封筒の中には、何故か二万円も入っていた。
 幽霊マンションに戻るまで、行きでのタクシー料金を思い出す限り、一万円どころか五千円も必要かどうか。迷惑料と拘束料……なんて言っていたが、金銭感覚が小市民的な健一は正直引いた。
 とはいえ、仮にこれを返そうとしても、絶対エリは受け取らないだろう。そういうところは譲らないはずだと、短い関わりの中で健一は感じていた。
 駅までは微妙に遠い。さらに言えば、この辺りの地理もほとんど知らない。
 端から選択肢はなかった。
 溜め息を吐き、気後れしながらも大通りでタクシーを拾う。告げた行き先は大雑把だったが、どうやら当たりを引いたらしい。年配の運転手は「わかりました」と小さく頷き、迷いのない動きで走り始める。
 前の席から届くラジオの声を聞き流しつつ、健一は肩の力を抜いた。まだ若干気怠さは残るが、大したことではない。それよりも、さっきまでのエリとのやりとりが忘れられなかった。
 蛍子のこと。
 そして、シーナのこと。
 芽はある、と、他ならぬエリが言ったのだ。特にシーナは、彼女の保証まで出た。
 ――日本を代表する歌手にしてみせる。
 絵画の世界も、音楽の世界も、プロになるには狭き門と道を越えなければならない。健一にもわかる。そこは持つものと持たざるものを分ける境界線だ。
 仮になれたとしても、続けられるかは別問題。エリが語ったように、それだけでは生活できない人間も山ほどいる。
 けれど、シーナは違うだろう。
 才能があり、助勢も得られる。ただ望みさえすれば飛び立てるのだ。それはもう、ほとんど確信に近かった。
 今更ながらに、微かな実感が湧いてくる。

(……本当にすごい、ことなんだよな)

 元々シーナがストリートライブを始めたのは、意中の相手に振り向いてもらうためだ。有名になろうとするのも、練習に熱を入れるのも、目的を果たすための手段に過ぎない。
 動機としては不純だろう。なりたくてもプロになれない人間からすれば、馬鹿にしてるのかと憤るような姿勢かもしれない。けれど確かにシーナは真剣で、本気で戦っている。
 好きな人に、好きになってほしい。
 好きな歌を、より多くの人に聴いてほしい。
 そのふたつは、両立するはずなのだ。

「お客さん、この辺りでいいですか」
「……あ、はい、大丈夫です」

 考え事をしている間に、タクシーが停まっていた。
 幽霊マンションに程近い通り。封筒から出した一万円札で支払い、大量のお釣りを同じ封筒に納めて車から降りる。
 運転手は最後まで無口だったが、今日の健一にはその方が有り難かった。一度歩きながら深呼吸。少し気持ちを落ち着けて、シーナの元へと向かうことにする。
 十三階まで、階段でしか行けないのは不便だが、見方によっては思考に余裕が持てるとも言える。エリとの一件を頭の中で整理し、話の道筋をだいたい決めたところで、1301の玄関扉が近付いてきた。
 一息、大きく吸ってドアを開け、

「シーナ、いる?」
「絹川君?」

 リビングに顔を出すと、そこにシーナはいなかった。
 空のコップを前に座る冴子が、突然の登場に瞳を細める。健一の興奮とも緊張ともつかないテンションが気になったのか、何事だというようにじっと見つめてくる。

「ええと、シーナにちょっと用事があったんですけど」
「……さっきまでここにいたみたい。私が来る時、たぶん表の方ですれ違ったから」
「ということは、部屋に行ってるかもしれませんね。わかりました、あっち探してきます」

 しゅたっ、と手を挙げ、1301を後にする。微妙に肩透かしを食らった気分だったが、まあさすがに十三階のどこにもいないということはないだろう。二択のうちのもう片方、1305に足を運ぶ。
 この時、ぶっちゃけ健一は軽く浮かれていた。だから玄関に鍵が掛かっていないことに気付かなかったし、冴子がすれ違ったはずなのに「たぶん」と言った理由にも思い至らなかった。
 靴を脱ぐ。廊下を歩く。居間にはいない。
 ならもうひとつ奥の部屋かと、何も考えずにドアを開け、シーナと名前を呼び、用意していた言葉を発しかけ、そして健一は固まった。
 シーナは着替え中だった。
 蝶番と木の軋みに、横顔がギギギと健一の方に動く。
 丁度上を脱いだ下着一枚で左手が前を右手は後ろに回りどうやらサラシを巻いている最中らしくなるほどシーナが見た目男の子なのはそうしてるからかと納得してしかし何というかこうしてみると意外に胸大きいな背中もつるりとしてて白いしパンツは結構可愛いなんて

「ご、ごめんっ!!」

 全速力でドアを閉めた。閉めた勢いのまま木机にヘッドバッドをかました。がっつんがっつん繰り返しながら、これで忘れてしまえばいいのにと強く願った。勿論忘れるどころかしっかり瞼の裏に焼き付いて消える気配もなかった。
 ――健一にとって、シーナは友達だ。
 正体がどうであろうと、それは変わらない。
 けれど、シーナと窪塚日奈の間には、明確な区分があった。同一人物と知っていながらも、どこかで別の存在だと考えていたのだ。
 それはシーナ自身が、きっとそう見てほしかったから――そうであってほしいと思っていたからで。
 だから敢えて、お互い目を背けていた。
 頭ではわかっていても、不可分のものだと理解してはいても、心が認めるかどうかは、また違う話だろう。
 というか生々し過ぎる。
 色々な意味で死にたくなった。

「……さっきからうるさいぞ、この馬鹿野郎」

 額の痛みが鈍痛に変わってきた頃、背後からシーナの声が聞こえた。着替えは終わったらしく、隙間から覗いている半身はちゃんと服を着ている。ただ、若干顔が赤い。

「とりあえず入れ」
「……いいの?」
「いいよ。つーかさっさとしろ」

 刺々しい声色に、そりゃ怒るよなあと内心で溜め息を吐き、健一は立ち上がった。促されるまま、部屋の中に招かれる。
 室内は、隣がヤクザの事務所的な何かだとは思えないほど普通の内装だった。箪笥とベッド、クローゼット。写真立てが伏せられた勉強用机。
 些か素っ気ないが、女の子の部屋だ。
 最初の訪問時、健一に見せないようにした訳がわかるような気がした。これは、シーナのものではない。
 二面性の反映。
 窪塚日奈としての、パーソナルスペース。

「普通はノックくらいするだろ、本当」
「ごめん……」
「やっちまったもんはしょうがないけどな。随分まじまじ見てたよな。この変態。ド変態。超変態」
「変態って……でもそっちだって不用心というか結構胸大きへぶっ」
「殴るぞ」
「もう殴ってる!」
「これくらいで済ませてやってるんだから感謝しろよな」
「ああ、うん、ごめんなさい……」
「ったく……何か気抜けちまったぜ、本当」

 ついでのようにぺちんと額を叩かれ、思わず痛みでそこを押さえる。若干溜飲が下りたのか、シーナは無言で床を指差した。
 今日は逆らえない。指定された場所に座る。

「わかってるとは思うけど。何も言わなくていいから。全部忘れろ。思い出すな。話もするな。……いいな?」
「……はい」
「俺も忘れるよし忘れた。で、どうしたんだ?」

 まだこめかみ辺りがひくついているのは、見なかったことにした。全身から滲み出る追求すんなオーラに気圧されたともいう。
 ともあれ、本題だ。
 意識を切り替え、健一は口を開いた。

「今日、錦織さんって人に会ったんだ」
「聞いたことないけど、誰だそれ」
「綾さんのプロデューサー……なのかな。色々やってる人みたいなんだけどさ、どこかでシーナ&バケッツの噂を耳にしたらしくて」
「ほう」
「で、成り行きで僕がバケッツだってことも話したんだけど、その後『シーナは本物だと思う?』って訊かれたんだ」
「ふうん。健一はそれになんて答えたわけ?」
「勿論『思います』って答えたよ。そしたら、シーナにその気があるんだったら連絡してきてほしい。日本を……うん、日本を代表する歌手にしてみせる、って」

 最後の方は噛み締めるように。
 そう告げたはいいものの、シーナの反応は想像以上に淡白だった。ついでに言えば、正座でシーナを見上げたままの状況なのでいまいち決まらなかった。

「……あんまり嬉しくない?」
「つーより、実感ないな。お前はその錦織さんって人に会って話したからわかるんだろうけど、俺にとっちゃ全然知らない人だし。だからすごいことなのかどうかもさっぱりわからん」
「あー……確かに、そうだよなあ」

 これだけ大きな話だ、人伝に聞いても実感が湧かないのは、仕方のないことなのだろう。世界に名を馳せるアヤ・クワバタケのプロデューサー、なんて肩書きを持ち出しても、そもそも綾がどれだけ活躍しているか、シーナも健一も詳しくは知らないのだから。
 となればあとはどう言ったものか、唸り始めた健一に、ふっとシーナが手を差し出した。
 首を傾げながらも掴む。瞬間、肩から引っ張られ、半ば強制的に立ち上がらされる。

「もう正座はいい」
「え、うん、ありがとう……?」
「健一。俺はさ、何つーか、錦織さん? が俺を評価してくれたことより、お前が俺を“本物”だって、そんなすごい人の前で言ってくれたことの方が嬉しいよ」
「……当たり前じゃないか。本当に、シーナはすごいって思ってるんだから」

 二人で最初のライブをした時。
 こんなものがあるのか、と思った。
 ただそこにいて、歌うだけで人々を振り向かせる、星の引力のような声。健一はそこに、眩し過ぎるほどの光を見た。そばにいれば焼き尽くされそうになる、それは才能の輝きだ。決して誰しもが持ち得ない、圧倒的な熱。
 どう形容したって、十全には伝わらないだろう。
 あの日抱いた羨望を。誇らしさを。喜びを。

「……お前の勘違いじゃないのか?」
「ううん。違う。違うって言いきれるよ。シーナの歌声を聞いたみんな、ライブに来てくれたみんなが、絶対僕と同じように思ってる」

 太陽は、自分の光の強さを知らない。
 そしてシーナは、今まで一度も空に昇らなかったのだ。
 地平線の下で。
 輝く瞬間を、ずっと待っていた。

「ったく……恥ずかしいこと言うなよな」
「ごめん」
「でも健一、これだけは言っとく。俺が“本物”なんだとしたら、そうしてくれたのはお前なんだよ」

 繋いだ手が解かれ、シーナは指で頬を掻く。それから少し宙を彷徨い、指先が健一の胸を突いた。

「俺だけじゃ駄目だったんだ。お前がいて、あの時一緒にやるって頷いてくれたから――“シーナ”はみんなの前で、歌えたんだ」
「そう、なのかな」
「ああ。だって、俺達で『シーナ&バケッツ』なんだからさ」

 健一は、自分のハーモニカが上手いとは思っていない。歌の邪魔にならない程度の添え物。それ以上を望む気はなかったし、それでよかった。
 実際、プロになれるような腕前ではないだろう。もし光るものがあるのだとしても、広い場所に出ればすぐ埋もれてしまう。恒星めいたシーナの輝きと比べれば、酷くちっぽけな才能だ。
 けれどそんな自分でも、シーナの力になれたのなら。
 今ここにいて、隣に立っていることにも意味がある。

「……何か俺もすげえ恥ずかしいこと言ってるし。おい健一、こんな空気になったのもお前の所為だぞ」
「全部僕の方に投げるのもどうかと思うんだけど」
「今日は全面的にお前が悪い」
「えー……」

 しょぼくれるポーズを取って、互いに顔を見合わせ、どちらからともなく噴き出した。
 やっぱり、こういう感じなのが相応しい。
 同級生ではなく、男と女でもなく、絹川健一とシーナ。
 ボーカルとゴスペルハープ、異色の取り合わせなストリートミュージシャンコンビの、相棒。

「なあ」
「ん?」
「俺はさ、お前のこと、親友だって思ってるぜ」

 両者の笑い声が落ち着いた後、まだ羞恥の余韻を引きずりながらも、シーナは健一を真っ直ぐ捉えてそう言った。
 何の衒いもない、本音の声色だった。
 だから健一は、ありがとう、と頷く。
 シーナが“窪塚日奈”だろうと。身体が女だろうと。
 心はちゃんと、友情で繋がっている。

「俺も、シーナのこと、親友だって思ってる」
「そっか」
「うん」
「練習、行くぞ」
「了解」

 続く言葉を、けれど健一は口にしなかった。
 親友だって思ってる。
 ――どんなことに、なったとしても。










 夏期休暇が明けると、さすがに練習時間は減らさざるを得なくなった。クオリティを維持するため、若干ライブの回数も少なくなったが、活動自体を停止するわけではない。むしろ、ライブに掛ける熱は上がっていく一方だった。
 なのでまあ、

「ねえねえお二人さん、シーナ&バケッツって知ってる?」

 こういう状況も、考えられなくはなかった、のだが。
 九月頭、始業式から間もない平日朝、挨拶もそこそこに鍵原ツバメが言い放った名前を聞いて、健一は内心頭を抱えたくなった。
 その場にいたもう一人、千夜子は困惑した表情を浮かべていたので、耳にしたこともないのだろう。というかツバメのテンションが高い。どうしましょうとばかりに千夜子がこっちを見てきたが、健一も苦笑するしかなかった。
 いやだって。
 どう答えろと。

「えっと……昔、そんな名前のバンドがあったような気がするけど、それ……じゃないよね」
「違う違う。最近この辺、だいたい比良井駅前の公園で活動してるバンドなのよ。男の子二人で、シーナ君っていうボーカルの子と、バケッツ君っていうハーモニカの子がやってるの」
「ボーカルとハーモニカって、変わった組み合わせだね。普通ギターとかだと思うけど」
「確かに珍しいんだけどさ、これが意外というか、かなりいいのよ。シーナ君の声は何かこう、ちょっと上手く言い表せないすごさみたいなのがあって。バケッツ君のハーモニカも、聴いてると胸に染みるような感じで」
「……で、それを私と絹川君に話してどうするつもり?」
「そりゃ一緒に行きましょって誘いに決まってるじゃない」
「正直、興味ないんだけど……」
「あーら、なんて友達甲斐のない子なのかしら千夜子ってば。……絹川は千夜子みたいなこと言わないわよねえ?」

 すぐ横にいて、リアルに悶えなかったのを褒めてほしいところである。正体知らないとはいえ君付け、しかもシーナはともかくバケッツもベタ褒め。誰もいなかったら奇声を上げて走り出しかねない。
 極めつけに、自分が主催しているライブの誘いだ。
 辛うじて引きつりそうになる頬をニュートラルに戻し、健一は「無理」と簡潔に切り捨てた。

「ちょっと、何よ無理って!」
「いや、物理的に不可能というか……」
「別にアンタ門限とかないでしょ。それとも他にご大層な理由が?」
「大層ってわけでもないんだけど」
「ああもうはっきりしないわね! 行きたくないんならそう言いなさいよ。私は千夜子と一緒に行くから」
「ツバメ、私行くって言った覚えないんだけど」
「ほ、ほんとに友達甲斐のない子……! というか、私がこんなに薦めてるんだから、少しくらい乗ってくれてもいいじゃない。よくわからなくてもすごそうだし、一回くらいはいいかなー、とか思ってくれてもいいでしょ?」
「普通はよくわからないから行かないんじゃ……。お金とかは掛かるの?」
「プロじゃないんだし、ストリートライブだからタダよ。ま、おひねりくらい持っていっても罰は当たらないでしょうけど」
「時間は? 夜遅いんじゃないのかな」
「基本九時から一時間前後。そうじゃない時は前日にお知らせしたりするみたい。どうよ千夜子」
「うーん……ちょっと遅いかな……。絹川君は、その、行かないんですよね?」

 途中から完全に二人の会話にシフトしたので、そろりそろりと無関係を装おうとしていたのだが、千夜子に再度話を振られて引っ張り出される。
 縋るような視線を受けて、健一は観念した。
 こういう時、嘘を吐ききれない自分の性格が恨めしい。

「ええと、行かないってのとは少し違ってて」
「だから何なのよさっきから。はっきりしなさいって言ってるじゃない。これで大したことない理由だったらぶっ飛ばすからね」
「いや……実は、バケッツなんだよ」
「は? 誰が?」
「僕が」
「バケッツって、シーナ&バケッツの?」
「そう。バケツ被ってハーモニカ吹いてる方」
「……つまり、ライブに行けないのは、用事があるからとかじゃなくて、ライブやってる本人だから?」
「残念ながら分身はできないし」
「ああ……うん、そりゃ無理よね。なるほど、絹川がシーナ君の相方、バケッツと。はー、ほー、ふーん」

 どうやら衝撃の事実過ぎたらしく、色々と咀嚼しきれないツバメは水飲み鳥のようにカクカク頷いていた。
 千夜子も驚きこそしていたが、実物を目にしたツバメほどではなかった。絶賛混乱中のツバメをしばらく見つめ、

「あの……どうして絹川君がそんなことを?」
「夏休みにシーナと会って、何だかんだあって一緒にライブしよっか、って話になって。で、まあ、一ヶ月ちょいやって今に至るというか」

 我ながら酷い説明だ。
 しかし、細かい事情を伝えるわけにもいかない。特にシーナの正体やライブをしている理由に関しては、他言厳禁である。
 一応納得してくれたのか、千夜子がそうなんですか、と呟いた直後、横合いから物凄い速度で両手が伸びてきた。
 がっしと肩を掴まれる。
 言うまでもなくツバメだった。しかも目が血走っていた。

「し、シーナに会わせて!」
「………………ツバメ?」

 周囲の人間が、ツバメの声で一斉に振り向く。
 二秒の静寂。恐ろしく冷え込んだ千夜子のひとことに、びくりと震えてツバメが手を離した。普段温厚な同級生の怒りを垣間見たクラスメイトが、そっと視線を三人から外す。幸いというべきか、叫びに近いツバメの発言内容について、突っ込みに来る者はいなかった。

「ツバメ、シーナ&バケッツって、この辺じゃ結構有名なんだよね?」
「う、うん。私も友達から聞いたんだけど、最近口コミですごい広まってるみたいで」
「そういう状況で絹川君がメンバーだって知られたら、色々困ったことになるのは想像できるよね?」
「……あっ」

 全然気付いてなかったなこいつ。
 絶対零度の眼差しが千夜子からツバメに注がれた。目に見えて萎れていく姿を前に、健一は戦慄する。
 そもそも、そこまで名が知れているとは思わなかったのだ。最終目的を考えれば歓迎できることなのだが、言われてみれば、確かにそういう弊害もある。
 顔を隠している健一でもこれなのだから、シーナはもっとまずいだろう。ある意味、ここで気付いてよかったのかもしれない。

「ごめん、絹川。ちょっと考えなしだった」
「いや、別にいいよ。バケッツが……その、僕だってことを言い回ったりしなければ」
「わかった。約束する」

 時折どうしてこの二人は一緒にいるんだろうと疑問に感じたりするのだが、決して千夜子が振り回されてばかりではないらしい。暴走しがちのツバメに対し、要所要所でしっかりブレーキ役を果たしているわけだ。
 そう人知れず健一が感心していると、さっきまで殊勝な様子だったツバメに再び両肩を押さえつけられた。

「だから、シーナ君に私と会ってくれるよう話してください」
「待った鍵原近い顔近い肩痛い」

 声こそ潜められているものの、明らかに真剣で怖い。
 恋多き女の異名を持つツバメだ、これはシーナを次のターゲットにしたということなのだろうか。
 だとしたら困る。非常に困る。
 どう転んでも面倒なことになる気しかしない。

「……一応言っとくけど、鍵原みたいなのがシーナのタイプかどうかはわからないから」
「か、彼氏になってほしいなんていきなりそんな大それたこと言うつもりはないわよ!」
「いきなり?」

 冷静な千夜子の横槍に、一瞬言葉を詰まらせるツバメ。
 タイプどころか既に好きな人がいることは、勿論ここで教えられるはずもなかった。

「ただ、いちファンとしてお近付きになれたらなって思っただけ」
「……そういうことなら、シーナに話しておくよ」
「ホントに!? 絶対だからね!?」
「会うかどうかはシーナ次第だからね」
「そこを何とかするのが……あ、いや、何でもないです」

 また調子に乗りかけたところで、千夜子が無言の槍を刺す。一転大人しくなったツバメに嘆息し、どこか諦めたような顔で千夜子は口を開いた。

「ツバメだけだと心配ですし、私も行きますね」
「……お願いします」
「はい、お願いされました。……それに、絹川君のハーモニカも聴いてみたいので」
「あはは……ミスらないように頑張ります」

 小さな期待を受けて、気持ちを引き締める。
 そして、この後シーナにツバメの件をどう説明しようと、頭を悩ませることになるのだった。










 しっかり告知をするようになってから、観客の人数は日々増え続けている。百まではまだいかないが、そろそろ届くのではないか。目算で、シーナと健一はそう見ていた。
 男女比はおおよそ2:8。
 調べるまでもなく、大半がシーナのファンである。
 曲が終わる度に飛び交う黄色い声は、テレビのアイドルに向けるものにも近い。ライブ自体の終了後はなるべく早く帰っているのだが、もし残ろうものなら、あっという間に囲まれてしまうだろう。いやでもボディタッチとか合法的にできるんじゃ、と鼻の下を伸ばすシーナを引っ張っていくのが、ほとんどお決まりの流れだった。
 しかしまあ、今日はそういうわけにもいかない。
 観客を解散させ、会場にしている場所から歩いて五分足らず。健一にとっては馴染み深い『時の番人』前で、ツバメと千夜子、二人と待ち合わせていた。

「お、健一。あの二人だよな」
「うん。大海さーん、鍵原ー」

 姿が確認できたところで呼んでみると、視線が集中する。千夜子は柔らかく笑っていたが、ツバメの目が明らかにいつもと違っていた。具体的にはこう、何かキラキラしていた。どう見ても健一が眼中にない。

「お疲れ様ですっ。今日もすっごく格好良かったですっ!」
「……ど、どうも」

 両手の指を胸前で合わせて絡め、ずずいっと歩み寄るツバメ。思わずたじろぐシーナに構わず、さらにアピールがてら押していく。

「いちファンとしてお近付きに……?」
「……あれ、かなり本気かもしれません」
「大海さんもそう思いますか」
「はい。私、あんな感じのツバメは何度も見てきてますし」
「……危なくなったら止めましょう」

 千夜子と一緒に半目で眺める中、作ったきゃぴきゃぴ感五割増しのツバメが握手を要求し、若干引きながらも女性には優しいシーナがそれに応える。
 ライブの時にも聞いたような、黄色い声。
 周囲に人気はないからよかったものの、悲鳴か何かと勘違いされたらどうしよう、と一瞬健一は焦った。

「私、しばらくこの手は洗いませんっ!」
「いや、洗った方がいいよマジで」
「つ、次は腕を組んでも……?」
「待った。鍵原、さすがに調子乗り過ぎ」
「うん……私もちょっと駄目だと思う」
「だってこんなチャンス、二度とないかもしれないのよ!?」

 何故そこで逆ギレる。
 いよいよ健一と千夜子の視線が氷点下に近付いてきたところで、若干素の出たシーナが気を取り直し、自然な動きでツバメの肩に手を置く。

「まあまあ健一、ファンの要求に応えるのもパフォーマーの勤めってやつだぜ。可愛い女の子と腕を組めるなら悪くないしな」
「ありがとうございます! シーナさんって格好良いだけじゃなくて、すごく優しいんですね!」
「それほどでもないぜ、本当」
「じゃあ失礼して……きゃ――――っ!」
「シーナ……」
「もう、ツバメ……」

 はぁ、と揃って嘆息。これはもう、落ち着くまで放っておくしかないだろう。僅かな変化なので健一しか察せられなかったが、微妙にシーナも鼻の下を伸ばしていた。たぶん腕を組んだ時に胸でも当たったんじゃなかろうか。

「その、なんだかツバメが迷惑掛けててすみません」
「話しておくなんて言っちゃったのはこっちですし、おあいこですよ。というか、シーナもシーナなんで……」
「あはは……」
「……どうせそろそろ解散ですから、途中まで送りましょっか?」

 ぶっちゃけさっさと置いて帰りたいために出てきた提案だったのだが、それを聞いた千夜子がびくんと跳ねた。
 未だにきゃいきゃいはしゃいでいるツバメを横目で見て、両手をもじもじさせ、俯き、意を決したように顔を上げる。

「ぜ、ぜひっ! 夜道は怖いですし!」
「わかりました。……一応、二人に声は掛けときましょう」
「はいっ」

 そういうわけで、絶好調のツバメとシーナに千夜子を送る旨を告げ、今日はその場で解散となった。シーナ(正確には日奈)にも門限はあるらしいので、おそらくすぐに二人も別れるだろう。一度幽霊マンションに戻る以上、送り狼になる心配もない。
 となれば、問題は――千夜子との、帰り道だった。










 ……どうしようどうしようどうしよう。
 勢いで誘いに乗ってしまったものの、正直何も考えてなかった。申し訳程度に家までのルートを教え、電灯が並ぶ夜の道路を、二人並んでとぼとぼ歩く。
 肩と肩の距離はおよそ一歩分。
 千夜子と健一の関係性そのままだ。
 友達、とは言えるかもしれない。けれど、そこから先、踏み越えたいラインまでは遠く、だからこの距離も詰められない。
 中途半端で、もどかしい。
 勿論、それを口にできるような勇気はなかった。
 しかも、

(話題が思いつかない……)

 健一が自分から話したがるタイプならよかったのだが、学校で見ている限り、割と静かでも平気な性格だ。事実、公園を出てからここまで一度も会話はない。お互い相手の一声を待っているようで、謎の緊迫感があった。
 考えが揺れてぐるぐるして、気持ちが浮いてふわふわしている。
 視線がないのを確認し、指先をそっと伸ばそうとしてみるも、不安と緊張に負けてすぐ引っ込める。
 結局上手いやり方も見つからず、くたりと落ちた指が持ち上がることはなくなった。
 ……こういう時は、深呼吸して落ち着こう。
 胸に手を当て、深く息を吸う。横目で何事かと健一が首を傾げたが、結構混乱している千夜子は気付かなかった。
 吐いて、再び吸い、よしっ、と覚悟完了。
 まずは無難なところからだ。

「そういえば、私、今日の感想とか言ってませんでしたよね」
「ああ……別にそんな気にしなくてもいいですよ。来てくれたってだけでも有り難いですから」
「いえ、折角聴いた後にこうして話せる機会があるんですし。……とはいっても、実はちょっとああいうのは苦手かなって思いました」
「苦手ですか。人が多いのとか駄目なんですかね?」
「それは平気なんですけど……シーナさんの歌、本当にすごかったです。ただ、凄過ぎるのが苦手というか」

 適切な言い回しがなかなか浮かばず、しばらく千夜子は唸った。非常に感覚的な話なので、どう形容したものかわからない。
 じっと次の言葉を待ってくれている健一に、心中でごめんなさいと謝りながら続ける。

「お客さんもみんな盛り上がってて、こう、エネルギーがある感じ、でしょうか。でもそのエネルギーが強いと、何だか圧倒されて、煽られて、自分が別人になっちゃいそうな気がして」
「僕もそれはわかる気がします。シーナと出会わなかったら、間違いなくこんなことしてなかったと思いますし」
「だから、って言っちゃうとついでみたいに聞こえるかもしれませんけど、絹川君のハーモニカ、私は好きですよ。シーナさんほどのエネルギーはないですけど、圧倒するんじゃなくて、包み込んでくれるみたいで。優しくて、誰でもそういうものを持ってるんだよって言ってるような……懐かしい音だと思います」

 そこまで伝え、健一が急に足を止めて黙ってしまったので、遠慮がなさ過ぎたかな、と千夜子は反省した。
 どうにかフォローしようと振り向いてさらに唇を開きかけたが、歩みを再開した健一にずいっと近寄られ、頭の中でまとめた台詞が行方不明になってしまった。

「……そんなこと、初めて言われました。そっか、僕のハーモニカって、そういう風に聞こえてるんですね」
「あっ、わ、私の個人的な感想ですからっ」
「別に責めてるとかじゃないですよ。なんていうか、シーナの歌は本当にすごくて……僕は一緒にやって、多少は役に立ててるって思ってますけど。ただ、僕じゃなくてもいいのかな、なんて気持ちもあったので」
「そんなことないです! きっとシーナさんも、絹川君だから一緒にやろうって思ったんですよっ」
「ありがとうございます。そこまで褒められると、さすがにちょっと恥ずかしいですけど」
「……す、すみません」

 薄く微笑まれ、千夜子は羞恥で俯いた。
 穴があったら入りたい。なくても掘って入りたい。
 勢い任せでだいぶ色々喋ってしまった。今更だけど変な子だって思われてないだろうか。
 またぐるぐるし始めた千夜子の百面相に、健一は我慢しきれず噴き出した。笑われたことを知り、形だけでも怒る千夜子。最終的には二人で小さく笑みをこぼし、気付けば半歩分の距離が縮んでいた。
 もしかしたら。
 今なら、訊けるかもしれない。

「あの、絹川君」

 絹川君って、付き合ってる人、いるんでしょうか――。
 そう問いかけようとした直前。
 健一が立ち止まり、分かれ道の一方を指差す。

「大海さんはこっちでしたよね」
「は、はい。ここからはもうすぐです」
「僕はこっちなので……途中までですみませんけど」
「あ……わかりました。送ってくれて、ありがとうございます」
「それじゃ、気を付けて。おやすみなさい」
「おやすみなさい」

 遠ざかっていく背中を、呼び止める気にはなれなかった。
 本当に言いたかったことだけが、夜空に溶けていく。
 ああ、けれど。
 その時千夜子は、ほっとしてしまったのだ。

 あるいは、ここで真実を聞き出せたなら。
 未来は大きく、変わったのかもしれなかった。
 それを知る由は、今は誰にもない。



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何かあったらどーぞ。