千夜子は、かつてないほどの試練に直面していた。 自室の机に座り、目の前に置いたチラシをじっと見つめている。時折腰を浮かせかけるが、すぐに力を抜いて落ち着いてしまう。それをさっきから小一時間、ずっと繰り返していた。 「うぅ……」 近々、夏祭りがある。 夏期休暇の真っ只中、当然千夜子も足を運べる。課題は大半が片付き、残りもさして掛からず終わる予定だ。スケジュールの面では不備はない。 しかしこう、お祭りと言えば好きな人と一緒に――みたいな、そういう気持ちがあるわけで。おめかしして浴衣なんて着てみちゃったりして、いつもと違う、似合ってる、とか褒められてきゃーきゃー、とひとしきり悶えてから、現実に立ち返る。肝心の相手がいない。いや、いることにはいるけれど、片思いで恋人でも何でもない。 ツバメ曰く「夏は人を大胆にさせるのよ! だから千夜子もほら、大胆になって! 押して押して押しまくりなさい!」とのことだが、それができれば千夜子の告白はとっくに終わっている。当たって砕けろを現在進行形で体現しているツバメと違い、千夜子は大人しい性格――悪く言えば臆病だった。 叶わなければ、いつかはまた新しい恋をするかもしれない。 でも、少なくともそれまでは、千夜子の好きな人は健一だけなのだ。 自分の気持ちが決して生半可なものではないことを、千夜子は理解している。だからこそ、簡単には踏み出せない。砕けた時、きっとすごく辛い思いをする。 拙速を尊ぶより、着実な道を彼女は選んだ。 どちらが正解なのかは、未だにわからない。 わからないながら、毎日を戦っていた。 「二千円ならちゃんとある……あとは絹川君を誘うだけ……誘うだけ、なんだから……」 神宿の某デパートにて、浴衣一着二千円。 出来は値段相応だが、柄もそこそこ揃っている。さらに、二着なら三千円とリーズナブル。一回着れば箪笥の肥やしになりそうなものを二つ買うつもりはないが、おそらく男物も売っているはず。上手い具合に夏祭りの約束を取り付けて、ついでの流れで買い物(という名の実質デート)のコンボ。いける。これはいける。 十二分にボルテージを上げた千夜子は、いよいよ椅子を立った。大股歩きで居間に向かい、いつの間にかカラカラに乾いた喉を冷蔵庫の麦茶で潤し、扇風機の前でうたた寝している母を起こさないよう足音を殺して、ついに電話と対峙する。 以前にも一度掛けたので、番号の出所はわかっている。 クラスの連絡網を荒っぽく冊子の束から引っこ抜き、勢い任せで受話器を掴み取り、いざ番号をプッシュ、という段階で怖気付く。 あの時はお姉さんが出たが、本人が応対したら。緊張の余り何も言えなくなってしまうのではないか。 覚悟が必要だ。心の準備のため、大きく息を吸い、吐く。 深呼吸と共に気持ちを落ち着け、それでも幾度か躊躇いながら、絹川家の番号を打ち終える。 コール音が耳に入る度、胸のドキドキが加速する。 いきなり電話なんかしちゃって迷惑じゃないかな、いやでもクラスメイトなんだし友達でもあるんだしそこまで変なことでもないよね、いやいやでもでも――と再び勝手にテンパり始めた辺りで、ふっと電子音が途切れた。 緊張が最高峰に達する。 「もしもし、絹川です」 健一が出るかもしれないという淡い期待と緊張があったが、声は女性のものだった。覚えがある。前にも聞いた、お姉さんだろう。 「すみません、絹川健一さんのクラスメイトの大海と申します。えっと……健一さんは、いらっしゃいますか?」 「大海……」 さん付けとはいえ、名前で呼ぶのは気恥ずかしかったが、言い換えればまたとないチャンスでもある。当人の前では決して口にできないだろう呼び方に、くすぐったさと微かな喜びを千夜子は覚えた。いつか本当にそう呼べればいいな、と思いつつ、静かに返事を待つ。 「……弟は出かけてる。悪いがいつ戻ってくるかはわからない」 「そうですか……。ありがとうございます」 「勘違いだったら申し訳ないんだが、ひとつ訊いていいか?」 「あ、はい、何でしょう」 「前にも掛けてきた子だな。大海……大海悟の妹さん?」 一瞬「へっ?」と間抜けな声が漏れ出た。 「確かに、大海悟は私の兄ですけど……」 「なるほど。うちの連絡先を教えたのもアイツか?」 「いえ、それは違います。学校の連絡網を調べて」 「そういうことか。……すまん、少し疑った」 「もしかして……うちの兄が何か、その、健一さんのお姉さんにしたんですか?」 「昔同級生だったんだよ。あとはあんまり話したくないから、知りたければ本人から聞いてくれ」 吐き捨てるような相手の口調に、千夜子は頭を抱えた。 血縁関係的に兄であるところの大海悟は、ひとことで言えばちゃらんぽらんな人間だ。何かとからかってくるし、すぐえっちな話に繋げるし、妙な勘ぐりをしてくるし。 反吐が出るほど嫌いというわけではないが、悪ガキがそのまま成長した感もある兄のことが、どうにも千夜子は好きになれなかった。 「兄がご迷惑お掛けしてすみません……」 「いや、別に謝らなくてもいい。というか、アイツには勿体無いくらいよくできた妹さんだな」 「そんなことないです。……そういえば名乗ってませんでしたね。大海千夜子です」 「絹川蛍子だ。で、健一には何の用なんだ?」 「え? ……そ、そう大した用じゃないので、家にいないなら大丈夫です、また今度電話します」 「わかった。んじゃ電話があったことは、健一が帰ってきたら伝えとく」 「ありがとうございます。では、失礼します」 向こうが切る前に、こちらが受話器を置く。 一拍してから、千夜子は盛大な溜め息を吐いた。 手のひらに汗が滲むくらい緊張した。 しかも、実質買い物の誘いは失敗である。 収穫らしい収穫と言えば、お姉さんに名前を覚えられただろうことと、意外な接点を知ったこと。だからどうというものではないが、まあ、次会えた時、話題のひとつにはなるかもしれない。 ともあれ。 その昼千夜子は夕方まで不貞寝した。 受話器をゆっくりと下ろし、蛍子は先ほどの通話相手について考えた。 大海千夜子。 健一のクラスメイトだという彼女の姓に、少しばかり思うところがある。 高校の頃、同級生としての視点から見た大海悟は、その辺の馬鹿な男子と大差なかった。というか、男子の中でも滅茶苦茶印象が悪かった。 何せ出会って間もない時期に告白してきたのだ。しかもその内容が「やらせてくれ」である。それをばっさり切り捨てると「じゃあせめて手でしてくれ」と来た。これで嫌わない方がおかしい。勿論蛍子はグーパンと冷たく蔑んだ視線をお返しした。 以来、卒業するまでは何故かよく話すようになったが、正直今思い出しても、あまり印象は変わらない。ちゃらんぽらんで、下ネタ好きで、馬鹿な男。それでも他の男子より記憶に強いのは確かだから、あるいは自分で思うよりは嫌っていない、のかもしれない。いやどうだろう。やっぱり顔を見たら脛を蹴りたくなるくらいには嫌いだ。 ただまあ、憎めない奴でもあった。 当時仲が良かった三条宇美、有馬静流とは普通に友人だったし、彼女達の評価も悪くなかった。少なくとも、自分と比べて社交的だったのは間違いない。 「……そういえば、宇美や静流とも随分会ってないな」 関係が冷めたわけではないが、自然に二人とは疎遠になってしまっている。連絡を取ろうと思えばいつでも取れるだろうに、不思議とそういう気にはならなかった。 腐っている、自覚はある。 絵は描き続けている。何だかんだで、やはり自分にはそれしかなかった。桑畑綾との一件で折れかかりはしたものの、己の根源から沸き上がる衝動に陰りはない。 むしろ、今は。 これまで以上に燃え盛ってすらいた。 身を焦がすような熱情が、蛍子の内には存在している。 猛りを吐き出す方法はふたつだ。 ひとつは描くこと。もうひとつは、健一がいなければ実行できない。 弟以外の他者を、必要としない環境。 満足だった。 この上なく充実していた。 けれどずっと、何かが足りないとも思っている。 だから、腐っている。 「……大海の妹は、可愛いのかね」 声を聞く限りでは、どことなく愛嬌を感じた。 素直で純朴。変に擦れてもいなければ、不作法でもない。 気立ての良い子、なのだろう。 そんな彼女が健一のクラスで、隣にいる姿を想像し、胸の奥が微かに灼けた。 戸籍だけでなく血の繋がった姉である自分より、ある意味では遙かに相応しいと言える、顔を見たこともない少女に、蛍子は嫉妬した。 もし、千夜子が健一に恋をしていて、その想いを伝えていれば――憂いも後ろめたさもなしに、付き合ってしまえるはずだ。両親が帰ってこないことを願うような、そんな日々を過ごさなくてもいいはずだ。 ならば、姉弟でない方がよかった? そうしたら、一人の男と女として出会えていた? (……いや) 違う。 この関係は、この環境でしか生まれ得ない。 自分が健一の姉だったから、健一が自分の弟だったから、こうして共に育ち、暮らし、成就した。 世間的には間違っているのかもしれない。実の弟との肉体関係が、立派な近親相姦であることは、誰より理解している。 それでも、と思う。 許されなくとも、間違いだろうとも、後悔だけは絶対にしない、と。 (私は、健一が、好きなんだ) その気持ちを否定するわけにはいかない。 勿論――誰にも、否定させはしない。 「やるか」 想いを以って、蛍子は己と向き合う。 絵を描くこともまた、自身との戦いだった。 家から持ち出した夏の課題を進め、夕食の準備を早めに済ませ、それでも暇を持て余した健一は、ふらりと1301を出た。 綾は自室で寝ているらしく、冴子は昼過ぎから姿を見ていない。そういうことはよくあるので、健一もあまり詮索しないようにしている。 冷房の利いた部屋の外は、むわりとした熱気が漂っている。思わず眉を顰め、しかし一度退室した以上再び1301に戻るのも何だか間抜けな気がして、どうしようと悩んでいたところ、屋上の方から音が聞こえてきた。 階段の先、扉は閉まっている。細く澄んだ、なのにはっきりと響く、綺麗な歌声だ。 「誰だろう……」 屋上に行ける人間は、十三階の住人とは限らない。 鍵を持っていなければ、十二階からそのまま屋上に辿り着く。この幽霊マンションで暮らしている者が他にもいる以上、全く知らない人である可能性も、充分にある。 非常に惹きつけられる声だったが、健一は扉に近付くと、物音を立てないよう慎重に開いた。僅かに金属が軋み、指を差し込める程度の隙間が生まれる。そこからさらにゆっくり扉を押していき、歌い手の正体を確かめる。 熱気に包まれた、屋上の中心。 並び建つビルと降り注ぐ陽射しと、眼下に歩く人々を抱きしめるかのように両手を広げ、伸びやかに歌う、シーナの後ろ姿があった。 扉側からだと背中向きで、顔は見えない。が、どんな表情をしているのか、わかる気がした。 切なくも優しい声色だ。それでいて、良く通る。 曲調からして古い感じもする。楽曲の知識に乏しい健一には、アーティストの名前も歌名もさっぱり思い出せないが(しかも歌詞は英語)、ただ、圧倒された。 「ふぅ……って、何だ健一、いたのかよ」 「今さっき来たところ。なんだか声掛けづらくて」 「いい気遣いだ。さんきゅ」 「こっちこそ。すごいの聞かせてもらった」 「そうか?」 歌い終わって振り返ったシーナは、先ほどまでの印象を感じさせない、いつも通りの調子だった。 肩を交互にぐるぐる回し、身体を一通り解してから健一の横を歩き抜ける。そのまま階段を下りようとするので、健一も小走りで隣に付いた。 「さっきの曲は?」 「古い歌だよ。確かもう三十年くらい前の歌。だからたぶん言ってもわからないと思う」 「それはそうだけど、一応教えてほしいかなと」 「ビートルズってバンドの『something』」 「……something」 さすがに健一でも、ビートルズの名前には聞き覚えがある。しかしシーナの言うその曲については、指摘の通りさっぱりわからなかった。 とはいえ、いい歌だったのは間違いない。 「今度調べて探してみるよ」 「何だ、そんなに気に入ったのか?」 「シーナの歌声がすごかったからね」 「ぐ……絶対誰も聞いてないと思ってたのに」 嫌そうな顔で呻いたものの、照れの色が強いのを健一は見て取った。恥ずかしいが、褒められて悪い気もしないのだろう。 「もっと人前で歌ってみようとかは?」 「考えたことないな。俺の歌声は俺のもんだ。誰かのために歌ってるわけじゃねー」 「それはそうかもしれないけど……今度また聞かせてくれない?」 「理由がない、っつーか、お前もしかしてホモか? ホモなのか?」 「いや、何でそうなるのさ」 「こっちを見る目が熱視線過ぎる」 「……念のため言っておくけど、あくまでシーナの歌声に感動したからです」 「ふうん。ま、それならそれでいい」 一足先に、シーナが十三階に降り着いた。 1305へと向かう後ろ姿を、健一も続いて追う。 「で、結局もう屋上では歌わないの?」 「お前に言ったところでなあ。男にモテても嬉しくないぜ、本当」 「じゃあ女の子の前で歌えば?」 何気なく放った提案だった。 が、シーナの歩がぴたりと止まった。 俯く。顎に右手を当てる。唸る。それから唐突に顔を上げ、振り向き、がっしと健一の肩を掴んだ。 「それだ。なあ健一、そうすれば俺はモテそうか?」 「え、あー、うん、たぶん女の子にはキャーキャー言われるんじゃないかな」 「ということは、セックスもできるか?」 「……仲良くなれば、まあ、チャンスはできるんじゃ」 「あんなプレイやそんなプレイも!?」 「そこまではわからないけど」 やたら熱の入った詰問に圧され、こくこく頷くばかりの健一に、シーナは一人でテンションを上げ続け、宙に向かってガッツポーズ。「よしいける!」と叫び、再度健一の肩を掴んだ。逃がすまいという物理的な圧力を感じた。 「健一、言い出しっぺはお前なんだから手伝え」 「拒否権は」 「あると思うか?」 「……ですよねー」 「俺がボーカルだとして……お前は何かそれっぽい楽器だな。形だけでもいいから」 「楽器か……まあ確かにまともにできるようなのはないけど、さすがに形だけってのはどうなんだろう」 「ならめっちゃ練習しろ。死ぬほどの勢いで、いやむしろ確実に死ぬ勢いで」 「……死なない程度に頑張ります」 「よし」 言質を取ったからか、ようやくシーナが両手を離す。 最早引き返せないところまで来てしまったことを知り、健一は不安混じりの吐息をこぼした。 上手くやれるのか。 というかそもそも人前で演奏とか恥ずかし過ぎないか。 自分が恥ずかしいことをやらせようとしたのだから、自業自得と言えばその通りなのだが、まさかこんな展開になるとは思うまい。数分前に戻って迂闊な己の口を塞ぎに行きたいくらいだった。 そういった感じでもにょもにょ考え事をしていたので、シーナの動きを見ていなかった。不意に視界を大きな何かが過ぎり、額にこつんと当てられる。 錆びた金属の匂い。 1301の洗濯機横に置かれていたバケツだ。 「これは?」 「恥ずかしいんならこいつでも被ってろ」 「バケツを?」 「顔見られないだろ?」 「こっちも何も見えないけどね……」 「穴とか開ければいいじゃん。んで、今日からお前はバケッツな」 「……バケツを被ってるから?」 「単純な方が覚えもいいんだよ。俺がシーナでお前がバケッツ。シーナ&バケッツだ」 なんて。 あれよあれよという間に話が進み、バンドを結成することになってしまった。しかも廊下での立ち話途中、1304で何やらしていたらしい綾がひょっこり顔を出して混ざり、バケツの穴問題もあっさり解決した。 楽器についてはシーナが使っていないハーモニカを持っているとのことなので、次来る時に持参するという。着々と退路が断たれていた。 今はシーナが1305に入り(時間的におそらく帰り支度だろう)、綾にぺたぺた顔を触られている。 「あのー、綾さん」 「ん? ごめん、もうちょっと待って。ハーモニカを吹けるようにするんだから、口の辺りを空けて……うん、だいたいこのくらいかな」 「すごい確かめますね……」 「被り物だしねー。骨の位置とか確認しておけば、引っかからない大きさに調整できるでしょ?」 本当に触るだけでできそうなのが、綾の所以というべきか。 こう見えてもちゃんとプロなんだなあ、と普段忘れがちな事実を再確認した健一は、造形のチェックを綾が終えてから、改めて話を切り出した。 「シーナとは大丈夫そうですかね?」 「悪い子じゃなさそうだし、私は平気だよ。たまに私の胸をすっごい見てたりするけど」 欲望を包み隠さないにも程がある。 「冴ちゃんはどうなのかな」 「どうなんでしょうね……。シーナって結構喋るタイプだから、もしかしたら苦手なのかも」 「健ちゃんも管理人さんもあんまり積極的に話さないもんねー」 例えば1303に二人きりでいると、度々会話のない時間が生まれるのだが、ソファで背を預け合ったり、互いに思い思いのことをしていたりで、気まずくなるような状況はほとんどない。 特に率先して口を開く理由がなければ、一時間でも二時間でも無言のままでいる。そういう距離感が、健一には心地良かった。 「まあでも、冴ちゃんも大丈夫だと思うよ。大丈夫じゃなかったら、きっと健ちゃんか本人に言うだろうし」 「なら気にしない方が良さそうですね」 「うん。……あ、そうだ、逆に質問」 「シーナのことでです?」 「そのシーナ君って、男の子なの? 女の子なの? 口調とかは男の子なんだけど、身体のラインとか微妙な感じだったから」 至極真っ当で、かつ非常に答え難い問いだった。 実際健一にもまだよくわかってはいない。どう説明したものかと考え、適当な表現を探し、 「えっと……シーナは男の子ですけど、窪塚日奈さんは女の子、ですかね」 「窪塚日奈さん? シーナ君の本名?」 「そうとも言えるし、そうじゃないとも……」 男装している女の子――と言ってしまえればいいのだろうが、本当にそんな単純なものなのか。 言葉を濁した健一に綾が首を傾げていると、1305の玄関扉が控えめに開いた。二人で揃って目を向ける。ぴくりと小さく身を震わせた人影が、ぺこりと頭を下げた。 「あ、あの……はじめまして、窪塚日奈です。1305を使わせてもらうことになりました。よろしく、お願いします」 「うん、よろしくー」 礼儀正しい挨拶に軽い調子で返し、何故か綾が握手を求める。困惑しながらも差し出された手を日奈は取り、きゅっと握って指を解いて、それから健一にもお辞儀をする。 「……絹川君も、よろしくお願いします」 そういうものだと捉えたのか、今度は日奈が自分から手を出してきた。 こちらこそ、と握り返す。シーナを含めれば、握手は二度目。同じ柔らかさで、けれど手指に掛かる強さだけが違っていた。 「すみません、それじゃあ、また」 「あ、はい、気を付けて」 最後の方は掠れて聞き逃しかけるほどか細い声を残して、日奈は足早に階段を下りていった。 十二階へと消える背中を見送った後、不意に綾が呟く。 「さっき健ちゃんが言いたかったこと、何となくわかったかな」 「……それは何よりです」 変革の予兆は、既に見え始めていた。 back|index|next |