「夏祭り?」 「そ。土日にあるらしいぜ」 ずるずると豪快に、言ってしまえば行儀悪く麺を啜りながら、健一の鸚鵡返しにシーナは頷いた。 シーナ&バケッツの活動が軌道に乗り始め、今日も屋上で合わせの練習をしてきたばかりのことだ。1301に戻り、冴子が作ってくれた野菜たっぷりの焼きそばを食べている最中の唐突な話題に、どうしていきなり、と健一は首を傾げる。 何せ最近のシーナは時間があれば練習をしたがるのだ。ライブの場所も、駅よりいくらか人通りの少ない公園に移り、そこでほぼ毎日実施している。固定の観客も増えてきた。しかも九割方女性なので、健一はともかくシーナのやる気は右肩上がりだった。 にもかかわらず、他でもないシーナがその夏祭りに行くのだという。仮に健一が同じ話を持ち出したら「折角いい感じなのに水差すなよな、本当」とか言いそうなものなのに。 そう考えて、もしかしたら、と気付いた。 「ちなみに、誰と行くんです?」 「……佳奈ちゃん」 「……ああ」 疑問が一発で氷解した。 なるほどそれは断れないだろう。ストリートライブの件は秘密にするしかないのだから、それを理由にシーナの事情を優先させるのは難しい。 皿に残り気味の野菜を丁寧に摘まみつつ、健一は「いいんじゃないかな」と呟いた。 「あんまり毎日やってると、それこそ佳奈さんに怪しまれそうですしね。ちょっと一息吐くくらいの気持ちで」 「本音を言えば、今のテンションで極力続けたいんだけどなあ。ま、行くからには楽しんでくるぜ」 三割ほどあった焼きそばを一気に掻き込んで頬張り、いそいそとシーナが食器を片付ける。少し遅れて健一も箸を置くと、斜め向かいでさっきからうつ伏せになっていた綾がこちらをじーっと見つめていた。 立ち上がり、流し場に食器を浸けに行けば、視線も背中を追ってくる。隣に座っていた冴子が何も言わずに麦茶のお代わりを注ぎ、健一は礼を告げて再び同じ椅子に腰を下ろす。 「健ちゃん」 「何です?」 「夏祭りがあるんだって」 「……それはさっきシーナから聞きましたけど」 「私、健ちゃんと一緒に行きたいな。健ちゃんは土日に予定あるの?」 「ありましたけど、つい先ほどなくなりました」 「じゃあ私と行けるよね。どう?」 「いや、どうって言われましても……綾さん、そもそも祭りの会場なんてまともに回れるんですか?」 「うーん、どうだろう。一人だったらたぶん駄目かな」 不安しかない返答だった。 普段こことコンビニくらいしか行き来しない綾には、何かしらの対象に興味を持つと、所構わずスケッチしてしまう癖がある。本当に時と場所を選ばない上、一度始めると描き終わるまで止まらないので、もし一人で行かせれば、日が変わっても帰ってこられないかもしれない。 暗くなればいくらか治まるとはいえ、祭りの場は明るいものだ。人の行き交う道中で座り込んでスケッチを始めたりしたら、当然ながら迷惑だろう。 「でもほら、健ちゃんがいてくれるなら大丈夫だと思う」 にこにこ。 顔だけを上げて返事を待つ綾に、健一は苦笑するしかなかった。 何というか、世話の焼ける人である。 「土日のどっちかだけなら」 「じゃあ土曜かな。近い方がいいし」 「わかりました。土曜の夜ですね」 羨ましさと恨めしさが半々なシーナの視線は無視して、約束。 後で蛍子に予定が入ったことを伝える必要は出てきたが、きちんと説明すればわかってくれるはずだ。そう自分に言い聞かせ、冴子を見やる。 「私は平気だから。二人で行ってきて」 「冴ちゃんと一緒でも私はいいよ?」 「すみません、その……ああいうところは苦手なんです。気持ちだけ受け取っておきます」 「……折角ですし、何かお土産買ってきましょうか?」 「ん、……それなら、ベビーカステラ、お願い」 「了解です。一番おいしい店のを探してきますね」 「おい健一お前羨ましいなちくしょー! 俺も綾さんと腕組んで歩きたい! おっぱい押しつけられてみたい!」 「私は健ちゃんとじゃなきゃ嫌かな」 「健一ィ!」 「そっちだって佳奈さんと出かけるでしょ」 「それはそれ、これはこれだ!」 勝手に盛り上がって勝手にキレる理不尽なシーナを宥めるのに、結局十五分近くも掛かった。 ようやっとクールダウンしたシーナが1305に戻り、日奈になって帰るのを見送ってから、健一は綾に付いて1304へと入る。 ライブ中止を告知する、ポスターを作ってもらうためだ。 元々ライブ自体は半ゲリラ形式で、時間をきっちり決めているわけでもない。場所は駅から移る際に宣言したが、人が集まってくれるかどうかは観客の気分次第。健一もシーナも、彼らに何を強制することもできない。 だからこそ、自主的に来て、歌を、演奏を聴いてくれるのは有り難く。そんな貴重なファンに余計な手間を掛けさせたくないというシーナの言は、健一にもよくわかった。 何も宣言しなければ、そうと知らず訪れる人も出てくるだろう。前日、あるいは前々日にライブの場で伝えたとしても、そこにいる観客が全てとは限らない。 しかし綾の手が入ったポスターなら、しっかり人目も引くはずだ。興味のない人に対する宣伝にもなるし、口頭よりは遙かに確実だと思う。 ともかく、そういった理由でシーナが頼み、健一も追従したポスター作成は、始めてみれば呆気ないほど短時間で仕上がった。 大判の紙を机に敷き、下書きなしの一発勝負で、綾はペンを走らせた。最初から描くものが決まっていたかのように線が引かれ、色が付く。 完成したのは、シーナ&バケッツの後ろ姿だ。 本領はあくまで金工である綾だが、人物画も図抜けた上手さだった。写実感の強いタッチに、一種の迫力を持った色遣い。蛍子とはまた違う。横で眺めていながら、しばしば健一は呼吸を忘れる時があった。 「ごめん健ちゃん、お知らせの方はお願い。私文字は下手なんだ」 「僕もそんな綺麗には書けないですけどね……」 上下の空欄に必要なことを記し、申し訳程度に目立つよう別の色のペンで重ねてなぞってから、健一は出来上がったポスターを見て苦笑した。 下手ではないが上手くもない。 けれどまあ、このくらいが丁度良いのかもしれない。綾の絵で目は引けるだろうから、字が多少地味でも問題にはならないはずだ。 「で、これはどうするの?」 「コンビニでコピーして、明日人の通りそうなところに貼りに行けばいいかな、と」 「今すぐ?」 「……いえ、もうちょっと後で」 問いと共に明らかに何かを期待する視線を向けられ、半分を言外に却下した。健一としては一度1303に戻り、冴子が眠ってから家に帰るつもりでいたが、綾と話す時間くらいは捻出できる。そういう意味での半分。退けたもう半分は、今日も冴子とする予定のことである。 インクの乾いたポスターを隅に除け、座り直す。元あった場所にペンを仕舞い、冷蔵庫から紙パックのお茶を出してきた綾は、嬉しそうに健一の正面を陣取った。 開けた口からお茶を一飲み。 それを互いの間に置き、 「はい、健ちゃんもどうぞ」 「えっと……一応訊きますけど、コップはないんですか?」 「健ちゃんなら私は気にしないよ」 「お断りします」 「えー。遠慮しなくていいのに。もう二回もセックスした仲なんだし、今更じゃない?」 「それでも節度は弁えなきゃ駄目ですよ」 「健ちゃんは固いなあ。あ、でも、喉乾いたらいつでも言ってね」 絶対言うまいと決めた。 会話が一度途切れると、しばらく綾は唇を閉ざした。何となく健一も言葉が出ず、無言のままで向かい合う。 そのうち綾が足を組み替え、あのね、と切り出した。 「昔、お母さんが元気だった頃、何回かお祭りに連れていってくれたことがあったんだ。暗くなってから手を繋いで、二人で歩いてって」 語る表情は、懐かしむようで。 同時にどこか、悲しげでもあって。 「けど私ってほら、こんな感じでしょ? すぐ手離してふらふらしちゃうし、絵描き始めたら止まらないし、結局連れていっても危ないからって、行かなくなっちゃった」 「………………」 「思えば、お母さんが私のこと嫌になったのって、あの時くらいからなのかな。それで私も、作品作りに熱中してたりするといつの間にかお祭り終わってたことが何度もあって、一緒に行く人もいなくて、じゃあ別にお祭りなんていいかなって、そう思うようになってさ」 綾にとっての不幸は、家族の十全な理解がなかったからではない。彼女の特異さを受け入れてくれる相手がいなかったからでもない。 家族や親しく感じる人間に対して、人並みの情を持ち合わせていたことだ。 だから綾は悩み、苦しむ。隔絶した才能に生き方を引きずられ、壊してしまったものがあるから。どうしようもない性によって、取り戻せないものの存在を知っているから。 「今日、自分から行きたいって言ったのはどうしてです?」 「健ちゃんと一緒なら、きっと楽しめるから。手繋いでくれれば、ふらふらしないでいられるかも」 「……すごい堂々とした要求ですね」 「だめ?」 「いえ。それで綾さんが楽しめるなら、手くらい繋ぎますよ」 「そっか。うん、そうだよね。……えへへ」 ずり、と綾が距離を少しだけ詰めた。 右手の指がそっと床を這って、誘うように揺れる。 わかりやすい催促に、健一は自分の左手を重ねて応えた。 何となく、そうしてほしそうだったから。 「ちょっと予行演習。健ちゃんの手、あったかいね」 「これだと繋ぐってのとは違う気もしますけど」 「大事なのは私が嬉しいかどうかだよ」 「嬉しいんですか?」 「もちろん。一緒に出かけられたら、たぶんもっと嬉しいかな」 「じゃあ、土曜を楽しみにしててください」 例え綾がふらつかなかったとしても、一筋縄ではいかないだろう。いっぱい振り回されて、もしかしたらトラブルに巻き込まれて、平穏なお祭りとは程遠い過ごし方になるかもしれない。 けれど、その時何があったとしても。 綾にとって楽しい日になればいいと、健一は思った。 今日は短めに済ませよう、なんて互いに言い聞かせたところで、始めればそういう考えはすっぽり抜け落ちてしまう。 結局冴子が眠りに就くまでの定例行為は、第三ラウンドまで行われた。ことセックスに関して、どうにも健一は歯止めが利かない。忘我の境地と言うべきか、している最中はふわふわしているようで、恐ろしく冴えることもある。冴子との関係が未だ続いているのには、そんな部分が健一にあるからかもしれなかった。 ともあれ、帰宅したのは十時を回ろうとする頃。 事前に連絡は入れたものの、玄関の扉を開けて早々、待ち構えていたのは蛍子のあからさまに不機嫌な表情だった。 「遅い」 「……ごめん。ご飯は今から作るよ」 「当然だ。お前が当番なんだからな」 姉弟ではなく、男女として身体を重ねて以来、表向きこそ変わりないが、蛍子は少し柔らかくなった気がする。 夕飯を自分で作る日も増えたし、刺々しい態度の裏に別の感情が見えるようにもなった。もっともそれは、実姉の女としての側面を知ったからかもしれないが。 夜も遅いので油控えめの物を用意し、二人でテーブルを囲む。食事中、蛍子はほとんど無言だった。淡々と箸を動かす傍ら、時折妙に鋭い視線を向けてくる。 ちくちくして落ち着かない。 夕飯が片付き、食器を洗い終えると、何故か健一の歯ブラシを持った蛍子が、早く磨けと言うように突き出してきた。首を傾げながらも、押し付けられるままに受け取って大人しく磨く。 洗面所でうがいをし、あとは寝るだけというところで、再び蛍子がやってくる。乱暴に手を掴み、健一を引っ張って自分の部屋に招き入れる。 さすがにここまで来て健一も察した。 背中を向けた蛍子の横顔は、暗がりで薄赤く染まっていた。 「ええと、そういうこと?」 「……お前は鈍過ぎる。ここ最近はしなかったし」 「ごめん」 「謝るな。だからちゃんと、優しくしろ」 指が解け、蛍子がベッドに身を投げ出す。 覆い被さるようにして、返事代わりに唇を落とした。 そうして健一は沈んでいく。 何度も、何度も、何度も――組み敷いた姉を、喘がせる。 行為自体は、最早日常の一部と言ってよかった。 溺れている間、二人はただの男と女だった。 血や戸籍の繋がりを忘れられた。 気持ち良いこと。満たされること。それだけが全てで、怖気がするほどの幸せと充足感があった。 健一が奥に入り込む。胸を揺らし、泣くように悦ぶ蛍子の中に熱を吐き出す。強烈な余韻に浸る間もなく、数日分の空白を取り戻さんばかりにまた貪り始める。 最初の時は失神させてしまったが、あれからほぼ習慣化するほど続けることで、ギリギリのラインをお互い見極められるようになっている。しばらく後、汚れたシーツを取り替える二人の姿があった。 放っておくと、染みが残るのだ。 前のシーツは一週間で捨てることになってしまったので、事後処理はきちんとしよう、と反省したのだった。 あまり高い頻度で駄目にしては、さすがに両親にも怪しまれる。しょっちゅうシーツを洗濯している時点で不審ではあるのだが、ほいほい捨てるよりはいくらかマシだろう。 肌に付いた精液や愛液を拭き取り、一通り終わってから、蛍子のベッドに二人で入る。いつもならこの後健一は自分の部屋に戻るのだが、絶対どっちも帰ってこないからと蛍子が引き止めた。 下着さえ身に着けないまま、同じ薄い掛け布団を被って天井を見つめていた。すぐ近くに裸の姉がいる状況。よくよく振り返ってみれば、何とも不思議な光景だった。 「お前と一緒に寝るなんて、いつ以来だろうな」 「子供の頃……にもやってないような気がするけど」 「まあ、そんなに仲が良いわけでもなかったしな。普通に、ただの弟としか見てなかった」 弟で、家族。 それが当然だ。逸脱することは、普通ではない。 けれど彼らの間には、きっかけがあった。そのきっかけで決壊し得る、一種の素養も秘めていた。 環境と状況次第で、人は外れるべく外れる。 踏み出せば、あとは容易かった。 「ホタルは、一人で寂しい時とかある?」 「昨日も、一昨日も……お前が近くにいないって思った時はいつも寂しい。けど、こういうのはたまにでいいんだ。下手に慣れちまったら、間違いなくどっか余計なところでミスる」 だから、と耳元で囁いて、蛍子は健一の足に自分の足を絡めた。腕を抱き、胸に寄せる。布団の中で感じていた淡い熱が、確かな体温として肌に伝わる。 冴子の分も入れれば二桁に届きかねない回数を出したせいか、興奮はすれど食指は動かなかった。まあ、もう夜も遅いし、大人しく寝られる方が有り難い。 「おやすみ、ホタル」 「ああ。おやすみ、健一」 お返しにと蛍子の背中に腕を回し、健一は静かに目を閉じた。 夏の暑さも、不思議と気にならなかった。 やらかしたのは翌朝だった。 先に起きてさっとシャワーを浴びた後、ゆっくり朝食の準備をしていたところで、遅れて風呂に入った蛍子が顔を出す。勿論お互い服は着た状態だ。 簡単な和食をテーブルに並べ、黙々と口に運びながら、そういえば、と健一は夏祭りの話をした。 近場であることは蛍子も知っていたが、綾の名前が出てきた辺りで明らかに目付きが悪くなり、一緒に行く旨を伝えた瞬間、蛍子の手元の箸が非常に危うい音を立てた。 食器の片付けまでは辛うじて保っていた機嫌も、これから行かなきゃいけないと健一が言い出して爆発。半ば蹴り出すような形で放逐された。しばらく帰ってくんなと有り難い言葉まで頂いた。 唯一幸いだったのは、貼りに行くポスターの束と小道具を持ってこられたことだ。仕方なく思い当たる目立つ場所へ一枚ずつ貼っていき、手持ちの紙がなくなってから1301へ向かう。 刻也と会って昨夜の話をしたり(綾が夏祭りに行くことにはかなり驚いていた)もしつつ、昼頃来るシーナとの練習は欠かさない。土曜が中止になるだけで、それ以外の日は普通にライブをするのだ。一日空くからこそ反復練習が大事なんだよ、というシーナの発言に、健一は静かに熱を入れた。 そして夏祭り当日。 充分暗くなってから、健一と綾は幽霊マンションを出た。 お互いに浴衣ではない。そもそも綾が持っていないのと、着ても歩きにくくて困るという夢のない理由で普段着になった。 とはいえ、いつも通りの格好だとそれはそれでよろしくないので、蛍子のお下がりからのセレクションだ。決して派手な服装ではないが、やはり綾が着ると胸辺りが強調された感じになる。夏の薄着なら尚更だった。 「行き先は遠いの?」 「三十分くらいですかね」 「私が止まっちゃったらもうちょっと掛かるよね」 「そこはまあ、気を付けてください」 「うん」 要望通り手を繋いで歩く。 暗い夜道は途中途中が電灯に照らされているものの、綾の目を惹くものはないらしい。拍子抜けするくらい順調に、二人は会場まで来られた。 ここの祭りは例大祭だ。神社の境内と、ぐるりと囲む周辺の道に出店が並んでいる。鳥居の先は賑やかで、主に浴衣を着た老若男女が楽しげに行き交っていた。 「おー。人がいっぱいだ」 「ですねえ」 シーナとやった一番最初の駅前ライブと比べれば、健一にとってはあまり差のない喧噪感だが、引きこもりが基本の綾からすれば人混みは多い部類だろう。 あちこちを見回す姿は微笑ましくて、連れてきてよかったと健一は思った。 「どういう風に回ります?」 「私は色々よく知らないから、健ちゃんにお任せしたいかな」 「お任せ、ですか」 「少なくとも私よりはお祭り来たことあるでしょ?」 「まあ、そうですね。そういうことなら、とりあえずいくつか遊べるところに行って、その後食べられるものを買いましょう」 弾むような頷きに繋いだ手の握りを強めて応え、賑わいの中に繰り出す。周囲は明るく、あるいは綾の目に止まる者もありそうなものだったが、意識してか知らずか、綾は健一と引かれる手しか見ていなかった。 楽しいかどうかはともかく、それらしいのは全てやるだけやってみた。お金に関しては綾が「誘ってお願いしたのは私だし」と健一に払わせない気満々だったので(男としては情けないが、現実問題としてそんなに持っていない)、この場限りは忘れた。 手先が並外れて器用な綾は、運動神経が壊滅的だった。射的も輪投げも駄目。ヨーヨーすくいは人並み。二人で勝負めいたことをしてみたが、健一の三戦三勝である。唯一くじ引きだけは、どっこいどっこいのしょんぼり景品だった。 最後に寄った型抜きは、予想通り綾の独壇場。躊躇いのない削り方であっという間に完成させ、店の親父をして感心する手腕を見せつけた。気付けば観客が集まり、ついでにやり過ぎて出禁になった。さらに観客に高校のクラスメイトが混ざっていた。 当然ながらそうなると、隣の黙っていれば美人な女性は誰なのか、という話になる。何か言いかけた綾の口を慌てて塞ぎ(たぶん碌なことじゃない)、親しくしてる姉の友人で、今日はたまたま会って一緒に回っているのだと適当な理由をでっち上げた。半分だが嘘は言っていない。どうにか誤魔化しきり、その場は凌ぐ。 「健ちゃん、嘘はよくないよ」 「あそこはああするしかなかったんです。下手なこと言っちゃうと夏休み明けに酷い噂になりそうですし」 「私が彼女だって素直に告白しちゃえば解決じゃないかな」 「それこそ嘘じゃないですか」 「えー。あんなに激しい夜も過ごしたのに?」 たまたますれ違った知らない人にすごい勢いで振り向かれ、脱兎の如く逃げ去った。とんだ羞恥プレイだ。 そこからは知り合いに会うようなこともなく、穏やかな時間が続いた。お好み焼きやたこ焼き、串焼きなどの腹に溜まるものから、りんご飴やベビーカステラといった甘いものまで、そこそこの量を買い集め、落ち着いて食べられる場所を探す。 人通りの少ない方へ向かえば座れるところもあるだろうと、出店の並びから離れるようにして歩いていた健一は、こちらに近付いてくるふたつの人影を見つけた。 小柄な背。肩口程度までの短い髪を微かに揺らし、紺と橙の、お揃い柄の浴衣を着た、遠目には瓜二つな姿。 紺の浴衣が日奈で、橙の方が佳奈だった。 丁度位置取りが互いに正面なこともあって、しっかり目が合う。一瞬佳奈が瞳を見開き、健一と綾の繋いだ手を認め、うげ、と露骨に嫌そうな表情を浮かべた。 ……いや、確かにシーナ――日奈も来るとは言ってたけど。というか元々夏祭りの話を持ち出したのはシーナだったけど。 「何、絹川君も来てたの? 誰かに誘われた?」 「はい、まあ、そんな感じです」 「ふうん。お隣の人がそう……って何で絹川君の後ろに隠れるのよ」 「人付き合いがちょっと苦手な人なので……」 手を握ったままさり気なく健一の背中側へと回った綾に、健一は小さく苦笑した。 佳奈みたいなタイプの人間は、たぶん苦手だろうと思っていた。綾自身は決して人見知りをする性格ではないが、肝心のコミュニケーション能力は皆無である。一応そういう自覚を持っているから、下手なことを言えば怒らせちゃうかな、と考えているのかもしれない。 無神経ではあっても、無頓着ではないのだ。 ここは喋らない方がいいという判断も、間違いとは言えない。 「窪塚さん……だと紛らわしい、ですよね。えっと、佳奈さんは、日奈さんを誘って?」 「逆。私が日奈に誘われたの」 思わず健一は日奈を見た。 俯き気味の顔に、瞬間申し訳なさそうな色が付く。 話を聞いた時は如何にも「佳奈ちゃんが誘ってきたんだよねー参ったなーこれじゃライブできないなー仕方ないなー」という感じだったんだけど。どういうことだ話違うじゃん的な気持ちをぐっと堪え、そっと心の奥に仕舞い込む。 立場上、健一と日奈には面識がないことになっているので、佳奈の前で迂闊なところを見せるわけにはいかない。向こうからすれば健一は、さしずめ日奈に近付く害虫か何かだろう。冴子の件も含め、色眼鏡の重ね掛けである。ただでさえ怪しまれているのに、もしシーナとライブのことを知られたら、果たしてどうなるやら。恐ろしくて想像したくもなかった。 「あの……絹川君、はじめまして、でしたよね。窪塚日奈です」 「あ、はい、絹川健一です」 「すみません、佳奈ちゃんに一緒に行こうって言ったのは、私なんです。それで、同じ学校の人とか、佳奈ちゃんが知ってる人に会うとは思ってなくて」 「びっくりしたのは僕もですよ。結構来てるものなんですね」 話しながら、微妙に互いのこめかみ辺りがひくついていた。どちらも腹芸をするにはあまり向かないタイプだ。たぶん次に十三階で会ったら笑っちゃうんだろうな、と思いつつ、表向きは平静を装う。 「絹川君、その、一緒にいる人は?」 名乗った流れに続けてか、綾の素性も訊いてくる日奈。もう知ってますよねとは当然口に出せない。 ちらりと綾を見れば、いいのかなと言うような視線が返ってきた。特に止める必要もないので、頷く。 「桑畑綾だよ。桑畑さんって呼ばれるのはあんまり好きじゃないから、綾さんって呼んでほしいかな」 「わかりました。綾さん、でいいんですよね」 「うん」 「ちょっと絹川君、本当にその人――」 「佳奈ちゃん」 「……綾さんって人付き合い苦手なの?」 「ええと、まあ、色々ありまして」 「そうそう、健ちゃんの言う通り、他の人と話すのは得意じゃないんだ。健ちゃんや冴ちゃんとかなら平気なんだけどねー」 「冴ちゃん?」 「あっ、綾さんと僕の共通の知り合いです」 怒らせることはなかったが別のところでボロが出かけた。 どうにかぼかして誤魔化し、まだ怪訝そうな目に睨まれながら綾を少し下がらせる。何でこんな綱渡りみたいな状況になってるんだろうと、健一は盛大な溜め息を吐きたくなった。 さすがにそこで日奈の方が申し訳ないと思ったのか、佳奈の浴衣の袖を控えめに引く。 「佳奈ちゃん、絹川君達の邪魔しちゃいけないし、そろそろ行こ?」 「……そうね。まだ全然回れてないもの」 「うん。それじゃ、二人とも」 「はい、じゃあまた」 「じゃあねー」 軽い会釈と共に歩いていく窪塚姉妹を見送って、健一は大きく肩を落とした。最後にぽろっと「また」なんて言ってしまったけれど、どうやら佳奈は聞き流してくれたらしい。その本当の意味合いを知らないのは、彼女だけだから。 綾が離れる背中に向けて振っていた手を下ろし、二人もまた歩き出す。夏祭りの喧噪や蒸し暑さが、今は遠く感じた。 「なんかごめんね。また迷惑掛けちゃった」 「そんなことないですよ。シーナ、じゃなくて日奈さんが祭りに来るのは最初からわかってたわけですし。こういうこともあるって考えてなかった僕も悪いというか」 「そうかな」 「少なくとも、来なければよかったとかは思いません。一緒に色々回って、遊んで、楽しかったですから」 「だったら嬉しいかな。私も、うん、楽しかった」 「まだご飯食べてないですけどね」 「だね」 淡く笑い合い、微妙になっていた空気が緩む。 綾は手持ちの袋をかさかさ揺らし、 「佳奈ちゃん、って言ってたっけ。あの子、なんていうか、すごく素直で正直な人だよね」 「素直で正直……ですか?」 「うん。だって、嫌なことは嫌って言ってるし、顔にも出てたから。あと、日奈ちゃんが大事だってこともよく伝わってきた。何より自分に正直なんだと思う」 独善的で自己中心的。 しかしそれは言い換えれば、綾の言葉通り、己に素直で正直ということだ。感情の形や矛先がはっきりしている。腹に一物隠したりしない。わかりやすく、ある意味偽りのない性格。 大半の人間は、そういう風に生きられない。通らない主張や他者との軋轢に対し、耐える。我慢する。表に出さないようにする。 一側面では、綾も同じかもしれない。 だが、綾と佳奈の間には埋め難い差がある。 天才と凡人。異端と平均。 どれだけ我が儘であったとしても、窪塚佳奈は“普通”なのだ。 その枠にいられない綾は、自動的に違ってしまう。 「……佳奈さんみたいに、なりたかったですか?」 「どっちかって言えば、日奈ちゃんみたいにかな。でも、日奈ちゃんは日奈ちゃんで色々あるんだよね。ああやって改めて見ても、シーナ君とは全然似てないし」 「似てないっていうか、もうほとんど別人ですよね」 「健ちゃんは、私もあんな感じで女の子らしい方がよかった?」 「いや、綾さんは綾さんですよ。今以外の綾さんなんて想像つかないです」 「えへへ、ありがと。健ちゃんならそう言ってくれると思ってた」 ――怪物は、人の心がわからない。 けれど、人の心なんてわからないのが当たり前だ。 繋いだ手にこもる弱い力を噛み締めながら、健一は自分が綾の理解者であればいいと願った。 それはきっと、本質的に孤独な彼女の支えになることだから。 感情の抑えが利き難くなっている自覚はあった。 帰りが遅いと、女の影を疑ってしまう。影も何も以前に言質は取っているので、最低一人、関係を持った相手(しかも知人)がいるのは間違いないが、わかっているからといってどうなるわけでもない。 絹川蛍子は、絹川健一を縛れないのだ。 面倒な女にはなりたくなかった。姉弟である以上、多くを望もうとも思わなかった。届かないはずの気持ちが届いたのだから、肌を重ね、愛を囁けるだけで充分だった。そのはずだった。 なのに、健一が外出する度に複雑な想いを募らせる。 服を脱いだ際、微かな女の匂いを感じて嫉妬する。 果たして自分は、こんな人間だったのか? 絵さえあればもう何も要らないと本気で考えていた、あの昔の絹川蛍子はどこに行ったのか? この感情を、愚かしいとは思えない。 弟でも、血縁者でも、好きで、大好きで、愛してると胸を張って言えるのは健一ただ一人。きっと他に、どんなに優れた人格者が現れようと、愛を望まれようと、健一ほど狂おしく求めたくはならないだろう。 ああ、だから仕方ない。 こんなにあいつのことが気になるのも、腹が立つのも、我慢ならないのも――好きなんだから仕方ない。 と、長い理論武装を済ませた蛍子が家を飛び出したのは、夜の帳が降りきった頃だった。 弟の行き先は把握している。何せこの時期、近場で夏祭りをしているのは一箇所だけだ。徒歩でもそう遠くはなく、走っていけばもっと早い。どうせ一人なので浴衣を着るという発想もなく、財布をポケットに入れ、ラフな薄着で蛍子は会場へと向かった。 十分そこらで到着し、荒れた呼吸を整えてから出店の通りをぐるりと回る。雑多な喧噪はあまり蛍子の好むところではなかったが、楽しげな人々の様子を見れば悪い気もしない。 微妙な空腹が鬱陶しくなってきたので、適当な店でお好み焼きを買った。五百円。高い。しかも健一が作るご飯の方が明らかに美味い。けれどまあ、腹は膨れた。それでいい。 健一と綾を探して、無事発見したところでどうするか、特に蛍子は考えていなかった。ただ、別に声を掛けるつもりはなくて、どんな風にしているのかが知りたい。 あの、綾が。 他人の心をまるで理解できなかった綾が、健一のそばにいて、身体を許すだけでなく、健一を求めている理由の一端を。 「それにしても、ホント千夜子は間が悪いっていうか、勇気が足りないっていうか」 「もうツバメ、そんな何度も言わなくたっていいでしょ」 食べ終わった後のパックと箸を捨て、人探しを再会した直後、ふと耳に入ったやりとりに蛍子は足を止めた。 少し前、どこかで聞いたような声。 記憶を辿り、すぐに思い至る。 電話だ。 声の出所へ目を向けると、そこには二人の少女がいる。 ショートカットの一人は誰かわからないが、もう一人、小柄なツインテールの子。 大海悟の妹。そう、確か―― 「すまん。君は、大海千夜子か?」 「え、あ、はい、そうですけど……って、その声」 「絹川蛍子。健一の姉だ。直接会うのは初めてだな」 二割博打の鎌掛けは、予想通りの効果を発揮した。 振り返り目を見開いた千夜子と、隣でいまいち状況が掴めず首を傾げる、ツバメと呼ばれた少女。 「ええと……お姉さんが、絹川のお姉さん? 言われてみれば、どことなく似てるような気も……というか千夜子、何で絹川のお姉さんと面識あるの?」 「ちょっと、一回電話越しでお話ししたことが……。あの、お姉さんもお祭りに?」 「蛍子でいいよ。まあ、そんな感じだ」 「わかりました、じゃあお言葉に甘えて蛍子さんって呼びますね。私達も遊びに来たんです」 「鍵原ツバメです、蛍子さん! なんか千夜子が傷心だっていうから、こっちはそれに付き合ったんですよ」 「ツバメ!?」 「……二人とも仲が良いんだな」 「知り合って長いですからねー。あ、そうだ、よかったら蛍子さんも一緒に回りません? 折角こうして会ったわけですし、絹川の話とかも色々聞いてみたいです」 打てば響くような二人に感心していた蛍子は、ツバメの誘いに悩む仕草を見せた。 問いかけと同時、ツバメは千夜子に一瞬目配せをしたのだ。それを受けて千夜子は小さく俯き、薄く頬を染めて頷いた。 なるほど親友らしい、息の合ったアイコンタクト。 いったいそこにどんな意味が込められていたのか、蛍子に知る由はない。が、千夜子の反応が何に起因するかはわかる。わかってしまう。 淡い色だ。 ともすれば微笑ましい、健全な――恋慕の情。 心の肌が、粟立った。 溢れ出しかけたものを静かに飲み込み、今は閉ざす。 蛍子は思った。 笑えないくらい――自分は、嫉妬深い。 結局二人に同行することにして。 途中、請われた通り健一の昔話をいくつか披露した。他愛もないエピソードを、けれど二人は楽しそうに聞いてくれた。 代わりに蛍子は、千夜子へ質問を投げかけた。 兄のこと。家族のこと。ツバメのこと。 健一のこと。 適度に買い食いをした後、学校じゃ弟をよろしく、と言って別れてから帰路に就く。 最後まで健一と綾は見つけられなかった。 しかし、収穫がなかったわけではない。 ひとつは、千夜子が“そう”であると知ったこと。 もうひとつは、 「……最悪だな、私は」 千夜子達に思い出を語りながら、その裏で蛍子は優越感を覚えていた。 本当に大事なことは、私だけのものなのだと。 愛を交わして、セックスしているのは私なのだと。 それは当たり前で自分勝手な、女の理屈だ。 捨てなければいけない。 だって、だって――考えてしまう。 本当に結ばれ、誰からも認められること。 他の何を得られても、それだけは決して、自分には許されないのだから。 抜けない棘が、そこにある。 ならばせめて痛みを忘れていたいと、そう思うのだ。 back|index|next |