようだった。
 濁った思考を振り払う。
 健一の真剣さを受け、無言で頷いた流輝に薄い笑みを返し、

「ごめん、そろそろ行くね。少し雲行きも怪しくなってきたし」
「お、マジだ。風も強くなってきてるな」
「俺はまだ姉が出てくるまで時間掛かるんで、ここに残るっすよ。傘も持ってきましたし。あ、平日は夜にいることが多いっすから、また機会があったら話をさせてください。それじゃ絹川先輩、またっす」
「うん。またね」

 会話はともかく、別れの挨拶でも名前を挙げられなかったシーナを宥めつつ、二人でその場を後にする。
 あんなに晴れていた空には、いつの間にか雲が増えていた。空の流れが速く、遠くからゆっくりと厚い灰色が迫ってきている。

「あんにゃろ、本気で俺の名前覚えてねーな」
「正直というか、自分に素直だよね」
「ぶっちゃけ相当に変な奴だろ、本当」

 総合的な変さで言えば、シーナの方が上だよね、とは。
 友達の情けで、口にはしないでおいた。










 幽霊マンションの一階に着いた頃には、いつ降ってもおかしくない空気だった。
 風の湿り具合から見て、下手をすればあと一時間もないだろう。家の洗濯物はどうだったかな、と考え、蛍子もいるし大丈夫なはずと思い直す。
 十三階の各部屋と廊下にも窓はあり、外の様子は窺える。存在しないはずの窓から顔を出すと色々矛盾が発生するからなのか、何故か開けることはできないのだが、屋上に出ずとも空模様は確認できた。
 最初こそ緩やかだったものの、すぐ土砂降りに近い勢いへと変わり、健一とシーナは顔を見合わせる。

「……屋上で練習は無理だな」
「さすがにこれはびしょ濡れになっちゃうしね」
「となるとどうすっかなー。帰るには早過ぎるし。夕飯食ってくるってもう言っちゃってるんだよ」
「やっぱりなくなった、とは言えないの?」
「母さんはともかく、佳奈ちゃんに怪しまれる気がする」
「もう怪しまれてるんじゃないのかな……。ライブの話、全くしてないんでしょ?」
「できるかっつーの。最近帰り遅いくらいには思われてるだろうけど、遅くなり過ぎないようにはしてるしなあ。うーん……」

 腕を組んで唸り始めたシーナは、しばらく首を捻ってから、ぽんと手を叩いた。

「そうだ、打ち合わせするぞ。最近レパートリー固定気味だったし、一曲二曲増やそうぜ。健一も一緒に考えてくれよ」
「それはいいけど……1301でやる?」
「あそこみんなも来るからなあ。健一んとこ……は、有馬いるか。なら、俺の部屋だな」

 あっさり決めるシーナに頷きかけて、健一は不意に先日の事故を思い出した。よくよく考えれば、一応、本当に一応、そこは女の子の部屋なのだ。シーナは日奈でもあるのだから、つまり女の子の部屋にお呼ばれしてるわけで、そこのところ大丈夫なのか。いやでもシーナは男みたいなものだし、当人はさっぱり意識してないみたいだし――。
 悶々とする健一の内情には一切気付かず、早くしろよーと急かすシーナに、とりあえず1301へ麦茶二人分を取ってくると伝え時間を確保。先に1305へシーナを行かせ、1301の食器棚からコップをふたつ出しながら深呼吸。必死に忘れろと自分へ言い聞かせ、約三分間の戦いの末、煩悩を退けることに成功した。
 というか、今更な話である。
 1303では半ば同棲していて、さらには綾の部屋にも頻繁に入っている。事故は事故。シーナと一緒にいたところで、色気のある展開になどなりようがない。
 理論武装を済ませ、お盆片手に1305へ。てっきり居間にいるのかと思ったが、微かに奥のドアが開いている。
 肩で押すようにすると、胡座で寛ぎモードのシーナが「遅かったな」と片手を上げた。
 どこから持ってきたのか、座布団がシーナの向かいに敷かれている。そこに座り、互いの間にお盆を置く。

「さんきゅ。んじゃ、始めるか」
「うん……といっても、僕はいい意見も出せそうにないけど」
「わかってるって。いくつか候補は考えといたから、あとは一曲ずつ聴いてフィーリングだな」

 実にアバウトな話だが、そも音楽の素養が皆無な健一にできるのは、耳にした曲を気に入るかどうかくらいだ。
 シーナもそれしか求めていない。
 部屋の隅に除けられていた、些か旧式のプレイヤーを引き寄せ、CDをセットして数回早送りボタンを押す。
 そうして流れるメロディと歌を、まずはそのまま聴き、必要に応じてシーナがタイトルと歌詞の意味を健一に教える。
 シーナ&バケッツのレパートリーは、大半がノリやすい曲調の、ライブ映えするものだ。時折バラードなども混ぜるが、基本は観客が如何に空気に飲まれるか、を主眼としている。
 今回の候補も、例外なくコンセプトは同じだった。思わず身体を揺らしてしまうような、あるいは手拍子を入れやすそうな。相変わらず洋楽が多いのはシーナの趣味だろう。
 最終的にふたつまで絞り、両方ともレパートリーに加えることとなった。
 ライブ向けの曲を選ぶ。言葉にすればたったそれだけの話だが、聴いて話して、戻して聴き直してまた相談して、となると、なかなか時間も掛かる。時計の長針は、気付けば一周していた。
 前傾姿勢で話し合うことが多かったからか、少々腰が痛い。背筋を伸ばして上半身をほぐしつつ、健一はシーナが提示した楽譜を見やる。
 アップテンポの曲であるほど、音はよく跳ねる。ハーモニカはその性質上、滑らかな音の移り変わりに向いているが、そういうものはスタッカートが基本だ。
 弾むように連続する音符の並びに、また大変な曲だよなあ、と苦笑する。ブレスはしやすい反面、両手の動きと呼吸のシフトが忙しい。
 けれど、覚え甲斐があるのも事実。この時期はなかなか屋上での練習もできないが、健一のやる気は充分だった。

「さて、無事曲も決まったところでだ」
「まだちょっと夕飯まで時間あるね。先に下拵え始めちゃってもいいんだけど……」
「もうちょい話してこうぜ。意外にお前と二人きりで腰据える状況ってないんだしな」
「そうかな」
「そうだよ。1301だとだいたい綾さんか有馬がいるだろ? ライブの帰り道はテンション引きずっててそれどころじゃなかったりするし」

 最初ほどではないにしろ、ライブ終わりはいつも不思議な高揚感が残る。ふわふわしながらの帰路だと、話もほとんどライブの出来に関するものばかりだ。
 言われてみれば、確かに。
 こうして腰を据えて向き合う機会は、少なかったかもしれない。

「そうそう、ずっと訊きたかったこととか、結構あるんだよ。だから折角だしさ、腹割って話してみようぜ」
「腹割ってって」
「ま、俺もここの人間は、みんな何か持ってるんだろうな、ってのはわかってる。お前も、綾さんも、有馬も……癪だけど、あの管理人も」
「……うん」
「言いたくないことは言わなくていい。俺も言わない。でもさ、お前は俺の相棒なんだから、極力隠し事なし、イーブンで行きたいわけよ。オッケー?」
「……わかった。そういうことなら」

 楽譜やCDを丁寧に整えて元の場所へ戻し、シーナは荒っぽく座り直す。
 胡座で両手を膝に付き、軽く上半身を前に乗り出してにかっと笑った。

「んじゃ、前にも訊いた気がするけど、まずはお前と有馬の関係からな」
「有馬さんとの関係って言われてもなあ……。たまたま同じ部屋になって、ここにいる間は一緒に過ごしてるってだけだよ」
「にしちゃ随分打ち解けてんじゃん。つーかあいつ学校じゃ完全に別人だし」
「……迷惑を掛けたくないから、って有馬さんは言ってたけど」
「噂のことか?」
「シーナも知ってるんだね」
「嫌でも耳に入ってくるんだよ。それに有馬も自分で否定しないしな。いくら女受けが悪いっつっても、そこはあいつの責任だろ」

 ――有馬冴子は、男なら誰とでも寝る女である。
 それが一側面においては事実だと知っている健一にとっては、非常に答え難い問いでもあった。
 しなければならない理由は存在する。だが、仮にそれを他人に伝えたとしても、まず冴子は理解されないだろう。身体ではなく、心の病だとして、目に見えないものを人は容易く信じられない。ましてや、セックス依存症なんて単語を聞いたところで、何かの言い訳としか取られないのではないか、と健一は思う。
 必要ないのなら、きっとしなくてもいいことなのだ。
 けれど事実、誰とも寝なければ、冴子は倒れるまで起き続けてしまう。夜に健一がそばにいられない状況というのは、これまでも少なからずあったのだが、そうすると日毎に冴子は生気を失っていく。薄くなっていく、と言い換えてもいい。あるいはそのまますぅっと消えてしまうのではないかと、有り得ない想像をしたことさえある。
 義務感めいたものだけではない。
 決して好きにはならない――一定のラインに遮られた、互いの関係。それを何と形容すべきか、健一にはわからない。

「健一なら有馬の事情も知ってそうだけど……ま、言えねーよな」
「うん。僕も前に言ったけど、それはちゃんと、有馬さんから聞くべきことだと思う」
「じゃあぶっちゃけセックスしたのか?」
「それも充分プライベートな話じゃないかなっていうかこれも前に言ったよね」
「わかってるけど知りたいんだよ! むしろ俺の興味はそこにしかないっ!」
「ノーコメントで」
「即答だなおい!」

 ここで正直に答える人間がいたら、そいつは紛れもない馬鹿だろう。
 取り付く島もない健一の反応に対し、シーナの切り替えは早かった。仕方ねーなー、という表情を浮かべ、

「でもまあ、噂のこととかを抜きにすれば、悪い奴じゃねーよな。俺のことだって、変に色眼鏡掛けて見たりしないしさ」
「優しい人だよね」
「ベッドの中じゃ激しくなったりする?」
「ノーコメントで」
「鉄壁だなちくしょう」

 まだ諦めてなかったらしい。

「俺はお前のことの方がわかんねーなー……。やっぱ納得いかん。男なんて二言目にはセックスだろ」
「シーナの男性観は相当酷いね」
「愛のあるセックスができれば最高だけど、それはそれとしてエッチはいつでもしたい。女の子と気持ちいいことしたい」
「脳内ピンク色……」
「健一が灰色過ぎんだよ」
「そうかなあ」
「あーもうこの話終わり! 不毛だ! 俺が!」
「なら次はどうするの?」
「一応健一は答えたってカウントしてやる。だから今度はお前が俺に質問」

 妙に大袈裟な手振りで自分を指差すシーナに、健一はどうしたものかと腕を組んだ。
 元来、あまり他人の事情にこだわるタイプではない。質問と言われても、なかなかぱっとは考えつかないものだ。
 しばし首を傾げ、そういえば、と思い出す。

「佳奈さんが前に付き合ってたのって、僕が前に会ったことある人?」
「む、そう来るか……つーかこれ、俺じゃなくて佳奈ちゃんのプライベートについてじゃね?」
「駄目ならスルーしていいけど」
「……いや、問題ないぜ。会ったっちゃ会ってる奴だな。ほら、お前が有馬と外出てて、最初に俺と顔合わせた時あっただろ。あそこにいたのが佳奈ちゃんの元彼だよ」

 言いながらシーナは苦い顔をしたが、健一も同じ気持ちだった。何せ自分は殴られ、冴子は脅迫に近いことをされたのだ。
 確か名前は、

「飯笹。飯笹伸太だ」
「下の名前は知らなかった」
「そういや有馬とも関係あるんだったっけな。理由はどうあれ、佳奈ちゃんと別れてくれたのは俺的に有り難いことだったけど。あいつチャラいし」
「軽い感じではあったかなあ」
「でなけりゃ、有馬と関わったりなんてしねーだろ」

 理由はどうあれ、である。
 半ば確信を持っていても、敢えて深くは突っ込まないシーナに苦笑を返し、健一は意識を引き締める。
 腹割って話してみようぜ、とシーナは言った。
 ならば、ここしかないかもしれない。二人きりで、時間があって、真面目な話を受け入れる下地もできている。
 前は、肝心な部分だけ口に出せなかった。
 だから今は。
 今なら。

「次、もうひとつ僕から訊いてもいい?」
「んー……よし、許す」
「シーナの好きな人。……佳奈さん、だよね?」

 告げた瞬間。
 シーナは、本当に驚いていた。
 健一に向けた目が大きく見開かれていた。

「……いつからそう思った?」
「はっきり感じたのは、最初のライブが終わった後だったかな。でも、僕じゃなかったら絶対わからなかったと思う」

 好きな人についてシーナが語る時。
 その声には熱があり、その瞳には絶望が渦巻いている。叶ってほしいという希望と、叶うわけがないという諦念が、シーナの中では両立しているのだ。
 血の繋がった双子の姉で。
 同じ性別の女の子で。
 普通に男の子を好きになる、そんな相手。
 認められなくて足掻いた結果が、シーナという存在だった。
 血の繋がった双子の妹ではなくて。
 違う性別の男の子で。
 格好良くてちゃんと女の子にモテる、理想のキャラクター。
 どうしても、窪塚日奈にはシーナが必要だった。
 そのままでは届かないから。
 ……届かない、はずなのに。
 同じ声を、同じ目を、健一は知っている。
 届かないはずのものを、受け入れてしまった。
 窪塚日奈と絹川蛍子との、決定的な差だ。
 相手が健一か、佳奈か。
 たったそれだけのことが。

「僕に姉がいるって話は、前にしたよね」
「ああ」
「シーナと出会う前から、僕は姉と……ホタルとエッチした。告白されて、拒めなくて……今も、続いてる」
「……お前は、お姉さんのこと、どう思ってるんだ?」
「好き、なのかもしれない。本当はよくわからないんだ。流されただけなのか、好きだから受け入れたのか。だけど、嫌じゃないし、嬉しかった」
「そっか。だからわかったのか」
「うん。シーナはあの時のホタルにそっくりだったから」
「……なのに、違うんだな」

 どうして、と。
 言外にシーナは訴えている。
 自分は何故駄目で、お前の姉はよかったのか。
 言葉にしなかっただけ、シーナは十二分に理性的だったろう。叶ったところで、それが決して幸せなことではないとも理解していた。

「応援してくれるって、お前は言ってたよな。俺さ、心の中じゃ、どうせ誰かも知らない癖にって思ってた。どんなに難しくて、苦しくて、辛いことかもわからないのにって。でも、ちゃんとわかってたんだな。わかって、応援するって言ってたんだ」
「……僕にそう言われることは、辛い?」
「辛いってより、なんか、いろいろごちゃ混ぜでもうわかんないや。ただ、俺一人じゃ絶対ここまで来られなかったのも確かだよ」
「うん」
「健一には感謝してる。それにお前だって、お姉さんのこと、軽々しく他人には言えない話だろ? でも俺には話してもいいって、そう思ってくれたんだろ?」
「綾さんと有馬さんには話したから、シーナで三人目だけどね」
「そこは嘘でも一番最初だって言っとけよ!」
「ごめんごめん。……ぶふっ」
「はは、あはは!」

 泣きそうなのに可笑しくなって、二人で声を出して笑った。そうすれば、重い空気も暗い未来も、まとめて晴らせるような気がした。

「なあ健一」
「何?」
「ありがとな」
「こちらこそ、ありがとう」
「やっぱお前とは、いい友達になれそうだ」

 信じたいのだ。
 シーナ&バケッツなら何だって上手く行くと。



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何かあったらどーぞ。