夏祭りから数日後の昼下がり。
 土日を挟んで再開したシーナ&バケッツの活動に従い、日中の練習もますます熱を入れることになったのだが、今日はたまたまシーナに用事があった。
 次に覚える曲の楽譜を借り、一人でやってはみたものの、夏の暑さも相まってなかなか頭に入らない。そういうわけで、気分転換に散歩(という名のコンビニ往復)をした帰りの、幽霊マンション一階でのことである。
 その時健一は、日奈について考えていた。
 元々シーナ&バケッツとしてライブを始めたのは、シーナを応援するためだ。彼女に想い人がいて、けれど気持ちを伝えられないでいる。健一が聞いているのはそれだけだが、相手が誰なのかは、ほとんど確信めいた予想がある。
 問題は、そうなった経緯や事情をまるで知らないということだ。
 シーナと話しはしても、日奈とはほぼ接点がない。
 同一人物でありながら、二人は健一の中で全く別の人間だった。故に、日奈の事情をシーナには訊けない。おそらく進んでは答えてくれないだろう、と思っている。少なくとも、日奈にとってもシーナは『自分じゃない自分』なのだから。

「いつか話してくれるのかなあ……」

 正直、その辺は怪しいところだ。
 あるいはシーナにちゃんとした考えがあって、ライブを続けていれば解決に近付くのかもしれないが、じゃあシーナがそこまで思慮深いのかと言われると、うん、困る。
 悩ましい状況に頭を捻りつつも止めていた足を動かしかけた瞬間、不意にエレベーターの扉が開いた。自分達以外の人の出入りは珍しいので思わず目を向ける。

「あら。あなた、もしかしてここに住んでる人?」
「え、あ、まあ、だいたいそんなようなものですけど」

 中から出てきた人物は、開口一番健一の素性を訊いてきた。女性だ。はっきり言って、かなりの美人だった。
 健一には及ばないものの、グレーのスーツとタイトスカートが非常に映えるスタイルに長身。視力が悪いのか眼鏡をしている。些か古ぼけた電灯の所為で薄暗くはあったが、日本人には有り得ないナチュラルブロンドの髪と碧眼はこの場でかなり浮いていた。輪郭というか面立ちが微妙に外国人らしくなく、ハーフなのかもしれないと当たりを付ける。
 一挙一動が、やけに堂々としている。健一の周りにはいないタイプ。立ち居振る舞いだけでも、当人の持つ不思議な自信が滲み出ているようだった。

「じゃあ、ここに十三階ってあるか知ってるかしら」
「……ないですね」
「そうよね。ないわよねえ。ここは十二階建てだものねえ」

 全く以ってその通りで、間違いではない。
 十三階は本来、存在しない場所だ。
 鍵の持ち主以外は行けない空間なのだから、住人以外にはないと答えるしかない……のだが。

「あの、十三階に何か用でもあるんですか?」
「十三階というより、そこに住んでるらしい人になんだけどね。んー……やっぱり指定先はここで合ってるはずなのよね。運び出しの時は上手く行ってたからって、ちゃんと確認しなかったのがよくなかったわ」

 健一の問いに曖昧な返事をしながら、眼前の女性は携帯を軽く操作し、首を傾げる。
 行けないはずの十三階を彼女が知っているのは、住人の誰かに教わったからだろう。そこまでは推測できる。
 誰か。
 何となく、健一にはそれも察しがついていた。

「ま、仕方ないか。会うためにやってきたわけじゃないし、今日は退散するとしましょう」
「ええと、電話で連絡を取ればいいのでは」
「残念ながら、向こうからは繋がるけどこっちからだと駄目なのよねー。必ず電源切ってるか電波が届かないのよ」
「……不思議なこともあるものですね」
「そういうわけで、急に呼び止めちゃってごめんなさいね。私は帰るから」

 ひらひらと手を振り、健一の横を通り過ぎる。
 よく背筋が伸びた、颯爽とした姿だった。一瞬だけ見蕩れ、迷い、

「あの、会いに来たのって、もしかして綾さん……ですか?」

 呼び止めるように声を掛けて、彼女が振り返った。
 僅かに目を見開き、それからじっと健一を注視する。

「えっと……桑畑綾さん、で合ってます?」
「ん、そうよ。でも、どうしてわかったのかしら――あ、いや待って。自分で考えるから」

 視線の圧力に負けてもう少し細かく突っ込んでみると、彼女は頷き、質問してから大袈裟に手をかざし、健一に背を向けた。
 何というか。
 綾さんの知り合いらしく、変な人かもしれない。

「ふむ……あなたが健ちゃん?」
「はあ、まあ、そうですけど」
「やっぱり! よし、いい感じに頭が冴えてきたわ」
「でもどうして僕のことを……?」
「隠す必要もないから答えるわね。私は錦織エリ。あの子から聞いてるかもしれないけど、桑畑綾のプロデュースをしてる者よ」

 そう言いながら慣れた手付きでポケットから名刺入れを取り出し、一枚を抜き取って健一に渡してくる。
 状況に流されるまま受け取り、健一は内心驚いていた。コミュニケーション能力がかなり絶望的に足りない綾の作品を、世間に提示し、時に売り捌く人の存在は知っていたが、こんなに若い女性とは思わなかったのだ。もっとやり手そうな、妙齢の人間をイメージしていた。
 ある意味、健一の想像は半分当たっていたとも言える。
 世界さえ相手取る彼女が、只者でないのは確かだろう。

「ど、どうも」
「ふふ、その様子だと、聞いてたのは名前だけって感じ?」
「名前どころか、名字だけでしたよ」
「なるほど。ま、綾らしいわ」

 くすくす笑う彼女――エリは、数秒して不意に顔を上げた。何か大事なことに気付いたかのように、小さく目を見開き、口元に手を添える。

「ああ……そっか、そういうこと。すっかり失念してたわ。道理で。十三階だものねえ」
「失念してたって……どうしたんですか?」
「ううん、こっちの話。ちょっとね、自分の察しの悪さに軽く呆れてたとこ。で、健ちゃん、一時間ほど余裕ある?」
「一応ないわけじゃないですけど」
「じゃあ決まりね。私に付き合ってほしいの」

 凄まじく会話の流れが早い人だった。
 一人で納得して、どんどん先に進んでしまう。いまいち理解しきれていない健一の手首を掴み、エリは幽霊マンションの外、大通りへと向かい始める。
 説明解説一切なし。
 清々しいまでにマイペースだ。

「ちょっ、どこに行くんです!? 綾さんに会いに来たんじゃなかったんですか!?」
「私、無駄なことはしない主義なのよ。元々急ぎじゃなかったし、今はそれより大事な用件ができたから」

 偶然だろうが、まるで彼女を待っていたかのように通りがかったタクシーを呼び止め、健一を後部座席に押し込んでエリもその隣に入った。
 健一に渡したものと同じ名詞を運転手に見せ、

「ここまでお願い」

 示した行き先へと、タクシーが走り出す。
 ここに至り、健一は色々と諦め、そして悟った。
 ――確かにこの人は、綾さんと付き合える人だ。










 エリのオフィスは、一ヶ谷のど真ん中に建っていた。
 彼女曰く、丁度山手線のどの駅にも同じくらいの時間で行けるから、とのことらしいが、おいそれと車に乗れない学生的には何とも微妙な立地である。
 しかし、外観からして普通に大きい。ビル丸ごと、なんて規模ではないものの、かなり広めの土地を使った三階建て。内装はオフィスというより美術館めいていて、一階から三階までは吹き抜けだ。外壁を這うような階段を上っていると、壁に展示された複数の作品が目に入る。
 綾ではない。
 健一の知らない名前がほとんどだった。

「なんていうか……立派なオフィスですね」
「内装のことなら、はったりみたいなものよ。こういう仕事してると、見栄張ってなきゃ同業者に舐められるのよね」
「にしても、どれも高そうな感じですけど」
「展示してるのはだいたい借り物。綾以外にも結構いろんな人のプロデュースをしてて、こういう人を担当してますよってサンプル代わりに格安で飾らせてもらってるわけ」
「ああ、そういうことですか」

 あまりきょろきょろするのもよくないかなと思いつつ、周囲を見回して健一は微妙な違和感を持て余していた。
 こんな雰囲気を、知っている気がする。
 けれどそれが何と同じなのか、記憶を辿ってみるも掴めない。
 そんな様子に先行していたエリが気付き、振り返る。

「どうしたの?」
「いえ、その――」
「あ、ごめん、ちょっと待って。やっぱり自分で考えるから」

 またか、とまではさすがに言わなかった。
 代わりに訝しむ色が表情に出てしまっていたが、エリは全く意に介さず、健一に翳した制止の手をゆっくり下ろす。
 どうやら“これ”は、彼女の癖らしい。
 他人の思考を推測すること。
 見方を変えれば、相手の気持ちになること、だろうか。

「そうね……ここに来たことがあったかなって思った?」
「……かなり近いですね」
「ふむ。なら、ここに来たことがあるような気がする、ってところかしら」
「だいたいそんな感じです」
「へえ……。結構いい観察眼持ってるわ。このオフィス、同じ人が作ったものなのよ」
「同じ人?」
「有馬第三ビルとここは、デザイナーが一緒なの。私も今日あそこには初めて行ったんだけど、有馬さんってなかなか素敵なセンスの持ち主よね」
「質問ばっかりで申し訳ないですけど、有馬さんってあのビルのオーナーですか?」
「ええ。有馬十三さんね。第三って名前でわかるかもしれないけど、あの辺にいくつもビルを持ってる資産家で、何度か一緒に仕事をしたこともあるわ。お金持ちなのに嫌味がなくて、お歳は結構召してるけど素敵なおじさんって感じ」
「フルネームとか、今初めて知りました」
「まあ、普段は仕事で忙しいでしょうし、ビルに出入りしてるだけじゃ早々会うこともないんじゃない? 住んでる人でも、オーナーなんて知らない人はいるもの」

 有馬という名字は、決してありふれているわけではない。
 その人はきっと、冴子の父親だ。
 エリの口から人となりを聞いても、健一はそれを素直に受け取れなかった。同情とは違う。ただ、彼女に関わる人間として、思うところがある。
 冴子は家族の話をほとんどしない。
 自分のことをセックス依存症だと言い、複数の男性と肌を重ねては、おそらく相手の家で一夜を過ごしていたのだろう。今、十三階の住人として落ち着くまでの生活を鑑みれば、実家に寄りつかなかったことも想像できる。
 何らかの確執があるのだ。
 自分と同じように。
 それは十三階に行き着く、ひとつの条件なのかもしれなかった。

「ちなみにここのデザインしたのは私の兄なんだけど……っと、難しい顔してるわね。気になることでもあった?」
「あ……えっと、そういえば」
「待った」
「それも自分で考える、ですか?」

 健一の拙い先読みに少しだけ楽しげに驚いてみせてから、エリは一瞬宙へ視線を漂わせた。
 そうね、と前置きし、

「外にあったオブジェは綾の作品じゃないかって思ってた?」
「正解です。よくわかりますね」
「よしっ。波長が合ってきたみたいね」
「波長?」
「そう、波長。その人の考え方とか、物の見方とかって言えばいい?」
「言いたいことは何となくわかりますけど……でも、そんな簡単に読めたりするものなんですか?」
「さすがに誰でもってわけにはいかないわね。君の場合は、親しくしてた人にかなり似てるんで、そこから類推というか」
「……親しくしてた人」
「どんな人だろう、って思った?」
「まあ、はい」
「元彼じゃないわね。こう、形容するのは難しいんだけど……強いて言うなら、綾と健ちゃんみたいな関係」
「……さっぱりわからないです」
「あら。残念」

 ちっとも残念そうには聞こえない声色でエリが笑みを漏らすと、丁度階段が途切れた。短い廊下の先、一番奥の扉の前で立ち止まる。
 そこが彼女の仕事部屋なのだろう。オフィス自体がエリのものだから、社長室と称してもいいのかもしれない。

「さ、どうぞ……と、その前に、すっかり忘れてたわ。君の名前、ちゃんと聞いてなかったわね」
「随分今更ですね……。絹川健一です」
「なるほど、それで“健ちゃん”か。さすがにその歳でちゃん付けは男の子的にNGかなと思ってたのよ。ということで、何か呼び方の希望とかある?」
「特には。錦織さんが呼びやすければそれで」
「じゃあこれからは健一くんって呼ばせてもらうわね」

 本当に今更なやりとりだったが、エリに気にするような様子はなかった。適当に座っててと促され、健一は応接用らしきソファに腰を下ろす。そうして一息吐くと、室内を窺う余裕も出てくる。
 外と違い、ここの内装は堅実だ。向かい合わせに設置されたソファもだが、ワークデスクだろう木目調の机と、簡素ながら如何にも高級そうな上着掛け。専門書の類や雑誌が整然と並べられた本棚。物らしい物はそれくらいしかない。奥には南向け(昼の時間に陽射しが入っている)のガラス戸があり、今はブラインドで光量が抑えられている。
 何というか、仕事をするためだけの場所、という感じだ。
 荷物をデスクの横に置いたエリは、自然な動作で健一の正面に座った。両手を胸の前で組み、眼鏡越しに健一をしばし見つめる。そして、

「さて、健一くん。あなたをここに呼んだ理由だけど」
「……はい」
「学校辞めて、私の元で働く気はない?」
「………………はい?」

 ようやくかと身構えたところの、強烈な不意打ちだった。
 完全に予想外の方向から飛んできた提案に、思わず間抜けな声が出てしまった。

「正確には、私っていうより綾の元で、ね」
「いや、ちょ、ちょっ、ちょっと待ってください」
「何?」
「どう言えばいいのか……とにかく、いきなり過ぎます」
「そう?」
「だって僕、まだ高校生ですよ? 大学生じゃなくて」
「別に学歴なんて気にしなくてもいいじゃない。中退したところで、一生の仕事に就いてれば問題ないでしょ」
「仮にそうだとしても、辞めるってのは話が飛び過ぎというか」
「でも仕事してたら学校行く時間はないんじゃない?」
「それもそうですけど!」

 本当に会話のペースを崩さない人である。
 間違ったことは言っていない。言っていないのだが、相手の理解をまるで待たない話の運び方は、やはり綾とは別種の無茶苦茶さを感じる。

「まあ、学校を辞める辞めないはひとまず置いとくとして、内容の話ね。私があなたに頼みたいのは、綾の世話なのよ」
「綾さんの世話……ですか」
「ある程度あの子と付き合ってるならわかってると思うんだけど、癖が強いでしょ。才能はあるんだけど……いや、あるからこその弊害なのかしらね。あの子とそもそも付き合える人間は、すごく少ないの。で、そこに君が現れた」
「……はあ」
「綾自身も健一くんに懐いてるみたいだし、聞いてる限り、あなたって人の世話を焼くのはあんまり苦に感じないみたいじゃない」
「んー……そうなんですかね」
「綾と付き合えてるだけでも相当なものよ?」

 考えてみれば、綾には知り合いらしき知り合いが皆無だ。十三階の人間に絞っても、積極的に彼女に関わっているのは健一以外いない。冴子やシーナは隔意がないし、刻也も別段綾を嫌っているわけではないが、一線を引いているのも確かだ。
 家族――母親でさえ、匙を投げてしまったのだという。
 だからかもしれない。綾は、必要以上に他人に寄りかからない。ふわふわしていながら、人に対して臆病なところがある。
 それはエリも承知のことなのだろう。
 だからこそ、彼女は健一を欲している。

「ああ、お給料の話をしてなかったわね。そうね……とりあえずで、年収一千万。できれば五年契約で計五千万。もし何かしらの理由で綾があなたをクビにしても、勿論それまでの分は払うわ」
「えっ」

 予想外なんてものじゃなかった。
 有り得ない好待遇だ。おそらくこれから健一がどんなに努力し、成績を上げ、世間一般に一流と言われる職に就いても、間違いなくここまでの条件は出されない。
 というか怖い。
 提示された金額がとんでもなさ過ぎて、少し目眩がしてきた。

「……ちょっと先走り過ぎたかしら。そんなに要らないってことなら、長期で分割して払って……月五十、は多いか。四十の年四百程度に抑えて、経費は全部こっち持ち。融通もかなり利かせる。こんな感じでどう?」
「いやどうって言われても、色々展開が早過ぎて付いていけないというか。まだドッキリの類だって考えた方がしっくり来ます」
「まさか。本気も本気、真剣よ」
「だとしたら余計にわからないです。なんで僕なんかにそんな大金を出そうと思えるんですか? 別に取り柄なんてないですよ?」
「さっきも言った通り、綾の世話をできるのがあなたくらいしかいないから。私は綾のためなら、そのくらい出してもむしろお釣りが来ると思ってる」

 真顔で断言するエリを前に、ようやく健一は理解した。
 つまり、綾にはそれだけの“価値”がある。一千万単位の埒外な数字を「そのくらい」と言ってしまえるほどの額を、事実として稼げるのだ。
 無論それはエリの手腕あってのことだろう。金にも人にも、ともすれば自分にも無頓着な綾に、交渉ができるとは思えない。
 しかし、戦慄する一方で、健一は小さな反感を覚えてもいた。

「僕は芸術には全然詳しくないですけど……でも、すぐお金に結びつけるのはよくないんじゃないかって思います」
「まあそうね。私も同感」
「え? ……あの、錦織さんは、綾さんの作品を物凄い大金で売ってるんですよね。なのに、それがよくない?」
「一般論で考えてみれば、大抵の人はそういう答えに辿り着くでしょ? 実際、芸術とお金は本来結びつけられるべきじゃない。だって、お金は物事の基準だもの。才能を数字で測られるようなものよ」
「才能を、数字で?」
「そう。芸術作品って、ほとんどの人にとっては“よくわからないもの”なの。見る人によって評価も感想も違う。そんなあやふやなもの、数値化しようとする方がおかしいわ」
「……言われてみれば」
「でも、実際問題お金は大事。芸術家だって人間だもの。生活するにも、ものを作るにも、お金は絶対必要になる。勿論私も同じ。だから、みっともないくらい必死になって、こうやって稼いでるのよね」

 親に養われる子供はともかく、自立した人間には、己の生活基盤がなければ生きていけない。慈善事業だけでは当たり前のように行き詰まる。世の中の仕組みが“そう”である以上、逃れられるものではない。
 けれど、そこまで大金でなければいけないのか?
 もう少し慎ましくあるべきではないのか?
 まだ怪訝さが抜けないそんな健一の顔から、エリは静かに感情を汲み取った。
 初めに苦笑を。
 そして、

「私が綾を利用してるって思うなら、それも正解。これは綾がいなければ成り立たない商売だもの。ただ、ひとつ信じてほしいのは、決して自分の懐を膨らませるためにやってるんじゃないのよ。現代芸術は本当にお金にならない。下手な仕事よりよっぽど格差の酷い、一部の人間しか食べていけない業界なの」
「それは何となくわかります」
「ま、ほとんどの人は健一くんと同じ考えでしょうね。元々芸術は狭い世界だし、金持ちの道楽っていう考えも間違いじゃない。でも、今は金持ちでさえ、現代芸術にはお金を出そうとしないのよ。業界自体が廃れてるから、才能も集まってこない。集まっても環境が悪ければ続かない」
「………………」
「だから私は、綾を利用して現代芸術そのものの価値を釣り上げてる。そうすれば他の、埋もれている人間の立場も相対的に上がっていくし、賑わっていけば当然人が集まってくる。そのために、綾のプロデュースみたいな派手なことをしてるけど、十年はまず芽が出ない、お金にならないようなことにも投資してるわ」

 淡々と続くエリの話に、健一は返す言葉を持たない。
 伊達や酔狂ではないだろう。大金を動かすためには、それだけで凄まじい胆力と労力が必要になる。仮に同じか、あるいはそれ以上の儲けを得られるとして、健一に同等のことができるかと言われれば、まず無理だ。

「そんな感じだから、業界では金の亡者なんて呼ばれてるのよね。稼ぎだけ見れば正にその通りなんだけど、それでいいのよ。私の役目は、芸術家のためにお金を稼いで、舞台を整えること。それを果たすには、綾が必要不可欠なの」
「……綾さんが、すごいから、ですか」
「ええ。あの子はトップランナー、もしかしたら歴史に名を残すほどの逸材。どんな芸術に疎い人間にも“凄まじさ”をわからせる、天才中の天才よ。綾の作品にならお金なんて惜しくないって人はいっぱいいる。そういう相手が増えれば、相対的に他の芸術家も評価されるようになる。より多くの人達が、作品のことだけ考えて生きていけるの。業界にとっての夢物語を、私は綾の向こうに見てるわ」

 ――有り体に言えば。
 健一は、圧倒されていた。
 夢を語る時、人間が輝くというのなら、エリは小さな恒星のようですらあった。壮大で、壮絶で、けれどそれは間違いなく、手の届く位置に存在するものだった。少なくとも健一にはそういう風に聞こえたのだ。
 掴みどころのない何かが、急激に形を成したように思えた。
 健一の前に提示された、想定もしなかった選択肢。
 明確な夢や“やりたいこと”なんてなかったし、それは今もよくわからない。現在だって問題は山積みだ。ホタルとのこと、シーナとのこと、冴子とのこと。そして、綾とのこと。
 それでも、エリの提案は、未来を決める大きな指針だ。
 莫大な金額や、顔も知らない人々の希望はともかく。
 綾が、そこにはいる。

「で、どう? 綾の元で働く気になった?」
「えっと……とりあえず、保留でお願いします」
「あら。これはきっぱり断られるんじゃないかなって思ってたんだけど、ちょっと意外ね」
「まあ、その、簡単に決められる話じゃないですし。色々思うところもあるんで、よければ結論を先延ばしにしたいな、と」
「構わないわよ。ま、できたら高校卒業する前に答えを聞かせてちょうだい。進学するにしろ、別のところに就職するにしろ、そこで考えてはくれるでしょうしね」
「はい」

 頷きながらも、健一の中には予感があった。おそらく、もっと早くに決断を迫られる。
 幽霊マンション、有馬第三ビルの幻の十三階。
 そこに住むみんなと、懐かしいあの部屋と、遠からず別れる時が訪れるだろう。
 何もかもが、ずっとあのままではいられない。
 どこか歪んでいる、おかしな自分達も、いずれは大人にならなければいけないのだから。

「そういえば健一くん。ちょっとまた別件なんだけど」
「あ、はい、何でしょ?」
「君の名字は絹に縦三本の川で“絹川”よね?」
「ですね」
「住所はあの辺? あと、高校は比良井?」
「はい、そうです」
「じゃあ、絹川蛍子さんって健一くんのお姉さんかしら」
「その通りですけど……知ってるんですか?」
「目ぼしい子はなるべくチェックするようにしてるのよ。まだ大学生だし、絵で食べていくつもりがあるかはわからないけど、気になってる一人かな」
「なるほど。世間って狭いですねえ」
「見つけたのは偶然なんだけどね。綾の母校でたまたまって感じだったし。でもその弟さんと綾が知り合いってところには、なかなか面白い縁を感じるわね」

 偶然も重なれば必然になる。
 出会うべくして出会ったのかもしれないと、そう健一は思った。
 ……思うついでに、訊いておきたいこともある。

「あの、錦織さん」
「エリでいいわよ。私も健一くんって名前で呼んでるし」
「さすがに年上の人を名前で呼ぶのは……色々厳しいというか」
「そ。まあ別に強制はしないから」
「はあ……で、その、ホタル……姉は、才能あるんですか?」

 非常に勇気の要る問いかけだった。
 漠然としたイメージだが、プロとアマチュアの間には越え難い壁が聳え立っているというのは健一にもわかる。
 殊に、芸術は両者の境目が曖昧なものだ。
 素人では判別がつけられない。しかし、多くの作品を見てきた彼女になら、希望の有無程度は教えてくれるのではないか。
 そんな期待からの、若干縋るような声色に、エリは一瞬笑みを浮かべ、

「君はお姉さんの絵、どう思う?」
「上手いとか、才能があるかとかは正直よくわかりませんけど……何というか、あったかい感じがします。本人の前じゃ言えないですけど、ホタルの絵は好きですよ」
「家族の贔屓目でなく?」
「贔屓なんかしたら怒られますね」
「そう。ふふ、君もなかなかいい目をしてるわ。あったかい感じ、というのは私も同感。若い分まだまだ未熟で、荒削りなところはあるけど、やりようによってはいい線行きそうかな。うん、そういう意味では才能がある、って言えるわね」
「……そうですか。よかった」
「姉弟仲は良さそうね」
「どうなんでしょう。今は悪くはない、かもしれないです」

 きっと少し前なら、素直に嬉しくはならなかっただろう。
 歪な関係だという自覚はあるが、そうなったからこそ、健一と蛍子は通じ合った。なら、あの時の決意も、過ちも、間違いだけではなかったはずだ。
 沸き上がる喜びを抑えるように、細く息を吐く。肩の力が抜けた健一に再び微笑を見せ、すっとエリは立ち上がった。
 話はこれで終わりかと健一も腰を浮かせたが、どうやら違うらしい。ちょっと見てほしいものがあるんだけど、と案内されたのは、部屋の奥、丁度健一の背後にあった扉の方だ。
 手際良く鍵を開け、エリが中へ入る。後ろに続き、内装を目にして首を傾げる。
 きっちり整えられたベッド。クローゼットと箪笥に化粧台。どう考えてもプライベートルームだった。さっきの部屋とは対照的な、生活の香りさえする空間。オフィスから壁一枚隔てた場所に自室を用意する辺り、時間面での効率さを求めたことが窺える。
 思わず一歩進んで室内を見回してしまい、申し訳なくなって振り返ると、エリはそっと扉を閉めていた。
 ぱたん。がちゃり。
 ……後ろ手で鍵を掛けていたのは、気の所為だろうか。
 緩やかにエリの口端が広がる。さっきとは違う、厭らしい笑い方だ。まるで周到に獲物を追い詰めた狩人のような視線が、健一を射抜く。
 じり、と一歩。引いた先にはベッドがある。
 自分が籠の鳥になったことに、ようやく健一は気付いた。

「……一応訊きますけど、どうして鍵を?」
「しばらく出るつもりはないし、邪魔されたくないもの」
「ちょっとずつ近付いてきてるのは」
「そうしないとできないでしょ?」

 ベッドの脚に踵が当たる。これ以上は下がれない。
 膝の力が抜け、すとんと腰が落ちた。軋むスプリングの音と尻越しの感覚で、柔らかいんだな、と場違いな感想を抱く。

「綾から聞いたわよ。初めてなのに五回もしたって」
「……本人から? 全部?」
「ええ。すごかったって、それはもう嬉しそうに」

 距離が縮む。ほとんどゼロになる。
 僅かに開いた健一の膝と膝の間に、エリが身体を滑り込ませる。肩に置かれた手の握力は想像よりも強く、スーツ姿の彼女からは淡い香水の匂いがした。

「ちなみに私、マーシャルアーツを習ってるから、君くらいなら暴れても押さえられるわ」

 耳元で囁かれ、上半身を倒された。
 部屋の明かりを背にして、エリに見下ろされる。
 チェックメイト。
 これはもう、どうやったって逃げられない。

「――折角なんだし、楽しみましょ?」

 だから、まあ。
 仕方がないと、健一は諦めたのだ。










 一度開き直れば、あとの話は早かった。
 溜め息と共に身を委ねると、頷いたエリが健一の肩から両手を離した。スーツのボタンを外し、続けてネクタイ、シャツも脱いでいく。下着一枚になっても止まらず、恥ずかしがる様子を全く見せずにブラジャーも床へと落とした。
 格闘技を習っているということは、それなりに体を鍛えているのだろう。割れた腹筋とまではいかないものの、細過ぎず肉付きも良過ぎず、均整の取れた体格だ。胸は綾より小さいが、女性としては大きい部類に入る。
 触れたい欲求を密かに飲み込む。健一の内情に気付いてか気付かずか、エリは「脱がせるわよー」と軽い調子でズボンを下ろし始めた。無言の催促に、健一は上半身を起こし、少しだけ腰を浮かせる。膝辺りまで脱がされ、当然のように下着にも指を掛けられた。
 自分で脱ぐより、他人に脱がされる方が圧倒的に恥ずかしい。
 下半身が外気に晒され、股間にエリの視線が注がれる。
 思わず局部を両手で隠したくなったが、勿論エリがそれを許さない。女性らしい細い指が、程良い力加減で幹に絡み付く。

「若いわねえ……。熱くて、血走ってる」
「あの、あんまりじろじろ見られるとさすがに……」
「おっと、ごめんなさい。ちょっと久しぶりだったからついね。さて、健一くんはどうしてほしい?」
「先に握っといて、どうしてほしいもないと思うんですけど」
「相手の意見を聞くのは大事なことよ? 従うかはともかく。で、どうしてほしい?」

 睦言ではなく、薄氷の上を歩くようなやりとり。
 からかいの色が強いエリの言葉に、健一は返答をしなかった。それこそを答えと見なし、エリが唇を綻ばせる。
 優しく握ったまま、手指がペニスをしごき出す。雁首を刺激しながら、空いた片手は根元を辿り、玉の部分を淡く転がす。
 痛みにも似た気持ち良さと、形容し難い感覚の板挟みに健一は呻きを漏らした。声に反応し、指遣いが変わる。焦らすように、快感の水域をゆっくりと上げていく。
 先走りの汁が出たところで、エリは顔を健一の股間に寄せた。すん、と鼻を鳴らし、

「濃い雄の匂いね。ふふ、素敵よ」

 躊躇わず口を付ける。
 柔らかな唇が亀頭を圧迫したかと思えば、ぬるりと伸びてきた舌先が尿道を責めてくる。その間も幹を擦る両手は止まらない。
 上目遣いの瞳が、そうしながらも健一を観察し続けている。
 一際感じるところを探られると、刺激がそこに集中してきた。絶え間ないエリの奉仕に、熱がせり上がってくる。しかし、あと少しというタイミングで唇は離れ、指の輪が裏筋から尿道のラインを締め付ける。
 射精感を無理矢理押さえられるのは、得も言われぬ気持ち悪さがあった。出るべきものが出ない。吐き出されかけた熱はゆるゆると引っ込み、後には微かな絶頂の残滓が滲む。
 ……足りない。
 強制的に抑制された、健一の飢えにも似た獣欲を、エリは見逃さなかった。指を離し、腹から胸を這うようにして、その豊かな双丘を密着させてくる。

「次は君の番」

 耳元での囁きに、抗う意思はもうなかった。
 導かれた右手のひらが、左胸に触れる。開いた五指を沈み込ませると、甘やかな声が響いた。
 許可を取る必要もない。緩急を付けながら責める傍らで、左手がタイトスカートのホックを探り当てる。
 普通少しは迷いそうなものだが、健一の手際は絶妙だった。するりと解き、脱がす。その慣れた様子に、思わずエリは小さな驚きの表情を見せた。

「もしかして、経験したのは綾だけじゃない?」
「ご想像にお任せします」

 下着の縁に指を掛けると、エリが尻を浮かせた。
 力の流れに従い、くるくる丸まるようにして、薄く湿ったショーツが膝まで落ちる。
 茂みと割れ目は濡れていた。が、挿入には早い。そう踏んだ健一は、自然な動作でエリを組み敷いた。
 はっとするほど鮮やかな手並みだった。
 考えていたよりもずっと“巧い”健一に、内面でエリは密かな上方修正をする。最初は年上らしく手解きをするくらいの気持ちでいたのだが――これは、必要ないだろう。
 男にしては細く、しかし長い指が陰裂に沈んだ。しっかり爪を切ってあるのか、敏感な粘膜に刺さるような痛みはない。ただ、クリトリスを探り当てるまでが一瞬だった。

(この子……ちゃんと知ってる)

 女性の、身体について。
 知識だけではない。経験に基づく速度だ。
 個人差はあれど、女性のそれは男性の局部よりも外圧に弱い。初めは淡く、電気めいた痺れがエリに走った。
 抑え切れない矯声を上げつつも、その目は健一の瞳から離れなかった。見て、感じて、ひとつになろうとする。
 負けじとエリも上半身を起こして健一に寄りかかり、胸元に舌を這わせた。緩やかに唾液の道を作り、鎖骨から首筋へ。首筋から顎へ。少しざらつく感触を覚えながら、口端をつつき、合図の直後、唇を合わせる。
 割るつもりで舌先のノック。
 返答はすぐだった。
 ねっとりと絡む熱は、互いの思考を溶かしていく。
 エリの秘裂からはもう、充分なほど愛液が染み出していた。勿論健一も、とうに準備はできている。

「行きます」
「どうぞ」

 素っ気ない応答は、余裕のなさの表れでもあった。
 両者の唇に掛かった、粘つく糸の橋が切れるより早く、亀頭が濡れた入口に当たる。エリが腰を押し付けるようにして催促し、健一は即座に応えた。
 一息。
 瞬きの間ほどで、深く重く杭が突き込まれた。
 荒いが、痛くない。呼吸を忘れる勢いに、エリの意識は一秒に満たない時間飛びかけた。当然、その隙を健一は逃さない。

「は、ぁんっ!」

 腰を引く動作もそこそこに、さらに奥へと肉棒を突き入れながら、エリの弱い箇所を探る。
 半ば流されて肌を重ねているとはいえ、一度始めてしまったことだ。意趣返しのつもりはない。が、どうせなら、ちょっとくらい見返したいと思ったのだ。
 膣内は程良くこなれていて、締め付けもそこまで強くない。しかしその分うねりがあり、エリの腰の動きも相まって、快感は相当なものだった。
 冴子とはまた別の意味で巧い。優位に立っているつもりなのに、気を抜けばすぐ射精してしまいそうだ。
 結合部で雫が弾ける。
 ぱちゅっ、ぱちゅっ、とリズム良く抽挿を繰り返しながら、再び組み敷いたエリの胸にしゃぶりつく。舌で乳首を転がし、強く吸い、微かな痕を付けてもう片方へ。
 強烈な二点責めに、びくんと細身が跳ねた。

「あぁ、もう、激し……っ」
「エリさんの言う通り、僕、若いですから……はむっ」
「歯型は、なるべく、付けないでね、っ!」

 珠の汗が肌に浮き、うっすら湿った髪が額や首に張り付いている。香水に混ざる女の匂いは、健一の劣情を駆り立てた。
 まだ余裕がありそうなその表情を崩したい。
 貫いて刻み込んで獣のように鳴かせたい。
 そんな本能に理性が近付くほど、逆に意識は研ぎ澄まされていく。ここにいて、ここにいない感覚。血と熱が下半身に集まると、いつも健一はそういうものになる。
 だから、

「ふあっ! あ、あっ、や、つよ!」

 見つけた。
 弱いところを察知して、そこを重点的に責め上げる。
 膣壁をごりごりと削るくらいのつもりで、剛直が幾度もねじ込まれる。
 終わりまではもう間もない。
 ラストスパートとばかりに抽挿を加速させた。室内には断続的な喘ぎと水音が響き、やがて互いが頂上に辿り着く。

「あ、だめ、イク、イクわっ!」
「僕も、限界です……!」
「いいわよ、っ、出して、今日、安全日だから!」

 非常に作意的な情報開示に、眉を潜めたのも一瞬。
 元々一度は抑えられて、我慢するのも辛かったのだ。溜まりに溜まった欲求を、深く刺したまま健一は吐き出した。
 心臓から下へ、血が送り込まれているのがわかる。全身を伝わる鼓動と共に、濃い白濁がエリの奥へと注がれる。
 二秒か三秒、長く続いた射精が治まった時、健一はエリに折り重なって、呼吸を整えていた。
 柔らかな胸と自分の胸板を合わせ、汗に濡れた金の髪の横に顔を伏せる。少しして首を捻ると、キスの距離で視線が重なった。
 どちらともなく、名残惜しむように口付ける。

「聞いた以上ね……はあぁ、素晴らしかったわ」
「あまり褒められても嬉しくないですけど」
「エッチが巧いのは、女としてはとても大事よ。恋愛してたら、絶対いつか肉体関係を持つことになるんだから」
「……そういうものなんですかね」
「ええ。そうでなくても、巧くて悪いことじゃないし。……あら」

 さり気なく健一の股間をまさぐっていたエリの手が、肉茎をがしっと掴んだ。
 若人らしく、もう太く堅い。

「第二ラウンド、行きましょうか」
「ええと……はい」

 まあ。
 一回も二回も三回も、始めてしまえば大差ないだろう。
 つまり、そういうことである。










 もっと経ったかと思っていたが、時計を見る限り、経過したのは一時間程度らしい。
 疲労感もそこそこに、健一はぐったりベッドに突っ伏していた。
 泣きたい。

「泣いてもいいのよ?」
「……泣きません」

 シャワーを浴び終え、乾きかけの髪も梳いたらしいエリが、健一の横に座る音が聞こえた。
 ベッドの軋みと重量推移を感じ、ゆるゆる頭を上げる。
 いくら追い詰められたとはいえ、最終的に流されたのは自分の方だ。ここで彼女に責任転嫁をするのは、さすがにちょっと違うんじゃなかろうか。

「別に君は悪くないんだけどねえ。だって正直言えば、ここに連れてきたこと自体が今の状況に持ってくためだったんだし」
「え?」
「仕事の話をするだけなら、喫茶店とかでもいいわけでしょ? まあ、実際私がどのくらいの規模でやってるのか、提示した通りのお給料や環境を用意できるか、形として見せたかったってのもあるけど」
「……普通はそれしかないって思いますよね」
「そう? 私は綾に健一くんのことを聞いた時から、いつかこうしようって考えてたわよ。話してるうちに興味がなくなるかも――とも思ってたけど、そうはならなかったわね。幸いなことに」

 言って、悪戯が成功したかのような笑みを見せるエリ。
 悪戯と表するには過激だが、健一をハメたという点では大差ない。二重の意味で。
 やったことはぶっちゃけほとんど逆レイプである。もっとも、同意の上でしたのなら、それは和姦と呼ぶべきなのかもしれないが。

「その……アレの途中で、今日は安全日だって言ってたのも、絶対確信犯ですよね」
「ええ、勿論。それも込みで久々に燃えたわぁ。下じゃみんな真面目に仕事してるだろうに、そんな中私ったら若い子連れ込んで何してるのかしら――なんて。いやー、見事に悪女だわ。ふふ」
「うわあ……じゃなくて、わかってるなら何でこんなことを?」
「わかってるからに決まってるじゃない。状況によるけど、背徳感と罪悪感は快楽のスパイスよ?」

 覚えがないわけではない、どころか割と現在進行形で味わい続けている健一には、それは否定できなかった。
 でも、だからこそ苦しくもある。
 俯いた健一を見て、エリは表情を引き締めた。

「私が全部悪いって言うのに、それでも君は悩むのね」
「性分、なんでしょうかね」
「重荷だけど美徳よ。私もね、昔……健一くんと同じくらいの頃は結構苦労してた。こんなナリと性格だしね。周りからはずっと浮いてて、どうにか溶け込もう、みんなに馴染もうって頑張ったんだけど、なかなか上手くいかなくて。そういうのは何もかも、自分の所為なんだって感じてた」
「……ちょっと意外です」
「正直なのも美徳だけど、過ぎるのは問題よ?」
「あはは、すみません……。でも僕、わかる気もするんです。本当はもっと上手くできたんじゃないか、いい方法があったんじゃないか、って」
「そうね。そういうのも、あったのかもしれない。けど、私は駄目だったわ。人と合わせようとしてもズレてばっかり、終いには関係もギスギスしちゃって、もしかして自分は人に嫌われるために生まれてきたんじゃないかって思うようになったのよ」
「その後はどうなったんですか?」
「どうにも。結局行き着いて、やっぱりそうだったんだって確信したわ」
「……人に嫌われるために生まれてきたことが?」

 それは。
 生きるには、あまりに辛くないだろうか。

「人によっては耐えられないかもしれないわね。でも、それで開き直って、確かに楽になれたのよ。どうしたって嫌われるなら、逆に何をしても変わらないってことだもの。なら他人に合わせる必要なんて、最初っからないじゃない?」
「何というか、滅茶苦茶豪快ですね」
「今考えても力業よねえ。ま、それで敵はいっぱい作っちゃったけど、味方も少しはできたわけ。だから、この生き方でいいんだって思った。ありのままの私でも好きになってくれる人がいるなら、そういう人を幸せにしていきたいって」
「この仕事は、じゃあ“そういう人”のためのものなんですね」
「ええ。だからまあ、つまり私は自分勝手な人間ってことで。巻き込んだ側が言っちゃうのも何だけど、被害者の君には諦めてほしいかな」

 ふと健一は、綾の言葉を思い出した。
 姉を襲いかけて、十三階に逃げてきた時。
 ――気持ち良くなるのを否定するのなら、きっと社会とか世間の方が間違ってる。その中で生きるために、私達は上手く折り合いをつけていかなきゃならないんだろうけど、それでいいことと悪いことは変わらないよ。
 やらないのではない。できないことが、人間にはある。
 折り合いをつけられない境界線が存在するのだ。
 それは例え、誰を相手にしたところで譲れない。変えられない。
 自分自身の、根本であるが故に。

「君が、どうしても自分を許せないっていうのなら」
「……はい」
「私も“そういうもの”だって思うことにするわ。こっちは君が被害者だって言ってるんだから、総合すれば責任は等価でしょ? 君が許せない分、私も自分を許さないでおく」
「えっと……それはどういう意味なんでしょう」
「いつか、今日の罪滅ぼしをする。あなたが本当に困って、どうしようもなくなった時――きっと、他の誰かを助けたいって願うような時だと思うけど。そうなったら、私は自分の全てをなげうってでも、君の力になる」
「いえ、そんな、そこまでしてもらうようなことは……」
「悪いけど、君の気持ちは関係ないわよ。これは私の心の問題。私が自分で決めた私でいるための、誓いみたいなものだから」

 同じ理屈、平行線だ。
 彼女は本気だった。爛々と輝く碧の瞳に、焼き尽くされそうなほどの熱量が秘められている。
 間違いなく、いずれ来る時にエリは手を伸ばすだろう。
 ただ、己を通すために。
 人と人は繋がれる。あの日綾と出会い、その縁がめぐりめぐってエリへと辿り着いた。
 お願いします、だなんて言えるはずもない。
 ありがとう、とも口にはしなかった。

「わかりました」
「あ、ごめん、一個だけ例外設定してもいいかしら」

 綺麗に決めたつもりが綺麗に透かされた。
 健一の表情が途端にげんにょりしていくのも構わず、わざとらしくお茶目な感じの微笑を見せて、エリは続ける。

「綾のためにならないことに関しては、その限りじゃないってことで」
「……それは、僕が綾さんを困らせるかもしれないからってことですか?」
「いえいえ。単純に、私が一番大事に思ってるのは綾だってだけ」
「ああ、まあ、はい。わかりました」

 二度目の首肯から力が抜けたのは、まだシャワーを浴びてない所為――というわけでもなさそうだった。



 男の風呂は、早ければ十分も掛からない。
 健一もさして綺麗好きではないので、烏の行水にならない程度で上がり、髪は軽くドライヤーを借りて乾かすに留めた。何か洗面台にも色々高級そうなあれこれがあったが、触らぬが吉である。
 部屋に戻ると、エリはすっかり身支度を整え、今すぐ仕事を始められるような姿になっていた。先ほど肌を重ねていたのが嘘にも思える。心身共に切り替えの早い人だ。

「そういえば健一くん、比良井周辺で、最近話題になってること、知らない?」
「話題になってること……ってざっくり過ぎません?」
「うちで働いてる女の子が『これは注目かもしれませんよ!』って話してたんだけど」
「さすがにそれだけじゃ何とも」
「ええと、確か……そう、シーナ&バケッツ。聞いたことない?」

 びくりと肩が跳ねてしまったのは、もう不可抗力だろう。
 まさかエリの口からその名前が出てくるとは思わなかった。

「あら、やっぱり知ってるの?」
「知ってる以前に、僕がバケッツ、なんですけど」
「……へえ。ふうん。そう。つくづく面白い子ね」

 三回頷き、嬉しそうに呟いてエリは目を細めた。
 声にも視線にも凄みがあるのでちょっと怖い。

「それって、僕のこと……ですよねえ」
「当たり前でしょ。というか、綾のお気に入りで、絹川蛍子の弟で、しかもシーナ&バケッツの片割れ。面白くないわけないじゃない」
「面白いかどうかで見られるのも何だかなあって感じなんですが」
「他人と付き合うには大事な要素よ。うん、やっぱりあなたと一緒に仕事をしたいわ。高校卒業でも、大学出てからでもいい。就職した後でもいい。私のことを覚えてて、もしやる気になったら、いつでも連絡してちょうだい」
「は、はあ」
「その時綾の世話を頼むかどうかはわからないけど、あなたには私の好きなタイプの人を引き寄せる何かがあるみたいだから。そばにいてくれると嬉しいわね」

 さっと手を差し出され、一拍遅れて握手のためだと気付く。
 まだ釈然としないところがあったが、しかも着替えはベッドの上に置かれているのでトランクスに腰巻きタオル一枚という酷い格好でもあったが、跳ね除けるつもりもない。苦笑しながら握り返した。

「自分じゃそんな大層な人間だとは思ってませんけど」
「それは私には判断つきかねるわ。そもそもまだ会って半日も経ってないんだし。あ、でもエッチについては自信持っていいわよ」
「その自信は持ちたくないです。あと着替えたいです」
「おっと、ごめんなさい。話に付き合わせちゃったわね」

 解放され、いそいそと服を着る。
 裸を見せることについては、今更だろう。
 インナーシャツを頭に通し、ズボンに両足を通したところで、不意にエリが背中越しに問いかけてきた。

「健一くん。君と一緒にやってるシーナは“本物”だと思う?」

 彼女から訊かれるとは想像もしていなかったので、一瞬言葉を失ったが、健一の答えは決まっていた。
 一切、迷うこともない。

「思います」
「即答ね。じゃあ信じるわ。シーナくんがその気になったら、私に連絡してきて。音楽は専門外だけど伝はあるから、責任持って相応しい人間に紹介してあげる」
「シーナをプロデビューさせる……ってことですか?」
「日本を代表する歌手にしてみせるわ」

 あっけらかんと言ってのける。
 エリの恐ろしくすごいところは、こうして正面で話している健一にさえ、実現可能だと思わせることだろう。
 総毛立った。心臓からぶるりと震えた。
 シーナは、なれるのだ。
 プロに。
 世界の輝きを一身に背負い得る、歌手に。

「さて、君も着替え終わったみたいだし、今日はこんなものでいいかな。はい、これは帰りのタクシー代ね。お釣りは拘束料と迷惑料ってことで、遠慮なく取ってっていいから」
「ええと……ど、どうも」
「また近いうちに会えるといいわね。それじゃ」
「はい。お世話になりました」

 ぱたん、と閉まった扉の向こうで。
 思いっきり「おせ、お世話になりましたって……!」と噴き出したエリの笑い声を、健一は聞かなかったことにした。



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何かあったらどーぞ。