翌日、昼過ぎにシーナは言葉通りハーモニカを持ってきた。
 健一は刻也を除く二人と1301で食後のお茶を飲んでいたので、シーナの姿を認めると、挨拶と共に冷えた麦茶を出した。二日目にしてもう馴染んだのか、それとも単に神経が太いだけなのか、コップを受け取りくいっと一息で流し込む。
 ことん、と思いの外優しい手付きでテーブルに空のコップを置き、

「ということで、これがお前にやる楽器、ゴスペル・ハープだ」
「ゴスペル・ハープ?」
「本当は複音ハーモニカって言うんだけどな。福音と複音を掛けてるわけだ。上手いだろ?」
「その発言がなければもうちょい感心してたかな……」

 渡されたハーモニカを、健一はしげしげと眺める。
 イメージしていたよりも幅が長く、意外に重い。息を吹き入れるところには二段組の仕切りがあり、ぱっと見では数え切れないほど細かかった。側面は夏の大気に熱されて温く、少し滑る。光に透かすと、うっすら手指の脂が付着していた。

「かなり昔に使ってたんだけど、どうも性に合わなくて、物置に突っ込んでたやつだ。一応ちゃんと洗ってあるから大丈夫だぜ」
「これ、どうやって吹くのかな。普通にやると複数の穴に息が入っちゃう気が」
「口をすぼめろ。オ、って感じで、二段とも」
「なるほど」

 実践して見せたシーナに従い、中央辺りに唇を触れさせた。
 鼻で息を吸い、ゆっくりと細めた口から吐き出す。

「……できた」

 滲み、重なって膨らむような音が響く。
 唇を離し、両手で掴んだハーモニカを健一は見つめ直した。
 今度は先ほどの穴の隣を試してみる。が、ふすー、と呼気が抜けるだけだった。

「そこは吐くんじゃなくて吸うんだよ」
「リコーダーとかとは違うんだね」
「ついでに言うと、音の並びもドレミじゃないぞ。左から、レドファミラソシドレミファソラドシミレファソドラ、の順だ」
「……実は結構難しくない?」
「どんな楽器も同じだって。一回覚えちまえば難しいことはねーよ。ま、練習用のわかりやすい楽譜も持ってきたから、こいつで吹いて身体で覚えろ」

 シーナがポケットから折り畳んだ紙を取り出し、テーブルの上に広げる。楽譜と言われて五線譜を想像したが、中身は全く違っていた。
 一見、横書きの数字の羅列だ。
 1から21までの番号があり、一見規則性のないような並び方をしている。数字と数字の間が変に離れているのは、おそらく音を伸ばせということなのだろう。かなり感覚的な表記だが、それも含めて「身体で覚えろ」なのかもしれない。
 綾と冴子が見つめる中、実際の穴と書かれた数字の位置を照らし合わせ、左から順に全ての音を確かめてから、健一は楽譜の曲を試してみることにした。
 辿々しい手付きで、一音ずつゆっくりと出していく。呼吸が安定せず、慣れていないのが丸解りな形だったが、演奏してみれば、数字の羅列が途端に意味を持つ。

「これ、きっとキラキラ星だよね?」
「正解」

 閃いた、という表情の綾に、シーナが首肯する。
 健一にもわかった。昔、小学校の頃には何度も聴いた歌だ。脳裏に歌詞が思い浮かぶ。その一文字一文字を楽譜の数字に当てはめ、今度は明確な意図を含めて、ハーモニカに息を吹き込んだ。
 吐息の強弱でメリハリを。
 音が途切れないように、呼気と吸気のバランスをしっかりと。
 旋律がこなれてくる。
 冷たい金属の質感も、指に馴染んできた。
 一分にも満たない時間、キラキラ星の演奏を終えた健一は、ハーモニカを唇から離し、まだ微かに響く余韻に浸った。

「はぁ……ん、どうだった?」
「始めたばっかりにしちゃ上等な方だろ。技術的にはまだまだだが、何となくな味はあるぜ、本当」
「うん、私もそう思うよ」
「……有馬さんはどうでしたか?」

 考えていた以上に評価は高かった。
 くすぐったさを覚えつつ、さっきから無言を貫いていた冴子にも恐る恐る問いかける。
 一瞬の間を置き、冴子は虚空に視線を彷徨わせ、ぽつりと呟いた。

「音楽のことはよくわからないけど……優しい音色だなって」
「優しい、ですか」
「ごめんね。上手く言葉にできなくて」
「いえ。いい評価なのはわかりますから」

 それなりに伝わるものはあったのだろう。
 こうしてハーモニカを受け取り、曲がりなりにも一曲を通してみせた。その上で褒められれば悪い気もしない。
 料理とも似ている。鍛えた分、確実に返ってくる。

「ひとまず後は練習あるのみだな。今度違う楽譜も持ってきてやる」
「了解。それまではこれで勉強しとくよ」
「お、そういやバケツはどうなったんだ? 綾さんが何かやってくれるって言ってたけど」
「できてるよー。ちょっと待ってて」

 さっと席を立ち、一分程度で綾がバケツを持ってきた。
 はい、と手渡された完成品を、シーナは両手で掲げるようにして検分した。一周させて外観を確かめ、引っ繰り返し内側もチェック、手触りや光沢も念入りに見ていく。
 真剣な顔ですりすりしていたかと思いきや、唐突に健一の正面まで移動し、いきなり被せてきた。勢い余って底の部分に頭がぶつかる。地味に痛い。
 自分で被らないのかとバケツ越しにジト目を送ったが、一応健一のサイズに合わせたものである。少し頭の小さいシーナには大きいのかもしれなかった。

「見事にぴったり、しかもデザインもイカす! 綾さんってすごい人なんだな。学校で専攻とかしてたのか?」
「特別なことはしてないかなあ。作りたいものを作ってるだけだし」
「まあ、世界のアヤ・クワバタケですしね」
「……マジか」
「マジです」

 ズレたバケツを直しながら、健一は驚くシーナに頷く。
 昨日も実際に被って確認はしたが、着け心地は完璧に近い。窮屈さ、息苦しさ共に皆無で、熱処理をしてあるのか鉄錆の臭いもなく、さらに視界もほとんど狭められていなかった。気持ち声は籠もるものの、これくらいなら許容範囲だ。さすがと言うべきか、簡単な小物でも手を抜かない辺りは綾らしい。

「こんなとこに有名人がいるとか、世間も狭いぜ、本当」
「え、私有名人なの?」
「雑誌に載るんだから有名人だろ、本当」
「実感ないんだけどなあ。健ちゃんと冴ちゃんはどう思う?」
「無名って言うには色々やり過ぎてますからね……」
「……うん。それがいいことかどうかはわからないけど」
「ま、その辺はあんまり俺らがとやかく言うことじゃないわな。大事なのは、バケツの出来が想像以上に素晴らしかったってことだぜ。健一、ハーモニカは被ったままでも吹けそうか?」
「大丈夫」
「うし、じゃあ屋上行くぞ。合わせてやる」

 エンジンが掛かったらしく、完全にシーナはやる気だった。
 まだ二回しか演奏してないのにいきなり難易度高過ぎないかと言いたくもあったが、水を差すような真似はしたくない。
 何にしろ、上手くなるには数を重ねるしかないのだ。
 微妙に足取り軽いシーナの背を追って、健一も屋上へ向かう。
 いってらっしゃい、という二人の言葉が、少し嬉しかった。










 あれから夕食時まで、本当にぶっ続けだった。
 シーナの指導はスパルタだが、的確の一言に尽きた。指摘がやたら感覚的だったのは、まあシーナだし仕方ない。「そこはもっとぐわーっ! って感じだよ」とか、よく汲み取れたものだ。
 練習し通しの健一に気を遣ったのか、当番でなかったはずの冴子が夕食を用意してくれていた。食べ終わり、食器を片付けて早々にまた再開。あとは日奈が帰る時間まで、ほとんどハーモニカ漬けである。

「絹川君、お疲れ様」
「また明日も同じくらいやるみたいですけどね……」

 日奈を一階まで見送ってから1303に戻ってきた健一を、インスタントのコーヒーと共に冴子が労った。
 居間のテーブルに向かい合って座り、受け取ったコップに口を付ける。強い苦味が、ハーモニカの吹き疲れで重い舌に広がった。

「今日は止めておく?」
「いや、平気ですよ。有馬さんにはちゃんと寝てほしいですし」
「わかった。……練習はしばらく続きそう?」
「ライブやるのが目標ですからねえ。短くてもそれができるまでは」

 途中何度か綾は見物に来ていたが、冴子の姿は見なかった。日陰でやっていたとはいえ、夏の昼間の屋上はいるだけで辛いだろうから、身体が弱い冴子が出てこなかったのも当然なのだが。

「ん……絹川君、ちょっと汗臭いかも」
「あー、やっぱりですか。屋上蒸し暑かったので……お風呂入ってきますね」
「いってらっしゃい。待ってる」

 家から持ち出してきた着替えは、自室の箪笥に仕舞ってある。
 寝間着用のシャツと短パン、新しい下着を適当に見繕い、足早に風呂場へ駆け込んだ。
 自宅に戻る必要がある健一には、どうしても都合の悪い日が生まれてしまう。冴子の体調を考えれば毎日付き合うのがベストだが、蛍子を待たせているとそれも確約できない。泊まりにだって理由は求められるのだ。不自然に思われない程度には、早めに帰る必要も出てくる。
 不自然。
 蛍子は健一が、冴子とセックスしていることを知らない。禁忌を犯すよりも早く、初めて交わった綾よりも多く、しかし決して好きにならないという約束の下に“それ”を繰り返していることを、伝えていない。

(誠実、じゃあない、よな)

 髪と身体を洗い、温めの湯に沈み、健一は自問する。
 誰かを好きになること。
 誰かと肌を重ねること。
 両者はイコールではない。綾に対する好意と、冴子に対する感情と、蛍子に対する熱情は、どれも別種のものだ。
 求められたから応えた――では、相手を馬鹿にするにも程がある。健一とて男なのだから、性欲に流されているのも否定できないが、そういう意味で言い訳が利かないのは綾との最初の一回のみだろう。
 冴子とも、蛍子とも、自分で選んで、決めた。
 だからこそ――余計に己への困惑が先立つ。
 こうして振り返ったところで、冴子が眠るには現状セックス以外の手段がないし、蛍子の求めに否とも言えない。
 結局堂々巡りになる。
 温まり過ぎたのか、若干くらくらする頭で風呂から上がり、濡れた髪のまま居間に戻った。
 薄明かりの中、健一を見る冴子の瞳が細まる。

「髪、乾かしてこなかったの?」
「あ……すみません、忘れてました」
「ドライヤー、取ってくるわ」

 いいですよと止める間もなかった。
 健一の肩を掴んでソファに座らせ、さっとドライヤーを持ってきた冴子は、近くのコンセントに繋ぐと、後ろから健一の髪を乾かし始める。
 熱風を遠目から当て、指で丁寧に梳きながら水分を飛ばしていく。自分でやりますと言い出すタイミングを失い、後はされるがままだった。

「手慣れてますね」
「私の髪、長いから」
「なるほど……。乾かすの大変そうですね、それくらいあると」
「そうね。濡れたままだと、癖になっちゃうし」

 最後に軽い毛の逆立ちを撫でるようにして馴らし、冴子がスイッチを切る。抜いたコンセントを丁寧に巻き、さっと元の場所に戻して、改めて健一の隣に座った。
 気怠そうな吐息。
 薄く漂うシャンプーの匂い。
 肩を寄せ合うと、微かな熱と身の震えが伝わる。

「……電気、消します?」
「うん。絹川君、お願い」

 好きではない。約束通り、好きにはならない。
 風呂場での考え事を忘れるために、いつもより積極的に健一は冴子の唇を塞いだ。
 そこから始まる一時間。
 冴子が眠るまでの、短く濃い夜だった。










 一日の三分の一近くを練習に費やす生活が続いた。
 追加でシーナが持ってきた数枚の楽譜を、まともに聴けるレベルまで覚えては次のステップへ進む。初めは音を追うだけでまごついていた手指の動きも、音と配置の繋がりが頭に入り、それぞれの感覚と吹き方を身体に刻んでからは、覚え始めて一日のうちに、楽譜を見ながら完走できるくらいになった。
 自信が持てたかというと、まだ全然足りない。
 しかし、シーナの歌に乗せて最低限恥ずかしくない程度にはなれたと思う。
 健一がハーモニカに触れてから丁度一週間が経った日の昼、今までの成果を確認する目的で、通しの練習を二人ですることになった。
 ハーモニカの吹き出しに、シーナが歌を重ねる。これまでずっと一人でしかやってこなかったわけで、それをいきなり合わせるのは難しいんじゃないかと見ていたが、シーナは即興なのにもかかわらず、あっさり健一の演奏を飲み込んだ。まだおぼつかない健一をリードして、その伸びのある歌声を存分に響かせる。

「ま、こんなところだろ」

 通しが終わると、健一は屋上出入口付近の壁に力なく背を預けた。
 本番ではないのに、異様に疲れている。
 神経をヤスリで削るような、酷く繊細な十数分だった。

「二人だとすごい難しいなあ……」
「自分だけじゃ他の奴は気にしなくていいからな。昔小学校で言われたけど、音楽で大事なのは協調性らしいぜ」
「身を以って納得しました」
「にしても上達早いな、本当。正直予想以上だ」
「最近はほとんど練習漬けだったからね」
「やる気があるのはいいことだ、っつーわけで、ほいこれ」

 手のひらサイズに折り畳まれた紙を、軽い調子で放り投げられる。
 慌てて空中でキャッチし開いてみると、練習曲の二倍以上はありそうな長さの楽譜が展開された。しかも五枚重ね。

「ストリートライブ本番用のだぜ。初っ端から何曲もやるのはお互いしんどいだろうし、インパクト重視でまずは、って感じだな」
「どれもぱっと見でも難易度高いのがわかるんだけど」
「お前ならできるって信じてる!」

 滅茶苦茶イイ笑顔で言われた。

「ちょっとくらいミスっても問題ないだろ。ストリートライブなんだから重要なのはノリだぜ、ノリ。勢い任せでやっちまえばいい」
「……まあどうせ完璧にはできないだろうから、そのくらいの気持ちでいけばいいのかな」
「そうそう。女の子にモテるのは大事だけど、それはもうモテにモテて揉みくちゃにされながら可愛い子の胸を揉みくちゃにしたいけど、何より音楽ってのは“音で楽しむ”ものだからさ」
「だから楽しくやろうって?」
「よくわかってんじゃん」

 元来集中が続きやすいのもあるのかもしれないが、ここしばらく、確かに健一はハーモニカと真剣に向き合っていた。
 流されて、押し切られたとは言える。
 けれど、目に見えて上達していくのは楽しかった。
 もっと上手く。もっと綺麗に。もっと力強く、細やかに。
 理想へ近付くことの難しさと、仄かな熱意。
 ――少し、絵を描き続ける蛍子が理解できる気がした。

「ライブはいつ?」
「次の土曜。やれるか?」
「やるよ」
「オッケー。それでこそ俺の選んだ相棒だ」

 精一杯、打ち込んでみよう。
 そうすれば何かが見えるかもしれない。
 シーナの真っ直ぐな信頼を受けて、健一は決意を新たにした。



 夜になると、シーナは日奈になる。あるいは戻ると言うべきか、ともあれ明確な区切りが彼、もしくは彼女の中に存在していて、今のところ、シーナのまま十三階を後にしたことは一度もなかった。
 自信に溢れ、些か傍若無人の感もあるシーナと違い、日奈は如何にも女性らしい可愛さが滲み出ている人物だった。遠慮しているのかはわからないが、控えめであまり自己主張が強くない。気弱と表してもいいくらいだ。
 そんな彼女を夜、一人歩きさせるのはよろしくないのでは、という意見が、十三階の住人から出た。最近バイト尽くしでなかなかシーナと顔を合わせる機会がなかった、刻也の発言である。
 初遭遇の際には言い争いに発展するほど相性が悪かったのだが(規律重視の真面目な刻也と自由奔放なシーナの性格は全く噛み合わなかった)、いくらか話す時間を得て、多少なりとも刻也が理解を示すようになった。素行に問題はあれど、悪い人間ではないと判断したらしい。
 対するシーナも、刻也が正論を言っていること、一応ながら気遣ってもくれていることはわかるので、ところどころで譲歩するのを覚えた。
 だから、というわけでもないが、シーナではなく日奈の時にした提案を、彼女は割とすんなり受け入れた。
 健一としては、冴子と飯笹の一件もある。当然綾を行かせる選択肢はないし、刻也も不在の日が多いので厳しい。自分が送るのに異存はなかった。

「あの……すみません、手間取らせちゃって」

 日奈の家は、幽霊マンションから徒歩で三十分くらいだという。道案内をしてもらいつつ、少し前に付いて歩いていると、不意に日奈が謝ってきた。

「気にしないでください。八雲さんの提案ももっともでしたし」
「いえ、それもあるんですけど……シーナのことも」

 思えば。
 彼女がシーナの名を口にするのは、初めてだ。

「絹川君は、どうしてシーナに付き合ってくれてるんですか?」
「どうしてって……うーん、どうしてでしょうね」
「わからないんですか?」
「わかるようなわからないような。考えればいくつか理由はあるんですけど、具体的にこれっていうのはないかなと」
「……何も訊かないですよね、絹川君」
「訳ありなのは何となく察してますよ。でもそれを言ったら、十三階の人はみんな訳ありですから」
「絹川君も?」
「ええっと、はい、それなりに」

 他人には言えないこと。言いたくないこと。
 誰にだってあるだろう。重ければ、尚更。
 健一の秘密は、安易に教えられない。忌避する側にとって、その行為は嫌悪すべきものだ。冴子は平気だった。綾も問題ない。しかし、刻也や日奈もそうであるだなんて保証は、どこにもないのだ。

「話したくないなら、話さなくていいって僕は思います。秘密があっても上手くやれるのが、友達ってものなんじゃないですかね。……たぶん、ですけど」
「そこはちょっとくらい自信持ちましょうよ」
「性分なので」

 茶化すような切り返しに、日奈が小さく笑う。
 それから間を置き、

「シーナとは、これからも仲良くしてくれると嬉しいです」
「きっと嫌でも向こうから来ると思いますけどね」
「嫌なんですか?」
「何だかんだで楽しいですよ」
「……ありがとうございます」

 今度の笑みは、花が綻ぶようだった。
 不思議とそれを、日奈らしい、と――根拠もなく、健一は感じた。初めて彼女自身と向き合えた気がしたのだ。

「この辺で大丈夫です」
「じゃあ、また明日」
「はい。また明日」

 あとは特に何も起こらず、挨拶を交わして日奈と別れる。まだ冴子は寝ていないので、幽霊マンションに直行するつもりでいたが、帰路の途中で見知った顔を認め、つい足を止めてしまった。
 結果的に、その選択が悪手だった。
 目が合う。睨まれる。明らかに敵意の窺える表情で迫られ、正面二歩手前まで近寄られる。
 窪塚佳奈。さっき別れたばかりの、日奈の姉。

「あの……な、何でしょう」
「日奈、見なかった? 私の双子の妹」

 友好的な雰囲気は欠片もない。
 出会いが出会いだったので仕方ないのかもしれないが、こうもあからさまに警戒されるというのは辛いものがある。
 健一はなるべく刺激しない言葉を考え、若干の嘘を含めて話すことにした。
 何しろ数分前までは一緒にいたのだ。そうなった経緯を説明するわけにもいかないし、おそらく日奈もシーナの存在を隠したがっている。
 彼女の性格を加味しても、全て正直に伝えていいことはないだろう。

「ここに来る時、あっちの方に行くのは見ました」
「どのくらい前?」
「だいたい五分くらいかと」
「そう……ってことは、すれ違ったのかな」
「妹さんを探してるんですか?」
「あなたに答える必要があると思う?」
「……そんな風に言われたら、ないと思いますけど」
「ま、でも、一応情報提供はしてくれたし教えてあげる。最近しょっちゅう出かけて、しかも帰りが遅いの。日奈って可愛いから何か変なことに巻き込まれてないか心配なのよ」

 間違いなく十三階に来ている所為である。
 これで絶対に本当のことは言えなくなった。
 バレたら罵られるだけでは済まない。

「じゃ、私は日奈を追いかけるから」
「僕も帰るのでこれで……」

 会話を続ければボロが出かねない。
 幸いあっちも切り上げたがっていたので、健一は逃げるようにして彼女に背を向ける。
 そのまま佳奈とは反対側へと歩き始めた瞬間、ちょっと待ちなさい、と制止を掛けられた。

「えっと、まだ何か用が?」
「後ろポケットに入ってるもの、ちょっと貸して」

 有無を言わせぬ口調で、半分顔を覗かせていたそれを佳奈が引き抜く。
 見送りに出る際、練習上がりでポケットに突っ込みっぱなしだった、複音ハーモニカ。その外側をじっと眺め、金属の光沢を指でなぞり、そして佳奈は健一の目前に、握り締めたハーモニカをばっと掲げた。

「これ……日奈もおんなじ奴を持ってるんだけど。もしかして絹川君、日奈からもらったってことはないわよね」
「な、ないです。確かに、知り合いからの貰い物ですけど」
「ハーモニカやるようには見えないのに?」
「くれた人に吹いて覚えろって言われたんですよ」

 嘘は吐いてない。
 健一にハーモニカを渡したのはシーナだし、元々ライブをすると決めたのもシーナの意思だ。
 虚偽があれば見抜くつもりなのか、しばらく半眼で凝視されたが、十秒ほど耐えたところで無事返してもらえた。

「言っとくけど、私はあなたのこと、全然信用してないから」
「そうだろうとは思ってました」
「わかってるんならなるべく近付かないでね。特に日奈には」

 執拗に釘を刺してから、佳奈は健一の示した方へ走っていった。
 ハーモニカを後ろポケットに戻し、額を抱える。
 近付かないでと言われても、日奈がシーナである限り、否応なしに関わらざるを得ないのだ。こうなればもう、極力発覚しないように立ち回る他ない。
 精神的な疲労を覚えながら、次シーナに会った時どう弁明しようかと、健一は地面に溜め息を落とした。










 で、翌日弁明する間もなく怒られた。言葉のタコ殴りだった。
 佳奈と遭遇してしまったのはあくまで偶然、運が悪かっただけとも言えるので、そういう意味では健一に責はないのだが、それはそれ、これはこれである。
 日奈の見送りは一日で不要になった。
 一人で顔を合わせてアレなのだから、万が一二人でいるところを見られたら、冗談抜きで惨劇の雨が降りかねない。そしてバレれば最後、下手をするとシーナが十三階に来られなくなる。

「起きちまったもんは仕方ない。こっから頼むぜ、健一」
「……ん」

 とはいえ、練習を疎かにはできない。
 ライブ当日まで、健一はそれこそ食事とトイレと風呂と睡眠時間を除けば、四六時中ハーモニカを吹き続けた。そのくらいしないと、覚えきれそうになかったのだ。
 合わせの回数も五十を超えた。
 前日は半日身体を休めた。
 土曜夜、いよいよ本番。
 綾お手製の改造バケツをハンドバッグに詰め、健一とシーナは駅前に足を運んだ。時間帯的に、最も人が集まりやすい場所だ。
 会社帰りのサラリーマンや夕食を済ませた大人達が行き交う通りの中途で、一旦シーナが立ち止まる。二件先、証券会社のビル前に、複数の人影が並んでいるのが見えた。
 そのうちの一人がこちらに気付き、軽い調子で片手を上げる。

「よ、シーナ!」
「うっす。今日もやってんね」
「……えーと、シーナ、この人は?」
「ここいらで活動してるダンサーだよ。あそこでビルのガラスに向かってポーズ決めてる奴ら全員そうだぞ」
「ダンサーつっても卵以前、まだ産まれてすらいないようなもんだけどな。みんなレッスンとか行く金ないから、営業終わったビルのガラスを勝手に使わせてもらってるわけだ」
「ああ、だからさっきから何度も同じ動きをしてるんですね」
「自分の動きは鏡見るのが一番早いからな。で、シーナ。こいつ何者?」
「俺の相棒。名前はバケッツだ」
「バケッツ……あー、バケツ持ってるからか」
「そういうこと。ストリートライブデビューするんで連れてきた」
「何だよ、そんな面白いこと考えてたんなら、教えてくれりゃよかったのに」
「サプライズにしたかったんだよ、本当」

 完全に置いてけぼりである。
 横から会話に混ざるタイミングもなく、ひたすら話を聞くだけでいた健一に、ふっとシーナの知り合いらしきその相手、おそらく若干年上だろう男が測るような視線を向けてきた。
 嫌味なものではない。
 純粋に、何故シーナの相棒になったのか、という興味心からだろう。
 一瞬の交錯に、健一は無難な笑みを返した。

「うし、じゃあまたな」
「……えっと、じゃあ、また」
「おう。頑張れよー。バケッツの方もな」

 そうしてシーナと共に別れの言葉を交わし、ダンサー達のいる場所を後にする。

「なんていうか、みんな気持ちのいい人だね」
「まあな。こういうところでパフォーマンスするような奴らってのは、俺らが思う以上に礼儀正しいのが多いんだよ」
「人に見てもらうから?」
「それもあるだろうけど、場所を借りてるって自覚があるからだな」

 例えばビルには所有者がいるし、道路や駅は公共のものだ。個人が好き勝手していいわけではない、という理屈は、なるほど納得がいく。
 元々は流された、言ってしまえば軽い動機でシーナと組むことを選んだが、やるからには真剣であるべきだろう。ルールがあればそれに従う。他人の前で演奏するなら、より良く聴かせる努力をする。
 そうやって考えると、これは決して容易いことではない。気持ちは引き締まったが、緊張も増した。

「あんま肩肘張んなって」

 そんな健一の心情を顔から読み取ったのか、いつの間にか正面に立っていたシーナが、拳で胸を小突いた。

「難しいことなんて何にもないぜ。通りすがりの人なんてもやしだもやし、お前は練習の成果を発揮すればいい」
「もしミスしたら?」
「わかんなくなるくらいの勢いでやり続けろ。大事なのは――」
「――楽しむこと」
「おっけ。いけるな?」

 頷く。
 駅のロータリーに程近い、コンクリートの壁を背にして、まずシーナがポジションを取る。健一はその右隣に。
 バケツを被り、片手で握ったハーモニカを唇に触れさせる。空けられた隙間から見える、タクシー待ちのサラリーマンが数人、こちらに意識を向けた。
 丁度駅に電車が着く。降りる人々が改札に集まる、そのタイミングを測って、シーナが一際大きく息を吸った。

 ――初めは、無伴奏でと決めていた。
 空に高々と伸びるように、染み入るように、シーナの声だけが響く。通りを歩く老若男女の、ほとんど全員が二人を見た。シーナには、それで充分だった。
 坂本九『上を向いて歩こう』。健一達の世代でも聞き覚えのある者は多い、不朽と言える名曲だ。歌の始まりは声量を抑えた、語り聞かせにも似た調子。にもかかわらず、異様に響く。惹きつける。足を止めて振り返らずにはいられない、そういう歌声を、シーナは持っている。
 巧く歌うことが努力の成果なら、それは天賦の才だろう。決して誰もが持ち得ない、圧倒的な才能。綾にも感じる輝き。
 心が、震える。
 その中にあって、健一の身体はぎこちなくも、負けずに動いた。
 サビの終わりに合わせ、ハーモニカの伴奏が加わる。パワーボーカルを必要としない曲調には、厚く深い音色がよく重なる。
 気付けばギャラリーが二人を囲んでいた。演奏を後押しするかのように、まず初老の男性が手拍子を入れ、それが周囲の観客にも伝播していく。負けじとシーナも声量を嫌味にならない程度に上げ、補い合い、混ざり、ひとつの世界を生み出す。
 魔法めいた光景だった。
 名残を惜しむようなフェイドアウト。
 シーナの声が途切れると、手拍子は万雷の拍手に変わった。
 目視ではすぐに数えられないくらいの人数が、皆シーナに惹かれて、シーナの歌声に感動して、興奮して、楽しんで輪を作っている。
 駅員らしき人物の遠巻きな非難の視線も、この状況では意味を成さなかった。熱狂に包まれたギャラリーが、徐々に拍手の頻度を減らしながら、次は何をするのかと待っている。
 シーナは彼らをぐるりと見回し、不敵な笑みを浮かべて、

「どうも、俺達シーナ&バケッツです。俺がシーナで、隣にいるのがバケッツ。これからどうぞお見知り置きを。そしてよければ、もう少し聴いていってください」

 右手を胸に当て、恭しく大きな動作でお辞儀をする。
 一部の女性からは微かに黄色い声が聞こえた。
 外見だけならば、シーナは中性的な美少年だ。荒い口調を表に出さない限り、女性受けはいいだろう。
 健一は終始、無言を貫いた。バケツを被った謎の人物、という演出のため、演奏以外ではあまり動かないでいてくれと事前に言われたからである。
 そのおかげか、注目のほとんどはシーナに向いていた。
 期待のボルテージが最高潮に達したのを見て、高らかにシーナが次の曲名をコールする。
 ザ・ビートルズ『something』。
 初めて健一がシーナの歌声を耳にした時の曲。
 何度も楽譜を読み返し、身体に叩き込んだ今なら。
 こうして隣で、一緒に奏でられる。

 楽しかった。

「はは、おい健一、やったな、俺達すげえ、すげえよ、本当」
「……うん、すごかった。本当に、すごかった」

 立て続けに五曲、シーナは見事に歌いきり、健一も走りきった。別れの瞬間には惜しむ言葉さえ上がり、拍手がさらに人を呼んで、最終的な客数はおそらく百を越えていただろう。
 誰もが彼ら、特にシーナに握手を求めた。バケッツにも数十人が手を伸ばした。それほどに凄まじい熱気だった。強烈な一体感と、燃え盛る炎のような興奮があった。

「やっぱ何でもやってみるもんだよな。あそこまで上手く行くとは思ってなかったけどさ」
「その割には全然物怖じしてなかったよね」
「表向きはな。正直足はガクガクしてたし、もう途中でぶっ倒れるかもって考えてた。一人じゃ無理だったな。つーかぶっつけ本番はないわ。次はリハしてからやるぞ」
「……次、やるの?」
「ああ。だって、ぶっちゃけ楽しかったろ?」

 にかっと。
 気持ちいい笑顔と共に投げかけられた問いに、心臓が跳ねた。
 さっきまでの熱を思い出す。
 何物にも代え難い、体験。

「お、そういえば、最初に握手求めてきた娘いたじゃん」
「いたね」
「あの娘、間違いなく俺に惚れてたよな」
「そんな感じだった。他の子達の目も何かキラキラしてたし」
「だよなだよな! すげえなストリートライブ!」
「これでシーナにも彼女できるんじゃない?」

 何気ない言葉のつもりだった。
 けれど、シーナは何故か、健一を見て、目を見開いた。

「えっと……もしかして、彼女は要らない?」
「いや、めっちゃ欲しいよ。欲しい。ライブだってそのために始めたことだしさ」
「本当に?」
「本当に。可愛い子を捕まえて、付き合って、馬鹿みたいに好きって言い合ってエッチしたい。嘘じゃない」
「じゃあ何で……」

 どうして。
 そんな苦しそうな、顔をしているのか。

「……嘘じゃないんだ。喉から手が出るくらい、自分なんてどうなってもいいってくらい、欲しいんだ」
「うん」
「でも、あそこにはいなかったんだ」
「……うん」
「ごめん。最初からそうだった。色々隠して、健一を騙すみたいな真似してた」
「好きな人、いるんだね」

 シーナが首肯する。
 不思議と全てに得心がいった。日奈ではなく、シーナでなければいけなかったこと。ストリートライブで目立とうとしたこと。十三階の、住人になったこと。

「ライブ、楽しかった」
「………………」
「できるわけないってずっと思ってたけど、こんな僕でも頑張れた。シーナの歌はほんとにすごくて、だけどそれに負けないでいたいって思えた。一緒にいて騒ぐのも嫌いじゃないよ。だから別に、騙されてたっていい。あんまり気にならないし、気にしてない」
「……お前、変な奴だよ、本当」
「知ってる」

 窪塚日奈が鍵を手に入れたのは、彼女がシーナだからではない。

「シーナ&バケッツ、続けよう。もっといろんなところでやって有名になれば、シーナの好きな人だって来るかもしれない。そうでなくても、シーナの歌を聴きたくて、きっといっぱい人が集まる」
「そうだといいな。……いや、俺達でそうするんだよな」
「……ひとつ、訊いていい?」
「何だ?」
「シーナの好きな人って、誰なの?」

 俯く。縋るように動いた指が、シャツの裾を掴む。
 小さくかぶりを振って、悪い、とシーナは呟く。

「いつか話す。だから今は、言えないこと、許してくれ」

 その声色に隠されたものを、健一は知っている。
 自分は、受け入れたから。
 叶えてしまったから。

「応援するよ。相手が、誰であっても」
「……ありがとな」

 シーナは――日奈は、窪塚佳奈が好きなのだ。
 それは違えようのない、確信だった。



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何かあったらどーぞ。