千夜子を送っていったこともあって、十三階に到着したのは、いつもシーナと二人で戻るよりも幾分遅い時間だった。 一応1301も覗いたが、誰の姿もない。どうやらシーナは着替えを終えて帰ったらしい。挨拶もできなかったのは少し残念だが、まあ仕方ないだろう。 一杯だけ冷えた麦茶を腹に流し込み、健一は1303へ向かった。玄関のドアノブに手を掛けると、扉は抵抗なく開く。 各部屋の鍵自体は、住人が任意で閉めるものだ。健一だけは冴子と同じ部屋を使っているので、状況次第では鍵がなくて入れない、ということも起こり得る。もっとも、今まで冴子が鍵を掛けたことはなかった。 ちなみに、十三階に来るのは鍵がなくてもできる。住人でありさえすればいいのか、細かい条件はわからないが、その辺は不思議現象だからと深く考えないようにしていた。 「おかえりなさい、絹川君」 物音を聞きつけたのか、玄関に冴子が姿を見せる。 ただいま、と小さく返し、一旦洗面所で手洗いうがいを済ませてから、居間のソファに腰を下ろした。 自然な流れで、隣に冴子も座る。 考えれば考えるほど、奇妙な関係だった。こうして一緒にいることは、全く苦痛ではない。触れ合い、肌を重ね、時には同じベッドで眠る――家族とも、恋人とも言えない距離。 ここは健一の家ではないのだから、おかえりなさいもただいまも、適切な挨拶ではないだろう。健一にはちゃんと帰る場所があり、対する冴子は十三階以外の居場所がなく、しかし健一がいなければ寝ることさえできない。 違うところばかりの二人だ。 なのに、必ず戻ってきた時、相手の顔を見ると、一番初めに出てくるのは「おかえりなさい」と「ただいま」だった。 「今日はちょっと遅かったのね」 「ええと……帰り際にイベントがありまして」 「イベント?」 「鍵原がいつの間にかシーナのファンになってたんです」 かなり迂遠な言い回しに、冴子はしばし顎に手を当て悩み、すぐ得心する。毎度ながら頭の回転が速い。 「絹川君のことも話したの?」 「まあ、成り行き上というか……。それで鍵原に頼まれて、大海さんと一緒にシーナに会わせたんですけど、あとはたぶん想像の通りです」 「なるほど。……ふふ」 ツバメの姿を本当に想像したらしく、堪えきれずに冴子は軽く笑みを漏らした。現場にいた身としては行き過ぎて苦笑いするしかない感じだったが、傍目からすればさぞかしおかしな光景に見えただろう。 「窪塚さん、ここに来た時結構慌ててたのよ」 「それってさっきのことですか?」 「さっきもだけど、ライブに行く前も。一回部屋を出て、シャツを反対に着てるのに気付いて戻ってったりして。結局挨拶するタイミングを逃しちゃったの」 「あれで割とテンパってたんだな……」 「帰ってきた時は、何度か壁に頭ぶつけてたけど」 ああどうせ碌でもない理由だな。 思わず半目になった健一は、不思議そうにこちらの表情を窺う冴子に首を横振りし、 「それより有馬さん、最近元気になりましたよね」 「ん……そうなのかな」 「はい。少し顔色もよくなった気がしますし」 「しっかり眠れてるからかも」 「………………」 話題を変えようとしたら自爆になった。 「あ、絹川君、そういう意味じゃなくて」 「え、あ、ですよねっ」 「……最近本格的に、バイト探しをしようかなって思ってるの。色々考えたりして、ある意味充実してるから」 「そういえば前に、そんな話もしてましたね」 確かシーナを十三階に案内した日だったか。 普段なら聞き流す程度に軽い、雑談のひとつみたいなものなのだが、シーナ自体がインパクト強烈で、連動して覚えていたのかもしれない。 「何をするかはもう決めたんですか?」 「本当にできるかどうかはともかく、一応ね」 「ちなみにどんな――」 「秘密」 興味本位で訊ねてみるも、すげなくあしらわれる。 見れば仄かに、冴子の頬が赤く染まっていた。 こういうところは可愛いよなあ、と思いつつ、それ以上の追求は諦める。秘密主義というわけではないが、なかなか頑固な面もあるのだ。 とはいえ、気になるものは気になる。 冴子がバイト。全然イメージできない。 例えば刻也と同じファミレスとか……いやいや。 何故かちょっとエッチな制服が思い浮かんでしまった。 溜まってるのだろうか。 昨日も冴子とはしたはずなのに。 「……何考えてるの?」 「な、なんでもないですよ?」 今度は冴子が半目になって、健一に視線を向けてきた。 とっさに誤魔化したが、隠し通せている気がしない。 二秒ほどそのまま互いに硬直し、はぁ、と冴子が息を吐いた。 「絹川君って、やっぱりエッチよね」 「……否定はできません」 「別に責めてるわけじゃないわ。もし絹川君がそうでなかったら、私は今、ここにいないもの」 「エッチだから一緒にいられるっていうのも、なんだか変な話ですけどね……。でも、悪いことばかりじゃない、のかもしれませんね」 多かれ少なかれ、誰もが欲に傾く心を持つ。 かつてホタルを襲ったのも、冴子を十三階と健一のいる場所に繋ぎ止めたのも、同じ衝動や感情が為した結果だ。 初めからなければいい、と願うのは簡単だろう。 けれど、それもまた自己を形成する、切り離せない一部分。 捨ててはいけないものだ。 (そういえば、シーナはどうなんだろう) こんなもの要らないと。 捨ててしまいたいと思うようなものが、あるのだろうか。 「……絹川君は、窪塚さんを可愛いと思う?」 「え?」 不意の問いかけだった。 一瞬頭が付いてこず、まじまじと冴子の顔を見つめる。 「たぶん今、窪塚さんのこと考えてるのかなって。それで気付いたんだけど、絹川君って窪塚さんのこと、ずっとシーナって呼んでるでしょ?」 「と言われても……シーナはシーナというか」 「じゃあ、窪塚日奈さんは可愛いと思う?」 禅問答めいた話運びだ。 どう言ったものかと健一は唸ったが、少し悩み、正直に答える。 「見た目とか、そういう意味では可愛いと思います。でも、僕にとっては、ほとんど話したこともない人って感じなんですよね」 学校でも窪塚姉妹は、有数の美少女として噂に上がるほどの評判を得ている。実際、面立ちやスタイルは、他の生徒と比べても頭一つ抜けているだろう。 ただ、あの時着替えを見てしまって。 シーナと窪塚日奈が同一人物だと理解していても、やはりイメージは解離したままなのだ。 同じ身体で、同じ顔で、同じ声をしていたところで、健一の中では“シーナ”の方が主だった。 切り離されているから、健一は“日奈”を“シーナ”と呼ぶ。 違うものだと感じているから、シーナを見ても可愛いとは思わない。 「……私は、窪塚さんを窪塚さんとしか見てない。なんて言えばいいのかな、シーナって名前も、窪塚さんのひとつでしかないって思うの。でも、絹川君にとって、窪塚さんと“シーナ”は別人なのね」 「はい。そんな感じです」 「だとしたら、それは窪塚さんだけに限った話じゃないのかなって。私も……その、ちょっとは自覚あるし」 「確かに、ここと学校じゃ全然違いますよね」 「絹川君だって、自分が別人みたいだって思うこと、あるでしょ?」 「いや、僕は……あ」 反射的に否定しかけて、少し前の会話が脳裏に蘇った。 以前も綾に言われた気がする。 エッチの最中は荒っぽいとか、結構鋭いとか。 そんな健一の思考に冴子も思い至ったらしく、途端にまたすぅっと顔が赤くなる。 「い、今のは一般論だから」 「で、ですよね。みんなそういうものですよね」 「……えっと。電気、消していい?」 「……はい」 その後の一般的な日常行為は、いつもより少し盛り上がった。 さらに帰ってホタルとも致して、綾よりよっぽどストレートに言われて健一は凹んだ。 珍しく、1301に住人全員が揃っていた。 台所の流し場に備え付けられたタオルで両手を拭いた健一が、大きなガラスのボウルをテーブルに運ぶ。先んじて冴子が並べた皿に、トングで中の物を盛りつけていく。 この頃そうめん続きで、いい加減別のが食べたい、とシーナが言い出したのがきっかけだった。しかしライブ明けでそこそこ疲れがあり、時間も時間なのであまり重いものは向かない。そんな理由から、夜食は明太子のスパゲティが選ばれた。 引っ繰り返すようにかき混ぜると、大量の湯気と共においしそうな匂いが広がる。明太子とバターの強い風味。さすがにそれだけでは物足りないだろうと作った玉子スープには各自適量の胡椒を掛け、お好みでスパゲティの皿に千切った海苔を散らす。 いただきます、と手を合わせるや否や、シーナが勢い良くパスタを啜った。ギリギリ口に入りきる量をむぐむぐと噛んで飲み込み、さらにスープを一口。 「うめえー! 健一の飯が食えるだけでもここに来てる甲斐があるってもんだぜ、本当」 「そんな大したものじゃないけどね」 「いやいや、こいつは立派な才能だろ。っ、はふ、なんかすげえソースが濃い感じだし、あっさりしたスープもぴったりだしさ」 「ふむ……絹川君、スパゲティの方には、何か特別なものを入れているのかね?」 「特別ってほどでもないですけど……明太子とバターを混ぜる時に、ちょっと牛乳も使ってます。そうするとコクが出るんですよ」 「なるほど。パスタは一人でも作れる簡単なもの、という印象があるが……一手間掛けるだけでこれだけおいしくなるのだな」 刻也が感心する横で、黙々と食べ続ける綾。最近姿を見なかったのは、また作業で籠もっていたからだろう。今回は倒れるまでいかなかったらしい。以前1304でセルフ遭難しかけていたのを助けた健一からすれば、毎度のことながら冷や汗ものの光景である。 かなり大量に茹でたはずのスパゲティも、五人がかりで手を付けるとあっという間になくなってしまう。冴子と刻也が率先して食器を片付け、シーナと綾も後を追った。 「今日は俺が皿洗うぜ」 「シーナが自分から言うなんて珍しいね」 「何となくそんな気分なんだよ。今日はライブなしにしたしな」 流し場に積まれた皿やフォーク、お椀などを、シーナがスポンジで丁寧に擦っていく。想像していたより危なげない手際で、さっと水にくぐらせ、指で磨くようにして洗う。 泡の落ちた食器は、冴子と刻也が手分けして拭いた後に棚へ仕舞った。健一は綾と共に座ったまま。食事を作った人間以外が片付けをする、という暗黙のルールがあるからだ。綾は以前皿を五枚ほど割ったので、メンバーから除外されている。 「うーし、終わりだな」 「みんな麦茶は飲む?」 「すまないが、頂こう」 「冴ちゃん、私もお願いー」 結局シーナと健一も頷き、全員分を用意する。 示し合わせたわけではないが、こうして五人が一同に会するのは滅多にない機会だ。マイペースな綾はともかく、何となく席を立ち難い雰囲気もあった。 しばし微妙に探るような空気が満ちる。 それを崩す会話の切り出しは、案の定というべきか綾だった。 「ねえ健ちゃん」 「はい、何でしょ」 「この後またAV借りに行きたいんだけど」 「ぶふっ」 刻也が派手に麦茶を噴いた。 気管支に水分が入り込んだのか、乾いた咳を繰り返す彼の背を、そっと後ろに回った冴子が優しく撫で擦る。 そんな惨事には全く目もくれず、健一に懇願の眼差しが注がれた。隣のシーナは好奇心丸出しの、何とか咳が落ち着いた刻也は批判的な視線を向けてくる。 当然ながら、以前AVを借りてしかも二人で見たという話は誰にもしていない。というかできるわけがなかった。 「……絹川君、どういうことかね」 「いや。ええと……何と言いますか」 どう説明しろと。 「ちょっと前にね、一人じゃ出かけても帰ってこれないから、健ちゃんに付いてきてもらったんだ」 「ほう……。綾さん、自分の欠点を自覚しているのは悪いことではありませんが、十八歳未満の彼を連れていこうとしないでください。絹川君も、法に触れることだと知っているなら断るべきだろう」 「……面目次第もございません」 「でも、店員さんにも止められなかったよ。借りたのは私だし。結構見られてた気はするけど。管理人さんはどうしてかわかる?」 「それは……む、ぐ」 一応、綾は見目麗しい部類に入る女性である。 スタイルも、下世話な言い方をすれば男好きするものだ。痩せぎすの巨乳――それこそAVの煽りにありそうな文句だろう。好奇の目に晒されるのも当然なのだが、思っても刻也は口に出せなかった。色々認めることになりそうなので。 「私はもう十八歳だし、健ちゃんに付いてきてもらうだけなら大丈夫だよね?」 「………………絹川君が付いていくだけなら、問題ないでしょう。ただし、その……いかがわしいコーナーには入らないように。でなければ、私は彼を咎めなければいけないので」 「うんうん」 ここで止めて一人で行かせるよりはマシだと判断したのか、絞り出すような声で妥協案を示した刻也に、綾は相当軽い調子で頷いた。 君が頼りだよ、という無言のプレッシャー。 健一は肩身狭げに俯くしかなかった。 ともあれ話は終わり的な流れに突入したところで、 「にしてもさ、ちょいと管理人は頭固過ぎじゃねえの? 俺達くらいの歳なんて、みんなエロには興味津々だろ」 悪意なくシーナが混ぜっ返した。 緩んだはずの刻也の眼光が鋭くなる。 「だから私は管理人ではないと……。だいたいシーナ君、それとこれとは話が別だろう。ルールには必ず、制定されるべき理由がある。守るか否かは個人の判断に委ねられているが、わかっていて見過ごす人間が多ければ、そもそもルールが成立しなくなってしまう」 「いや、そんな難しいことじゃないっつーか、AVくらい今時中学生でも見てるじゃん。それとも何、管理人はそういうエロいものに一切触れてこなかったと?」 「当然だ」 「へえ。そいつはご立派だこと。けどさ、普通男なんてみんな四六時中エロいこと考えてるもんだぜ。俺が言うんだから間違いない」 「微妙に自分を正当化してるような……」 「健一は横槍禁止な」 「えー……」 徐々に空気が怪しくなってきた。 元の発端である綾は勿論、冴子も二人の間に入る隙がなく、何とも言えない表情で座っている。 「だとしても、だろう。我々は社会の中で、規定されたルールを守ることと引き替えに多くのものを享受している。子供が大人になる課程で覚えるべきことのひとつは、己を律する自制心だと私は思っている」 「ま、そいつは一理あるわな。でもそれと同じくらい、自分に正直になるってのも大事だろ」 「そういうシーナが正直になってる時って、大抵碌でもない状況だと思うんだけど」 「スルーすんぞスルー。まあつまり、俺が何を言いたいかっつーと、管理人って絶対ムッツリスケベだよな!」 「な……っ」 「ちょっ、シーナ!?」 「だってこいつ、AVって何かわかってるんだぜ」 そういえば。 シーナを含めた四人分の視線が刻也に集中する。 「こ、言葉として知っているだけだ!」 「あれぇー、そうなのぉ? 焦って答えちゃってる辺りがますます怪しいよなー?」 「なら君はAVに他の意味があるというのかね!?」 「アニマルビデオとか」 「………………」 「やーい、ムッツリスケベー」 煽りに煽られた刻也の肩がぷるぷる震え始めた。 さすがにやり過ぎたと思ったらしく、恐る恐るシーナが刻也の顔を覗き込む。健一も「お、落ち着きましょう……ね? ほら、シーナも悪かったって言ってますから、ほら」と精一杯のフォローに入った。額をごりごりテーブルに擦らされたシーナの叫びは聞かなかったことにした。 やがてどうにか心の平衡を取り戻した刻也が、頬とこめかみを引きつらせつつも和解に応じる。犠牲になったのはこの場の空気とシーナの額のみに留まった。 気を揉んだ健一と冴子は揃って一息。 綾だけはマイペースに事の推移を見守っていた。 「確か、冴ちゃんの歓迎会の時にもこんな話してたよね」 「……あまり私としては思い出したくない記憶なのですが」 「管理人さんに彼女がいるってこととか?」 「え、それマジ?」 「うん、本当みたい」 「非実在彼女じゃなくて?」 「ちゃんと実在してるはず」 「……君は私を何だと思ってるのかね」 「うおお……綾さんだけじゃなくて有馬まで認めてる……こんな堅物に彼女が……負けた……」 いつから勝負してたんだろうか。 白い灰になったシーナには全員が触れず、精神的にどっと疲れた刻也がまず席を立ち、次に空のコップを片付けた冴子が1303へと戻っていった。 ビデオデッキが1303にしか存在しないことは、言わなくて正解だったのかもしれない。万が一刻也に知れようものなら、そもそもAVを借りに行くこと自体止められていたはずだ。 「えーと、ちょっとごたごたしましたけど。今から行きます?」 「健ちゃんが大丈夫ならそうしたいかな」 「じゃあお互い準備しましょう。綾さんも今の格好だと出かけられないですし」 「まだお風呂入ってないから、その後でいい?」 「はい。待ってます」 「ちょーっと待った! 俺も一緒に行くぜ!」 「それじゃ一階に集合ってことで」 「うん」 「健一はともかく綾さんまでスルーしないでください!」 「だって私は健ちゃんと二人がいいし」 「な、ならせめてAVは一緒に見たい! お願いします!」 「……どうする?」 「まあいいんじゃないでしょうか」 ここで断るとそれはそれで面倒だし。 かくして、おざなりな健一の返事により、1303での第二回AV鑑賞会が開催されることになったのだった。 家庭教師モノ。 女子学生モノ。 そして何故か異彩を放つ、レースクイーンモノ。 (主に綾のセレクションで選ばれた)三本の内訳である。 もうこの時点で嫌な予感しかしない。 居間のテレビ前では、綾とシーナが並んで正座をしていた。傍らにはついでに買ってきたポテトチップスとミネラルウォーター。口寂しい時用の飲食物だが、AVに合うのかは微妙なところだろう。 冴子には、一時的に1301の方へ避難してもらっている。当然というべきか、綾は彼女も鑑賞会に誘ったのだが、申し訳なさげに辞退された。ぶっちゃけ今は健一も辞退したかった。 まず、ビデオのタイトルに軒並み『ぶっかけ』の文字が入っている。この時点で頭が痛くなった。綾が語感の面白さで取ってきたのだが、当人は確実に意味がわかっていない。 パッケージもかなりきつい。家庭教師モノなのに授業をしている様子が一切見られなかったり、女子学生モノ(高生と書かないのは何がしかに配慮しているのだろう)は制服を着ている女性が明らかに学生らしくなかったり。レースクイーンは論外である。前にも思ったけどどういうシチュエーションなんだ。 1303、つまり昔の絹川家に設置されたビデオデッキは、かつて健一の父が喜び勇んで買ってきたものだった。嬉しそうにテレビと繋いでいた記憶がぼんやり残っている。そんな幼少の思い出に、どう見てもB級のアダルトビデオを挿入する息子。酷過ぎる状況に少し泣きたくなった。 「健ちゃん、準備できた?」 「あとは再生するだけですね」 「よーしよしよし、来たな、来ちゃったなこれ。うっひょー、楽しみだぜ本当。俺AV見たことないからなー」 勝手に一人でテンションを上げるシーナは、既に半ばテレビへかぶりつくような姿勢だった。 二度目なのにわくわくした表情を隠そうともしていない綾と、二人に挟まれた場所に健一も座る。慣れ親しんでいるからと、リモコンも健一の手に委ねられていた。 「……じゃあ行きますよ」 「おー!」 「はーい」 部屋の電気を消し、ビデオのチャンネルに合わせ再生ボタンを押す。 テープが動く独特の音と共に、決して大きくない画面にテロップが映り始める。ご丁寧にも「十八歳未満の鑑賞は禁じられております」なんて表示があったが、色々な意味で今更だった。勿論シーナは一切気にしていなかった。 「お、なかなか美人じゃん」 「ねえねえ健ちゃん、この人ちょっと蛍子ちゃんに似てない?」 「人の姉をAV女優にしないでください……」 「別にこの人が蛍子ちゃんだって言ってるわけじゃないよ。ただ、髪型とか鼻のラインとか、結構近いなあって」 指摘されてから見返すと、そんなに似ていなくてもそう思えてくる。となれば、セットで実際の情事が脳裏に浮かぶのも当然と言えた。 勃ち上がりかける下半身のアレを、健一は強靱な精神力で抑えた。密かに深呼吸。冷静に冷静に、と自分に言い聞かせる。 「何だ、健一のお姉さんってこんな感じの人なのか?」 「金髪でもう少しスタイルはいいかな。私と同い歳の美大生。すっごい美人だよ」 「……なあ健一、相談なんだが」 「紹介はしないからね」 「先っぽだけ、先っぽだけだから! な!」 シーナには天地が引っ繰り返っても会わせまい。 頭の悪い問答をしている最中も、展開は足早に進んでいく。別に要らないだろうと誰もが思う導入部は三分で終わり、家庭教師役の女性が、生徒役の男性のズボンを脱がしにかかった。 「本番で緊張しないように本番を経験させてあげる、って」 「AVって、ダジャレ入れなきゃいけない決まりでもあるのかな」 「前に見た時もこんな感じでしたね……」 「二人とも静かに。始まるぞ」 エロいことには真剣なシーナなので、声色にも若干の緊張と本気さがあった。思わず綾と一緒に姿勢を正してしまう。 女性の指先が男性の下半身に伸び、優しく触れる。まずは私が手解き、なんて切り出しと共に、いきなり口淫からスタートした。 「おおお……最初は口でするのか」 「普通はしないと思うんだけど」 「じゃあ普通は何から始めるんだよ」 「……手とか?」 「ふうん。でもま、口からってのもアリなんだよな。実際こうやってしてるんだし」 「いや、AVを真に受けるってのもどうなのかと」 「つーかよく見えねえ! モザイク掛け過ぎだろ!」 「そりゃ掛けなかったら見えちゃうし……」 「ちょっと掛かってるくらいだったらいいの! 見えそうで見えないのは俺的にはむしろグッド。でもこいつは駄目だろ、マジで」 「というか、男の見えて嬉しいの?」 「嬉しくはないが、これじゃ何やってるかわかんねえ」 「そこは想像しろってことなんじゃ」 「売り物としてどうなんだよ。これは借り物だけど」 「あ、責めが逆になったね」 「だからモザイク! 邪魔だよ!」 「シーナ君、さっきから声大きい」 「ごめんなさい」 生徒の方が家庭教師を床に組み敷き、色々と試すように身体をまさぐる。経験がない少年の初々しさを表現したかったのかもしれないが、手付きがやけに慣れていて台無しだった。教師も濡れるのが早い。予定調和の展開とはいえ、経験の多い健一としては、エロさよりもツッコミどころが目立って仕方なかった。 お互い昂ぶったところで、いよいよ挿入する。が、やはりモザイクの範囲が広く、局部付近はほとんど隠されていた。 「いくら何でも酷いだろこれ」 「AVってこういうものじゃないかなあ」 「だとしたら、俺のこの気持ちはどうしたらいいんだ」 「自分のでも見ればいいんじゃないかな」 「普段から見慣れてるもんで興奮はできないっすよ」 「じゃあ、健ちゃんに見せてもらうっていうのは」 どうでもよさげな綾の提案を、シーナはすげなく切り捨てる。 しかし、さらっと続いた言葉がいけなかった。 二人のやりとりを聞き流していた健一の右肩が、突然凄まじい力で掴まれる。 シーナの顔が間近に迫っていた。 唾を飲む音。据わった目。その視線がゆっくりと下へ移り、健一の股間を凝視する。呻きのような掠れ声が耳元で聞こえ、ぶわっと危機感が湧いてきた。 綾を見る。 滅茶苦茶いい笑顔をしていた。 「ね、健ちゃん」 「却下です」 「一応聞くだけ聞いてくれてもいいんじゃないかなあ」 「嫌です」 「シーナ君が喜ぶかもしれないし」 「喜ばせる義理もないです」 口論をしてる間にも、シーナの呼吸は荒くなる一方だった。 明らかに正気を失った瞳が健一を縛り付ける。 さらに綾も距離を詰め、ただでさえ挟まれていた形なのに、これで完全に逃げ場がなくなった。いくら健一が男で、目の前にいるのが女性(一名は精神的に男だが)であっても、二人掛かりで押さえつけられれば難しい。ましてや、理性を半ば捨て去った相手では。 「くらぁい部屋で、男と女が一緒にいる――これってもう、実演してくれって言ってるみたいなシチュエーションじゃない?」 「誰もそんなこと言ってません! ほら、シーナも落ち着いて! 正気に戻って!」 「いいねーいいねー。綾さんナイスアイディア」 「でしょ?」 「待って、綾さんも冷静になって! 実演ってつまりシーナに見られるってことですよ!?」 「うん、それはわかってるし恥ずかしいけど、ここは年上らしくシーナ君のために一肌脱ごうかなって」 「年上らしさを発揮すべきところは間違いなく今じゃないです!」 「大丈夫、健一はじっとしてればいいから……」 低く作られたシーナの声色に艶が混じる。 いよいよ綾の手指がズボンのホックに触れ、シーナには背後から抱きつかれるようにして動きを制限され、テレビの方ではお楽しみの真っ最中で矯声が響き、それら全てに囲まれた健一は、 「ぎゃあ――――――!」 渾身の叫びはしかし、誰にも届かなかった。 十三階の防音性は、健一を助けてくれなかった。 「なあ、健一」 「………………」 「ごめん。ホントごめん、悪かったって」 結論を言えば、最悪の事態は免れた。 あわや下着まで脱がされるというギリギリのラインで、健一がマジ泣きしかけた上、本気の抵抗で二人を振り払ったのだ。正気を失っていたとはいえ、人間関係崩壊の危機だった。 十割被害者の健一がどうにか大人の対応(二名を正座の後げんこつ+説教)を見せることでひとまず収まりはしたが、そう簡単に許しきれるはずもなく。 頭を冷やしに屋上へ出た健一の前で、シーナが平謝りしているというのが現状だった。奇しくも着替えを覗いた時と真逆の状況である。 ちなみに綾は、さすがにやり過ぎた自覚があったのか、1301で反省中だ。今は冴子が見てくれているだろうが、お互い落ち着いたらフォローしなきゃな、と思う。ある意味十三階の住人の中で、一番デリケートな精神をしているのが綾なのだから。 「……シーナがあんなことするなんて思わなかった」 「すまん。ちょっとどうかしてたよな、俺」 「ちょっと?」 「……だいぶ? かなり?」 「相当だったよ。身の危険を感じたし」 「ん、そうだよな。マジでどうかしてた。思い返すととんでもないことしかけてたわ」 重い吐息が、二人の間に漂う。 健一としては、あまりこの空気を引きずりたくはなかった。今日はなくとも、明日はまたライブなのだ。シーナとはいっぱい顔を合わせるし、綾ともそれは変わらない。ただでさえ狭いコミュニティ内で、嫌な雰囲気を周囲に振り撒くほど馬鹿らしいこともないだろう。 だから、確認のためにひとつ問う。 「ねえ……もう二度とあんなことはしないよね?」 間髪入れず、シーナなら頷くと思っていた。 が、即座の答えはなかった。 罪悪感と、悔しさ。 鬱屈としたものの入り混じった表情を浮かべて俯き、わからない、と呟く。 鸚鵡返しにその言葉を口にし、どうして、と言えば、自信がない、と続いた。セックスのことになると、自分を抑えられる自信がない。身を切るような声色だった。 「……俺、健一のこと、本当に親友だって思ってるよ。でも、わからないんだ。もうしないとか、大丈夫とか、そんな風に約束できない。そうしたらいつか、お前を裏切る気がする」 「シーナ……」 「教えてくれ。健一は、綾さんとセックスしたことあるんだろ?」 「……うん」 「付き合ってるわけじゃないんだよな」 「うん」 「でもさ、お前普段は誘われても断ってるよな。……何でなんだ? あんな美人でおっぱいでかくてエロい人なのに、どうしてしないでいられるんだ? それとも他にやってる相手が……いや、有馬冴子か?」 「有馬さんは、ちょっと違うよ。本人がいないところで言うつもりはないけど、色々事情があるから」 「じゃあどうしてなんだよ。どうして俺じゃ駄目なんだ」 ――それは。 初めて、剥き出しのまま投げつけられた、シーナの本音だ。 「セックス、したいんだ。好きな人とならいつだってしたいし、そうでない人でもしたい。毎日飢えてて、夢にも見る。でも、朝起きる度、自分にはできないって嫌でも思い知るんだよ」 「身体が、男じゃないから?」 「ああ。あるべきものがなくて、ないはずのものがある。俺の心が、そうじゃないってずっと言い続けてる。だけどこんななりだから、好きな子に告白だってできない。言っても、絶対伝わらないってわかってるから」 「それで、シーナ&バケッツを始めたの?」 「……お前が『女の子の前で歌えば』って言った時、俺にはこれしかないって思った。自分からじゃどうしようもないなら、向こうから好きになってもらうしかないだろ」 性同一性障害。ほとんどドラマの中でしか聞いたことのない単語を、健一は噛み締める。 精神と肉体にズレがある場合、それを埋めきることは実質不可能だ。どれだけホルモンバランスを崩したとしても、男女間最大の違い、性器だけはすげ替えようがない。 身体が男なら、局部の切除はできるだろう。が、それはあくまでないはずのものをなくすだけの処置だ。男の肉体に子宮は備わらない。逆もまた同じ。現代医術では、決して実現し得ない壁が性転換にはある。 そして、心が外れた人間を、世間はこう称するのだ。 “普通ではない”と。 「僕を襲おうとしたのは、自分にないものを知りたかったから?」 「……憧れるくらいは自由だろ」 「そっか。そうだよね」 持っていないから欲しがる。 欲しいから、得るためのことをする。 でなければ彼らは、ここにはいない。 それ自体は当たり前の話だ。 当たり前なのに、違うと言われる。 どうしてだろう。 何故、行く先には茨の道しか敷かれてないのだろう。 健一は、自身を苛む胸の痛みに泣きたくなった。 きっとシーナは、そんな気持ちをずっと抱えているのだ。 叶わないかもしれないと、望み薄だと言いながら、足掻いている。 窪塚日奈ではなく、シーナとして。 本当の自分はこうなんだと叫ぶように。 「シーナの好きな人、女の子なんだよね」 「そうだよ。普通に男の子が好きで、普通にアイドルとか追っかけちゃう女の子だ」 「身近な、よく知ってる人なんだよね」 「ああ。俺がこんな奴だってわかってて付き合ってくれる、健一みたいな変人じゃないよ」 だから、伝わらない。普通に付き合えない。 他の誰より、シーナ自身がそれを知っている。 窪塚佳奈。 シーナの、窪塚日奈の実の姉。 姉妹を隔てる三重の壁が、健一には見えた。 性別。血縁。常識。 そしてそこには、想いの繋がりさえない。 健一と蛍子が持っている、奇跡の欠片。 だからシーナにとっては、絶望の言葉だ。 「シーナ」 叶えてしまった自分に、その資格はないのかもしれない。 けれど、シーナ&バケッツの最初のライブが終わった後。 誓ったはずなのだ。知っていて、そうすると決めた。 身も心も一緒に裂けそうな苦しさを――本当の意味で理解できるのは、自分だけなのだから。 「前にも言ったけど、何度でも言うよ。僕はシーナのこと、応援する。例え相手が誰であっても、周りの全てが認めてくれない人でも。シーナが諦めない限り、僕はシーナの味方でいるから」 気付けば、頬を伝う熱があった。 胸が痛くて、切なくて、共感が心を激しく灼いていた。 「ばかやろう」と小さくこぼし、それから「ありがとう」とシーナは頷いた。今にも泣きそうな顔をしていた。 だから健一は笑う。 シーナも笑えるようになればいいと願う。 ――それはくしゃくしゃで、不格好で、情けない顔だったけど。 確かにその時、シーナは少しだけ救われたのだ。 back|index|next |