――どうして自分はここにいるんだろう。
 内心でそう呟いた健一は、正面にどんと置かれたものを見つめた。
 いくつもの氷と麦茶の入ったコップ。
 外気との温度差で、表面にびっしりと水滴がつき始めている。
 さらに正面の向かいに座る、相当にガタイのいい男性が、じっとこちらの様子を嬉しそうに眺めていた。
 隣では麦茶入りの容器を片手に持った千夜子が、何とも言えない表情を浮かべている。
 大海家、リビング。
 この場所に招かれるに至った経緯は、まずツバメのやらかしから始まった。
 夏休みが終わって間もない平日放課後、校門に健一と千夜子を呼び出しておいて、一人だけ何故か先に帰ってしまったのだ。よくよく考えれば千夜子と一緒に下校させようというツバメの魂胆が見え見えなのだが、如何せん健一はその辺の勘が絶望的に鈍かった。というか、ツバメならすっぽかしてもおかしくないとさえ思っていた。普段の彼女に対する印象と人徳が窺える。
 あまりにも強引なやり口に、当然千夜子も慌てたが、そこは恋する乙女。何だかんだで健一と途中までの同行を取り付け、舞い上がっていた。舞い上がり過ぎて道中会話はほとんど交わせなかった。
 これだけなら、順当に分かれ道でお別れ、となるところだったのだが、その手前で遭遇した相手が、まさかの大海父。見かけた千夜子がまず気付き、一拍遅れて向こうも気付いた。
 あとは大海父に引っ張られ、遠慮する健一に「いいからいいから」と自宅まで連れ込んで麦茶をご馳走しよう、ついでに娘の話を聞いておこう、となったわけである。
 ……まあ、確かに、今日もかなり暑いし。
 キンキンに冷えた麦茶を飲ませてもらえるのは有り難いけど。
 同級生の、女の子の家に(保護者同席とはいえ)男がお邪魔するというのは、色々問題があるんじゃなかろうか。

「さ、遠慮なく飲んでくれ。まだまだいっぱいあるしな」
「ええと、じゃあ、いただきます」

 恐る恐る唇を付けた麦茶は、身体の芯に染み渡るような味がした。冷たさの中に、仄かな苦味と麦の風味を感じる。思わず一気に飲んでしまい、あっという間に空になったコップを見て、大海父は笑みを深くした。

「絹川君、相当喉乾いてたんですね」
「ああ、すみません。なんか全然遠慮なくて……」
「構わんよ。それだけおいしそうに飲まれれば、我が家の麦茶も本望というものだ。さ、千夜子」
「はい、どうぞ。……私も隣に座っていいですか?」
「ここは大海さんの家なんですから……むしろそれを訊くべきなのは僕の方というか」
「絹川君はお父さんが呼んだんですし、気にしなくて大丈夫ですよ。迷惑だったら、申し訳ないですけど……」
「そんなことないです。ただまあ、ちょっとびっくりはしましたよね」

 健一の家では、まず有り得ない話だ。
 道中で両親に会う可能性も、そのまま自宅に招くようなことも、そもそもの前提からしてないのだから。
 少しだけ、眩しくもある。
 親子の仲は悪くないと、一目でわかるが故に。

「ふむ、それにしても……千夜子が男の子を連れていたからつい勢いで引っ張ってきてしまったが、絹川君はうちの娘とどういう関係なんだね?」
「どういう関係かと言われると、一応、友達……みたいなものですかね。最近はお弁当の味見をさせてもらってます」
「ほほう。最近、千夜子が自分で弁当を作るようになっていたのはそういうわけか。……そうかそうか」
「……あのねお父さん、絹川君は毎日お弁当自分で作ってくるくらい料理上手いから、アドバイスもらってるだけなの。だからその顔やめて」
「別におかしな顔はしていないだろう。ただ、料理なんてしてこなかった娘が、理由はどうあれ頑張っているのが嬉しいだけだよ。絹川君、よければこれからも千夜子をびしばし鍛えてやってくれ」
「あ、はい、びしばしとはいきませんけど」
「もう、お父さん!?」

 声を荒げる千夜子は珍しく、なかなか新鮮に感じたが、健一にはそれより二人の表情と声色が気になった。
 賑やかで、笑顔が絶えなくて、どこか、懐かしい。
 いやまあこうやって話してる間に大海父は一人で麦茶をコップ三杯ほど飲んでいるので、微妙にシュールな光景ではあったが。
 ともあれあまり長居するのもよくないだろう。
 残りの麦茶を飲み干し、立ち上がろうとしたところで、不意に大海父が話題を変えた。
 その言葉に、健一は引っかかった。

「――そうだ、絹川君は、桑畑綾を知っているかね?」

 一瞬の動揺は、腰を浮かせかけた身体の動きで誤魔化せた。
 静かに座り直し、名前くらいは、と返す。
 何となく、自分が綾と面識があることを、誰かに語る気にはなれなかった。
 言わないでほしい、とお願いされているわけでもないのに。

「わしは市に勤めていてね。この街出身の有名人……としては随分大きな名前だろう? 役所の方でも、折角のビッグネームだから何かをしようということになったわけだ。それで、記念館を建てようという話が出た」
「記念館……ですか」
「お父さんってば、別にしなくてもいいのに、自分から立候補して仕事増やしたんですよ」
「だってこんな面白い話、他の奴に渡すのも勿体ないだろ。それに誰も手を挙げなかったしな、ならわしが、って思って当然じゃないか」
「お父さんだけだと思う」
「千夜子も同じ立場ならそうしたはずだ」
「そんなことない」
「いやいや、絶対そうするぞ。何せお前はわしと同じで負けず嫌いだからな。な、絹川君」

 初耳の情報に目を白黒させていると、いきなりものすごいところで話を振られた。
 千夜子が負けず嫌いというのも勿論初耳なので、困惑するしかない。微妙な表情の健一に、違いますよね、と視線で訴えてきた千夜子には、苦笑いを見せるしかなかった。
 そこで張り合う辺り、なるほど負けず嫌いかもしれない。

「あの……大海さんのお父さんは、……桑畑、さんと会ったことあるんですか?」
「ないな。記念館を作るにあたって、一度話を通しはしたんだが、特にこうしてほしいという意見もないらしくてな。作品を作ること以外、一切興味のない人なんだそうだ」
「顔出しとか、インタビューみたいなのも全然しないって話ですしね。私もすごい人だと思いますけど、雲の上の人っていうか……そんなイメージです」
「……僕が聞いた限りでも、そういう人らしいですね」

 世界にその名を轟かせるアーティスト、アヤ・クワバタケ。
 けれど健一にとっては、十三階でいつも見る、基本社会不適合者で隙あらばエッチしようと言ってくる、放っておけない人でしかない。
 だからこれは、世間一般の印象なのだろう。
 綾を知らない側の、一側面だけのイメージ。
 仕方ないことだとは思う。
 なのに、それを歯痒く感じるのは、どうしてなのか。
 僕らはみんな異常で、おかしくて、溶け込めなくて、だからこそ同じ場所に寄り集まって、不器用ながらも生きていて。
 閉じたままでも、理解されなくても、いつかはどうにかなるかもしれなくて、どうにもならなくても生きていけるかもしれなくて。
 でも、それで――本当にいいのか?
 今なんてものは、ずっと、続いていくものなのか?
 ……深い思考の海に沈んだのは、ほんの数瞬だった。
 けれどその問いを、健一は忘れられなかった。










 あの後、もう少しだけ話を聞いてから、健一は自宅へ帰った。
 大海父の仕事相手はどうやらあのエリらしい。綾に関わる大きなことなら、彼女が関わっているのも当然と言えば当然だ。あのやる気に満ち溢れた大海父もいることだし、ほぼ間違いなく記念館の件は上手く進むのだろう。
『時の番人』を移設する話もあるというが、それについては立ち消えになるのを祈るしかない。幸い大海父も反対のようで、できればエリも、同じ気持ちでいてほしいと思う。
 十三階の鍵を拾ったのは、あのオブジェの前だ。そう考えれば、全ての始まりは『時の番人』からだったとも言える。あるいは綾と会ったのも、きっかけは同じだろう。
 あそこで鍵を拾わなければ。立ち止まらなければ。そもそも『時の番人』を見に行こうと思わなければ。
 刻也や冴子、シーナと出会うことだって――蛍子と肌を重ねることさえ、なかったかもしれない。
 例え別の場所へ移るだけだとしても、なくなれば寂しい。
 当然の感情だろう。

(……それだけ、なのかな)

 大海家で悩んだことを思い出す。
 幸福な時間ほど、長くは続かない。十三階の面々と過ごし、蛍子と熱を交わしたここ最近は、健一にとって今までで最も充実した毎日だった。だからこそ、遠く背後からひた迫る足音を、意識せずにはいられない。
 昔の自分は、もっと物事に無関心だったような気がする。どうしようもないことはどうしようもないし、相手と意見が違うのも、何かが変わってしまうのも、しょうがない。
 自分は自分で、他人は他人だ。
 両親がいつもいないから、家族に期待をすることがなくなった。努力せずともそこそこ何でもできたから、誰かに頼ることもなくなった。わがままな姉の世話をして、変わり映えのない日々を過ごして、それでも満足だった。
 けれど、今は。
 眠れない冴子が心配で。
 歌うシーナを見ていたくて。
 真面目な刻也と話すのも楽しくて。
 蛍子とのセックスは幸せで。
 ……綾があのままでいいとは、思えなくて。
 千夜子と大海父の、綾に対する印象を聞いて、健一は微かな反発感を覚えた。それは何故かと自問してみれば、答えは明白だったのだ。
 本当はそうじゃない。
 確かに生活力皆無で、白衣一枚の姿で外に出ようとするし、集中すると平然と数日食事を忘れかけるし、事ある毎にエッチしようと言い出すし、一人じゃまともに遠出もできない、そんな人だけど。
 才能に振り回されて、家族から離れることを選んで、常識不足の自分に悩んで――少しずつでもよくなろうと、頑張ろうとしているのを、健一は知っている。
 変わることは恐ろしいのに。
 変わろうとする綾の姿は、尊いとすら思う。

「……考え過ぎ、なんだろうなあ」

 別れの時はいずれ来るだろうが、少なくとも今ではないはずだ。
『時の番人』についても、十三階のことについても。
 結論が出るのは先の話。
 下手に悩んだところで何かが好転するわけでもない。
 ぐちゃぐちゃになりかけた思考を振り払い、健一は時計を見た。そろそろ夕飯を作らなければならない頃だ。蛍子はまだ戻ってきてないが、特に用事があるとも聞いていないし、そう長くは家を空けないだろう。
 ありあわせの材料で献立を組み、早々に調理へ取りかかる。主食一品、汁物一品、おかず一品、サラダ一品。準備は三十分程度で済んだ。あとは温めるだけという状態まで来て、皿にラップを掛け冷蔵庫に仕舞おうとし、玄関からの物音に気付いた。
 すぐに帰宅した蛍子が、居間の健一を見つける。

「ただいま。……飯、できてるのか?」
「うん。食べるなら温めるけど」
「食べる。お前もまだだろ」

 断言に近い問いかけに頷き、必要なものをテーブルに並べ直す。
 味噌汁はまだ火を消して間もない。他も同じだ。おかずだけは一度冷やしてしまったのでレンジに入れた。一分弱で出来上がり、最後に箸と食器を二人分。
 いただきます、としっかり手を合わせる時、蛍子は健一の顔を見つめるようになった。これまであまり意識してこなかったが、些か重い視線を敢えて無視して食事に箸を付ける。
 腹が膨れるまでは、いつも会話がない。
 かといって淡々としているわけでもなく、やはり時折蛍子の視線を感じる。この頃日増しに強くなっている気はしたが、今日は殊更だった。
 やがて箸を置き、ごちそうさまと呟いて食器を片付ける。健一より早く張った湯に皿を放り込んだ蛍子は、おもむろに健一の右隣に座った。

「……なあ」
「何?」
「お前、今日もこれから出かけるのか?」
「約束だし、そのつもりだけど……昨日と同じ時間には帰ってくるよ」
「最近ずっとそうだな」

 責めるような声色と共に、蛍子が身を寄せてきた。
 薄いシャツ一枚越しの肩が触れる。残夏の暑さを含んだ、人肌の熱。
 下から左手の指が背中を這ってくる。肩胛骨の裏を撫で、首筋に絡み、そして唇が近付く。
 抵抗はしなかった。
 震える睫毛の奥で、瞳が潤んで揺れている。
 可愛いな、とぼんやり思いながら、合わさり、自然な流れで入ってくる舌の動きに応えた。
 やけにねちっこいキスをしばらくして、離れる。

「何分後だ」
「ええと……二十分くらい?」
「一回は、できるよな」

 何を、とは訊かなかった。
 逆らう術も理由も、健一は持ち合わせていなかった。










「お前からはリア充の匂いがする」

 翌日昼、1301でのことである。
 健一の作った冷やし中華をずぞぞと啜りながら、シーナは脈絡なくそう告げた。
 当然健一は「何言ってるんだこいつ」という目をしたのだが、向けられる視線を気にすることなく、マイペースにシーナの箸は動く。
 冷やし中華の汁に浮く、刻みきゅうりとハムを器用に摘み、

「だってさ、まず有馬と同室だろ? つまり毎日ずっこんばっこんやってるわけだろ?」
「ずっこんばっこんって」

 擬音が直接的過ぎる。
 とはいえ割と事実でもあるので、健一としては心中で苦笑いするしかない。理由はさておき、頻繁に冴子とセックスしているのは確かだ。

「綾さんは会う度に『健ちゃんエッチしよう』って言ってるし、大海さんと鍵原って子とも親しいみたいだし、噂じゃ美人なお姉さんもいるっていうし」

 微妙に綾の物真似が似てて麦茶を噴きかけた。
 膨らんだ頬をゆっくりと戻して飲み込み、一息。

「……それとリア充がどう繋がるのさ」
「だってお前の周り女ばっかじゃん! 俺も潤い欲しい!」
「ここにいれば条件同じだし、帰ればそっちも佳奈さんがいるんじゃないの?」
「佳奈ちゃんは別! 俺が言ってるのはもっとこう……エロだよ、エロ!」

 語っている間に熱が入ったのか、立ち上がりぐっと拳を握るシーナ。
 反比例するかのように下がっていく健一のテンション。
 今日はいつも以上にシーナの頭が悪い。
 暑さのあまりおかしくなったんだろうか。
 密かに脳の調子を心配する健一を余所に、一人でボルテージを上げていったシーナは、散々自分にはエロハプニングがないとか俺も事故に見せかけておっぱい触りたいとか愚痴った後、これまた一人で勝手に萎んでいった。

「どうして俺の近くには頼めばやらせてくれるエッチな女の子がいないんだろうなー……」
「そんなこと言ってるからじゃないかな……」
「あー、やめやめ。なーけんいちー、どっか遊びに行こうぜー」
「ライブ前の練習はいいの?」
「たまには息抜きも必要だろ。ま、夕方には一回こっちに戻ってくればいい。早めに帰れば軽く練習する時間くらいはあるぜ」
「まあそういうことなら」
「んじゃ決まりだ。……さて、つってもどこ行くかね。健一はなんかあるか?」
「いきなり振られても、すぐには思いつかないなあ」

 しばし見合って悩んでみるも、なかなか案は出てこない。
 焦れたシーナが手元の麦茶を一気飲みし、よし、と前置き。

「ファミレスに行くぞ」
「意外に普通だね」
「うるせえ。だいたいまだ外めっちゃ暑いのに、野外とか死ぬだろ」
「確かに、クーラー効いてるところの方がいいだろうけど」
「それにほら、あの自称管理人はファミレスでバイトしてるんじゃなかったっけ」
「……まさか」
「そのまさかだ」
「本当に今日バイトなのかはわからないよ?」
「いなけりゃ涼しい室内でゆっくりダベるだけだな」
「でもなあ……」
「それに、お前も気になるだろ? 自称管理人の彼女」

 十三階の面々の間には、互いに個人の事情を深く詮索しない、という不文律があった。
 誰が言い出したわけでもないし、明確に禁止してもいないのだが、そもそもここに集まった人間は、全員何かしらの“理由”を持っている。家にいられず、居場所を求めて辿り着いたのが、この存在しないはずの部屋達なのだ。
 刻也の彼女に関しても、健一が知っていることは多くない。同じファミレスで働いていて、冴子の見立てでは刻也が彼女をとても大切にしているだろう、という程度。
 話したくなれば、いずれ自分から口を開いてくれるはず。
 だからわざわざ立ち入る必要もないと、そう健一は考えていたのだが……全く気にならないと言えば、まあ、嘘になる。
 そんな僅かな健一の隙を、シーナは見逃さなかった。

「お前には彼女がいるってのを教えたんだろ。つまり、頑なに隠さなきゃいけないわけでもないってことだ。どうせあのムッツリスケベは照れてるだけじゃねーの?」
「うーん……」
「俺達はたまたま遠出した先のファミレスに寄って一休みするだけ。そこで自称管理人やその彼女を偶然見つけても、何の問題もない。そうだろ?」

 詭弁だ。絶対見かけたらからかうつもりだ。
 健一としては、本当に刻也がシフトに入っていた場合、仕事を邪魔したくはないので、シーナを止めるべきだと思う。しかし、こうなったら生半可な説得では揺るがないだろう。

「……それなら別に、八雲さんの働いてるファミレスじゃなくてもよくない?」
「いいや。あそこのファミレス、制服が近場じゃ一番の好みだからな」

 せめてもの提案はそれっぽい言い訳であっさり折られた。
 なるべくシーナが迷惑を掛けないようにしようと、その瞬間健一は心に決めたのだった。











 刻也が勤めているというファミレスは、幽霊マンションからだとそこそこの距離がある。となれば必然、残暑の炎天下を歩く羽目になるわけで、初めこそ元気だったシーナも、十分ほどするとうんざりしたような表情を浮かべた。
 九月の頭は、晴れと雨を不規則に繰り返す時期だ。今日は雲も切れ端しか見当たらない天気だが、数日に一度は雨でライブがお流れになる。健一にとってもシーナにとっても、それは歓迎できることではない。
 晴れれば無事にライブもできるので、そういう意味では喜ぶべきかもしれないが、これだけ暑いと複雑な気分だった。
 日陰を渡り歩きながら、ようやくファミレスの姿を見つけた頃には、お互いかなりの汗を掻いていた。残りの距離は小走りで駆け抜け、ガラスの扉に体当たりする勢いで中に入る。
 すぅっと身体を冷やしていく空気に思わず頬が緩む。
 来客に気付いたホールの人間が、店内の様子を確認して二人を席に案内する。禁煙か喫煙かと訊かれ、見栄を張りたいシーナが禁煙席で、と言いかけたのは健一が封殺した。
 昼食は既に食べてきたため、健一もシーナもアイスコーヒー単品でよかったのだが、それだけだと高くなるということで、フライドポテトと唐揚げをひとつずつ注文。ちなみに両方ほとんどシーナが胃に入れた。
 そうして落ち着いた今、シーナはきょろきょろと店内を見回している。

「お、あのウェイトレスどうよ」
「どうって……あんまり真面目そうな感じはしないね」

 目ぼしい女性が通りがかる度に健一へ話を振ってくるので、一応所感を伝える。ホールで働く店員は、比率的に女性の方が多い。シーナがここへ来る理由として挙げていた制服は、確かになかなか可愛いデザインだったが、健一には全く興味がなかった。
 安っぽい材質のカップに口を付け、微かに顔をしかめる。
 コーヒーが、薄い。
 ファミレスで出すものだ、これが一般的な濃さなのだろう。しかし、健一は自宅で淹れる時、もっと濃くするのだ。蛍子からは専ら「そこまで濃いとただの泥水だな」と散々な評価を受けているのだが、言われたところで味覚は変わらないのでしょうがない。
 お代わり自由らしいし、元を取るならあと二杯三杯は飲む必要があるだろうが、とてもその気にはなれなかった。
 まだ半分近くコーヒーが残るカップを見て、若干憂鬱になる健一を傍目に、シーナは店員を呼んで順当にお代わりをしていた。ついでに注文を取りに来た人をチェックしていた。

「おい健一、今の見たか?」
「何を?」
「さっきの店員、第二ボタンだけ開いてたぜ」
「第二ボタンだけ?」
「そ。角度が良ければブラ見えてたな。結構胸もでかかったし、唇もこう、ぼてっとしてて色気があるっつーか……はっ、もしかしてあれが管理人の彼女か!?」
「違うんじゃないかなあ」
「だよなー」

 いくら何でも刻也とキャラが合わなさ過ぎる。
 シーナもかなり適当に言ったようで、すぐに手のひらを返してべたっとテーブルに突っ伏した。

「健一はファミレスって、今までに来たことあんの?」
「随分昔に何回か。ここ数年……というか十年近くは覚えないかも」
「そりゃそうだよなあ。お前めっちゃ料理上手いし。別にこんなとこ来なくても困んねーだろ」
「だね。外食自体、ほとんどしてないや」

 物心ついた頃はまだ、家に両親がいた気もする。
 父と、母と、姉と――同じ食卓を囲んで、談笑していた時期だって、ないわけではなかった。
 それが自然に失われたのは、いつからだったろうか。
 半ば必要に迫られて料理を覚えた。気付けば姉と二人きりで、蛍子は何故か夕飯を作らないと怒る。一度勝手に外で食べてくれば、と提案したこともあったが、一週間は機嫌が戻らなかった。
 まあ、姉は姉なりに、自分の料理を楽しみにしてくれているのかもしれない。恋慕の情をぶつけられた今となっては、そう思いもする。

「そういうシーナは?」
「……実は初めて」
「ふうん……。僕達くらいの歳だと珍しいんじゃない?」
「んな風に言われるとなんか負けた気分だな……。あ、別に家族仲が悪いからってわけじゃないからな」
「いや、そこを疑ってはいないけど」
「母さんが料理得意なんだよ」
「へぇ」
「……何だその反応」
「シーナのお母さんなんて想像したことなかったから。そういえばいるんだなあ、って」
「いるに決まってんだろ。俺は木の股からでも産まれたのかっつーの」
「だよね」

 シーナと窪塚日奈はイコールだから、つまりは窪塚母ということになる。あの佳奈といい、この日奈――シーナといい、二人を産んで育てた母親と来れば、一筋縄ではいかないタイプなのだろう。

「フライドポテトも唐揚げも、値段と味を比べちまうとアレだよな。俺の母さんは節約上手でもあるからさ、わざわざ高い金払っていまいちなもん食べるより、自分で作った方がいいじゃんってことで、家族でのファミレス体験はゼロなわけだ」
「……なるほど」
「あ、でもさ。その、なんつーか……こうやって友達とファミレスでダベるってのも、ありだよなって、思う」

 急にシーナはそんなことを口にして、自分の言葉で恥ずかしくなったのか、最後の方はだんだん声が小さくなっていった。
 健一の顔をちらりと見て、耐え切れずに視線を逸らす。そんなシーナが可笑しくて、健一は小さく笑みを漏らした。

「おい今笑ったなお前!」
「ごめんごめん。……僕はシーナみたいに考えてなかったけど、言われてみて、そうかな、って思ったよ。きっかけはともかく、楽しいよね」
「ああ」
「シーナと一緒にいると、自分も明るくなれる気がする」
「健一はいつもテンション低いからなあ」
「……やっぱりそうだよね」
「ま、でも俺みたいなのが二人いても大変だろ。健一が相手だからバランス取れてるんだ」
「自分は大変だって自覚あるんだ」
「そこで水差すなよ!」
「あはは」

 本当に。
 シーナと出会って、コンビ組んでバケッツになって。
 十三階へ来てからの変化が、ますます大きくなったように思う。
 悪いことじゃない。
 変わっていくことは、そうだ。
 恐ろしいばかりじゃないだろう。
 それを、忘れないでいようと健一は思った。

「おー、見ろ健一。あそこの女の子も結構可愛いぜ。胸はないけど」
「絶対それ聞こえるようには言わないでね」
「わかってるって。そのくらいは分別あるっての」
「……シーナは胸の大きい子が好きなの?」
「いや。巨乳が好きなんだ」
「ええと……つまり、女性の身体の一部分だけが?」
「俺は巨乳派だからな。ま、他もエロいに越したことはないけど」
「へぇー……そうなんだー……」

 どの口で好きな人がいるとか言ったんだ。
 というか、健一の予想が当たってるなら、シーナの好きな人は別に巨乳じゃないはずなんだけどそこはどうなのか。
 色々突っ込みたいところはあったが、そもそも健一がシーナの意中の相手が誰か、ほぼ確信を持っていることに関してはまだ教えられないので、全部堪えて黙るしかなかった。
 まあ、好きな人と女性に求めるものは違うのかもしれない。
 たぶん。めいびー。
 次なる獲物を探し始めたシーナを横目に、何とはなしに広い店内へと視線を向けた健一は、ある一点を見てぴしりと固まった。
 視界の中心、手元の機械で客からの注文を受け終えた一人のウェイターが振り向く。目が合う。同じく固まる。
 そのままつかつかと、真っ直ぐ、一切迷わずに迫ってきた人物は、シーナの視界に引っかからないギリギリの場所から、

「コーヒーのお代わりは如何ですか?」

 テンプレート通りの台詞を投げかけたのは、刻也だった。
 冷静な敬語口調だが、明らかに目が笑っていなかった。
 健一に遅れて気付いたシーナは、誰がどう見ても怒りゲージ上昇中の刻也に一瞬怯んだものの、すぐに意地の悪い表情を浮かべる。

「おー、いたいた。あ、コーヒーは追加頼むわ」
「……いたいた、ではない。君達こそ何故ここにいるのかね」
「暑いから気分転換」
「それならもっと適した場所が他にあるだろう」
「ファミレスの気分だったんだよ」
「……窪塚君はともかく、絹川君、君までこんなことをする人間だとは思ってなかったよ」

 矛先がこっちに向いた。
 内心でだらだらと汗を掻きながら、シーナに全責任をなすりつけたくなったが、さすがにそれは良心が咎めたので、

「すみません。や、八雲さんの仕事の邪魔をするつもりは勿論なくてですね、色々あって、僕も止めきれなくて」
「邪魔をするのが目的だったならもう追い出しているところだ」

 怖い。
 玉虫色の返答は半分も聞いてもらえなかった。
 健一は何とか刻也を宥めようと次の言葉を考えるが、そこにシーナが威勢良く油を注ごうとする。

「で、管理人の彼女はどこにいんの?」
「窪塚君!」

 小さな声で叫ぶという器用な真似をする刻也にも、まるでシーナは引く様子がない。燃え盛る炎の上で綱渡りするシーナの姿を幻視し、健一は自分だけでも逃げ帰りたい気持ちでいっぱいだった。

「俺は窪塚君じゃない。シーナだっての」
「ではシーナ君。君は私の話を聞いていたのかね?」
「邪魔するのが目的だったら追い出してるっての? だからそんなつもりはないって。暑くて気分転換に来たのも、健一と楽しくダベってたのも本当。そういう理由でここ来てる奴なんて、他にもいっぱいいるだろ」
「……二心がないというのなら、何故わざわざこのファミレスに来たのかね。先にも言ったように、あのマンションから一番近いファミレスはここではないだろう」

 いくらかトーンを落とした(静かであるほど怒りは深いという形容を健一は思い出した)刻也の反論返しに、少しだけ間が空いた。
 ちゅるっと残りのコーヒーをストローで飲み干したシーナの空気が、明らかに変わった。
 驚くほどきつい目付きをして、

「管理人、アンタの彼女って、そんな隠すような相手なのか? 付き合ってるのが恥ずかしいような相手なのか? どうしても俺達に知られたくない相手なのか? だったら、だったら最初から――」
「シーナ、ストップ。もう帰ろう。僕達、八雲さんの邪魔になってる」
「でも絡んできたのは」
「ここに来て、気付かれたらそうなるでしょ。今、実際に八雲さんを困らせてるんだから」
「……そうだな。ごめん。悪かった。そこまで怒るようなことだとは、思ってなかった」
「いや……私こそ、少々大人げなかった。すまない」

 通夜めいた空気が重くのしかかる。
 けれどそれを振り払うだけの言葉を、健一は持っていない。
 ぽん、とシーナの肩を叩き、もう一度刻也に謝罪してから、帰ろっか、と席を立つ。別れ際、空っぽの席をじっと見つめる刻也に囁くような声で「今日か明日、夜にでもちょっと話しましょう」と言い残し、ファミレスを後にした。
 またお越しください、という明るい店員の見送りが、今だけは微妙に腹立たしかった。



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何かあったらどーぞ。